Romancing SaGaについてp1

このページにはエンディングの情報が含まれます。
これからプレイする予定の方は、ご承知の上でお読み下さい

また、新作等についても多少辛口です。ご了承ください。
1.高い自由度

Romancing SaGa1は自由度の高いゲームだと言えます。だけど、あくまでも『サガ』です。

『サガ』は元々、神殺しの物語でした。
人間は誰かの支配を受ける従属的な存在ではないはずだ、というテーマがありました。
だから神々は有る程度協力はしますが、主人公達の行為の正当化をしてくれるわけではありません。

そして、このことは、たとえ善行を積み、最終試練を終えたとしても、
主人公達が、ラストで「エロールなんか、かんけいない!」と言う事に現れています。

(逆に、ミンストレルソングの『信仰値』はこの理念に反するものでした。残念です)

アルベルトの場合、サルーインとエロールの争いのために城中皆殺しにされています。
アイシャの場合は、エロールの作った『人間』ではない。
エロールの教えを守り、彼の作った世界を守る必要は全くありません。

クローディアはデステニィストーンに導かれたがために幸せな森での人生を狂わされます。
ジャミル、ホークの場合、神が何をしてくれた、と言いたい所でしょう。

グレイ、バーバラ、シフの場合は、興味本位や要人護衛(ひいてはその報酬)のために旅立つ。
すなわち、エロールの為にサルーインと戦う必然性はまったくないのです。
だから彼らは、自分が世界を支配するつもりなど毛頭ありません。
ただ家族や友人、恋人たちと供に普通に平和に生きたい。ただそれだけなのではないでしょうか?

そういう野望の無い人間だからこそ、エロール達は協力する気になったのではなかったか。

SFC版Romancing SaGaでは、
三邪神を全員殺してデステニィストーン全部を集めることはできませんでした。

だけど、闇の女王シェラハを蘇らせて殺してまで、(間接的に仮の姿シェリルをも殺して)
光のダイヤモンドを手に入れる権利なんて、プレイヤーにあるのでしょうか?


WSC版以降の改変を見ると、そういう疑問を感じてしまいます。
本来、サイヴァが悪の存在だ、と伝説上で言われているだけで、真実は誰も知らないはず。
サルーインも、母の復讐を果たし、今の世界をモンスターで満ちた新しい世界に作り替えたいだけ。

シェラハは自分の意志に従ったのではなく、兄に従ってエロールと戦っただけ。

サイヴァの子でありながら母を裏切りマルダーと戦ったエロールにとってみれば、
永遠にシェリル(シェラハの仮の姿)に干渉しないことが、母サイヴァへの償いにあたるのではないか。

しかし、永遠に生き続けるというのは苦しいものです。
大辞典の記述に依ると、記憶を失って放浪するシェリルの名さえもシェラハの神官達が利用しているし。

だから、シェリルのままでは永遠に生き続けるために苦悩に苛まれるかもしれない。
でも、シェラハは設定的に『悪』であるが故に、解放されても中ボス扱いにならざるをえない。

神の姿では静かに生きられないのでしょうか・・

それにしても、世界を崩壊させたくないが為にマルダーについたエロールと、
母の遺志を継ぎ新しい世界を創造しようとするサルーイン。

その差はなんでしょうか?立場が違うだけです。

だからこそ、主人公たちは言いたかったんだと思います。
「自分はエロールの手先じゃない、一個の意志を持った生き物なんだ」
・・と。

だいたい、ミルザの伝説はなぜ『善』なのでしょうか?
それは、人間たちが保身をはかった自らの行動を正当化したいがゆえに『善』なのです。


サルーインの生み出した生命であるモンスターを殺戮することは、
人間が支配する世界の維持、それ以上の意味はないからです。

ゲッコ族のようなモンスターと和解し、共に生きるという道はあった。
でも、ミルザはそれを選ばなかった。


主人公達は、皆アウトサイダーであり、そういう偽善的な結論を良しとしない。
だからこそ、「エロールなんて〜」という台詞がある。

まとめ
英雄(勇者)が善悪二元論によって「悪」を断罪することの否定。
それが当時の『Romancing SaGa』の独自性と長所ではなかったのでしょうか?
続く・・