空気・水・光・土地

●なんで寺社仏閣をまわるんだろう

本来の京都街ネタとは違うけど、京都観光篇ページで出てくる寺社仏閣をまわるのはなぜなんだろうという話。

もちろん、楽しいから、おもしろいから、というのが理由である。しかし、別にリゾート地に行って遊ぶのとも違うし、リゾートで身体を動かしたり、ゆったり温泉につかるのと違うから、それが「楽しい」と言われてピンとこない人々もいるだろう。見に行くこと自体よりも、誰それと一緒にまわって、あの時こんな話をした、ということが一番の思い出になる人々もいるが、私の場合、一人でまわってもじゅうぶん楽しい。

断っておくが、私は別に信仰上の理由があってまわるわけではない。それなら、観光篇ページでの触れ方、スタンスも変わってくる。また、よくある歴史への興味が深くて、というのとも違う。もちろん歴史上の話題に興味はあるが、それを実地で確認してさらに極めたいわけではない。

じゃぁ、なんでか。

●土地の気

仏教寺院には美しい庭が作り込まれていたり、堂宇が素晴らしいことが多々ある。また所蔵の美術品がまさに眼福となる。もちろん、観る喜びはたっぷりあるし、それは大いに楽しい。

でも、いちばん大きな楽しさは、その土地の気を浴びることなのだと思う。京都と一口に言うが、各地域ごとに起伏や水や空気や光が違う。こうした違いは、神社や仏閣、また大きな邸宅の造りそのものに直結するものだ。そして、多くの神社仏閣はよい土地を保存するかのように建っていることが多い。

清水、金閣・銀閣だけではない。嵯峨野の大覚寺、御室の仁和寺、祇園の八坂神社、嵐山の天龍寺、下鴨神社と糺ノ森などなど。また、比叡山に代表される東山、独特の地形が面白い鞍馬山と貴船などもそうだ。こうした場所は、それぞれの場所特有の湿度や匂い、そして空気感や光の具合がある。嵐山の適度な湿度と乾燥は、京都五山随一の天龍寺に欠かせないだろうし、またあの近辺のもっともすばらしい土地のポイントに、天龍寺は建っている。多くの寺社はこうしたものだ。

そして、こういう話題になれば、いまなら風水という言葉が連想されてくる。京都が四神相応の地であるために遷都の対象となったとは最近は有名だが、それまでの平城京や藤原京など代々の遷都も同様の理由であり、格段珍しかったわけではない。それに、風水が近年注目される基になったのは1980年代に人文地理学で論文や研究書が発表されてきた(人文書院が最初、熱心だった)からであって、占いとしてではなかった(占いの本で「風水」を盛んに語るようになったのは1990年代に入ってから)。そもそも風水は地理風水といい、家の吉凶よりも、都市造営のあり方を扱うための、古代の自然科学だったようだ。選地と造作のための術としての地理風水は朝廷の中にあって民間にはあまり出ていかなかったと推測されるが、よい家を建てる考え方の要と似ていたはずで、多くの寺社もたいていよい場所に建っている。

気持ちの良い空気の流れる土地に行き、その空気を吸い、光を見、そして造営された伽藍や庭を観る。場合によっては、怖かったり、おや?と妙な気分になることもないではないが、それはそれでまた別のところをまわって中和することも出来る。日常を離れて様々な空気に触れ、それがとてもよい気であれば細胞の隅々が喜ぶ、これはやはり楽しい。

考えてみれば、とてもぜいたくなことかもしれない。そして、京都は街全体がこのような造りになっているところがあって、神社仏閣以外にも面白いことをいろいろ感じる。五感プラスアルファで感じて歩くこと、そのために出来るだけ徒歩で感じながら移動すること、それ自体が楽しい。そして、時とともにそのポイントは少しずつ移る。街も変わるし、私も変化するから。私が京都をまわる、しかも何度でも楽しくまわるのは、実はこれだ。

観光篇では、歴史資料的な内容よりも、観た印象に重きを置いている。それはやはり、感じて歩く旅だからだ。数年を経て、また内容を書き換えることもあるだろう。どう変化していくかが、私自身も楽しみだったりしている。

ただ、土地の気に関しては、昨年(2002年)に訪れた奈良に、私は深い感銘を受けた。あちらのほうがスケールが大きく、エナジーも大きいのだ。ただ、都でなくなったために、それが残されたのかもしれないとも思う。今後、機会があれば奈良のことにも触れてみたい。


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