勧進帳という便り

●弥次喜多の京都

いま弥次喜多と言えば、しりあがり寿の快作・怪作コミック「やじきた in DEEP」(コミックビームにて連載終了、単行本はエンターブレイン社、ちなみに手塚治虫漫画文化賞受賞)だろうか。いや、あんな人間の深層(深層心理ではない)に踏み込むような作品、よほどの物好きでなけりゃ読まないか。もともとの十返舎一九「弥次喜多珍道中」のほうは、お伊勢参りをする珍道中の面白さが発展して(というより江戸に向かう船に乗ったつもりが京に行き着いて、いかにも弥次喜多らしい)、ついでに京都まで行っている。三十三間堂や清水寺を訪れて、清水の舞台や音羽の滝をあれやこれや言いつつ見物するのも有名な話。

江戸時代、お伊勢参りは庶民にも許されていた「ヨソのクニへの訪問」だったし、そのために会員で構成される講でお金を貯めて、代表者が行くものだった。だから、行ってきた人は皆に土産物を買って帰った。代表者が皆のお金で行くのだから、皆に何かあやかりものを買って帰るのだ(もちろん単独で行けるブルジョワ商人もいたわけだが)。このあたりから現代にも通じる観光の感覚が形成されていったといった話は、江戸文化や観光の歴史に触れる書物にもよく出てくる。

そして、豊かな商人達の中には仏門を重視して勧進することがしばしばあったこともまた当然。もっとも、江戸っ子である私は戦後生まれで、実感をもつこともあまりないが。

●嵯峨野、江戸、今

ところで皆さん、嵯峨野を回る時はどうされるだろうか。

よくあるのは、嵐山にまずたどり着き(あるいはそのあたりで宿泊し)、レンタサイクルを申し込むと、天龍寺から始まって北へ向かう。竹の道を抜け、常寂光寺、二尊院を見るか、むしろ途中で買い物したりお茶をしたりが楽しいか。滝口寺と祇王寺に平家物語のあとを聞く人は、意外に少なくなっているようだ。時間があれば化野念仏寺も見るけど、大覚寺へ行く前に寂聴先生の直指庵に行ってみたい人もいるか。食べ道楽なら森嘉の豆腐も欲張るか、あれは買うなら朝一、むしろ湯豆腐の店で食べたほうが気楽、云々・・・

私はむしろ、先に嵯峨野から少し離れた大覚寺にたどり着くのが好きだ。門跡である大覚寺の優美さは朝のほうが映える。夕方の広大な池も捨てがたいけど、境内や調度が美しく見える光をとって、やはり大覚寺は朝。

そこから少し南に下ると、嵯峨野釈迦堂と呼ばれる清涼寺がある。このお寺の前にたどり着くと、売り切れる前に豆腐を買おうと人の群れがあって、それが森嘉。つまり、朝一番に大覚寺にたどり着いて回れば、こういう時間になるのだが、ここ数年訪れていないので、今はどうなのか。

そのまま清涼寺に入れば、名の通り人も少なく清涼な空気。仏像の胎内から、布製の五臓六腑が見つかったことも有名で、展示されている。展示物を一つ一つ興味深く見ていると、勧進帳まである。達筆な筆で書かれたら、古文書の学習でもしなければ読めないのだが、頑張れば読める程度の文字で書いてある。読むと、浅草の商人が何人も勧進している。江戸から高度経済成長前まで浅草は有数の繁華街だったから、もちろん成功した商人の多くは浅草あたりに居を構えていた。

正確な年月日が記憶にないのは残念だが、いずれにせよ、弥次喜多のような話があったということは、今のように皆が行くのは無理でも、行ける庶民も出てきたはずであり、お伊勢参りも済ませた商人、あるいは篤心家で特に仏門に関心を寄せていた商人には、京の都のほうがありがたかったかもしれない。それも、すでに弥次喜多など読本で有名になったお寺よりも、お釈迦様ご本人をご本尊にする、洛外の静かなお寺、それに心動かされる人々・・・

いや、もうこのあたりは私の想像だ。ただ、あの勧進帳を見たときに、そんな空想が吹き出すのは止められなかった。秘仏ご開帳を大きな収入源として成立していた寺は江戸期、すでに数多い。そのための宣伝などもあったくらいだ。いや、本気で信仰の上の勧進だったのかもしれない。それ以前に、勧進した人々もまさか後世の人に見られて、しかも想像までされるとは思いもよらなかったろう。

江戸という街、京という街を一瞬、相互に眺める。江戸も今もたいして変わらんな、などと一人で勝手に時空を超えたつもりになって、少し赤面して離れると、少し黴臭い風が夏日を和らげるように腕をすり抜ける。観光写真のように美しいお寺も悪くないけど、こういう瞬間は忘れられない。


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