33. 経験                吉田 茂


   「ヘェ――やめて……」のメロディがかすかに聞えるなかで,俺は立った。そうだ,こればかりは立たなければだめなのに。 そう,これは遊びではないのだ。俺の目の色が変った。一生懸命入れようと試みる。だめだ,入らない。相手はまるで俺をあざ笑うかのようである。畜生!と思って,腰を入れて立ちなおした。それでも足りないと思い,上下運動もやった。入った,ざま見ろと言うと,相手は挑発的にも開いてきた。  ゆっくりと貝のように閉じさせた。しかし,相手はタフである。こうなると,俺も男の意地を見せねばならない。足を大きく大の字にひろげ再度アタックを開始した。いれよう,いれようと思っても,こればかりはうまくいかない。気ばかりあせって,まるでだめなのだ。 俺は自分自身にこう言いきかせた。落ちつけ,落ちつけ,どこが一番弱いか,なめるように探すのだ。そう,すみからすみまでだ。俺は目を皿のようにして相手を見つめた。しかし,相手もさるもの,弱点を俺の目の前にさらけだそうとはしない。俺は頭に来るのを押えつつ,力づくで相手のいろんなとこをアタックした。しだいに相手も弱点を見せはじめた。俺は相手の頭の弱いことを発見した。  不思議なことに頭を攻撃すると相手は下の方を開くのである。俺は内心ほくそえんでいるのを表情に出さず,もっと!という。するとダメよと言うがのごとくすぐに下を閉じるのである。まだ入れてないじゃないかと文句を言ってもダメなのである。どんなおとなしい男でも頭にくるものだ。しかし,腹を立ててはいけないのである。腹を立ててはいけないのである。腹を立てては何事も負けである。 ここでニコッと笑い頭をもう一度攻撃すれば良いのである。このコツを覚えれば,天下無敵なのである。いつしか相手は俺のテクニックにまいり,声すら出さなくなる。ただだまって下の方を開いたり,閉じたりするだけとなる。ここであまやかしてはくせになる。俺は徹底的に攻撃した。とうとう,相手は微動だにしなくなった。俺は相手をたたいた。どうしたんだ!と呼んだ。 すると上の方から「終了」の札が降りてきた。 

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