知的な障害をもつ人を取り巻く記事


目次

1、総務庁から勧告(知的障害の義務雇用制度の早急な実現を)

2、用語(精神薄弱)・・変更の提言・その後

3、就労支援に関する新たな展開(全日本手をつなぐ育成会)

4、インクルーシブ教育への期待

5,特殊教育の改善・充実について(第二次報告)・・特殊教育の改善・充実に関する調査研究協力者会議




1、総務庁から勧告 (知的障害の義務雇用制度の早急な実現を)


総務庁はかねて、障害者をめぐる雇用・就労対策の実施状況を調査し、関係行政の改善に役立てることを目的に監査を行っていましたが、その結果をまとめ「障害者の雇用・就業に関する行政観察結果報告書」として発行するとともに、「障害者の雇用・就業に関する行政監察結果に基づく勧告」を労働省および文部省に対して行いました。
勧告の概要は主に次の通りです。
(1)精神薄弱者の雇用率の設定を早急に検討し、結論を得る必要があること。
(2)除外率の見直しを行い、除外率の適用に当たっては適正に行うよう都道府県を指導すること。
(3)納付金の徴収及び調整金の支給の対象範囲について、雇用義務があるすべての事業主に拡大するよう検討すること。
並びに助成金の支給のあり方を見直すこと。

をはじめ、「雇入れ計画作成命令や適正実施勧告の適正な発出」「重度障害者の認定と支援の充実」「国立職業リハビリテーションセンターでの精神薄弱者の職業訓練の実施」「障害者職業相談員の適正な職務遂行の確保」「税制上の優遇措置」など、障害者雇用の一層の促進に対して、かなり広範な勧告を行っています。また、文部省に対しては、「精神薄弱養護学校高等部の職業教育の充実」「学校と安定所等の職業安定機関及び地域障害者職業センターとの組織的な連携の仕組みの確立」等、労働省と文部省のより密接な連係を求めています。

こうした勧告に対する労働省、文部省両省の対応が注目されますが、労働省はすでに知的障害者の義務雇用制度の実現に向けて「障害者プラン」に盛り込むとともに、学識経験者等による「障害者雇用問題研究会」を設置して基本的な調査研究をすすめ、そのまとめを7月末日までに行い、その結果を踏まえて障害者雇用審議会で審議を行っていくなど、知的障害者の義務雇用制度の実現に向けて、本格的に取り組む姿勢を示しています。
身体障害者の義務雇用制度は1976年に制度化されていますので、身体障害者に遅れること20年、知的障害者の義務雇用制度が今度こそ、実現することを願いたいと思います。
知的障害者の義務雇用制度成立という画期的な施策の展開があっても、学校や施設等による企業就労を目指した教育や指導・援助が知的障害の人たちに積極的に行われなくては、その実効を期待することはできません。労働省、文部省、厚生省等のより緊密な連携によって、知的障害者の義務雇用制度の早急な実現と、実質的な雇用の充実、職業生活の向上を願いたいと思います。(福祉連盟ニュースno.21全日本手をつなぐ育成会常務理事手塚直樹氏より抜粋)

この記事に関するご意見、ご感想を待ってます。kazu-s@mxg.meshnet.or.jp まで


・ちなみに、ホームページ制作者(志田)の意見は次の通りです。

知的障害者の雇用が進むこと自体は歓迎するし、その仕事に携わっているものとして大いにうれしいことである。一方、生活環境をどのように整えるかといったことも同時に進められないと、人間関係のコミュニケーションが大いに就労を支えることも周知のことであるから、グループホーム、生活ホームへの援助も合わせてみていかなければならないことも事実である。しかし、学校卒業時点で、就労への道が大きく広がっていくことへの期待は大きい。ぜひ実現を期待したい。
皆さんは、どうお考えでしょうか。考えをお寄せください。このページに皆さんの意見を載せて、交換しませんか。


2、用語「精神薄弱」ー変更の提言、その後ー


「精神薄弱」というのはやめようという意見は国内外とも一致しており、今日では日常語として使われることはほとんどなくなりました。しかし、この用語は、教育、保健、福祉、労働などに関係する多数の法律に取り入れられているため、本連盟は広く関係者の意見を聞き、1993年11月に公式な用語の変更を提言し、ついで、厚生省に対して本連盟の名称変更(定款の改訂)を申し入れしました。厚生省に対して定款改訂を申し入れた理由は、社団法人としての認可が厚生省児童家庭局障害福祉課の所管であったという理由によります。以後、名称変更について機会あるごとに申し入れてきましたが、精神薄弱に相当する公式な用語を何とするか国として決定していないという理由により、正式な承認のないまま今日にいたりました。
一方、1993年12月制定の障害者基本法では、身体障害、精神障害、とならんで精神薄弱が障害の3本柱の1つとして確立し、国の施策として大きな前進となりましたが用語の公式な変更という意味では停滞したといわざるをえません。以来、本連盟としては、用語の変更を機会あるごとに関係方面に説いて参りました。1995年12月、関係省庁を統合する障害者対策推進本部により決定した「障害者プラン」において、”心のバリアを取り除くために”という章の中に、「精神薄弱」に替る用語について、保護者団体その他関係者の意見を踏まえ、見直しを行う、と明記されました。
まことに緩やかな歩みと感じますが、本用語の変更は300以上の法律の改正を要するといわれます。公文化されるまで今後とも働きかけて参りますので、ご協力をお願いします。(福祉連盟ニュースno.21日本精神薄弱者福祉連盟会長有馬正高氏より抜粋)


・この記事に関する志田の意見

用語の変更は当然行ってほしい。言葉は、一つのその国の文化を象徴しているから。こんなところにも、人権後進国としての日本の姿がでている。
いくら300以上の法律の変更があっても、人権の重みはそんなもので消え去るものではない。人間がやっている政治や制度なのだから、せめて人権を守る国として、用語の変更をしてほしいと願ってやまない。


3、就労支援に関する新たな展開(全日本手をつなぐ育成会)

労働省による「知的障害者の雇用の義務化」は、「障害者の雇用の促進等に関する法律」の改定に向けて着実な動きを見せている。
そこで、全日本手をつなぐ育成会(以後、育成会)では、これまで知的障害者の就労支援事業として「知的障害者の職業と社会参加に関するセミナー」(職参セミナー)および労働省の委託事業である「職業的自立援助事業」を実施してきたが、1997年度より労働省委託事業が「精神薄弱者職業自立啓発事業」となり、事業内容も大きく変更される。

そこで、育成会では、次のように今後の事業の取り組みを考え、実行する予定らしい。


全日本手をつなぐ育成会の中に、就労支援専門委員会を設置。その下に、@就労支援セミナー(年一回実施)A職業自立啓発セミナー(年6回実施)B職業自立啓発資料(冊子)の作成

という 3つの行事を行う組織を作る。

@について・・・保護者、支援者、行政、事業主などを対象とした、知的障害者雇用支援実務者養成講座として開催。これまでとことなり(地方での開催)、東京・大阪で開催する。職業自立啓発セミナーの統括セミナーとして実施。

労働省の委託事業「精神薄弱者職業自立啓発事業」は、「職業自立啓発セミナー」と「職業自立啓発資料(冊子)の作成と
「職業自立啓発ピアカウンセラー配置」の3つで構成される。

Aについて・・・地域における知的障害者の職業自立を支援するために、保護者、関係者の意識の向上と指導・実践、関係法規・雇用状況に関する知識の取得、関係者相互の情報交換と連携を目的とする。

実施場所:北海道、東北、関東、東海北陸、関西、中国四国、九州、(関東、関西は就労支援セミナーと同時開催)

Bについて・・・地域における知的障害者の職業自立を支援するために、保護者、関係者の意識の向上と就労支援に関する指導、実践、関係法規、雇用状況に関する知識の取得、関係者に関する情報提供や政策提言などを骨子とする職業自立啓発資料を刊行する。(年一冊)

◎「知的障害者雇用支援実務者養成講座」の開催
基礎知識から実際の雇用に関する制度、支援の実際などあらゆる角度から講義が行われる。また、交流会の行われ、直面している問題と解決方法など様々な施策の活用を討論する予定。

・この記事に対する志田の意見
とてもタイムリーな事業に思う。私も何回か「職参セミナー」に参加したがマンネリ化のそしりを免れないと思う。それに、もっと具体的な、支援者への啓発、社会への積極的なリーダーシップという立場が欲しいと思っていた。そういう意味で、この育成会の事業は、リーダーシップを具体的に取ろうとするものであるから、大いに期待したいし、参加して行きたいと思う。

<この事業は、平成9年の8月で、山形県を皮切りに全国6都道府県で実施された。今後も、継続される。>

4,インクルーシウ”教育への期待(全日本手をつなぐ育成会松友了)


「生活の質」「人生も質」としての「QOL」を考えた場合、では、「生活」「人生」とは何かが問われてくる。そして、当然ながら、それは個々人によって異なり、多様なものである。すなわち、「個別で多様なもの」の質が大事にされることが、まさに「QOL」である。

さて、その視点で教育を見ると、あん暗うつな気分にさせられる。いわゆる、「画一・集団主義」は、発想からシステムまで一貫している。正しく言えば、「鶏が先か、卵が先か」という議論で終始し、出口を見失っている。

ここでいう「鶏」「卵」とは、意識かシステムか、教師(教育委員会)か保護者(親)か、という対立(言い訳)の図式である。これは、特殊教育の分野においても例外ではない。

システム論において、「分離教育」か「統合教育」かという論議が長いことなされてきた。
両論の主張者は、それぞれの良点(長所)と他論の欠点(弊害)を強調する。論争の華やかな時代に、知的障害が学齢期にあった私は、どちらの主張にも動かされ、双方に違和感を覚えたことを思い出す。
一方には社会的(援助的)視点がなく、別のほうには個人的(発達的)視点が欠けていると感じたからある。

この間に、「障害」あるいは「障害者」に関するとらえ方は急激な変化を示し、それが我が国の施策にも反映してきた。
特に、一昨年暮れに出された「障害者白書」では、副題に「バリアフリー社会をめざして」を掲げ、視点の大転換を提起した。
すなわち、個人の生物的欠陥・不全や能力低下(それゆえのその改善を)に比重を置くのでなく、その状態にある人への環境、
すなわち、障壁(バリア)の除去や援助の問題を論じなければならないとした。

しかし、教育の分野においては、この視点が明確に打ち出されていない。建築学の専門家を中心に「スクール・アダプテイション」
という考えが提起されているにすぎない。これは、バリアフリー住宅などによる「ハウス・アダプテイション」の考えを発展させたものであり、環境が人に合わせるという、新しい障害観に基づく試みである。

しかし、視野を世界に広げると、状況は一変する。1994年にサラマンカ(スペイン)で開かれた「特別なニーズ教育に関する世界会議」は、どのような視点から論じられたのか。そして、そこで採択された「声明と行動大綱」は、何を提起しているのか。
一言で述べると、「インクルーシブ教育」の重要性であり、世界規模でのその実現である。
しかし、我が国から、文部省の職員を含め4人しか参加していなかったことのあり、この理念の意味するところが正しく理解され、広がりを見せているとは言い難いものがある。

この「インクルーシブ教育」は、その基本的な理念である「インクルージョン」の教育場面での展開である。すなわち、「すべての面における統合」であり、それゆえ適切な配慮(援助)をつけた教育である。既に職業分野では「援助付き雇用」という考えと実践が紹介されているが、「インクルーシブ教育」は、その教育版である。

それゆえ「通常の場合」を原則とし、かつ「個別計画」を前提とする。「画一・集団主義」という障壁(バリア)が障害(者)を作る、というのである。

これは「分離教育」と「統合教育」の双方が主張したそれぞれの良点を同時に得ようとするものであり、「QOL」を実現する基礎であると理解する。



・この提言に対する志田の考え

この「インクルーシブ教育」は「障害を持つ人の教育を、これまではインペリアメント・・医療で治療、デスアビリテー・・教育、
ハンデキャップ・・福祉、というふうになっていたが、教育では「ハンデキャップ」を対象に考える、ということにするとわかりやすい」

どの子もそれぞれの力が精一杯出せるような配慮(支援)をすることで、どの子も主体的に自立的に活動できるようになる。
つまり、障壁(バリア)が取り除かれて、どの子も「QOL」を学校生活(教育)で具現化できるということになると考える。

この視点では、これまで主張するところの「生活中心主義」「できる状況づくり」・・・・等々は、先端の教育理念と実践となる。
しかし、これは当然のこと。つまり、この教育の本質だからだ。世界的にも生活中心主義で教育してきた例は多い。

しかし、ここで、さらに、「個別計画」を前提とすることの意味を考えたい。IEPであろうか?
この件については、私自身もっと「インクルーシブ教育」を勉強してからコメントする。



5 特殊教育の改善・充実について(第二次報告)・・案・・について


この案は、過日報告されたものであるが、ここでは、詳しく記述することができない。A4版で37ページにのぼる。ここでは、読後の感想を原文を交えて述べることにする。
したがって、私の独自な解釈であるがゆえに、独善的なことはゆがめない。また、読みとり手によっては、解釈もかわることだろう。

さて、「教育課程の改善の基本的な考え方」で、「障害者が社会参加できるような社会づくりは、今後一層進展するものと予想される。このような中で、障害のある児童生徒の能力や可能性を最大限に伸ばし、社会参加・自立の基礎となる「生きる力」を培うことがますます重要となっている。」というくだりがある。

「培う」とは「育てる」とは違う。「培う」は「やしない」「そだてる」の意味。「育てる」は「世話をして、大きくする」の意味。「やしなう」は、「世話をする」「貯える」「はぐくむ」「養生する」の意味。したがって、「培う」はかなり、大きな意味で捉える必要が有りそうだ。

「生きる力」はもともと備わっている。それを「あえて」ここでいうにはわけがあろう。それも、社会の動静とあわせて考える。単に、これまで教育で視点を置いてきた、デスアビリテーズをいっているのではないと考える。むしろ、ハンデーキャップとして考え、支援するなかで、主体的な生き方ができる生徒像を求めているのではないかと考える。障害をもっている、いない、にかかわらず、人は支援を受けなければ生きていけない。しかし、障害をもっているがゆえに、生活の主体者となりにくい面をもつだろう。

そこで、生活の主体者となっていける人、自己決定できる人、社会参加を率先してできる人、そんな人間像を求めているのではないだろうか、と考えている。
社会は「バリアフリー」で障害を無くそうとしている。しかし、教育が「生活主義」でないために、「生活力」「主体者としての自己決定力、参加意欲」が未熟だったり、「生きていく」というより「いかされている」といった係わりや援助をあてにする人を育てているようでならない。

「課題学習」とは名前はかっこいいが、ようは「デスアビリテーズ」の改善を図ってかかわっているだけ。旧態以前の教育と同じ。その方法論も同じ。
一度こういう方法論で教育を考えると、「生活中心」とはなれない教員ができあがる。

いつも、こどもを分析的に見る癖がついてしまう。「作業学習」で「子どもの育ち」をみることができなくなってしまう。「生活単元学習」の取り組み方がわからなくなってしまう。行事の取り組みでも、生徒主体とできなくなってしまう。分析的にしかこどもを見れない教師ができあがる。

このような、ことを間違えると読み取りがちになる文章が、前述したそれだ。

<この記事に関する詳細は、以下のホームページ参照>

http://www.mext.go.jp