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戦国氷風譚


 天地の間を、深い霧が占めていた。
 所は、十勝野、幕別の平野。五百歩をおいて対峙するのは、東に《北国の孤狼》雫石北見守宗秋しずくいしきたみのかみむねあきが軍勢二五〇〇騎と、西に《氷原の猛禽》姉崎石狩守義成あねざきいしかりのかみよしなりが軍勢二〇〇〇余騎であった。
 両軍、北海道特有の広大な平原での戦に有利なように、騎馬のみで編成した部隊である。機動力を生かした軽捷な作戦が取れるはずだったのだが、いかんせん、この濃霧が両軍の動きを封じていた。払暁に布陣したときには霧もさほど濃くはなかったので互いの陣形をおおよそ見通すことはできたのだが、今では視界は完全に遮断されている。
 動くに、動けぬ――両軍は、北海から吹く風に凍りついているかと見えた。


 父に呼ばれて、宗秋の長子風秋かざあきは、右翼の自陣から本陣にきて、軍議に参じていた。
 主将宗秋が、地べたに広げた地図を采配で指しながら、難しい顔で言った。
「見てのとおりこの十勝野は、川が一本あるきりで、丘や林が全くない、のっぺらぼうな地勢だ。敵は伏勢を潜ませることができぬが、それはこちらも同じ。さりとて、互いに真っ向からぶつかりあうのも、芸が無さ過ぎる。諸卿、何か妙案はないか」
「殿、何を気弱なことを仰せあるか」
 答えて、真っ先に声を挙げたものがいる。久保根室介義武という武将で、勇猛さにかけては右に出るものがない。もっとも、往々にして勇猛の使い場所を間違えるので、敬遠されがちでもある。
「雫石が精兵二五〇〇が、なんで姉崎ごとき弱卒に後れを取りましょうや。ただ正面から撃砕し、塵と蹴散らしてやりましょうぞ」
「いや、待たれよ」
 地図を挟んで反対側から口を出したのは、風秋を除く諸将の中でもっとも若々しい顔立ちをした青年である。縁新吉えにししんきちと言って、久保に代表される強行派に対する穏健派の、若いながら領袖的な人物である。風秋とも交わりが深い。
「確かに我が雫石の兵は、戦意よし鍛練よし装備よし、心技体そろった精鋭にござるが、ならばなおさら、高度な戦法を用いたほうが、効果も大きいというもの。ただ棒のようにまっすぐ兵を投入するのでは、消耗も大きくなりましょう」
「うむ……そのとおりだな」
 何か言おうとした久保より先に、宗秋がうなずいた。久保の言葉を遮った形になったが、宗秋にしてみれば別にそんな気はない。ただ、久保の方ではそうは取らなかったらしく、苦り切った顔をしている。
「よし、分かった。風秋!」
「は」
 控えていた風秋は、立ち上がった。
「配下三〇〇騎を率いて、霧にまぎれ海側から迂回し、敵陣の後背を扼せ」
「はっ」
「残りのものは、わしに続いて、敵のはすかいからなだれ込め」
「ははっ」
「では、出陣!」
 諸将は、ザザッと立ち上がって、一礼した。それぞれ幕営から出て行く。そのとき風秋は、久保の顔に目を止めた。――どうみても、久保の視線は憎悪のそれである。その先には、宗秋がいた。
「……」
「風秋!」
 ところへ、新吉がよって来て声をかけた。この青年は風秋とは竹馬の友で、位の差をこえて友誼を交わしあっている。
「何を見ている?」
「いや。……お前、久保殿をどう思う」
「当家の災いだな」
 簡明かつ率直すぎる新吉の言葉に、風秋は苦笑した。
「異存はないが、口には出すな。そこがお前の若さだ」
「警句でも吐かなければやってられるか。大体、この戦にだっておれはあんまり乗り気ではない」
 宗秋の決定に逆らう言葉だったので、いささかあわてて風秋はたしなめたが、その実、彼自身にも疑念はあった。今回、戦を吹っかけて来たのは姉崎のほうだが、その理由に心当たりがないのだ。《雫石が国境を破り、姉崎領内に乱入して放火や略奪をほしいままにしたから》というのが口上だったが、調べた限りではそんな事実はなかったのである。現在のところ、やったやらないの水掛け論になっており、決着はついていない。
 どのみち、兵を発してしまった以上は、一戦しない限りおさまりがつかない。浮かない顔で、風秋は自軍の陣に帰っていった。


 風秋麾下、雫石勢別動隊は、向かって左手から迂回して前進した。とうてい神ならぬ身、風秋には知りようもない。
 敵姉崎の軍も、同じことを考えていたのである。
 霧を突いて密かに移動していた両軍先鋒の兵は、突如霧壁を裂いて現れた敵兵の姿に、仰天した。
 一馬身をへだてた睨み合いが一瞬発生した。だが、自失が収まると、当然激しい敵意が沸騰した。
「打ちかかれ!」
 号令を待つまでもなかった。すでに長槍を構えていた両軍兵は、馬に鞭を当てるのももどかしく互いの陣に突入した。
瞬時に、怒号と叫喚が沸き上がった。刀槍の打ち合う金属的な響きが周囲に沸き上がり、土煙が渦巻き、血が霧を染めた。
 風秋にも、三騎の敵兵が躍りかかって来た。風秋は宗秋の長子である。むこうにしてみれば、大金星の標的だ。
「風秋どの、お覚悟!」
 風秋は、冷笑しながらおもむろに愛刀常陸丑光ひたちうしみつの柄に手をかけた。敵騎が猛進してくるのをじっと待ち受ける。
「――ふん!」
 刀光一閃。真一文字に払われた丑三の軌跡は、なんと三騎の敵の胴をいっぺんになぎ払っていた。手に手に武具を構えた姿勢のまま馬上で凍りついた三騎は、風秋の騎影の側を走り抜け、少し行ったところで上下の半身に別れておのおのぼとぼとと地に落ちた。
 周囲の幕僚たちが唖然とする。敵がそうだったように、彼らもまた、風秋の技を見るのが初めてだったからだ。
「他愛ない」
 自慢するでもなしに、淡々と風秋はつぶやいた。


 姉崎軍別動隊に乱入した雫石側の騎馬五騎余りは、陣深くに、将騎らしい白馬を見つけた。ここを先途とばかりに大奮戦し、敵陣のど真ん中に血路をうがって突入した。
「そこにおわすは姉崎が将とお見受けする! いざいで来て勝負せよ!」
 怒号しながら、五騎は奔流のように敵将に殺到した。割って入る姉崎兵をことごとく左右に切り倒し、あわや将の首も飛ぶかと見えたとき――実に幻妙なことが起こった。
 白馬の将が、右手をゆらりと背に回した。目前に迫った敵に恐れる色もなく、悠然と馬腹を蹴る。
 おとなしげにみえた白馬が、突如、猛々しくいなないて駆けた。
 距離があっと言う間に詰まり、あっと言う間に開いた。――白馬の将が駆けた後の宙に、きっかり五つの首が血の尾を引いて舞っていた。
 暫時、敵も味方も、その光景に息を呑んだ。


 そして――両軍本隊においても、同じことが起こっていた。
 濃霧で距離を見誤った姉崎側の兵が、突出しすぎ、敵翼に接触してしまったのである。たちまちその部隊は戦闘状態に陥り、あっというまに全前線にそれは波及した。今や、敵味方併せて四〇〇〇の軍勢が、流す血の量を競い始めていた。
 乱刃のただ中に巍然と馬を立てていた義成は、ただ一騎中央を突破してくる騎影をみて眉をひそめ、ついで仰天し、最後に不敵に笑った。
「なんたるくそ度胸か!」
 勇将は、他でもない、雫石宗秋その人だったのだ。
 もとより、義成とて臆病でもなければ文弱でもない。愛刀を鞘走らせるや、大音声で呼ばわった。
「北国に聞こえたる氷原の猛禽こと姉崎義成はここにあるぞ! 雫石輩、尋常に勝負せよ!」
「おう、言うか野鼠!」
 見る間に距離を詰めた宗秋が、狙い済ました長槍を懐にたたき込んだ。義成は半寸の差でそれを避け、真っ向から大刀を振り下ろす。しかし、それは音高く兜に弾かれた。宗秋はぱっと槍を投げ捨て、素早く長刀を抜いた。
 激闘が始まった。両軍が猛闘する中央で、将二人が干戈を交えて奮戦しているのである。なんで士気の上がらぬ道理があろうか。いやがうえにも戦意は高まり、東西の軍は血みどろになって揉み合った。
 半刻が過ぎた当たりで、霧が晴れ始めた。その頃になると、戦場が俯瞰できるようになり、勝敗が判明しつつあった。雫石側が、数の有利に立って敵を圧倒している。
雄将同士の戦いは、剣戟にして百合を超えた辺りで、ついに勝負がついた。
「はいッ!」「おうッ!」
 義成の大刀が、疲れの来ていた宗秋の肩口を正確に捕らえた。ざっくりと首の下あたりまで叩き割る。だが、ほとんど同時に、宗秋の大刀も敵の下腹を刺し貫いていた。
「ふぐっ……」
 二人はぐらりとよろめき、どうとばかりに地に伏した。場所が場所だけに、ほぼ全軍がその有り様を目撃した。
 撃ち合いの音は急激に減った。満場、寂として声もなくなったかと思うと、潮が引くように東西に分かれていく。その際に、両軍から単騎で駆けて来た重臣が、おのおの相手に警戒のまなざしを向けながら、自将を馬に引き上げた。
 一瞥を交わしあってから、双方は風のように去っていった。


 一方、別動隊同士の戦いも、決着がつこうとしていた。
 雫石がわの将風秋は、二五〇の兵のうち――五〇騎あまりは初期の混乱で失っていた――三〇騎の精鋭をよりすぐり、ぐるりと迂回させて、敵別動隊のさらにその後背から、斜めに戦場を突っ切らせたのである。もとより、たかだか三〇騎ばかりでは大した被害も与えることが出来ぬが、一挙に突撃せんと隊列を組み替えていた姉崎側を混乱せしめるには、十分であった。
「今だ! 中軍に殺到しろ! 主将を仕留めたものには金十両が出るぞ!」
 風秋の命令を待つまでもない。雫石の精鋭たちは、算を乱した敵陣に一丸となって突撃した。腕を広げた幅に馬二頭が並びくるような密集突撃をかけられた姉崎の陣は、ひとたまりもなく壊散した。
「進め、進め!」
陣列の先頭にたって丑三を振るっていた風秋は、例の白馬の将を目に止めた。是非もなく、馬ごと体をぶつける。と、敵の手が怪しく動いたかと思うと、なんと下から刃が襲い掛かって来た。
「何?」
 そこは主将、風秋は刃を伏せてなんなくそれを弾く。だが、敵の攻撃は彼をして驚愕せしめるに十分であった。
薙刀なぎなた……?」
 第二撃が真っ向から降ってくる。それを弾き、次いで小手を相手の胸板にたたき込むと、襟首を引っつかんで逆巻き込みに馬から引きずり落とした。一刀に切り伏せるよりも、生け捕りにしたくなったのである。
「名乗れ! 何奴だ!」
 地にひざをついて相手の襟首をつるし上げ、風秋は叫んだ。その拍子に、相手の兜がぐらりとはずれて、風秋は息を飲んだ。
「――!」
 乱れた髪を直そうともせず真っ向から彼をにらんだのは、なんと眉目秀麗の女であった。邪魔にならないようにか髪の毛は童のようにおかっぱに切りそろえ、化粧っ気も何もない少女だが、それにもかかわらず、風秋は一瞬、その娘の美しさにはっと胸を衝かれた。
「……おぬしは……」
「私は姉崎義成が長女、こおり! 父上出陣のおり一兵でも惜しいとのお言葉を聞き及んで、せめて敵兵の一握りも塵に帰さんと、いくさにまかり来た次第!」
 あっけに取られた風秋に、少女は面罵だか悔恨だか判然としないことを喚き立てた。
「にもかかわらず、おめおめと敵の手に落ち、父上より預かりし兵卒どもを無駄に散らしてしまった。ああ、口惜しい! かくなる上は、潔く自刃して見せるによって、雫石の蛮徒ども、とくと見よ!」
 立て板に水とまくし立てるが早いか懐中から短刀を取り出して抜き放つに及んで、さすがにあわてて風秋は娘を押さえ付けた。
「まあ、そう力み返るな。見れば分かろうが、戦の帰趨はもはや着いた。今ここでぬしが自刃したとて、誰が喜ぶ? また、我が軍とて痛くもかゆくもないぞ?」
 紫綾縅しりょうおどしに返り血を浴びて全身紅白まだらの風秋だが、その声は凄惨な姿に似合わぬ落ち着いた声である。そう言われて、いくぶん熱も冷めたと見え、少女は口をつぐんだ。落ちつかなげに辺りを見回す。見ればすでに姉崎の兵は尻に帆かけて我先に逃散しており、周りを囲むは雫石の兵ばかりである。
「もしおぬしが死ねば、おぬしの父殿は悲しもう。おぬしの国の民草も悲嘆に暮れよう。俺だって美しい娘の死ぬのは見たくない。俺がいやなんだから、回りの連中だって望むはずがない。だによって、おぬしがここで死んでも、国中で一人も喜ぶものはおらん」
 あまりうまい説得ではなかったが、それがかえって情に訴えたようである。逡巡していた娘は、やがて決心したようにうなずいた。
「……分かった」
「ならばいい」
 風秋は、組み伏せていた腕を離した。いくぶん顔を赤らめながら娘は体を起こした。
「お前は……雫石風秋か?」
「いかにも。風秋と呼んでくれれば結構。ついてはおぬしを、冰どのとお呼びしてよろしいか?」
「どのを外すなよ」
 兜を拾うと、冰はそれを目深に被って立ち上がった。


 こうして、雫石軍は大勝を収めた。戦死者一八〇、負傷一四三〇。死者が少ないのは軍の精強さを、負傷者が多いのはいかに粘ったかを、表している。対する姉崎側は、戦死者四八〇、負傷者一五〇〇、投降一であり、完全に雫石側の勝ちだった。
 時しも、永禄五年(一五六二年)如月の事である。この頃本州においては、一昨年奇襲をもって今川を桶狭間に降した織田信長をはじめとする、三河徳川、甲州武田、越後上杉、中国毛利などの、歴史に名を残す群雄が割拠し凌ぎを削っており、まさに世は戦国の真っ只中にある。
 その中で――というか隅のほうで、雫石も姉崎も、今まではさほど目立つ氏族ではなかった。
 今までは。


 残兵をまとめた後、冰を連れて本隊とは合流せずに本陣である本別城に帰還した風秋は、城門をくぐった所でただならぬ顔色の重臣に迎えられた。家老の岩見重悟である。
「若、もうご存じでしょうか」
「どうした、爺。しんきくさい顔をして」
「しんきくさくもなりましょう。お屋形様が討たれたのですぞ」
「……親父が?」
 大門の下に立ったまま、馬から降りることも忘れて、風秋はぽかんと口を開けた。
「何時?」
「さきほど、戦場のど真ん中で」
「誰にやられた」
「敵方、石狩守姉崎義成に。ですが、打ち合い百余合の末の相討ちにござります。武人としてご立派な最後でござった」
「相討ちだと?」
 それまで黙って聞いていた冰が、風秋の横合いから馬をおし進めた。
「それは、まことか!」
「……若、この方は……」
 馬上から怒鳴りつけられて、岩見が困惑の表情を浮かべた。風秋と冰の顔を交互に見回す。こともなげに――それは多分にわざとだが――風秋は言った。
「道東石狩国守護姉崎殿が娘、冰殿だ」
「――なんですと!」
 岩見をはじめ、出迎えに出ていた諸将が残らず絶句したのを見て、風秋は苦笑して事情を話した。
「――そういう訳で、冰殿はこれから俺の賓客として扱うからな」
「私は虜だ。牢なりどこなりに、ぶちこむがいい」
 冰が訂正した。怪訝そうな顔をする風秋に、すまして言ってのける。
「姉崎の兵があまた土と果てたというのに、将たる私がのうのうと敵方の客になどなっていられるか」
「……いやしかし、仮にも一国の姫殿を牢になど……」
「風秋殿は手が早そうだ。牢のほうが幾分なりと安全だろう?」
 道東の姫は意外にすれているようである。風秋もこれには返す言葉がない。一目で若い主の性格を見抜かれて、雫石の兵の間から失笑が起こった。
「それはそれとして、さっきの話はまことか」
 いくぶん表情を硬くして、冰が岩身に聞いた。
「嘘言など申してなんの得がありましょうや、それがしを初めとして、両軍すべての兵がしかと目にしております」
「……そうか」
 がっくりと肩を落として冰はため息をついた。それを見つめていた風秋は、白糸縅の大袖の下の冰の肩が、組み合ったときずいぶん細かったことを思い出した。
「薙刀を自在に操り、馬を駆って戦場を走っても、やはり女は女だ」
 思わず、胸の中でそうつぶやく風秋だった。
 まさか牢に入れるわけにも行かないので、とりあえず別館の一つに、数人の女官と三〇人あまりの兵を配して冰を押し込めると、風秋は城内の中庭に運び込まれた父親の遺体に対面した。
「親父……」
 戸板の上に寝かせられた血色の悪い死体が、すなわち彼のもと父である。齢三十九でいまだ不惑を越えていないから、老境には程遠いはずだが、ちょっと見には還暦を越した老人のように見えた。戦死したせいでそうなったのか、それとも、前からそうだったのに自分が気づかなかったのか、風秋には分かりかねた。
 もともと、たいして情の厚い親子ではなかった。むしろ、普通より冷めているほうだった。風秋の母は、宗秋が城下から拉してきた村娘であり、正室ではなかったことも原因の一つかも知れなかった。――といっても、宗秋には他に特定の妻や愛人もおらず、血縁といえば風秋のみだったが。
 なんにしろ、それほど感慨はわいてこない。自分が肉親の死に対して思ったよりも無感動なので、少し驚いたくらいである。
「……まあ親父も、一国の主らしく戦って死んだんだから、結構なことじゃないか。雪隠にはまっておぼれたり、端女の腹の上で頓死するよりは、ずっとましだろう」
 その程度である。宗秋は特に暴君でもなく、また名君でもなかった。ただ、人よりちょっと血圧の高い男だった。即断即決という粘土に、無分別という泥を少し交ぜて、弱火で焼き上げたような男であった。他の国の殿様よりも、多少たくさんの人間を手打ちにしたが、それとて大虐殺をしたというほどではない。が、反面、たいした徳政や救荒をしたわけでもなかった。
 総ずるに、君主としての彼の個性のなさが、息子へ残した印象の薄さにもつながったのであろう。


 風秋は、即日、北見守護の役目を引き継いだ。家臣たちはそれにはおおむね賛成らしく、臨時の評定(会議)の時にも、何も言わなかった。役目を引き継いだといっても、だいぶ以前から政務には参画していたから、呼び名が「若」から「殿」「お屋形様」になっただけで、さして相違が生じてくるわけではない。その日はもう暮れようとしていたから、姉崎との戦についても事後処理や宗秋の葬儀のことは明日にまわして、風秋は床についた。
 春二月と言えど、北海道の夕べの冷え込みは尋常ではない。物見の兵たちがつい詰め所を出るのを渋ったのも、無理からぬことである。
 大門脇の屋根だけの簡素な詰め所で、火を囲んでいた数人の歩兵の一人が、肩をたたかれて振り返った。とたんに仰天して刀に手をかける。
「な、なんだ? お前は!」
「お前とは失礼だろう。俺はこれでも、姉崎から正式に頼まれて遣わされたものだぞ」
「姉崎だと?」「敵だ! くせ者だ!」「出あえーっ!」
「ふん……わっぱどもめ」
 着流し姿の、まだ若いその男は、軽くうそぶくと、背中からぞろりと恐ろしく長い棒のようなものを引っ張り出した。見れば、山伏などの用いる八角六尺の長杖――金剛杖である。
「抜いたぞ! 取り押さえろ!」
 抜くも何も男は刃物などもっていないのだが、興奮した兵士たちがそんなことを気にするはずもない。ただ一本の棒を携えた男に、一〇人ばかりがわっと群がった。
「散れい!」
気合とともに、杖が電速で走った。振るのではなく、突くのである。鎧の腹巻きにその突きを受けて、兵たちはばらばらと尻もちをついた。やられたのは確かだが、これでは怒ることもできない。――男が手を抜いたのは明白だったからだ。
 哨兵をすべて突き倒すと、やにわに金剛杖を高く掲げて、男は大声で叫んだ。
「それがしわたりと申す風来坊なれど、この度、石狩姉崎に口上を託され、軍使としてまかり越した次第! 聞くも聞かぬもそちらが自由なれど、如何?」
 それを聞いた直臣が驚いて報告に走り、かくて風秋は、せっかく暖まった布団をまた冷やす羽目に陥ったのである。


 渡と名乗った浪人は、その後、雫石家臣に姉崎発行の割り印を渡して、正式に軍使と認められ、座敷に通されていた。
 そこへ、風秋が直接でてきた。これは別に、この初対面の浪人に敬意を表したわけではなく、部下に話を取り次がせるなどという七面倒臭いことをやっているあいだに、いたずらに布団が冷えて行くのを、惜しんだからである。
「俺が雫石当主風秋だ。用があるならはやいところ済ませろ」
 対面に座るが早いか、風秋は単刀直入に口火を切った。渡が驚く。
「なんと、宗秋殿はいかがなされた?」
「死んだ」
 そう言って風秋ははっと口をつぐんだ。しかし、よく考えてみれば隠す必要もないことである。姉崎側とて、昼のことは目撃しているだろう。どのみち、いつかは公表しなくてはいけないことだ。ひとつ咳払いをしてから、やや強引に話を戻す。
「ごたくはいいから、さっさと用向きを言え」
 言われて、座り直してひざをそろえると、渡はおもむろに懐から書状を取り出した。
「これを」
「む――」
 ――雫石当主殿に頼みたき儀また問いたき儀之有りにつき能うる限り速やかに配下精兵を率いて姉崎領清水城までお越し下されたく候怱々不備――
 書面にはそうあった。通常、他国へ書状を届ける場合には、書状が盗難に遭ったり軍使が捕まったりしたときのことを考えて、書面には用件のアウトラインだけを書き、紙面の末尾に「委細は誰々口上に任すべく候」などと記して、書状を届けた軍使が直接相手に口頭で伝えるのがセオリーなのだが、その口上を必要としないほど明白な文面である。
「どういうことだ?」
 読み終えた風秋は、思わず声を上げた。
「兵を率いて城まで来いだと? するとつまり、姉崎は降参するというのか?」
「さあ、それがしに聞かれても分かりませぬ。なにせ一介の軍使に過ぎませぬゆえ」
 言うことだけ言うと、渡はさっさと帰ってしまった。風秋はただちに、家臣連を呼んで軍評定 を催したが、みなは一通の書状を囲んで途方に暮れることになった。
「あのとりこの姫殿を連れて来て、尋問したらいかがでしょう」
 岩見の提案は即座に認められ、かくて囚われの姫は寝起きの姿を敵の男たちにさらすことになった。
「なんだ、せっかく言い夢を見ておったのに……」
 どんな夢だ、と風秋が聞くと、
「かご一杯のかすてらを食う夢だ」
と、けろりとした顔でのたまわった。――家臣たちがにやにやして何も言わないのは、姫の顔に涙の後がれっきと残っているからである。強がっていても、囚われの身では心細かろう。
 ちなみに、かすてらという菓子は、この頃九州を初めとする日本国の至るところに現れ始めた、バテレンの宣教師や、それらと交わりのある交易商たちによってもたらされた。新しい物好きの日本人の中の、裕福な階層の人間たちにとっては、結構貴重な食べ物としてありがたがられていた。
「かすてらぐらい、この先いくらでも手に入れて進ぜよう」
「……ほんとか?」
「ほんとだとも」
「なら、許してやる」
 しれっとした姫の態度が、決してへりくだったものでないにもかかわらず、どこか憎めない愛嬌を備えていたので、居並ぶ武将は微苦笑を誘われた。
 気を取り直して、風秋が言った。
「さて、姫、まずはこれをご覧いただきたい」
 風秋は、書状を冰の前に広げて見せた。寝ぼけ眼をこすってそれを見た冰が、読み進むうちに顔色を変えた。
「――姉崎が雫石に降るだと? ばかな! そんなはずはない!」
「まあ待て、まだ降参するとはっきり言って来たわけではない」
「でも、兵をひいて城にこいと……」
「その辺の事情が分からんから、お主に聞こうとしたのだ。しかし――」
 あごに手を当てて、風秋は天井を見上げた。
「その様子では、お主も知らぬな」
諸将の中から、新吉が挙手した。ちなみに彼は、風秋と二人だけのときにはくだけた喋り方をするが、公の場では、ちゃんと敬語を使う。
「若――失礼、殿。姉崎義成殿は、男子の世継ぎをお作りになっておらなかったと聞きます。しかも、唯一の血胤である冰殿は、我らが手の内にあり、その消息は姉崎の知るところではないでしょう。ゆえに、姉崎の城は、鳥無きこうもりの里と化した後、進退窮まって、雫石に服すことに決めたのではありますまいか」
 理路整然とした意見に、うなずく家臣が何人もいた。風秋も首肯しようとしたとき、一人が蛮声を張り上げた。
「いやいや、さにあらず! これは姉崎の脆計に違いありませんぞ!」
 またか、という視線が多数。満座の中央で声を張り上げているのは、久保であった。
「我が兵を城に引き込み、すかさず射殺すなり瓦石を降らすなりして、殲滅をたくらまんとする、卑怯なはかりごとに違いありませぬ! ここはきゃつらの裏をかいて奇襲を――」
「黙れ!」
 風秋に怒鳴りつけられて、さすがに鼻白んだように久保は口をつぐんだ。
「お前の論が正しいか否かはともかく、もう少し聞く者のことを考えろ」
 はっと諸将が見れば、囚われの姫は整った顔を蒼白にして、きっと久保をにらみつけている。
「冰殿――失礼した。今のは一家臣のたわごとなれば、許されよ」
「……お前の顔に免じてな」
 この時、一部の家臣は姫に負けず劣らぬほど蒼白になった。ただ一薙刀をもって雫石の兵十数騎を切り伏せた姫の手練を、彼女の眼光に思い出したからである。
 ややきまずくなった一座を、風秋はぐるっと見回した。
「つい昨日までなら、根室介の言にも正当はあったかも知れんが、今では事情が違う。戦はすでに終わって、あちらの当主義成殿も倒れた。むしろ、縁の言が正鵠を射ていると見たほうがよいだろう。どうだ?」
「殿!」
 このときになってもまだ、久保は持論を捨てなかった。
「ご再考下さい!」
「――久保根室介義武」
 風秋は、はったと久保をにらみつけた。
「それほど嫌なら、お前は残れ! 留守番を申し付ける!」
 久保は顔を朱に染めて、口を動かそうとしたが、ついに一言も発せなかった。
「私はどうなる?」
「無論、随行してもらう」
 冰の問いに、風秋はうなずいた。
 戦勝の後の快い眠りをむさぼっていた兵たちは、子の刻過ぎになって叩き起こされた。兵たちの間に不満の声が上がりかけたので、風秋は一合ずつの酒を与えた。――これは、機嫌取りの他に、寒気身を切る北海の夜に耐える方策でもある。
 丑の刻。北見雫石軍は、騎馬一〇〇〇足軽二〇〇〇の兵力をもって、白い息を雲のように吐きつつ、西へと進発した。

 地平線から天頂にいたるまで、全周まばゆいばかりに星の輝く夜空の下、雫石の兵列は粛々と西を目指した。目的地たる清水城までは約一五里の行程である。歩卒を連れての行軍なので、石狩領最東端のその城までは、休憩を含めて一日を要する。
 翌夕、雫石軍は脱落者もなく清水城下に到着した。
 右に大雪山、左に日高の山並みを望む、ゆるやかな丘陵地が始まる当たりに立てられた小さな平城の前に、三〇〇〇の兵は、号令一下、臨戦待機の姿勢を取った。そのまましばし待つと、やがて城門から一騎の帯刀していない武者が騎乗して出てきた。
「それがし、早田幌延守良政はやたほろのべのかみよしまさと申す。主命によって迎えに参ったが、雫石の軍に相違なきか?」
「いかにも!」
 黒雲雀くろひばりの愛馬にまたがった縁新吉が進み出て叫んだ。武者がうなずく。
「北見守どのはおわすか」
「ここに」
 答えて、風秋が進み出た。
「我が父、雫石宗秋は、先の戦にて手傷を負い、倒れたゆえ、俺があとを継いだ。雫石北見守風秋だ」
 風秋の姿を見て武者は眉をひそめたようだったが、このせりふを聞いて納得が言ったと見えた。
「火急の用ゆえ、説明をしている暇がござらん。北見守どの、軍をそこに止めて館に参られよ」
 これには、ちょっと即諾できない。なにしろ、相手はつい昨日干戈を交えたばかりである。新吉が叫んだ。
「卒爾ながら、それは承服いたしかねる! 姉崎側に害意なしという証しを見せい!」
「姉崎はそんなけちなはかりごとをする国ではない」
 軍列の後ろのほうでやり取りを聞いていた冰はそう思ったが、出て行って口を出す訳にもいかない。なぜなら、彼女はカゴに閉じ込められているからである。
「なんでもいいから、早急に参られよ! 供を付けられても構わん!」
 武者の顔を注意深くにらんでいた新吉は、やがてこう断定した。
「嘘は言っておらん」
 馬を寄せて、風秋に耳打ちする。
「どうだ、あのじゃじゃ馬をこの前に引っ張って来て、事あらば切ると告げてから城に乗り込むというのは」
「……そうするか」
 ただちに命令が降り、冰の乗ったカゴが前に出された。いぶかしがる武者は、兵がカゴのすだれを払ったのを見て、呆然とした。風秋が叫ぶ。
「このとおり、我らは貴国の姫の身柄を預かっておる! もし屋敷内に不穏な気配あらば、ただちに切るからそう思え!」
 そうは言ったものの、風秋としては、できれば実行したくない策である。色気などまだかけらもない姫だったが、そのみずみずしい清冽な言動が気に入っていたのだ。
 風秋は馬から飛び降りた。後に続こうとした新吉と岩見を、「留守を収めていろ」と追い返す。それを見て、相手の武者も下馬した。
 門前までくると、相手の武者、早田は深々と頭を下げた。
「我が姫を丁重に遇していただき、かたじけなく存ずる。――安心召されい、姫がそちらの手の内にあらば無論のこと、そうでなくとも、手出しするつもりは毛頭ござらん」
「……冰殿はいい部下をお持ちだ」
 早田の精悍な顔に視線を向けた風秋は、そう思った。敵でさえなくば、反りの合うタイプだと見抜いたのだ。
 単身、風秋は堂々と門をくぐった。


 奥の座敷に、風秋は甲冑着用のまま通された。これは異例のことである。この時代は、たとえ友好国同士でも他国の武士を武装させたまま自国の城に上げることは、それだけで恥とされていた。にもかかわらず風秋を通したということは、それだけ事情が逼迫しているのだろう。
 幾つかの廊下と階段を通った後、彼の前で早田が障子が開けた。風秋は軽く息を飲んだ。
「石狩守どの……?」
 床に上半身を起こしているのは、紛れもなく姉崎石狩守義成だった。替え玉や死霊では、無論ない。
「生きておられたのか」
「手傷は負ったがな。……宗秋どのは亡くなられたろう?」
 無言で風秋はうなずいた。義成は低く笑った。
「あの傷では助かるまいて。――もっとも、わしも相応の仕返しを受けたが……」
 風秋は座敷に上がってあぐらをかき、間近から義成をつぶさに見た。小袖の腹部には、ぼやっとしたどす黒い染みがあった。他の何よりもそれが、本人であることを証明していた。
「はらわたを切られたわ。もういくばくも保たん。……いや、そんなことを話すためにお主を呼んだのではない。……風秋どの――いや、北見守。昨日の戦は、わしが仕掛けたものではない」
 風秋は軽く眉をひそめた。
「といって、北見が端を作ったものでも、無論ない。――あれは、蠣崎の仕業じゃ」
「蠣崎?」
「うむ。松前一八万石の当主、蠣崎光広かきざきみつひろの差し金なのじゃ」
 風秋にとっては初耳の話である。戸惑いがちに風秋は聞いた。
「なぜそんなことを?」
「ランコ皮じゃよ」
 ランコとは、ラッコのことである。この時代もやはり、北海道は日本一自然の豊かな国であり、道北方面には、たくさんのラッコが生息していた。これを捕らえ、皮を剥いで貿易商に売ると、大変な金になるのだ。まともに捕獲すれば、年に数万両の金になる。米の収穫の乏しい北国では、この収入はまさに喉から手が出るほどほしい大金である。
 しかし、姉崎と雫石では、ともにラッコの捕獲を禁止していた。理由は、道北の昔からの住民たちがこの獣を聖獣として崇めていたからでもあったが、それ以前に、この可愛らしい動物を捕らえて惨殺するのを、彼らの良心が許さなかったからであった。生態系や自然環境についての知識はなくとも、もっと根源的で素朴な慈愛の心を持って、弱い動物たちを保護することを知っていたのである。
「ほかに、石狩の鮭のこともあろう。とにかく、蠣崎はそれを狙って我らを噛み合わせ、共食いさせたのじゃ」
「なんと……しかし、どうやってそのことをお知りになられた?」
「簡単なことよ。我が姉崎の将で、昨日討ち死にした男がおったが、その男の骸から密書を発見したのじゃ。姉崎と雫石の国境で、雫石の仕業に見せかけて放火騒ぎを起こすから、それを口実にわしをそそのかして、戦端を開かせろ、と言う文面の密書をな。ご丁寧に蠣崎の花押かおうまで入っておったわ」
 うかうかと乗ってしまったわしもわしじゃ、と義成は自嘲的に笑った。それを見ていた風秋は、ふと気づくことがあった。
「しかし、それだけならば、姉崎の一人相撲に終わったはず。我が方が受けてたたねば――」
 自分の言葉に、風秋ははっとなった。義成がニヤッと笑う。
「気づいたか?―― ぬしの国にも、間者が入り込んでおるはずじゃ。でなくば、この計略は成立せん」
「あやつ――!」
 心当たりと言えば、一人しかいない。雫石最右翼の猛将、久保根室介義武。最初、姉崎が言い掛かりをつけて来たとき、理をもって説かずに剣をもって討つべしと強硬に主張したのは、彼だった。
「ほれ、これが証拠の密書じゃ。――これで、我が国の嫌疑は晴れたかな?」
 義成から受け取った蠣崎光広の密書に目を通しながら、風秋は歯がみする思いだった。もともと、雫石と姉崎は修好の契りを結んだ友好国である。その絆を、こんなちゃちな詐術に壊されたことに、風秋は怒りを抱いた。
 やにわに、その場で土下座する。
「申し訳ない。俺たちが早とちりをしたばかりに、起こさずともよい戦を起こしてしまった。石狩守どのや、姉崎の兵や民に謝罪したい」
「頭を上げなされ。それをいうならわしらも同罪じゃ。誤った判断をして、いたずらに兵を死なせてしまったのは、わしとても同じこと。それより、これをしおに両国ますます一致して、友誼を交わすことに異存はなかろう?」
「それは言うまでもない」
 顔を上げた風秋と義成は、互いの目をしっかり見つめあった。
「そうだ、石狩守どの。ひとつ忘れていた」
「なにかな」
「先日、戦の場で大変元気のいい馬を生け捕ってな」
「……なに?」
「もっとも、馬は馬でも、じゃじゃ馬という馬だが」
 いったん席を立ってから、風秋は手ずから冰を連れて来た。部屋に入ったとたん、義成は目を丸くし、冰は絶句した。
「父上!」
「おお、冰か。よくも無事で……」
「父上こそ。奸将宗秋の手にかかって討ち死になされたと聞き及びましたものを、よくぞご無事で……」
「これ、宗秋どのは、敵ではなかったのじゃ」
 義成は、風秋に話したことをそのまま語って聞かせた。話が進むに連れ、少女は驚きの表情を浮かべる。
 すべて話が終わるころには、驚きは怒りへと変わっていた。
「許せませぬ」
 だんと畳に片足をつくや、きっと振り返って、
「風秋どの! もしやこのまま蠣崎を捨てておくというのではあるまいな!」
「無論、そんな気はない」
「ならば、私もその戦に加えてくれ!」
 半ば予想していた反応だったが、風秋が答える前に、義成が制止した。
「ならぬ。前の戦とて、後ろで見物しているというから渋々連れて行ったものを……それでさえ兵を率いて勝手に出て行ってしまったというのに、許しを与えたらどこまでいくやら……」
 この時の義成は、戦国の武将ではなく、ただの親ばかの男であった。
 親子のやり取りを見ていた風秋は、娘を戦に出す決心をつけることができない義成に、わざと淡泊に言った。
「石狩守どの、お気持ちは分かるが、それは多分無理でしょうな」
「無理だと? なぜ?」
「なぜもなにも――」
 その時、廊下に慌ただしい足音がしたかと思うと、ふすまをざっと開けて緊張した武者がひざをついた。
「申し上げます! 札幌より急使が参っております!」
「なに? ……通せ!」
 義成の言葉を待たずに、廊下に第二の足音が響いた。現れたのは甲冑をつけた兵で、部屋の前で膝をつくときにガシャッという音を立てた。息荒く怒鳴るように、
「札幌より急報申し上げます! 本日早暁、蠣崎ののぼりを立てし兵馬、国境くにざかいを破って乱入し、田を荒らし村を焼き民をさらい財貨を奪って、暴虐の限りを尽くしながら東進して参ります!」
「なに!」
 予想はしていたものの、あまりにも直線的な蠣崎の手段に、義成は絶句した。風秋も声にこそ出さなかったが、内心では冷たい汗をかいている。
「国境の真駒内の物見は?」
「半刻と保たず潰えました!」
「兵数は!」
「およそ四五〇〇! うち騎馬一五〇〇、足軽三〇〇〇にございます!」
「江別より急使――!」
 にわかに騒がしくなった屋敷の中を、またもや新たな足音が駆けて来た。すでにいた二人の横に片膝ついて、「松前蠣崎、大群を催して石狩の地を席巻し、その勢い津波の如くなれば、江別の砦、無念ながら二〇〇の兵もろとも陥落致しました! 至急お味方の来援を!」
 続いて、恵庭、千歳などからも陸続と早馬が駆け込んで来た。そのどれもが、敗報を告げ、救援を請うものばかりだった。石狩と松前との国境は、ほぼ小樽と苫小牧を結ぶ線に一致する。その全線に渡って、蠣崎は侵攻を開始したようであった。
「全部で、騎馬三二〇〇、足軽七〇〇〇……」
「一万の大部隊か……」
 急使の報告を累計した数を口にして、義成はうなった。
「ほっておけば、一週も立たずにここまで及ぶな……」
「父上! ならばなおさら、私も出撃させてください!」
「しかし……」
「いずれ来る敵ならば、どこで迎え討とうと同じことでしょう!」
「……やむをえん」
 しぶしぶ、義成はうなずくと、やおら顔を上げて風秋を見つめた。
「改めて確認したいが、雫石はこの我が国の大難にあたって、姉崎に矛先を揃えて下さるのだな?」
「当然。この戦は我が雫石に対してもしかけられたものだからな」
 風秋の若々しい顔を見て、義成はうなずいた。
「よし……それでは、北見守に願いたい。我が姉崎の軍を一時お貸しするゆえ、これと雫石の兵をもって、蠣崎を退けて欲しい」
「姉崎の軍を?」
「さよう」
 義成は、風秋に向かってにやりと笑った。ついで視線を巡らし、冰の顔を見つめて、また、にやりとした。
「わしももう長くない。自分の腹の傷ゆえ、どれほど保つか手に取るように分かる。……死ぬのは別に怖くもないが、後に残す者のことは考えておきたくてな」
「……今一つ、なんのことか……」
 つとめてとぼけようとした風秋に、義成は豪快に笑って見せた。
「冰は数えで一五、北見守どのは一八ときく。そろそろ身を固める時ではないのかな?」
「ち、ちょっと待たれよ、石狩守。まだ俺はそんなことなど――」
「冗談ではありませぬ、冰はまだ嫁になどなりたくは――」
 二人してそう言ってから、顔を見合わせ、なんとなくあさっての方向を向く。くつくつと笑いながら、義成が言った。
「姉崎には他に血筋のものもおらぬゆえ、跡目争いでごたごたすることもなかろう。風秋どの、安心召されい。それに、蠣崎を退けた男とあらば、重臣たちもなにも言うまいて」
「……もし、蠣崎を退け得ぬ男だったら?」
 冰が、風秋をちょいと指さして聞いた。不意に義成はおごそかな声で言った。
「その時は、何も考えておく必要はあるまいて。敗軍の将にいかな将来が残されると思うか?」
 その厳粛さは、さすがに長く星霜に耐えた武将の声だった。思わず、若い風秋は背筋を延ばした。
「どうじゃな? 北見守。風秋どの。一考なされては――」
 その時、廊下でまたばたばたと足音がした。なにやら、先ほどまでの伝令の時と様子が違う。何事かと身構えた風秋は、座敷の前に駆け込んで来た男を見て仰天した。
「新吉! 何をやっている?」
「一大事だ、風秋!」
 ところへ、姉崎の家臣たちが走って来てばたばたと新吉にかぶさった。風秋の親友は、許可を得ずに乱入して来たらしい。それを見て、義成が片手を振って家臣たちを下がらせた。
 解放された新吉は、ちらと義成に視線を走らせてから、多少落ち着いた声で言った。
「雫石本別城より、急使がありました」
「急使?」
 眉をひそめた風秋は、まさか、と言って立ち上がった。
「久保根室介義武、道東一帯より土民勢力を糾合し、北見守風秋様に対して叛旗を翻した模様にございます」
「……しまった――」
 風秋は唇をかんだ。


 陰暦二月、太陽暦に直して三月下旬の朝に日は高く上ったとはいえ、北海道にはまだまだ寒気が居座る。暖かくなる午後までを、ないよりはましといった薄さの布団にくるまってのんびり過ごしていた農民たちは、かなたから突然沸き起こった馬蹄の響きと、焦げ臭い匂いに安眠を破られた。
 あわてて布団をはね飛ばし、一足飛びに土間に降り立って、がらっと破れ戸を引き開けたとたん、一陣の騎馬武者が目の前を疾風のように通り過ぎて、思わずへたへたと腰を抜かす。――ようやっと起き上がって道に出てみると、そこにあばら家に押し入ってなけなしの家財を略奪する兵、ここに引きずり出した娘の衣を剥いでいる武士と、目をおおわんばかりの惨状が広がり、呆然と突っ立っているうちにまた一群の足軽が駆けて来て、ぎらつく目でにらまれたかと思うと、いやも応もなく斬られてしまう。
 土足で家に上がりこんだ足軽たちは、鍋釜の類いから衣料から備蓄の米まで、根こそぎ奪って運びだし、それが住んだ家から火をかけていく――そんな光景が、この日、石狩全域に生じていた。
 蠣崎の目的は、道北・道東の豊かな自然の生み出す特産品であり、その地方一帯の土地そのものではない。百姓などは、眼中にないどころか邪魔物ですらあった。石狩から東の民はほとんどが領主によくなついているので、もし捨て置けば、占領後の統治に差し支える恐れが大きかったからだ。よって、兵たちには、火略姦殺御免――すなわち、いかな非道なまねをしてもよし、皆殺しにせよという、凄まじい命令が出されていた。
 軍隊という集団の持つ本来の凶暴性が、この目的を得て一挙に吹き出したかのようであった。殺し、奪い、焼き、壊し、犯す。下卒の兵たちにとっては、千載一遇の機会であるといってもいい。上官の命令を守りさえすれば――それすら行われないことが稀でなかったが――何をしても許されるのである。生まれてから死ぬまで貧弱な田にしがみついて細々とした人生を歩むことを強要された土民上がりの兵たちは、このような自由な振る舞いを許されたことがなかった。体の弱い人間が麻薬を服用したようなもので、免疫がないものだから、べろべろに酔ってしまう。この場合は、薬ではなく、血にだが。
 皮膚と甲冑をかぶった欲望の塊一万は、石狩の広大な平野をじわじわと東へ蚕食していった。
 風秋たちは、斥候が送ってくる刻々の報告を元に、必死に策を練っていた。
 松前を発した敵の数は、約一万。呼応して挙兵した東部反乱軍のほうは、当初心配されたほどの協賛者は現れず、約二二〇〇といったところである。対して、急遽同盟成立した雫石・姉崎連合軍の陣容は、騎馬二八〇〇、足軽四〇〇〇の、計六八〇〇。単純比較で、倍の戦力差がある。
「しかも、東西から挟撃されている……」
 地図を見ながら、風秋はうなった。すでに夜に入っており、室内には照明用の灯台が幾つもおかれている。炎のせいでゆらめく影がふすまに映り、何やら妖々とした雰囲気がある。
 顔を並べているのは、義成、風秋、冰を始め、岩見、縁、八手などの雫石武将らと、片瀬、橿原、若林、那岐、早田などの姉崎重臣たちである。もとより双方昔から面識があるので、前の戦が蠣崎の計によるものだと分かってからは、かえって連帯感が増した観さえある。
「諸卿、妙計あらば、遠慮なく述べよ。――雫石の方々も遠慮召さるな」
 床に伏したままの義成が、そう言って視線を一同の面上に巡らした。さっそく、八手牧野介英宗が挙手した。
「それがし愚考いたしまするに、東に起こった反乱の兵は、秩序なく練度低く軍規なき烏合の衆のように思われ、加えてその数も我らの三分の一に達するかせぬかという程度なれば、全軍を持ってまずこれにあたり、一戦して粉砕した後に、軍を返して日高の山の懐に陣を張り、蠣崎兵を誘い込んで殲滅すればよいかと存じます」
「なるほど、一理を認める」
 幕僚たちから、賛成の言が上がった。だが、異論を唱える者もいる。
「八手どのの策は妙計に見えるが、それでは反乱軍を鎮圧した後の疲弊しきった戦力で松前とほこを交えねばならぬ。ここは、全騎死戦して蠣崎を撃退し、主力を葬ってから反乱軍を押さえたい」
 姉崎の片瀬元示の言である。これももっともなので、賛成の声が上がる。しかし、それにもまた反論がある。
「お二方の策は、いたずらに血気にはやるものであって、なんら実現性のあるものではない。第一、片方が片付くまでもう片方が待っていてくれるという保証がどこにあるか。ここはぜひ、この清水の城に拠って天険に恃み、東西の敵の疲弊するのを、じっくりと腰を据えて待つべしである」
「これはしたり、座して暴兵の蛮行を見守り、ひたすら首を引っ込めて嵐の過ぎるのを待とうとは、まことに意気地の無いことを申される。蹂躙される民を見捨てろとおっしゃるか。また、戦術的にも、東西の敵が呼応して鉄環の陣を敷き、我が軍を締め付けてまいったら、いかがなさるおつもりか」
 那岐高次と若林伊雪の論も、双方もっともである。
 だが、もっとももっともばかりでは話は進まない。――議事、深更に延長されるに及んで、風秋も頭を抱え始めた。
「これはいかん……」
「まったく、議論ばかりでは埒が明くまいに」
 見ると、冰姫はしきりに目をこすっており、いかにも眠そうである。風秋は、眠気覚ましに声をかけた。
「されば、冰どのはこれをどう見る?」
「舵があっても帆が無い――軍師がおらん」
 簡潔に、弱冠一五歳の姫はのたまわった。風秋は軽く眉をひそめる。
「軍師にお知り合いがあるか」
「一人」
 またも簡潔な返答に、今度は興味がわいた。「誰かな?」と半ば冗談のつもりで聞くと、
「渡という男だ」
 と答えた。
 冰は、手を打って腰元を呼び、渡を呼びにやらせた。ほどなく、顔赤く酔眼炯々とした男がやって来た。一歩座敷に入るや、冰の姿を見て仰天して、
「ひ、姫! ご無事であられたか!」
「ズレた奴だな、私の無事は今日の昼から城中のものが知っておるというのに」
「や、そちらは北見守どの? なぜここに?」
「和睦が成ったのだ。おぬし、いつから呑んでいた?」
「朝方、軍使の務め済んでからずっとでござるが…… それはそれとして、それがしをお呼びになられたのはどんな御用で?」
「そちの悪知恵を借りたいと思ってな」
「姫、この者はどんな素性の者だ?」
 先日訪問して来たときの態度と言い、今の物腰と言い、どうも普通の臣下ではなさそうなので、風秋が小声で聞いた。冰が、なんだか恨みでもあるような目で渡をにらみながら言った。
「姉崎に昨年の暮れから居着いておる者だ。食って寝て呑んで大ボラを吹く以外、まだ何もしておらん」
「どんなホラだ?」
六韜三略りくとうさんりゃくから八門遁甲まで古今東西のありとあらゆる兵法と法術に通暁しているとぬかした」
「あれはものの勢いでござる」
 冰の言葉に、渡は頭をかいた。どっこいしょ、とあぐらをかいて、説明を求める。冰が要領よく現状を説明すると、数分あごをなでながら考え込んでいたが、やにわに、
「蠣崎の旗差物はたさしものを千本ほど揃えられますかな」
「何に使う?」
「それは後ほどご教示します。それと、雫石の旗差物を同じく千本。これは簡単ですな」
 風秋はうなずいた。
「あと、蠣崎の花押。これは、我が殿が見つけられた密書の物でよしと、もう一つ、逆軍久保の花押……」
「それも、分かっている」
 風秋が言うと、渡は大きくうなずいた。
使虎嗾狼しこそうろう、これを用いましょう」
 渡の言葉から一拍をおいて、冰と風秋の顔に理解の色が広がった。
「分かったぞ」
「なるほど、そうすれば我らの兵を用いずにすむな」
「不戦得勝こそ、策謀の要点にございますれば」
「それは要するに、こずるい手でもって、勝ちをかすめとることだろう」
 この問答で作戦を把握できたのは、義成と新吉ぐらいのもので、後の武将たちは訳が分からぬという表情で傍観している。その武将たちに向き直って、風秋は説明していった。


 雫石領に起兵した久保義武は、数日の間、我が物顔で領内にのさばっていたが、三日目に部下の竹田和政がただならぬ情報をもって来た。竹田は配下の騎馬隊に命じて国境付近を見回らせていたのだが、その朝不審な農民を見かけた。農民は騎馬隊の姿を見るときびすを返して逃げ出そうとしたので、直ちにこれを捕縛して持ち物を調べたところ、なんと蠣崎の花押が入った密書を携帯していたというのである。
「馬鹿者、蠣崎どのといえば盟友ではないか。その使者を手荒く扱っては、絆にひびが入ってしまう」
 そう怒鳴った久保だが、竹田のもってきたその密書とやらを読んで、さすがに顔色を変えた。
《近々、久保の軍と呼応して我が蠣崎は姉崎・雫石の両輩を挟撃する予定であるが、実はそれは策略で、この機に乗じて久保も共に平らげてしまう予定である。久保とともに梟首になりたくなくば、我が軍の攻撃に合わせて、寝返るがよい》
 宛て名は、久保の配下の一人である、宇佐見という武将であった。これが正しければ、まさに久保は獅子心中の虫を飼っていることになる。
 しかし、宇佐見は久保にとって、腹心といってもいいほど信頼している武将である。処断しようかどうか迷っているうちに、今度は正式に密使を名乗って、蠣崎配下を名乗る武者が久保に書状を届けにきた。
《今度の総攻撃に当たっては、姉崎・雫石の両輩を、峠付近にて我が軍と呼応して挟撃し、殲滅せしめる心算である。打倒雫石に、奮起されよ》
 これと先の密書を比べて眺めると、蠣崎の計は歴然として見えた。そこで久保は蠣崎の裏をかこうと思いついた。まず宇佐見を捕らえ、有無をいわさず斬ってしまった。そして、軍評定を催して、こう下命した。
「西の方蠣崎は、貪欲な奴だ。雫石を倒せば、余勢を駆って次に我らに牙剥くに違いない。よって、次の戦では、雫石と姉崎だけではなく蠣崎も同様に敵とする。これを降せば、我らは蝦夷の全土に覇を唱えることができるようになるぞ。皆、しっかりと戦ってくれ」
 ――もはや言うまでもないが、これはすべて渡の考案した策であった。だが、結果から分かるように、この策はいわば、すでにあった火薬に火を点けたようなもので、なんらの虚偽を用いた訳でもない。蠣崎が久保をも併呑しようとしているのは、十中八九間違いなく、そして、その逆もまた真である。事実に立脚した扇動なのだが、もし久保がこれを風秋たちの計略だと看破したとしても、それならそれで蠣崎への疑いを消すことはできなかったであろう。渡は、いずれ起こるであろう両者の破綻を、少しはやめ、少し利用しただけのことである。
 渡の策はあたり、その頃、蠣崎のほうでも同じように疑心暗記に陥っていた。
 ……三日後、蠣崎一〇〇〇〇、久保二二〇〇の兵力は、風秋ら連合軍を清水の城にはさんで、陣を敷いた。


「さて、ここからは実動部隊に働いてもらわねばなりません」
 渡の立案、風秋の令を受けて、二〇〇〇の兵が城の東西の門に集結した。西の門に集ったのは雫石の旗差物を立てた千騎、東の門に集ったのは蠣崎の旗差物を立てた千騎である。
「放っておいても、両軍は戦うのではないか?」
 冰が首をかしげたが、渡が笑い飛ばした。
「奴らは言わば、二つの泡のようなものですからな。薄っぺらには違いありませんが、何かの弾みで、再び一つに野合せぬとも限りません。やはり、最後の駄目押しをするまでは安心できぬかと」
「分かった」
 風秋と冰は、鎧を着、刀を帯びた。冰の甲冑姿を見て、風秋は感嘆した。
「なんとも、凛々しいものだな」
「凛々しいではない、美しいだ」
 けろりとした顔でそう言って、冰は小姓から例の得物を受け取った。結露しているように光る刀身一尺三寸、銀蛭巻の柄四尺の薙刀を、軽く振って手になじませる。物珍しそうに風秋がたずねた。
「それは、いかな銘の薙刀かな?」
たくみは知らんが、銘は無空鬼羅離むくうきらりと言う。我が姉崎の血族の女子にだけ使うことが許されているものだ」
 悪鬼羅刹の類いを切り離し、持ち主の情愛に報う・・という、由緒正しい得物だぞ、と冰は得意げに説明した。そうやって笑うと、邪気や邪心のない幼子のような笑顔が浮かび、見守る風秋も思わず微笑を誘われた。
玻璃はり!」
 表に出て、冰は叫んだ。雫石から返却されていた白馬が引き出されてくる。甲冑の重さをものともせずにひらりとそれにうちまたがる様は、このとき既に、後に「鳳の羽ばたく様に似たり」と評される優雅な軽捷さを、備えていた。風秋も、自分の黒鹿毛にまたがる。
 二人は、東西の門に別れて立った。風秋には渡が、冰には新吉が、それぞれお目つけ格としてついている。義成は、戸板に乗せられ、那岐の部隊に守られて脱出しているはずである。
「さて……頃合いでしょうな」
 渡は敵軍の布陣の様子を見て、そうつぶやいた。城の屋根に向かって手を振る。呼応して、軽い破裂音が轟いた。暮れなずむ空に一条の軌跡が伸び上がった。
「出撃!」
 大門が開かれる。東と西の敵に向かって、同時に、連合軍は躍りかかった。


 東西の敵兵は、風秋たちの旗差物を見て面食らったが、なにを確認する暇もなく、乱戦が始まってしまった。渡は、久保軍に当てる部隊には姉崎の兵を、蠣崎軍に当てる兵には雫石の兵を用いたので、兵の中の知り合い同士がぶつかって疑惑を抱かれることは起こらなかった。蠣崎は久保が襲い掛かって来たと誤認し、久保は蠣崎が牙をむいたと信じた。日没後だったので、その兵が城から出たのか、城を回りこんで反対側から来たのか、その点が定かでなかったことも、誤解に拍車をかけた。
 たちまち、ときの声と刃の打ち交わす響きが巻き起こる。当初の予定通り、風秋と冰は敵を挑発するつもりで、真っ向から突っ込んだ。
 しかし、東の冰たちの方面では思いがけぬ事態が起ころうとしていた。――指揮官の冰が勢いに任せて騎馬隊を突撃させたところ、もともと戦意に乏しかった反乱兵が、思ったよりはるかに脆く崩れ始めたのである。
「こら、斬るな! 斬ってはいかん!」
 これは、冰の叫びだが、敵ではなく自軍に向けたものである。倒すのは確かに目的だが、今倒しては駄目なのだ。
 調子づきそうになる自軍を押さえ、列を丸め、緩い弧を描いて再び城に戻るような軌道を取る。口でいうのは易しいが、並大抵の苦労ではない。
 猛り狂う自軍をやっと押さえて、反転後退に移ろうとすると、今度はそれを察した敵軍が、わっとばかりに押し寄せてきた。たちまち、冰の周りにも足軽が群がる。
 冰のそばで軍監役を果たしながら刀を抜いて敵兵を切り下ろしていた新吉は、冰の手だれを見て目を丸くした。
 足軽が左右から突き出す槍を身をひねって避け、鬼羅離を水車のように回して敵の槍の穂先を切り飛ばす。敵がひるんだのを見ると、手首を返して勢いをつけ、大根でも切るかのように首を跳ね飛ばした。返す刀で、打ちものを抜こうとしていた足軽の頭を、軽兜ごとたたき割る。――血が吹いて、純白の鎧と馬を、美しく染めた。
 すこし離れたところにいた新吉が、敵武者と切り結びながら叫んだ。
「どなたに教えを受けられた?」
「母だ!」
 敵の刀を受け流し、刃を返して顔面にたたき込みながら、新吉はなるほどとうなずいた。北海道の民謡に、姉崎の始祖の女性が暴れる厳冬の神レタルカムイをこらしめたという話があるが、それに思い当たったのだ。
 銀の刃が深紅の粘液に濡れ、生々しい光を放つ。それを縦横に振り回しながら、冰は敵兵の血と体をあたりに撒き散らした。あまりに勇猛なその光景に、味方は奮い立ち、敵は震え上がった。追撃してくる敵が減り始める。
「冰どの、やり過ぎだ!」
 新吉は苦笑して、馬を寄せた。男勝りの勇猛を示した姫が振り向いた。ほおが赤いのは、返り血だろうか、上気したせいだろうか? 暗くてよく分からないが、美しいには違いない。
「引き時ですぞ」
「そうだな」
 馬首を返すと、冰は鬼羅離を大きく振って退却の指令を出した。追撃してくる敵を何とかあしらって、残騎九〇〇余の兵は城に駆け込んだ。


 西に向かった風秋たちの部隊は、冰たちよりはるかに苦戦を強いられた。
蠣崎の兵は、数においてもだが、その練度において、久保麾下の――つまり、もと雫石の――兵を、だいぶ上回っている。冰たちのように簡単に敵を誘導することはできなかった。
 麾下の騎馬を連れて、敵の先陣を撫でるように横切り、巧妙に誘い出す。風秋の指揮は部隊の能力を最大限に引き出していたが、しょせん小手先の技術、蠣崎の繰り出す圧倒的な数の前に、ともすれば隊列が乱れそうになった。
「速度を落とすな! 止まって戦うのが目的ではない!」
 抜いた丑三を振りかざして、風秋は叫んだ。
「つかさず、はなさず、敵を引っ張りこむのだ!」
 乱戦の密度は冰側よりも遥かに高かったので、渡も風秋もお互いの技量を観察する暇は無かったが、もし互いの武技を見ることができたら、感嘆の叫びを漏らしたろう。
 風秋は、前方から切りかかってきた武者の斬撃を厚刃の丑三で跳ね返し、すれ違いざま鎧の隙を刺し貫いた。そのままテコのようにこじって、抜き取ると同時に敵の腹をえぐる。刃が腹から抜け、その後を血の筋が追うと、武者はうめきながら落馬した。
 後ろから迫る馬蹄の音を聞いて、とっさに刀を背中にかざす。とたんに、重い手ごたえがくる。その衝撃から一瞬で方向を考えて、風秋は振り返りざま横薙ぎに丑三を払った。ガキッ、と堅い音がして、敵の胴鎧に刃が跳ね返った。伸び切った風秋の腕を見て、敵武者はニヤリと笑い、すさまじい斬撃を降ろして来た。
 その瞬間、風秋は、手首をぐるりと回した。丑三が跳ね上がって、振って来た敵の腕を勢いよく通り過ぎた。惰性で風秋の小手に当たった敵の刀は、軽く弾かれたあと、腕ごと地に落ちてどこかへ行ってしまった。敵兵は、その間ずっとぼんやりしていた。
 対する渡は、例の六尺棒を操って、敵武者を次々と馬から突き落としている。構え、突き、たぐりこむ動作は、神速の素早さを備えていた。歩兵に対しては、目を狙って刺突する。殺しあいともなれば、残酷のなんのとは言っていられない。
 冰たちに倍する奮戦をこなして、風秋隊はなんとか城に逃げ込んだ。


 清水城中庭で風秋と冰は落ち合ったが、のんびり休息を取ることはできなかった。これからが、この作戦の要旨なのだ。
 味方が城に駆け込み、後を追って敵が東と西の門からなだれ込んでくる瞬間に――実に、その瞬間に、風秋と冰は、さっと麾下の兵を北の門から外に連れ出した。まさに、神業である。かがり火の焚かれた城に駆け込んだ敵の両部隊は、北の隅に敵兵らしい影をちらっとみつけて、そちらに殺到した。そのタイミングこそ、風秋と冰が渡の立案を実現しようと、もっとも苦心したタイミングだった。
 蠣崎と久保の軍は、ちょうど北門の正面でばったり顔を合わせた。先刻来刃を交えていた相手とはちょっと違うような気がしたが、差しているのは同じ旗だ。かまうものか、やっちまえ! ということになって、見事両者は激突したのである。
「虎使狼嗾――虎と狼をして使嗾し、互いに相討たせるの策、見事に成功したな」
 少し離れたところにある林から城を遠望して、風秋はつぶやいた。渡がからからと笑う。
「北見守殿と姫の手際よろしかったからでござる」
 ぬけぬけと渡は言ったが、風秋は笑って見逃した。なんといっても、彼の献策が功を奏したのだ。
 風に乗って、敵軍の喚声が聞こえてくる。どうやら、味方だったはずの相手が寝返ったことに気を取られていて、当の風秋たちを見逃したことには気づいていないようである。――仮に気づいたものがいても、どうすることもできまい。現に彼らの間で戦端は開かれてしまっているのだから、それを片付けるまでは、こっちに構ってはいられないだろう。
「さて、これで作戦の第一段階は終わり申したが……」
「蠣崎に次の行動を見透かされているおそれはないのか?」
「ありませぬ」
 冰の問いに、渡は笑ってこたえた。
「我らが彼らを共食いさせることさえも、看破できなかった連中です。「その次」など、分かろうはずがございませぬ」
「分かっていて、知らんぷりをしているのかも知れんぞ」
 ほう? と渡はおもしろそうな目で冰に目を向けた。組んだ腕に鬼羅離を手挟んで城の戦火を見つめていた冰が、振り向く。
「例えば、兵力の一部を割いて、我々の目的地に伏せておくとか……」
「それはありませぬ」
 きっぱりと渡は言い切った。
「間諜を配して蠣崎の兵の配置を調べあげましたところ、本国には松前城の守備兵が二〇〇ばかりおるだけです。松前は南を津軽の海で隔てられており、隣国がありませぬから、警戒の必要を感じないのでしょうな」
「そうか」
 風秋は、全員騎乗の命令を出した。足軽にも、移動の準備をさせる。
 ――やがて、一団の軍が、清水城の北に湧いた。見つかるのをはばかるかのように大きく北よりの迂回路を取ったその軍は、蠣崎軍のはるか北から西北をかすめて、西への山道へと消えて行った。


 蠣崎軍は、八〇〇の犠牲を出して、清水城を落とした。反乱軍は敗走し、主将久保根室介義武はいずこへか落ちて行ったらしく、捕縛されなかった。遺棄された死体を数えると一〇〇あまりしかなく、大部分は逃亡したものと思われた。――これは、久保の人望のなさから出たことなのだが、そんなこととは知らぬ蠣崎の武将たちは「道東の兵のなんと柔弱なことか」といって笑った。
 なお九〇〇〇以上の兵を残して意気軒高たる蠣崎軍は、北見の都、網走に向けてさっそうと進軍を開始した。だが、進むうちに奇妙なことが起き始めた。
 帯広、幕別、本別、陸別と軍を進めるに連れ、当然、民家村落が現れたが、おかしなことに、農民が一人としていないのである。初めのうちは、腰抜けめ、逃散したか臆病者ども、と笑っていた兵卒たちも、進むに連れ、不安の色を浮かべ始めた。行けども行けども、無人の野を行くがごとく――いや、本当に、字のとおりの無人の野なのである。
 兵たちの間に不安の色がみなぎるのもさることながら、もう一つ、現実的な問題が発生して、武将立ちは頭を痛めることになった。――輜重、分かりやすく言えば食べ物が、乏しくなって来たのである。
 元来が、略奪軍としての性格を帯びた軍であるため、補給物資を余り多くは携行していない。行く先々で現地徴収する予定だったのだが、農民と一緒にその糧秣までが消えていたため、蠣崎軍は行動に大幅な障害を来し始めてしまった。
 ここに至って、ようやく蠣崎軍も敵の計略の存在を感じ始めた。緊急に進軍を停止して、軍議を開き、どうしたものかと鳩首を並べて議論したが、話し合いから米粒が生まれるわけでもない。こと補給の問題に関しては、軍隊は後方の判断を仰ぐより仕方がないのである。
 最終的に明白な結論も出ないまま――その一因として、遠征の最終責任者である松前当主蠣崎光広が、この場におらず、本国で吉報を待っているだけだったことも影響していたが――とにかく今は引き返そうという方向で話がまとまりかけたとき、思いがけず、松前本国から急使が届いた。
 夜に日を次いで駆け続けて来たらしく、使者とその乗馬はまもなく泡を吹いて昏倒してしまったが、知らせを改めた蠣崎主将は色を失った。
 その手紙は、雫石と姉崎の軍が突然松前に現れて攻めてきているという、救援要請だった。


 これらは、すべて渡の計略だった。
 蠣崎軍侵攻を聞いたとき、まず真っ先に彼がしたのは、雫石の領内に早馬を走らせ、農民たちに次のような布令を出すことだった。
 蠣崎軍の進路上――十勝から網走の村の民は、ありったけの米と家財道具を持って、北の網走か、南の釧路に逃げ去れ、と。
 こうすれば、略奪されたり虐殺されたりすることはない。多少家に火をかけられたりするかもしれないが、それはまた再建すればいいことである。季節は春に向かっており、再建は困難ではない。要するに、「猫を追うより皿を引け」の考え方である。略奪されるのを防ぐには、敵を撃退するほかに、略奪されるものそのものを敵の前から消してしまうという手段もあるのだ。
 渡の細かいところは、右の二つの避難地の代官に命じて、混乱を起こさぬために救荒用の備蓄米を放出するよう命じたことである。この処置のせいで、難民たちが殺到することによって地元民との争いが起こるのが、未然に防がれた。
 自国に対してそれだけの手を打った後で、渡は敵の本国を襲うことを提案した。しかし、最初清水城でその案を聞いたとき、風秋はこういって難色を示した。
「しかしそれでは、俺たちの軍は蠣崎の軍と同じ沼に足を突っ込んでしまうぞ」
「ご心配召さるな」
 少しも動ずる様子をみせずに、渡は説明した。
「我が軍の兵数は六〇〇〇――これをさらに騎馬のみに絞り込みますから、たかだか二〇〇〇に過ぎません。蠣崎の五分の一の兵糧しか必要と致しませぬ」
「だが、我らが取るような焦土戦術を取られたらどうする?」
「もともと略奪しに行くわけではありますまい。兵糧は携行して行けばいいだけのこと。ですが、それ以前に、蠣崎には焦土策を取れぬ理由があります」
「どんな?」
「分からぬか?」
 いたずらっぽく笑って言ったのは、冰である。
「地形的な問題だ」
「さすが、姫は飲み込みがお早い」
 渡にほめられても少しも照れずに、冰は地図を指して説明した。
 すなわち、蝦夷の地は、西が狭く、東が広い地形になっている。西から東に進軍する場合には、進むに連れ南北の幅が広くなってくるので、どうしてもカバーしきれない地方が出てくる。渡は、そのデッドゾーンを避難民の受け入れ場所に利用した。
 だが、その逆に東から西に進軍すると、蝦夷の大地は狭くなるばかりである。特に、胆振から先、札幌を越して蠣崎領に入るあたりからは、ほとんど余剰スペースがない。
「つまり、蠣崎は、焦土策を取ろうにも、立ち退かせた後の農民を受け入れる場所がないのだ」
 冰は、そういって渡島半島のあたりをつついた。明晰な理論に、風秋はうなった。寝台の義成を振り返る。
「どうして、なかなか優れた姫ですな。石狩守どの」
「そうじゃろう。それをやろうというんだから、断る義理がどこにある」
「渡、まだ一つ問題があるのだが」
 話が不穏になったので、風秋はやや強引に論点を戻した。くすくす笑いながら、「なんでしょう」と渡が訊く。
「仮に、松前の本城を落とすことができたとして、そのあと、雫石領内に残った蠣崎の兵はどうする。留守の網走や釧路を取られはせぬか」
「なに、それも問題はありませぬ。適当なところで蠣崎領内に呼び戻せばよろしい」
「呼び戻す……?」
 冰が首をかしげたが、今度は風秋が手を打った。
「そうか、蠣崎の花押を使って本国に召還する密書を用いればよいな」
「まだ浅いな、北見守」
 義成が低く笑って訂正した。
「わざわざ我らが偽書を送らずとも、蠣崎を攻め立てれば自ら使者を送ろう。それを黙って見逃せばよいだけのことじゃ」
「ご賢察です。殿」
 渡は、笑ってうなずいた。


 ――つまり、蠣崎軍に飛び込んできたこの急使さえも、渡の計略の一端だったのである。
 風秋たちの動きは疾風の速さだった。歩兵たちを預けた義成の身柄を姉崎領の北のほうにある美唄の砦に安んじた後、選りすぐった騎馬と騎手のみ二〇〇〇の兵を率いて、姉崎・雫石の連合軍は道西を北風を思わせる高速で南下して行った。
 渡島半島先端の松前に到着したのは、わずか三日の後である。百里近い道程があることを思えば、これは驚異的な速さだった。
 途中、その軍を発見した八雲の砦から急を告げる使者が松前城に走ったが、風秋たちの軍は八雲の砦を相手にもせずに通り過ぎ、じきに先行していた使者に追いついて、捕らえてしまったほどである。
 大館おおだてと呼ばれる松前城下に到達すると、風秋たちは馬の足を止めずに、開いていた城の大門にそのまま駆け込んだ。その速度が急を告げる見張りより速かったほどなので、駆け込んで来た連合軍の旗を見ても城兵たちは最初のうち何が起こっているのか理解できず、ただ風秋たちが駆け抜けていくのを呆然と見ている有り様だった。
 嵐のように乱入した二千の兵は、ほとんど血も流さずに、瞬く間に城中を制圧し、松前守蠣崎光広を捕縛した。この戦闘――というか押し入り強盗は、とにかく速度最優先で行われたため、一部に、馬に乗ったまま室内に乱入するという無茶苦茶をやった兵も出た。
 この混乱の最中、光広腹心の朝田兼次という機転の利く武将が、遥か道東の地にいる遠征軍への早馬を、東の門から逃がした。というのも、そこの門にだけなぜか雫石兵がいなかったからである。だが、いうまでもなく、これは渡の小細工であった。
 朝田はその直後捕まり、光広と一緒の縄にくくられて、座敷に陣取った風秋の前に引き出された。
 風秋は、しばらく光広の顔をじっと見つめてから、おもむろに口を開いた。
「借門するが、松前守どのは、なにゆえに我らの領地に軍を向けられたか」
「……」
「我らが、足下あなたの領地を侵しでもしたか?」
「……ならば逆に問おうか」
 うつむいていた光広が、開き直ったように顔を上げた。
「北見守は、今の世の趨勢を見てどう思われる?」
「世の?」
「そうだ。東北に伊達あり、甲州に武田あり、越州に長尾あり、尾張に織田あり、すべてこれ、京に上って帝を擁し、諸侯を制して天下に覇を唱えんとする野心の徒ばかりではないか!」
 光広は、縛られた縄をひきちぎらんばかりに身を乗り出して声を上げた。
「下、上を剋つ世の中だ。戦乱の巷に男子として生まれた以上、列国を倒し、世を統べてみたいとは思わんか?」
「……何が言いたいのだ」
「わしと手を組め!」
 口角泡を飛ばしながら、必死の面持ちで光広は叫んだ。
「松前と雫石が合わされば、蝦夷三〇万石は北海一の強豪となれよう。後背に憂いなきこの地から発すれば、南下に南下を重ねて京を突くことも夢ではないぞ!」
「論点がずれているようだな」
 冷ややかな声を聞いて、光広はあわてて視線を動かした。隅のほうにいた若い――少女と言ってもいいほどの女が、殺気立った様子で睨む。
「よいか? 風秋どの」
 風秋がうなずくのをみて、冰は光広の正面に立った。
「私が今問うておるのは、我が領を侵したことの理由だ。天下を制するのと、他国の百姓を虐殺するのとをすり替えるな」
「お、女風情がでしゃばるな!」
 新吉は横から冰の顔を見ていたが、別段彼女の表情に変化は見いだせなかった。だが、この一言が彼女の逆鱗に触れたであろうことは、容易に察しがついた。それが証拠に、次の一言の冷たさは前の比ではなかった。
「女で何が悪い?」
「それは……」
「なんなら、手合わせするか? 遠乗りを比べてもよい。書でも、歌でも、茶でも、相手をしてやってもいいが」
「姫、謹まれよ」
 風秋が手を挙げて制した。形としては、他国の重鎮に失礼なことのないように、というものだったが、その場にいたほとんどの者の目には、「そんな奴相手にむきになるな」と風秋がたしなめたように見えた。
 渋々冰が引き下がると、風秋は乾いた声で言った。
「話し合っても無駄なようだな」
「……」
「お二方には、あいすまぬが軟禁させていただく」
 二人が兵に引き立てられて行くと、冰がつぶやいた。
「あやつら、斬ってもいいか?」
「なりませぬ、姫」
 横からひざを出して制止したのは、渡である。冰が不服そうに訊いた。
「なぜだ?」
「あの二人には、まだ利用価値がございます」
「あ、そうか……」
 渡の説が、情からのものではなく、理からのものだったので、冰は納得した。もとより、渡とても、自分の主君をけなされては、おもしろかろうはずがないのだ。


 松前よりの知らせを聞いた蠣崎軍の将軍たちは、顔色を変えて軍を返した。残り少なくなった糧食を節約して食いつぶしつつ、だましだまし西へと戻って行く。だが、すきっ腹を抱え、歩馬入り交じった九〇〇〇もの数を抱えていては、どう頑張ってみてものろのろとしか進めぬ。
 日高の山々を越え、苫小牧に達し、登別から室蘭に出るのに、実に一週間近くかかってしまった。しかも、その頃には兵糧は切れかかっている。脱落者も多くでていた。出撃時一万を数えた軍が今では八〇〇〇に減り、残る兵も五体疲れきり、負傷者も多い。蝦夷地の自然は甘くないのだ。
 それでもなんとか蠣崎領内の室蘭にたどりつき、将兵ともにやれ助かったと思った所へ、待ち構えていたように凶報が飛び込んで来た。
 松前城が陥ちた、というのである。
 松前城の北にある上ノ国勝山館かつやまだてからの急使は、軍将たちにこう報告した。
「大館城主光広様は、北見守の軍威に屈し、和を求めて恭順の意を示した。北見守は勝ちを振りかざして、蠣崎遠征軍の将の首を求め、光広様はそれに応じた」
 続いて、松前城からひそかに脱出して来たと称する兵が陣営に現れて、
「もうすぐ殿様が、遠征軍の始末をつけるべく、ここに乗り込んでくる」
 と報告したから、さあ大騒ぎになった。
 このまま松前に戻れば、自分たちは処断されてしまう。それも、敵に切られるならまだ本望だが、目的の雫石軍と一戦もしないうちに、その膝下に屈することになるのだ。
 武人として、到底甘受できる運命ではなかった。遠征軍の将軍たちは顔を寄せて語り合った。こんな馬鹿な死に方があるものか、自分たちの主の勝手で殺されるなんて。すると、中の一人が追い詰められた口調で言った。
「雫石ごときに落とされるような者が、我らの主と言えるだろうか。言えようはずがない。そのような柔弱な者を主として仰ぐなど、それがしにはできん」
 主が主なら家来も家来で、光広の下剋上思想をそのまま受け継いでいたらしい。幕僚たちはたちまちその考えに賛同した。乗り込んでくる光広を弑することを、悲壮な面持ちで誓い合う。
 そこらあたりの彼らの思考過程は、渡が手に取るように洞察していることである。
 まもなく、雫石軍によって、光広と朝田は釈放され、馬が与えられ、蠣崎軍の位置が教えられた。いぶかしがりながら室蘭に向かった光広たちは、その晩あっさりと殺されてしまった。腹に刀を立てられた時、光広は一言「馬鹿者、計略だ……」と口走ったと言う。
 主君弑逆を犯した武将たちは、知らなかった。先頃到着した勝山館からの急使と松前からの脱走兵が、すでにこの陣から消えていたことを。彼らの顔を、同郷であるはずの兵士たちが誰一人として知らなかったことを。すなわち彼らは、蠣崎兵に擬して風秋が差し向けた、偽の使者であったのだ。
 全て渡の思惑どおりであった。これで、大義名分ができたのである。すなわち、これまでは、雫石にも蠣崎にも、他国の領土を侵したという共通の弱みがあったのだが、光広を配下に殺させることによって、その軍をたたく口実を作ったのである。――つまり、「国境を侵し、主君を殺した隣国の軍を平定するために、自分は兵を出した」という。
 光広は、言ってしまえば間接的に渡に殺されたようなものである。その罪を巧妙に蠣崎軍になすりつけ、それによって彼らに賊軍の烙印を押した渡の策略は、実に神算鬼謀というべきものであった。
 かくて、蠣崎軍は自らの主将を殺してしまったことで、その存在の正当性を失った。同時に、その指令系統をも自ら破壊した。司令官がいなくなったので、今後の行動目標を見失ったのである。
 それでも、武将たちはそれまでの惰性で、軍を内浦湾東の長万部おしゃまんべあたりまで進めた。そこで、風秋たちの軍と出くわしたのである。


 雫石・姉崎軍二〇〇〇。敵の首府を落としたとあって士気高く、元気旺盛。大して元蠣崎軍八〇〇〇は、兵糧乏しく、策なく、目的もなく、そこへ更に追い打ちをかけられた。
 雫石軍の先頭にたった風秋が大声で、蠣崎軍が光広を殺した時点から賊軍とみなされていることを告げたのである。
 反論できるほどの口巧者、又は、それを無視し得るほどの豪胆は、蠣崎列将の中に存在しなかった。衝撃を受けて絶句するばかりである。
 だがその時、蠣崎の陣から悲鳴のような声が上がった。
「かくなる上は、雫石を討ち、姉崎を倒して、我らが覇権を握る以外、方策は無いぞ!」
 うろたえ、顔を見合わせた兵たちは、互いの顔に窮鼠の表情が浮いているのをはっきりと見た。徐々に、やがて轟々と、その叫びに唱和する。
「雫石を討て!」「倒せ!」「鏖殺するのだ!」
 煩悶の極、行き場を失った激情が一度に吶喊したようだった。蠣崎軍は、一度に叫び声を上げながら突撃して来た。これには、渡も少々あわてた。「まさか激発するとは思わなんだ」と呟いて、風秋に馬を寄せる。
「北見守、最初の一打に耐えられよ。戦意を無くせば、敵は壊走しましょう」
「分かってる」
 この辺りの地形は、南北に細長い幅四分の一里ほどの平地である。敵は、真っすぐ正面から突撃する以外の手を取れない。土煙を上げて迫るその軍を見ながら、風秋はさっと片手を挙げた。
「撃ち方用意!」
 二〇〇〇騎が、ざざっと音を立てて弓を構えた。
「射よ!」
 弦の弾ける音が、重なり合って無数に響いた。つかの間をおいて、蠣崎軍に悲鳴がわきあがる。
「馬首揃えよ! 突撃!」
 弓を腰にかけるのももどかしく、武者たちはいっせいに馬を駆った。弓箭の斉射を受けて一瞬速度の鈍った敵先鋒に、すさまじい勢いで突撃する。
 たちまち、血煙が巻き起こった。刀槍の打ち交わす金属的な響きと馬のいななき、兵士のときの声などが鼓膜を聾し、悲鳴が交錯する。
 この時、敵騎馬の一群が殺到して来て、風秋と冰の間に割って入った。人馬の奔流が二人を押し分けられて、二人はたちまち一丁ばかり離されてしまった。
「まずい……」
 右に左に丑三を叩き降ろし、歩卒の頭を砕き、騎兵の胴を薙ぎながら、風秋は舌打ちした。壁のように槍先の汀線を張って境界線をはっきり引き、敵の撤退を容易にするつもりだったのが、敵の部隊と交じりあう形になったしまった。これでは、敵が撤退することができない。消耗戦をやったりしたら、それこそ数の多い向こうに呑み込まれ、押し潰されてしまう。
「渡! 渡はどこだ?」
 返事はない。新吉も見当たらない。冰について行ったのだったら、それはそれでいいが、もし各個に細かく分断されたりしていたら、まずいことになる。
 上空からこの戦いを俯瞰したら、戦況が歴然と分かっただろう。数で四倍近い優勢を誇る蠣崎勢が、風秋たちの薄い兵壁にじわじわとしみこみ、細かく分け隔てて行って、おのおのを食いつぶすように動いていた。
「くそ……」
 丑三の切れ味はまだまだ衰えていなかったが、それを支える腕が徐々に重くなって来ていた。右から足軽が槍を突き出して来た。刀で穂先を弾き、兜を割るつもりで切り下げる。が、硬い音とともにそれは弾かれた。
「こんなところで……」
 それでもなんとか、いったん刀をひいてから突きを繰り出し、足軽の眉間を割った。しかし、反対側の足軽が突き出した槍が、鎧の左の大袖を貫いていた。
 熱いとも痛いともつかぬ感覚があって、左腕がギリッと鳴った。反射的に振り上げようとすると、槍先が折れでもしたらしく、尖ったものが肉のなかでごりっと動くのが分かった。
「……ふふ……」
 笑った訳ではなかった。押さえようとした息が知らず口から漏れた音だった。手傷がこれほど痛いものだとは、初めて知った。
「こなくそーっ!」
 叫んで、最後の突撃をかけようとしたとき、風秋の目にあるものが映った。
 それは、援軍の姿だった。


 この時風秋が援軍の来訪を知ることができたのは、全く幸運――若しくは、奇跡だったと言っていい。北から接近して来たその大部隊は、蠣崎群に気取られないよう旗を立てずに進んで来ていたからである。
 とにかく風秋は、血に酔っている蠣崎軍の後ろに現れたその部隊が、突然「雫石軍にお味方する!」と叫んで蠣崎軍の後背に食らいつくのを、はっきりと見た。そのとたん、彼の中に熱い塊のような――おそらくは、戦国の武将に必須の――気力が湧き上がるのを、確かに感じた。
「援軍だ!」
 文字どおり声を振り絞って彼は叫んだ。
「味方だぞ!」
 丑三を振り回して、彼は絶叫した。その声は、一瞬の間をおいて、雫石軍の中に加速度的に伝播した。これまで押されていた側の戦いのボルテージが、急激に高まった。
「援軍だ!」
 叫びは、助けられたほうから、助けたほうにも飛び火した。それを知り、それを知らすために、双方が絶叫し、それは間に挟まれた蠣崎軍に冷水をぶちまけるような効果をもたらした。
「もう駄目だ!」
 誰が叫んだのか分からないが、少なくとも雫石の兵の叫びではない。一人が槍を捨てると、二人が刀をほうり出し、四人が背を向け、八人が駆け出し、瞬く間にパニックは蠣崎全軍に波及した。
 この時、雫石援軍は、軍列の中央部から左右に分裂した。これは故意に行ったもので、算を乱した敵兵に逃走口を与えるためである。閉鎖したままにしておけば、出口を失った敵兵が死に物狂いになるかもしれないからだ。
 風秋は、余勢を駆って、逃げ惑う蠣崎兵をその逃走口に追い詰めて行った。彼は援軍の指揮者が老練な姉崎義成であることを見抜いており、それゆえに、彼が敵を逃がそうとした意図をも察していた。
「蠣崎のものは降伏しろ!」
 叫びながら、丑三を振りかざす。
「武器を捨てれば、悪いようにはせん! 降伏したものを斬るな!」
 もはや、戦の行方ははっきりとしていた。


 冰は、敗走する蠣崎軍の中央部に巻き込まれていた。あまりにもぴったり真ん中にいたために、左右どちらにも逃げられなくなったのである。
 左右にいた縁新吉と渡の姿は、見失って久しい。周りはほとんどが敵だった。
 気づかれないうちに、脱出しようとして馬首を巡らそうとしたとき、偶然敵の騎馬武者の一人と目があってしまった。何とも間の悪いことに、その武者は冰の顔を知っていた。冰に気づき、それが何者かに気づいたとたん、彼は大声で叫んだ。
「姉崎の大将がおるぞ!」
 皆まで言わせず、無空鬼羅離が弧を描いている。だが、薙刀を振るうには近すぎる間合いだった。武者はどっとばかりに馬を寄せて来て、半ば切られるのを覚悟したように体ごと飛び掛かって来た。もともと、薙刀は徒歩の足軽が使う武器である。騎馬戦には向いていない。
 胸倉をつかまれて馬から引きずり降ろされながら、冰はふと、前にもこんなことがあったな、と思った。はっきり思い出さないうちに、地面にたたきつけられ、息が詰まった。
「この下衆!」
 とっさに短刀を抜いて腰だめに突き出すが、相手の武者はそれをパンと音高く弾き飛ばして、馬乗りになって来た。もとより、膂力で男にかなう訳もない。兜がはぎとられると、黒髪が流れるように地に広がった。
「ほ、なかなかの……」
 周りを敗兵たちが駆け抜けて行くのにも、武者は全く構わなかった。そばに落ちた抜き身の大刀を引っつかんで、冰の喉めがけて振り下ろす。冰は声にならない悲鳴を上げた。
 かざ……
 硬直して閉じることができなかった目に、きらめくような火花が散った。ギンと耳障りな高い音が響く。
 次いで、体の上でものすごい衝撃があった。武者がなにかに吹っ飛ばされたのだ、ということを理解すると、冰ははっと体を起こした。
 見れば、武者と取っ組み合ってごろごろ転がっているのは、まさに風秋だった。左手がやけに赤いと思ったら、どうしたことか、袖に長大な足軽の槍が一本ぬっと突き立っており、そこから血が流れ出ているのだった。
 地上の揉み合いから、何かの拍子に、両者はぱっと離れて立ち上がった。ちょうど風秋が冰のそばにくる。
「風秋どの……」
 声をかけようとして、冰は押し黙った。風秋の注意は、専ら相手の武者にだけ集中していた。下手に声をかけると、その張り詰めた気迫を壊してしまいそうな気がした。
 武者は、辺りの地面を見回して、一本の槍をつかみ取った。冰ははっと目を見張った。風秋は丸腰だった。その時になってやっと、自分の首を間一髪で守ってくれたのが、彼の丑三だったということに気づいた。
 我に返れば、周囲にはぽっかりと人のいない空間ができていた。蠣崎兵が逃げ去り、雫石兵が追いつく、そのちょうど間にいるのだった。
 ぎらぎら光る目でこちらを睨んだ武者が、やにわにさっと槍を突き出して来た。風秋がそれを避けると、続けざまに右、左、と突き出してくる。冰には、その風秋の動きが、痛々しいばかりに鈍くなっているのが分かった。
 いつしか、風秋は冰から左のほうに数歩離れていた。その時突然、敵の武者が今までと全く違う動きをした。
「……ひ……」
 冰は動けなかった。全身が縫い止められでもしたかのように、凍りついていた。眼前一尺ほどで、鋭角的に光る槍の穂先が、ぶるぶる震えながら静止していた。それを支えているのは、風秋の右腕ただ一本だった。
 まともに考えれば、力いっぱい繰り出された槍の柄をつかむなどという真似は、出来るはずがない。しかしこの時の風秋は、それをしてもおかしくないだけの気迫を全身に満たしていた。
 信じられないような出来事に、武者の顔が引きつった。何か言おうとしたのか口をもぐもぐさせながら、槍をぐい、ぐいと引っ張る。普通の場合なら滑稽な光景だったが、冰には分かった。――彼は、武器を奪われると思ったのだ。しかし同時に、冰には風秋の様子も手に取るように分かった。今の行動が、彼の力の全てだということが。
 不意に、ぐらりと風秋の体がよろめいた。手にしていた槍を離し、膝を折り、奇妙なほどゆっくりと前のめりになる。――武者は、風秋が完全に地に伏してから、はっと我に返ったように、槍を構え直した。続いて、余裕の表情さえ浮かべながら、それを繰り出そうとする。
 その瞬間、彼の体は、脳天から股間まで天地一文字に両断されていた。兜と、頭蓋と臓物と、脊髄と胸当てと構えていた槍までもを真っ向から切り下ろしたのは、無空鬼羅離を構えた冰だった。
 ――その時に至るまでずっと戦いを傍観していた自分を、たたきのめしたいような思いで振り下ろした一閃だった。
 血の池を造って倒れた敵の凄絶な死に様を見届けもせず、冰は風秋のそばに駆け寄った。まだ突き刺さっていた左腕の長槍を力まかせに引き抜いて、大袖をまくりあげる。自分の腕と袴が見る見る血に染まるが、構わずに袴の端を引き裂いて、それでなんとか傷ついた腕を縛り付けた。
「こら、風秋どの、起きろ! こんなところで死んでどうする!」
 叫びながら、頬を叩く。
「起きろというに! ――かすてらの話はどうなった!」
 言ってることが少々無茶苦茶だが、当人は真剣である。半泣きで胸倉をつかんでぐらぐらと揺すぶると、不意にぼそぼそと声が聞こえた。
「怒鳴らずとも聞こえておるよ、冰どの……」
「……そうか」
 返事を聞いたとたん、力が抜けた。へたっ、と座り込むと、やっと辺りの様子が気になり出した。
 見回すと、累々と倒れている死骸をまたいで、歓声を揚げながら兵たちが歩いていた。立っている旗は全て雫石のものだった。
「風秋どの、勝ったらしいぞ」
「知っておる……」
 寝言のような返事に、冰は風秋の顔を見下ろした。――夕暮れ近くの、冷たくなった風が、返り血に汚れた青年の顔をわたって行った。長生きしそうな顔だ、と冰は思った。
 近づいて来た馬蹄の音に、冰は顔を上げた。兜を無くしたらしい縁新吉と、例によって着流し姿の渡だった。返り血に汚れた二人の武将は、冰のそばに降り立った。
「これは……どうなされた?」
「案ずるな、ちゃんと息はしておる。――もっとも、急いで医者を呼んだ方がよさそうだが」
「姫は?」
「私のほうは、腹が減っただけだ」
「さようでござるか……」
 新吉と渡は、顔を見合わせてほっと息をついた。


 この戦いでは、二二五〇名の死者がでた。内訳は、雫石・姉崎側七六〇、元蠣崎側が一四九〇であった。絶対数だけ見ると蠣崎は雫石の実に倍近い損害を出しているが、全体の数でそれを割ると、雫石四割、蠣崎二割の死亡率となり、勝敗はちょっと決めがたい。――ただ、雫石には終盤において六〇〇〇もの援軍が加わっているので、それを考えれば、雫石の勝ちと言えるだろう。高級将官の死亡数を比べればもっとはっきりする。
 援軍のことだが、中途から参戦したこの部隊には、傷を押してでてきた義成配下の正規兵足軽四〇〇〇に加え、蠣崎に妻子を殺されたといった理由で志願してきた姉崎領の農民たちが二〇〇〇加わっており、これはなまじな兵士よりも勇敢に戦った。なかには、戦場で自分の妻を殺した兵士にばったり出くわして、兵士が降参したにもかかわらず、竹槍で数十カ所を突いて惨殺したという者もいたが、これについては、指揮官義成は不問に付した。――そういった怒りによる力を求めて、彼ら農民を戦争に組み込んだのは、義成自身なのだから。
 ただ、義成は、彼らを義勇軍として迎える際に、一つだけ誓いを立てさせた。それは、この戦いを最後に蠣崎に対する恨みは、一切水に流すこと、というものだった。松前を併合して雫石に加えさせる腹だった彼の、極めて巧妙な融和策だといえる。
 日が暮れるころには、抵抗するものもいなくなり、戦の大勢は揺るがなくなった。旧蠣崎軍の重臣たちは、八人中七人までが戦場で討たれ、残る一人は、逃走する途中で、暴徒と化した配下の兵に、よってたかってなぶり殺しにされた。
 蠣崎軍は壊滅し、松前の公式統治機関は、事実上消滅した。


 戦は終わったが、やるべきことは沢山あった。
 まず、捕虜の始末がある。これは五〇〇〇人にも及んだので、わざわざ連れて帰る訳にはいかず、結局その場で家までの旅費を与えて、全て解放した。
 次に、これは渡の仕事だが、網走、釧路、その他各所に早馬を飛ばして、領民に戦が終わったことを告げ、家に戻って田畑を耕すよう命じた。おりしもちょうど田植えの始まる季節であり、武士たちも農民たちも、間に合ってよかったという気持ちである。
 遺骸を調べ、戦死を告げる使者を蝦夷全土の村ごとに遣わして、遺品を届けるのは、新吉が指揮した。みながやりたがらない仕事だが、おろそかにする訳にはいかない。せめてそれぐらいのことは、彼ら農民を戦場に駆り出した武士がやるべきであろう。それやこれやの仕事は、戦が終わってすぐに始められ、軍列が北へ帰る途中でも続けられ、札幌の石狩城に入って本格化し、半月をへてからやっと一段落した。
 月が変わって、弥生に入った。北海道の春が遅いとはいえ、野山は緑に染まり、若芽は萌え、日差しも十分に暖かくなってきた。風秋の傷は徐々にだが回復し、その間、冰が付きっきりで世話をしていた。義成はそれを見てにこにこ笑い、からかったりしていたが、それ自体、一頃に比べてめっきり老け込んだ証しであるよう思われた。
 実際、彼の傷は、風秋のそれが治癒して行くのと反対に、徐々に悪化しているようだった。本人は明かしたがらなかったが、冰が医者を脅迫して聞き出したところ、傷が化膿して悪い病気を――今でいう敗血症を併発しているらしく、その医者は、手は尽くしますが、と首を振るばかりだった。
 それはともかく、しばらくは、彼らの上に平和な日が流れていった。


 その日、石狩城に変わった客が訪れた。
 楠葉西忍くすばさいにんという男で、貿易商を名乗る人物である。
 だいぶ体力を取り戻していた風秋が、その日は相手になった。具合がよければ義成も出てくることがあるのだが、近ごろはそれもあまりない。
 西忍は、開口一番、まずこういった。
「蝦夷地平定、えらいおめでとさんです」
 続いて、
「せやけど、ご愁傷様です」
 風秋は、眉をひそめた。
「それはどういうことだ?」
「なに、字のとおりですわ。蝦夷は全部領主はんの手に落ちよりました。これはめでたいことでっしゃろ。せやけど、そのせいで、東山道の伊達はんがそれに随分神経とんがらかしてましてん、これはご愁傷様ですねん」
「伊達が?」
「へえ。なんせ、蝦夷の地は表高こそ三〇万石そこそこでっけど、新田開墾やりはったらあと十万は出る国でっしゃろ。それも、蠣崎、姉崎、雫石の三つ巴で分捕りあいをしとる分には、たいしたこともありまへんねけど、今度は雫石が統一しはったさかい、これはかなりでかい国になりまんな。伊達の方でも、そう思てえらいピリピリしとりまっせ」
「ふむ……」
「それはそうと、わざわさそんなことを教えに、蝦夷地くんだりまでお前は来たのか?」
 風秋の側に並んでいた冰の言葉を受けて、もちろんそないなこっちゃありまへん、と西忍は首を振った。
「わて、先の蠣崎のご領主にえらいやっかいになりましてん。せやから、新しい領主はんにも挨拶しとこ思いまして」
「……どういうことだ? 俺はその蠣崎の敵だったんだぞ?」
「さあ、そこが利で動く商売人のおもろいとこですわ」
 自分たちは、取引さえできれば、別に相手が蠣崎だろうが雫石だろうが、気にかけない。ただ、交易に関するさまざまな権益を認めてほしい。それと、国として取引があればいつでも声をかけてくれ。そういうことを、西忍は言った。
「蝦夷の特産いうたら、やっぱランコ皮でっしゃろな。あれ大明タイミンに持ってって売ると、たいした銭になりまっせ。わて、仲介しまっさかい」
「それは、やらん」
「へ?」
 妙な顔をした西忍に、冰は愉快そうに言った。
「我が国では、ランコ皮は扱わないことにしたんだ。奨励しないだけじゃなくて、禁制だからな。密輸でもしたら、引っくくるぞ」
「はあ……ほたら、石狩川の鮭はどないなりまんねん」
「あれは、数を限って許可する。――いくら川床を埋め尽くすほど上ってくると言っても、無尽蔵ではないからな」
「へえ……えらいけったいな真似しはりまんな」
 西忍は、しきりに首をかしげていたが、最後に、また用があったら思い出してくれ、と言って去っていった。
 その晩、風秋は義成付きの小姓に呼ばれ、押っ取り刀で駆けつけた。
 部屋に入ってみると、先に来ていたらしい冰が不安げな顔を上げた。その隣に腰を下ろすと、風秋は医者に、容体を聞いた。
「難しいですな」
 その言葉を聞くまでもなく、義成の体が弱っている様は、何より彼の顔色からよく分かった。
 土気色を通り越して鉛色になった顔。――枕元と足元の灯台の炎が暗いせいか、それは余計悪く見える。
 と、その唇がかすかに動いた。
「……北見守……」
「ここにおります」
 風秋は、聞き取りにくい言葉をできるだけ理解しようと、顔を寄せた。隣にいた冰が、そこからではよく聞こえないので、枕元に場所を移して、耳を傾ける。
「……わしの命数もそろそろ尽きるようじゃ……」
「……」
「そこで、遺言がある。……聞いてくれるな?」
 風秋が答えに迷った時、義成がうっすらと目を開いた。光は弱々しいが、まだ濁ってはいない瞳が、風秋を凝視した。
「……わしの最後の頼みじゃ。いやとは言わせんぞ」
「……」
「冰を娶って、蝦夷地を治めろ」
 その言葉は、予測できたものだったが、次の一言には意表をつかれた。
「……そして、足元が固まったら、南へと進むのじゃ」
「南へ?」
「さよう。……まず、伊達を呑め」
「それでは、蠣崎と異ならぬでしょう。我欲の為に他国へ剣を向けるのは……」
「取り違えるな、北見守」
 小さくはあったが、力強い声で、義成は説いた。
「お主に私欲があるか。わしの見るところ、お主にはさもしい我欲など塵ほどもない。蠣崎風情とは器が違う。あのような小人と自らを比べて、貶めるな。お主には人の上に立つ器量がある。お主ならば、たとえ人から奪った領地に臨んでも、善政を施すことができるじゃろう。……お主の為ではない。人の世の為に立てというのじゃ」
「……買いかぶりです」
「わしのめがねにけちをつける気か?」
 風秋が返答に詰まるのを見て、義成は低く笑った。
「……まあそれは冗談じゃが……よいか、北見守、いやさ、蝦夷守えぞのかみ。確かにお主は、蝦夷の地を平らげ、九分九厘の成功を収めた。……じゃが、それでは、残り九割一厘をどうする? 秋津洲の国民は? お主は蝦夷だけで満足するかも知れん。だが、その満足こそ、《我欲》ではないか?」
「……」
「我欲を戒めたのはお主じゃぞ。……どうする? 世の為人の為に他国を侵すか、我欲の為に蝦夷にこもるか?」
 しばらくしてから、風秋はふっと笑った。
「分かり申した。……しかし、後ひとつ、冰どののことは……」
「不服か?」
「いや……しかし、冰どのの意志が……」
 そのとき、ぱん! と派手な音がして、目の前が真っ赤になった。何が起こったか分からずに目をぱちくりさせると、もう一回、ぱん! と来た。
 往復びんたを張られた、と気づいたのは、ほおが痛くなって来てからだった。顔を上げると、おかっぱ髪の少女がほおを紅潮させてにらんでいた。
「何を寝言を言っておる!」
「冰どの……」
「おぬしが嫌いだとは、私は一度も言っておらん!」
 まじまじと少女の顔を見つめた風秋は、不意にくっくっと肩を震わせた。何がおかしい! と冰が顔を真っ赤にして叫ぶ。
「参った、これは俺が悪かった。……すまん」
「男が簡単に謝るな!」
「いや、本当に悪かった」
 とうとう、風秋は声を上げて笑い出した。なお真っ赤になって、笑うな! と叫んだ冰は、ふと視線を落としてちょっと口をつぐんだ。――義成が、その死相の浮き出た顔に、かすかに笑みを浮かべていた。
「愉快、愉快……」
 そんな声が、聞こえたような気がした。――それは、本当に「気がした」だけだったかもしれない。
「父上?」
 冰は、そういって指を伸ばし、頬に当てた。――暖かい、と思ったのはその一瞬だけで、すぐに、まるで奈落に落ちて行くように、義成の頬がすうっと冷たくなった。
 それを感じたとたん、冰は背筋が凍るような思いを味わってぱっと指を引っ込めた。冰の様子から察したらしく、医者が身を乗り出して、脈を取ったり舌を見たりした。――その間、冰は蒼白な顔をして、義成の顔を凝視していた。
「ご臨終です」
 短い宣告を、医者が沈痛な表情でした。――冰は、目を一杯に見開いて、唇をかみしめていた。風秋はそれを見ると、つと立って、少女のそばにひざを付いた。
「来るか?」
 途端に、細い体がむしゃぶりついてきた。――声を殺して嗚咽しているその体をしっかりと腕の中に抱きながら、なぜか風秋は、今頃になって自分の父の死に顔を思い出していた。

 永禄五年春、かつて《氷原の猛禽》の異名を取った石狩守姉崎義成は、四六年の生涯を終えた。もと隣国領主北見守雫石風秋が、その跡を継ぎ、さらに元蠣崎光広領だった松前を併合して、ここに蝦夷国を興した。
 依然戦国の巷にある世の極北に、一つの光芒が生まれた瞬間だった。

―― 了 ――



 「順応*ナイーブ」に収録していただいた「白銀の姫」の原型である。
 キャラ配置や国名などを若干変えて、「白銀の姫」を作成した。

 書いたのは今から七、八年前である。その頃私は銀英伝とか三国志とかにかぶれていたので、こういう話を書いた。
 だが何分未熟だったので、古語と現代語の混用や誤用などのアラも多い。一番の大嘘は北海道に武士社会があったとしたこと。蝦夷地は当時の米作北限を越えているので、実際には、武士社会そのものが成立していなかった。
 それなのに、なぜわざわざ北海道でやったかと言うと、そこが日本の端だったからだ。
 蝦夷を発した風秋と冰の軍は、芦名を破り、伊達を下し、武田や上杉や北条や今川、そして織田信長を撃滅し、京に入って日の本に覇を唱える。
 が、あまりにも高く理想を掲げすぎた彼らは、皮肉にも自らが乗ってきた下剋上の波に飲まれ、やがて中国・九州地方へと追い詰められていき、阿蘇にて完敗する。
 そして二人はわずかな供回りとともに、新たな土地を求めて南海へと船出して、日本を去って行くのだ。

 こういう話になるはずだった。しかし、今それをやる余力はとてもない。
 だからこれは、これだけの話である。


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