カント「純粋理性批判」

(「完全解読 カント『純粋理性批判』」、竹田青嗣、講談社選書メチエ、2010より抜粋)

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I. 先験的原理論
先験的感性論
先験的論理学
先験的分析論
先験的弁証論
II. 先験的方法論



I. 先験的原理論


先験的感性論

・人間の認識が「対象」をとらえる基本の方法は「直観」による。
つまり、対象が意識を「触発(感覚器官を通して意識に現れる)」して、
初めて人は対象の像を受け取る。人間のこの能力を感性(Sinnlichkeit)と呼ぶ。

・対象は感性によって受け取られた後、悟性(Verstand)によって「思考(概念的に把握」される。

・感覚を通して我々に現れる対象のありよう
1)現象の質料(素材)
2)現象の形式(形式)
 1が一定の形2に整理されてはじめて明確な対象の像となる。

ここで、1はアポステリオリ(後天的、経験的)なものとして、
経験によってはじめて与えられるが、これに形式を与える枠組み自体はアプリオリ(先天的・生得的)、
つまり人間の感性にはじめからそなわったものと考えるべきである。

・純粋形式(生まれつき持っている形式)は、雑多で多様な感覚を整理し、
「対象」へまとめあげる人間の感性の形式性のこと、とすれば、
自分の中で「純粋形式」を「直観(把握)」できる。
これは「純粋直観」と呼べる。
(例)実態、力、可分性といった観念、
不可入性、堅さ、色などの性質もみな取り払ってみる。
   残った性質は「延長(一定の大きさ)」と「形態(量)」の組だが、
さらにつきつめると「空間性」がそれに該当することになる。さらには、
「空間性」は感覚によって経験的に与えられるものではなく、人が物を感覚するための「形式的条件」である。

先験的感性論とは、アプリオリな感性の諸原理のことである。

「物自体」:実体として存在しない「対象それ自体」を指し、人間には認識不能である。
  1. 事物などの外的対象は、「外感(視覚等の外的感覚器官)」によって受け取られる
    「外感」の受取は必ず「空間」という基本形式をもつ。


  2. 「空間」:並びや隔たりというイメージの元であり、
    われわれにとって唯一のもの(=「一般概念」ではない)。
    白いキャンバスのようなものであり、
    「感性の基本形式」である(=「物自体」ではない)。空間は、人間の感性が物を受け取る(認識する)その基本の形式性である。
    人間は物を「空間的枠組み」の中でのみ認識する。
    また、空間は外感による一切の事物認識の「形式」である。言い換えれば、「感性の主観的条件」である。
    空間的形式がなければ物は経験されない(現象しない)。空間直観が幾何学を可能にする。


  3. 自分の内的状態は「内感(自分の内的状態を直観する)」によって受け取られる。
    「内感」の受取は必ず「時間」という基本形式をもつ。
    内的直観は、空間のような明確なイメージ(表象)を持たない。


「時間」:「感性の基本形式」であり、
人間はこれによって事物の継起性(順序)や同時性などを認識する。時間的形式がなければ人間は経験することができない。
つまり、対象が人間の経験に「現れ出ること」(=現象すること)ができない。
時間的直観が時間的な数学的公理を可能にする。物自体ではなく、物の性質でもない。
時間はまた、「一般概念」ではないので、「多くの時間がある」とは言えるが、それらは唯一の時間の部分にすぎず、
根本的な時間自体は必ず唯一のものである。
従って、「多くの異なる時間は同時に存在しえない」という命題は、
経験から生じた概念ではなく、われわれのアプリオリな時間表象から必然的に現れるものである。

時間が無限である、とは、われわれが経験する一定の時間とは、
必ず無限の時間の中でのある限定された量(長さ)の時間である、ということでもある。
つまり、部分的時間は、限定されない時間形式の中ではじめて表象される。

「時間と空間とは、一切の感性的直観の二つの純粋形式であり、
これによってアプリオリな綜合的認識が可能になる」(56)
しかし、あくまでも「可能的経験の対象だけにしか妥当しない」のであって、
「物自体」の認識を可能にするものではありえない
(人間や動物の感性には特異性と限界があるため、神と異なり、完全な認識を持つことはできない)。

先験的論理学

(1)論理学一般について 論理学=「純粋論理学」+「応用論理学」
純粋論理学:認識の内容や対象の一切の差異を度外視して、
判断の(アプリオリな)形式性だけを論じる。経験的原理を含まない。思惟の「アプリオリな形式性」だけを考察し、
その対象がアプリオリなものか経験的なものかにかかわりなく、
人間の判断についての、その論理規制の形式性だけを問題にする。

応用論理学:悟性の具体的使用、
すなわち主観の偶然的条件によって規定された悟性の使用についての規則を扱うもの。
注意力、注意の結果、誤謬の原因、疑問、核心などの状態がどんな具合であるかを考察するが、
これは経験的にのみ与えられる。
経験的な思惟は、認識対象の具体的な内実を把握しようとするので、人間の認識の起源とどうやって進歩したかを問題にする。
「悟性(思惟)」も「純粋思惟」と「経験的思惟」に分けられる。

(2)先験的論理学について
 先験的(=超越論的)な認識:「アプリオリな認識」とは異なり、
ある種の対象がアプリオリにのみ適用されることが可能である事、
またなぜそうであるのか、ということについての本式的な認識、を意味する。
つまり、アプリオリなものごとについての認識自体は
先験的な認識(認識についてのカント哲学的な観点)である。
(判断一般を可能にする概念の枠組みの規則はアプリオリであるが、
それについての学=認識は、先験的な認識であり、
この学は「悟性(判断)」については「先験的分析論」とよばれ、「理性(推論)」については「先験的弁証論」と呼ばれる。

先験的、経験的という区分は、あくまで認識の根本原理、
つまり人間認識の本質的批判に関係した区分であって、
さまざまな認識対象に先験的な対象と経験的な対象があるのではない。

先験的論理学:人間の論理能力が経験にかかわりなく、本来そなえている認識や判断の基礎原理が何か、についての論理学のこと。

真理:『正しい認識」の普遍的な「標識」のこと。判断の論理的な整合性は真理の「必要条件」であっても「十分条件」ではない。

一般論理学は、悟性や理性の判断の一般的な規則を、
個々の要素に区分しつつ論理的判断の基本原理として示すものであり、
これを一般論理学の「分析論」と名付ける(つまり、矛盾率や排中律のこと)
しかしこの判断の論理的な原則は、真理の形式的な条件であって、十分条件ではない。

正しい認識を得る為に、まず個々の対象についての具体的な知識をあつめ、
論理的に適切に使用しつつまとめあげることで、あることがらの実質的な認識をつかむ。
真理の必要条件:真理認識の形式的条件

対象の「表象」:ある認識対象についてわれわれの意識が受け取るその「像」のことであり、
「リンゴの表象」は、リンゴを知覚するとき、
われわれの脳裏に現れるそのリンゴのありありとした像のこと。
しかし、知的表象だけでなく、想像や想起の場合も、意識のうちにその表象が現れる。

先験的分析論

悟性は対象を概念的に適切に区分しつつ認識判断を行うが、
先験的分析論は「純粋悟性」のこの概念的区分の能力についての原理を考察する。

    ポイント
  1. 「悟性」(純粋悟性):純粋概念、つまり、人間の判断能力が生得的にもつ概念区分の原則であって、
    「経験的概念(=経験によって形成していく様々な概念のこと)」ではない。

  2. 「純粋悟性」は思惟と悟性に属し、感性・直観には属さない

  3. 「純粋悟性」は基本概念であって、派生的概念ではない(純粋概念である)

  4. 純粋概念の基本的区分(カテゴリー表)は完全なものであって、
    悟性認識(判断能力)の全領域をカバーする。


・すべての純粋悟性を残らず発見する手引きについて
ここで、純粋悟性(カテゴリー)の基本区分が、
任意に列挙されたものでなくて(アトランダムで恣意的な区分を行う事ではなく)原理的な根拠をもつことが最も重要である。
また、それは芸年が本来もっているはずの本質的区分を、
一つの原理に従って完全な形で見出すことなくてはならず、
全体的な統一体系をなしていなければならない。

「感性」:対象の質料的なものを表象する能力
「悟性」は多様な表象を膣魚をもった一つの新しい表象へとまとめあげ、
統合する一つの能力である。
われわれはこの統合を「概念」を持ちいて行うから、
悟性は概念を適切に使用する能力でもある。

この点で、感性は受動的能力であり、悟性は自発的能力だと言える。

悟性=概念はまた「判断」の能力だと言える
(あらゆる判断は、われわれの表象を統一する機能であるため)が、
それは対象そのもの(物自体)を認識する能力(対象の直接的な認識)ではなく、
対象についての表象を統合する能力(間接的表象)である。

(例)判断1:すべての物体は可分的である
「分割可能」という概念のうちにはすでに物体という概念の表象、
つまり様々な物体的なもの一般の表象が暗黙のうちに含まれている。

先験的論理学についての定義:

(1)分量(Quantitat)
 対象の「量」(大いさ)についての判断。
全体的判断:すべてのAはBである。(同一のすべての対象(無限性)についての判断)
特称的判断:幾つかのAはBである。
単称的判断:このAはBである。(単一の対象(単一性)についての判断)

(2)性質(Qualitat)
肯定的判断:AはBである
否定的判断:AはBでない
無限的判断:Aは非Bである

(3)関係
定言的判断:AはBである
仮言的判断:AがBならば、CはDである
選言的判断:AはBであるか、さもなくばCである

(4)様態(Modalitat)
蓋然的判断:AはBでありうる
実然的判断:AはBである
必然的判断:AはBでなければならない
・純粋悟性概念(カテゴリー):人間の認識能力における「感性(直観から入ってくる多様な印象を受け取る能力)」から受け取った
多様な印象という素材を「悟性」により「綜合」して一つの認識にまとめあげる場合、
綜合対象となる素材が経験的でない(アプリオリである)場合には「純粋綜合」と呼ぶ。
この「純粋綜合」をモデルとして取り出すことのできるもののこと。
概念区分の根本的枠組。
物としての対象は、分量・性質・関係・様態という基本の概念区分=カテゴリーに即して認識される。
これに対して、「原則の分析論」は、「カテゴリー」を用いて対象認識を行う人間の「判断力」の基本原則についての哲学的考察

・アプリオリな「対象」の認識(数学的認識)の基本の構図段階
  1. 多様な純粋直観(アプリオリなものの多様性)、つまり直線や線分といった直感的判断
  2. 構想力(想像力)によるこの直観の綜合(まとめあげ)、つまり純粋綜合により三本の線分から三角形ができる、など
  3. 「純粋悟性概念」によりこの「純粋綜合(構想力による綜合)」を概念的な判断にもたらす「綜合判断」、つまり数学的命題の展開など
 

カテゴリー表
  1. 分量・・・単一性、数多性、総体性
  2. 性質・・・実在性、否定性、制限性
  3. 関係・・・自存性と付属性(実体性と付随性)、原因性(因果性)と依存性(原因と結果)、相互性(能動者と受動者との間の相互作用)
  4. 様態・・・可能と不可能、現実的存在と非存性、必然性と偶然性
図式:感性的な多様な直観をカテゴリーに位置づけするための媒介者
  1. 悟性概念(カテゴリー)としての「分量」(量)の「図式」は、「数」である。
    数とは、量を「一」(単位)に「一」を順次加えてゆく事によって表象する図式である。
    (リンゴ、皿などの量を、その単位の「数」においてより明確に表象的な仕方で捉える)

  2. 「性質」(実在性)の図式は、時間における実在の一様な連続的産出、つまり「変化」である。
    (あるものの分量、度合いの変化は、いわばゼロから一定の大いさに至るまでの、
    一定の持続の変化であるから、ゼロ地点が否定、一定の大いさを持てば肯定となる)

  3. 「関係」における「実体」の図式は、時間における実在的なものの「常住不変性」である。
    (それ自体として必然的に不変・同一・永遠に存在しているもの/実体の
    カテゴリーを感性的所与に適用するための図式は、「時間における実在的なものの持続性」)

  4. 「原因性」の図式は、多様なものの、ある規則に従った「継起」(因果の規則に従った継起)である

  5. 「様態」における「可能性」の図式は、種々の表象の統合と、
    時間一般の条件との合致
    (存在が不合理でないこと→反対のものは同一の場所に同時に存在できない)である

  6. 「現実性」の図式は、ある一定時間における現実的存在(現に、存在し続けている事)である

  7. 「必然性」の図式は、あらゆる時点における対象の現実的存在である。

従って、カテゴリーの「図式」とは。「対象の時間規定の概念的表示」を意味する。
    カテゴリーの図式のまとめ
  1. 分量の図式…「対象の継時的覚知における時間的統合」

  2. 性質の図式…「感覚と時間表象の統合」

  3. 関係の図式…「あらゆる時間における知覚相互の関係」

  4. 様態の図式…「対象の時間的存在様態の可能性」
・(統合的判断の)原則:個々の対象の判断をより上位の認識判断としての統合的判断へもたらすために設けられたもの
    (統合的判断の)原則のまとめ
  1. 「直観の公理」・・・どんな対象(物)も必ず一定の性質とその強度をもつものとして認識される。そうでない物は現実的な存在として見なされない

  2. 「知覚の先取的認識」・・・どんな対象も、必ず一定の性質とその強度をもつものとして認識される。そうでないものは現実的存在ではない。

  3. 「経験の類推」・・・どんな対象(物)も、任意に消滅したり発生したりする存在ではなく、
    一つの質量の集合体としての「実体」である。
    またそれは時間的に変化する場合、必ず原因と結果をもち、
    さらに、同時に存在している事物と耐えざる相互的な力関係を保っている
    。したがって、幽霊や奇跡のような現象を実体的な対象として認識することの否定を含意している。
    どんな実在的な事物も、客観的な物理的、科学的法則のうちにあるものとして認識される、
    というのとほぼ同じ。

  4. 「経験的思惟一般の公準」・・・事物の可能性、現実性、必然性という概念の原則。
    (例)死んだと思った男が生き返って現れたとき
    医学的に蘇生の余地が考えうるなら、それはほんものである「可能性」がある。
    人間の身体がどう見ても実在であるというありありとした知覚があれば、
    彼は「現実的」存在である。さらに証言や
    (彼が死んだと思いこむまでの)経緯をあわせて考えてみれば、
    彼がここにいることは「必然的」である。
・カントにおける人間の対象認識の全体構図
(悟性) 「カテゴリー」=概念区分
(構想力) 図式
(感性) 「感覚素材(諸印象)=空間的秩序」+「時間的結合(内感)」

「根源的統覚」→「綜合的判断」


根源的統覚:認識において「直観」の多様(表象)がまず思惟に先立って存在する際に、
「私は考える」という意識に伴われる。
この意識の自発性を「純粋統覚」もしくは「根源的統覚」と呼ぶ。

先験的弁証論

・アンチノミー

「アンチノミー」:人が「世界は如何に存在しているか」と問うときに必然的に現れる、世界の説明についての根本的な意見対立のこと。
人間の対象認識が「量」「質」「関係」「様態」というカテゴリーに従うのに応じて、
「世界の大いさ(時間・空間的)」「物質の根本」「原因(自由)」「必然的存在」という4つの問いとして現れる。
  1.  ここでは背理法を使用しているが、
    アンチノミーの双方の議論がどちらも厳密な証明を行いうるために、
    決定的な答えが不可能である
    、と示し方をしている。
  2. カントの「形而上学的問いの不可能性」のテーゼは、われわれに、
    何が答えを与えることのできる問いであり何がそうでないのかについての規準を打ち立てることの決定的な重要性をはっきりと教える。
    総じて、「信念対立」を克服する為に必要なのは、
    「真理が何であるか」をつかむことではなく、なぜ異なった信念が現れるかについての「本質構造」を理解することだから
    である。
(後者の例)世界が有限か無限か
 世界が有限であるという説→世界が起点をもち有限であるという説は、
そこで推論が打ち切られる絶対的理由をもたないために「過小」となる
 世界が無限であるという説→推論がいまだ集結に至らないために「過大」となる
この理性の本性がアンチノミーを必然的なものとする。
こうして、双方の主張はともに、原理的に確証できないものを絶対的に正しいと主張する「独断論」であることが明らかとなる。

その上、この二極の「独断論」の対立は、実はそれぞれの「関心」(動機)の対立という深い根をもっている。

世界が有限であるという説→彼らの世界像は常識的で、世界についての調和と完結性を求める。
従って、世界に親和性をもち、人間の精神の自由、善と道徳性の意義を信頼しようとする。
ここでは、世界の有限、最小単位、自由、そして神の存在が、世界像として要請されないわけにはいかない。
世界が無限であるという説→彼らは世界についての完結された調和や秩序の像に違和感をもっている。
世界についての一般的に形成された慣習や道徳の観念に信をおかず、
おのれの思弁の能力を頼んで自ら独自の世界観を作り上げようとする。
・「伝統的形而上学」の根本的展開について
 「構成的原理」:カテゴリーを経験的対象に適用して、その対象の客観性を具体的に把握(構成)するための原理
         (例)太陽の光の強さを月の光の強さの約20万倍といった具合に数量化することで「構成的」にとらえること

「統整的原理」:経験的世界の限界を超えて、世界の完全性や全体性を推論しようとするとき、
与えられた与件から出発して、その原因の系列の背進をどこまでも要求する(=背理法を用いる)ことで、その全体像を思い描こうとする理性の原理

 (例)「宇宙の全体」がどんなものかを数量化できないため、
宇宙がある「限界」をもって閉じられた巨大な宇宙空間であるとか、
むしろ「果て」のない広がりをもつ無限空間であるといった想像によってこれを表象しようとすること。

理想は「統整的原理」を根拠にしている。

カント自身も背理法によって、
人間存在の意味と価値を司る「最高存在者(神)」の実在を客観的な認識として実証することが、
原理的に不可能な事を確認した。しかし、
  1. 「理想(=神)」は理性の完全化の推論の能力から必然的に現れる。
    それらの「理想」が実在するものかどうかは、われわれには認識できない。
  2. しかし、重要なのは、それが実在するかどうかにかかわりなく「理想」は、われわれの世界観にある明確な像を結ばせるということ。
    そしてそのことで行為や生き方に確固とした指針を与え、われわれの生に豊かな意味を付与する(自分の行為に自信を持って「生きる」)ということだ。
とまとめている。

II. 先験的方法論

・純粋理性の究極目的としての規定根拠としての最高善の理想について

一般に言えば、およそ我々の希望するものは「幸福」である。
「実用的法則」(処世の規則)・・われわれの傾向性(感性的欲望や欲求)をできるだけ深く、長く満足させること
                幸福であるためには何をなせばよいか。経験からしかそれは知り得ない。→仮言的命法をとる

「道徳的法則」・・・・・・・・・幸福に値する(立派な人間である)ために何をすべきか
                理論的にアプリオリに考察でき、絶対的で必然的なものである。→定言的命法をとる
  1. 道徳法則は万人に「道徳的行為」をなすことを責務として与えるが、しかし実際には、すべての人がそのように行為するという保証はどこにもない。
  2. 現実には、道徳的行為をなすことが必ずしも「幸福(経験的な意味で)」につながるとはかぎらない。
  3. 従って、「道徳的世界」の理念は、もし人間に道徳性を求める最高存在(神)が自然の究極原因としてこの世に存在しているならば、という想定においてのみ可能となる。
「最高善の理想」:「最高の叡智者(神)」が完全な道徳的意志と幸福の状態とを配慮して存在しているという理念
従って、カントは神の存在を必然とし、そこから来世(魂の不滅)が導かれる、と解く。

→『実践理性批判』に続く。






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