
19. 摩周湖 中尾正一
7月31日。この日はわたくしが始めて摩周湖を目にした日である。午後5時20分美幌駅に降りたわたくしはすぐさま阿寒湖畔行きの定期観光バスに乗った。途中,車窓から見えるサイロや乳牛があちこちで寝そべったり,草を食べたりしている様子をただ茫然とながめながら,のどかな北海道の夏の夕暮れを誰とも話すことなしに一人楽しんでいた。ときどき車掌の可愛らしい声が耳に入ってきた。バスがなだらかな山腹を登り終わると,眺望のきく美幌峠に到着した。ここからのながめは壮観である。前方には,摩周火山に連なる屈斜路カルデラの西部に勾玉状に水をたたえた大カルデラ湖がゆったりと横たわり,後方には,冬にはスキーのゲレンデとでもなるであろうゆるやかな斜面が続き,雄大そのものである。バスはこの美幌峠を後に,S字に曲りくねった道を尻を振り振り,屈斜路湖畔を疾走し,硫黄山の北麓にあたる川湯温泉を通り抜け,網走囚人の手によって造られた摩周道路を通り,摩周湖第3展望台に着いた。わたくしは,ここでバスと別れた。一人静かにこの摩周湖を観賞したかったからである。今までいろいろな湖を見てきたけれども,この摩周湖を見て,思わず絶句してしまった。俗に神秘の湖と言われているだけに,神秘という言葉に抵抗を感じるが,しかしこの言葉以外にこの湖にふさわしい言葉を探すことができない。神秘という言葉がぴったりあてはまる湖である。
摩周湖畔に立っているエゾマツ,トドマツの原生林は何百,何千,何万年もの間,荒れ狂う風雪に耐え抜いてきた証拠をまざまざと見せつける。ほとんどが枝をへし折られ,幹だけをぬーと見せている。摩周の自然の厳しさをわたくしに教えてくれる。摩周湖自身はどうだ。湖面からそそりたつカイヌプリと云われる摩周岳にみまもられ,湖の真中には神のいる島カムインシュを浮べ,うっすらと霧に包まれている。
摩周湖は美幌峠で味わった解放感などはわたくしには,微塵にも味わせてくれない。わたくしを一歩も近づかせようとしない。わたくしの足はすぐすく竦んでしまう。
摩周湖よ。
おまえはどうしてそんなに冷酷なのか。
おまえは人の悲しみ,苦しみを知っているのか。
おまえは神秘のベールですぐ自分の姿を隠してしまう。
おまえはどうしてそんなに静かにしていられるのか。
摩周湖よ。
おまえは世界一の深さというではないか。
おまえの水量はいつも変らないというではないか。
おまえの水に触れたが最後,人間共は真白くなって死ぬというではないか。
おまえの不思議な力はアイヌ人でさえ恐れをなし,近よらなかったというではないか。
夕暮れの摩周湖はだんだん神秘のベールに包まれてゆき,わたくしの視界から消えてゆく。カムインシュからすーと神子が昇ってきて,「もうおかえり」とささやいたかのように思えたとたん,全身に寒さを感じた。帰りに摩周道路沿いにころがっている石っころみたいな泥のかたまりにさわると痛いぐらいに冷たかった。
バ スで
このごろとんと 詩が出てこない
からだの どっかに 沈殿してしまったのかも 知れぬ 青葉の返道の
バスに乗った
バスが ゆれて からだが ゴムマリのように弾んだ はずんだはずみに 沈でんしている筈の 詩が出てこずに 安来節が 出て来た
私は ちいさい声で 安来節を 歌った