今年もまた8月15日が巡ってきた。一般的には「終戦記念日」といわれ、毎年政府主催の戦没者追悼の式典が行われる。主人は8月15日が巡ってくるたびに考える。「終戦記念日」という言葉に問題が潜んでいるのではないかと。ここは「敗戦記念日」としなければならないのではなかろうか。「終戦」としたことで、現在に至る諸々の問題が起こってきたのではないかと考えている。

 誰がいつから「終戦記念日」と言い始めたのかを究明する手段を持たないが、今でも必ず「終戦記念日」ではなく、「敗戦記念日」と言ったり書いたりする人たちが少なからずいる。とくに左翼的考えの持ち主や戦争体験者に多い。海外の戦地にいて1945年8月15日を迎えた元兵士らには、単に戦争が終わったという思いよりも、日本が戦争に負けたという思いが勝っていたのではあるまいか。とくに敵軍によって武装解除を迫られたり、捕虜になって収容所に入れられたりした兵士の場合は「終わった」という思いよりも「負けた」という思いの方が強かったのではなかろうか。8月15日が近づいて新聞の投書欄などに投稿された戦争体験者の文を読むと、、「敗戦記念日」としている人が多いように思う。

 一方、日本国内でB29の空襲に脅かされた一般の人たちにとっては、空襲の恐怖から解放され、進駐軍を目の当たりにした時には、「やっと戦争が終わったんだ」という感慨が大きかったと想像できる。そんな大多数の国民にとっては「終戦記念日」でもしっくりするのだろう。もちろん「日本が負けたんだ」ということは十分認識していたに違いない。
 しかし、戦後長い間にわたってマスコミをはじめ誰もが「終戦記念日」といい続け、また書き続けてきたことで、あの日中戦争から太平洋戦争へと続いた戦争に、日本は負けたのだ」という意識が徐々に薄められてきたのではあるまいか。しかし、「日本はあの戦争に負けたのだ」という認識を日本人は持たなければいけないし、持ち続ける必要があると主人は考える。

 アメリカの腰ぎんちゃくになりさがった安部晋三首相は「日本は確かにアメリカには負けたが、中国や朝鮮(韓国)に負けたわけではない」と虚勢をはりたいのだろう。しかし、負けたことによって中国や朝鮮(韓国)から日本が追い出されたことは間違いない真実だ。あの戦争に日本が負けたという事実は安部首相でもその他の誰も否定できない。

 「単なる終戦ではなく、日本は負けたのだ」という事実を再認識することから戦後の日本は歩み始めなければならなかった。掛け違えたボタンは一刻でも早く、掛け直さなければいけない。    (2014年8月)

 東日本大震災のあと、続いて起こった福島第1原発の事故は、現代を生きる日本人一人ひとりに大きな問題を突きつけた。電力会社に踊らされるようにほとんど無意識に使い続けてきた「電気」という文明の利器を「おまえはこれまでと同じように使い続けるのか、それとも必要最小限の使い方で生活する覚悟はあるか」、つまり「原子力発電所に頼り続けるのか、原発とはサヨナラするか」。日本人誰もが今真剣に考えなければならないことだと思う。

 結論からいうと、主人は「原発はもういらない」。縁を切るべきだと考えている。個々人にとっては原発と縁を切って必要最小限の電気で暮らすということはそれほど難しいことだとは思わない。エアコンの代わりに扇風機を使い、電気ポットの代わりに魔法瓶を使えばいい。冷蔵庫は「弱」に切り替えるだけですむ。洗濯乾燥機などはつい最近まではなかったのだ。暖房にしても昔はこたつ1つで家族みんなが暖をとっていた。寝るときには毛布を1枚余分にかぶり、湯たんぽを使うことだってできる。電気自動車ではなく、水素を使う燃料電池車を推進すればいい。
 一番の問題は電力に依存している日本の産業がどうなるかだ。元々、国が原子力を推進してきたのも、資源のない日本が自前のエネルギー資源を持とうとしたからである(中曽根元首相)。
 ここでよく考えてみよう。日本の産業はもう十分発達したのではないか。これからまだまだ成長する余地がそれほどあるとは思えない。なのに企業は常に新しい市場を開拓し、利潤を増やすことばかり考えている。それが企業というものの宿命なのだろうが。主人などは成熟した今の社会が維持できれば十分ではないかと思う。とはいっても新興国が後ろからどんどん追い上げてくる。座しているばかりだとシェアも奪われる。今の社会を維持するためには、常に日本も前進しなければいけない。グローバルな世界の中で立ち止まることはできない。しかし、このために原発は必要不可欠のものだろうか。
 政府や電力会社は、原発は発電のコストが自然エネルギーに比べてはるかに安い(原発:5〜6円、風力10〜14円、太陽光49円)などと宣伝する。しかし、政府がいうコストの中には原発立地にともない地元に投入される税金や使用済み燃料の処理費用などは含まれないという。何よりも今回の福島のような巨大事故が起こった場合の処理対策費、補償費、住民にたいする半永久的な健康調査にかかわる経費、放射能に汚染されたさまざまなものの処理対策費、廃炉のための費用などは考慮されていない。こうした経費はそれこそ想像を絶する膨大な額になるはずである。原発のコストは決して安くないのだ。

 さらに重要なことは一旦、空気中や海中に放出された放射能は人間の手に負えないものであるということだ。このことは今回誰にもわかったはずである。しかもその影響は世界中に及ぶ。こんな“化け物”のようなものは一刻も早く、この世の中から抹殺されるべきではないか。そのために日本の社会と産業が停滞、あるいは後退するとしてもその停滞や後退は甘んじて受けてもいいと主人は思う。社会が大きく変わるためには価値観の転換が必要であり、今はまさにその転換のチャンスではあるまいか。                                  (2011年7月) 

 うぐいす荘のよいところの一つに「静寂」がある。自宅のある西宮のマンションに比べてとにかく静かだ。西宮ではマンションの横を車がひっきりなしに通るが、ここには車は滅多に来ない。聞こえてくるのは、今ごろ(6月)であれば、雨の音、風の音、野鳥の鳴き声、セミの声など、など自然の音ばかりである。
 
 山の中にあるため、雨は西宮に比べて激しく降る。家根をたたく音もけたたましい。風は周囲の森の木々を揺らしながら渡っていく。強い風が吹くと、高い木が大きく揺れる。木の葉がざわざわと騒ぐ。
 野鳥では、体の割にウグイスの声が意外に大きい。よくやってくるコガラやヤマガラなどの鳴き声はそれほど大きくはない。この時期によく鳴くのがホトトギスにカッコウ、アカハラなどだ。いずれも夏鳥で、日本へ渡ってきた鳥たちである。最もよく響くのはやはりカッコウだ。カッコウは体も大きいから声が大きいのもうなずける。ホトトギスやアカハラの声も大きい。
 自然の音で、唯一うるさいと感じるのがセミである。5月から6月にかけて、ハルゼミというのが鳴く。「リーリーリー」「シャワシャワシャワ」と数種類の音に聞こえる。都会のセミもうるさいが、このハルゼミも負けていない。せいぜい3、4センチほどの小さな体なのだが、うるささはアブラゼミやクマゼミと変わらない。このハルゼミは陽が指してくると必ず鳴き始める。こいつが鳴き始めると、ウグイスの鳴き声もかすんでしまう。かろうじてカッコウの鳴き声が勝つぐらいだ。

 ベランダに腰掛けてこうした自然の音を楽しんでいる時、しばしばどの音よりも大きな音をたてるのが人間が操作するチェーンソーなどのエンジン音である。林業者が使うのではない。山荘の住人たちが樹木を切ったり、まきを作ったり、さらには趣味の木工品作りなどにいそしんでいるのである。庭の雑草対策のため草刈り機を使う人も多い。くつろいでお茶を飲んでいる時など、興ざめしてしまう。とはいえ、山荘を利用する目的は人それぞれである。それにしても、静かな自然の中へやってきてわざわざ静寂を壊す人の気持ちは理解できない。              (2011年6月) 

 その昆虫の正しい名前はよくわからない。インターネットで調べると、どうやらカマドウマという名前らしいとわかった。手元に昆虫図鑑はないが、ネットのウィキペディアの説明を読むと、この昆虫に間違いなさそうである。ウィキペディアには写真が付いていないし、この虫を捕らえてまじまじと観察する勇気は主人にはないが、ネットの検索で出てくる写真を見ると、うぐいす荘にいるやつとそっくりである。似たような虫はほかにもたくさんいるようなので、うぐいす荘に現れるのが、確かにカマドウマかどうかは断定できない。毎年出てくるが、今年は異常発生しているのか特に多い。山荘内にうようよいるのである。まるであとからあとから湧いてくるかのようである。特に何か悪さをするわけではない。ただ、気持ちの悪いグロテスクな虫なのだ。ウィキペディアなどによると、カマドコオロギとか便所コオロギという別名もあるらしい。確かにコオロギに似ている。

 昼間は出てこないが、夜になると、こいつが何匹も家中をうろつき始める。浴室やトイレに特に多いが、居間にも出てくる。見つけると同時にやっつけてしまう。ところが、退治しても退治しても次の夜にはまた現れるのである。大きいのや小さいのやいろいろだ。厄介なのはこいつがよく跳ぶことだ。コオロギのような羽はないので、「飛ぶ」のではなく「、跳ぶ」のである。このあたりはウィキペディアの説明と一致している。最初はのそのそと床の上をはって出てくるが、退治しようとすると、長い後ろ足で勢いよく跳ねて逃げる。見逃さないように行方を追っていないと、すばやくどこかへ跳んで逃げてしまう。今年は一体、どれだけの数のカマドウマを退治したことだろう。
 この秋、山荘外壁のペンキを塗ってもらうために3週間ほど山荘を留守にした。久しぶりに戻ってくると、閉め切ってあった和室の畳の上にこいつの死骸がごろころと転がっていた。残り湯をはってあった浴槽の中にも数匹沈んでいた。寝室にも出てきたことがある。もちろんすぐに退治した。おちおち眠っていられない。

 ウィキペディアによると、昔の日本家屋の竈(かまど)周辺によく出てきたので、この名前が付いたという。古墳の中などでもよく見かけるというので、どんなに閉め切ってあるところでもどこかから潜り込むのだろう。繁殖力も相当強いに違いない。街の住宅に出てくる、いわゆるゴキブリはうぐいす荘にはいないが、女主人はこれは「開田のゴキブリ」だと憎々しげだ。おそらく今夜もまたカマドウマとの戦いは続くだろう。
                        (2010年11月)        

  梅雨が明けると同時に、猛烈に暑くなってきた。下界では35度を超える猛暑日のところも多い。信州各地でも連日30度を超えている。開田高原でさえも30度に迫ろうとしている。この暑さとともに、うぐいす荘内をさまざまな虫たちがかっ歩し始めた。山の中で生活しているのだから、普段から虫は多いが、暑さと比例して虫の数がぐんと増えてきたことは間違いない。毎年、夏になるとお目にかかっていた虫もまたぞろ出てきた。

 大小さまざまなクモや蛾、蜂、アブ、ハエ、ゲジゲジ、アリ、カマドコオロギ(カマドウマ)、その他名前もわからないいろいろな虫が次々に出てくる。蚊は少ないが、夕方になると、時々出てくることもある。ありがたいことにゴキブリだけは見たことがない。開田高原は冬期の冷え込みが厳しいので、さすがのゴギブリも生きながらえることができないのだろうか。主人は昔から虫が大の苦手である。女主人もどちらかといえば苦手だろう。しかし、山の中で暮らしている限り、虫の襲来から逃れることはできない。虫が現れた場合、窓を開けて早々に退場願うか、、殺虫剤をかけるか、ティッシュペーパーでつまんでくずかご行きか。冬場、暖炉(薪ストーブ)を燃やしているときには、ティッシュごと暖炉に放り込むこともある。風呂場にもよく出てくる。そんな時は水で排水口へ流してしまう。火責め、水責めでやっつけるのである。小さなアリの場合は指でつぶす。3日ほど前には、頭部が5ミリ、体が1センチ余りもある大きなアリが廊下に出てきたので、こいつは殺虫剤でやっつけた。蚊には蚊取り線香を使う。一度、蛾対策に誘蛾灯を使ったことがある。一晩でさまざまな蛾が灯に集まり、確かに大きな成果はあった。しかし、かごに残った蛾の死骸のグロテスクさに、2度と使うことはなかった。

 山荘を利用し始めてからすでに12年ほど経った。最近3年ほどは季節のいい4月から10月ごろまでずっと暮らすようになった。それ以前は月に1回程度、3〜4日滞在するだけだった。この間、どれだけ殺生をしてきたことだろうか。1日に1匹以上は殺しただろう、などと考えていたら、机の端から1匹の小さなクモがもぞもぞと現れた。急いでティッシュを取ってきてクモをつまみ、、しっかり握りつぶしてから机の下のくずかごへ放り込んだ。小さなクモは人間を刺すことがあるのできらいだ。虫と共生する境地にはまだまだ遠い。        (2010年7月) 

 先日、待望の森林鉄道に初乗車した。主人は別に鉄道マニアというわけではない。ただ、以前にも書いたように、うぐいす荘の前をその昔、山で伐採した木材をふもとまで下ろすための森林鉄道が走っていたという話を聞いて以来、隣の上松町の赤沢自然休養林で走らせている観光用の森林鉄道に一度乗ってみたいと思っていた。その夢がようやく実現したのだ。

 上松町の赤沢自然休養林(国有林)は樹齢300年といわれるヒノキの天然林で、森林浴の発祥地として知られている。1975年まで木曽谷を走っていた森林鉄道がトラック輸送に追われて廃止になったあと、地元の観光協会などが1987年から観光客用に1・1キロの区間を走らせている。小さなディーゼル機関車が5両のオープントロッコを引いて走る。ヒノキの香りが漂う森林の中を、せせらぎに沿って時速7キロのゆっくりしたスピードで往復する25分間の小さな旅である。野鳥のさえずりを聞き、さわやかな森の風を全身に受けながら、ひとときの別世界を味わえる。
 発車を待つ間、改札口横にある「森林鉄道記念館」に入った。そこには実際に使われていた蒸気機関車も展示されていた。長さ数メートルの小さな機関車である。こんな小さな機関車が重さ数トンにも及ぶであろう木材の山を運んでいたのかと驚かされる。
 木曽の森林鉄道は全部で53線延べ430キロにも達したという。うぐいす荘前を走っていたのはそのうちの一つの支線だったのだろう。

 上松町から帰り、うぐいす荘のベランダで一息つきながら、周囲の森林を見渡した。赤沢自然休養林とは違って、ここは人工造林したカラマツ林である。ヒノキの香りはもちろんしない。しかし、ここにもカラマツのほかにコナラやカエデ類などの広葉樹はたくさんある。野鳥の鳴き声もいっぱい聞こえてくる。赤沢では聞かなかったウグイスが盛んに鳴いている。しかも今まさに新緑のまっただ中である。森林浴は十分できる、と思いっきり深呼吸した。
    (2010年6月)
    

 うぐいす荘周辺には野鳥がたくさんやってくる。ざっと数えても20種類以上の野鳥がいる。最初のころは何という名前の鳥かさっぱりわからなかった。10年余り経ってだいたいの野鳥は名前がわかるようになったが、今でもはっきりとは名前のわからない鳥もいる。

 まずウグイス。姿を見かける機会は少ないが、その鳴き声ですぐにわかる。次に多いのがカラ類である。シジュウカラ、ゴジュウカラ、ヤマガラ、コガラ。これらのカラ類はベランダや庭に作ったエサ台にヒマワリの種を入れてやると、すぐにたくさんやってきてついばんでいる。エサを一つ取ると、すぐに近くの木の枝に飛び去るが、入れ替わり立ち替わりやってくる。エサ台にやってくる野鳥にはほかにキジバトがいる。キジバトはたい

ていつがいだ。この春にはシメもやってきた。カラマツの幹によく来るのがキツツキの仲間のアカゲラとコゲラ。ほかに周辺をウロウロしているのがカケスやエナガ。これでもう11種類である。これらの野鳥はほとんどが留鳥で、ほぼ1年中、うぐいす荘周辺にいる。ただし、ウグイスは冬期間は雪のない里の方へ降りるようだ。
 これらとは別に、春から夏にかけて渡って来る野鳥がカッコウ、ホトトギス、アカハラ。アカハラは道ばたなどで見かけたことはあるが、カッコウやホトトギスは特徴のある鳴き声で近くまで来ているのがわかるだけで、残念ながらまだ姿を見たことはない。
 このほか、キビタキ、ルリビタキ、アオゲラ、キセキレイなども見かけたことがある。鳴き声だけを聞いたことがある野鳥ではコジュケイやイカルがいる。特徴のある鳴き方なので間違いない。コジュケイは大柄な鳥で、キジに似ており、一度見かけたこともある。うぐいす荘の壁に衝突して死んでいた鳥は秋に渡ってくるシロハラだった。さらに冬場に地面の上をエサを探してウロウロしていたツグミのような模様をした野鳥を何回か見かけたが、この鳥の名前は未だにわからない。それと、最近よくカラ類の野鳥といっしょにやってくるこげ茶色の小さな鳥がいる。たぶんこれはミソサザイだと思うが、確たる自信はない。

 最初は全然名前がわからなかった野鳥も、図鑑を調べたり、ネットで探したりしてすこしずつ名前もわかってきた。野鳥の鳴き声ばかりを集めたCDもそろえている。それでもまだ名前がわからない野鳥がたくさんいる。野鳥だけではない。山野草や樹木の名前などもわからないものがたくさんある。それらをいろいろな方法でアプローチしながら、名前の同定作業をするのが山荘生活の楽しみの一つになっている。        (2009年10月)

 麻生自民党政権がようやく解散を決断した。投票日は8月30日である。主人夫婦は住民票を移していないため、投票するためには、住所地である兵庫県西宮市に行かなくてはならない。せっかく暑いまちを避けてきたというのに、選挙のためにわざわざ戻らねばならないのだ。とはいえ、待ちに待った総選挙である。おごる自民党と公明党に鉄槌を打ち下ろすため、我々の選挙権を行使する4年ぶりの機会である。投票日までには是が非でも西宮へ帰ろう。

 小泉首相の郵政解散で自民党が圧勝して以降、自民党と公明党は衆院で3分の2以上の議席を得たのを幸いに、思いのままに政治を動かしてきた。郵政民営化はともかくとして、小泉首相は靖国参拝で隣国中国との関係をぎくしゃくさせ、安部首相は教育を右傾化させた。福田首相は衆参のねじれの中で立ち往生し、安部首相に続いて政権を投げ出した。麻生首相は「定額給付金」という愚の骨頂でしかない政策を公明党にいわれるままに実施した。それ以外にも国民の信を得ていない首相たちが3分の2という数の力をフルに活用して、有権者の意思とは必ずしも一致しない政治を強引に押し進めた。「有権者の信を問え」という国民の声を無視して政権をたらい回ししながら、ずるずると解散を引き延ばしてきたのだ。しかし、ここへきて自民党が選挙の顔とたのんだ麻生首相の支持率は低迷を続け、地方選挙では連戦連敗で、自公政権の政治が行き詰まってどうにもならなくなったところで、自分の手で解散をすると明言してきた麻生首相が負けを覚悟の「破れかぶれ解散」に追い込まれてしまったのである。
 風は今、対立する民主党に吹いている。各種の世論調査も民主党優勢である。このまま推移すれば、自民党が大負けするのは必至の情勢だ。民主党の政策に必ずしも100l賛成するわけではないし、頼りないところも多い。まだまだ政権を担うには力不足だと思う。有権者の間にも「はたして民主党に任せて大丈夫だろうか」という不安はある。しかし最初から100点満点の政治を期待するのは酷だ。あの手強い霞ヶ関の官僚を相手にどれだけやれるかお手並み拝見といこうではないか。有権者も、ここは一度政権交代をさせて民主党にやらせてみるという選択をするのではではないか。そんな期待をふくらませている。

 投票日まであと1ヶ月。「いざ、灼熱のまちへ」である。 (2009年7月)

この夏のことである。うぐいす荘の簡易水洗トイレの便そうがあふれかけた。寸前に気がついて最悪の事態はなんとか免れたが、この時の悲喜劇は記録しておくに値する人“臭い”話だと思う。
 
 標高1300メートルの山中にあるうぐいす荘には下水道がない。台所の汚水は沈殿そうでろ過してから裏の沢へ流している。風呂や洗面の水の場合はそのまま沢へ流す。トイレの簡易水洗というのはコップ一杯の水で流した糞尿を便そうに溜め、溜まってきたら業者にくみ取りを依頼するという仕組みである。これまでは月一回程度、3日から4日ほど滞在するだけだったので数ヶ月に一度くみ取ってもらえば、十分間に合っていた。
 ところが、今年1月の主人の定年退職後は1回の滞在期間が長くなった。5月の連休には子どもや孫たちも数日間滞在した。そんなこんなで便そうに溜まるスピードが速まったようだ。
 ある時、トイレの中に大きなハエや変な虫が続々と入ってきた。その都度、退治しては便そうに流していたが、あまりにも侵入してくるハエが多いので、ひょっとしたらと便そうのふたを開けてあ然となった。あと数センチで満杯というところまで迫っていたのである。
 あわてて管理センターに電話をかけてくみ取りを依頼したが、業者が来るのは、週1回限りで火曜日だけだという。この時は確か土曜日だったと思う。あと3日もある。緊急事態ということでなんとかならないかと頼み込んでみたが、どうにもならないという。なんとか3日間をしのぐしかなかった。
 それから涙ぐましい努力が始まった。人間が生きて飲んだり食べたりする以上、排泄は避けようがない。そこで小便だけの場合にはコップ一杯の水も流さないようにした。食べる量も抑えて排便が少なくなるようにした。女主人は近くの公衆トイレまで車で走った。口から入れるのを控えると、確かに出るものは減った。それでも二日目の朝には我慢ができなくなった。そして主人も公衆トイレへ走った。ようやく三日が過ぎ、バキュームカーがついにやってきた。
 
 聞いてみると、ご近所の人や単身赴任の村の駐在さんも同じ失敗の経験者らしい。都会の下水道が完備した生活に慣れた身にとって、自分の糞尿を他人にくみ取って処理してもらうというありがたさが身にしみた。他人の汚物を処理するというのは大変な仕事である。あの時には、くみ取り業者が神様のように思え、バキュームカーが救急車に見えた。                     (2008年9月)
 私事である。3月30日に長女の亜希子(24)が結婚した。相手は甘利拓馬君(26)。娘を嫁に出す父親というのは、寂しさを感じるものらしいが、うぐいす荘主人の場合には全然そういう感懐を抱かなかった。

 二人とも若いと思うが、考えてみれば我々夫婦が結婚した時とまったく同じ年齢なのだ。二人は今年一月からすでにいっしょに暮らし始めている。このあたりはさすがに親の世代とは違う。
 披露宴では二人ともしっかりあいさつをしていた。娘もずいぶん成長したものだとつくづく感じた。日本料理が得意だと吹聴していたが、この話はとても信じられない。共稼ぎなので、おそらくまだまともな食事は作れていないだろう。
 長男も一昨年に結婚して独立した。サラリーマン生活もだいぶん板についてきた。娘の人前結婚式では、式の進行役を立派に勤めていた。 二人の子どもたちは完全に親の手を離れた。これからいよいよわれわれ夫婦二人だけの暮らしがスタートする。定年までまだ4年数ヶ月もある。定年まではこれまで同様西宮とうぐいす荘を往復する生活が続くだろう。

 二人の子どもたちが相次いで結婚したこの1年半ほどの間に、うぐいす荘主人と女主人に起こったことといえば、主人は体力の衰えを痛感し、階段を避けて常にエスカレーターを捜すようになった。女主人は病院通いが増えた。二人とも老眼鏡を作り替え、もの忘れはいよいよひどくなっている。子どもの世話になるつもりは露ほどもない。ただ、齢を取ったら、どんどん大人になっていく子どもの話に耳を傾ける素直さが大事だと思う。 
                                  (2003年4月)                

    (12) 娘の結婚

 米英軍がイラクを攻撃している。イギリスはアメリカに引きずられているように見える。明らかにこれはアメリカの対イラク戦争である。うぐいす荘主人はこのアメリカの戦争に反対である。アメリカは即刻攻撃を中止し、国連での話し合いの場に戻るべきである。日本ははっきりと反対の意思表示をしなくてはならない。

 理由は明白だ。日本は国際紛争を解決するためにいかなる武力も行使しないと宣言した平和憲法を持っている。この憲法の精神に照らすなら、こんどのアメリカの戦争を支持することは絶対にできない。アメリカの行動は日本の憲法の精神に明らかに反している。戦後の日本は第二次世界大戦の反省の上に立って戦力を放棄し、国連を中心とした国際協調の中で、話し合いによる国際紛争の解決を目指してきた。アメリカは自国の主張が国際的に受け入れられず、話し合いが行き詰まったとして今度のイラク攻撃に踏み切った。いくら日米が同盟関係にあるにしても、また北朝鮮問題という身近な危機があるにしても、こんな自分勝手なアメリカの行動を認めたり、支持することは絶対にできない。
 小泉首相は日米の同盟関係を強調するが、日本の首相なら、まず考えるべきことは日本の最高法規である憲法の精神である。日米同盟は一条約にすぎないのだ。日本が日本として存在する基盤である憲法より、一条約に過ぎない日米関係を重視する小泉首相は間違っている。これでは日本はアメリカの属国だと批判されても仕方がない。
 
 アメリカのブッシュ大統領を見ていると、西部劇に出てくる正義面をした保安官を思い浮かべる。住民をあおって追っ手を組織し、その先頭に立って犯罪者を追う。犯罪者を野放しにしておくのは危険きわまりないというわけだ。犯罪者を見つけたら裁判もなしに縛り首にしてしまう。これはもう19世紀の世界だ。21世紀のあるべき世界の姿ではない。
(11) アメリカの戦争
(7)火
山の暮らしでは『火』ほど有り難いものはない。同時に火ほど怖いものもない。

 「夏でも寒い」と唄われる通り、御岳山ふもとの開田高原の寒さは半端ではない。真冬にはマイナス20度にまで下がることがあるらしい。最近は地球温暖化の影響か、下がってもせいぜいマイナス15度前後のことが多いようだ。それでもこれは相当に寒い。その替わりに寒さ対策は万全だ。家の床や壁には断熱材が入っている。窓は全部二重ガラスを使っている。どこの家にも大きな灯油タンクがあって室内のファンストーブをつける。そのうえに暖炉で薪を燃やす。この薪ストーブの火が暖かい。外がどんなに冷え込んでいても薪を燃やすと部屋の中の温度がぐんぐん上がるのである。火の力には驚かされる。薪ストーブは火の有り難みをしみじみと感じさせてくれる。

 一方、火は怖い。山火事がとくに怖い。山火事は一度燃え始めるとなかなか消えない。今年も外国や日本の瀬戸内などで山火事のニュースを聞いた。しかし、村には専任の消防はない。あるのは消防団だけである。野焼きなど大きな火を使う時には十分に雨が降ったあとや、小雨が降っているような時に燃やすというのが約束事になっている。
 うぐいす荘が完成した時に、真っ先に買ったものの一つが消火器だった。火災の原因になるたばこは、山荘内はもちろん、山荘周辺も禁煙というルールを作った。ところが、すぐにうぐいす荘へ『超ヘビースモーカー』が出入りし始めたのである。山荘周辺の造園などを依頼した地元のOさんである。庭の造成や植木の植栽を頼んでわれわれが山荘を離れ、次に出かけて行くと、山荘の周辺にたばこの吸いがらが無数に落ちているである。あまりの無神経ぶりに腹が立ち、ある時やんわりと、この山荘は家の中だけでなく、周辺も禁煙にしてあることを言ったのだが、てんで効果はなかった。

 Oさんには造園以外にも暖炉用の薪を世話してもらったり、山荘のペンキ塗りを頼んだりした。地元で取れた野菜などもよくもらう。これからの付き合いもある。それだけに火事でも出されたらと危惧していた。最近になってそのOさんが健康上の理由からたばこをやめたと聞いた時には、女主人と二人で小躍りして喜んだものである。
鶯谷徒然のバックナンバー

−「カッコウ」「カッコウ」
 カッコウが遠くで鳴いているのがよく聞こえてくる。声がよく通る野鳥である。鳴き声で誰もがその鳥の名前をいい当てられる。鳴き声そのものが名前になっているのだから間違えようがない。
 
 夏鳥なので、うぐいす荘のある開田高原では例年5月ごろから8月ぐらいまで鳴き声を聞くことができる。体長が約30センチと大きいので鳴き声も大きいのだろうか。「カッコウ」「カッコウ」と山の中に響く声は、どこかのどかでメルヘンティックである。高原の野鳥にふさわしい。主人はまだ姿を見たことはないが、女主人は散歩の途中で、電線に止まっている姿を見かけたそうである。
 鳴き声をよく聴いていると、「カッコウ」「カッコウ」ではなくて「ワッホウ」「ワッホウ」と鳴いているようにも聞こえる。野鳥の鳴き声をどう聴くかは、人により、地方により、あるいは国によってさまざまだ。しかし、「カッコウ」は日本国内ではたいてい「カッコウ」「カッコウ」だろう。カッコウの仲間であるホトトギスの場合、図鑑などには「テッペン カケタカ」と聞こえると表現されていることが多い。確かにそういわれて聴いているとそう聞こえる。しかし、主人の場合、いつも「トッキョ キョカキョク」と聞きなしている。子どものころ、だれかにそう聞いた記憶があるのだ。以来、ホトトギスの鳴き声は 「トッキョキョカキョク」である。一度、じっくりと耳をすませてみてほしい。

 ところで、都会では視覚障害者のために街の信号機が「カッコウ」「カッコウ」と鳴っている交差点がある。しかし、誰も山の中に信号機があるとは思わないだろう。ある時、山にやってきた都会の子どもが、カッコウの鳴き声を聴いて「あっ、時計が鳴っている」と叫んだそうである。これならわかる。                             (2011年6月)       

 

(43)8月15日

 うぐいす荘のすぐ近くについにクマが現れた(8月23日)。これまでもこの休養地内で、しばしばクマの目撃情報があり、そのたびに管理センターが注意を呼びかけていた。山の中なのでクマが出没するのは不思議でもなんでもない。とはいえ、クマは怖い。やはり身構えてしまう。

 女主人がベランダでくつろいでいた時、近所で飼っているイヌがうるさいほど吠え続けていたので、どうしたのだろうと思っていたら、ガサガサッという音が聞こえ、音のした方向を見たところ、大型犬のような真っ黒い動物が目に飛び込んできたという。幅3メートルほどの道路を隔てた向かいの敷地の斜面にいて、こちらを見ており、一瞬目が合ったそうだ。直線距離で10数メートルというところだろうか。クマはすぐに移動を始め、クマが進んでいる方角にある人家に向かって注意を呼びかけたところ、こんどはまた反対に向きを変え、森の中に姿を消したという。主人はクマを目撃していない。女主人が近所の家に注意を呼びかけるか細い声を聞いただけである。その時は何が起こったのかわからなかった。あとで話を聞いて驚いた。
 以前休養地に、ニホンカモシカが現れたという話を聞いた時には、「カモシカに会いたい」と書いた。さすがに、クマに会いたいとは思わないが、見逃したとなると、いささか残念な気持ちにはなった。
 
 翌日、いつも犬を散歩させている近所の住人は早速鈴をぶら下げて散歩に出かけていた。このところ普段は鈴を鳴らしていなかったのだが、管理センターからクマが出たという話を聞いて注意しているのだろう。クマにキツネ、カモシカ、イタチ、サル、タヌキ、ウサギ、ネズミ、リス、ここにはいろいろな動物が現れる。元々、こうした動物たちが住んでいた山に、人間があとから進出したのだ。我々人間はこうした動物たちとの共存を遠慮がちにお願いしなければならない立場なのである。「クマさん、仲良くやっていきましょう」と。     (2012年8月)   

     

(41)クマが出た

(40)原発よ、さようなら

(39)音の話

(38)郭公(かっこう)

(37)東北の大震災に思う

(36)カマドウマ?と戦う

(35)殺生

(34)森林鉄道に乗る

(33)野鳥のことなど

(31)人“臭い”話

 (2) 巣立ち

 

       

     (3) 開田のスズメ

   

   (4)招かれざる客

    (5) 命のはかなさ

   

 カケスという美しい野鳥がいる。胴には真っ青な羽を付け、先端は真っ黒な羽になっている。どちらも鮮やかだ。カラスの仲間だという。見た目はきれいなのだが、鳴き声はあまりパッとしない。「ギャー、ギャー」と大きな声で鳴くだけである。年中山の中にいるようで、うぐいす荘のそばへもよくやってくるし、庭のエサ台に入っていたこともあった。

 野鳥カメラマン、吉野俊幸氏の「八ヶ岳通信・山麓の野鳥」という写真集の中に、「飛翔するカケス」と題したカケスの写真が収められている。木の枝に留まっていたカケスが大きく羽をはばたいて飛び立った瞬間を鮮やかにとらえたすばらしい写真である。とくにこちらをにらみつけるようなカケスの鋭い眼に、目が吸い寄せられる。ねらった獲物は逃さないぞとばかりににらみつけている。カケスは猛禽類ではない。主に木の実などをエサにしている。だから何かの生き物をねらっているわけではないだろう。しかし、その鋭い目つきは恐いほどである。

 子どもや大人、みんなに人気のあるパンダ。よくいわれることだが、あのぬいぐるみのようなパンダの目元の黒いブチの中の眼は、意想外に鋭く恐い。北海道の原野に生きるヒグマと変わらない。動物園のオリの中にいても、元々は厳しい自然の中で生きていた生き物なのだ。

 最近、うぐいす荘の雨戸の戸袋の中に、いつも庭のエサ台に入れてある野鳥用のヒマワリの種が数粒入っているのに気づいた。もちろんこんなところにエサを入れた覚えはない。たぶん野鳥がエサを隠したのだろう。カケスにはエサの木の実などを冬に備えて隠しておく習性があるという。しかし、あの吉野氏の写真の鋭い眼と、雨戸の戸袋にエサを隠すカケスとがどうも結びつかない。                                

     (8) 森林鉄道

 

    

 長野県木曽郡開田村西野。ここがうぐいす荘の所在地である。この開田村について書いてみたい。

 開田村は御岳山の北東斜面、標高1100-1300メートルに広がる高原の村である。名前は「開田」とあるが、あまり開かれた村(俗世間的な意味合いで)とはいえない。どちらかといえばいろいろな面で遅れている過疎の村だ。村の広報紙をみると、人口は2千人を境に上下している。長野県木曽郡なのに、木曽谷との交通の便が悪く、昔から岐阜県飛騨地方とのつながりが強かった。百科事典でも「隔絶された地域」と表現されている。信州の“チベット”といわれる所以である。
 冬でも寒いと唄われる御岳山のふもとに広がる高原の村であるから夏は涼しい。だから避暑地としては申し分ない。長野県地方の天気予報では、長野市、松本市などと並んで軽井沢の最高・最低気温が放送されるが、開田村の夏場の気温は軽井沢とほぼ同じぐらいとみておけば間違いない。ただし、冬季の最低気温は軽井沢より厳しい。
 軽井沢並みなのは気温だけで、あとはすべて雲泥の差である。何よりもまず交通の便が悪い。鉄道も高速道路のインターもない。JR中央線の木曽福島駅から村中心部までバスで1時間近くかかる。最近になって国道の改修が進み、新しいトンネルもできたので、車さえあればだいぶん便利にはなってきた。それでもまだ村内に商店は少なく、ちょっとした買い物は木曽福島町まで出なければならない。コンビニなどもちろんない。生活が不便で開発が遅れている分、自然の恵みはたっぷりある。村の人々の人情も厚い。
 村は観光開発に力を入れ、スキー場を運営したり、日帰り温泉施設を作ったりしている。別荘地としての開発も進み、レジャー客の入り込みも年々増えているようだ。夏休みや新緑、紅葉、スキーシーズンにはかなりの人と車がやってきて村もにぎやかになる。
 行政の効率化をはかるために町村合併を推進するという国の方針から、今、この開田村にも合併問題が起こっている。御岳山ふもとのいくつかの村だけで合併する案とか、木曽福島町を中心に木曽郡の町村が合併する案とかいろいろあるらしい。
 うぐいす荘主人は現在、都会で暮らしている。月に1回程度、村へ心身のリフレッシュに行くだけである。定年後はもっと長期間の滞在をしたいと思っているが、村に永住するかどうかはまだ決めかねている。そんな状況なのに合併について云々する資格のないことは百も承知だが、あえていいたい。 行政が効率よくなると、逆にきめ細かさが失われる恐れもある。大きくなることだけがいいことではない。小さな村でもみんなが創意と工夫を重ねれば、効率のいい行政運営と村の発展は展望できるのではあるまいか。そう信じたい。

 開田村は今の開田村のままがいい。いろいろ不便なのは辛抱するしかない。むしろその方が自然が壊されなくていい。開発が進んで人がどんどん入り込んでくると静かな村が騒々しくなり、車の排気ガスで空気が汚されていく。それは我慢できない。
 自然と環境を守りながら、村の開発と発展を図る。昔からある難しい問題だ。

 

     (10) ペット 

 ペットブームである。誰もかれもが犬や猫を飼っている。犬猫だけではない。小鳥、熱帯魚、ウサギ、カメ、トカゲやヘビなどのは虫類、あらゆる生き物を現代人は愛玩する。

 ここ、うぐいす荘周辺の人たちの中にもペットの犬を飼っている人が少なくない。時々山荘を利用する人たちにもペット連れで来る人が多い。田舎や山の中での一人暮らしや年寄り所帯の場合には、寂しさ対策だけではなく、用心のために番犬として飼育していることもあるだろう。こうした人たちが飼い犬を散歩させながらよく通りがかる。山へやってきて開放的な気分になるのだろうか、中には、犬を放して散歩させる不届きものもいる。
 兵庫・西宮の団地でもペットを飼育している人が大勢いる。この団地では犬や猫は飼育禁止(小鳥や熱帯魚はOK)という決まりがあるのだが、そんな決まりはおかまいなしでほとんど好き放題に飼っている。周囲の住民に気を使っている人も中にはいるが、他人への迷惑など「知ったことか」といわんばかりの住人も残念ながらいる。
 主人もかって友人にもらった文鳥をペットとして飼っていたことがある。しかし、生来の無精もののため、週に1回のエサの補充、水の交換、鳥かごの掃除などが面倒でたまらなかった。だからその文鳥が死んで以後は何も飼っていない。そもそも主人は、女主人ともども犬猫のたぐいはあまり好きではない。
 いったい、このペットブームはいったい何なんだ。人間には常に何か愛情を注ぐ対象が必要なのだろうか。子どもに恵まれない夫婦や身近な人間を亡くした人が犬や猫を飼ってかわいがるという例はよくあるし、そうした気持ちは理解できる。一人暮らしの独身女性が動物を飼う心境もわからないではない。街のホームレスがよく犬を連れて歩いているのも見かける。彼らもきっと寂しいのだ。愛玩物がないとこの世知辛い社会を生きていけないというのか。しかし、飢えた社会にはペットブームは存在しないのではないか

 日本には世界各地からペット用の希少動物が輸入されている。世界一の輸入大国だという。果ては合金製のロボット犬というのまで登場した。何かおかしい。どこか狂っている。

                                                            

                                       

    (13) 日本の不況で考える−partT

  景気が悪い。バブル崩壊以後、ほとんどずっとそういわれ続けてきた。その原因の一つが銀行が抱える不良債権であり、不良債権をなくさない限り、日本の景気はよくならないと指摘される。政治に尻をたたかれた銀行は不良債権の処理を続けているが、それでもいっこうに不良債権は減らない。景気がよくならないから、企業の業績が改善せず、不良債権が次々に生まれ続けているためだ。この悪循環を断ち切らない限り、日本の景気はよくならない。

 大量の不良債権の存在とともに、景気が好転しない一つの大きな要因として日本の消費者がモノを買わなくなったことが指摘されている。何故消費者はモノを買わなくなったのか。作家の野坂昭如は「今の日本人にはもう買うものがなくなってしまったからだ」と発言していた。確かに今の日本の家庭にはモノがあふれ、何も不足しているものがないように見える。これだけモノがあふれている今の日本をみると、確かにもう買うものがなくなってしまったというのは本当だろう。これからはこうしたモノを買い換えていく需要しかないのかもしれない。

 一方、こんな中でも海外旅行人気は衰えない。アメリカのテロ事件で一時落ち込んだ客もすぐに元に戻ってきた。もっとも今は「SARS」の影響で海外旅行熱はまた覚めているようだが。中高年の登山ブームや温泉人気。映画館の客足も一時のどん底からは上向いている。歌舞伎やオペラに足を運ぶ日本人が増えてきた。これらは何を物語っているのだろう。
 日本人がこれまでのようにモノではなく、精神的な満足を求め始めているということではなかろうか。モノの豊かさではなく、文化的、精神的生活の豊かさを追求し始めたのだ。一方、物質的生活というのも生きている限りは続けなければならない。ただ、本当に必要なものは何なのか。どうしても必要なものだけがあればいいのではないのか。そんなふうに考え始めた人々が増え始めたのではないのか。

    (14) 日本の不況で考える−partU

  日本人がモノの豊かさより精神的な豊かさを求め始めたとはいっても、それは中高年以上の年代にいえるだけかもしれない。10台、20台の若い人たちはまだまださまざまなモノにあこがれ、モノに執着を持っているようである。

 ただ、彼、あるいは彼女たちはモノを買うお金を十分には持っていない。若い世代がその限られたお金を使うのはファッションと携帯電話、旅行などのレジャーぐらいだ。若者のファッションの需要は高価な海外のブランドものか、着古しや安売り店の衣料品など両極端に分かれているように思われる。また若い人たちの旅行は海外が中心だ。結局、若者に関係して今、日本国内で元気がいいのは、携帯電話など通信関連産業だけではないか。
 日本の経済を活性化するには、モノよりも精神的な豊かさを求め始めた人々のニーズに応えていく必要がある。こうした人々の核をなしているのは中高年世代、それもいわゆる「団塊の世代」と呼ばれる人たち(うぐいす荘主人も女主人もこの世代に属する)である。この世代はそろそろ子育ても終わり、ローンもなくなって比較的お金を持っている。
 生きていく上で、さまざまなモノは必要だ。この世代は同じモノでも本物を、本当にいいものを求めている。それは海外のブランドものの場合もあるだろう。あるいは日本の伝統的な産業が作り出したもののこともある。要するに心の豊かさや精神的な満足感を与えてくれるようなモノだ。大量生産、大量消費時代に作られたようなモノではない。
 少量の本物だけを作っているだけでは日本の経済は発展しないかもしれない。一方、現実の生活を維持していくためのいろいろなモノは必要だ。世界の国々の中にはまだまだモノが不足している国は多い。だから日本の産業が消えてなくなってしまうわけではない。ただし、日本の経済成長率は限りなくゼロに近づくだろう。

 20世紀の日本は、明治維新のあと欧米並みの近代化を図ろうと走り続け、第二次世界大戦後は復興を目指して、やはり走り続けてきた。
 21世紀の日本は、もっとスピードダウンしたほうがいい。というよりも速度を落とさざるをえない。ゆっくり、しかし足下をしっかり見つめながら確実に歩いていけばいいのだ。いま流行の「スローライフのすすめ」である。

 
 今年は鶯があまり鳴かなかった。もちろん少しは鳴いたのだが、数が全然少なかったように思う。そして鶯が「ホーホケキョ」と鳴く季節は終わってしまった。こんな状態が来年以降も続くようなら、「うぐいす荘通信」も「鶯谷徒然」もタイトルを返上しなければならなくなる。いったい鶯はどこへ行ってしまったのだろう。

 理由をあれこれと考えてみた。一番大きな原因は地震ではなかろうかと思っている。今年開田村では、鶯が鳴き始める3月ごろから毎月のように震度3程度の地震が頻発した。「ドン」と地面から突き上げるような地震が多かったようだが、主人がちょうど滞在中に経験した地震は横揺れが数秒間続いた。
 鶯はクマザサなどの地表に近い草むらの中に巣を作る。うぐいす荘付近にはこのクマザサが多く、それが鶯の集まってくる理由だろうと思っていた。ここからは素人考えだが、たびたび発生する地震のために、鶯がおびえて逃げ出してしまったのではなかろうか。あるいはまた、作り始めた巣が地震で壊されるとか、落下してしまうとかしたのではあるまいか。あまりにも地震が多かったために営巣することができなかったのではないか。
 それともう一つの理由はやはり、山荘などの建物が増え、下草などもどんどん刈られているので、営巣地が減っているのではないか、と思う。それにしても消えた鶯はいったいどこへ行ってしまったのだろう。地震のない別の場所へ行って営巣したのか。地震は開田村だけでなく、この周辺一帯を揺らしたはずだ。そうするとかなり遠いところまで行ってしまったのかもしれない。
 
 今年春ごろのある朝、現住所のある西宮の団地で鶯の鳴き声を聞いた。この団地へ転居してからかれこれ20年近くになるが、ここで鶯の鳴き声を聞いたのはこれが初めてだった。西宮でも山間部では鶯がよく鳴くらしいが、この団地は大阪湾に近く、あの「ホーホケキョ」が聞こえた時には、耳を疑った。まさか開田村の鶯がこの団地までやってきたわけではあるまいが。

(42)涼しさ日本一

 高知県四万十市西土佐で今年8月12日に最高気温41.0度を記録した。日本の暑さの記録を6年ぶりに更新し、埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市から日本一の座を奪ったというニュースが新聞の朝刊に踊った13日朝、うぐいす荘のある長野県木曽町開田高原では、朝の最低気温が11.1度しかなく、こちらは朝の涼しさが日本一だった、と観光案内所のHPが伝えていた。

 その後、暑さ日本一の四万十市西土佐では、その暑さを体験しようという観光客で賑わっているという。なにもわざわざそんな猛暑日本一を体験などしなくても、涼しさ日本一を味わう方が理にかなっていると思うのだが、こちらの方は新聞やテレビのニュースとしては流れず、観光客が増えたという話は聞かない。朝だけでなく、昼間の気温も開田高原では滅多に30度を超えることさえないというのに。
 そもそも開田高原にはこの夏の涼しさのほかには何もないのだ。なにしろ今やどこの町や村にもあるコンビニが1軒もない。もちろんドラッグストアも、スーパーもない。観光地だといっても、売り物になりそうなものといえば、蕎麦と木曽馬ぐらいである。蕎麦は信州ならどこへいってもおいしいものが食べられる。木曽馬もそれほど魅力的とは言えない。

 だが、この日本一の涼しさだけはもっと売りになるはずだ。残念ながら、それを日本中に発信する力がない。避暑地の軽井沢はたびたびニュースになるが、人混みが目立つ軽井沢あたりよりも、開田高原ははるかに涼しい(逆に冬の寒さは厳しい。こちらも時々日本一になる)。それに交通の便が悪い。国道は整備されたものの、高速のインタまでは1時間半、もよりのJRの駅からはバスで40分ほどかかる。
 それにしてもこの涼しさ日本一をもっとPRができないものかと思う。
                     (2013年8月)

(32)いざ、灼熱のまちへ
(6)鋭い眼
(9)開田村
(15)鶯はどこへ行った

 東北地方でとてつもない大震災が起きた。地震と津波による被害が尋常ではない。とくに津波による被害はこれまで見たこともないような惨状が広範囲にわたっている。福島県では原発にも被害が出て、深刻な状況がいまだに続いている。16年前の阪神大震災を上回る被害だ。東京や千葉、茨城でも死者が出て政府は「東日本大震災」と名付けた。しかし連日の報道に接する限り、東北大震災というイメージが強い。

 テレビではタレントらの励ましと連帯のメッセージが連日流れている。著名人や財界人による多額の寄付のニュースも相次いでいる。世界各地でチャリティ活動や募金集めをしたという話があとを絶たない。新聞紙面では、様々な分野の人たちの被災地へ寄せる思いが毎日のように紹介されている。日本中いや世界中の人々が未曾有の地震と津波に襲われた東北地方の被災地を応援しているのがよくわかる。
 遠く離れた地に住む僕たちにとって、この大災害を前にいったいなにができるのか、じっくりと考えたい。
 被災地へボランティア活動に向かう元気な人々も多いだろう。お金をたくさん持っている人の中には多額の寄付をする人もいるだろう。だが、元気な体も持ち合わせず、潤沢な経済力もない主人にとってできることは限られる。とりあえず雀の涙ほどの寄付を、ネットを通じて贈ったぐらいである。あとは何か連帯の言葉を被災地の人たちに届けるぐらいだろうか。しかし今、自然の猛威に大切な人を失い、すべての財産を奪われて打ちひしがれた被災地の人たちを勇気づけることができる言葉があるだろうか。

 これだけを言う。同じ日本人として僕たちは信じている。東北の人々の忍耐強さと粘りを。東北の人々が必ず、見事な復興を遂げるだろうことを。10年かかるか、20年かかるかわからない。でもあせらず、黙々とがんばってほしい。僕たちはただ遠くから、東北の人々を信じて見守り続けると。
                    (2011年4月)             

1)人間のエゴ

(16) 

長男夫婦に男の子が生まれた。長男の子ども、ということはうぐいす荘主人夫婦にとっては孫に当たる。初孫ができたのである。

 嫁の実家がある大分県日田市の産婦人科病院で生まれた。生まれた時の体重が2830グラムというから、長男の時とほぼ同じくらいである。母子ともに健康で、母親は携帯電話のカメラですぐに生まれたばかりの子どもの写真を撮って、西宮にいた長男のところへメールで送ってきた。目がとても大きくパッチリした赤ちゃんである。「虎太郎(こたろう)」と長男が名付けた。長男が阪神タイガースのファンで、今年タイガースがセリーグ優勝したことにちなんで付けたそうである。事前の診察で男の子らしいとわかっており、すぐに新生児ベッドのそばに名札が付けられた。

 「孫」といえば、去年だったか、「孫」という歌が流行った。東北地方に住む、ある演歌好きの素人のお年寄りが自分の孫のことを歌ってヒットした、というあれだ。「孫よ、おまえはなんてかわいいのだ」と「ただ、かわいい、かわいい」と演歌調で絶叫しただけの歌で、中身は何もない。何故こんな歌が流行るのか、実にばかばかしいと思ったものである。

 虎太郎が生まれた次の週末に、長男はわが子と対面するため大分へ向かった。この時、わが女主人もデジカメと一眼レフカメラを手に同行した。そして翌日には、写真をたくさん撮って帰ってきた。主人はそのデジカメ写真ですぐにこの「うぐいす荘通信」に「虎太郎のページ」を作ってアップロードした。
 その後、大分からインターネットのカメラメーカーのアルバムサイトに虎太郎の写真をたくさん掲載したという連絡をもらってからは、すぐにそこへアクセスしてお気に入りに登録した。主人夫婦ともども、時々アクセスして写真を「なかなか、かわいい、かわいい」とニコニコしながら眺めている。見事な「爺バカ」「婆バカ」ぶりを発揮しているのである。               (2003年10月)
うぐいす荘は、長野県地域開発公団が開発した開田高原休養地の中にある。標高1300メートルぐらいで、周囲はカラマツ林である。地表近くにはクマザサが一面に生い茂っている。そのクマザサの藪の中でたくさんのウグイスが暮らしている。
 山荘を建てるに際して度々、現地を訪れた。そのたびに藪の中ですばらしい声を聞かせてくれるウグイスがすっかり気に入った。これからもウグイスにきれいな鳴き声を聞かせてもらいたいと願って山荘の名前を「うぐいす荘」と付けた。
 ウグイスの鳴き声といえば「ホーホケキョ」である。ずっとそれしか知らなかった。しかし、ウグイスは「ジェジェ、ジェジェ」という声でも鳴く。地鳴きといわれる鳴き方である。夏が過ぎ、秋が深まってくるころ、山荘の前の道を歩いていてウグイスがクマザサの藪の中を移動しながら「ジェジェ、ジェジェ」と鳴いているのに出くわしたことがある。必死に人の影から逃げようとしているように思えた。
  最近、周辺にどんどん山荘が建ち始めている。山荘を建てる時には、カラマツなどの木を伐り、クマザサなどはきれいに刈り取る。山荘を建てていない敷地でも、土地のオーナーは、土地の管理のためにクマザサなどの下草をきれいに刈り取ってしまう人がいる。少しでも土地をいい状況で管理し、処分する際には少しでも高く売れるようにということだろうか。休養地を管理している管理センターも土地の良質な管理のために下草刈りを勧めている。管理センターは下草刈りの契約を結ぶことで、少しでも高い契約料を受け取れる。センターの作業員によると、下草刈りをしていてウグイスの巣を見つけることがあるそうだ。
 ウグイスの鳴き声はよく聞こえるのに、その姿を見ることは少ない。ある時、地面に近い小さな小枝に止まって鳴いているウグイスを初めて見つけた時は興奮した。小さなウグイスが全身を使って懸命に鳴 いていた。その身体やくちばしの動きから、それが紛れもなくウグイスであり、「ホーホケキョ」の発信源であることが確認できた。
 ウグイスが「ホーホケキョ」と鳴くのは他のウグイスに対するなわばり宣言だと、何かで読むか聞くか、したことがある。しかしあれは他のウグイスだけではなく、きっと自分たちのすみかを脅かす人間たちに対するなわばり宣言でもあるのだろう。
 ウグイスにたくさん来てほしいと願いながら、うぐいす荘を建てる時にはやはりカラマツを倒し、クマザサを刈り取った。こうして自分でウグイスの棲む場所を減らしてしまった。          (2002年4月)
  
庭の巣箱のシジュウカラのひなが巣立った。6月中頃のようである。巣立つところを目撃していないので、そのころだろうと推測するしかない。親鳥が巣作りを始めてからひなの巣立ちまでせいぜい一ヶ月か一ヶ月半ぐらいだったと思う。最初は巣箱にシジュウカラがよく出入りするので、もしや営巣を始めたのではと思っていたら、そのうちに巣箱の中でひなの鳴き声が聞こえだした。その次には親鳥の巣箱への出入りが頻繁になり始めた。つがいと思われる2羽のシジュウカラが入れ替わり立ち替わりエサを口にくわえて巣箱に入っていく。エサは小さな虫のようだった。
 このころから山荘周辺にやってくるシジュウカラやコガラの群れの中に体の小さいやつが混じり始めた。巣立ったばかりのひなだろうか。その中に一羽、ベランダの柵に留まったままじっと動かない小さなシジュウカラがいた。シジュウカラに限らずカラ類の野鳥は普通はよく動き回る。だからこいつもどこかの巣から巣立ったばかりのひなに違いないと思われた。初めて見る外の世界にどうすればいいのかわからないといった風だった。
 時々は山荘の窓ガラスに衝突するやつもいる。去年は窓にぶつかって失神してしまったコガラのひながいた。この時はうぐいす荘女主人が失神したひなをベランダのエサ台の上に置いてやったら、いつのまにかいなくなってしまった。意識を取り戻して飛んでいったのだろう。
 野鳥に限らず、自然の中の生き物たちはよく動き回る。みんなエサを求めて動き回るのだ。巣立ったばかりのひな鳥も、巣立ってからは巣箱の中で親鳥がエサを運んでくれるのをじっと待っているというわけにはいかない。だから必死で飛び回っている。自分でエサを見つけていかないと生きていけないのだから。
 野鳥を見ていて人間の巣立ちについて考えた。人間は学窓は巣立っても親元からはいつまでも離れない子どもがいる。生後20年、30年を超えてもまだ巣立つことができない生き物などは自然界には存在しない。人間だけだ。
 
―「シジュウカラの親鳥がひなにエサを運ぶのをやめる。巣箱のひなはいつまで待ってもエサが食べられない。そうなった時にひなは巣の中から外の世界に飛び出した。シジュウカラの親鳥にはきっとそんな知恵があるに違いない」―

 以上は巣立ち瞬間の様子を見ることができなかったうぐいす荘主人の勝手な空想である。                  (2002年7月)
コガラという野鳥がいる。シジュウカラなどカラ類の仲間で、スズメぐらいの大きさだ。体の色は白く、羽は灰白色。頭の部分がユダヤ教徒の帽子をかぶったように黒くなっている。こいつがうぐいす荘へもよく遊びにやってくる。
 人なつっこい野鳥で、人がいても平気で1メートルぐらいまで近づいてくる。以前に新聞で人の手のひらの上でコガラがエサを食べている写真を見たことがある。おそらく一瞬の出来事だったろうが。
 山荘を建てたばかりのころに、最初に見つけた野鳥がコガラだった。テレビ以外で野鳥が自然の中で生活しているのを見たのは生まれて初めてだった。樹上の小さな穴に出入りする姿を見た時には、双眼鏡を手に長い間観察した。あの小さな穴は何だったのだろうか。初めての冬、雪景色の中で数羽が庭の樹木の間を飛び回った時には、カメラのシャッターを切りまくった。このころにはまだ長い望遠レンズを持っておらず、残念ながらいい写真は撮れなかった。その後、庭やベランダにエサ台を作ってからはエサを食べによくやってくるようになった。遊びに来る時は大抵群れでやってくる。シジュウカラやヤマガラ、ゴジュウカラなどもいっしょだ。シジュウカラとヤマガラは体がカラフルなのですぐわかるし、ゴジュウカラはやや大柄で形がちょっと違う。ほかにハシブトガラやヒガラという種類も混じっているようだが、この二種はちょっと見ただけではコガラと見分けがつかない。いずれにしろコガラの数が一番多いように思う。
 女主人はコガラのことを“開田のスズメ”と呼んでいる。街で見かけるスズメはこのあたりでは見たことがない。その代わりにコガラが群れをなしていつも姿を見せるからである。
 それからは街のスズメもなかなかかわいいと思うようになった。茶色い姿形はきれいとはいえないにしても、小さな体でちょこまかと都会の歩道を動き回ってエサを探しているところなどは“開田のスズメ”となんら変わらない。やはり自然の中の野鳥には違いない。そういえば一茶はよくスズメを詠んでいる。

 手のひらにのせたエサを、“開田のスズメ”に直接食べてもらうのが主人の夢である。
 うぐいす荘にはいろいろな野鳥や動物たちがやってくる。野鳥では、コガラ、シジュウカラ、ゴジュウカラなどのカラの仲間、カケス、アカハラ、コゲラ、アカゲラ、そしてもちろんウグイス。そのほか名前がわからない鳥たち、動物では日本リス、野ウサギ…。野ウサギはまだ実物を見たことがないが、庭や雪の上に落とした糞や雪上の足跡、庭の新芽を食べた痕跡などから、遊びに来ているのは間違いない。
 そんな中で、あまり歓迎したくない招かれざる客というのもいる。花や樹木の新芽を食べる野ウサギもどちらかといえば、あまり歓迎したくない部類だが、それ以上に女主人が嫌うのがキジバトである。キジバトは都会にいる土バトに比べるときれいな羽を持っているが、鳴き方は普通のハトとまったくいっしょである。街のハトのように群れではなく、つがいで行動している。うぐいす荘へ来る時もたいてい二羽がいっしょにやってくる。最初は近くの木の枝に止まったり、道や庭をウロウロしながらこちらの様子をうかがっていて、ここぞと思った時に、野鳥用のエサ台に飛び移ってエサを食べ始める。
 カラ類などは、エサを一つ食べたらすぐに逃げ去り、またすぐにやってくるという食べ方をするのだが、キジバトは一度エサ台に乗ったら、ひたすらエサを食べ始める。そうなると他の野鳥は寄りつかない。体が大きいから食べるエサの量も多い。女主人は大きな音をさせてキジバトを追い払う。逃げたつがいはすぐ近くの木の枝に止まってこちらの様子をうかがっている。時には木の上で二羽が首と首を触れ合わせてじゃれあっていることもある。そしてこちらが目を離すとまたすぐにまたエサを食べにやって来る。そしてまた追い払う。
 そんないたちごっこをした翌朝、ベランダのエサがすっかり食い荒らされているのを見つけた。われわれがまだ眠っている早朝に食べに来たのだろう。その食べっぷりから見てキジバトの仕業に違いない。
 野生の生き物はなべてしたたかである。
 うぐいす荘のある開田村はそばの産地である。信濃路を行くといたるところにそば屋がある。信州ではどこでもそばを栽培しているようだが、その中でも開田村はとくに有名な産地である。ほかには戸隠村のそばも名前が売れている。

 開田村に通い出すようになってから、そばをよく食べるようになった。最初は寒い時期には温かい汁そばを食べていたが、最近では冬でもざるそばを食べる。温かいそばは、だしの味が関東風で色も濃く、関西のうどんだしで育った主人としては、あまりおいしくないのだ。その点ざるそばは、そばそのものの味が勝負なので、そばがおいしければ、つけ汁の良し悪しはあまり気にならない。冬場は熱かんで体を暖めてからそばを食べることにしている。これがいい。
 そばというのはこだわりを生む食べ物らしい。自分でそばを打つ人がいる。中にはそばそのものを自分で栽培して、それを打つ人までいる。
 開田村にも何軒かのそば屋があってそれぞれ味に微妙な違いがある。日曜・祝日にはどこの店も大にぎわいである。ある店などは一日に作る(打つ)そばの量を決めているらしく、休日の午後2時過ぎには早くも「本日終了」という看板を出している。食べそこねると、余計にその店のそばを食べてみたくなるのが人情で、次の休日にはもう一度早めに出かけるということになるのかもしれない。それがその店の作戦でもあるのか。
 隣町に「幻のそば」というのを売りにしたそば屋ができた。一度入ってみたが、そばを打つときに使うつなぎに山芋の茎(?)か何かを使ったり、要するに特別なつなぎを使っているということだった。確かに味はよかったが、際だってうまかったとも思わなかった。その後、やはり隣町の古びたそば屋に入ったことがあるが、ここでは特別何かにこだわっているということはなかったが、やはりおいしいそばだった。この時はいつもの熱かんをまず一本やってからそばを食べたのだった。

 おいしいそばを食べるための主人のこだわりは、そばを自分で栽培したり、自分で打ったりすることではなく、最初に熱かんを一杯飲んでから食べるということだけだ。これほど手軽なことはない。

 

 うぐいす荘主人の東京在住の弟が8月11日に急死した。享年50歳。病名は虚血性心疾患。酒の飲み過ぎで糖尿病を患い、肝臓もよくなかったが、まさかこんなに急に逝ってしまうなんて思いもよらなかった。
 あわただしく東京で葬式を済ませたばかりで、のんびり野鳥の話を書く心境ではないのだが、弟の突然死で去年の秋に遭遇した野鳥の死を連想したので、書いておきたい。
 2001年10月のある日、うぐいす荘の壁に野球のボールを力いっぱいぶつけたような「ドン」という激しい大きな音がした。その時は何の音かわからず、そのままにしていたが、あとで山荘の回りを歩いていると、北西側の壁の下に一羽の野鳥が死んでいるのを見つけた。暗緑褐色の羽で、体長20センチぐらいの比較的大きな鳥だ。初めて見る野鳥だった。おそらく猛スピードで飛んできたこの野鳥が山荘の壁に激突して死んでしまったのだろう。あの大きな音から想像すると、そう考えて間違いなさそうに思われた。11月にも同じような野鳥がやはりベランダの下で死んでいた。
 図鑑で調べてみたら、死んでいた野鳥は「シロハラ」という渡り鳥らしいことがわかった。図鑑によると、ウスリー河や中国東北部付近に住んでいて秋になると日本へ渡ってくる鳥らしい。ということは、はるばる中国の北の方から日本海を超え、何千キロもの旅をしてきた果てに、わがうぐいす荘の壁に激突して昇天してしまったというわけだ。この時は鳥の命のはかなさをしみじみ感じたものだった。
 そして今度の弟の死である。弟に限らない。阪神大震災の朝、未明の地震で崩れてきた家の下敷きになって突然命を失った人が大勢いた。アメリカのテロ事件でも何千人もの人が死んだ。おそらく何がどうなったのかわからないまま、死んでいった人も多かったのではあるまいか。人の死と野鳥の死を重ね合わせて考えてみると、そのはかなさは全く変わらない。まさに「朝に紅顔、夕べに白骨」、あわれというしかない。                   (2002年8月)
 
(17)奇妙な物音
この秋の一夜、山荘の寝室で寝ている時に、奇妙な物音がするので目が覚めたことがある。寝室の壁の中から「カサカサ、コソコソ」「カサコソ、カサコソ」といった音が聞こえてくるのである。紙袋の中をゴキブリとか、なにかその種の虫が動き回っている時にしそうな音である。
 女主人は懐中電灯を持ち出してきて寝室内にあったさまざまなものをひっくり返したり、後ろ側を照らしてみたりして調べていたが、それらしい音の源となるようなものは見つからなかった。「壁の中から音が聞こえてくるような気がする」と女主人はいう。寝室の壁は板張りで、裏側は台所になっていて台所の壁は石こうボードが張ってある。その間はおそらく空洞になっているのだろうが、それにしてもそんなすき間に虫が入り込むなんてことがあるのだろうか。いずれにしてもそんな壁のすき間を真夜中に調べることなどできようはずがない。
 もう一つ音源の出所として考えられたのは地下室だった。ちょうど台所の下が地下室になっており、寝室の下も地下室につながっている。ここに何か小動物でも入り込んだのかもしれない。しかし、深夜に正体不明の小動物が入り込んだかもしれない地下室を調べに行く勇気は主人にも女主人にもなかった。
 あれこれ思案している時、突然大きな地震がやってきて山荘がかなり揺れた。震度3ぐらいはあったと思う。ほんの2、3秒間横揺れしておさまった。「鶯はどこへ消えた」の項でも書いたが、開田村では今年に入ってから地震が増えている。毎月1回は震度2〜3ぐらいの地震がある。普通は下から突き上げるように「ドン」という音がするタイプの地震が多いのだが、この時は比較的長い横揺れの地震だった。
 結局この地震のあと、奇妙な物音の探索は明日にすることにして寝てしまった。しかし、その後も例の「カサコソ、カサコソ」という音は続いた。加えて小さな木ぎれが落ちたような「カタン」という音までした。どうやら音源は地下室にありそうだと思いながら眠りに落ちた。
 翌日、主人も女主人もそれぞれ地下室を調べに入ったが、何も小動物はいなかったし、それらしい痕跡も見つからなかった。第一、地下室内に小動物が入り込むようなすき間はどこにもなかった。すき間らしいものといえば、通気孔にはめ込まれた金属製のふたに幅数ミリのすき間があるぐらいだった。そして不思議なことに次の夜からあの奇妙な物音は、まったく聞こえなくなったのだった。
 
 ここからはまた主人のまったくの想像なのだが、奇妙な物音の犯人はモグラではないかと思うのだ。モグラが山荘周辺に出没しているのは間違いない。庭のあちこちにモグラが通った穴が開いているし、土の中の球根を食べられるという被害にもあっている。モグラならすき間のない地下室にも土の中を通って入り込めるだろう。地下室といっても床をコンクリートで固めてあるわけではなく、土がむき出しのままになった地下室なのだ。
 あの夜、山荘周辺の軟らかい土の中にいた1匹のモグラが、地中に微妙な異変を感じ取り、山荘の地下室内に土の中を通って入り込んできたのではあるまいか。地下室の土の上には段ボール箱をつぶしたものが置いてあり、この上をモグラが通ればきっと「カサコソ、カサコソ」というような音がするだろうし、地下室には所々に木ぎれも落ちている。地震の前触れを察知したモグラが、比較的しっかり固まった地下室の土の中へ逃げ込んできたと考えれば、すべてつじつまがあう。地中に生きるモグラに地震の発生を予知する能力があると考えても無理はないだろう。ただ、物音がした翌日に地下室を調べた際、モグラが通ってきたとみられる穴を確認することができなかったので、これらすべては残念ながら推測の域を出ない.。                 (2003年11月)
(18)そばにこだわる
(19)カモシカに会いたい
この冬、うぐいす荘のある開田高原休養地内に1頭のカモシカが姿を見せ、休養地内をあちこち散歩していた(らしい)。残念ながら主人が目撃したわけではなく、休養地内を毎日パトロールしている管理センターの職員が見かけてデジカメに収め、休養地のホームページで公開したのである。

 カモシカが開田村にいて時折現れることは知っていたが、休養地に現れたというのは初めて聞いた。休養地のホームページに掲載されたデジカメ写真は紛れもなく、写真などでよく見るあの日本カモシカである。カモシカは最初、ある山荘のベランダの下にいるのを見つけられ、その次はまた別の山荘に移動していた、という。
 休養地のホームページによると、カモシカはねぐらにしていた最初の山荘周辺で糞をまき散らし、強烈な悪臭を放つ小水を垂れ流していたそうだ。それだけではなく、周辺のイチイの葉などを食い荒らしていたという。
 その話を読んだ女主人は戦々恐々としていた。うぐいす荘の庭にはイチイがたくさん植えてあり、生け垣にさえしてあるのである。山荘を留守にしている間に、もしやイチイの葉を食い荒らされはしまいかと心配したわけだ。幸いホームページに出ていた山荘は、うぐいす荘ではなかったが。
 自然の中に生きる生き物が、臭い糞や小水をまき散らすことは全く自然なことである。さらに生きる手段としてえさになる木の葉などを食べるのも自然の営為である。それらを人間がとやかくいえるわけはない。われわれ人間がカモシカが生活していた自然の中に踏み込み、彼(彼女)の生活をかき乱した張本人なのだから。

 うぐいす荘を利用するようになってからさまざまな自然の生き物と巡りあった。しかし、まだまだお目にかかっていない生き物も多い。カモシカもその中の一つである。主人としては少々イチイの葉を食い荒らされる不運よりもカモシカに巡り会える幸運の方を期待している。                     (2004年2月)
(20)アカゲラ
 その名の通り、体の下の部分が鮮やかな赤い色をした野鳥だ。絵の具のように濃い赤である。胸のあたりは純白、羽は真っ黒で羽先にはギザギザの白い帯が数本付いている。顔にも黒い線が入っていて愛嬌がある。キツツキの仲間なのでくちばしが大きくて長い。「キョ、キョ、キョ、キョ」とかん高い声で鳴く。大きさはヒヨドリぐらいだろうか。

 赤、黒、白。色はこの三色のみ。しかも赤は胴の一部だけである。なのにとてもきれいな野鳥なのだ。たとえば、東南アジアや南米アマゾンなどには原色を何色も持ったたけばけばしい鳥がいる。あれはあれできれいな鳥なのだが、日本人の「美」の基準には合わないように思う。日本人はツルやコウノトリを愛する。どちらも黒と白、色は二色しかない。水墨画の世界である。
 自然界の生き物の色は、何色であっても鮮やかである。黒や白にしてもその黒や白に深みがある。ツルしかり、アカゲラしかり。だから色の種類が少なくても美しい。植物も同じである。以前、大阪の花博跡に作られた温室で見たヒマラヤに咲くケシの花の透き通った青のすばらしさは、今でも目に焼き付いている。
 
 うぐいす荘周辺にはアカゲラのほか、コゲラやアオゲラというキツツキの仲間がいる。コゲラは灰色っぽい体で、羽にギザギザの黒い帯があり、アカゲラやアオゲラより一回り小さい。アオゲラは羽が碧く、体全体がエメラルドグリーンだ。胴の部分が白く、そこにやはりギザギザの黒い帯が数本付いていてアカゲラ同様にやはり美しい野鳥である。コゲラは主人も見かけ、ビデオに収めたこともある。しかし、アオゲラはまだ見たことがない。女主人はアオゲラも何度か見かけらしいのだが。この不公平はすべて主人の出不精によるので仕方がない。
今年は庭のササユリが咲いているところを見ることができなかった。つぼみがふくらみ始めた日にうぐいす荘をあとにしなければならなかったのだ。昼ごろに山荘を出発したのだが、夕方まで滞在すれば花が完全に開いた状態を楽しむことができただろう。やむなく、開き始めたつぼみのササユリを西宮へ持って帰ってきた。

 ササユリは薄いピンク色のユリである。ササの葉に似ているためにこの名がある。おとなしく、清楚なユリである。つぼみがふくらんで花が咲くまで、そこにササユリがあったということに気づかないことが多い。ひっそりと静かに咲くのだ。しかし、甘い香りは立派にユリそのものである。人気があるために山で咲いているササユリはすぐに盗掘されるそうだ。
 うぐいす荘には現在3ヶ所ほどに株があり、今年はその中の一つが6月下旬に花をつけた。以前はもっとたくさんあったのだが、知らない間に減っていた。女主人によると、株が自然に消えてしまうことがあるというが、あるいは誰かに盗掘されたのかもしれない。
 西宮へ持って帰ってきたササユリは家に着いたころには、つぼみが完全に開いていた。しかし、花びんに挿した花の命は短く、2日ほどで枯れてしまった。庭で咲いていたら、ササユリの命はもっと長かっただろうに、本当に花に申し訳なかった。

 ササユリはたいてい毎年咲く。来年こそ庭に咲いたササユリを心ゆくまで楽しみたい。    
                      (2004年7月)
(21)ササユリ


(22)シジュウカラ

図鑑によるとシジュウカラは日本全国の山や里に分布している。そういえばいろんなところへ旅行しても、どこでもよく見かける。野鳥の中でも比較的ポピュラーな鳥だろう。以前、西宮の団地に住んでいたころ、団地の公園でも見かけたことがある。普段はスズメか、ハト、それにヒヨドリぐらいしかいない公園にシジュウカラが現れるとすごく目立つ。
 頭部は黒いが、背中は少し黄緑が混じっていて全体に青っぽい、きれいな鳥である。のどから胸にかけて黒いネクタイをしているようにみえるのもかわいらしい。

 もちろんうぐいす荘にもやってくる。それもたいてい群でやってくる。コガラといっしょに来ることも多い。夏場は虫類をエサにしているようだが、冬場のエサがない時にはベランダのエサ台に入れてあるヒマワリの種もよく食べている。
 シジュウカラは、人間世界の周辺でもよく営巣する。人が森林などに設けた巣箱を利用するのはシジュウカラが多い、と聞いたことがある。うぐいす荘の巣箱でヒナを育てたのもシジュウカラだった。神社の石灯ろうの中に、シジュウカラが巣を作ったというニュースもあった。人間に対する警戒感が薄いのだろうか。ある時、ベランダにシジュウカラのヒナが来たことがある。体が小さく、動きも鈍い。巣立ったばかりのヒナではないかと思った。このヒナがベランダの手すりに止まったままほとんど動かないのである。もちろん時折方向を変えたり、首を振ったりはするのだが、いっこうに飛ぼうとしない。普段はシジュウカラもコガラもエサ台に来てエサをついばむとすぐに飛び去ってしまうのに、この時のヒナはエサをついばむこともなく、ただじっとしているのである。
最初、この様子を部屋の中で眺めていたのだが、あまりにも動かないので、もしかしたら捕まえられるかもしれないぞ、と不届きな欲望を抱いてベランダに出た。が、その途端に、それまでほとんど動かなかったヒナがあっという間に飛び去ってしまった。

 うぐいす荘へよくやってくる野鳥にゴジュウカラというのもいる。「ゴ」と「シ」と頭の一文字が違うだけだが、シジュウカラとは大きさ、羽の色、などがかなり違う。シジュウカラより、体が一回り大きくて羽は灰白色、胴は白い。尾羽が少し短い。エサ台にいるシジュウカラやコガラを追い出すようにエサを食べにやってくる。猛スピードでエサ台にやってきたかと思うと、ヒマワリの種を一つ、二つ食べ、また猛スピードで林の中にあっという間に去っていく。動きがすばしこくて、シジュウカラに比べて要領がいい。木の幹に逆さまに止まって地上へ向かってするすると回転しながら降りるように動くのが特徴だ。同じカラ類の仲間なので、その名前もシジュウカラがいたので、ゴジュウカラになった(あるいはその逆)のだろうか。

 いずれにしても主人はゴジュウカラよりもシジュウカラの方がかわいらしくて好きである。それにしてもいくらシジュウカラの人への警戒心が少ないといって人間が野鳥を手で捕まえようなどというのは滑稽千万な行為である。先日のテレビのニュースでゴジュウカラやヤマガラなどの野鳥が人(どこかの山荘の管理人?)の掌のエサをすばやくついばんでいくところを見せていた。うぐいす荘主人も掌のエサを野鳥に食べさせるのが夢なのだが、まだ実現していない。まだまだ自然の中の一員になっていないということだろう。                (2005年2月)
 
 これほど自然の見事さを痛感させてくれる美しい花はあまりないのではないかと思う。初めて見た時には思わず息をのんだ。淡いクリーム色の花びらが五枚あるのだが、1枚の大きさは1センチほどしかない。その上半分に黒紫色の小さな斑点がたくさん付いており、中心部には緑色のやや大きな斑点が二つある。草の丈は六〇〜八〇センチ近くにもなるが、花の大きさはわずか二センチ余しかないので、よく近づいてみないとまず花の模様には気づかない。

 平安の貴人かあるいはこけし人形の顔のようでもある。はやりのネイルアートを思わせるところもある。しかし、自然の魔可不思議はそんな人間技は足元にも及ばない。この緑色の二つの斑点は蜜腺と呼ばれるものだそうである。そう、ここから甘い蜜を出しているわけだ。蜜にはすぐに蟻が群がる。蟻が花の上に常にいることでガの幼虫などから食害されることを防いでいるという。あるいは蟻が花粉をつけて移動することで受粉の役割を果たしているのかもしれない。
 アケボノソウの写真を撮ろうと近づいたら、蟻がたくさん群がっていて邪魔だったため、最初は払い落としたりしたのだが、蟻にとってもアケボノソウにとってもずいぶん迷惑なことをしてしまったわけだ。アケボノソウという名前は花の色が明け方の空を思わせ、たくさんの斑点を暁の星に見立てて名付けたものではものではないかという。

 山野の水辺などによく生えている野草で、うぐいす荘周辺にも多いのだが、管理センターなどは道端の除草のために、よく草刈り機で雑草を刈り取っている。そんな時に小さな花模様を気にかけたりはしない。おそらくたくさんのアケボノソウが知らない間に路傍のゴミと化しているのだろう。                          (2005年9月)

(23)アケボノソウ

(24)二人目の孫

主人夫婦に2人目の孫ができた。東京に嫁いだ娘亜希子に、今年2月7日、長女が生まれたのだ。名前は「瑞季」と父親の甘利拓馬君が名付けた。だいぶん言葉がわかるようになってきた初孫の虎太郎(長男・一郎の息子、2歳半)も「小さな赤ちゃん、赤ちゃん」と、自分のことを棚に上げて喜んでいる。

 娘の出産ということで、無事生まれるまではずいぶん心配した。女主人は近くの中山寺へ安産祈願に行き、祈祷してもらった腹帯を娘に送ったりしていた。早産になるかもしれないというので、出産1ヶ月前にはわが家へ帰ってずっと養生していた。「できるだけ、自然な状態で出産したい」と大きな病院を避け、小さな助産院で生むことにしたのも親にとっては心配の種だった。
 2月7日未明に陣痛が始まり、朝一番に入院してから生まれるまでに十時間余りもかかり、東京からかけつけた父親の拓馬君も出産に立ち会うことができた。娘にずっと付き添っていた女主人は「もう、くたくた」と疲れ果てていた。ともかく無事に生まれたと聞いた時には正直ほっとした。
 こんどの娘の出産で、女が子どもを生むというということがどれほど大仕事なのかをとつくづく思い知らされた。今、娘は毎日おっぱいを飲ませて育児に専念しているが、3月には東京へ帰らなければいけない。東京へ戻れば、主婦としての仕事も待っている。育児が一段落したら、仕事(派遣のパート)にも復帰したいといっている。親としては心配の種が尽きない。

 ところで、皇室でも紀子さまが秋に3人目を出産予定だというので、大きな話題になった。とくに天皇家の跡継ぎ問題とからんで、テレビや雑誌をにぎわせた。今の天皇制と皇室制度を守りたい人たちは、男の子の出産を待望しているのだろう。女性天皇と女系天皇を認めるという「皇室典範」の改正を今国会でもくろんでいたあの小泉首相もあっさり提案をひっこめた。
 こんどの娘の出産でつくづく思ったが、無事に生まれてさえくれれば、男でも女でもどちらでもいい(実際には生まれる前から女とわかっていたのだが)というのが、親(人間)としての自然な感情だ。それはわれわれも天皇家も変わりはない。周囲はただ、母子ともに無事な出産を願うことが正しいあり方ではないか。
 天皇家の出産はまた女の子のような気がする。   (2006年2月)

(25)ササユリU

ササユリについて書くのは確か2度目である。
 今年もササユリの花が咲いた。しかも5月にである。とはいっても、このササユリは兵庫県三木市の園芸店で買った苗をうぐいす荘へ持ってきて植えたものだ。買った時点で大きなつぼみがついていたのが、順調に花が開いたというだけである。2株植えたが、1株は霜にやられてしまった。

 うぐいす荘のササユリは今ようやく茎が伸びてきたところだ。そして今年もそこにササユリがあるということがわかるようになってきた。花のつぼみはまだほんの小さいのが付いているだけである。花が咲くのは7月になってからだろう。
 園芸店で育てられた苗であっても、ササユリの清楚な美しさはまったく自然のものと変わらない。ただ、山で咲く花はひたすら暖かくなるのを待ってゆっくりと育つためか、背がうんと高くなるのに、買ってきた苗は背丈が自然のものの3分の1ほどしかない。
 自然の中のササユリは草むらの中で直立している。“スクっと”立っているのだ。風が吹いたら、その風に身を任せるだけである。たとえ台風の風が吹いても、倒されることは滅多にないだろう。長い凍る冬に耐え、春の遅い雪解けを待って芽を出し始める。そして山の陽を浴びてすくすくと背を伸ばす。徐々にそのつぼみをふくらませ、やがて孤高の花をゆっくりと咲かせる。はやりの言葉でいうなら「スローライフ」そのものである。それを毎年繰り返す。一昨年は朝方咲き始めたササユリの花を残したまま山荘を出てきた。
 園芸店で育てられる苗は、花の促成栽培である。確かに花の美しさは自然のものと変わらない。しかし、自然の中で咲いた花とは何か違う。たくましさがないのだ。花はあっという間に散ってしまった。このササユリは来年開田の冬を乗り切れるのだろうか。
 
 うぐいす荘近くの住人で、ササユリをあちらこちらから取って(盗って)きては自分の庭に植えている人がいる。ササユリだらけの庭というのはいくらなんでも不自然だ。通りかかった人に「たくさん自生しているんですよ」と説明していたのを聞いたことがある。ササユリの花は確かに魅力的だ。しかし、ササユリで庭を埋め尽くすおろかさと滑稽さにいつになったら気づくだろう。              (2006年6月)                                  

(26)小泉首相の功罪

小泉首相が9月の自民党総裁の任期切れで退任する。在任期間は5年を超え、戦後の歴代首相では中曽根内閣を抜いて佐藤、吉田内閣に次いで戦後3位という長期政権になった。 奇人、変人といわれた小泉首相がなぜこんな長期政権を維持することができたのか。その理由とともに小泉首相の功罪を考えた。

 小泉政権を支えたのはなんといっても世論(国民)である。小泉首相はどの世論調査でも常に高い支持率を得た。世論の支持はテレビなどマスコミに負うところが大きい。小泉首相ほどテレビに登場した首相はいないという。毎日のテレビカメラを前にした記者会見、歌舞伎やオペラ見物などのパフォーマンス。さまざまな手段と機会を利用していわゆる「小泉劇場」を演出した。新聞の場合は問題によって支持・不支持の間で揺れたように思うが、それでも首相の発言や動静として報道するしかなかった。これも結果として国民の小泉人気を支える役割を果たした。
 世論が小泉首相支持した最大の理由は小泉首相のわかりやすさではなかったろうか。白か黒か、賛成か反対か。問題を単純化して国民に問いかけた。「自民党をぶっ壊す」というフレーズに、長期政権にあぐらをかいて腐敗しきった自民党にあきあきしていた国民は両手をあげて賛成の喝采を送った。
 小泉首相はよく「小泉改革」という言葉を使った。「改革」が自分の専売特許でもあるかのように。そして「小泉改革」に反対する人間は守旧派であり、抵抗勢力であると切って捨てた。「道路公団民営化」しかり、「郵政民営化」しかり。
 しかし、「改革」で問われるのはその中身のはずだ。「改革」=「正論」ではない。しかし、小泉首相は自身が推進する「改革」に反対する人間はあたかも「改革」そのものに反対しているかのような論理で抵抗勢力と断じた。「郵政改革」がその象徴だ。そして自分の意見を強引に押し通してしまった。
 イラクの復興支援に自衛隊を派遣したことについても考えてみたい。国際社会と協調してイラクの復興を支援することは重要かつ必要なことだ。問題はそのやり方である。海外に自衛隊(軍隊)を派遣するという方法がベストだったのかどうか。本当に自衛隊でなければできなかったのかなどについて突き詰めた論議がなされたように思わない。その反対に戦争の大義についての「大量破壊兵器があるかどうか私にわかるわけがない」や「自衛隊が駐屯している」ところが非戦闘地域だ」などの小泉首相の荒っぽい論法がまかり通った。自衛隊を海外派遣したという事実が今後、重い意味を持ってくるだろう。憲法を改悪しようとする危険な動きを注意深く見守らなければいけない。
 「靖国問題」も同じに思える。「戦没者を慰霊する」ことは正しい。「歴史問題だけで首脳会談を行わないという中国にいわれて日本の首相が行動を制約されることはない」というのも間違ってはいない。「A級戦犯を慰霊しているのではなく、一般の多数の戦死者を慰霊に行く」という理屈もわかる。「個人の信教の自由だ」という主張もできるだろう。しかし、やはり小泉首相が靖国神社に参拝するのは間違っている。
 一国の首相が「戦没者を慰霊する」ならより多くの人たちが賛同できる手段と方法で実行すべきであり、大東亜戦争を正しい戦争だったと賛美している靖国神社に参るべきではない。小泉首相はサンフランシスコ講和条約で敗戦を受け入れた日本の首相なのだから。さらに日本の首相として中国や韓国との外交を考えるなら、やはり参拝するのは問題がある。日本はアメリカだけでなくアジア外交をもっと重視しなければならない。「信教の自由」と言いはるならば、「政教分離」という憲法の別の原則を無視できないのに、こちらはとりあげない。司法の判断でも異論があるテーマだが、小泉首相は自分に都合のいい司法判断だけを持ち出す。どれもこれもずるい論理というしかない。
 
 確かに小泉首相のわかりやすい発言は過去の首相に比べて国民に広く受け入れられた。政治にとってわかりやすいことがどれだけ大切かということを痛感させた。しかし、わかりやすいということは、複雑で難しい問題をあまりにも単純化してしまった。もっとていねいな説明と論議が必要なのに、それを素通りしてしまった。
 郵政解散の時、小泉首相は「郵政改革に賛成なら自民党へ」と訴え、総選挙を郵政問題だけに単純化して大きな支持を得た。郵政以外は完全に素通りした。これほどもったいない選挙はなかった。小泉人気に乗せられて日本は右に舵を切ったように見える。「靖国問題」は日本のナショナリズムに火をつけた。結果として反中国、反韓国をあおることになった。これは危険なことである。あれもこれも結局はわれわれ国民がバカだったということになるのか。             (2006年8月)
 

(27)クマ騒動

 今年はクマ(ツキノワグマ)が全国の山里で出没している。民家や納屋の中にまで入ってきたとニュースになった。クマに襲われてかなりの死傷者も出ている。開田高原でも夏ごろから例年以上にクマの目撃情報が多い、と注意を呼びかけていた。開田では最近は少し落ち着いているようだが。

 クマが人里に現れるのは、当然ながら、エサを求めてやってくるのであり、人間を襲うのが目的ではない。今年はクマが住む山でエサになる木の実などが不作だったという。昔はクマが住む山と、人里との間に境界になる空間があってクマがやってくるのを防いでいたが、最近は山野が荒れてそうした空間がなくなってきたというのもクマが現れる一因らしい。
 人里に現れたクマは捕獲されて殺されたり、山奥へ放逐されたりしている。ツキノワグマは近年個体数が減っているといわれているのに、個体数がまたさらに減ったに違いない。
 今年はこのほか、開田高原では野生のサルが姿を見せたとか、道端でキジを見かけたとかいう話もあった。以前、この欄でニホンカモシカについて書いた時「カモシカに会いたい」といった。サルやキジにも会ってみたいが、クマだけは遠慮したい。
 
 実はうぐいす荘女主人がこの秋に開田高原でクマを目撃した。親グマに連れられた子グマ2頭の計3頭が一列になって国道361号を横切って山の方へ入っていったそうだ。100メートルぐらいは離れていたらしいが、真っ黒い塊が道路を横切った瞬間「あれは何だ」とびっくりし、すぐにクマだと気づいたという。361号は開田高原を貫く国道で、通行量も多い。そんな道路を横切るというのが驚きだ。
 クマとの遭遇を避けるためには、鈴など音が出るものを持ち歩くのがよいといわれる。音をたてることでクマを警戒させ、近づかないようにさせるのがねらいだ。しかし、クマは車のエンジン音に怯えないのだろうか。車を警戒しないクマが鈴の音を避けるだろうか。うぐいす荘にもクマよけの鈴を備えているのだが、果たして鈴に効果はあるのだろうか。                           (2006年11月)    

(28)開田高原の冬

 うぐいす荘を建てるころ、「開田の冬は厳しいよ」と地元の人たちからよく聞かされた。開田高原は「夏でも寒い」といわれる御岳山のふもとにある。うぐいす荘は標高1200メートルぐらいだ。確かに夏でもストーブが欲しいと感じることがある。真冬には最低気温がマイナス20度ぐらいになることも珍しくないと脅かされた。時には北海道より一日の最低気温が低かったと報じられることもあったらしい。

 ただ、雪はそれほど深くない。新潟や富山県のような2メートルを超える豪雪に見舞われることは少ない。昨冬はかなり雪が降ったが、積雪としては1メートルを超えたぐらいだろう。ただ、気温が低いために一度降るとなかなか解けない。昨冬は屋根にできた長いつららが雪とともにずり落ちてきて横向きになり、家の壁に突き刺さるかのような奇妙な状態になった。昨冬は12月に大雪が降ったが、この時は珍しく水分の多い湿った雪だった。しかも、12月に降ったあとは、雪らしい雪はほとんど降らなかった。開田は気温が低いため、雪は本来パウダースノーである。昨冬のような湿った大雪は珍しい。この冬は12月は雪が全然降らず、1月になってようやく50センチほど積もったが、その後はあまり降っていない。うぐいす荘に通うようになって10年近く経つが、雪は昨冬の1メートル余りというのが一番多かったように思う。それ以外の年は、毎年積雪は60センチ〜70センチぐらいだった。
 気温もマイナス20度を覚悟していたが、これまでの経験では最も低かった年でもマイナス19度ぐらいだったのではないか。この冬も一番気温が下がった日で最低気温がマイナス17度ぐらいだった。今年は全国的に雪が少ないと報道されている。開田高原でも雪は少ないほうだろう。総じて開田高原でも気温は昔ほど低くなることは少なく、積雪量も減っているように思う。
 全国的にも各地のスキー場ではここ数年毎年のように雪不足に泣かされている。開田高原のマイアスキー場でも昨年の12月は雪がなく、人工降雪機で雪を降らせてオープンしていた。
 雪が少なくなり、気温もそれほど下がらなくなってきたということはやはり世界的な地球温暖化と関係があるのだろう。
 当初、うぐいす荘で暮らすのは夏場が中心で、寒さが厳しい季節は避けたほうが無難だろうと考えていた。しかし、これだけ冬場の気温上昇と少積雪が常態化するなら、冬も十分暮らしていけるようにも思う。とはいえ、学者がいうように世界の気温が今世紀末に最大で平均6度上がったとしても開田高原の冬場の最低気温はまだ、マイナス10度前後にはなる。降雪にしても4、50センチ程度の雪はまだまだ降るだろう。都会で十分な暖房設備と雪のない暮らしに慣れた身にとっては、冬場の厳しさは同じことかもしれない。

 冬の寒さが厳しければ厳しいほど、春が来た時の喜びは大きくなるだろう。そのためには開田高原の厳しい冬を耐えなければならない。春を待つ長い時間を楽しいと感じる精神のゆとりがわれわれにあるだろうか。      (2007年2月)

(29)開田の大事件

うぐいす荘を建ててくれた大工さんが、殺人容疑で逮捕された。自分の息子(長男)をバールで殴って殺してしまったという容疑である。交通事故も珍しく、殺人事件など滅多にない開田高原の村はさぞ、大騒ぎになっていることだろう。

 この大工さんについては、山荘建設に当たって長野県地域開発公団が紹介してくれた地元の業者というだけで詳しい人となりは知らない。最初にあいさつを交わした時には会社名と2級建築士と書かれた名刺をもらった。開田高原でながらく大工をし、経験が長いことから、2級建築士の肩書きを得るまでになった人なのだろう。うぐいす荘のある休養地でも20年以上、山荘建設に携わってきた人で、近隣の山荘でも、この人に建ててもらったという隣人が何人もいる。われわれが知る限り、きわめて温厚な人で、こんな事件を起こしたとはにわかに信じがたい。
 現在66歳だというからうぐいす荘建設時はまだ56歳。今の主人より若かったのだ。当時の印象は顔のしわが深く、もっと老けているように感じた。山荘建設後も何度か顔を会わせ、とくに3年前の台風の大雨で、庭の土がえぐられた時には現場を見にきてもらってその翌年に庭の排水工事と修理をしてもらったことがある。金もうけ主義ではなく、仕事もしっかりやってくれていた。
 一度、やまゆり荘の玄関でばったり顔を会わせた時などは、村の敬老会の世話役をしていてお年寄りたちをやまゆり荘に招いて接待していた。この時はアルコールが入ってすこぶるご機嫌だった。開田の人たちには、方言とまでいかないが、独特のなまりがあって、田舎の人らしい、おっとりした雰囲気がある。この大工さんもそうした言葉遣いの持ち主だった。ただ、3年前の庭工事のころは、今思えばずいぶんほおがやせこけていたように思う。
 新聞によると、殺された息子というのは44歳で無職のアルコール依存症だった。通院歴もあったという。数年前に仕事をやめて実家に帰ってきていたそうだ。事件は午後1時ごろ自宅車庫で発生、本人が自分で110番通報したという。1997年の山荘建設当時に雑談の中で、息子が東京にいると話していたことがある。その後、開田へ帰ってきたのが、こんどの事件の当事者だろうか。そうだとすればそのころはもうアルコール依存症だった可能性もある。世間には、温厚でおとなしい父親が、できの悪い息子に説教を繰り返すうちに、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまうという話がよくあるではないか。

 いまは自責の念にさいなまれて本人が一番苦しんでいるだろうと想像するに難くない。しわがさらに深くなったことだろう。深いしわに刻まれてはいたが、その大工さんの笑顔は写真になるいい表情だった。しかし、その裏には家族を巡る底なしの悩みを抱えていたということになる。大きな苦悩を抱えながらも立派に仕事をし、いい笑顔を持てた人だった。どこかの悪魔がやってきてとんでもない悪さをしたということか。もし、減刑を求める署名運動でも起これば、いの一番に署名したい気持ちである。              (2007年2月) 

(30)定年

うぐいす荘主人はこの1月15日に還暦を迎えた。と同時に、37年9ヶ月勤めた会社を定年で退職した。16日以降、当たり前だが、会社へは行っておらず、ほとんど西宮の自宅にいる。。今のところは働く予定もない。プー太郎である。雇用保険と厚生年金の請求手続きを終わり、定年後のとりあえずの用事は終わった。つましい年金生活が始まった。
 
 しばらくはボロボロになった体を休めるつもりだ。これからは何をやってもいいし、あるいは何もしなくてもいい。何もしないと多分にボケる心配はあると女主人は心配する。主人がまずしなくてはならないと思っているのは、この「うぐいす荘通信」の更新である。「うぐいす荘通信」と銘打ちながら、最近はどちらかというと、各地のレジャー旅行の写真や孫の写真を入れるなどして更新することも多かった。これからは、本来のうぐいす荘に関わる話や写真を入れてもっと頻繁に更新していかなくては、と思っている。ただ、夫婦ともに年を取ってくると、厳寒の開田高原での生活は厳しすぎる。今年も正月に6日間ほど滞在しただけで、こんどは暖かくなる3月に行く予定だ。それまでの間に更新できるのはこの「鶯谷徒然」だけである。この雑文も1年近く更新していなかった。書くべきことがなかったわけでもなく、ただ、時間がなかったのと、更新しようという強い意思がなかったということだろう。

 ホームページを作ってからもう6年ほどになると思うが、開田高原に限らず、自然はどこでも春夏秋冬、毎年同じ営みを繰り返す。ホームページでは、これまでにない新しい発見や自然を捉えて載せたい。初めて見る野草や野鳥、動物たち。定年後も開田にずっと住み続ける予定は今のところはないが、今後は一度行ったら滞在期間が長くなるだろう。そうするとそういう新鮮なものに出会うチャンスも多くなるだろう。そして時間はたっぷりある。すばやくページを更新したい。              (2008年1月)
 うぐいす荘から車で3、4分ほど走ったところに御岳明神橋という小さな橋がかかっている。木曽川最上流の冷川という小さな支流にかかるこの橋は平成になってから作られた新しい橋なのだが、その上流側数メートルのところに森林鉄道の軌道跡が残っている。木を組んだ橋げたの上を幅80センチほどのレールが走っている。レールは半分ほどしか残っておらず、橋の左右にはもう軌道跡は残っていない。わずかにこの軌道跡の木橋だけが、森林鉄道がかってここを通っていたことを示しているだけである。

 森林鉄道に興味をそそられたのは、うぐいす荘のすぐ前の道路はその昔森林鉄道が通っていたところだと地元の人に教えられたことからだ。手元にある百科事典(小学館)を開いてみると、森林鉄道とは、原木を森林から搬出するために木材の大量生産地帯に作られた鉄道で、日本の各地にあったらしい。軌道幅は762ミリ、機関車はディーゼルが多いが、幹線では蒸気機関車も使われたという。林道の整備が進むとともに、徐々にトラックによる運搬にとって替わられたという。この百科事典には1972(昭和47)年当時、原木を満載して木曽谷を走っている王滝森林鉄道の写真が掲載されている。このころまではまだ実際に活躍していたのだ。別の資料によると木曽谷には53線延べ430キロの森林鉄道が走っていたとある。
 百科事典には記述はないのだが、森林鉄道は地元の人たちの足としても重宝がられていた。確かに山を下る時には原木を山のように積んでいるのだが、戻る時には荷台は空っぽになる。この帰りの荷台に人間が乗ることができたらしいのだ。
 ある時、会社の仕事で昭和9年ごろの写真雑誌、アサヒグラフを見ていて、木曽・王滝の森林鉄道の写真を見つけた。終点の上松町から戻る鉄道の荷台には、着物姿にカンカン帽をかぶった住民や大きな荷物を持った商人らしい人が揺られていた。写真説明によると、料金は無料とあった。
 開田村の森林鉄道がどういうルートでどこからどこまで走っていたのかはまだ知らないのだが、地蔵峠を越えてバスが開田村まで入ってきたのが1956(昭和31)年のことだったというから、もしこの森林鉄道がふもとまで連絡していたのなら、きっと、便利な足であったろうし(ただし戻り道だけ)、住民の生活とも密接に結びついていたに違いない。

 上松町では、観光用に森林鉄道を走らせている。森林鉄道記念館が作られてさまざまな資料も展示されている。是非、一度行ってみたいと思っている。