『Return』
「先生!勝負!」
C組の教室の引き戸をがらり、たんと引き開けて姿を見せたのは村雨だった。
「今日はダメ、葵と約束があるから」
コンマ3秒で返る咲哉の返事は取り付く島も無い。
「咲哉…私なら別に、構わないけれど」
思わぬ葵の助け舟に村雨は口元に笑みを浮かべる。が。葵はにこやかにこう続けた。
「だって、そんなに時間はかからないでしょう?」
村雨はその場に倒れそうになるのを辛うじて堪えた。
初対面の歌舞伎町で喧嘩して負け、コイントスで負け、ポーカーで負け、花札で負け、麻雀で負け……。今の所、対戦成績は村雨の全敗なのである。
互角の長丁場へ持ち込めた事が殆どないのもこれまた事実で。花札で負けた時など、咲哉はしみじみとこう言ったものだ。
「京一君、よっぽど弱いんだ………」
このままでは済ませるまいと固く心に誓ったのはこの時だったかもしれない。
「で、今日も連敗記録を更新した訳ですか」
「まだ負けた訳じゃねぇ」
「あぁ、引き上げてきただけですから負けとは言わないかもしれませんね」
御門が扇の陰でくすりと笑う。村雨は後部座席を振り返った。
「いきなり電話で人を呼び出したのは何処の誰だっけなぁ?」
「心外ですね、電話をした時、もう咲哉さんとは別れた後だと言っていたのは誰ですか」
村雨は前部座席に身を戻して返事をしない。今2人が乗っているのは秋月家のリムジン、他にマサキと芙蓉を乗せて公務の間の移動中である。
「でも祇孔に勝てる人なんて中々いないよ。すごいね、高杉さん」
「このうつけ者にはよい薬かと思われます」
マサキのフォローに芙蓉がすげなく水を差す。マサキがくすくすと笑った。
「芙蓉、そんな事を言ったら祇孔が拗ねるじゃないか」
「……別に、拗ねてなんかねぇけどよ」
憮然とした村雨の声は、どう聞いても拗ねているようにしか聞こえない。
「うん、次は勝てるといいね」
おう、とマサキに気のない返事をして、村雨は窓に頬杖をついた。
「ん?」
何気なく歩道を見遣った村雨の目が、1点で止まる。少し前を歩いて行く白いセーラー服の2人の少女は、咲哉と葵に間違い無い。村雨はパワーウィンドウのスイッチを入れ、窓ガラスが下りるが早いか身を乗り出すように声を張り上げた。
「先ッ生のっ、アホー!」
言い終わらない内に後部座席から芙蓉の扇が伸び、村雨の頭をダッシュボードに叩き付ける。車道から突然呼ばれて立ち止まった少女は、苦笑まじりに通り過ぎるリムジンに手を振った。
「ってぇ、今本気で殴っただろ芙蓉!」
「当たり前です。晴明様高杉様のみならず、マサキ様にまで恥をかかせる気ですかこの恥知らずが」
芙蓉は冷たい美貌に本物の殺気を浮かべて村雨を睨み付ける。
「今はその位にしておきなさい、芙蓉」
御門はぱちりと扇を閉じた。
「その代わり今度やったら轢き殺しますからそのつもりで」
「おー怖ッ」
村雨は肩を竦めて帽子を被り直した。
「言われなくても同じ相手に二度やる馬鹿がいるかよ、こんな事」
「しかしお前の事ですからね」
「……どういう意味だ」
「言葉通りの意味ですよ」
御門は扇を口元に当てて目を細める。
「まぁまぁ、御門もその位で。ね?」
笑い続けていたマサキがやんわりと間に入った。そして前に座る村雨に声を掛ける。
「ねぇ、祇孔」
「あん?」
「高杉さんと兄様とはどっちが強い?」
村雨は言葉に詰まった。これまで村雨に連勝を続けている相手が、咲哉の他にもう1人だけいる。ここ数年意識不明の、マサキの兄だ。
「……さぁなぁ。どっちもどっちだと思うがね……」
村雨は前方の景色をぼんやり眺めやった。
「無しにしようぜ、その話は」
浅く苦く、笑って振り向く村雨にマサキは静かに微笑んだ。
「そうだね」
「マサキ様、後10分程で到着です。」
芙蓉が淡々と告げる、いつもの公務の始まり。
「ねぇ、祇孔」
「ん?」
「勝てるといいね?」
「次こそな」
このままでは終わらせない。村雨は笑って頷いた。