ゼロ距離プラス一センチ 「三位入賞おめでとうございます! 的確な弾薬選びでしたね」 「いえ恐縮ですう、目標がべトンだと普通は榴弾で破砕を狙うところですが、あのシチュだとひょっとして隙間から狙撃していくかなと徹甲弾を」 「秋山選手といえば第六十三回大会決勝戦での速込めが有名ですが、何か秘訣のようなものはあるんでしょうか?」   「はっ、秘訣と言うほどではないんですが筋トレに努めてますし、いつ何時でも車長の装填命令に応えられるよう神経を研ぎ澄ましていまして」 「ありがとうございました、大洗女子学園の秋山優花里選手でしたー」  優花里さんがテレビでしゃべってる。  日戦連主催の装填手競技会。各校から戦車道の装填手を二人ずつ出して、一分間で何発装填できるかとか、弾薬選びが正確かとか、フォームが綺麗かとか、競うやつ。  総合一位は重いKV−2の砲弾を扱ってるプラウダのニーナさんになった。二位はグロリアーナのオレンジペコさん。フォームがとても優雅で芸術的なんだって。  三位が優花里さんだった。りっぱな成績だと思う。私が出たら、きっと四十位ぐらいかもしれない(カバさんチームのカエサルさんが、八位ってぐらいだから)。  ヒーロー、だよね。  インタビュー受けて、汗かいて頭かいて映ってる優花里さんを、レコーダーで繰り返し見ながら、私はそんなことを思って、ちょっと天井に目をやる。  ヒロイン、なのかな? 女の子なんだし。どっちなんだろ。――机に立って辞書を開くと、ヒーローは男の主人公の他に、英雄とか、人気者って書いてあった。  うん、ヒーローだ。優花里さんは私のヒーロー。……って思って、ふふっと笑っちゃった。今日は優花里さん、みんなのヒーローなんだ。装填手は普段目立たないけど、このテレビを見た人は、優花里さんすごいって思っただろうな。  嬉しい。  へにゃへにゃしてると、浴室の水音が止まって、バタンとドアが開いた。 「お風呂いただきましたー、ありがとうございます」  私は、どきっとする。――テレビで聞いてたのと同じ声。  その人が、今うちにいる。  しばらくしてゴーッとドライヤーの音がし始めたので、私は浴室へ向かった。 「優花里さん」 「ん、なんですか?」 「こっち。こっちで乾かそ。やってあげるから、ね」 「え、あのちょっと」  ドライヤーを引っこ抜いて、シャツとショートパンツ姿の優花里さんを連れ出して、リビングのテーブル前に座らせた。一時停止していたテレビを見て、優花里さんがリモコンに手を伸ばす。 「まだ見てたんですか、いやですよもう、消しますよ」 「えーっ、かっこいいのに」 「よくないです! 汗だくですし、あんなにドヤ顔で聞かれてもいないのにべらべらと……これ消去しちゃいけませんか?」 「絶対だめ!」  テレビだけ消して、優花里さんの髪を乾かす。ひと房ずつタオルでぽんぽんきゅっきゅして、下から持ち上げ気味に風を当てて……あれれ、曲がる曲がる。くるんくるんと手から逃げ出して、ほかの髪の下に隠れちゃう。 「んんっ、これ……ちょっと、待って」 「あはは、暴れるんですよねー、私の。すみません」 「ううん、いいよ。こうしてこうして、押さえて……」 「あっつ、い……」 「ん?」 「い、痛いです……あと、あつ……い……」 「あっごめん!」  あわてて手を放してばさばさした。あやうく優花里さんの髪を焦がしちゃうとこだった。  終わってできたのは、やっぱりいつものふわふわヘアーで。「あー、結局こうなっちゃいますよね……」「あは、は……」と笑うしかなかった。 「でもさっぱりしました、ありがとうございます!」  向き直って元気にお礼を言う優花里さん。電気がもう一個ついたみたいに明るい。 「じゃ、ご飯にしますか。そろそろお腹すきました?」 「うん、ちょうどいい感じ。出すね。あ、座っててよ!」 「そうもいきません、お手伝いしますって」   優花里さんは絶対、座って待っててくれない。私がおもてなししようとしても、いつも、いつの間にか手伝われちゃってる。  いつだって、さかさか動いて、ぱたぱた走って、いなくなったと思ったら、とんでもないお土産を持ってきて。泥まみれになったり雪まみれになったり、ボロボロになったりくしゃくしゃになったりしても、帰ってくるといつも得意満面の笑顔で。  ……それが当たり前になっちゃったけど、いつからそうなんだっけ? ずうっと前は、照れ照れもじもじして、私が目を向けると、さっと隠れたりしてたような気がするけど……。  ううん、今でもそういうところはある。学校とか町で、知らない人に話しかけられたりすると、わわっ、て感じであわてちゃう。きっと、そういうところしか見たことのない人もいると思う。引っ込み思案でおどおどした優花里さんしか。  そういう人も、今日はテレビを見て、優花里さんを見直しちゃってるんだろうな……。 「これいっぺん焦げ目つけましょう、レンジでチンしただけじゃもったいないですよ、ちょっとやりますね」 「あ、うん」 「ゴマ油でねー、おいしくなりますよ、うふふ」    フライパンで餃子をジューッてしてる優花里さん。オリーブドラブのエプロン姿がすごくかわいい。ヒーローなのにかわいい。なんでこんな人がうちにいるんだろう。 「ん? 心配ですか」 「……ううん」 「だいじょぶですよー、貼りついたりしませんよ、こういうの得意なんですから。さー行きますよ、ほれっ!」  フライ返しで五個いっぺんにひっくり返す優花里さん。――四個が綺麗にフライパンに乗って、一個ぺちゃんとレンジ台に落ちた。 「あっ」「あ」  しゅばっと左手が動いてフライパンに戻した。  沈黙。じゅじゅーっと油の煙が上がる。 「……見ました?」「え、うん、何?」  とぼけてそっぽ向いてた優花里さんが、振り向いてへにゃっと眉を下げた。 「すみません……これ自分のにしますね」 「あはは」  テレビの優花里さんを見ただけじゃ、こんな顔するってわからないだろうな。  明け方に目が覚めて、しばらく天井を見てた。  カーテンがほんの少しだけ明るいけど、まだ小鳥は鳴いてない。遠くの道路の音がかすかに聞こえるだけの、静かな時間。  昔から、よくこんなふうに目が覚めた。私は寝つきが悪いし、実は寝起きもそんなによくない。あなたは考えすぎだから、ってお母さんにも言われた。戦車道をやる以上は仕方がない、とも。  隊長は一人。孤独な仕事。前の学校でもそうだったし、大洗学園に来てからもそんな場面はたくさんあった。誰かが悪いってわけでもなく、こういうものだから。副隊長はどこにもいるけれど、隊長が二人いる学校はない。  だから、こんなふうに夜明け前に目が覚めた時の、寂しい感じも、仕方のない、当然のことなんだって思ってた。  布団の中に、ぽつんと小さな自分の体があって、それしかない。  生まれ育った熊本のうちや、四年間過ごした黒森峰の学園艦から、ここは遠く離れた別の土地で。部屋は借り物、アパートに住むのは知らない人たちで、道並ぶ家も、家をたくさん乗せた学園艦も、私とは縁もゆかりもない。あの人もあの人もあの人も、今どこかで寝ていたり考えたりしてるはずだけど、それは全部その人のことで、私とはつながってない。  広い広い世界にすっかり忘れられてるみたいな……誰もいない大きな世界に押し潰されるような……そんな感覚を覚えることが、この時間の布団の中ではよくあって。そのたびに、泣きたいぐらい寂しくなって、横を向いて丸まっていた。  かすかな音がする。  すー、すーって。  すぐそばで。耳の横で。  今でもまだ私は、その音を寝起きの夢に決まってるって信じようとすることが、たまにある。  音は、続いてる。すー、すー。だんだん意識がはっきりしてきても、消えない。  私は、そっと身を起こす。掛け布団の壁側を持ち上げて、反対側を揺らさないように。  ベッドの足元へ這って、またいで床に降りて、トイレへ行く。戻ってきて、電気を付けずに部屋を眺める。私の部屋。その私はここに立ってるから、誰もいない部屋。空っぽの寂しい空間。  じゃない。隅に黒い塊がある。  私のものじゃない、大きなリュック。  またベッドの足元から、もそもそと這って戻って、そーっと横になって、布団をかぶる。  冷えたパジャマ越しに、すぐ隣の大きな温かみが伝わってきて、信じられないって気持ちになる。  ここは私しかいない、気配のない空っぽの場所のはずなのに。  ある。しっかりした優しい確かなものが。  ごそ、と体を回して、目を閉じたまま顔を前に出す。  こつんかな、ふさふさ、かな。――ふさっ、だった。  心臓がとくんと跳ねる。音と気配と温かみだけだった期待を、はっきりとした触り心地で確かめられたから。  顔を覆ってくすぐるふんわりしたぬくもりの中で、すぅーっ……と深く息を吸いこむ。息をかけないように、斜め上にふーっと吐く。もう一度……もう一度。  自分の枕やぬいぐるみからは感じられない、ひとの香りが染み込んでくる。ひとにもいろいろあるけれど――あの人のはなやかな五色の香りや、あの人の甘いおいしそうな砂糖の匂いや、あの人の少し古風な静かな匂いとは、また違う。  この人だけの青い爽やかな匂い。  以前、初めてそれが鼻をくすぐったとき、八月の真っ白な日差しと畦道をザッと吹く風が、脳裏にまたたいた。  それから長い時が経って、何度も顔を近づける機会があって、匂いそのものも日によって少しずつ違うのがわかってきたけれど――今でも、その匂いに感じる気持ちは変わっていない。  この匂いは「私の」だって。私自身から出るって意味じゃなく、世界のどこかにひとつだけあった、私にぴったりの匂いだって。 「***さん……!」  抑え切れなくて声が漏れる。私は、向こうを向いているその人の肩をつかむ。  ふわっ、と柔らかな手触り。薄いシャツ越しに指が埋まる。ふにふにして、弾力があるけど、私自身や別の人のたぷたぷひんやりした体とは違う。何が違うって、温度が違う。寝ていてもうっすらと熱が湧き出してくる。可愛いふんわりした丸みの中に、薄くてしなやかな平たいものが、何重にも重なって隠れてる。  私は顔を当てる。くむ、くむ、こり、こりって鼻と唇でこねる。肩の少し内側に硬い骨。そのまわりに柔らかみ。本当はここも、んって力んだだけで、鉄のばねみたいに硬くなる。でも今は全然ふにふにで。こんなふうに柔らかいことは、起きてるあいだは絶対ない。  すやすやと眠っている時だけ、この人はそんなにも柔らかくて、そんなこの人がゼロ距離のそばにいてくれることが、私は体中に鳥肌が立つぐらい嬉しくてどきどきしていた。 「***さんっ……」  髪に潜らせた顔を、ぴったりとうなじに押し付ける。首筋は産毛が多くて、唇がしゃわしゃわする。もちろん、吸いこむ息には、酸素よりも多いほどの汗の香りが含まれていて。何度も何度も、すうすうと鼻に通していると、意識がこの人でいっぱいになる。  肩と首をつなぐ筋を、はむ、はむとくわえる。かじり付かないのは食べ物じゃないからって理由だけ。本当は力いっぱい取りこんでしまいたい。はむっ……と唇をぴったりかぶせて、動きを止める。お腹の下のほうがきゅうきゅう引きつって痛いぐらい。  手。手がまだ何もしていないんだけど、それよりも胸とお腹と下半身だった。もう、思いっきり抱きつきたくてたまらない。  だけど、あまりやると、起きちゃう。――健やかなこの人は私と違って、とても寝つきがよくて、まわりで少し動いたり触ったりしても起きない。でも、力いっぱい抱きついたら、さすがに目を覚ます。  覚ましたらいけないってわけでもないんだけど。起きたら可愛く相手をしてくれるのはわかってる。でも――今は、「私のもの」のこの人をさわりたい。  そうして、いい。そうしてもいいですよ、ってはっきり示して、この人は泊まりに来てくれる。  はー、はー、と自分の激しい呼吸が暑苦しい。目もよく見えない、曇ってる。  きっと私は、すごくみっともなくむさぼってる。  ぼんやりとそう考えながら、やめなくていいのが、幸せ――。体を、そおっと、寄り添わせる。  背中に胸を――お尻に腰を――膝の裏に、膝こぞうを。  二枚の夜着と一ミリもない空間を挟んで、私はこの人と一つになる。 「……ンンッ……」  ぶるぶるぶるっ、とすごい震えがきた。息が止まるほどの多幸感。えっちをしてるわけでもないのに。えっちよりもジーンと深くまで来る。なんでだろう? 自分でもよくわからない。  手をあげて、前に回す――ここから先は、目を覚ましちゃう確率が五分五分ぐらい。この人の、額に手をやる。  手のひらをくるりと回して、甲のほうで、額に触れる。しと、とかすかに寝汗のべたつきがある。お熱を測ってあげてるみたい。額は、たいら。――そんなの別にどうでもいいことのはずなのに、生え際と眉がしらしらとこすれるのが心地いい。  鼻や唇は、敏感だからさわっちゃだめ。手を降ろして――布団の中へ沈めていって――さすっ、とおっぱいのどこかに当たっちゃって「んく」と声が聞こえた。  あっ。  起きた……?  息を殺す。寝息は乱れてない。すー、すー……って。体のどこにも力は入ってない。ゆったりと、安らかそう。  私は続ける。今にもこの人の口を手でべったりと覆って、おっぱいを締め付けて、抱きつきたいという思いを抑えこみながら。  かかと。くりんと丸い、足の後ろ。自分の足の甲で、さす、さす……ってこする。寝てる最中だから、ぽっぽと熱い。多分薄赤色に血の気が通ってきれいなんだろうな、と思う。隠れているしくすぐったい場所だし、ここも起きてる時は絶対に触れない場所。  ひじ。コツンと飛び出したとがり。自分の腕をぴったり寄り添わせて、ひじの内側を、この人のとんがりで、くりくりしてもらう。ふにふに……あ、ちょっと気持ちいい。そのままそっと手首を握って、引き寄せて、強めにぐりぐりしちゃった。  私はこの人の強いところや硬いところが好きみたい。一番好きなのが肩と背中とそのあたりの香り。わかってることではあるんだけど(そして、本人は嬉しくないかもしれないけど)、男の子っぽい部分がいいのかなあ。  じゃあ、この人が本当に男の子だったら? って考えたことがある。答えは、頑張れば好きになれるかも、だった。でも、今ほどじゃないと思う。男の子とこんなことしたら、想像だけど、このひっそりした、さわさわしたいたずらがすぐに壊れて、別の騒々しい何かになっちゃうんじゃないかな。  女の子同士だから。  お互い、怖がったり嫌がったりせずに、こういうことができる気がする。  ううん、私とこの人だから?   どうなのかな。人に聞いたり調べたりは、したくない感じ。  ……いつの間にか、気持ちがすっかり満たされてきた。それは、くっついていたから暑くなりすぎたってことなのかもしれない。もう、興奮を高めるより鎮めたい気持ち。朝までまだ少しあるんだし。ゆったり、とろとろしていたい。  手の指……指を、絡めたい。でも、それもダメなこと。指は敏感だから、きっと起きてしまう。  だから、やんわりと赤ちゃん握りしているこの人の手に、外からもう一枚手のひらをかぶせる。  うなじにつけっぱなしだった顔も離す。ゼロ、プラス一センチぐらいに離れる。おぶさるんじゃなくて、背中にこっそり、隠れるみたいな位置取り。  こういうのは、この人自身が本当にしたいことじゃない。好きにさせてあげると、この人は私のもっと奥まで入ってくる。私が恥ずかしいところまで来ようとする。  それはドキドキするし、ほかのことでは味わえない危ない気持ちよさをくれるんだけど、そういうのも嫌いじゃない、っていうか好きなんだけど――。  私は、このギリギリの距離で、素直に「いて」くれるこの人が、とてもとても嬉しいと思う。  そう。この広い世界がからっぽに感じられるとき、何もないって思ってしまう時に。  すぐ横で、私に何も言わず、私に何も求めずに、ただふんわりと寄り添わせてくれるこの人が――。 「……すき、ゆかりさん」  耳にささやいて、静かに離れて、ふーっと真夜中よりも深く眠りこんだ。  チュンチュンと雀が鳴く、出来すぎなぐらい爽やかで明るい朝に、私たちは起き上がって挨拶する。 「おはようございます、みほどの!」 「おはよう、優花里さん」  優花里さんはいつもの笑顔。ううん、いつもより元気な笑顔だ。  顔を洗って着替えて、パンと卵を焼いて。朝ごはんのテーブルを囲むと、優花里さんが不意に、ぐるぐると片方の肩を回す。 「なんか……ううん……」 「ん? どしたの?」 「いえ、別に」  そう言ってサクサクトーストをかじった優花里さんが、食べ終えてお皿を抱えていったあと、やっぱり首をひねりながら戻ってくる。 「あのー、みほどの」 「なに?」 「寝てる間に、何かマッサージでもしてくれてます?」 「ええ?」 「いや、妙に体が軽くてですね。普通に寝た感じじゃないんですよ」  くっくっと首を左右に倒した優花里さんが、両手をうんと伸ばして、パーに指を開く。 「それに夢見もよくって。みほどのにずーっと、いい子いい子してもらってる夢でした。って」はは、と照れる。「なんですかね、子供みたいなこと言って」 「えええ、別にそんなこと、してないけどな……」  私は苦笑しながら、突き出した手をぐっぱぐっぱしてる優花里さんに合わせて、両手を差し出す。 「でも、してほしかったら、やってあげるよ? えい」  手のひらに手のひらをぴったり合わせる。ぎゅっと握りこもうとすると、倍ぐらいの力でぎゅうと指を押し曲げられた。 「大丈夫です! 今朝はもう絶好調ですからね!」 「あたたたた、優花里さん強い」 「あっ、すみません。馬鹿力出ちゃいましたね……」  優花里さんが手を離す。私は自分の手のひらを見る。    うん。これで指も済み、かな。 「いいよ、ほら学校行こ。みんな待ってる」 「はい!」  くるりと背を向けた優花里さんが、肩にぐいっと大きなリュックを担ぐ。 (おわり) 原作から持ってきたイメージだと、遠慮がちでおずおず近づく優花里に対して、大胆にぐっと距離を詰めるみほというキャラ像があるんですが、この話ではちょっと解釈を加えて逆にしました。みほを仰ぎ見る優花里は深い欲望を隠しており、大勢の人に求められるみほは、もっと繊維な距離感を求めている、という具合に。