• [種別]寺院
  • [名称]広隆寺
  • [宗派]真言宗
  • [地域]金閣寺と嵐山の間、中間点あたりに位置する。
  • [特徴]603年、推古朝の創建。豪族、秦河勝が聖徳太子のスポンサーとなって建てたと伝わる。現在の場所は平安京遷都以後。国宝第一号、弥勒菩薩半跏思惟像はあまりにも有名。
  • [拝観料]2002年、境内のみは無料。霊宝殿700円。
  • [+α]他への展開が少ないが、嵐山へ至る途中や、御室を見たついでなら、ぜひ訪れておくべき。国宝第一号は伊達じゃありません。他の仏像も同様。

概略

西暦の603年、日本では推古11年、聖徳太子が仏像を祀らせるために秦河勝に建立させたと伝えられています。秦氏は渡来系の豪族であり、当時のハイテクや最新文化に通じていたということでしょう。創建当時は蜂岡寺として違うところにあったと縁起は伝えますが、その正確な位置はわかっていないともいいます。平安京遷都とともに現在の位置へ移り、以降火災に見舞われつつも仏像は焼けずに残り、現在に伝えられています。

国宝第一号と名高い「弥勒菩薩半跏思惟像」を祀るお寺で、高山寺とともに有名な仏教美術を残してきました。泣き弥勒と呼ばれるもう一つの弥勒菩薩像、巨大な不空羂策観音像など、火災に遭いながらよくこれだけ残してきたという数の仏像を拝むことができます。

手ごろで見やすい

このお寺は大仰さが感じられません。確かに門があって阿吽の像が睨みをきかせていますが、その奥には塔も見えません。境内はきわめて静か。子供を遊ばせる母親、ゆったり通り過ぎるご老人、穏やかに寛ぐ鳩。仏教の大伽藍様式を持たず、太子殿、講堂、霊宝殿の三つが佇んでいます。

奥の霊宝殿拝観のみ、有料。仏像はここに一同にそろっています。先に触れた国宝第一号である弥勒菩薩半跏思惟像と、弥勒菩薩座像(通称、泣き弥勒)が建物奥に安置され、それと向かい合うように巨大な三体の観音像が並びます(いちばん大きな不空羂策観音像は3メートルを超え、十手観音坐像、十一面千手観音も2メートル超)。そして、入ってすぐの十二神将や聖徳太子十六歳の像、出口に近い吉祥天女像など、天平から平安、鎌倉までの仏教美術を建物内で一覧できます。

アルカイック・スマイルの見本として世界的に有名な弥勒菩薩半跏思惟像は、やはりここの白眉。百済伝来のこの像はあまり近くまで寄れませんが、その微笑は遠目からでも澄み切って、人の持つ感情とは別の心の動きを思わせます。リアルでないがゆえに驚くほど優雅な座り姿、絶妙な指のバランス、吸い寄せられるように目がいったまま離れなくなります。また、何度訪れて、何度見ても飽きることがありません。むしろ見るたびにこちらの心の有り様が把握される心持ち。それはまさに言葉本来の意味での「古典美」でしょう。

向き合う巨大な観音像三体の放つオーラの大きさは、穏やかであるにも関わらず人の気ではない強さが空間を支配しています。人の気配の少ない時に見れば怖いくらいです。密教美術の粋である十二神将、四天王の憤怒表現も同様で、古代の日本をフォーマットした人々が見出した、人に近くあって人ではないものの力を受け継いだ像が立ち並んでいます。一つのお寺でこれだけの像を味わえる、すてきな場です。

見終えて霊宝殿から出る時は清々しく、それを待っていたように穏やかな境内から気持ち良い風が吹いてきます。規模が大きくないのに見ごたえは十分、しかも実に和やかで身近な感じもある。こんなお寺は滅多にないでしょう。

なお、この霊宝殿が現在の建物になる前に、訪れたことがあります。その頃は、弥勒菩薩半跏思惟像も今ほど人と距離がなく、波動を肌で感じるような心地がしたものです。もちろん現在のほうが保存方法諸々を考えれば安全ではあるのでしょうが、私が思い出すのは実は、改築以前のお姿であることが多いのです。

季節の公開

広隆寺には法隆寺の夢殿に似た八角堂、桂宮院本堂もあります(国宝)。こちらは公開時期が決まっており、4・5月と10・11月の日曜祝日のみの公開です。

公開とはいえ、奈良の正倉院を遠くから見ることができるのと同様、お堂の周囲に巡らせた柵の近くまで行けるだけです。