
37. へんな話 秋吉利男
ズボンが細くなったり太くなったり,スカートが短くなったり長くなったり
のように一瞬にして新製品が出廻り,この時代の浪に追従するのは大変なことで,消費生活から焼費生活に移るようである。
このように時の流れとともに世相はもちろん物事の考え方の変ることは当然かも知れないが,わが国は戦争に敗れて,その変転が別な方面にも見られ一層激しいように推察される。
講堂と広堂
戦後間もない頃,東京目黒にある利根ボーリング会社の見学に行ったことがある。そこで「大広堂」と大書した大きな建物があり,内部を覗いてみたが,その設備から当時としてはどうしても講堂としかみられないので,ちょっとおかしく,滑けいにも感じた。あとで会社の方に尋ねたところ昔は大講堂であったが,敗戦とともに,戦後の物資難から衣類,食物などの臨時販売場になったり,得体の知れない劇の会場になることも多く,講堂らしい使い方をすることが少ないことから社長の発案で広堂に変えたとのことで「むべ宜なる哉。」と思ったことがある。
戦前であるならば講堂と言えば少なからず神聖域に扱われていたようであるが,現今ではプロの音楽,歌謡,万才の貸劇場はもちろんプロレスなどの会場になることが多く,講堂とはそれこそおかしく,滑けいに感ずる次第で,この会社のように広堂,公堂とか,大会場が適当ではなかろうか。
忠魂碑と休魂碑
近頃はほとんど耳にしないが,子供の将来のことを表現するひとつに「末は博士か大将か」と云われた。特に,軍人は志望する人も多く,世間から大事にもされ,軍人自身も威厳を持っていたようにも思う。
従って,日清・日露戦争で戦死された人の為には,忠魂碑,忠霊塔と大きく刻まれた見上げるような花崗岩の立派な大石碑が神社,仏閣,小学校などの庭に良く見受けられた。
約15年程前に気付いたことがあるが,ある所の忠魂碑が休魂碑と刻み変えられている。また慰霊塔と言うのもあった,これにも「宜なる哉。」と感じたものである。
そこでこのようにすべての事項を観察しなけばならないことになると,日清・日露戦争も,日中,日ソに訂正と言うことになりかねない。歴史上に支障をきたさない範囲をみても,あらゆる面に変更,改変,改造あるいは抹殺せねばならない物,事等々が沢山あることに気付く。
世の中も世知辛く,ぼんやりできなくなりました。