Macが手許にない生活

1997年6月某日、Libretto50への移行を決めて、PowerBook 5300を売り払いました。

それから、Macが手許になく、850gのLib50を常に携帯する生活が始まりました。


このLib50君を使っていて思ったのは、

小さいのによく働くし、割合完成されたマシンだ

ということ。

私にとっては、画面が小さいために、文字が小さくなることが特につらくなることがありますが、様々な環境を丸ごと持って歩けるメリットが大きいと感じたわけです。

もちろん、Lib50だけではメモは無理なので、メモにはNewtonを持ち歩くことになりました。


しかーし!!
使っていて、どうにも不満を感じることもある。

その最大のものは、

CyberDogがない!

点でした。

いや、そんなの当たり前なんです。わかりきっていたんです。しかし、いざ、手許からCyberDogがなくなってみると、けっこう自分の生活に溶け込んでいたことが判明して、かなり寂しく感じられたのも事実です。

Libretto50で、電信八号やBecky!を使ったり、Netscape Navigatorを使ったりするのも、楽しい。でも、何か愛嬌のようなものが足りない。それは、チューチューマウスとか、壁紙とか、ゲームとか、そういうものではない。ましてや、ポストペットでもない。
なんというか、ソフトそのものに独特の統一されたタッチみたいなものがあって、単に便利なのではなくて、操作そのものに喜びをもたらしてほしい。そういうときに、Windows95や、その上で動くソフト群に、今一つ満足を感じられなかったのです。

これは、Windows95や、その上で動くソフト群が悪いのでなく、単に好みの問題なのです。そして、毎日使うものだけに、その好みはやたらと気になり出すのです。

また、私はNewtonを使っていますが、これは独特の「Newtonタッチ」とでもいうべき使用感覚というか、カラーがあります。それは、やはりMacのほうがしっくりくる面があります。(そりゃそうか、同じAppleなのだから。)


というわけで、やや寂しい日々が続くのでした。


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