京都旅行2001年春

八坂神社見学記

 

●今回の旅の目的

さて、本題。短期間(2泊3日・・・でも、これくらいって普通か?)の旅は、実は八坂神社を見学するのが目的だったりする。

昨年の夏、祇園祭の祭り終いである御輿洗いに出会い、また、芽の輪くぐりを見た同居人は、空気が気に入ったこともあって、八坂神社の本殿建て替えに寄付をした。
すると、折りに触れて案内が来るようになった。そして、春に本殿建て替えに関する行事が行われるとある。それが4月15日というので、ここに焦点を定めて日程を組んだ。

で、よく読まなかった我々は、前日の4月14日、とりあえず夕方に参拝をするために八坂神社に向かった。様子を一度見ておきたかったのだ。
しかし、到着すると、どうも様子が違う。というのは「本殿御遷宮祈願祭」と大書きされている。本殿はまだ幌をかぶったままだ。よく見ると、本殿完成予定は平成15年4月、とある。
そう、完全な勘違いである。G.W.にある様々な祝祭奉納の日程は、来年のことだった。まぁ、でも、滅多に見られないものを見学できるだろう、宮司の講演もあるというし・・・(ちなみに、当日わかったが、こういう勘違いを少なくとも1組は見つけた。地元じゃない人は、間違えた人もいたのかも)

ちなみに、夕方の参拝は、午後5時台〜6時台にかけて。この季節、日が暮れてからゆっくりと空が暗くなっていく。八坂神社はこの時刻、どうも気の入れ替わりらしく、昼までの気をぐーっと泉のように放出して、夜の静けさに備えるように感じられる。いやまぁ、そんな気がするだけなんですが。
いずれにせよ、この季節の、東山界隈の夕方は、何か特別な空気が山から運ばれてくるように思う。

●遷宮祈願祭

翌朝、がんばって早起きして、午前10時の式典開始に行く。五条からバスで四条へ、そこから徒歩でてくてく歩く。

式典で二人分を受け付けると、仮本殿の前のテント下にベンチが並んでいる。色別のリボンを渡されているので、それを目印に奉賛会の参列席に座る。やはり神社の行事らしく、地元の氏子さん同士の社交場となっている。有力者は同じ参列でも本殿に上がる。あちこちで京都弁の挨拶が交わされて、自分が(当たり前だが)よそもんであることが自覚される。しばらく落ち着かない心持ちでいたが(これは行事の内容を勘違いしてやってきたこともある)、やがて宮司さんが仮本殿上に登り、太鼓の音とともに参列者の席が注連縄で仕切られると、空気が変わる。
式典は、最初に宮司が神木で皆を清めてから始まる。祝詞をあげて、神楽の奉納を行い、最後に神にそれぞれ(たとえば奉賛会とか、香道の会から、とか)が祈願をすもの。実は私は仏教に関しては一応かじっているが、情けないことに神道に関する知識が非常に少ない。これが標準的なものなのかどうか、あまり見当がつかない・・・
祭事のフォーマットがどうかはわかりようがないのだが、注連縄をはってから祈願祭そのものが終わるまで、観光客がぞろぞろ来ても気が散らない。

本殿前での祈願が終わると、現在屋根を葺き替えた本殿を、足場に上って間近に見ることができるという。すばらしい!
順番を待ってから上る。何度も見上げてきた本殿の周りには木で足場が組まれている。階段はないが人がすれ違えるくらいの坂になっている(多分建材を運ぶためだろう)ので、それほど怖くない。するすると上がると、いきなり平らに開ける。振り仰ぐとそこは本殿の屋根だ。いつも見上げていた屋根を、間近に見る。檜の皮を何重にも層にした屋根は、想像よりもずっと厚い。がっちりと互い違いにして層になったそれは、真新しいにも関わらず既にどっしりとそこにある。しかも、勾配の曲線の美しさ!これは間近に見たものの特権かもしれない。目を下にやると、色を塗ったところ、まだのところと散在し、作業中であることもわかる。
現場で実際に作業をしている宮大工たちが実際についているので、みんなが質問攻め。しかも、滅多にない機会のせいか、みんな胸をはって答えてくれる。屋根を支える柱や梁は、350年前から変わっていないし、今回もそのまま活かす。屋根だけを替えるのだそうだ。なお、屋根は本殿の一番上が終わっただけで、まだ側面が残っており、やはり1年は丸々かかる、とのこと。
茶髪の宮大工たち、いい表情。

●宮司の講演

見学を終えると、今度は社務所(こちらは近代建築)に移って、宝物の見学。八坂の神様がおりてくる時に使うしとね、衣などが公開されている。こうしたものも江戸時代の再建以来の改めだそうだ。
ちなみに、プレス関係者、写真を撮っているのだけど、一人、Nikonのデジカメの人がいました。くだらんものを見ている私・・・

順序に沿って御神酒をいただき、講演会場へ移動。ここで、おみやげとして御神酒と宮司の著書をいただく。

宮司の講演はおもしろかった。これまでの遷宮の歴史を追いながら、八坂神社の歴史に触れていく。官僚による公式記録よりも前に御霊会が行われていたことがわかっており、実はかなり古くからあったらしいこと。平安時代、八坂を巡って比叡山の僧兵らが争い(八坂神社が神仏習合した時には奈良の興福寺に所属しており、比叡山がうるさかったらしい)、そこで境内に死者が出ると遷宮をしていた由。応仁の乱の頃は、さしもの八坂も遷宮がすぐには出来なかったこと。現在の本殿は江戸時代の再建直後にすぐ焼けて、それを幕府が金を出して建て替えたものであること。
とにかく、話し出すと止まらない方らしい。八坂神社は牛頭天王を祀っており、垂迹神がスサノオノミコトであることは有名だが、スサノオが「そしもり」をまわって出雲征伐をしたことに触れ、「そしもり」は韓国の言葉で「高い柱の頂」を意味しており、それを祀る5〜6世紀のアジア圏の信仰であることを述べていた。さらに、牛頭天王が明治になってからは公称できなくなったことなどにも触れ、宮司という立場よりも、学者としての立場もかなり前面に出して講演なさっていたようだ。「今の世だから言えますが」として、古代の中国や韓国との信仰の関連、さらに様々な文化の流入と独自化にも軽く触れていた。
レジュメとして、本殿や境内の図、年表が配布された。こういう行き届いたやり方も、学者らしい。

とにかく、話の内容もそうだが、話っぷりがおもしろい方。著作である「祇園信仰」(真弓常忠・著、朱鷺書房)をいただいたので、ゆっくり読むことにする。

●で、目的は果たせた?

そうですね・・・八坂神社で神事を見られたこと、本殿を目前に出来たこと、宝物や講演が興味深かったこと・・・目的は果たせたし、社殿のすばらしさも眼福だった。けど、私が情けないくらい日本神話や神道を知らないことが明らかになったので「猫に小判」でもあった。
今度行く時までに、ぽつぽつ読み進めてみようと思う。


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