韓国旅行記 3日目その1
板門店ツアー


12月4日

 朝8時に現地ガイドとホテルのロビーにて待ち合わせ。タクシーでホテルロッテへ。ツアーは、韓国の2つの旅行会社のみが催行しており、このツアーに参加する以外に、一般人が板門店に行く方法はない。その集合場所がロッテなのである。
 参加したツアーは、ほとんどが日本人であった。それ以外にはアメリカ人と香港の中国人とを合わせた4人だけ。合わせて2台のバスで足りる人数である。アメリカ人達が、私たちのバスの方に乗った関係上、ガイドは、日本語と英語が交互する形で行われた。
 ちなみに、ツアーへの、ジーパンでの参加は禁止されており、今日は、わざわざ持ってきた綿パンを履いている。

 途中、慰霊碑に寄るなど、休憩を挟みながら行くので、板門店まではおよそ2時間ほどの行程である。ソウルから板門店まで60キロ程度の距離しかない。日本語を話すガイドは40代くらいの女性で、バスの中で、韓国の歴史や朝鮮戦争の話などを中心に話が進む。彼女の話し振りから全体的に感じられるのは、自国への誇り。後方で関係ないおしゃべりをしている人がいるような状況で、「くだらないですか?」と一喝するような場面もあった。もちろん笑顔で。もっともこの時、朝鮮の古い時代の話をしているときだったので、「百済ない」にかけたのであるが。
 フィリピン軍従軍戦死者の碑と肉弾十勇士の碑の順に見学する。
フィリピン戦死者記念碑 肉弾十勇士
 バスが進むに連れ、軍関係の車両や軍人を多く見かけるようになっていく。また、爆薬をしかけてるというゲートを何個所か通過する。もちろん、北朝鮮(韓国では北韓と呼ぶ)が侵攻してきたときに、破壊して道路を封鎖するためだ。また、家や建物も少なくなっていき、国境地帯へ近づいているという緊張感が高まっていく。写真撮影はすでに禁止されている。
 自由の橋を渡る手前で軍によるパスポートチェックがなされる。この橋を渡ると建物はもうほとんどない。しかし、土地は無駄にしないということで、そのほとんどが畑になっている。もちん冬なので、何も植わっているものはない。
 この地域を耕作する人にはさまざまな制限とともに特権があるそうだ。制限とは土地の所有権を持てないこと。耕作権のみを持てる。一方で特権はさまざまな税を免除されることである。ただし、年間8ヶ月以上居住するというのが条件で、違反すると、直ちに権利を剥奪されるのだそうだ。この人々の村というのは国境近くにあり、厳重に警護されている。耕作したりするときも軍の保護がつくということらしい。勝手なことは一切出来ない。警備されながら畑を耕作するというのはどんな気がするものだろうか。

 バスは20分ほど走ると、国連軍のベースキャンプに入る。韓国軍でなく、国連軍なのは、朝鮮戦争での経緯があるからだ。あの戦争は、北側の侵略ということで、国連軍が編成されたからである。その状態が停戦後も現在まで延々と続いている。
 バスの中で15分ほど待機させられた後、施設に入る。
国連軍キャンプ  小さなホールに案内され、スライドにて朝鮮戦争から現在の経過までの説明を受ける。説明するのは同行のガイド。歴史は好きなので、おおざっぱには知っていたのだが、詳細な事件や出来事は興味深かった。停戦後、板門店では大きな事件は2つ起きており、その話が板門店の話題の中心となる。
 説明後に、署名した用紙が回収された。これは、この先危険地帯に入るに当たって、何があっても個人の責任に帰しますよということを了解させる書類である。厳密に言うと、ツアー催行前にするべきものであるのだが。
 説明が終わると昼食である。軍の食堂にてカフェテリア方式の食事が提供される。長蛇の列が出来て、かなりまたされてやっと食事にありつくが、あまりおいしくない。
 集合時間まで付近を散歩。とはいっても、そんなに動き回れるわけではない。食堂の建物の隣に、土産物屋とちょっとしたバーの入った建物で時間をつぶす。土産物はここでなくても売っているようなものまで売っている。宝石とか。板門店のガイドブックとキーホルダーを買った。

 1時すぎに集合。再びバスに乗車し、いよいよ板門店へ。装甲車に先導されてゆっくりとしたスピードで進んで行く。バスには、一人の国連軍の兵士が同乗する。黒人のアメリカ兵である。英語でいろいろと説明しているが、前の方のアメリカ人にだけ話しかけているためなのか、あまりよく聞き取れない。日本語のガイドも説明を入れるが、兵士の翻訳をしているのか、それとは別にガイドしているのかもよく分からない。
 20分程走ると、板門店の韓国側の施設、「自由の家」へ到着する。近代的な4階立てくらいの大きな建物である。北に対する示威的な意識からであろうか。自由の家を通り抜けると、国境線をまたぐようにして建てられている平屋の建物が何棟かある。国連軍が管理している軍事停戦委員会の建物及び、両軍がそれぞれ管理している建物である。建物は色分けされていて、国連軍管轄が水色、北朝鮮軍管轄が白色の建物である。実際の会談は真ん中の軍事停戦委員会の建物で行われる。これらの建物の向こうには北側の大きな建物「板門閣」が自由の家と対峙する形で建っており、茶色い軍服を着た北朝鮮の兵士の姿が見える。
会談の部屋  まず初めに、真ん中の南北会談を行う建物へ案内される。指示されるままに建物には入り、奥の方まで移動して説明を受ける。この時点で意識してなかったのだが、国境を越えて北朝鮮側に入っていたのだった。部屋の中央のテーブルを真横に横切るマイクのケーブル(写真)が実質国境線にあたるのだという。このテーブルに向かい合って、両国の役人がずらりと横に並ぶのだ。この部屋への3分程度の入室がツアーでは認められており、そのおかげで北朝鮮領に入ることができるわけだ。何の変哲もない部屋であるが、我々の横で、毅然と直立して警備している2人の国連軍の軍人が、ただならない雰囲気を感じさせている。説明が終わると写真の撮影が短時間のみ許される。この時とばかりたくさんの写真を撮った。
 そそくさとその建物を追い出され、再び自由の家へ。途中振り返ると、建物に半分身をかくし、直立している国連軍の兵士が異様である。北朝鮮の兵士はたいして興味もないといった感じでこちらの方をみている。
 階段を登り展望台へ。板門店の全景がよく分かる。軍事停戦委員会の建物の左右に、国境線を示すポールが一定間隔で打たれている。正面には板門閣。警備をしている北朝鮮兵士が一人見える。先程入った建物の付近にいた北側の兵士は、建物の陰に入ってしまったらしい。軍事停戦委員会の建物の左右両側にも北側の見張り台があり兵士の姿が見える。
 左遠方に目を移すと北の山々が見え、そのふもとにハングル文字の看板が確認できた。何の意味か分からなかったが、何かのスローガンらしい。異様なのは山並みに木が一本もないことである。ガイドの説明によれば、見通しをよくするために皆伐したとか、あるいはオンドルの燃料にされてしまったとか言っていた。ここからの写真撮影も許されている。皆、大いに写真を撮っている。ただし、北側の兵士を指さしたり、手を振ったりすることは禁止されている。
 10分ほどの見物時間が終了。再び階段を下りて、自由の家の外に待機しているバスに乗り込む。
板門店 帰らざる橋
 その後、そこからすぐそばにある、北側の展望が開けている小高い地点に移動する。バスから降りて北を臨む。見渡す限り、枯れ野が広がっている。左前方に「帰らざる橋」が見える。1976年の「おの殺害事件」の舞台になった場所である。沙川江という川は北朝鮮領内を流れているのだが、板門店近辺ではこの川が国境線となっている。ここに架かっている橋が「帰らざる橋」ある。この名は、この橋を渡って北側に連れて行かれた捕虜が帰ってこなかったことにちなむのだという。
 76年の「おの殺害事件」前までは、北朝鮮側の軍人は、この橋を渡って板門店へ行き来していた(つまり韓国領内を通過して行き来していた)。しかし、この事件の後、橋を渡って板門店にやってくることが出来なくなったため、川の上流地点の自国領内に新たな橋を建設し、板門店との間を行き来するようになった。この新しい橋は3日で建設されたので、「72時間橋」と呼ばれている。右遠方に目を移すとこの「72時間橋」とともに旧板門店の建物も見える。
 再び視線を戻して、「帰らざる橋」の左遠方の対岸を見る。「宣伝村」と呼ばれる家並みと"世界最大といわれる"国旗の掲揚塔が見える。この日、北朝鮮旗は掲げられているようには見えなかった。「宣伝村」は実際には人が住んでいないとのことだった。洗濯物も見えないし、赤ん坊の泣き声も聞こえないといった具合に、人の住んでいる気配が全く感じられないからだそうだ。耳を澄ますと対岸から、音楽を伴った歌が聞こえてくる。いかにも国威発揚という感じである。さかんに宣伝音楽とメッセージが流されているらしい。
 この後、バスに乗って「帰らざる橋」まで行く。ただし、下車は許されておらず、バスの中からの見学となる。「おの殺害事件」のいわくつきのポプラの木の跡などび説明を受けた。
 装甲車の誘導はここで終了となり、別の道を通ってキャンプへ戻る。この、非武装地帯を含む一帯は、何十年もの間、人間の手が入っておらず、動植物の宝庫になっているという。全く、皮肉な話である。統一の暁には、世界的な環境保全地域となるであろうとガイドは言っていた。韓国の国旗掲揚塔付近を通過して、キャンプに戻った。
 キャンプでのちょっとしたトイレ休憩が入り、後は、ソウルまでの帰途が残るのみである。先程の、土産物などを売っている「勇士の家」の中は先程のにぎわいはなく閑散としている。人だかりでさっきは余りよく見えなかったが、入口の脇に資料が展示してあり、記帳できるノートなどがある。

 帰りは行きの道とは別の道をたどり、ノンストップでソウルのロッテホテルまで。途中、再び自由の橋を渡ったところで、緊張感から解放された。

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