首都プノンペンにて


 2月15日(金)

プノンペン市街  バイキング形式の朝食をすまし、出発時間まで、周辺を散歩する。朝の通勤ラッシュかなにかで、交通量は非常に多い。20数年前にここで起こったことを想像しようとしてみるが、なかなか難しい。とくに当てもなく、行ったり来たりする。人の多さも目立つが、看板も種々雑多。日本を含む海外のメーカやらがいろいろ。特に気がついたのは、漢字の看板が結構目立つこと。なるほど、中国系が多いというのもうなずける。ときどき、バイクタクシーの運ちゃんが声をかけてくるが、いらないと手を振ると、すぐに行ってしまう。毎日、Tシャツ1枚にGパンという格好であるが、朝の今ぐらいの時間が一番すごしやすい。今日も天気が良く、暑くなりそうだ。

 ガイドが迎えに来るのは、9時である。散歩から帰ってきてもまだ時間があったので、なんとはなしに、ロビーで適当に新聞を読んでいたら、声をかけられた。待ち合わせの時間より20分ほど早い。リーさんではなく、若い女性、シンネンさん。そういえば、リーさんは昨日、ガイドは別の人と言っていたような気がする。
 このシンネンさんも、中国系とのことであるが、昨日のリーさんほど、顔立ちが中国という感じでもない。謹賀新年のシンネンとか言っている。新年さんということか?新年さん、お世辞にも日本語が上手と言えず、この日は、コミュニケーションと説明不足で苦労することになる。

   今日も、すこぶる天気の良く明るい朝であるが、プノンペン観光は暗い場所から始まる。プノンペン市内のメインストリートは、しっかり舗装されているが、ちょっと路地を入ると未舗装の場所も多いようである。トゥール・スレン元刑務所もそのような通りにある。現在のプノンペンからは想像すらできなかったが、20数年前に起こったことの痕跡がここに残されている。カンボジアの歴史を知るためには、ここを観ることは外せないであろうと思う。と同時に、ここを案内するカンボジア人ガイドの気持ちはどのようなものなのだろうとも思う。
   トゥール・スレン刑務所は、元は小学校であり、ポルポト政権が刑務所に改装した建物ある。ここで、ポルポト政権時代、1976年からの3年間で、3万人近くの人が収容され、殆どの人は、生きて出ることが出来なかった。いわゆる政治犯が収容された場所であり、多くの人がスパイの疑いで拷問され、処刑されていったのである。新年さんの説明によれば、カンボジアの人口はポルポト時代以前700万人ほどであったが、ポルポト時代に300万人が死んだという。2人か3人に1人はこの時代を生き残れなかった事になる。実際にどのくらいの人が犠牲になったかという数字も諸説あり、はっきりしないところであるが、100万人単位の人が死んでいったのは間違いない。
トゥール・スレン刑務所  比較的、朝も早いこともあるのだろうか。観光客の姿はほとんど見られない。幸いにも、今回カンボジアで一番静かに観ることが出来たのはこの場所であった。正門を入り、左奥の建物から見て回る。最初の棟は、主に幹部クラスを収容した独房室が連なっている。一部屋は六畳程の大きさで、真ん中にベッド、その上に拘束具と思われるものが置いてある。床の汚れやしみは血の跡なのだろうか?そして、赤茶けた壁には、大写しの写真が展示されている。ベトナムが解放した当時の写真らしく、拷問で死んだ人が横たわった白黒写真である。非常に生々しい。窓からの明かりで部屋は薄明るくはなっているが、空気が何かよどんだものを感じさせる。外に出ると、ほっとする。 そのような部屋が何部屋も続いている。
 次の棟に行くと、今度は、レンガでにわか作りしたような、小さな独房がたくさんならんでいる。人が1人やっと眠れるスペースがあるだけである。さらに行くと、収容者された人々の写真が一面に展示した部屋がある。おびえた表情が並んでいる。ものすごい数である。
 写真を撮るのは好きであり、旅先では、「素晴らしい写真を撮ろう」と、頭の隅っこにほんの少しは思っているのだが、そんな考えが邪魔でしょうがない時もある。写真を撮ることに労力を振り向けたくない、けれど、ここまで来たのだから写真も撮っておかなくては、という2つの思いのジレンマである。
 それにしても、夥しい写真の数である。圧倒される。ここに渦巻く思いの数々を全て見切ることなど不可能。写真の他に、拷問している様子を描いた絵(これもかなり恐い)だとか、実際の拷問器具だとかそういったものも展示している。このような展示室が続き、ふと、隣の部屋に目がいったとき、ぎょっとした。夥しい数の骸骨が見えたからだ。それは、人骨によって作られたカンボジアの地図であった。これを悪趣味と言ってしまえばそれまでだが、こういうものを作るのに困らないほど、大量の人骨が掘り出されるという現実もあるのだ。
 門の外に出ると、地雷でやられて、足を失った人達が喜捨を求めて寄ってくる。昨日、お土産をいろいろ買ったこともあり、細かいお金(1$以下価値のリエル札)は多く持っていたので、2人に500リエルずつあげる。とたんに、もう1人の、やはり地雷にやられた人がすごい勢いで走ってやってくる。さらに500リエル。1人にあげると、みなにやらなくてはならなくなる。どこでも同じ事だ。そんなに早く駆け寄ってこれる人にやらなくても?

 車はプノンペンの郊外へ。とたんに道が悪くなる。新年さん、左右の道ばたに見えるものを紹介してくれるのだが、何か今ひとつ、よく伝わらない。また、運転手さんも日本語を今習っているようで、あいさつの練習などをしている。30分ほど車で走るとキリングフィールドである。

 キリングフィールドは、トゥール・スレンに収容されていた人が処刑された場所であるという。巨大な慰霊塔があり、掘り出された遺骨が納められている。周辺には、人骨を掘り返した穴があちらこちらに空いている。慰霊塔に入ってみると、夥しい数の骸骨を目の当たりにする。「何歳〜何歳」と年齢の書かれた札がある。頭骨の大きさなどにより、年齢毎に分けてあるらしいのだ。下の方には、無数の服が山積みにされてある。骨と一緒に掘り出されたものなのだろう。「CONTRIBUTION」と書かれた箱があったので、気持ちばかりのお金を入れる。
周辺の、穴の空いた野原を散策していると、子供達が寄ってくる。何かをくれと言っているが、身なりもそれほど悪くないし、食うのに困るほど貧しそうというわけでもない。 ここでも出口付近に、地雷でやられた人が喜捨を求めている。


 プノンペン市内に戻ってくると、お昼が近い。予定より早い時間から観光を始めたこともあって、ちょっと早めの昼食となる。

 プノンペン観光でもやはり昼休みがある。ホテルで休息した後、2時にチェックアウトして、午後の観光に出かける。
王宮横  まず、王宮へ。国王は言わずとしれた、シアヌーク殿下である。この人の人生も波乱にとんだものといえるだろう。今は、体の調子もよろしくないそうで、少々心配である。「気変わり殿下」とも呼ばれ、世界を翻弄してきた人でもあるが、容姿といい、しぐさといい、憎めないものがあるのも確かである。国民的人気も高い。
   王宮は、さすがに綺麗に整備されていて、立派なものである。入って、中央にある巨大な建物は、即位殿。その名の通り、国王の即位の時に使用されるものである。最近では、もちろんシアヌーク国王再即位の際に使用された。即位殿内を含め、撮影禁止の場所が多い。
 即位殿から、さらに右奥の方に、国王の住居がある。国王がいるときは、それを示す旗が揚がっているらしい。実際に、見てみると、旗が揚がっている。
 その後、ナポレオン3世関係の建物などを観た後、シルバー・パゴダへ。王室の寺である。内部には宝石をちりばめられた、仏像が多数安置されている。途中の建物の中で、新年さんが占い師のおじさんに、占いをしてもらう。我々はその様子をしばらく見ていたわけであるが、そんなに良い結果ではなかったようだ。
「好きな人のことを占ってもらってた?」
と相棒が聞いてみても、あんまり言いたくなさそうな様子。うまくコミュニケーションをとれなくて苦労していたが、実は結構マイペースな人と分かり、なんか気が楽になった。

 国立博物館。ここは、クメール帝国時代を中心に、国宝級の展示物が多数ある。撮影禁止のため、カメラは預けなくてはならない。ここの日本語ガイドに案内してもらう。アンコール遺跡を観光してきた後に来ると良い感じである。多少なり知識がないと、つまらないかもしれない。

 飛行機の時間まで少し間があるということで、セントラルマーケットへ。とても賑やかである。Tシャツをもっと買っておけば良かったと思っていたので、買い足すことにする。ここでも1枚2$である。2枚で3.5に負けて貰った。

 空港に向かう飛行機の中で、新年さんが、日本語が下手で不案内であったことを丁寧に詫びる。そんなことないですよ、とは言ってはみたものの、説明をもっとほしいと思ったのも確か。ただ、こちらも気を使いすぎたという気もしていたので、もっと、気楽にマイペースで時間をかけて見たら良かったとも思う。まあ、また来てもいいことだし、今となってはあまり気にならない。
 車を降りて、新年さんに空港入り口まで案内して貰った後、運転手のおじさんにチップをやるべきだった、と思い、その旨を話すと
「できれば」
というので、別れ際に数$渡す。さすがに、昨日までの大きなバスとは違い、運転手との距離も近かったし、やらずにはいられないという気にもなったのだ。

 
 ホーチミン市で乗り継ぎ(今回は待ち時間とても長し)、関空に到着したのは、16日の朝6時。気温は3℃だった。


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