10. 無神論と聊斎           沢田昌彦


 無神論者になったのは,高校2年位だった。中学の頃までは,キリストや釈迦などを好きだったし,人間というものに信頼をおいていた。しかし,どうもまわりの人を見るにつけ,日本人は,いや人間というものは,そんなに信頼してもいいものだろかと思った。何か厭世的な気分になって,何もやる気がなくなって,一人っ子の我ままな子は寂しがりやで,そして孤独を好む,外見上は,笑う。しかし,真の笑いではない。涙がでても,それは単に機械的な痛さの為であり,幼時感激に涙流したことも昔話。自分に対する甘えと,自信のなさが手を組んで育てるやる気がない。中流家庭の苦労知らずの風々児。 幼児,体が悪かったから,完全を望んだ。そしてまた,今体が悪い。といってもそれほどでもない。母親が今入院して,原始福音とかなんとか,変な宗教に懲っている。親父もまた,入院しているが,こちらは無神論的。僕が神というものに対して,軽蔑的な憎しみさえおぼえるのに,親父は,寛容的仏教的な 態度,人間として,親父の生き方の方がいいのはわかっているが,どうも,そう踏み切れない。母と話をしていて,神の問題になると平行線。おもしろくないからパチンコ。下らない生活。生き甲斐も,張合いもない生活,ただなにか必死でやらなければならないことが起こるのを待つのみか。いや,それでは遅過ぎる。しなければならないことは,うず高く前にある。やる気のなさ,どこかに捨ててしまいたいこの気持ち。 聊斎志異を読めば,諸君が漫画で見ることを僕は頭の中でみ,次第にひかれていく,狐せ鬼,仙人,猿そして鬼が死んだ「セキ」など,中国的というか,この本にある神とか人間観は,ただただ面白い。このような,一見下らないような内容の本が,僕にはかけがえのないものになりつつある。母親に対する    軽蔑的な考えも少しはやわらいだ。しかし,他人は他人,自分は自分。他人の考えが自分の考えと一つにならなくても,自分の思うようにならなくても,たとえ,他人が間違っていようと。関係ない。結局のところ,こういう結果。そして,自信のないやる気のなさ。何か一つ大きいものでも作ってみるか。  

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