2000年05月の猫時間通信


●2000.05.29〜31 -- ・・・

新しいマックを楽しんだり、試したり・・・本を読んだり・・・(^_^;

いつの間にか6月に・・・(^_^;;


●2000.05.21〜28 -- マシンの不調、身体の不調

21日(日)の夜、何気なく触っていたマック(PowerBook 2400 / 180)が急におかしくなる。いつもと違う。どうも尋常でない。起動しなくなってしまう。身体もだるいのになぁ。

22日(月)、午後から会社で声がどんどん出なくなる。かすれてガラガラの声。
夜に、マックを再び見る。PowerManagerのことを考えて電源を抜き、バッテリーも抜いておいたが、やはりダメな模様。

23日(火)、声はガラガラ。一応元気に動けるので、深夜まで仕事。
自宅に帰ってからまたマックをみる。これはどうも本格的にダメ。修理に出すしかない。それにしても、つい先日のメールなどを取りだせないので、えらく不便・・・

24日(水)。声はやや復調の兆しが・・・とはいってもまだかすれているんだけど。ちなみに、もうマックは無理して叩き起こさないことにした。1度だけ再起動した時の様子から、ハードディスクは大丈夫で、メモリかCPUがヘンになっている気がする。

25日(木)。今度は私が頭痛と吐き気に。昼食を皆と分かれて、うどんを食べることにする。うどんを待つ間、身体の不調で少し震えがくる。これはやばい。うどんもあまり食えない。オフィスに戻り、風邪薬と胃腸薬を飲んで凌ぎ、夕方の6時に帰宅。

26日(金)。少し吐き気は納まっている。休めないので、はってでも会社に行く。今夜の飲み会はパス。夜の8時に会社を出る(それでも8時まで仕事をしてた・・・)。

27日(土)、日本NCRのクイックガレージへ。マックを見てもらいに行く。手際よく分解する職人さんだ。ペットを医者にかけるような気分?
結局、悪いのはCPUボードとわかる。マザーボードとメモリはだいじょうぶ。結局、今内蔵している4GBハードディスクは抜いてもらい、買った時に入っていた1GBハードディスクを戻してもらって、その手数料を払う。帰り道にちょっとお店でマックの情報を集めて、そそくさと帰宅。まだ身体が大切。
家でゆっくり考えるに、今CPUに8万とか12万出すのは得策とは言えない。もうキーボードもへたってきている。ここは買い換え時だろう。

28日(日)、午後から秋葉原。PowerBook G3 / 400に、メモリを128MB追加して(合計192MBになる)、購入。ついでにT-Time 2.0を買っていなかったので買う。

で、データの移管も割合すんなり終了。いくつか気付いた点があるが、それはまた明日以降にでも。


●2000.05.20 -- 雨

なんだか、絶不調か。どうも頭の中がクリアにまとまらない。
雨がひどい。元々雨が好きではなくて、雨に濡れると不快になる傾向の強い私は、ちっともいい気分にならない。このまま梅雨に入るのは勘弁だなぁ。

やる気があまり出ず、用事を済ませて、やっと一人で少しボーッとする。今日はスイッチが切り替わらず、ちっとも満たされた感じがしない。まぁ、そういう日もある。

帰りに「脳の中の幽霊」という本を買う。昨年に出て、ずっと気になったまま買わずにいたが、おもしろそうな本もなかったので、何となく買う。中身は脳神経科学の一般書。こういうのは昔授業(がっちりやらされた・・・)でとった内容で、卒業後もたまに読んでいたのに、ここ6年程遠ざかっていたので、久しぶり。まだ読み始めたばかりだけど、しばらく楽しめそうだ。


●2000.05.19 -- 聖徳太子?

なんだかちょっと疲れる原因がわかってきた。先月、オフィスでフロアの移動を行った。そこは1フロアに入り切らない様々な部門の人達が集まるところ。

最近になって、みながそこそこ馴染み始めた。なんとなくおしゃべりをしたり、仕事上の話をしたり、というお互いのリズムやタイミングがわかってくる。このときに、不思議と誰かの話にかぶって同時に似て非なる話を始めることがある。しかも、お互いにずっと話し続ける。私のほうを向いて。
わたしゃ、聖徳太子ぢゃないよ。同時に複数の人間の話は、さすがに聞けない。でも、わざわざそうするということは、多分、ふだん私に話を聞いてもらえる実感がなくて、聞いてほしくてするんだろうな・・・

帰りに本屋でちょっと買い物。
榛野なな恵の「ピエタ」第2巻。これで完結。第1巻は病巣が事故を引き起こすまで。そして、第2巻は癒しの物語。ちょっと若くて固い台詞の連続。無理解な大人への違和感をどう克服するか、それはいつの世でも青年や乙女の大問題。そして、この物語の幸福感にさえ無縁な世の中は、どうなっていくのか。
久々に「Keyborad Magazine」を買う(音楽雑誌)。Bonnie Pinkのインタビューがあったから。実ははずかしながら、Bonnie Pinkの名前はある知人に教えてもらって初めて知った。同居人が買ってきて一緒に聞き、天才と認識。だが、個人的には歌を他の人に歌ってもらい、作家に徹してもいいかもしれない、とも思った、その時は。さらにしばらくして、アフタヌーンに連載中の「神戸在住」というマンガの第1巻が出て読み直していたら、なんとそこで登場することに気付いた。どこをどう読んでいたのか、二重に恥ずかしい・・・いずれにせよ、少し前のニュー・アルバムについて、プロデューサーのミッチェル・フレームも含めたインタビューだ。でも、この記事自体はそうたいしたことなかったというか、曲そのものより、音楽の制作過程に関するインタビューが多い。まぁ一種の業界誌だから、そういうものだとわかっちゃいるけど。最近、この手の雑誌にインスパイアされることが減っている気がしてならない。なんでだろ?


●2000.05.18 -- まずいメシ

仕事が一段楽というところで、いろいろお話が出てきて(主に人のストレスを吸収する役割)、結局帰りがえらく遅くなる。ちなみに、この日は様々な月刊誌が発売される日なのだが、本屋に寄る暇、まったくなし。

帰りに自宅のそばのam.pm.でおむすびとごぼうサラダを買う。ちょっと繊維質をとったほうがいくらかマシだろうし、という配慮。おひたしの類いのお惣菜類はもう残っていなかったしね。
ところが、帰宅してごぼうサラダを食ってみて、愕然・・・ま、まずい・・・なんだ、こりわ?
これ、おいしいと思う人、いるんだろうか?いや、世の中広いから、いるんだろうな、きっと。でも、なんでこんなに油でベタベタなのか理解に苦しむし、マヨネーズがききすぎ。おまけに、ごぼうとにんじん以外に入っている、マカロニみたいのは何?
結局、このために気持ち悪くなってしまった。

メシは、ちゃんとしたものを食べよう・・・深夜、食後に苦しむのは悲しい。


●2000.05.17 -- タートル号航海記、一応完結

疲労がたまってきた・・・まだ水曜日なんだが。

雑誌「すばる」の連載「タートル号航海記」(宮内勝典)は、一応今月でおしまいだそうだが、ホームページで活動を続けるそうだ。
この連載、面白いんだけど、最終回の今回は、ちょっと筆があちこちに広がってしまったか。無理に総括する必要もなかったと思うんだが・・・


●2000.05.16 -- モーツァルトのピアノ協奏曲

音楽の好きな人、特にクラシック音楽をよく聴く人に対して「モーツァルトのピアノ協奏曲が好きですか?」と尋ねた時の反応は、かなり違うだろう。

10年くらい前、日本で空前のモーツァルト・ブームが巻き起こった時は「神童で天才で駄作がない」くらいに言われたりしたけど、これはもちろん大袈裟。確かに音楽のフォルムが崩れる作品は書かなかったろうけど(スコアの全集などでけっこう調べた)、音楽的な実質に満ち溢れた傑作は、やはりそう多くはないだろう。あれから10年、もう皆が冷静であり、モーツァルトというだけで浮かれる人はほとんどいない。

でも、私にとっては、モーツァルトのピアノ協奏曲はちょっと特別。そして、逆に音大でピアノを正式に習った人などが、一群の作品をあまり好まない。これは昔からそういう傾向にあるように思う。

ピアニストの見せ場が少ないとか、そういう表面的な理由とは違う気がする。要するに、モーツァルトの音楽はあまりに18世紀で、19世紀の美学に酔っている人には幼稚な音楽に聞こえる。実際、モーツァルトの回顧が行われた19世紀に、眠っていたプラハ交響曲を演奏すると、評論家が「幼児の音楽だ」と評した時代もあったそうだから。

私は、18世紀の音楽は、現代とは違う美意識に基づき、違うフォルムをしていると感じている。そして、18世紀以前の音楽に慣れないと、徹底的に感じることは難しいのではないかとも感じている。それはいろいろあるが、特に現代人が辟易しそうなのが「くり返し」ではないだろうか。ソナタ形式はいつでもどこでもバカスカくり返す。
でも、これは18世紀音楽の真価だと思う。繰り返しによるおもしろさが、確かにあるのだ。モーツァルトもハイドンも、それを感じると聞こえ方が違う。

ピアノ協奏曲は、そういう私には、インマゼール(ピアノと指揮)がアニマ・エテルナと組んだものが好きです。


●2000.05.15 -- 電車で見たヘンなの

休み明け。えらく肩が凝る。夜9時に仕事を上がる。なんかちょっと気持ちが悪い。たぶん、うっ血のためだ。

電車で見たヘンなの、3つ。(最初の2つはここ数日)

満員電車、これくらいの楽しみくらいないと・・・いや、あんまり楽しくないわ。


●2000.05.14 -- リフレクソロジー/本屋

最寄り駅の近くに、リフレクソロジーの店、オープン。チラシに「男性も大歓迎!」とある。これは行かねば!というより、この手の店、ほとんど女性ばかりで、私はそういう場所はへーきなのだが、たぶん毛むくじゃらのヤローの足を出して、おねーさんが喜んでやってくれるとは思わなかったので、ちょっと遠慮していたのだ。でも、歓迎となれば、話は別。体験しようじゃないか。
静かな音楽が流れる中、サンダルに履き替えて、さらに男性はスポーツの短いパンツ(膝丈)に履き替える。それから、椅子に案内されて、フットバス。アロマは男女で違うのだという。なんだかいい気持ち。ここで軽く体調について、アンケート。
そして、片足十分ずつ、足のマッサージ。これが・・・気持ちいい・・・思わず目をつむって、寝てしまいそうになる・・・一応寝ないように頑張る・・・・・あ、もう片方の足に移る・・・・・
というわけで、20分はあっという間に経過。特に痛いことはない。50分のコースが、正式のものらしい。
終わってから、お茶を飲んでいると、急激に血行が良くなるのが自覚できる・・・つーか、これってプラシーボ?
気持ちよかったので、また受けたいとは思うが・・・これって効果のほうはいかがなもんなんですかね?そういうことは考えないほうがいいのか?

さらに、最寄り駅近くの本屋がリニューアル。増床したため、コミックと雑誌の品揃えが充実。とてもうれしい。新刊をいくつかゲット。
江口寿志の「キャラ者」1、フランス風の表紙で相変わらず遊んでるなと思いつつ読むと、奥付までフランス語。最近、女性作家でちょっとフランス入ってるのがあるけど、やるならここまでやれってか?
さそうあきら「トトの世界」3。1巻の衝撃を今一つ維持できないか。人間が人間たるものはなぜか、という世界が展開されるのかと思っていたが、ちょっと推理ものっぽくなってきた。うーん・・・面白いには面白いけど。前の「神童」全4巻のほうがよかったかな?
入江紀子「ネガとポジ」1。この人は連載では追っかけてないが、単行本では追っかけている。最近、作家として話をちゃんと作っているような印象。面白いけど、ふたごネタって、昔から映画などである・・・今後の展開次第かな?

時間がなくて、雑誌を追うことが最近は減っている。新刊コミックの充実した書店は、ほんとに大歓迎。


●2000.05.13 -- 知人の結婚パーティ

夕方より、知人の結婚パーティ。通信(パソコン通信)で知り合い、個人的な付き合いも多少ある人。新郎と以前から知り合いで、すでに昨年新婦も紹介してもらっている。

通信関係者がパーティに多数集まる。完全に一部でオフ会状態・・・おいおい、ちょっと固まりすぎてないか、もうちょっと散ろうよ・・・と思って、一人で動いていろいろな人と話もしたが、しだいに飲み込まれて、2次会ではオフ会に巻き込まれ状態。
いや、パーティ自体はあちこち盛り上がり、下品でもなく、まぁ、私も楽しかった・・・けど、ちょっと通信関係が人数的にえらく多いせいか、他の関係者や司会を放っておいて、勝手に盛り上がっていってしまう・・・通信関係といっても、今はあまり表に出て来ない人達も含めて、OB会状態といったほうがよかったのかも。それで異様に固まっていたか?!

けっこう三十代後半から四十代前半くらいがいて、仕事と家庭に時間をとられて以前のように自由に通信しにくいこと、自分のホームページ更新に追われて通常のおしゃべり通信はしにくいこと、仕事のグチ、恋愛のグチ、まぁ、様々・・・でも、しゃべってすっきりするなら、それもまたよし。
こういう仲のよいオフ会というのは、珍しいほうかもしれない。

パソコン通信でもインターネットでも、通信で知り合うことを特殊なことと思う人はまだかなりいる。通常のしがらみのない自由な場所と思って、そこが理想郷と思ってしまう人。こういう人は、近所やサークル、職場・学校の人間関係よりもよいと評価している。ほどほどならいいが、評価し過ぎて家庭や仕事を危うくしてしまうケースもある。逆に、えらく警戒して、なかなか寄り付かない人。こうなると、とりあえずオフ会には出るけど、嘘をついていてまともな関係を築けないまま、結局傷付いて去ることもある。
どんな媒体で知り合っても、そこにいるのは人間でしかない。もちろん、どんな人間かは簡単には判断がつかないから、簡単に本名や住所まで教えないことは前提ではあるが、徐々にきちんと相手を知り合う過程に移行すれば、相手は人間でしかないことがよくわかるはず。

で、ま、それはおいといて。

帰りにその中のヤローが、パーティ会場の近くに泊まるので、終電までコーヒーをつきあった。こちらも、中年男の悩み・・・私も悩みはあるけどさ、みんなそれぞれ悩んでるね〜。
お互い、がんばりましょーや!


●2000.05.12 -- プレッシャー

通常に仕事をし、通常に帰る。日曜出勤の人がいる。私は自分の分は終わっている。毎週、必ずこういう人がいる。そういう体勢自体について、考える。

いつも寄る喫茶店で、少し年上のクリエイターたちと話をしていて、出てきた話。
アニメ映画監督の宮崎駿は、最近20代のスタッフを集めて映画を作っているという。そして、その様子をテレビのドキュメントとして放映していたそうな。できる子、できない子、多数だが、とにかく偏執狂的なチェックの厳しさで、そこそこ描ける子でも2秒を作るのに3日、だめな子はもう1週間悩んでもできない。
そのチェックの厳しさは、生活のあらゆるものをアニメに注ぎ込み、めちゃくちゃなプレッシャーに耐えてこそ出てくるもの、そして、宮崎駿自身がそう思っているからこそ、ああいうことになるのだろうな、という話。
そういえば・・・これはプログラマーの世界でもよく出てくる話というか、なにかものを作る世界ではよく出てくる話だ。
そうやってプレッシャーを与えて何かを引き出す、そういうやり方だだけではない、でも、大将の監督がそういう以上は、そこにあう人間しかいられないだろう。といった話。

そして、そのできない子は、ガツガツとモノを食らうシーンを描いていて、「お前自身がガツガツ食ってみろ」と言われている。その子は絵自体はそこそこうまく、平凡なイラストレータくらいならやっていけそうな腕だという。
「宮崎アニメの動きって、現実にはあり得ない、でも、独特の説得力のある動きじゃない?」
「そうですよね、コナンでもルパン3世でも、ナウシカでもなんでもみんなそう」
「そういうのって、情緒の表現にはぴったりだからさ、入れ込んで、それしかない、というプレッシャーのもとじゃないと、出て来ない表現なんだ」
「うん、確かにそう」
「でもさ、表現って、そういうものばかりじゃない。他のやり方もあるんだよね。でも、あの子はそれが好きでこの世界に入った。つらいだろうねぇ」

いろいろ考える話である。


●2000.05.11 -- 自分の時間

仕事が一段楽したし、あまりに肩から腰にかけて凝っているしで、早々と仕事を打ち切って、マッサージ60分をうけてきた。
いや、予想より圧倒的に凝っていた。驚き。肩甲骨の裏側、太もも裏側の靱帯なんか、すごかった、というより、ひどかった。自分の身体ではないみたいだ。

久々に早く出たので、天ぷらなどを食する。ちょっと値がはるけど、たまにはこれくらいは・・・まともな飯を平日に食べるのは何日ぶりか。こんなペースだとまたいつか、身体を壊すな。自分なりにとれる対策を少し考えよう。

夜の9時過ぎに自宅周辺に到着したので、静かでコーヒーのおいしい喫茶店で考え事をしながら和む。昨日のグチを解消している状態だ。
雑誌「新潮」に連載されている立花隆の東大講議録が面白くて、こういう時間に読む。きちんと読み始めたのは昨年末くらいからなのだが、ここ数カ月、20世紀を形成した哲学思想の核心に触れている。ホワイトヘッドの話が続いている。大学時代、図書館で読み耽ったことが、急に鮮やかに立ち現れる。その感触までもが、ありありと思い出される。経験は深化した。でも、基本はあまり変わっていないように思う。あのころにやっておいたよかったこともたくさんあるが、もっとやっておけばよかったこともたくさんある。それはちょっと悔しいことではある。

帰りに近所の野良猫に挨拶。今日は猫にはいい日和なのか。みんな気持ちよさそうだ。


●2000.05.10 -- 自分の時間

会社を出るのが午後11時近くになり、しかもそれまで何も食べていないと、「もう夜も遅いし、ちょっとだけ食べよう」のつもりが、反動でかえって食べてしまう。ちょっと考えてしまう。
今日のはちょっとグチ。

ところで、遅くなって、自分と対話する時間(つまりこういう日記の時間もその一環になる)も必要だし、家族との対話もある。メールなどは友人との対話に一役かっている。そんなこんなで少し和んでからシャワーを浴びて寝る、となると、結局寝る時間が遅くなる。日によっては、このどれかを省略して、日記の更新はあとでまとめて、となる。

仕事が趣味、会社にいるのが1日の大半であるのが当然、家には寝に帰るだけのはず、という生活で幸せなら、家で何もできなくともいいだろう。
世の中そういう人ばかりではない。というより、どこかでなんらかの和みがないと、緊張の糸が切れてしまうのではないか。でも、仕事以外に生活がない人も多い。自分の意志ではなく、仕方なく、という人もいるはずだ。

最近、リストラにより、業務をできる人を残して、単価を少々上げるくらいにして、仕事ばかり増やす傾向にあったため、こういう人は増えているはずだ。リストラされなかった人は、やたらと忙しい・・・
経営的には「安くてよい労働力、この長い不況にはまことに結構」だろう。もちろん、雇われている側から見ても、仕事そのものは長時間関わるものだけに重要だ。だが、仕事だけが生活ではない。仕事は生活を経済的に支える重要なファクターだが、それ以外の何かがなければ、仕事と別の間での往復運動がなければ、腐ってしまう。

私は腐らないために、自分の時間、まぁ猫時間?がほしい。それって、贅沢なのかね。この件は書き足りないが、何を書いてもグチにしかならないような気がするので、ここまで。
せめて、自律神経失調症を再発しないように。


ところで、今頃ではあるが、京都の寂光院が焼けた。あの優しい建物が焼けたのか。さみしいな。


●2000.05.09 -- 気持ちのよくない外出

東京はなんだか暖かい、というより少し暑い。ここ数日、そう。就業時間中に暇をとって一時外出。風が吹くと気持ちいい。このままどこかへ歩いて行きたいが、行く先は決まっている。
歯医者だ。

実は昨年末くらいからちょっと歯が鈍く痛むな、と思っていたが、ひどくならないために少し放っておいたら、ついに春にやばいことに気付いて、歯医者へ。
相当ひどいことになっていた。麻酔をかけてガリガリ掘る。そして、薬をおいて、治り具合を見ているのだが、やや遅いのだそうだ。抜歯も覚悟してください、と先週言われたのだが、今週は意外にきれいだそうで、もうちょっと様子を見ましょう、とのこと。
歯医者で座っていると、いつもかなり緊張していることに、終わってから気付く。身体に力が入った感触が残っている。呼吸も浅めになる。ここまで放っておいた自分が悪いことも重々承知はしているし、ここまでひどいのも十数年ぶりだ。

親知らずのすぐ隣の歯がやられているのだが、親知らずが斜に生えている。で、普通は虫歯を直して、親知らずを抜くのがよいのに、どちらも具合がよくない。判断が難しいらしい。まぁ、歯はブロックのように差し換えたり並べ換えたりできないからねぇ。


●2000.05.08 -- スタート

G.W.があけると、まず東京の地下鉄東西線はダイヤの大幅な乱れから始まった。時間に余裕を持って出社していたからまだいいが、困ったのは混雑。連休明けで、みんなお土産みたいな荷物を持っているせいか、人一人の占有空間が大きいのだ。

ところで、月曜からきりもよくスタートしたけど、毎月8日はちょろちょろと雑誌(月刊誌)が出る日でもある。キリよく仕事が早く終わればいいと思っていたが、甘かった。やはり午後10時半を過ぎる。
帰りに本屋に寄って、やめようかと思いつつYOUNG YOUを買う。今月は西村しのぶはなし。来月に掲載。ぜひ落ちないで載っていただきたい!

前日の日曜日、朝日新聞の日曜版には日記のことが出ていた。平安朝は日記文学のビッグバン、だそうだ。いわば、日本人の文学のスタートか。
文学に限らず、マンガだって日記風の嵐だ。私の好きな西原理恵子もそのような作品がいくつもあるし、桜玉吉などは日記しか書いていない。
想像力と創造力を駆使して独自の世界をフィクションとして構築しなければならず、事実に基づいた取材で作品ができるなんてどうかしている、そんな作品を褒めそやすなんて下劣、と飲み会で若いころに話題になった。でも、当時でも今でも、やっぱり面白いものは面白い。芸になっていれば、表現になっていれば、元ネタも何も関係ない、というのは言い過ぎだが、少なくとも面白いものは面白い。完全なフィクションかどうかは、スタート地点の条件ではないだろう。


●2000.05.07 -- スターバックス

完全に平常の日曜日。

ところで、なんで池袋(西武の無印良品側)のスターバックスは、いつもあんなに混雑しているの?若い女性が入り口で行列している。
スターバックスは嫌いじゃない。というか、アメリカ発の飲食系チェーン店はあまり好きになれない私としては、珍しく腹も立たずに入れる店だ。人気のキャラメル・マキアートよりはカフェ・ラッテが好きですが。

でも、たとえば新宿の伊勢丹に近いスターバックスなどは行列ということもなく、そこそこ気持ちよく入れる。池袋は入るのがためらわれるくらい。
で、結局入っていない。立教大学側はそうでもないのかな。

若い子は喫茶店には入らないけど、カフェには入るらしい。カフェについては先月の雑誌「東京人」に、鹿島茂氏が蘊蓄を傾けているし、あれに対抗する気はないけど、解放感があるカフェがやっと増えてきたのは確かだ。親について若いころから海外旅行をする今の子たちは、日本の喫茶店よりカフェのほうが快適に感じるのかもしれない。私だって、好き。
でも、もうちょっといろんな店に散らばってくれても・・・

ちなみに、スターバックスで、Palm(米国の電子手帳、カスタマイズが容易)を使って仕事をしている人を、新宿で見たことがある。気持ちはわかる。
ついでに、どっかで電脳仕事をちょろりとやっても居心地の悪くならない、コーヒーのおいしい喫茶店やカフェがないもんでしょうかね。


●2000.05.06 -- もう平日運転?

街に出ると、あまりに通常の土日なので、ちょっと驚く。G.W.はもう終わりで、平常運転らしい。

神保町に赴く。昔は週に最低1度は訪れていたこの街も、最近はこういう機会を作らないと来られなくなりつつある。
たまにゆっくりできるので、楽器屋を冷やかしたり、本屋をゆっくり回ったりした。古本屋も通常土曜日の営業状態である。
この街の喜びは喫茶店だと思う。一人で入ってもおかしくない店がたくさんある。コーヒーを飲みながら、買った本やら、持って行った本やらを読む。人と一緒にいるのも楽しいが、こうして一人になる時間もないと、窒息してしまう。

神保町で食事をしようと思うが、店のほとんどが開いていないことで、やはりまだG.W.であることに改めて知る。いや、チェーン店などはかなり開いているが、入りたい店は開いていないのだ。
懐かしくいもやの天丼を食する。驚くほど空いている。そのためか、いつもよりご飯が固い。おひつに移してから少し経っているのだろうか。相変わらず、ご飯を残さないと気持ち割り引きしてくれる。


●2000.05.05 -- アンディ・ウォーホル展

渋谷はBunkamuraのアンディ・ウォーホル展を見に行く。実は、きちんと生で見るのは初めてだし、音楽評論はよく読む癖に、美術評論はあまり読まない。彼がどういう評価を受けているかはまったく知らない。

個人的には彼の絵は、印刷で眺めてきた限りでは好きではなかった。だが、実物を見ると印象がだいぶ変わった。善し悪しというより、印刷ではまったく確認しにくかった「何を見ていたのか」が露になってきたからだ。
写真からのサンプリングに対して、線や色がのる。そこに出てくる味が、ひどく効果的なのだ。ミッキーマウスの絵に対して、すっとひかれた緑の線。そこから抽出される彼の構図の意外なまでの抽象性。あぁ、彼は20世紀の抽象性をやはり背負っている画家なんだとわかる。

私は大事なものを見落としていたのだ、と今頃になって思い知るばかさ加減。例のマリリン・モンローを20回刷った代表作などは、視覚のブレというか、何度見て決して同じには見えないもの、という当たり前の風景に気付いて面白い。
その一方で、やはり彼の作品は好きにはなれないものだった。でも、これは好き嫌いなのだから仕方ない、としか言いようがない。

ちなみに、白人(やはりアメリカ人?)がたくさん見に来ていた。日本でウォーホルが見られる、と押し掛けているのかな?


●2000.05.04 -- 村上春樹の連作集

G.W.という割には皆さんあまり浮かれていないようだ。意外に街が静か。それとも、あちこち観光地や海外へ出かけて行ったのだろうか。

少し本を読みたい気もするが、いざ本屋へ赴くと今一つ買う気がなくてやめてしまう。積んだままになっていた村上春樹の連作集「神の子どもたちはみな踊る」を読了。
すでに雑誌「新潮」の連載で、連作そのものは読んでいた。それですぐに読まなかったのだが、最後の1作だけは単行本初出のものだ。

なかなか面白かった・・・が、私個人は最後の1作は蛇足に感じた。せっかく、連作で現在の空気を描いたのだ。それで終わってもよかったのではないか。(作者の意図がそこにはないだろうことはわかっていても、なおいいたくなる。)
連作は、関西の大地震をニュースでは知っているが、直接被害を受けなかった人達のお話だ。小説ではあるが、ほとんど「現代の寓話」のような描き方をされている。リアルを追わず、ぽつぽつとした語り口で、投げ出すような描写が結果的に、現代を照射する態度は、むしろ村上ワールドそのもの。
だが、最後の1作だけは、その村上ワールドからの離陸を試みる。あちこちで語られているように、これはたぶんに自伝的に見える。もちろん、どこまでが本当かは問題ではない。ラストの括り方が問題。私は村上ワールドでないからという理由ではなく、彼が新たに指向しようとしているものは、決して彼と相容れないのではないか、繕ったようなその文章に違和感を覚えたという点から、この1作を受け入れられないでいる。作者は実はどういう方向へ行こうかは決めているのだが、ほのめかす方向で書いて様子を伺っているのか?それとも、まだ何もきめられないまま、決意だけをさしだしているのか?

その一方で、彼は自分のセンサーと知性を総動員して、誠実に書こうとしている、そのことも確かに感じ取ることはできた。「ねじまき鳥クロニクル」以後で、もっともきちんと楽しんで読めた、というより、村上春樹に対して持っていた私の「どうしても好きになれない」という偏見を見直すことができた。
この作品は本気ならば、日記ではなく、別項を立てて論ずるに足るものかもしれない。

ところで、私は第1作に出てくる「ちりんちりん」は、やっぱり造り過ぎだと思うよ。


●2000.05.03 -- 渋谷

とりあえず、ここ数カ月のひどい昼食事情を返上するために、近所のビストロのおいしい昼食をいただく。実際、私の通っている会社の周辺にはロクな食べ物屋がない。温野菜を食べたい私は、ここでやっと一息ついた。
いや、本来は自分で作るべきだというのはわかるが、前日遅くまで仕事をしていて、冷蔵庫が空っぽだったのだ。

夜に、高校時代の友人が職場の京都から帰っているので、渋谷で飲む。以前はよく渋谷で夜明かししたもんだが、そのころにはセンター街のあちこちに若い連中が座り込んでいた(だいぶ昔の話だよね)。ある時期から急速に見かけなくなったけど。
友人がワインに最近凝っているのでつきあってちょっとなめてみる(私は酒はダメ)。驚く程よい香りに驚く。芳香。ちょっと口に含むと、華やかで濃厚な香りが後味に残る。一緒に食べている料理が引き立つこと。
ちなみに、だいぶ前にできた、TSUTAYAの入っているビルのスターバックスにも行く。おじさん、スターバックスに行く・・・って、私はよく行くのだが、ここは初めて。入って驚いたのは、外から見た感じと違って、中は狭いこと。解放感があるので、夜遅くでも人で一杯。友人はスターバックス自体が初めてで、キャップ付きのコーヒーをうまく飲めず、はずして飲んでいた。
夜は夕立ちのせいか、ひどく冷えた。あちこちで半袖やノースリーブの子がぶるぶる震えていた。

渋谷は2年程遠ざかっていたが、渋谷で2年、というのは浦島太郎である。
新宿の再開発が進んでから一時ひどく人が減った時期があったが、また少し戻ってきたか。チーマーなどの出現する少し前、若者が大量にセンター街に座り込んで、あちこちで声を掛け合っていた頃の人口密度はすごかった。その後、あんなひどい状態(サラリーマンらしい連中がよくおどされたりしたし、山手線で人が脅されたりしていた・・・それでも出入りしていたが)になると思っていなかったけど、チーマー以後の荒れ方もそれ以上にひどかった。
今はどうか・・・今は日本の街全体が荒れていて、渋谷だけがどうこう言えるような状態ではないように思う。


●2000.05.02 -- どうやらG.W.

に突入できそうだ・・・危うく仕事で埋まるところだと思った。

会社の帰りに信号を待っていたら、向こうに猫が座っている。ちょっとデブな、白地に黒い斑点のある子。信号が青になり、人々が渡りはじめると、まるでその意味がきちんとわかっているように腰を上げて、ゆったりと歩む。
すれ違い様によくよく猫を見る。全く迷いのない、静かな渡りっぷり(?)。そして、渡り終えると振り向き、今まで自分が歩んできた様子を確認してから、またおもむろに前を向いて歩き出す。
冗談ではなく、そういう歩みだった。
夜の10時半。それほど車の多くはない、しかし、信号はしっかりと待たねばならない街での出来事。


まったく何も予定を立てずにG.W.に入った。帰りにPHSに着信があり、かけてみると通話中。仕方なく、電車で移動して、乗り換えの時に再び電話。今度は出た。
高校時代の旧友、しかも、京都から東京に戻ってきていた。久々に飲もうと言う。
二つ返事で承諾した。

よほど京都へ行こうかと思っていた。しかし、予定が立たずに諦めた。そうしたら、向こうから京都が歩み寄ってきた。
とりあえずの、愉しみができた。


●2000.05.01 -- 更新再開が日記なの?

しばらく放っておいたホームページを、急に更新してみることにした。
現実的に仕事が長時間に及ぶし、ふだん会う人を放っておいてまで更新するほど積極的になれず(現実として、仕事が深夜に及び、その上家族との会話や友人との付き合いも入れれば、なかなか更新のための時間はとれない・・・ネタはあっても書く時間がないとか、書く時間が中途半端だとネタも不消化に終わるとか、あまりいいことがない)、しばらく静かにしていた。こちらのページを更新するのは無理でも、会社で思い付いたことをちょろちょろ書く程度のことはできたし、一応会社のページからこちらへのリンクは貼ってあった(でも、たいしたことはできなかったが)。会社を移ってからはそれもできない。移籍した会社は業務時間中にそんなことをする余裕があるほど悠長な会社ではなかったからだ。もっとも、あんまり会社でそういうことばっかりしているのもどうかと思う。少なくとも仕事してるわけだし。

そういう場合、つまり、テーマをある程度のボリュームまでまとめる時間もなく、書きたいことに集中することも難しい場合。
やはり、日記スタイルなのだ・・・情けないことに。
これが、日本で異様に日記が多い理由なのだろう。

では、海外ではどうなのか。日記は少なく、特定のテーマを取り扱うページが多い。
理由の一つは、日本人は割合長時間労働型の人々が相変わらず多く、長時間労働でない人々はそれなりに忙しく遊んだり学んだりしている人々であるため、細切れ時間を日記に当てることが多いこと。

でも、それだけではないはずだ。日本人は粘り強く成果を蓄える人が少ないのだろうか。思いつきで「そうに違いない」と結論を出すことはできない。ただ、ほんとなら1日10分何かを生み出し、それを継続して週に1度更新をかけ、ということをくり返せば、きちんと成果になっていくのだ、きっと。それをやっているすばらしい日本人も、もちろんたくさんいる。ただ、まとめる時間をとるより、日記で列ねていくスタイルが好きなのではないか、みんな。ラクだしね。

このラクさを、私もとりあえず選んでしまった。でも、更新しないで放っておくよりはいい、と思い直している。というより、反省している。
リハビリしながら、改めてリニューアルしていきたい。



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