N/H/K (後編)
シーン・1【愛すべき君が】―――――――――――――――――――
時間は深夜。
某マンションの209号室。
―――その中のベッドの上、一組の男女が、お互いの身体を求めていた。
「はっ…はっ…!」
「んッ! あ…直紀…。すごっ…気持ちいい…!」
沢渡直紀と、拝島佳織。
付き合い出して二年になる男女だった。
直紀は今、目の前の女性―――佳織を抱いている。
ふいに、今まで下になっていた佳織は、自分の身体に直紀の男性自身を迎え入れたまま、ゆっくりと身を起こした。
「どうしたんだよ…?」直紀は、眉をしかめる。
「下になってよ?」佳織は直紀の耳元でそう言った。
言われた通り直紀は下になると、ちょうど佳織は、直紀をまたいだ感じになる。
「あッ…ふぅぅ…ッ」自分の膣の中を突き上げてくる、直紀の男性自身の感覚に、佳織は前に倒れそうになってしまう。
そのまま佳織は、腰をゆっくりと振る。
「あっ…ンッ! んンッ!」
「ふっ…はっ…!」直紀は佳織の腰を持って、同じ様に上下に動かした。
佳織の中の、柔らかい肉に包まれた感覚。直紀のものは締め付けられて、軽く射精感覚が脳裏をよぎった。
くっと、自分の奥歯を噛むと。
「すげ…。佳織の、丸見えだ」佳織の、柔らかな毛に覆われた女性のものに触れた。
ずぶずぶ出し入れしている、その脇の肉をむにっと押しながら。
「っふ…ぅン! い…言わないでよぉ…。はぁ…はぁ。あッ…ンッ…」
直紀が少し、虐める様な事を言うと、佳織は恥ずかしくなって、肉の壁を緊張させるのだ。それが、容赦なく直紀のものを締め付ける。
一気に昇りつめようとした時―――
―――ナオちゃん…。
「―――ッ!?」
ふいに、【その声】が聞こえた。
佳織のものではない、声…。
―――ひろみ…ッ!?
そう思うが早かっただろうか。
瞬間的に、二人の【感覚】が、突き抜けた。
* **
そして、一通りの行為が終わった後だった。
「…ねぇ?」息を整えた後、佳織はベッドに寝転びながら、薄く訊いた。
「ん?」
「イく時さ、なんか別に事、考えてたでしょ…?」
「―――え? あ…いや、別に…」図星をつかれて、直紀は思わず、微かな動揺を見せてしまった。
「やっぱり…。ウソつけないんだから、直紀って…」しかし、怒っているニュアンスなどなく…。
「……」
ひろみの事が、脳裏をよぎったから。
彼女―――天城(君塚)弘海との関係があって、しばらく経った後の事。
あの後、もうひろみとは会っていない筈なのに、何故かひろみの事をよく思い返してしまうのだ。
しかも、こういった、恋人である佳織との行為の最中に、特に多く。
酷かったのは、佳織の表情が一瞬だけ、ひろみのものと重なって見えた事…。
勿論、佳織の事を愛しているつもりだった。
ただひろみとの関係の後、何故か佳織との交渉が物足りなく思ってしまう節もあるという。
「―――さ、もう寝よ?」直紀に、佳織は優しく声をかけた。
「…あぁ」直紀も、それに頷く。
先にベッドで横になった佳織。すぐに目を閉じて、寝息を立て始める。
「……」直紀は、そんな佳織の行動を見て、重い溜め息をついてしまった。
しばらく、そのままじっとしたままで…。
―――何故か。
そう。何故か佳織の存在が、自分の中で徐々に離れて行く様な気がして、憂鬱な気分で満たされてしまった。
シーン・2【僕の焦りは】――――――――――――――――――――
無意識のうちに、口数が少なくなっていったのだろうか。
…いつから、こうなってしまったのだろう。
直紀は考える。
【星の船】でのバイトの時間帯。
その日は、割合的に陽が照った、温かい陽気の日だったが、それでも客足は殆どない。
例によって例の如く、テーブルを拭きながら、ぼんやりと考えていた。
「……」
ひろみの事が気になってしまう。
気持ちが、激しく惹かれていた。
「……」ふいに、今までテーブルを拭いていた手が止まる。
―――好き、なのか?
本当はその気持ちには気が付いていた。相手が男であるとか、そんな事は一切関係なく。
ただ、認めたくなかったから…。
ブンブンと頭を振る。
―――いや、違う。
俺がひろみの事を心配して、気にかけてしまうのは、あいつが不幸だからだ…と。無理矢理、自分に言い聞かせた。
アイツは良いヤツだから。
いくら正直者がバカを見る時代とはいっても、あいつは不幸になっちゃいけない人間なんだ。
しかし、そんな直紀の想いなどを無視するかの様に、ひろみには災いの種が尽きない状況である。
いつだったか、ひろみが電話越しに、直紀に言った事がある。
「私は、きっと直紀と出会えたから、今まで生きてこれたんだ」と。
やはり、ひろみには俺が必要なのか…と。そんな事を考えてしまう。
だからこそ、心配でたまらない気持ちになるのだ。
そんな時に。
「…何か考え事、してる?」唐突に、直紀の背後から声がかけられた。
「え?」一瞬どきりっとしてしまい、思わず声のした方を向いた。
その視線の先には、この【星の船】のマスターである仲居美佐子。
カウンターの向こうから、何やら面白そうに直紀の方を見ていた。
「あ…なんスか?」
「何か悩み事でもあったんだ?」カウンターに肘を乗せながら。「えらく考え込んでる様子だけど」
「あ、いや…。ンな事ないですよ」とりあえず、直紀はぶんぶんと手を振った。
内容が内容だけに、あまり知られたくもない。
「そぉ?」
「ま、まぁ…」
特に美佐子と話している場合、彼女の優しいニュアンスが、時には毒に感じてしまう時もある。彼女を信頼してしまって、結果、要らない情報も口走ってしまいそうになるのだという。
「…ま、人には色々と言えない悩みだってあるものね」あくまで優しいニュアンスのまま、語尾を苦笑に染めた。「ゴメンね、無理に訊いちゃって」
「あ、いえ。別にいいですよ、そんな事」
「でもね」
「はい?」
「無理になったら、いつでも言ってね? こんな私でも、愚痴を聞く事くらい出来るから…ね?」優しい笑みを浮かべて、美佐子は言った。
「…はぁ」そして、そんな美佐子には逆えない直紀が居た…。
* **
なんとなく家へ帰るのが憂鬱になってしまい、直紀は大学時代の友人と一緒に、
少し遅くまで酒を飲んでしまった。
実を言うと、ここ最近、佳織が性交を求めてくる回数が急激に増え出したのだ。
今までは週に二、三回が普通であったのに、最近では毎日、しかも数回も求めてくるという。
別に嫌でもない。気持ちいい事にこしたことはないから。
ただ、その度にひろみの顔を思い浮かべてしまい、そんな自分に自己嫌悪してしまう事もあったから…。
そういう事もあり、ひろみのこともあり…。だから、家に帰る事が、少し憂鬱に思えてしまったのである。
―――夜も十二時を過ぎていた。
一応は佳織に遅くなると言っていたから、小言も食らう事はないだろう―――と。少なくとも直紀はそう思っていた。
しかし…。
「ただいまぁ…」と、直紀が家のドアを開けた時だった。
同時に。
「おっかえりー!」という、明るい声が返って来た。
思わず、直紀は怪訝な顔になる。
そんな直紀の前に、やけに明るい調子の佳織がやって来た。
「……」直紀は言葉を失ってしまう。
「ん? どうしたの?」そんな直紀の表情など気にする様子のなく、佳織はキョトンとした様子を浮かべた。「そんな驚いた顔してさ」
「あ、いや…」
直紀はこほんと咳を払うと、部屋の中に入った。
部屋の中には、特別何があるという事もない。これといった変化もなく、いつも通りといえば、怖いくらいにいつも通りな雰囲気である。
「……」先に部屋の中に入る直紀。
「ふふふ…」そして佳織は、直紀の背後から抱き付く。
がばっと。でも、ふわっと優しく、包み込む様な感じで…。
「お、おい…」直紀は焦ってしまった。
直紀の背中に、佳織の胸の感触がある。
しかもこの感覚は…ブラジャーをつけていない。
「どうかしたの?」まるで確信犯の笑みを浮かべて、佳織は直紀の表情を覗き込んだ。
蠱惑的なニュアンス。
明らかに【何か】を誘っていた。
「…お前、なんでそんなテンション高いんだよ」その蠱惑的な雰囲気に違和感を感じてしまう。
今までの佳織には、まずもってありえない感覚だったから。
「えー? そんなにテンションなんか高くないよぉ」けらけらと笑いながら、佳織は返した。
その息には、酒臭さなどはなく―――つまり酔ってはいないという事なのだが。
…という事は、このテンションの高さもナチュラルなのか。
「それよりさ…」背後から抱きついたまま、直紀に自分の身体を押し付ける。
それ程大きくなかった佳織の胸が、それでもぎゅうぎゅうっと、直紀の身体に押し付けられて。
直紀の胸が、どくんっと高鳴る。
今まで見せた事のない、佳織の大胆な様子に。
蠱惑的で、少し違和感があったが、こういう事をされて反応しない訳もない。無性に佳織を抱きしめたい衝動にかられた…。
―――けれど。
「…なぁ、佳織?」―――しかし、気になった。
「うん?」
何食わぬ顔を見せる佳織の方を向いて。「なんでお前、今日、そんな―――」
そして直紀が言い切るより早くに。
佳織は直紀の唇を塞いだ。
「……」
「……」
何が起こったのか分からなかった。
あまりにも展開が急過ぎる。
あまりにも、佳織は誘い過ぎている。
直紀の脳裏に、ざらっとした感覚がよぎった。
「―――ッ!」思わず、直紀は佳織を引き離していた。
佳織の両肩を持って。
「…?」佳織はやはり、キョトンとした表情を見せていた。
そして。
「…なあ」直紀は、やおら真剣な表情を見せる。「どうしたんだよ、なんか変だぞ、今日のお前」
真剣というよりも、むしろ動揺、困惑…。
「変ってなによぅ?」そして佳織は、そんな直紀の表情を受け流すかの様に、おどけたふくれっ面で返した。
「変なもんを変だって言ってんだ」
「あはは。そんな真剣な顔しちゃって、おかしいんだー」なおもおどけた様子で、佳織は言う。
「おい!」さすがに耐えかねて、直紀は大きな声を出してしまう。思わず、佳織の両肩を持つ手に力がこもった。「きちんと答えろよ! 俺は真剣に言ってんだ!」
最初は、やはり、あはは…っと笑みの色があって…。
しかし―――次第にその表情から、笑みが抜けていく。
「……」やがて、言葉さえ失った佳織は。
顔をうつむかせて。
「…今日だけじゃない。最近のお前も、やっぱちょっと変だよ」
「……」
「毎日毎日、セックスしようしようって…」そして、ゆっくりと呼吸を整えてから、直紀は続ける。「…今日も、やっぱり誘ってたのか?」
言葉などなく。
ただ、こくりっという頷きが返って来た。
「…なんで?」
「なんで…って」ふいに、佳織の肩が震えた。
艶やかな黒髪が、彼女の肩の動きに合わせて、震える。
ふいに佳織は、自分の肩を持っていた直紀の手を払って。
ゆっくりと部屋の中へ入って行った。
そのまま、部屋にあったベッドに倒れ込む。
「お、おい…」直紀は佳織を追いかけた。
何か―――得体の知れない、重い感情が、ズシンっと腹に落ちた気分が、直紀の身体を突き抜ける。
息苦しく、そして自責の念で溢れた、そんな感情。まるで腹に落ちた【もの】から湧き出して来る様な。
佳織が部屋に入った少し後で、直紀も部屋の中に入って行く。
そして、佳織を見付けて、彼女の居るベッドまで歩いて行った。
「……」うつ伏せになり、枕をぎゅっと抱きしめる佳織。
「佳織…」直紀はただ、そんな佳織を見つめていた。
言葉なくベッドまで近寄って。
そして、ベッドの端っこに腰を下ろす。
「…悪ぃ、さっきのはちょっと強く言い過ぎた」何故かその言葉がすっと出た。
酷い嫌悪感があったから。
「……」しかし、佳織は答えない。
しばらくの間、沈黙が流れた。
張り詰めた空気。痛いくらいに緊張した空気が、直紀の心に突き刺さる。
無言、無言、無言…。
そして。
「なぁ…佳織?」そんな沈黙に耐えきれなくなってしまい、直紀は思いきって口を開いた。
「……」佳織はうつぶせのままで、何を言う事もない。
「…しようか?」
その言葉を言った途端だった。
がばっと佳織が上半身を起こすと、四つんばいになって直紀に近寄った。
了解したのか―――いや、違う。
「お、おい…」直紀は驚いてしまった。
それは、佳織の表情が、嬉しさではなく、むしろ怒りとも取れる悲しい表情をしていたから。
「か…かお―――」
パシンッ…。と。乾いた音が部屋の中に聞こえた。
「ッ…」直紀は、何が起きたのか分からなかった。
佳織が、直紀に平手打ちをした…。
そして直紀がそれに気がついた時には、すでに佳織の瞳には涙が溢れていた…。
***
「あ…」直紀にとっては、平手打ちされた痛みよりも、そちらの方が衝撃は大きかった。
佳織が泣いている…。
普段は泣き顔などおくびにも見せない筈だったのに、今は無防備なまま、直紀に感情をむき出していた。
そして。
「―――バカッ!」佳織は大きな声で叫んだ。
涙に濡れた、そして震えた声。
「佳織…」
「バカ、バカバカ! 直紀のバカ!」溢れ出る涙に抗う事もせず、佳織は思い切り怒鳴りつけた。
「バカって…」
そして、佳織はゆっくりとうつむく。
しばらくして、佳織の嗚咽が聞こえ始めた。
腹に落ちた【モノ】からの嫌悪感が更に増して、直紀の身体中を駆け回る。何故、佳織が泣いているのかすら分からないのに、しかし嫌悪感だけは確実に存在した。
苦しみ。息苦しいまでの感情の波が、直紀の中にある防波堤を破って、中に侵入してくる。
「…どういう事だよ? 俺…分かんねぇよ」
「ひっく…えっく…」嗚咽だけで、答えられそうにない。
直紀が何を訊いても、佳織が返すのはそれだった。
徐々に、イライラとした感情が直紀の脳を刺激した。
「…なぁ?」
「えっく…ひっく…。ぅぅ…」涙を手の甲で拭っている。
「いい加減にしろよ!」思わず、怒鳴ってしまった。
びくんっ! と、佳織の身体が震える。
まるで子犬の様に。
直紀はそんな佳織の様子を見て、ハッとした。自分は今、なんて事をしてしまったんだ、と…。
「……」直紀は、それ以上の言葉なく、ただ、黙ってしまう。
口を開けば、溢れ出る感情が押し出て来そうな気がしたから。
イライラとして、それでも悲しくて…。
佳織の事を愛おしく思えているのに、同時に厭わしく感じてしまう。
佳織の事を愛していると思っているだけに、そんな自分にある感情の裏表に、直紀は苛立ってしまう。
笑顔になって欲しいのに…。
佳織の嗚咽は、止んでいる。
ただ、今だ泣いている様子は拭いきれずに…。
「…ごめん」直紀は、言っていた。
すると。
「直紀ぃ…」やっと佳織は、口を開いた。
うつむいたままで、涙に震えた声。
必至に声を繋げているのが痛いほど分かった。
「どうしたんだ…?」
「…切ないよ」ぽそっと、まるで呟くくらいの小ささで、佳織は言う。「私、切ないよ…。辛いよぉ…」
ドクンッ…と、大きな鼓動が直紀の身体を打ち抜く。
「辛…い?」直紀は動揺を隠しきれない様子で、佳織の言葉を反芻した。
こくりっと、佳織は頷く。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
涙が、音もなく流れて頬を伝っている。痛いくらいに儚く、そして脆く、そして美しい表情…。
「…佳織」何故か、その表情を見ると、直紀の心までがしくしくと痛んでしまう。
「私…直紀の事、好きだよ? だから…セックスしたいって思ってた…」涙に濡れた声で、力無く佳織は、言葉を紡いでゆく。「けど、けど…」
「……」
「なんで…?」それは、まるですがる様なニュアンスだった。「…なんで私、直紀とセックスする度に、こんなに切ないの…? なんでこんな、悲しいって思っちゃうの? なんでこんなに―――焦っちゃうの…?」
「……」直紀に言葉なく…。
答えないのではなく、答えられなかったから。
佳織は、そんな直紀に、ぎゅっと抱きついた。
「直紀ぃ…。切ないよぉ…」
そして、佳織は直紀の胸で、その小さな肩を震わせていた…。
どくん…どくんと胸が高鳴る。
「佳織!」思わず直紀は、そんな佳織を思い切り抱きしめた。
「―――ッ!」少し、佳織は驚いた様子を見せたが。
すぐに力を抜いて、直紀に身体を預ける。
佳織が、たまらなく愛おしい。そんな気持ちでいっぱいになる。
そして。
「佳織…?」直紀は佳織を抱き締めたまま、ゆっくりと呟いた。
「…何?」脱力させた状態のままで、佳織。
「今日、お前の膣で…出していいか?」
一瞬、びくりっと身体が震えた。
直紀の言葉―――それはつまり、或いは子供を孕ませる可能性があるという事で…。
実際、直紀も不安だったから。自分は佳織を愛していると思っていたが、直紀自身も焦っていた。それはひろみの存在があったから…。ひろみが現れて、【彼女】を抱いた事で、今までになかった【何か】の感情が、直紀の中で芽生えた。ともすればその感情に呑み込まれ、佳織の事を愛する以上に、ひろみの事を意識してしまう、と思ってしまったから。
だからこそ、佳織との愛の証が欲しいと思った。
しばらく空白の時間が、ゆっくりと流れた。
その後で。
佳織は―――ゆっくりと頷いた。
***
直紀は、佳織をベッドに押し倒した。
ぽふん…と、佳織の身体がベッドに沈む。
佳織は、ベッドで仰向けになっている。そして直紀は、そんな彼女の上に、覆い被さる様にして…。
何故か直紀は―――そして佳織は、お互いの一挙手一投足に胸を高鳴らせた。
これから起きる事に対しての緊張か…。
「ん…」佳織は、目を閉じて、自分の上に居る直紀に、唇を突き出した。
まるで、直紀を求めるかの様に。
「……」直紀も、そんな佳織に応える様にして、唇を寄せた。
ぽつ…っと―――
直紀の脳裏を、佳織ではなく…ひろみの笑顔がかすめた。
「ッ!」なんでひろみの顔が浮かぶんだよッ!
同時に、罪悪感が直紀の胸に浮かんだ。
ブンブンッ…と、直紀は頭を振る。
ひろみは関係ない! 俺が好きなのは佳織なんだッ!
「直紀…?」さすがに、いつまでたってもキスの感覚がないからだろうか、佳織は思わず、目を開けそうに―――
刹那。
直紀は強引に、佳織の唇を奪った。
俺が好きなのは佳織だ、佳織なんだ―――
まるで頭の中にこびりつくひろみを振り払うかの様に、直紀は佳織の唇の感触を貪った。
チュッ…チュッ…っと、音を立てて、佳織の唇、そして歯、そして舌、唾液を弄ぶ。お世辞にも上手とは言い難い、荒々しい愛撫ではあったが、佳織は薄い声を洩らしていた。
キスで口を塞いでやりながら、直紀は佳織の胸に、手を重ねた。
ぴくりっと、佳織の身体が震える。
佳織は、白いピチッとしたカッターと、そして下も、彼女の身体をくっきりと現している、ピッタリとした黒いパンツ…。
カッターが薄い所為もあって、直紀は手越しに、佳織の胸の温かさを感じた。そして、ふよんとした、柔らかい感触…。直紀はそれだけで、微かな安堵を感じてしまう。
ゆっくりと胸に置いた手を、動かし始める。
「んっ…」同時に。薄い声が、佳織の鼻を抜けた。
ふよん、ふよん…と、まるで円を描く様にこね回してゆく。
外側から内側へ、マッサージする要領で。
「はっ…ふぅ…」時折、ピクンと体が跳ねるが、それでも佳織の口から、声が高く上がる事はない。
直紀は唇を離すと、両方の手で、佳織の両バストをマッサージし始めた。
カッターの上から。多少のごわごわする感覚があるのだけれど、佳織からしてみれば、バストのトップにカッターが擦れて、それが新たな刺激になっていた。
徐々に、直紀の手の動きがダイレクトになってゆく。
ベッドがその動きに合わせて、きしみ出す。
「はっ…。ふぅ…。ふぅ…」なかなか佳織は高い声を上げようとはしない。
が、その手はシーツを握り締めて、何かを必死に我慢していた…。キスを解かれた唇から見える歯も、少し食いしばっている。
ふいに直紀は、今まで揉みしだいていた胸を寄せる。
カッターにバストのラインがくっきりと浮かんで。そのトップは、薄桃色に染まっていた。
ゆっくりとそのトップに、唇を付けた。
チュッ…。
「ッひグッ!」背筋に電気が走り、佳織は思わず、体を弓なりにさせた。
カン高い声が出そうになったのを、無理矢理噛み切って。
唾で濡れたカッターは、更に佳織の乳首のディティールをくっきりと浮かび上がらせる。そして直紀は、それに吸い付いた。
唇越しに伝わる佳織のポッチは、少し固く尖っていて、弾力が強い。
ずるるっと、カッターに残った唾を吸い取ってから、直紀は唇で、佳織のボタンを甘噛みした。
「ンッ…んン!」唇を噛んで、必死に声が出るのを我慢している。息がくぐもっていたから。
内股になって、腰をもじもじと動かしているのが分かった。
直紀は舌を出して、佳織の乳首を押し倒す。
「くぅ…ん」思わず直紀の頭を押さえてしまう。
しかし直紀は、佳織の乳首を執拗に弄ぶ。もう片方は、指でこね始めて。
はむはむっと噛んでいる横で、指は胸のボタンをくりっと、少し強めにつねってみた。
「あっ…はッ!」佳織はたまらなくなって、今まで閉じていた口が開く。
横を向いていた為か、ヨダレが垂れてしまう。
佳織の、直紀の頭を押さえる手に力が入った。むぎゅっと、佳織の胸の谷間に顔がうずまる。
今まで胸を愛撫していた手を、ゆっくりと佳織の下腹部へと向わせる。
少しキツくて、手を入れる隙間もない様に見えたパンツであったが、ヘソの下にあったボタンを外すと、案外すんなりと手が中に入った。
そして、パンツの中に指先を潜り込ませる。
その下にあったパンティの形を、ゆっくりと指でなぞった。
小さなクレヴァスのある場所を触ると、少しぴちゃっとした感覚が、直紀の指先に伝わった。
「…濡れてる…よな?」
直紀の言葉に、佳織はこくんと頷く。
そして直紀は、指で女性の谷間をなぞった。
「んッ…ふぅ」薄くくぐもった声が鼻を抜けて。
そして、佳織の緊張した内腿に、直紀の手は挟まれてしまう。
少し、直紀の手に力がこもる。
ゆっくりと他の指で佳織の圧迫してくる太腿の肉を掻き分けながら、中指は彼女の花びらをなぞり始めた。
ぴちゃ、くちゅっと、微かに水に濡れた音が聞こえる。
「ふ、ぁ…」思わず、押し寄せる快楽に、佳織の腰は引けてしまった。
「ん―――しょ…っと」すると、少し上がった佳織の腰に空いている手を差し込んで、直紀は彼女の肢体をしっかりと固定した。
そしてそのまま…。
くぷ…っと、パンツ越しに、女性自身の花びらの中心にある穴に指を忍び込ませて。
「ひゃッ…ンッ!」腰が飛び跳ねようとするも、直紀の手によって固定されているために動けずにいた。
ただ、何処か切なそうな赤みを帯びた表情、濡れた唇、そして微かな、もぞもぞとした腰の動きが如実に、全身を駆け巡る甘い感覚の存在を直紀に知らせていた。
「すっげ…。もうぬるぬるだ…」少し中指を、そのクレヴァスから引き離すと、自分の親指でその指を擦って。
「―――ッ!」恥ずかしさが支配したのか、言われた佳織はきゅっと唇を噛んだ。
「…服、脱がせんぞ」
「…ん」微かに佳織は呟くと、こくっと頷いた。
直紀はそれから、彼女の服を脱がし始めた。
まずはカッターから。ぷち、ぷちっとボタンを一つ一つ外して行く。
下には何も着けていない。ボタンが外れる度に、佳織の真っ白な、雪の様な儚さを持つ肌が露わになってゆく。
そして全てのボタンが外れた時、彼女の胸が、その下から現れた…。
***
直紀も裸になり、お互いがお互いの裸をまじまじと見つめ合った。
毎日見ている筈なのに、何故か今日は雰囲気が違う…。
分かっているのだ。今日だけは特別なのだ、と。そう思っているのが、手に取る様にお互いに分かる。
「佳織…」直紀は名前を呼ぶと、ダイレクトに彼女の胸に触れた。
ふよん…。
じかに触れた佳織のそれは、最初は少し冷たくもあったが、すぐに熱っぽくなってくる。
「っふ、ぅん…」
そして空いている方の手を、佳織の大事な所へと這わせていった。
少し滑らかなカーブをなぞった後、佳織の柔らかなヘアが指を向える。それほど固くもない佳織のそれは、手に当たる刺激としては心地いいものだった。
やがて双丘へと指は向った。その二つの丘の谷間のスジに沿って、中指を滑らせてゆく。
「くふっ…!」毎度の事ながら、佳織は腰を引かせてしまう。
直紀の指がずるずると移動をする際に、佳織の花びらの中にあったクリトリスを擦っていったから。
直紀も指の抵抗で分かった。佳織のそれも、少し固くなっていた事を。
そして中指で、佳織の女性自身の花びらの部分を、わざと焦らす様に触っていった。
「ん…ぁ…は…」しかし、なかなか肝心な部分に指を入れてもらえない切なさからか、まるでストリップショーの様に、佳織はヒップを回す。
直紀もそれを分かってて、わざと焦らした。
佳織の穴から分泌された蜜が指を濡らして、くちゅり、くちゅりっと卑猥な音を部屋に響かせる。
やがて、佳織の愛液によって指の滑りがよくなった直紀の指が、ゆっくりと彼女のクレヴァスに侵入した。つぷぷ…と、ゆっくりではあるが、きちんと中へ入って行く。
「っはン…!」
佳織が切なそうな甘い悲鳴を上げたのを見て、直紀は指を動かし始めた。
佳織の中は柔らかく、中にある襞が指先にまとわりつく。締め付けらしい締め付けの感覚はなかったが、柔らかく、そして滑らかな肉の感触に包まれる。
どこに動かしても、佳織の中では肉の壁がまとわりついて来る。
しかし、動かす度に、くちゃにちゃっといやらしい音が響いた。
「っふぁ! んっ…!」つま先がピーンと伸びて、シーツに円を描く。
手は、ぎゅっとシーツを握っていた。
蜜が彼女の股を流れ落ちて、シーツに染みを作る。
指で柔肉を押しのけた後、直紀は佳織の中にもう一本指をつぷっと入れ込んだ。
「きゃふッ!」もう一本侵入して来た直紀の指に、背が弓なりになってしまう。
二本の指は、お互い衝突する事もなく、佳織の中を掻き回してゆく。
そしてその親指が、くりゅ…くちゅっと、佳織の花びらにある、ボタンを愛撫した。
「んっ…ふぁ!」佳織はたまらなくなって、大きく尖った声を出してしまう。
佳織のそこからは、直紀の愛撫によって、三つの違う濡れた音が、くちゅ、にちゃ、ぷちゅ…とそれぞれに卑猥な和音を奏でていた。
「直紀ぃ…」真っ赤に染まった顔の佳織が、潤んだ目で直紀を見つめる。「いい。気持ち、いいよぉ」
「あぁ…」思わず、佳織にキスをしてしまう。
直紀自身も、自分のものが固くなっているのが分かった。
緊張。それもあるが、何故か今日は、こんな佳織の行動が可愛くて、愛おしくてたまらない気持ちになったから。
「佳織…。俺のも、してくれよ」言いながら、直紀はごろんとベッドに仰向けになった。
彼女の中から指を引き抜きながら。
「うん…」佳織はこくんと頷くと、ゆっくりと直紀のモノの方へ顔を向わせた。
「違うだろ」
「…え?」
「お前も、こっちにケツ向けろよ」
「あ…。うん」直紀のしたい事が理解出来たのか、佳織は頷くと、言われた通りに、彼の頭をまたいだ。
***
お互いが、お互いのものに口をつけた。
ぴちゃっと、口の温かさに触れて、お互いの体がぴくんと動いた。
佳織は、直紀の、倒れていた男性自身を握り締めて二度、三度上下にしゅっしゅっと扱くと、一気に口に迎え入れた。
「はっ…ム」女性の佳織からしてみれば、直紀のものは少し大きく、それだけで口の中が一杯になった。
「うっく…」直紀の表情が歪む。
さすがに先日のひろみと比べて、経験のない分、佳織の動きはぎこちない。
しかし、そのたどたどしい動きが、直紀にとってはたまらなく愛しく、そして極上の快楽になって脳髄を走ったのである。
「んっ…ふっ…」口の中いっぱいに直紀を頬張った佳織は、その状態のまま、上下に頭を動かす。
正直、テクニックも何もあったものではない。唾も垂れ流し、手も固定させるだけという…。しかし、それでも張り詰めた直紀のものは、口の中のゴツゴツと当たる刺激に酔っていた。
「佳織…」
精一杯、直紀に奉仕しようという姿の見て取れる佳織。
そんな佳織の、普段隠された部分が、今、直紀の目の前にある。
佳織の女性自身。
直紀は頭を上げて、ゆっくりと口を近づけた。
チーズの様な、少し濃い匂いがする。その花びらから漏れる愛の蜜は、もう粘りも少ない。何時、直紀に愛撫してもらえるのかと待ち侘びて、ひくひくっとして、赤く充血していた。
そして、ぷちゅ…と口を付ける。
「ふぁッ…!」同時に、佳織の体が跳ねた。
直紀のものを咥えていた為に、少し不鮮明な声。
佳織の蜜は無味無臭。その液体を、直紀はじゅる…ずるるっと音を立ててすすってゆく。
「ひぁッ…ふぅッ…」びくり、びくりっと佳織の体が震えた。
しばらくお互いがお互いを弄んだ後。
ゆっくりと佳織は、直紀から腰を退ける。
「…?」直紀は眉を寄せた。
その視線の先に居た佳織は、頭も退けると、ゆっくりと直紀のものの方へ、腰を持って行った。
「直紀…動かないでね」そしてそのまま、佳織は直紀の腰にまたがった。
「佳織…」
そのまま、佳織はゆっくりと腰を下ろしていく。
手で、直紀の男性自身を立てて、そこに自分の花びらを押しやって。
「はぅっ…くぅぅ…」全身を、鋭い快楽が突き抜ける。
つぷ…ずぶ…ずぶぶぶ…。水に濡れた挿入音が、薄く響いた。
「っふ…!」次第に柔肉に包まれていく自分の息子の感覚に、直紀は思わず息を詰まらせる。
温かい感覚。先程指で掻き混ぜていた時と同じ様に、佳織の膣の中はひくひくと蠢いて、まるで肉の壁が侵入者に吸い付いて来る様だった。
じわっと、腰の辺りからの快楽が脳天を全身を駆け回る。
「ン…ンンンッ!」入って来る直紀のものを窮屈に感じながらも、必死に腰を下ろしてゆき―――
やがて、直紀の自身を全て咥え込んだ。
「ンッ!」ひときわ高い声が上がった後。「…ふぅぅ…」と、微かな安堵の息が、佳織の口から漏れる。
佳織の中は、相変わらず柔らかい肉が直紀のものを圧迫してくる。
亀頭の方には襞が絡みついて、気を抜けば一瞬で上り詰めてしまいそうだった。
「気持ち…いい?」潤んだ瞳の佳織が、下に居る直紀に訊いた。
「あっ…あぁ、気持ちいい」
「よかった…」にっこりと笑みを見せた佳織は、そのまま前傾になり、ベッドに手をつく。「じゃあ…動くよ」
「…あぁ」
直紀が頷くが早いか、佳織はゆっくりと、その結合した部分を上下に動かしはじめた。
あらかじめ充分濡れていた為に、多少窮屈でもすんなりと上下に移動する。
ズッズッ…と、佳織のモノに出入りする度に、卑猥な音が響く。
「あッ! …ンッ! ンッ…」思わず、切なそうな表情を見せてしまう。
「うっ…く」直紀も、自身に受ける、柔肉の擦れ付く感覚に、微かな呻きを上げた。
ぬぶっ…じゅぶっと直紀のものは、佳織を突き上げる。
「ンッ! いいっ! いいよぉ…気持ちいい! 気持ちいいよぉ、直紀ぃ!」思わず声が上擦ってしまう。
「あ、あぁ、すっげぇ気持ちいいぜ、佳織」直紀の声も上擦ってしまう。
そして直紀は、小さいながらも、体の揺れに合わせるふるんふるんっと揺れている、佳織の胸に手を伸ばした。
そして、そのまま佳織の胸を揉み始める。
「ひゃッ…ン!」腰を動かしながら、佳織は唇を噛んでいやらしい声が洩れるのを防いだ。
甘い悲鳴が鼻を抜ける。
同時に、きゅ…っと、佳織の中の肉が緊張して直紀の男性自身を締め付ける。
「うっ…」一瞬、軽く腰が痺れた。
もうそろそろ、キそうだ。
思った直紀は、少し強引なくらいに佳織の腕を掴んで、上半身を起こした。
「ひゃっ…!」いきなりの事に驚いて、佳織は高い声を上げてしまった。
そのまま、ごろん…と。
佳織はベッドに倒される。直紀に両腕を掴まれて、固定されたまま―――或いは、直紀のものと結合したまま。
佳織が下になり、直紀が覆い被さる事で、今まで以上に深く、男性自身が佳織を貫く。
「ンッ! あぁぁッ!」
「はっ…はっ…」直紀の息も、少し荒い。「佳織…大丈夫か?」
「…うん」
「よし、じゃ…動くぞ…」
「うん―――ひゃはッ!」言葉の途中で、直紀が腰を動かし始めた為に、佳織の言葉は喘ぎに塗りかえられた。
体が弓なりになる。
直紀はゆっくりと動き始めた。ズブ…ヌブっと、濁った音が響き出す。
腕が掴まれて固定されているので、身体が動く事も出来ず、佳織の身体に、発散出来ない快楽がこもって。
「イイッ…! いいよぉッ!」佳織は恥も外聞もなく、声を大きくして叫んだ。
直紀には声はなく、ただ、徐々に腰の動きが早く、荒々しくなっていって。ベッドがぎしぎしっときしんだ。
もう腰の辺りにまで射精感が高まってきている。
「イッちゃう…直紀、アタシ…もぉ―――」
「イけよ! 佳織!」直紀の方も、もう高まってしまいそうだった。
そして数度、直紀が腰を振って突き上げた後だった。
「ンッ…ひゃぁッ!」ビクンッ! と、佳織の身体が大きく跳ねた。
同時に、佳織の中が緊張、痙攣して―――
「はっ…く!」直紀もそれに一歩遅く、ビクンっという衝撃が全身を伝った。
意識が真っ白になる。思いきり、びゅくびゅくっと、佳織の中に吐き出した。
「あぁ…あぁぁぁ…」徐々に広がる、直紀の分身の温かさに、佳織の瞳に、思わず涙が浮かんだ。
―――出てる…。直紀のが…いっぱい、お腹に…。
―――そして。
こうして、二人の行為が終わった。
シーン・3【君の気持ちに】―――――――――――――――――――
「―――はぁ」直紀は、重苦しい気持ちになって溜め息をついた。
翌日。バイト中での事だった。
例によって例の如く、客の居ない時間帯。今日はぼんやりと外の景色を眺めながら。
マスターの美佐子は、そんな直紀の様子を心配そうに伺っていた。
結局、昨日は強引に佳織の中で出してしまった。
そうすれば、自分の中にあるひろみへの依存心を断ち切れると、そう思ったから。
「……」しかし、現実は違った。
何故か、後悔と悔しさでいっぱいになっている自分が居た。
そう、ひろみに対してのうしろめたい気持ちと、そしてそんな自分を愛してくれる佳織に対しての背徳感…。
直紀は思わず、重い息を抜いた。
ふいに、直紀の頭の中に、佳織の小説の一節が思い浮かんだ。
“女って、男が考えているよりも敏感なものなのよ? だから男の嘘なんか、たちどころにバレちゃうの。男の嘘が下手な訳じゃないわ、女の感性が鋭いだけなのよ”
それは、佳織のデビュー作で、主人公の女性の言った言葉だった…。
思わず直紀は、どきりっとしてしまう。
佳織とセックスする度に、ひろみの事が思い出されて仕方なかった…。恐らく、佳織はその事で焦ってしまったのだろう…。
どちらにせよ、実際に佳織をそこまで追い詰めてしまったのは、他ではない直紀自身…。
当然、忘れようと思った。
ひろみの事を。
しかし、頭から突き放そうと思えば思うほどに、ひろみの事を意識してしまうのだ。
ひろみの笑顔、ひろみの泣き顔、怒った顔…。そしてその度に、直紀は心の中が締め付けられそうになる。
もし自分が、他の女を孕ませたと知ったら、どんな顔をするのだろうか。
そんな事を考えると、怖くて仕方ない。
思わず、ぶんぶんっと直紀は頭を振った。
―――違う違う! あいつは好きとか、そんなんじゃない! ただ…あいつの事が心配なだけなんだ…。あいつが心配で…泣いてるんじゃないか、不幸になってんじゃないかって…心配で…。
―――なら、何故心配するのか。
その疑問が、頭の中でぽつっと浮かんだ。
まるで銃で撃ち抜かれた様な感覚が、直紀を伝った。
そんな時。
「…ねぇ、沢渡くん?」ふいに、彼の背後から、美佐子は声をかけた。
「―――あ、はい? なんですか?」今まで考えていた事が考えていた事であったので、直紀は思わず焦って、美佐子の方を見た。
瞬間。
直紀は言葉を失ってしまう。
美佐子が心配そうな表情を見せていたから。
「あ…あの、美佐子…さん?」
「ねぇ、ホントに何を悩んでいるの? 最近変よ、沢渡くん…」
「あ、いや…その…」言い難そうに、直紀は視線を落とす。
「何にもない訳ないじゃない。そんな顔して…」
「…すみません」
「私にも言えない事?」
「……」直紀は答えに詰まった。
一瞬、美佐子に相談してしまいそうになったから。それくらい、直紀自身の意識も追い詰められていたから…。
美佐子は軽く息を抜くと、直紀にこう言った。
「―――確かにね、人には言えない事、言える事っていうのがあると思うけれど、でも…そんな顔をしたままだと、やっぱり、私だって不安になっちゃうし、お客様にだっていい影響与えないと思うのよね」
「…ええ」分かっている。自分だって一秒でも早く、この顔から抜け出したいと思う。しかし…。
「…私、そんなに頼りない?」
「ち、違いますよ!」
「そう…?」
「……」
しばらくした後で。
ゆっくりと直紀は息を吐いて。そして―――
美佐子に話し始めた。ひろみの事を。
そして、今まで起こってきた事を…。
***
全て聞き終わった後、美佐子の表情は、少し重かった。
かつての親友が居て、この前の同窓会で会って、ひょんな事から肉体関係を持ってしまった。
以来、彼女との行為の最中にも、その親友の顔が浮かんできて、結果、佳織を傷付けていた…と。
「―――俺が悪いっていうのは分かってんです…。けど、悪いって思っても、俺、ひろみの顔が頭から離れなくて…」
「そうだったの…」
「俺、もうどうしていいか分からないんスよ…。実際、佳織とヤって、子供でも出来れば、もうひろみの事が忘れられるって思ったのに、俺、あいつの事、全然忘れられなくて…」
「……」
「―――俺、間違ってますか?」まるで、すがるような口調だった。
「……」美佐子も、答えられないでいた。
しばらくの時間があって。
やがて美佐子が口を開いた。
「…まず、四年間以上あなたを見てきた私個人の意見としては…間違ってるって、そう思うよ」
「…そうスよね」少しだけ、気が楽になった気がした。
「まぁ、こんな事を言うのもいやらしい話なんだけどね、やっぱり同性愛っていうのは世間から見てみれば、風当たりがキツいのよね。悲しいかもしれないけれど、それは事実」
「違ッ…! ひろみは…同性とか、そんなんじゃなくて、特別な―――」
「みんなそう言うのよ」直紀の言葉を遮って、美佐子はきっぱりと言い放った。
「……」
「確かにあなたからしてみれば、ひろみさんは同性以上の存在かもしれない。けどね、周りの目から見てみれば、同性には変わりないの」ゆっくりと、諭す様な言葉だった。「沢渡くんは、すごく良く出来た人間だって思うし、優しい男の子だと思う。だからこそね、親…っていえば少し大袈裟かもしれないけれど、そういうのに近い立場の私からしてみれば、やめて欲しいって思う。世間体を気にする訳じゃないんだけれど、風当たりが強くなって苦労するっていうのが分かってて、それを勧められないのよ、やっぱり…」
「……」直紀は思わず、重いため息をついてしまった。
美佐子の言葉は、いちいちもっともな言い分だったから。
そして、ひろみを諦めるのか…と、そう思うと、直紀の気持ちが憂鬱になってしまった。
しかし、次の美佐子の言葉は違っていた。
「―――けどね。女として言えるのは、自分の想いを確かめてみればいいんじゃないかなって、そういう事」
「自分の…想いを確かめる…?」
「そう」美佐子はゆっくりと頷いた。「あなたにとって、本当に大切なのは佳織さんか、そのひろみさんか…どっちかっていう事」
「…ッ」思わず、直紀の鼓動が高鳴った。
自分に大切なもの。
佳織か、ひろみか―――
今、佳織だと思っている。いや、思い込んでいる。
しかし、実際のところ、ひろみの顔が脳裏から離れないのも事実で…。
「もし佳織さんの方が大切に思えるんだったら、佳織さんに想いを捧げればいいし、それが逆に、ひろみさんだったとしても…それでもいいって思う。風当たりが強かろうと何だろうと、本当にその人の事が好きだったら…ね」
「……」
「会ってきなさいな」ふいに、ぽつっと美佐子は言った。
「…え?」
「そのひろみって子にも会ってさ、その子に対しての気持ちが、本当に愛なのかどうか…確かめてくればいいんじゃないかな?」
「…でも、仕事―――」と、直紀は言いかけて、途中で止めた。
こんな顔で、接客のバイトが務まる訳もない。それに美佐子にも余計な不安をかけてしまうだろう。そう考えると、仕事云々と言えなくなってしまったのだ。
そして…。
「…はい、分かりました」言った直紀は、今までかけていたエプロンを外すと、綺麗にたたんで美佐子に一度、頭を下げた。
「うん」美佐子は、少し安堵した様子で、頷いた。
「じゃあ…すぐ帰りますんで」
「わかった」そして、にこっと優しい笑みを直紀に向けた。「…頑張ってね」
「はい!」
言うが早かったか、直紀はこの喫茶店【星の船】を飛び出して行った。
***
―――佳織か?
―――あ、直紀…。どうかしたの?
―――いや。今日…ちょっと帰れないかもしれないから…。
―――え?
―――そんな声出すなよ。すぐ帰るから。
―――……。
―――佳織…。待っててくれ。
―――…うん。待ってる。絶対絶対、待ってるから帰って来てね!
―――分かってるよ。
―――うん…。
―――それとな…。
―――何?
―――今まで、悲しませてゴメンな。
―――うん…。
***
正直、まだ迷っていた。
佳織が大切なのか、それともひろみが手放せない存在なのか。
もし自分が佳織ではなく、ひろみを選んでしまったら。
佳織を酷く傷付けてしまうかもしれない。いや、正直、傷付けるだけで済めばいい方なのかもしれない。
まだ確定はしていないが、佳織に宿るかもしれない、新しい命の事の責任も負う事になるだろう。しかし、佳織につけた傷に比べれば、雲泥程の差があるのかもしれない…と。直紀は思った。
そんな、どっちつかずの意識のままで、直紀は新幹線に乗り込んだのだ…。
***
直紀が、懐かしいその場所に着いたのは、夕方になってから、だった。
冬という事もあり、日が傾くのが早い。
駅を出た直紀を迎えに来たのは、ひろみだった。
改札を通った直紀は、改札の前で待っていたひろみの所まで駆け足で寄って行った。
「直紀ー!」ひろみは笑顔を浮かべながら、そんな直紀に手招きした。
ひろみに近寄る度に、胸がどくん、どくんと高鳴る。痛いくらいに。
「よ、よう…」直紀は平静を装って、ひろみに近付く。
改めて明るい場所で見たひろみの顔は、本当に男なのかと疑ってしまうくらいに可愛く、そして魔性の様な色気を持ち合わせていた。
思わず、ひろみの顔をまじまじと見つめてしまう。
「ん? どうかした?」キョトンとした顔で、ひろみは訊く。
少し、頬が上気した気がして。ブンブンっと直紀は首を振る。
「あ、いや。なんでもねーよ」
―――やっべ…。なんでこんな…こいつ…。
そこには、抱き締めてしまいたいくらいに華奢な、一人の女性が居た。艶のある髪を腰まで伸ばしているが、その髪のツヤでさえ、今の直紀にとっては狂喜に陥ってしまう要素だった。
一瞬でも気を許せば、肩を抱いてしまいそうだった。
それくらいに儚さを誇った、白く美しい一本の花。
それがひろみのニュアンスだった。
「…でもさ、急にどうしたの? 会おうって言って来てさ」
「あ、いや…その事なんだが…」まともに目を見て話せない。
すごい吸引力で、その瞳に、その唇に、その表情に、自分が吸い込まれてしまいそうな気がしたから。
「うん?」
「…今日、暇か?」
「今日…? なんで?」
「ちょっと…あってな」少し、直紀の語尾が暗くなる。
そんな直紀の様子を見て、ひろみは薄く苦笑した。
「…分かった。今日、ホントは仕事入ってんだけど、キャンセルする」
「ゴメンな」
「ん、いいからいいから。気にしないの」直紀の様子を心配してか、少し明るめの口調でひろみは言った。「直紀のそんな顔見せられちゃったら、ちょっと気になっちゃうから、さ」
「あ―――」直紀は思わず自分の顔を、手で隠した。
「ふふ、もう今更遅いってば」
「ん…すまん」
「―――そうだ」ひろみは一度、ぱんっと手を叩く。
「どうした?」
「どっかで御飯食べようよ、一緒に」にこっと笑みを浮かべて、ひろみは言った。
このひろみの笑顔の理由、それは痛いくらいに直紀には分かっていた。
直紀自身に元気がなかったから。
そんな直紀を想って、元気に振る舞っているのだ、と。
思わず、胸の奥が締め付けられた気がした。ひろみのその行動に。
―――だから。
「…あぁ、そうだな」直紀もゆっくりとした笑みを返して、そう言った。
***
二人が向ったのは、ひろみの行きつけだという定食屋だった。
まだ夕方にさしかかって少ししか経っていない事もあり、人の量はまばらだった。しかしひろみの言葉によると、御飯時には超満員になるらしい。
普通の女性であれば、もう少し気取った所を連れて行くのだろうに…と考えると、直紀は少し、笑ってしまった。
とりあえず、二人は席についた。
と。
「…直紀ってさ、カラアゲ、好きだったでしょ?」唐突に、ひろみは訊いてきた。
「ん?」メニューを取ろうとした手が止まる。「…ま、まぁ確かに好きだけど」
「ここのカラアゲ定食ってさ、結構美味しいんだよ?」
―――どくん…。
胸が高鳴った。
自分の行きたい所というので、この定食屋を選んだのではなく、つまりは直紀の事を思って、彼をここに連れて来たのだろう。
そう考えると、切ない程に、直紀の胸が痛んだ。
「…どったの?」
ゆっくりと、直紀は首を横に振って。
「…何でもない。―――っと、それじゃあ、そのカラアゲ定食…頼もうか」
「ん、おっけ」ひろみも頷くと、ゆっくりと手を上げた。「おっちゃーん? カラアゲ定食二つ! 御飯大盛りでね!」
「あいよー!」
定食が来るまでの時間、直紀にもひろみにも言葉はなかった。
何かを言おうとしているのは、お互いがひしひしと感じていた。しかし、それが何かによってつかえている。お互い口元まで言葉が出ているのに、それが口先で鍵を掛けられしまったかの様に。
お互い言葉などなく、二人の前に置かれていたコップの水だけが、早く消えてゆく…。
そして、二人の元に、頼んだカラアゲ定食が来た時の事。
唐突に口を開いたのは―――直紀だった。
「…なぁ?」
ひろみは、一瞬どきりとして。しかしすぐに動揺を隠すと。
「ん…? 何か?」
直紀が次の言葉を言うのに、少しの間があった。
そして。
直紀は息を飲み込んだ。
「俺、お前の何なのかな…?」
「……」
痛いくらいの沈黙が、二人を包んだ。
喉がカラカラになっている。直紀はこくんと喉を鳴らせると、それでも続けた。
「ただの幼馴染みか…? それとも親友か…? それとも―――」
「待って」続きを言おうとする直紀の言葉を遮って、ひろみは言った。
「ひろみ…」
「…直紀の言いたい事…分かる。分かるよ…けどね…」少しの間、顔をうつむかせていたひろみだったが、ゆっくりと顔を上げる。「…今は、まだ答えられない。場所が場所だし…ね?」
「…あぁ、そうだな」直紀は思わず、苦笑してしまった。
急いでいる。あまりにも早く結果を求めようとしている…。
直紀は一度、深呼吸をした。
「―――さ、食べよ?」
「あぁ、そうだな…」
***
二人はひろみの提案で、彼女の部屋へと行く事になった。
ひろみが住んでいるのは、マンションの一室だった。
元々きちっとしていた性格がよく表れているのか、部屋の中は綺麗に片付いていた。
それなりに生活をしているという感じはあるものの、しかしそれが汚いという印象を与えるまでには至っていない。
食事の後、少しだけゲームセンターに寄った。そのゲームセンターで対戦の格闘ゲームを数回、クレーンゲームも数回…。
そして、歩いている途中で、ひろみが自分の部屋に直紀を誘ったのだ。
勿論、それが何を示しているのかも、直紀は分かっていた。
それでも直紀は、ひろみの部屋へと向ったのだ…。
リビングの中で。直紀は周りを見まわしながら。
「結構サッパリしてんだな、お前の部屋…」
「そぉかな? ちょっと汚くしてたから、ホントは直紀を呼ぼうかどうか迷ってたんだけどね」
「そうか…」
「ま、そこに座ってよ。今コーヒー淹れてくるからさ」
「あ…あぁ」直紀は言われたまま、テーブルの前に腰を下ろした。
ひろみは台所へ消えてゆく。
「……」無音の空間の中で、直紀はただ一人、緊張していた。
鼓動が激しい。
何かを期待しているのか。
直紀はじっとしていられなくなって、横にあったテレビを見た。ワイドな画面が印象的なテレビだった。
しかし。
「あ―――」直紀が言葉を失ってしまったのは、それとは違うものを見てからだった…。
直紀は立ち上がると、テレビの前まで歩いた。
そして、テレビの上に置いてあった写真立てを手にする。
中にあった写真に映っていたのは―――
小学生の頃の、ひろみと直紀だった。直紀は相変わらずの悪ガキっぽく、ヤンチャな笑みを浮かべてひろみの肩を抱き寄せていた。ひろみはひろみで、少し困った様な、恥ずかしそうな…ぎこちない笑みを浮かべている。
少しひろみの目が赤かったのが印象的だった。
「確か…」これって…。
小学校の卒業式の前日。直紀がひろみに、転校する事を告げた。
勿論ショックを見せたひろみは、わんわんと声を出して泣き喚いた。
困り果てた直紀は、苦心の末に一枚の写真を撮ることを思い付いた。自分の姿が映っている写真があれば、ひろみの悲しみも少しは紛れるだろうと、そう思ったから。
「―――それのオカゲ…だよ」唐突に、直紀の背後から声が聞こえた。
「?」ゆっくりと声のした方を向いた。「ひろみ…」
ひろみは、テーブルにコーヒーをコトン、コトンと置くと、直紀の方を見て優しい笑みを見せた。
「それのオカゲでね、私…今まで頑張ってこれたんだって、そう思うんだよね」
「……」
直紀が見つめる…。その前で、ひろみはゆっくりと床に腰を下ろした。
ひろみの行動に、何故か直紀の視線は釘付けになってしまう。
「ほら、直紀も座りなよ?」直紀の方を見ながら、ひろみは自分の横の床をぽんぽんと軽く叩いた。
「あ…。あぁ」気を取り直して、直紀は言われた通りにひろみの隣りに座る。
髪の匂いなのだろうか。ふわっとした優しい香りが、直紀の鼻孔をかすめた。
思わず緊張してしまう。せすじが伸びた。
二人の間に―――或いはこの部屋全体に、切ない程の沈黙が流れた。
ふいに。
「……」ひろみは無言のまま、テーブルの上に置いてあった箱のフタを開ける。
オルゴール…。
緊張した空気を、柔らかく抱擁した。
―――そして。
「…この前も言ったけどさ、きっと私、直紀が側に居てくれるって思えたから、今まで頑張って来れたんだって、そう思う…」ゆったりとした口調で、ひろみは写真を見ながら、呟いた。
「……」
その声は、オルゴールの響く部屋の中で、まるで泡の様に浮かんでは、すぐに消えてゆく…。
「―――さっきの答え、だったね」ゆっくりと三角座りをしながら、ついにひろみはその言葉を口にした。
「ッ!」ドクン…と、激しい鼓動の痛みが直紀を打つ。
三角座りをしたひろみは、床に視線を落として。
「私にとって、直紀は…」
「ッ…」直紀はこくりっと、喉を鳴らせた。
「―――心の支え、みたいなもの、なのかな…やっぱり」
「……」
「今までも…それで、これからも…ずっとね」
「…違うだろ」ふいに、直紀はぽそっと呟いた。
「うん…?」
「そういうの、違うだろ…」
「違うって…何が?」
「…俺と、お前の関係だよ。俺が訊きたいのは」
「私と…直紀の?」
ゆっくりと、直紀はひろみの方を見た。
「…俺は、お前の親友か? ただの幼馴染みか? それとも―――」次の言葉を言うのに、直紀は一度、大きく息を抜いた。「…恋人、なのか?」
「……」
「俺は…実際、この気持ちを何ていっていいのかよく分からない。ただ、お前の事が気になって仕方ない…。それは事実だ」ゆっくりとした口調で、しかしはっきりと、直紀はひろみを見据えて言った。「昔からお前は…俺の側に居た。今までそれは親友であり、友情だって、そう思ってた…。けど、この前お前と会って…お前を抱いて、俺の中で…何か、変わった」
「……」
「それは恋なのかどうか、俺は実際、よく分からない…。ただ、お前の側に居なきゃ…不安で仕方ない」
「…不安って?」
「実際、俺が中学から転校して、お前から離れて…で、お前はどうなった?」まるで詮索する様に、直紀は言った。「…いじめられて、レイプされて、登校拒否んなって…。おまけにその所為でマトモな職につけやしない…」
「……」
「何一つ報われた事がねぇじゃねぇかよ!」思わず語気が荒くなったのを感じて、直紀は一度、気を取り直した。「…いくら正直者がバカを見る世の中つっても、お前がこんな不幸な生活してるなんざ、いくらなんでもフに落ちねぇよ」
「直紀…」
「…俺に何が出来るのか…そんな事なんか分からないし、ましてや何か出来る力があるなんて思ってもない。けど、俺が側に居ればお前も―――」
言葉の途中だった。
ひろみが、直紀の。言葉を繋いでいた口に、唇を重ねた。
「……」
かけていたオルゴールの音が、その力を失ってゆく…。ゼンマイが切れて。
直紀の腕が、ゆっくりとひろみの腰を抱き締めた。
その時に―――何かが弾けた。
―――ひろみ、俺は…お前が…!
ひろみの頬を、光が走った。
「……」
ひろみ…。
直紀はひろみの頭を、優しく撫でてやる。
そして、二人の影が―――いつしか一つに重なった。
***
直紀の目の前では、一糸纏わぬ姿で横たわるひろみの姿があった。
女性の肢体ではないのは明らかなのに、女性のそれよりもしなやかで、そして華奢で、綺麗で…。
ベッドではない。この部屋で。
「やだ。見ないで…」ひろみは、恥ずかしそうに身体を横に向ける。
「もっと見せろよ」そんなひろみの腕を取って、無理矢理に仰向けにさせた。
ひろみの肌は、透き通る雪の様に、儚い印象をたたえていた。まるで雪の結晶の様に、少しでも力を込めれば壊れてしまいそうなくらいに…。
直紀自身にその気はなかった。ましてやかつての親友同士。
―――なのに、むしろそれが、たまらなくエロティックな感覚として感じた。
ドキドキっと鼓動が高鳴る。
自分の男性自身が、痛いくらいに張り詰めたのが分かった。
「直紀の…えっち」恥ずかしそうに頬を膨らませて、ひろみは言った。
「悪ぃかよ」ふてくされた様に言うと、直紀はひろみの胸にキス…。
ちゅっ…。
「ンっ…」ひろみの身体が、ピクンっと微弱に跳ねた。
同時に、ひろみの男性自身も、全身を伝う快楽のショックに反応する。
その様子を見て、直紀はくすりっと笑みを浮かべた。
「お前もなんだかんだ言って、感じてんじゃねぇかよ」
「うるさいなぁ…」かぁぁっと顔を真っ赤にしながら、ひろみは顔をそむけた。
「素直じゃねぇの」直紀は苦笑する。「そんなお前には―――」
と。
直紀はいきなり、ひろみの男性の証を握った。
「…っは!」いきなりの衝撃に、ひろみの身体がビクッと震える。
全身に快楽が走り、ひろみは思わず、内股になってしまう。
切なそうな表情を見せていた。
「可愛いな、ひろみ…」ひろみのその表情が、直紀を更に欲情させる。
直紀も、ひろみのものに触れるのに、何の抵抗もなかった。
ただ、可愛い。そう思えて…。
手の平で隠れてしまうくらいに小さいひろみのモノに、ごにょごにょっと刺激を与えるだけで、ひろみが気持ちよさそうに悶える。その姿がたまらなくエロティックに思えて…。
手の平に伝わる、ひろみのモノでさえ愛おしく思えてしまう。
「気持ちいい…よぉ…。直紀ぃ…」切なそうな声が、ひろみの口から漏れる。「すっごい、上手…」
「まぁ、自分ので慣れてっからな」
そして直紀はゆっくりと、ひろみのを握った手を、そのまま下げた。
むちっ…と。今まで皮で包まれていたひろみの亀頭が、さらけ出される。
「ンっ…ふぁっ」ひろみの身体が弓なりになった。
ひろみの身体を抱き上げると、尚もひろみのシャフトに刺激を与えながら、キスをする。
ひろみのものをしゅ…っしゅっと扱く度に、ひろみは重ねられた唇の奥で、甘い悲鳴を上げてしまう。
腰が切なそうにもじもじっと動き、そして上半身では、直紀の身体を強く抱きしめる。
いいっ…直紀にしこしこされると…すっごい気持ちいいよぉ…。もぉ頭の中が真っ白になっちゃう…!
今までしゅっしゅ…という音だったのが、ひろみの先走った液によって、にちゃにちゃっといやらしい音になる。その音も充分ひろみの耳にも伝わって、更にひろみ自身を悶えさせる。
「ふっ…んっ…んっ…」
ふいに。直紀は唇を離した。
「…っ」その後、直紀はひろみの耳元でこう囁いた。「俺さ、いつもこっちの手で、オナニーしてんだぜ?」
「―――ッ!」ひろみの背中を、ぞくっとした快楽が撫でた。
直紀もこの手で、いっつもシコシコってしてるんだ。
この手で…どぴゅどぴゅって…精子をいっぱい出してるんだ…。
そう思うと、まるで直紀と男性自身同士を擦りつけている疑似感覚におそわれる。否応なしに射精感が腰の辺りまでビリビリときてしまう。
「―――あ…。直紀…ッ!」ぎゅ…っと、ひろみの、直紀の身体を抱きしめる指に力がこもった。
直紀の背中を掻いて、その跡が真っ赤に腫れる。
「イけよ…。見てやるから、お前のイった顔、見せろよ!」
今までのそれよりも更に激しく、直紀はひろみを扱いた。
「あっ…やっ…で…出―――ひゃンッ!」ビクッ! と、一瞬、大きくひろみの肢体が跳ねた。
直紀の手の中にあったひろみの男性自身が一瞬、びくっと大きく震え、そしてその鈴口からぴゅっと、白い液体が飛び出る。
直紀の手に、何度も感じた事のある男臭い匂いが絡みついた。
「はぁ…はぁ…」ひろみは、射精の後の脱力感に襲われ、直紀に抱かれたまま、くたっと凭れる。
「いっぱい…出たよな」手にひろみの雫を絡めたままで、直紀は言った。
「…ん」力無く、ひろみはこくんと頷いた。
「ほら…こんなに」と、ひろみので濡れた手を、ひろみの顔の前に見せる。「お前の、すっげぇ臭いし…」
「やぁ…。そんなの見せるなぁ…」恥ずかしそうに、ひろみは自分の顔を隠した。
直紀は少し笑うと、そのままでひろみを寝かせた。
そして。
「じゃあ…今度はすまねぇけど、四つん這いになってくんねぇ?」
少し、直紀の股間についている、いきりたったモノを見て、ひろみはくすっと笑みを浮かべた。「入れたいんだね、私の中に…」
「お前の顔見てたら…な」
「…ん、いいよ」ゆっくりとした動きで、ひろみは四つん這いになる。綺麗な尻を直紀に向けながら。「…どうぞ」
たっぷりとしたヒップの肉を片手でむにっと引っ張って、その奥にある菊模様をさらけた。
「…そういや、お前の見るのって、実は初めてなんだよな」言いながら、直紀はひろみのヒップに触れた。
手に絡みついていたひろみの雫で、ひろみ自身の肛門を濡らす。
手で、もたげてくるヒップの肉を押しのけながら、直紀は指で、ひろみの菊模様に触れた。
「ひゃっ…ん!」すぼまりが、ひろみが緊張する事でさらにすぼまる。
まるで猫の様に、背が伸びた。
その様子に、直紀のものは痛いくらいに膨張する。
「力、抜けよ…」
「ん…」ゆっくりとヒップに込められた力が抜けてゆく。
一度こくんと喉を鳴らせて、直紀はそこに…キスをした。
「ひゃっ…はっ!」ビックリしたのもあり、また快楽もあり。ひろみは思わず、高い声を上げていた。
まるで女性器を愛撫する様に、ひろみの菊門も指で…そして舌で、唇で、刺激していった。
ぷちゅ…じゅるっという音が卑猥に響く。
その度に、ひろみの内腿は、切なそうにもじもじとお互いを摺り合わせていた。
「やっ…はっ…。ら…らめらよぉ…」全身を伝う快楽の所為で、上手く力が入らない。回らない呂律のまま、ひろみは直紀を止めようとした。
今まですぼまりをマッサージしていた舌を離すと、今度は指先でやわやわっとマッサージしながら。
「…汚いからか?」そして、直紀は身を乗り出す。「…汚くなんてねぇよ。お前のその声…この身体…すっげぇ綺麗だからよ」
「直紀ぃ…」涙で潤んだ声。
「…指、入れるぞ」
顔を真っ赤にさせながら、こくんこくん…と、二度頷くひろみ。
それを見て、直紀は。今まで菊模様に触れていた指を、ゆっくりとそのすぼまりの奥へと入れていった。
ぬぷぷっ…と、小さな音。
「ひゃぅッ!」ビクンッ! と、ひろみの身体が震えた。
ひろみの中は、相変わらず暖かい。
肛門独特の締め付けが、直紀の指を圧迫する。
「すっげぇぜ、お前の締め付け…」
「言わないで…っは…ぅ」押し寄せる快感に、ひろみの声もたどたどしい。
ひろみの中に入った指は、中の柔肉を優しく掻き回す。
その度に、ぎゅうぎゅうっとひろみの肉壁が柔らかく締め付ける。
一度は射精して力を失ったひろみのものが、またむくむくっと起きあがった。
「…直紀ぃ…」思わず、ひろみは甘えた声を出した。「もぉ…たまらない。欲しいよぉ…。直紀の、欲しいよぉ」
ふりふりっと、ひろみはヒップを振った。
その仕草が魅惑的で、挑発的で、直紀は思わず喉を鳴らせてしまった。
「ひろみ…」ひろみのその姿に扇情されて、直紀は自分のモノを持った。
そしてゆっくりと、ひろみの望むモノを―――
「いくぞ…」そして、ひろみの、少し赤く染まったすぼまりに、直紀は男性自身を押し込めていった。
ずぶっ…ぬぬっ…と。
「ンッ…ひゃ―――はァン!」お腹の中を満たす、直紀の男性自身の感覚に、ひろみは全身を緊張させた。
あつい…直紀の、すっごいおっきくて気持ちいいよぉ!
「っふ!」直紀も、自身を包む熱い柔肉の抱擁に、一瞬腰が引けてしまう。「ひろみ…お前ん中…あったかくて…窮屈で…すっげぇ気持ちいい」
「んっ…ッふ」ひろみの濡れた唇から、直紀が動く度に甘い吐息が漏れる。
ゆっくり、ゆっくりとひろみの奥へ、直紀のものを貫いてゆく。
温かい柔肉が、ひろみの中に潜り込む度に、直紀の亀頭をこすってゆく。直紀のものに絡みついて、耐え難い快楽となって直紀の脳を刺激する。
「はいって…きてるぅ」
「ひろみ、動くぞ…」
「…ん。いいよ」
ひろみが頷くが早かっただろうか、直紀はゆっくりと腰を動かした。
ずっ…ず…っと、音がする。
「―――はッ! ンッ! あッ…ふぁ!」直紀が動いて、びく、びくっとひろみの中で男性が跳ねる度に、ひろみはたまらなくなって声を上げてしまう。
先程ひろみが出した蜜で濡らした所為もあって、すんなりと直紀のものが出入りする。
「…っふ! っく…」直紀も、動く度に絡みついてくるひろみの中に、薄く声を漏らしてしまった。
窮屈なくらいに、ひろみの中は締め付ける。それが逆に気持ちよく、腰が溶けてしまいそうだった。思わず、四つん這いになったひろみに重なってしまう。
「ひゃっ…ふ…!」ひろみは全身を伝う電気ショックに身体を震わせながらも、今まで身体を支えていたうちの右手を、自分の股間へと向かわせた。
そして、ぎゅむっと、勃起して固くなった自分のものを握りしめる。
「―――くっ…ふぁ…」そして、自慰をする感じで、直紀の腰の動きに合わせてしゅっしゅっと、扱いていく。
一度射精した―――その蜜で濡れている為か、少し滑りがいい。
そして、自分で性器に刺激を与える度に、直紀のを咥えていたひろみの肛門が、きゅっ…きゅっと締め付けられる。
「―――うっ…。やべ…!」クる!
「出して! 私の中に、どぴゅどぴゅしてぇ!」
「いくぞ…! い―――くっ!」
瞬間、ひろみの中で、直紀のものが跳ねた。
びゅく、びゅくっっと、直紀の男性器が震えて、その先からひろみの中に、いっぱいのホワイトを吐き出す。
「あ…はぁぁッ!」
あったかい…。直紀の…あったかいの! いっぱい出てるぅ…!
***
「はぁ…はぁ…」直紀は、まだひろみの中に入れたままで、息を荒げていた。
「はっ…はっ…」ひろみも、そのままくたった前のめりになってしまう。「き…気持ち、よかった?」
「あ…あぁ、すっげぇ…よかった」
しかし、その言葉とは裏腹に、何故か心の中では、何かひっっかるモノを感じていた。
罪悪感…。
ぽつっと浮かんだそれは、或いは後悔となって、直紀の身体を瞬間的に包み込んでいったのだ。
「……」
一人の女性の顔が、脳裏をよぎった。
―――佳織!
ブンブンっと、頭を振る。
「…直紀?」少し、妙な雰囲気に気が付いたのか、ひろみは彼の方を振り向いた。
まだ直紀とは繋がったままで。
「あ、いや…すまん、なんでもないんだ」
―――…なんでだ。なんでだよッ!
焦る。
佳織を抱いていた時は、ひろみの事を思い浮かべてしまうのに、今ひろみを抱いていると、佳織の事を思い出してしまう。
だからこそ、自分への罪悪感が包んだ。
ブンブンと頭を振る。
―――違う! 違う違う違うッ! もう決まったじゃねぇかよ! 俺が本当に好きなのは…ひろみなんだ! もう心は決まったじゃないかよ! 気持ちに素直になってんじゃねぇかよ! なのに…なんでだよ!
「―――ッ!」直紀は突然、ひろみと結合したまま、ひろみの男性自身を触った。
「ひゃっ! …な、何…?」一瞬ビクッと身体が震えて。次には驚きの様子で。
「…もう一回、するぞ」
「そ、そんな…いきな―――ひゃン!」言葉を遮って、直紀の手が動き始める。
全身を伝う快感には逆らえずに、そのままひろみは声を漏らした。
しゅっ…しゅっと、ひろみのを扱きながら、直紀は腰を動かして。ずっ…ずっと音が鳴る。
さすがに一度出したばかりという事があって、直紀にしてもひろみにしても、少し過敏になっている。直紀が腰を動かす度に、二人の声が激しくなった。
直紀の頭の中で、一つの言葉が閃いた。
“待ってる。絶対絶対、待ってるから帰って来てね!”
…佳織の言葉。そして、彼女の笑顔…。
「っは―――!」瞬間、直紀とひろみは、達した…。
***
いったい、何時間眠ったのだろうか…。
気が付けば、直紀はひろみの横で眠っていた。
「……」朧げな意識のまま、直紀はゆっくりと、窓の外へ視線を動かした。
朝…。綺麗な朝日が射し込んでいるのが分かった。
…昨日、自分の望む様に、ひろみを抱き、そしてひろみを愛していると確信した。
なのに、気が晴れない…。
思わず、憂鬱な気分になってしまった。
「起きてたんだ…」ふいに、声が聞こえた。
「…ひろみ?」直紀は思わず、声のした―――ひろみの方を見る。
ひろみはぱっちりと目を開けていた。
「おはよ…」
「あぁ、おはよ」
「……」それ以上の言葉もなく、ひろみは直紀の顔をまじまじと見つめた。
「…どうかしたのか?」
「ん…? ちょっとね…」軽く苦笑を見せたひろみは、ゆっくりと上半身を起こした。
テーブルの上には、もう冷え切っているコーヒーが二つ、カップに入ったままだった。
「…?」
「私と…直紀の関係、なんとなく分かっちゃったなぁ…て、そう思ってたの」
直紀は思わず、どきんとした。
これで、晴れてひろみとは恋人同士になると、そう考えたら。
心の暗い部分では、佳織の泣き顔が思い浮かぶ。
しかし、直紀はそれを極力脳裏から振り払おうとして…。
「そっか…」
しばらく時間があって。
やがて、ひろみは重々しく口を開いた。
「やっぱりね、私と直紀は親友だよ…」直紀に背を向けたまま、ひろみは呟く様にして言う。「…それ以下には絶対にならないけれど…それ以上にも絶対ならない、そんな関係なんだと思う」
「―――なッ!」直紀は思わず、声を失った。
「でも…かけがえのない…たった一人の大切な友達だから…」
「…どうしてだよ? なんでだよ…?」直紀は思わず焦りの色を見せて、身体を起こした。「俺は…お前の事が―――」
「勿論、私も好き…。直紀の事、大好き」
「なら…」
「…ねぇ? 直紀はなんで、私に優しくしてくれるの?」
「え…?」直紀は次の言葉に詰まってしまった。
相変わらず、ひろみは背を向けたままで…。
少しの間の後、直紀はゆっくりと言葉を繋げた。
「…お前は、良いヤツだって…そう思うから」
「うん…?」
「お前は良いヤツで、でも、お前は昨日も言ったみたいに、俺が居ないうちに…不幸なメに遭ってばっかだ。そんなの、俺、やっぱ見てられねぇよ」
「…うん」
「このまま放っておいたら、お前がどんどん不幸になっちまう様な気がして…。出来るだけ、俺が護ってやりたいって…そう思ったから…」
「―――それだよ」
「…え?」
ふいに訊き返した直紀に、ひろみは振り返った。「…それが、証拠だよ」
その表情は、悲しみを押しての笑顔…。
直紀はそれが分かった…。
「…証拠…って?」
「直紀は昔っから…すっごい優しい男の子だったよね…。いつも私が苛められてたら、助けてくれたりとか」
「あ、あぁ…」
「…だからね、今回もそうなんだよ、きっと…」気を抜けば押し出てしまいそうになる感情を必至に閉じこめて、ひろみは笑顔で言う。「今回も私を心配して、直紀は心配してくれてるだけなんだよ…。それは、愛とか、そんなんじゃない。強いて言えば…保護欲、なのかな…?」
「―――ッ!」
図星を突かれた気がして、直紀は焦った。
「こんな私の事、ずっと心配しててくれて、嬉しいよ…」
「で…でもな! お前みたいなヤツが、お水系の商売なんか似合わない! だから…俺が助けてやるから、今の不幸な―――」
「…確かにね、学校にも行ってないからマトモな職には就けないかもしれないけれど…。でも…」ゆっくりと言った後で、ひろみは満面の笑顔を見せて、こう紡いだ。「…これが不幸だなんて、一度も言った事はないよ」
「ひろみ…」
「直紀の気持ちはすっごい嬉しいよ。でも…いくらなんでも、そこまで迷惑かけらんないよ…。だから、ごめん」
「……」
しばらく、何とも言えない窮屈な沈黙が続いた。
そして。
「―――私ね、大学検定受けよっかなって、そう思ってるんだ」
「…?」
「そうすれば、学力もあるって証明になるでしょ? 確かに、見た目こんなだから、苦労するだろうけど…それでも何か変わるんじゃないかなって…」そしてひろみは、テレビの上に置いてあった写真を見た。「…何せ、私には直紀の思い出があるから…絶対頑張れる…」
少し、苦しく思えた。
直紀自身が。
しかし、その苦しみが過ぎると、案外とすっきりした。
まるで何かが吹っ切れた様な、そんな感覚…。
「…だからね、私、決めたんだ」にこっと、ひろみは笑みを見せた。
―――ダメ…。ダメだけど…でも…。
「大検が終わって、何処かに就職出来るまで…直紀に会わないって」
「……」
「……」
「……」
「……」
「…そっか」直紀は、ゆっくりと息を吐いた。
「また、きっと逢えるよ」
「…だな」直紀も笑みを浮かべると、ゆっくりと立ち上がった。
そして、脱ぎっぱなしになっていた服を着始める。
「うん」
「…ゴメンな、変な事になっちまって」
「うんん、いいよぉ」ひろみは優しく笑った。
それだけで、直紀の心が癒された気がした…。
「また、どうしてもダメな時は…呼んでくれよ?」服を着ながら、直紀はおどけて言う。「いくらなんでも、それくらいの権利はあるだろ、俺にもさ」
「うん…」
「親友、だしな」
「…うん!」
***
そして、直紀が出ていった後だった。
どっと疲れて、ひろみは部屋の中で寝転がった。
「…はぁ」お腹を押さえる。
…この中に、まだ直紀のが…あるんだよね…。
それが幸せとも思えて、また、それが逆に、残酷な悲しみとなってひろみの肢体を蝕んでしまう…。
ふいに。
今まで我慢していた―――その緊張の糸が切れた様に、ふっ…と、涙が溢れた。
「…はっ…ぅ…。もぉ…なんで泣いちゃうかなぁ…」ぽろぽろと涙が零れてしまう。「これで…いいのに…いい…っはっ…ぅぅ…」
一度溢れた涙は、とめどなく流れて頬を伝う。
「なんで…好きって素直に言えなかったのかなぁ…」今更、後悔の念だけが浮かんでしまう。「…なんで…直紀の彼女に…直紀を譲る様な真似、しちゃったのかなぁ…。あのままだったら…直紀、私のものになってたのに…。身を引くなんて、なんて悲劇のヒロインなんだろ、私ってば…」
腕で、ごしごしっと涙を拭いた。
そして、涙に震えた声で、こう言った…。
「私の…ばぁか…」
ラスト・シーン【美佐子の記憶で】――――――――――――――――
それは、沢渡直紀くんと拝島佳織さんが結婚式を挙げた、その翌月の事だったかな…?
いつも通りの平日の、誰も来ないであろう時間帯の喫茶店、【星の船】に、一人の女性のお客が来たんだけれどね。
見ない客だったの。
別に何がおかしいっていう事でもないわ。ただ…そうね、何処か影のありそうな、そんな感じの、美人な女の人だったっていうのはすっごい記憶に残ってる。
その女の人は、カウンターに座ると、カフェオレを頼んだのね。
…で、実際私が「どうぞ」ってカフェオレの入ったカップを彼女の前に置いた時…ね。
「あの…直―――沢渡くん、ここに居るって聞いたんですけれど…」
「…へぇ、沢渡くんの知り合いなの?」
「えぇ、まぁそんなものです」
「…でも、ゴメンなさいね」私は思わず苦笑してしまった。「沢渡くん、この前辞めちゃったの」
「辞めたんですか…?」
「そ。就職出来たから、辞めちゃったの」どうもその女性の事が気になって、私は結構おしゃべりになっちゃってたらしい。「…で、結婚してね、今では良きパパさんになってるかも」
「…結婚、ですか?」その女性は、少し驚いた様子を見せた。
「そう、結婚したの」
すると、その女性は、少し寂しそうな顔をした。
…へぇ。沢渡くんもすみに置けないものねぇ…。
なんて私が邪推していると、ふいにその女性はにっこりと笑みを浮かべた。
「…そうですか…。よかった…」
「……」
その笑顔が、なんだかいじらしく思えちゃったのよね。
言葉を失う…っていうのかな、こういうの。
「…どうする? 会社勤めになったっていっても、沢渡くん、たまにここに来るんだけど…」
「あ、そうなんですか…」そう言った後で、彼女はカフェオレを一口して、で、こう続けたの。
「会わなくていいの?」
「…えぇ、また、いつでも逢えますから」
「そぉ?」
「…じゃあ一つだけ…伝言、頼めますか?」
「いいけど?」
「…あの、結婚おめでとうございます…っていうのと。私も無事に就職出来ました、っていうのを…沢渡くんに伝えておいてもらえませんか?」
「ん、分かった。伝えとくね」
そして私と彼女との会話は、そこで途切れた。
しばらくして、カップの中にあったカフェオレを全部飲んだ彼女は、「ごちそうさま」と柔和に笑んで、立ち上がった。
「代金、ここに置いておきますね…?」
「ん、ありがとうございました」
彼女は会釈すると、私に背を向けて出ていこうとしたんだけど…。
ふいに、何の気まぐれか、私はそんな彼女を呼び止めちゃってたんだよね。
「―――あ、あの…」
「…はい?」彼女はキョトンとしてこちらを向く。
「あの…失礼な質問かもしれないけれど、あなた…沢渡くんの―――」
すると、彼女は私の言葉を遮って。
「…大切な、大切な…親友です」
満面の優しい笑みで、そう言ったの…。
…後で気が付いたんだけど、私、あの子の名前、訊いてなかったんだよね…。
でもこの話をすると、沢渡くんは嬉しそうにしてたから…きっと通じてるんだな、なんてそう思った。
なにはともあれ、今日も平和だ…。