朝の香り、深い眼


●その朝は完璧だった

まだドトールコーヒーのスタンドチェーン店が記憶に新しく、日本でもようやく少しはエスプレッソを飲めるようになった頃。あるいは、カフェ・ラ・ミルが喫茶店の平均価格を吊り上げてしまった頃。もしくは、バブル経済に踊るにはまだ数年早かった頃。

その朝の空は完璧だった。10月、大気から急速に湿度が引いて、風の粘り気がなくなり、落ち葉にまだ早い木々は最後の緑を泳がせて、視界からはるかに高く、雲一つない。歩くという行為自体が喜びを誘う。

青を染み込ませながら歩き、風に吹かれてやや疲れ、どこでもいいから座りたいと思うそばから、手近な喫茶店を見つけた。ガラス張り、ビルの谷間だから広々とした空は無理だが、いくらか陽光は入る。風をよけつつ外が見えるのはありがたい、幸い空いてもいるようだ。モーニングでも頼んで、新聞か本でも眺めよう。

●すいているのは

壁同様にガラス張りの扉を押して入る。入ってすぐ左手にレジ、右手にガラス張りの明るい席。一段上がった奥のほうに広がるソファー席は、やや照明を落としている。その奥に客が固まって、静かに、あえて黙々とモーニングのトーストを齧っている。息を潜めていると言うほうが正確かもしれない。ブロイラーが鶏舎で餌をついばむ様子と言ってもいいかもしれない。

そう長居のつもりもなく、ひょいと手近な明るい席に腰掛けた。忙しく立ち働く若いボーイは二人、白くプレスのきいたシャツと黒エプロンに黒パンツ。すかさずこちらへやってくるや、メニューを静かに机に置く。

「こちらでよろしいですか」 「はい」 「ご注文がお決まりでしたらお呼び…」 「モーニング、コーヒーでお願いします」 「かしこまりました」

厨房の喚起のせいか、ふいに風向きが変わり、驚いた。納豆の匂いがしてくる。あれ?

振り向いた。段差の手前に乳製品やケーキを入れた背の高いクーラーがある。その奥に隠れて、座っている客がいた。大きく広げた日本経済新聞をめくるときに、顔がやっと見える。長い髪、同様に長い髭、聖者と言えば言えるし、レゲエと言っても通じる、要するに…

おぉ、このおじさん(おじいさん?)か! 極上の席が空いているのも、息を潜めているのも…

風向きが変わった。一度気づくと、こちらに風が来なくてもやはり、匂いではない、臭いが微かに感じられる。耐えられないほど強烈ではないからまだいいが…さらりと店に入れたんだろうか。

やってきたモーニングのトースト、小さなサラダを、やはり息を潜めて食べている自分がいる。食べながら、外と内を落ち着かない気持ちで眺める。一段上がった奥に並ぶソファーは、きれいに埋まっている。

ソファーにゆったり座り、きれいなスーツを纏ったサラリーマンは例外なく、スポーツ新聞を手にする。誰かが手放すと、誰かが立ち上がって手にとる。そして、妙に熱心に読む。

振り返ったおじさんは、日経を読み終えたようで、朝日新聞を手にする。これはつまらないようで、次に毎日新聞を丹念に繰る。私もなんとなく、鞄から出した本を開く、字面を追いつつふと眺めると、今度は東京新聞を、もっと丹念に眺める。どうやらスポーツ新聞にはまったく興味がないらしい。

その眼はもっと遠くを眺め、その口は不思議に微笑んでいる。おじさん、一体何を見ているのか。

やがて私は席を立つ。いつの間にかソファーの席は空き始めている。おじさんが新聞を繰る姿が不思議に離れず、21世紀始めの今になっても思い出すことがある。今なら入れてもらえないであろうおじさん、また、オープンカフェの全盛とともになくなった喫茶店。バブルに狂う前の日本の一こまである。


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