栂尾


 

 闇が消え去る前に目覚める。というより闇の去り際に呼び起こされる。夜明け前に起きることが身体に染み入ってきたのか。ことさらに目を開けると息を吸い込み、吐き出す勢いで上半身を起こす。そのまま立ち上がると全身を冷気が包む。足を畳に出しただけで冷たい。寒さに追いつかれる前に布団をたたんで部屋の隅に寄せる。まだ寝ている者がいる、大声で知らせる。急いで着替え、小走りに厠へ向かい、小用とともに軽く洗顔を済ませ、口を漱ぎ、手拭ももどかしく、竈へ向かう。火をいただくと、お堂へ向かう。急がないと。

 開ければ既に師の姿がある。先に起きた三名も既に座している。

 息を太く緩めると白く立ち上るのが、暗がりの中でもわかる。重心を落として小股で本尊に歩み寄ると、蝋燭を灯す。釈迦如来が灯に映えて、炎が薄く揺れるたびに、やさしく、きびしく、面持ちが変わる。いや、変わるのはこちらだ。

 廊下から足音がして、戸が開いた。各々が位置に着き、まばらな空気が沈潜する。入れ替わるように師の息遣いが空間全体を貫く。

----かんじーざいぼーさつ、ぎょうじんはんにゃーはーらーみったーじー、しょうけんごーうんかいくー、どーいっさいくーやく…

 とても一五人とは思えぬ声量の般若心経が響き渡る。この声、これでなければ始まらない。湿り気を帯びて冬は重く痛い大気を、厳かな声が圧倒していく。

 しかし、それにしても般若心経、なんでこんなに気持ち良く声が通るのか。いや、むしろ咽が渇いていて、つい声を張り上げてしまうのだ。

 薄日の下、ゆっくり境内の斜面を下りていく。山寺ならではにしても、杉木立深く、冷えて冴える透明な空気を縫って水音が微かに聞こえる。まだ凍っていないらしい。なんの用事だったか忘れて驚き、戻ろうと振り返る。ふと目には、つややかな緑の葉がクローズアップして焼き写る。厚い葉が不思議に緑を衰えさせず、旺盛な命の力を目の当たりにしてしばし佇む。そうだ、用事は、と斜面を上っていく。

***

 間に合わない気がして目が開く。頭の感触、背中の暖かさ。ふかふかの枕に、毛布。冷たい床も痛い足もなければ、緑の葉ももちろんない。小さく音をたてる空調からは、乾いて柔らかい風が下りている。クリームの壁紙に囲まれたそこは、ホテルの個室だ。むっくり上体を起こすと、カーテンの隙から朝日がやさしくにじみ、表の好天を予感させる。

 そうだ、京都宿泊の初日だった。それにしても、あの床の痛い感触、水の身体を切る冷たさ、暗いお堂、蝋燭の炎、息が立ち上り圧倒的な声。映画どころではない、自分がその場にいて経験しているような。そう、師が何も言わず待つ間の緊張、注意される方がまだいい、黙って考え、感じ取らなければならないような圧力。その圧力を跳ね返す大声での読経。境内の暗さ、一際つややかに緑を主張する葉。

 ホテルの空調で咽が渇いている。ポットから白湯を出して飲む。ぼぅっとした頭がやっと起きてきて、目前の鏡にいる自分と向き合う。ぶるりと身震いが一つ、さて今日はどこへ行こうか。

***

 上りもそうだったが、下りの風はなお冷たい。神護寺から下りている。何も冬の寒い時に山奥と思わないでもなかったが、朝食をとりつつ夢の感触が反芻されて、山に行くことだけは決めていた。比叡山か、大原か、鞍馬山か。ふいに、今までなぜか訪れてこなかった高雄のあたりを思い立った。

 神護寺は確かにすばらしかった。寒さゆえに足早に石段を上り、境内の白砂の晴れやかさ、金堂の要石のような重さ、清滝川を望む見晴らし台の展望、いずれも楽しめた。もしかして比叡山にでも赴いたほうがよかったのだろうかなどとバスで考えていたが、来てみればそんなことはまったくない。清滝川に沿って左に進む。ほとんど人がいない。

 国道に交わり、左へ進む。急にトラックが増え、歩道がはっきりせず何度か怖い思いをする。そうは言っても栂尾に向かう道は迷うことなく、ほどなく木々が折りかぶさる石段が見えてくる。

 高山寺。鳥獣戯画を保存していた寺として、受験勉強で出てきた…受験勉強。苦笑いしつつ、段数は先の神護寺よりはるかに少なく、楽だ。上りきればすぐに左へ折れ、苔むす石組みに迎えられる。杉木立の海の底を歩く。夢の記憶がやや引っかかる。

 すぐに石水院の入り口が見え、拝観する。境内は無料で、ここだけお金を取るようだ。お金を出してパンフレットを受け取り、上がって廊下を進む。その建物から渡って踏み出すと、木が急に古くなる。そこからが石水院。後鳥羽上皇の別院を移築したと言われ、お堂というより住居、簡素きわまりない。明恵上人が中興した寺とあるが、まずは子犬の彫刻が目を引く。ずいぶんとかわいらしく、そのまま真ん中の間に回ると、何度も見たことがある絵がかかっている。木の股に座禅する高僧、明恵上人樹上座禅像。記憶はあるが、明恵上人という認識を持っていなかった。確か明恵上人は、一派を興したのではなかったはずだ、だから記憶が曖昧になるか。まったくもって、受験勉強というのはどうしようもない…他に誰もいず、ついつい一人で勝手に表情を作ってから、我に返る。車の音こそするが、縁側が山の向こうを望み、風渡り、車が途切れるとただ安心する静けさがやってくる。いや、いまは昼間だ、夜はそうはいかないと周囲を見回す。これはこれで月明かりも楽しいかもしれない。

 次の間、鳥獣戯画、これも先の座像と同じく複製だという。山に来るより国立博物館に行ったほうがよかったか、そうはいってもこの落ち着きは何だろう。風に誘われて毛氈に座る。時折鳥が鳴き、境内の湿った空気とはまた異なるさわやかな風が身体を撫でていく。

 座ってからふいに時計を見ると、二五分を経過していた。足音が向こうからする。ゆっくり腰を上げると、意外に尻が冷えている。

 石水院を出ると、境内の奥に目をやる。奥に向かって山の斜面を上っていくそこは、深い杉木立のほんの一部を分けてもらって住まわせてもらう心地がする。

 石段が続き、上り始めてすぐに気づいた。緑豊かでつややかな葉。宇治茶のもとになった茶園。

 背筋に粟立ちがのぼり、軽い衝撃に足が止まる、といっても竦むのではなく、ただ止まる。

 そう、あの夢。ふいに視線を上げると、どうしても夢で歩いていた境内を思い出さずにいられない。あの用事が何だったのか、鼓動が少しく速くなる。

 冬の淡い日はここまでおりてこない。緑の葉を眺めながら石段をゆっくり上る。人など意に介さぬ姿で立つ杉の根が張り出している。応仁の乱には焼けなかったが、石水院以外の明恵上人当時の伽藍などは残っていないという。では、あの床板の痛さ、冴えた空気に響く声はどこなのか。

 石水院が以前にあった場所は、静かに開けている。そこから小さな金堂へ向かえばすぐに木々の底を伝って、山を借りている風情で申し訳なさそうに佇んでいる。釈迦如来に手を合わせ、振り返る。そうきつくは感じられない坂は、意外なくらい距離があった。斜面の左右に石段があり、上り始めるところに茶園、そして上り終えたここに、金堂。まるで彼岸と此岸。

***

 下山して、栂尾の停留所から京都市内に戻る。何か大切なことが引っかかって思い出せないようで、もどかしい。午後三時に早くも傾き始めた色を見せる冬の黄色い太陽が、腕を暖めたり遠慮したりするのは、山道に沿って車が進むせいだ。その光のちらちらと踊る様を見ながら、無理矢理思い出すのを諦めて、ぼんやり距離をとる。

 一時間ほどで京都市内、河原町の繁華街に戻ると、想像以上に寒い。というより、山で体全体が冷えているようだ。何か温かいもの、だがコーヒーは飲みたくない。緑茶の店と考えて、思いつく店は敷居が高そうで、結局ホテルに足が向いてしまう。部屋にすぐ戻るのが惜しい心持ちでゆっくり歩いていると、そこのラウンジにおうすがあることに気づいた。何となく入り、おまんじゅうのついたおうすを注文する。

 東を向いたラウンジは既に夜の準備を纏い、濃い色に変化(へんげ)しつつある。やってきたおまんじゅうを食べると、白餡が口にほくほくした余韻をひいて、おうすが流れ込んでも少し残る。甘さと緑の香りを味わううちに、急に残像が浮かぶ。

 祖母の家で生まれて初めて飲まされた抹茶、そして、床の間に生けてあった椿。椿から視線を京壁に移すと、確か茶園の写真があったのではないか。

 そうかそうか。一人で首を縦にふる。部屋へ戻り、靴の汚れを払うと、ふんだんにお湯を流して手と顔を洗う。足取りも軽く外へ出ると、西の空がゆっくり紫になっている。早めの夕食をどうしようかと迷い、その前にと、通りかかった本屋に寄る。明恵上人の本などないかと探すが、想像よりずっと少ないことに驚く。栄西、法然などの同時代人の本はいくらでも見つかるのに。しかし、ほどなく夢日記を四〇年もつけていたことなどがわかった。思い立って歴史書のコーナーに足を運んで、数少ない一冊が見つかる。

 栂尾は昔、梅尾と表記されていたこと、度賀野尾(とがのお)寺があったという記録があること、これが現在の高山寺に連なるかは記録だけではわからないと書かれていた。

 次の瞬間、呼吸が止まった。その古い寺は、賢一という名の僧侶が営んでいたという。

 自分の名と同じではないか。

 しばらくそこを繰り返して読んでから、一度本棚に戻した。あの記憶がどこに連なるのか。祖母の部屋にあった写真が夢に出てきただけなのか。だいたい、あの頃の人名で賢一って、珍しくないか。

 もう一度本を手にして、レジに歩む。

 それ以上の情報は、その本からはあまり得られそうになかった。適当に済ませた軽い夕食をそこそこに、文具店へ行く。ノートを一冊買い求めた。アロマ関係の店に行き、カモミールのティーバッグも手に入れた。今夜、どんな夢を見るか、何も見ないか。

 ふいに見上げると、上弦よりだいぶ肥えてきた月に視線があった。

 


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