
5. 「ワカラン」 勝井秀博
東横線と多摩川とが交差する辺りに,田園調布駅がある。文字通りの大邸宅がずらりと放射状に構える西側と違って,東側は駅前に商店が立ち並んでいて,かなり庶民的な匂いが強い。それでも商店街を突き抜けて急な坂を上りきると,そこは閑静な住宅街である。
こちらの家は大小,新旧,色とりどりであるが,幾筋もの真直な道路が東西,南北に走って,この街を几帳面に区分けしている。その一画に,一見して隣りの大屋敷の物置きみたいな家がある。我が家である。近くの多摩川縁の森をねぐらにしているのであろう,終日小鳥の来訪が絶えない。突然キッキッキッとかん高く啼く声や,ガサガサと小枝を揺すぶる音,バタバタという羽音等々,確かに環境の静謐を感じさせてくれる。我が家は例外である。内部の喧騒に加え,裏の某大学教授宅のステレオで,四六時中,都はるみがうなっているのである。
前置きが長くなった。
秋も深まったある夕方,母は「手紙を出してくる。」と言い残して家を出た。背中一杯に夕日を浴びて,環八と呼ばれる大通りまで一息に歩き,突き当たりの十字路で左に折れる。歩道の石畳に足を踏み入れたところで,母は学校帰りらしき少女に会った。背のすらりと高い子で,金色の長い髪を濃いえんじのリボンで束ね,幅の広い洋風の皮のランドセルを背負っている。大きなランドセルの中の勉強道具をガチャガチャさせながら,学校から解放された喜びに息弾ませて歩いて行く姿は可愛らしい。
しばらく並んで歩いていると,背負い紐がゆるいのであろう。ちょっと歩く毎にランドセルが肩から,落ちそうになる。その度に左肩を突き上げて,よいしょと背負い直している。母は見かねてこう言った。「ひもがほどけたの?」しまった,これはだめだ。この子に日本語が判る筈ないわ。
一面識もない日本人から突然何やら言葉を浴びせられて,少女ははたと歩みを止め,不審そうに母の顔を覗き込んだ。それから首をかすかに横にかしげて口を開いた。
「ワカラン」
「なーんだ。わかるじゃないの」噴き出してしまった母は,まるで十年来の知己のように,相手の肩をポンと叩いてしまった。
びっくりしたのは少女である。いきなりペラペラとやられて,理解できないからワカランと答えると,ポンである。少女は当惑しきった様子で母を眺めていたのだが,すぐにこの正体不明で珍奇な友人の好意を感じ取ったのであろう。にっこりと笑った。夕日に照り映え黄金色に光るうぶ毛に被われて頬が無邪気にほころび,青い大きな瞳が笑う。アルカイックにきりっと反った唇の隙間からぽろりとこぼれたこの天衣無縫の笑いに,母は感動してしまった。
「サヨーサラ」
「さようなら」
母は興奮醒めやらぬ面持ちで,騒がしい往来のポストへ急いだ。