呉市海事博物館(大和ミュージアム)
release on '05.11.05
某国営放送(注、実際は受信料で経営しており税金は投入されていないけれど、"お上"迎合型の姿勢に対して皮肉を込めてこう言ってます)のある番組で戦艦大和のことを放送していた。そこで呉市海事博物館、いわゆる「大和ミュージアム」が紹介されていた。終戦(なぜか敗戦とはいわない)60周年を記念して今年(2005年)の4月に開館したそうだ。そりゃあ行かない手はない。
前日は東京で所用。用事を終えてから飛行機で広島に行き、翌日に備える。
さて10/16。広島から電車で呉まで。各停で約1時間。以外と遠いのねえ。呉駅から徒歩で7〜8分、案内もあるので問題なし(途中百貨店の中を堂々と横断するけど)。「大和ミュージアム」ってでかでかと書いているわけで早く、見た目は普通の博物館。チケットを買って中に入ると、これが・・・
10分の1の戦艦大和の模型
がいきなり目の前に現れた。10分の1って言ったって全長26m。
でかい
これだ。これが今日の目的だ。しかも写真撮影あり。ということで、こちらに写真を載せています。携帯のカメラなのではっきりいって画質はよくないです。大和以外の展示物もいくつか写真を撮っています。
当然大和の模型だけでなく、他にもいろいろなコーナーがあるが、1階のフロアーがメインで、すごく込んでいた。1階は呉の歴史。何と言っても呉は海軍工廠(こうしょう)を中心に発展してきた町だから、自然と海軍工廠のことがほとんどになる。その次に多いのがやはり戦艦大和のこと。乗組員の方々には申し訳ないが、大和は実戦ではほとんど活躍することなく、昭和20年4月7日にUS海軍の航空機部隊になすところなく沈められた軍艦なのだが、この艦の建造に費やした技術は当時の世界最高レベルといってもよく、また今日にもその技術は様々なところで受け継がれている。何も「大和」の技術だけで戦後の日本が復興したわけではないが、とにもかくにも「技術大国」といわれるようになった源の中には、「大和」を建造できた技術力が含まれていることは事実だろう。
ちなみに僕の心に残った展示物は、大和を建造した技術や設備の説明もさることながら、山口多聞提督が奥さんに残した遺書だ。
ちょっとここで山口提督に触れておくが、提督はかの「ミッドウェー海戦」で戦死しているが、ミッドウェー海戦時、敵空母を発見した際の南雲中将への意見具申、最後に残った空母「飛龍」による米海軍への積極的な攻撃や、真珠湾攻撃時では戦艦だけでなく反復攻撃によって港湾施設も破壊すべきという主張など、猛将でありかつ旧帝国海軍で航空戦を理解していた数少ない将官のひとりといえるだろう。山本五十六司令官を戦死させたあと、米側に「山口多聞がいれば手強いが既に戦死しており、あとの将官は取るにたらない」といわしめたくらいUSに有名だった提督である。ま、このエピソードは山本司令官や山口提督がUS在住の経験があったので、他の提督達よりUS側に有名だった、という経緯があるからかもしれないが。だいたい他にも小沢治三郎中将という提督もいるんだし。
で、話を元に戻すと、その遺書の内容は、猛将山口多聞から想像できないくらい実に愛情溢れているものである。結びをちょっと引用すると
・・・現世の縁は薄かった我々の交情は永遠です。
真の交わりは期間の長短にかかわらず、相互親愛了解
の程度如何によるものと信じます。私は衷心より貴女の
真心に感謝するとともに、天上より貴女の幸福を祈って
やまない次第です。では、くれぐれも御大事に。 多聞
と書かれている。すごいでしょ。昭和16年に旧帝国海軍の一提督が書いたとは思えないほど心優しく、愛情の豊かさが伝わってくるようだ。僕はこの遺書を読んで衝撃を受けた。
なお、3階では宇宙戦艦ヤマトについて展示されていたりする。まあ「戦艦大和」は知らなくても「宇宙戦艦ヤマト」は知ってる人がいるかもれないもんなあ。なんか蛇足のような気がしないことはないけど。なお、現在坊ノ岬沖の海底に眠っている大和は、船体は2つに割れ、艦橋や主砲その他の構造物もことごとく壊れており、これから宇宙戦艦に改造するのは無理だということは言っておこう。
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