061:『飛行機雲』

 空は快晴、いい天気だった。出航準備の合間に坂崎が空を見上げると、旅客機がひとつ、飛んで行く。
「あれですかね、兵悟が乗ってるのは」
 同じようにそれを見上げて、櫻井が呟く。
「さぁてなぁ」坂崎は飛行機雲を目で追った。「無事に乗ってりゃいいけどな」
 何しろ、兵悟は遅刻の常習犯である。生活態度が悪い、というより単に要領が悪いのだろう。
「すいません寝坊しましたーっ!」
 と叫んで駆けてくる兵悟の姿は、佐世保海上保安部の朝の定番である。
 いや、もう過去形となった。
 今日を限りに、佐世保に兵悟はいなくなる。あの飛行機は羽田行き、明日から兵悟を待つのは特殊救難隊の新人研修だ。
 神林兵悟は、潜水研修においてあまりの出来の悪さに指導教官が涙した、史上最低の潜水士であった。それが1年足らずの間に潜水士の頂点、特救隊行きの切符を手にしたのだから、世の中何が起こるかわからない。
 兵悟が潜水士として巡視船「しらは」に居た時間は短い。しかし、この短い間には色々なことがあって、そしてその全ての騒ぎの中心に兵悟がいた。
「なんだか、兵悟がいないと物足りないですね」
 櫻井のつぶやきは、多分「しらは」乗員全ての思いだろう。
 真直ぐで力強い瞳、屈託無く笑う明るい笑顔。 兵悟の傍迷惑な騒ぎと信じ難い奇跡に巻き込まれた者の殆どが、いつしか兵悟を弟のように思っていた。
 兵悟は佐世保の海の、そして「しらは」の子供である。


 坂崎は遠く羽田の空の下、特殊救難隊にいる友人へ思いを馳せた。
 甚、佐世保からヒヨコをひとり、そっちへやる。知ってるだろうが奇跡的な馬鹿だ。
 だから、どんな海難でも死なないように育ててくれ。

 そしてまた、兵悟のどこか子供じみた笑顔と頼りないスキルを思う。
 しっかりやれよ。すぐに帰されてくるなよ。

 飛行機雲は、青い空にまぎれ、すぐに見えなくなった。


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 トッキュー!!5巻より、いってらっしゃい兵悟君。まぁ、短いですけど。下船式んところ、すごくいいシーンだと思うんですよ……。あったかくて、微妙に切ない。というか、5巻は名シーンの目白押しだなぁ。
 しかしあれだ。読み返して、時間軸を考えると本気で歩く嵐だよ兵悟。初の人名救助なんだよね……1巻ね……。5巻ではもうトッキュー行きだもんね……。2〜3年居てるような気がするよ。(06/02/18)

Pro.100txt.