
15. 「窓」 津田正五郎
ここに書かれてあるような類の文を,皆さんどこかで,読んでり聞いたりなさった事がおありになると思いますが,御諒承のほどを。ある時,「X」氏は,あまり人の多く乗っていない電車に揺れながら何をするでもなくぼんやりしていた。すこし離れたところから彼に向って何かしら呼びかけているような気がしたので,X氏はそちらに,なにげなく視線を向けた。が,その時彼の瞳は鰯のそれから鷹のそれへと変わった。ものすごく玉のように美しい女性が立っており,そこから彼へ何かが呼びかけていたのだ。彼はうれしさのあまり飛び上がらんばかりになった。
人間の身体には電流が微弱ではあるが,流れており,それが変化する。それ故電波が生じても別段おかしくはない。この電波を,もし人間がキャッチでき,しかも同調できる回路のようなものを持っていると仮定すれば,我々は遠く離れていても,他の人々のこの電波をとらえることができ,それにより他人との意思疎通が可能である。この時のX氏には,その女性との間にこのような状態が生じたのではないかと思われる。(世界でいうテレパシーが,これか)
なぜならX氏は前から彼女のような女性を妻にと思っていたからだ。
そこでX氏は彼女のところへ行って話しかけてみようと考え,その方へ行こうとした。とそのとき,車掌の声がマイクから流れてきて,彼は不意をつかれたようになり,その場から動けなくなった。
「まもなく……………」と言ったようである。
すると彼女の方から彼の方へ歩み寄ってきたのである。それもそのはず,X氏は出口のところに立っていたのである。X氏の体は何かしら,ポッポ熱くなり,頭の中で鐘が不協和音的な響で鳴り出した。X氏の前まで来た彼女は,彼に何かを言おうとしたが,頬を紅くしただけで,ついに言はずに降りて行ってしまった。そこでX氏は,人一倍自尊心と自惚れをもっていたので,彼女が何を彼に言いたかったのか,知りたくなり,急いで電車を降り,金魚のフンのように,その女性のあとを追いかけた。歩きながらX氏は,彼女が何を自分に言いたかったのだろうかと考えでいたが,結局一番妥当な線としては,「なんとなく,あなたに引かれて,それで………………」だと決めつけた。
やがて彼女に追いついた彼は勇んで,すこし気取りながら,「さきほどの電車の中で,何か私におっしゃろうとしていらっしゃる御様子でしたが」と切り出した。彼女は紅い顔を彼の方へ向けて,「あまり言いたくはないのですけれども,はずかしい気がして」と鈴を鳴らしたような声で答えた。そこで彼はぜひとも知りたいと言った。そこで彼女も決心したらしく,口を開いて,「まことに言いにくいことなのですが,チャックが…………」X氏はただ一言「あっ」
ここに窓は閉じられ,この拙文も閉じる。
追伸
ここに登場したX氏は決して私のことではありません。誤解のないように。