天気の良いある日の遅い午後、アンジェリークは唯一人で森の湖へと歩いていた。
「…それにしても一体何のご用なのかしら?こんな手紙で呼び出すなんて…」
アンジェリークは歩きながらその手に握りしめられた一通の手紙を見つめた。それは今日の朝、緑の守護聖マルセルが持ってきた手紙であった。
「何でしょう、この手紙は…?」
差出人の名前も書いてない真っ白な封筒を受け取ってアンジェリークはマルセルに聞いた。
「えっ?!ああ、え、えっとね、ルヴァ様にアンジェリークの所に持っていくようにって頼まれたんだっ!ほ、ホントだよっ!」
「ルヴァ様が?!」
なにやら落ち着かない様子のマルセルを後目にアンジェリークは急いで封を切った。しかし、そこに機械的な文字で書かれていた内容は
『今日の午後3時、大事な用があるので森の湖に一人で来るように。ただし、他の者には他言無用。ルヴァ』
これだけであった。
「あの、マルセル様―」
「そっ、それじゃあ僕用事があるからまたねっ!!」
煙に包まれたような顔をしているアンジェリークを無視してマルセルは慌てて駆け出してその場を去った。暫く走ってある小さな茂みに近づくとマルセルは小声で言った。
「ゼフェル?いるんでしょう?アンジェリークに頼まれた物を渡してきたよ。」
すると、その茂みから鋼の守護聖ゼフェルがヒョッコリと顔を出した。
「よお、マルセル。そっかあ、上手くいったか!俺の方もさっきルヴァに森の湖に来るようにって書いた手紙をアンジェリークが差出人って事にして渡しておいたから準備はバッチリだな!」
満面の笑みを浮かべているゼフェルとは対照的に不安そうな顔をしてマルセルが言った。
「ねえ、本当に良いのかなあ、こんな事をして…ルヴァ様もアンジェリークも騙してる事になるでしょう?偽の手紙で二人をおびき出すなんて―しかも、森の湖でルヴァ様に―」
「うっせーな、いいんだよ!」
ゼフェルが怒鳴りつけた。
「まったく、アンジェリークがルヴァのことを好きだっていうことも、ルヴァがアンジェリークの事を好きだって事も守護聖全員にバレバレだって言うのに、ルヴァときたらあのいつもの『のほほん』とした調子でアンジェリークにいつまで経ってもその事を言わねーんだから、誰かが背中を『ぽんっ!』って押してやらなくっちゃならねーんだよ!」
「う…ん、でも…」
「なんだよ、マルセル?おまえ、ルヴァがアンジェリークと一緒になるのが不満なのか?ルヴァが幸せになるのが気にいらねーのかよ?!」
「ち・違うよ!僕だってルヴァ様とアンジェリークが幸せになってくれれば嬉しいよ!でも、本当にこの方法でいいのかなぁ…って。」
心配顔のマルセルを無視してゼフェルは言った。
「さあて!次はいよいよ森の湖だな!マルセル、チュピの準備はいいか?そろそろ行くぞ!」
「あ!待ってよ!ゼフェル!」
森の湖の方へ走っていったゼフェルを追ってマルセルも慌ててその後を追った。森の湖で一体何が起こるのか?それはこの二人のみが知ることであった―
―やがて、アンジェリークが森の湖に着くと、彼女より一足先に来ていた地の守護聖ルヴァの姿が見えた。アンジェリークと同じく、彼の手には一通の封書が握りしめられていた。
「ルヴァ様!」
アンジェリークがルヴァの方へ駆け寄った。
「あ〜、アンジェリーク。待ってましたよ。」
ルヴァがアンジェリークに答えた。
(よーし、もうそろそろだぞ。)
湖の側の植え込みの影から二人の様子を伺っていたゼフェルは横にいるマルセルに、マルセルのペットである小鳥のチュピをいつでも飛び立たせる事が出来るように準備をさせた。
「あの、ルヴァ様、一体ご用は何でしょう?このお手紙だけでは良くわからなかったんですけれども…」
「えっ?手紙…ですか?私は書いてませんけれどねぇ。私こそ今朝ゼフェルから貴女が書いた手紙を受け取ってここに来たんですが…」
「えっ?私、そんな手紙書いてませんし、ゼフェル様に頼んでもいません!」
(今だっ!マルセル!チュピを放せ!)
ルヴァとアンジェリークのやり取りを見ていたゼフェルがマルセルにそう言うと、マルセルはその手に持っていたチュピを空に放した。するとチュピはルヴァを目指して勢いよく飛んでいった。
「それは変ですねぇ。確かにゼフェルが貴女から預かったと―おや?あの鳥は、確かマルセルの―」
空を飛んでいるチュピに気が付いたルヴァがそう言った時であった。チュピはルヴァの所に来ると、その頭に巻いてあったターバンをそのくちばしにくわえて飛んで行ってしまったのだ!!
「―あ、あっ!うわあぁっ!!」
一瞬、何が起こったのか良くわからなかったルヴァであったが、その頭からターバンが無くなったと気づいた途端、叫び声を上げて頭を抱えてうずくまってしまった。
「ルヴァ様?!どうかなさいましたか?!」
驚いたアンジェリークが声をかけると、ルヴァの、今まで聞いたこともないような低い声が聞こえてきた。
「…したね〜」
「えっ?」
「見〜ま〜し〜た〜ね〜。ターバンを取った私の頭を〜。」
「あっ、は、はい!見ましたけれど、あの…それがどうかしましたか?」
いつもとは違うルヴァの様子に少し怯えながらアンジェリークは答えた。
「あ〜、やっぱりそうですか〜。この頭を見られたからには仕方ありません。アンジェリーク、私と結婚してもらいます!」
「ええっ?!」
今度はアンジェリークの方が今までに聞いたこともない声をあげた。
「私の故郷の風習でターバンを取った頭を見せるのは唯一人の女性と決まっているのです。貴女が私のターバンがない頭を見てしまった以上、私と結婚してもらわないと困るのです。」
(やった!遂にルヴァがアンジェリークにプロポーズしたぞ!!)
ゼフェルが心の中で叫んだ―そう、これがゼフェルの考えた作戦だったのだ。いつまでたってもアンジェリークに告白しないルヴァにやきもきしていた彼はルヴァの故郷の風習を利用してアンジェリークにターバンを取ったルヴァの頭が見られてしまったなら、ルヴァもきっと踏ん切りがついてアンジェリークに告白をするだろうと考えたのだ。さらに、偶然ターバンが取れたしまったように見せかけるため、マルセルにも協力をしてもらってチュピを利用することにしたのだった。
そして今、ゼフェルの考えた通りルヴァはアンジェリークにプロポーズをした。後はアンジェリークがそのプロポーズを受けるだけだ―アンジェリークがそれを断るはずはない―ゼフェルはそう確信していた。だが―
「…いやです。」
ぽつりと一言そう言うと、アンジェリークの目から大粒の涙がこぼれた。
「…私がルヴァ様のターバンのない頭を見てしまったから…そんな、そんなの酷いです!!」
アンジェリークはそう言うとルヴァをその場に残して泣きながら走り去ってしまったのだ!!後には呆然としたルヴァが立ちつくしていた。
「ゼ・ゼフェル、ゼフェル!どうしよう?!アンジェが行っちゃったよ!ねえ、どうすればいいの?!」
「―な・なんでだよ?!なんで断っちまうんだよ?!」
思わぬ展開にマルセルはただおろおろとして、ゼフェルもどうして良いのかわからずにいたその時であった
「―お嬢ちゃんが泣きながら走っていくのを見たので来てみたら、ボウズ共がなにやら喧しく騒いでいるし―」
「ルヴァは魂が抜けちゃったような顔で突っ立ってるし、一体何があったのかちょーっとアンタ達に説明してもらいたいわねぇ。」
「オ・オスカー様!それにオリヴィエ様も!!」
「ゲゲッ!!」
この世で一番会いたくない人間に会ってしまったかのような声を出すゼフェルとは対照的にすがりつくような声でマルセルは言った。
「オスカー様、オリヴィエ様、お願いです!どうしたらいいのか教えて下さい―アンジェとルヴァ様にどうしたらいいのか―」
「あ!こら!マルセル!テメー裏切んのかよ?!」
「そんなこと言ったってゼフェルもどうして良いのかわからないんでしょ?!」
「あんだとぉ?!この―」
「あーもーうるさいわね!良いから何があったのか早くお話し!!」
喚き合う二人に負けず劣らずの声でオリヴィエが一喝し、マルセルが今までの経緯を話し出した。
「は・はい!実は―」
「…なるほど、な。」
マルセルの話を聞き終わったオスカーが呟いた。
「オスカー、アタシはルヴァの所に行ってくるからアンタはこのお子様達の方をお願いね。」
そう言うオリヴィエにオスカーは頷いて返事をし、彼がルヴァの方へと去って行くのを見送った後、半泣きのマルセル、ふくれっ面のゼフェルに向き直って言った。
「それにしても、まったくおまえ達ときたら―」
「オスカー様、僕…僕たち、まさかこんな事になるなんて…決して二人を傷つけるつもりなんて無かったんです。アンジェがルヴァ様のプロポーズを断るなんて思ってもみなかったから―」
「本当にそう思っているのか?」
「えっ?」
「本当にルヴァがお嬢ちゃんにプロポーズしたと思っているのか?」
「おい、そりゃどーゆー意味だよ?!」
煙に包まれたような顔をしているマルセルの代わりにゼフェルが突っ込んだ。
「ルヴァがアンジェリークに『結婚してくれ』って言ったのは俺もマルセルもハッキリと聞いたんだぞ?!それが何で―」
「いいか、二人ともよく考えてみろ。」
オスカーは年若い後輩達に向かってゆっくりと言った。
「確かにルヴァはお嬢ちゃんに結婚してくれと言った。だが、その時本当に必要な言葉を―結婚してくれという言葉よりも大切なたったひとこと―そう、『愛している』と言ったか?!」
「そ、それは…」
口ごもる二人にオスカーは続けて言った。
「アンジェリークはルヴァのことが好きだった。不思議なことにこの俺よりも、な。まぁそれはいいんだが、その自分が好きな相手からいくら結婚を申し込まれたとはいえその理由が『ターバンを見られたから』というだけだったとしたらお嬢ちゃんはどう考える?ルヴァが自分のことなどまるで気にもかけていなかったとしか思えないだろう?」
「ー!!」
ゼフェルとマルセルは思わず息を飲んだ。
「つまりそういう事だ。ま、自分の本当の気持ちを上手く伝えることが出来なかったルヴァも悪いんだがな。」
「へっ!オメーみたいに女とあらば見境なく口説いてる奴からそんなご大層なこと聞くとは思わなかったぜ!」
「俺が世の女性に囁く愛の言葉は常に本当の気持ちだぜ?ん?」
なおも突っかかってくるゼフェルを軽くかわすオスカーにマルセルは尋ねた。
「あの、オスカー様、僕どうしたらいいんでしょう?これからアンジェリークの所に行って今までのことを謝ってきた方がいいんでしょうか?」
「―ああ、いや、それはやめておいた方がいいな。こういう事は当人同士の問題だ。今頃オリヴィエもルヴァにその事を教えているだろうし、あとは成り行きを見守っていた方がいいだろう。さて、じゃあ俺はそろそろ行くぞ。何しろこのことをジュリアス様に報告しないといけないからな!」
冗談めかして笑いながらオスカーが最後に言った一言を聞いて、
「ええっ?!」
「なんだとおっ?!こら、ちょっと待てー!!」
この騒動の元となった二人の守護聖は大声を上げてオスカーの後を慌てて追って行ってしまった。
ややあってからルヴァとの話を終えたオリヴィエも湖を去り、一人残って暫く考え込んでいたルヴァも心を決めると湖を後にした―
アンジェリークは部屋のベッドの上でその身を投げ出して泣いていた。夢にまで見ていたルヴァからのプロポーズであった。しかし、その理由がルヴァのターバンを見たためだと言われた時に夢は悪夢になってしまった。
「もし、ターバンを取ったルヴァ様の頭を見たのがロザリアだったとしてもルヴァ様はきっと結婚を申し込んだんだわ。私なんて―私なんて所詮誰でもいいようなそれくらいの存在だったんだわ!」
そう思うとまた涙があふれてきた。
どれ程そうしていたのかはわからなかったが暫くして少し落ち着いてくるとアンジェリークは誰かがドアをノックしていることに気が付いた。しかし、泣き腫らして真っ赤な眼をした自分を人に見せる気にはならなかったし、とても人と会って話すような気分ではなかったのでそのまま無視していた。
ノックはなおも続いていたが、やがてその音が止まると今度は声が聞こえてきた。
「あ〜、アンジェリーク、いますか?いますよ…ね。」
その声はよりによって今もっとも聞きたくない人の声であった。アンジェリークは枕を頭の上から被せてその声を聞くまいとした。
「え〜っと、出て来たくないのならそのままで聞いて下さい。いや、たとえいなくても構いません。これだけはどうしても言っておきたいのです。あの時、私が貴女に言った言葉は私の本心でした。でも、私は同時に嘘もついていました。自分が傷つきたくないばかりに本心を隠して、貴女にあんな事を言ってしまった…アンジェリーク、私は卑怯者です。卑怯者で嘘吐きでした。」
(…一体何を言おうとしているのかしら?)
いつの間にかアンジェリークは耳を塞いでいた枕をはずしてドアの外でルヴァが話すことに聞き入っていた。
「そう、ターバンなんて本当はどうでも良かったんです。そんなのはただの言い訳でしかなかったんです。私が言いたいのは―私が言いたかったのは―」
ほんの一瞬の後、ルヴァがハッキリと言った。
「貴女を愛してます。アンジェリーク、私と結婚して下さい!」
部屋の中でアンジェリークは我が耳を疑った。おそらくルヴァの口からは絶対に聞くことが出来ないと思っていた単語が出てきたからである。
「…はぁ、とうとう言えました。これが私の本心でした。でも貴女を深く傷つけてしまった今となってはもう遅いですね…アンジェリーク、どうか幸せになって下さいね…」
そう言ってルヴァがドアの前から立ち去ろうとした時であった。
「待って下さい!」
ドアを開けてアンジェリークが出てきた。
「ルヴァ様、今の言葉―今おっしゃったことは本心ですか?!」
突然出てきたアンジェリークに驚きながらもルヴァは答えた。
「え?ええ、もちろんですよアンジェリーク。貴女にはもっとふさわしい相手と幸せになって欲しい―」
「違います!その前におっしゃったことです!私を、私のことを愛してると―」
「ああ、そうです。アンジェリーク、貴女を愛してました。でも、もう―あ、アンジェリーク、どうしました?」
アンジェリークの眼から再び大粒の涙があふれてきたのを見てルヴァはどうしたらよいのかわからなかった。
「ああ、また貴女を泣かせてしまいました。どうして私はこうなんでしょうか。」
「違うんです、ルヴァ様、私―私、嬉しくて―」
困った顔をしているルヴァに向かってアンジェリークは泣き笑い顔で言った。
「もし、もし今でも私のことをそう思って下さっているのなら、もう一度ここで改めて言っていただけませんか?」
それを聞いて今度はルヴァが驚いて言った。
「ええっ?!それは、でも、私は貴女にあんな酷いことを言ってしまったのに―」
「だから、もし今でもそう思っているのなら―です。」
アンジェリークにそう言われてルヴァは改めて彼女を見つめていった。
「アンジェリーク、貴女を愛してます。私と結婚して下さい!」
「はい、喜んで!ルヴァ様!」
…やがて二つの影が一つになる頃、知恵を司る守護聖は千の言葉よりもただ一つの言葉の意味と重さを初めて知ったのであった。
FIN.
※ Dedicated to 「ブラッディ・マリィ」by 柿崎普美 from 集英社
B.G.M 「言葉」by よしだたくろう