046:『名前』

 花が散っている。花びらの落ち掛かる庇は、派手さは無いが美しい。その家の主の高貴な身分を示すようだ。その下の縁先で、少年がひとりぶうたれている。
「祇孔」
 縁先の奥、次期当主の為の部屋から穏やかな声が少年を呼ぶ。
「いい加減に機嫌を直したらどうかな。お茶が冷めるよ」
 祇孔と呼ばれた少年は、不機嫌そうにごろりと後転して起き上がった。座卓の上に頬杖をついて尚、彼は縁先を睨んでいる。
「はい」
 隙の無い上品な挙措で、部屋の主は茶托に載った湯呑み茶碗を少年の前に滑らせた。目の前の少年と同じ年、幼児と言う程幼くはないが、青年と呼ぶにはまだ早い。
 この家の名は秋月。星の動きに人の、そしてこの国の行く末を読み取る「星見」と呼ばれる特殊能力を持つ一族の名である。呪術の世界に於いては日本でもトップクラスの地位にある一族であり、今ここにいる少年はその次期当主、名を柾希と言う。
「祇孔」
 再度柾希が促すと、少年はやっと振り返ったが、湯呑みには触れずにごろりと横になった。
「あー、やっぱり納得いかねぇ」
 くすくすと柾希は笑う。がば、と少年は跳ね起きて不満そうに言った。
「だってそうじゃねぇか。普通名前位名乗るだろ、あの場合よぉ」
「祇孔は素直だからねぇ」
 柾希はやんわりといなすが、少年はまだ不服そうだ。
 話は数時間前に遡る。
 秋月柾希はよくその身を狙われる。当主をもしのぐと言われる「星見」の能力を狙う者や「秋月」の次期当主という地位を狙った者、ただ金持ちそうだという理由で狙う無知な者も少なくない。
 主に護衛に当たるのは、関東以北の陰陽師を束ねる御門家の次期当主・御門晴明と、そして今柾希の目の前で膨れっ面をしている少年・村雨祇孔である。
 村雨が護衛に加わったのはそう古いことではない。
 元々は柾希の、ただの友人として家に出入りしていたのである。しかし年の割に喧嘩は強く、最近では憑き物付きの花札を使って符術に似た事をするようになったので、なし崩しに護衛の役も兼ねるようになったのだ。
 今日も柾希は襲われた。襲撃者が名を問うてきたので、村雨は名乗った。
 その途端強かに御門に殴られた上、名前を問うた本人までが耳障りな声で村雨を嘲うのだ。相手は倒したが、帰り道には御門の皮肉と嫌味がたっぷりついてきた。
 不機嫌の理由はそれである。
 いつもなら村雨の不平を聞き流す柾希だが、今日はやんわりと釘を刺した。
「でも、今度から正直に名乗らない方がいいよ」
 口を一層への字に曲げて村雨はむくれる。
「柾希まであいつの肩持つのかよ」
「うん、この件に関してはね。祇孔の身に関わる事だから……御門はそう言わなかった?」
 あー、と村雨は首筋を掻いた。
「そういや、そんな事を行ってたよーな気ィすっけど」
「じゃぁ、僕がもう一度言うから今度は聞いてくれるかな」
 村雨はきょと、と目を見開いたが、座り直して柾希の目を見る。
「たかが名前、されど名前、ってこと。相手の名前を知る、っていうのは呪術の基本だよ」
 柾希は口の端に穏やかな笑みを絶やさずに言った。
 名前というものは、そのものの存在を明確にする。幾多の人類の中から、特定の人を示す事ができるのは、名前を知っているからだ。呪術を使う場合、明解に特定された目標なら物理的に考えて不可能な程遠くからでも狙う事ができる。
「その上祇孔、名前の漢字まできっちり名乗っちゃったろう?」
 情報を即攻撃に繋げられる相手に、より一層正確に、自分を特定する情報を与えたということである。
「自分の家の住所教えた上に鍵まで渡すようなものだから、気を付けなきゃだめだよ」
 柾希は品良く茶碗を手に取り、茶を啜った。村雨はまだ幾分不服そうに、座卓に頬をつける。
「手前ぇの始末は手前ぇでつけら。……けど。」
 何か思い当たったのか、村雨は目だけを柾希に向けた。
「それって柾希に迷惑かけっか?」
「うん、ちょっとかかるかもしれない」
「じゃ今度から止すわ」
 あっさり言うと、村雨は背を伸ばして茶碗を手に取った。添えられた栗落雁を遠慮なくかじりながら、村雨はさっきから考えていた疑問を口にする。
「でもよ柾希、それじゃぁお前が学校行ったりして名簿に載ったりすんの、マズイんじゃねぇの?」
「あぁ、それは大丈夫」
 柾希はのんびりと茶を飲んだ。
「戸籍の名前は本当の名前と少し変えてあるのさ」
「じゃぁ、柾希の本当の名前は柾希じゃない、ってことか?」
 村雨の問いに、柾希の穏やかな笑みがほんの少し悪戯っぽく歪む。
「内緒。」
「それはそれで、納得いかねー……。」
 くすくす、と柾希は笑う。
「うかつに返事をしない、ってことで随分危険は減るんだけどね。僕は家の事情が特殊だから」
「あー、そこを気ィつけなきゃいけねぇのは解るんだけどよ」
 村雨は 手をひらひらと振った。柾希本人の身柄も情報も、慎重に慎重を重ねて取り扱わねばならないことは村雨にも解っている。不満を感じるのはそこではない。
「別に、祇孔を騙したり嘘ついてるわけじゃないよ」
 柾希の言葉に村雨は目を見開いた。優しげな顔立ちと、ゆったりとした態度物腰で誤魔化される者も多いが、柾希は非常に鋭く、聡明である。
「それは僕本人と、両親しか知らない名前だから。御門にも教えていない」
 村雨は僅かに首を傾げる。本人を除けば両親だけと柾希は言った。そこがどうにも引っ掛かる。
「両親だけってこたァ……薫は、知らないのか?」
「うん」
 聞くと、柾希は事も無げに頷いた。薫は柾希が目に入れても痛くない程可愛がっている妹である。それなのに随分つれない口ぶりだと、村雨は感じた。再び割り切れない思いを抱え、村雨は茶を口に含む。
 縁先の向こうではまだ尽きぬ花びらが降っている。ほの白い花は桜に似ているが、桜ではあり得ない。花ですらない証拠に白い花弁は降るばかりで積もらない。今は秋、この異空間の外では薄の穂が銀色に膨れて美しい。呪術の力で浜離宮に重ねて作られた、この空間は美しく快適だがどこかに歪みを感じさせる。その歪みにまだ村雨は慣れていない。
「名前ってなぁ手前ぇん家の鍵みたいなもんだって、言ったよな。」
 村雨は茶碗を茶托に置くと、そう言って不機嫌に口元を曲げた。
「なら妹にくらい、教えといてやれよ」
 柾希は微かに首を傾げたように見えた。
「何で?」
「馬鹿」
 村雨は間髪入れずに切り返す。柾希は頭も良くて物知りだが、こういう時には本当に馬鹿だと思う。
「誰も呼ばない名前なんかあっても意味ねぇじゃねぇか。」
 きょとん、と柾希は目を見開いた。村雨は尚も続ける。
「今はいいぜ、今は。でも親ァ死んじまったらその名前がお前のだって、誰が解ってくれるんだよ?」
 しばらく間を開けて、柾希は微笑んだ。
「そうかもしれないね」
「かもじゃねぇって。考えたら解るだろーが、こん位」
「……考えには、いれておくよ。ありがとう」

 それきり、忘れていた。柾希が倒れ、妹の薫が影武者として立つことになってから、思い出した。
 薫と柾希は兄妹ではあるが、同じと言える程は似ていない。髪の長さはともかく、体格の違いや声の違いは如何ともしがたい。だからこそ兄妹共々通い慣れ、知り合いの多い皇神から、清蓮学院へ転校した。
 だが、近しい者が少ないからと言って、今の「秋月マサキ」が柾希でないことに誰も気が付かないとは考えにくい。
 しかし事実、『秋月』の公務に関わる者も、襲う者も彼女を柾希として認識している。それが満更職務上の便宜や無知からくるものだけでもなさそうなのだ。
 呪術の基本は対象の本当の名前を知ることだ、と柾希は言った。名前を自宅の鍵であるとする。1つしかない鍵を使って出入りしているのは表札の主だと思うだろう。
 薫が使った秋月家の禁呪とやらは、その「本当の名前」を使わないと使えないものなのではあるまいか。今もその名を何らかの形で使って、星神からも、自分を狙う術者からも、柾希そのものにしか見えない姿を被っているのではなかろうか。
「……まさか、な」
 村雨は苦笑を浮かべ、縁先から舞い散る花を見た。外は薄の穂が膨れているはずだ。
 積もらぬ花弁はあの日から同じように、ただ降っている。


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「名前」という言葉で文章と言われると、咄嗟に連想するのは「この世で一番短い呪とは、名だ」という夢枕貘のアレなのですが、私「陰陽師」でファンフィク、書けないので別の、もっと馴染み深い陰陽師関連を引っ張り出すことにした訳です。
 という訳で需要が有るのか無いのかわからない秋月(兄)と村雨の捏造少年時代。懲りてません。
 発想元が元だけに、最初は東の御棟梁も出す筈だったんですが、いつの間にかいなくなりました。
 村雨がなんだか妙に常識人ですが……これが数年後にはでっかく華とか書いた白ラン着て夜道で京一の制服をかっぱぐのかと思うと微妙ですけれど……。
 でもある意味秋月関連の方々より村雨の方が常識人なんじゃないかと。「いやそれ普通じゃねぇから!」とツッコミを入れる事ができる唯一の男。それはそれで集団内の規格外。『珍獣』。というユメでした。
 ユメついでに言えば悪気無くナチュラルに結構酷い人かもしれない秋月兄を書くのが実は好きです。
 にしてもまとめるのが苦しかった……。後から見直したらどれだけボロが出るかと思うと恐ろしい。(03/10/30)

Pro.100txt.