昼に歩いて、夜も進んで 「ただいまです!」「あー、疲れたぁ」     すたすたと、というよりも、よろよろとアパートの部屋に上がりこんで、ソファに荷物を置く。コートをかけて、手を洗って、一人が暖房をつけて、一人がコーヒーを淹れる――いつの間にか分担がすっかり決まった手順を、いつものようにこなして、テーブルの前に落ち着いた。 「ふああ……やっと終わったあ」 「いーっぱい歩きましたよねえ」 「うん、下見って大仕事……でも、演習場に危険物があったり、子供が入りこんでたりしたら大変だから」 「戦車好きの子供なんか、こっそり潜り込んできたりしますもんね」 「それ、優花里さんのことでしょ?」  「あは、バレました? 子供のころ実際やったことあったんですけどね。見つかってめちゃくちゃ怒られました」 「だめだよ、危ないし。事故なんかあったら中止になっちゃうし……」 「でもその頃の経験があるから、ここらへんに子供いそうだなーってところがわかるんですよ」 「ああ、それであんなに走り回ってたんだ。掩体の陰とか水路の中とか……優花里さん、とんでもないところまで走っていくんだもの。何度も見失っちゃったよ」 「チェックは大事ですからね。大丈夫、子供の足跡とか秘密基地とか、今日見た範囲にはなかったです!」 「ずいぶん動いてたよね。私よりずっと疲れたんじゃない?」 「野外行動は慣れてますから! みほどのだって地図と首っ引きで大変だったでしょう?」 「私は風紀委員のトラックに乗せてもらってたから……」 「でも要所ではやっぱり走ってたじゃないですか。お疲れ様でした!」 「ん、優花里さんもね。お疲れ」  みほが持ち上げたコーヒーカップに、優花里も自分のカップを近づけて、かちんと乾杯した。 「はふー……」  焦げた香りの温かい湯気があごをくすぐる。隣の肩が柔らかい。曲げていた脚をテーブルの下にゆったりと伸ばして、体の力を抜いた。 「……ふんわり」 「はい?」 「休まるなぁ……って思って」くむ、と肩を押し付ける。「隣に人がいると、ほんと落ち着く。一人だと、もたれるものなくて……」 「人……ボコがいるじゃないですか」 「ボコは別なの」ちら、とソファの大ボコに目をやりつつ、優花里が言いかけたことにも気づく。「それに、他の人もだめなの……私は」  あとは口にしない。頭を倒して、肩に頬ずりした。 「は、はい……」  もたれた肩が、かえって少し硬くなってしまう。相変わらずだなぁ、とみほは忍び笑いする。いつまでたっても、副会長なんかになっても、この人はなれなれしくするってことができない。  あ、でも……今日は、ただいまですって、元気に言ってくれた。  ちょっとずつ、近づいてくれてるんだな。一歩一歩……。  そう思っていると、優花里が斜め上を見あげながら、何気ない口調で言った。 「あの……よかったら、足をお揉みしましょうか」 「あし?」 「は、はい。その、たくさん歩いて疲れた時は、マッサージがいい、ですよ……?」  遠慮がちな申し出とともに、ちらりとまなざしが向いた。  みほはその目に、親切心以外の何かがにじんでいることに気づいた。でも気づいたことを顔に出しはしなかった。  優花里のその気配が何を意味するのか、うすうすわかっていたから。不快なものではない。むしろ、胸がどきっとするような、特別な気持ちのはずだった。 「……うん、お願いしようか、な」  だから、顔に出さないようにしながら、身を起こした。 「んと、どうすればいいかな? テーブル……」 「あっ、それはこう、どかしてですね。みほどのはそっちに座ってもらって」  優花里があたふたと、ぎこちなくテーブルを動かして、みほをソファに上げる。その顔がうっすらと赤い。  やっぱり、よくないことだって思ってるみたい。それはわかるけど。私も、していいよって、どうやって言ったらいいかわからないし……。  向かい合って正座した優花里が、「ではっ」と妙に力んだ調子で言って、腰かけたみほの右足を太腿に乗せた。  黒のソックスに包まれた足首を片手で捧げ持ちながら、片手でふくらはぎをつかむ。  ぎゅう……と握られて、「ふあ」と声が漏れた。 「痛いですか?」 「ううん。ぜんぜん」 「痛かったら言ってくださいね……?」  足首をしっかりと握った優花里が、ぎゅ、ぎゅ、ぎゅう、とすねの裏側のたふたふしたところを、揉み上げていく。力がこもってはいるが、指先を立てずに包むような握り方なので、まる一日酷使して張り詰めた筋肉から、疲れがしぼり出されていくように感じる。 「どうですか」 「う、うん。気持ちいい……よ」 「ふふ、よかった、です……んんっ」  アキレス腱から膝裏まで、ぎゅうっとしぼり上げながら、優花里が微笑んだ。続いて反対の足をつかんで同じことをする。  それは確かに丁寧なマッサージそのもので、みほは一瞬、あれっ私の早とちりだったかな、と思いかけた。  でも、続けるうちに様子が変わってきた。  左足のふくらはぎを揉み終わった優花里は、そこでやめずに、また右足を手にした。アキレス腱を支えながら、爪先の五指を包むように、ためらいなく下から握り締める。 「あ、ゆか……んっ」 「足の裏、伸ばしますよ」  そう言って、ぐいっと爪先を押し上げる優花里の目に熱気がこもって、額が汗ばみ始めている。その目つきと、足裏の筋肉が引き伸ばされる痛心地よさと、何よりも爪先をつかむ優花里の思い切りのよすぎる仕草に、みほは確信を取り戻す。  あ、やっぱりだ……。 「力、抜いてくださいね……ぎゅっぎゅってしますから」  そう言って、足の五本指を甲側に押し上げる優花里の顔が、靴下に近い。  通話しようとしている電話並みに――酒場のバーテンが振り混ぜようとしているシェイカー並みに――みほの足を頬に近づけて、ぐいぐいと熱心に反り曲げている。  精一杯、平静に見せかけようとしているのはわかる。  それでも、胸が深く大きく上下しているのは隠しようもなくて、優花里がみほの足の周りの空気を、ひと呼吸ごとにいっぱいに吸い込んでいるのが、丸わかりだった。  優花里さんってば……。  恥ずかしさで、かあっと頬が熱くなった。  こうなるまで、二人とも一言も口に出さなかったことが、ひとつ。  靴下の湿り気。  寒い季節とはいえ、革靴を履いて一日中歩き回ったのだから、そこは、そうなっている。帰宅して靴を脱いだときに、廊下でぺたぺた音がしないかと、ちょっと気になったほど。部屋に落ち着いてしばらくたったけど、すっかり乾くほど時間はたっていないし、多少乾いたといっても、元通りのさらさらには程遠い。  そうなっていることを、優花里はまったく無視して話を持ち掛けたし、それがわかっていてみほも乗った。  そういうことだと思ったから。  優花里が、前からそういうことをしたがっているのを知っていたから。  知っていて、乗ったのだけど――実際にやられてみると、それはとても落ち着いてはいられないような、身に迫るふれあいだった。 「はい、足首回しますよー。ぐるぐるぐる……」 「ん、ゆかりさ、あ、んんん……」 「痛くないですよね。くすぐったいですか?」 「ん、ちょっとね、でも……」 「ちまちま触ってるとかえってくすぐったいですよね。ぎゅってしちゃいますね……」 「ふあっ、ゆ、優花里さぁん……」  足の裏の前半分、土踏まずから先をぺったりと握り締めて、ふくらはぎを肘で支えて、優花里がみほの右足をぐいぐいと捻り回す。それはマッサージとして、まず気持ちいいのだけれど、それよりも別の意味で、みほの羞恥心を強く煽り立てる。  あ、足の裏、思いっきり素手でさわっちゃってるんだけど……!  自分なら人の他人の足の裏なんかさわりたくない、という常識がまずある。でも優花里さんの足だったら我慢できる、という修正が次に来る。そこから先が今までわからなかった。そこが平気、っていうよりも、触りたいってどういうこと? 手とか髪とか唇ならまだいいけど、そんなところ、って……。  こういうことだった。優花里の表情が表していた。みほの膝に横からもたれるような姿勢でひたすら足裏を揉んでいる優花里は、目を細めて口元を緩め、愛しさと喜びをありありと見せていた。  力を込め続けている優花里の指はすっかり熱くなり、その熱でみほの爪先までほこほこと温まっている。多少の乾きなんか、とうに消え去ってしまった。今はもうどちらにとってもあからさまだった。優花里の指がみほの湿りにまみれていく。そういうことを気にしない、町のマッサージ屋さんの真似事をしているような、嘘を二人でついている。  これが初めてなら戸惑ったかもしれない。自分の体の匂い、髪や清潔な服の香りだけでなく、隠している秘密の場所の匂いにまで、優花里が強すぎる愛着を抱いてくれていることを。  でもみほは前から知っていた。そして、それを受け入れてもいい、と思っていた。優花里ほどではないけど、自分も彼女の香りが好きだから。夏の草風を思わせる、澄んだ爽やかな髪の匂い。不思議に惹きつけられる、身近な匂い。  けれども優花里は、みほのほうがいい匂いだと言い張って譲らない。やさしい春の花の匂いがする、と。  そんな風にお互いがお互いの香りを好きなんだから――二人きりの時ぐらい、思い切ってほしがっても、分けてあげても、いいんじゃないかな、と思いつつあった。  優花里さんとは……優花里さんとだけは……こんなことまで、しちゃっていいんだ……。 「優花里さん」  かすれた声が出た。「ふぁい?」と夢中の赤い顔で優花里が見上げる。そのふわふわの前髪を指で軽くかき分けながら、ささやく。  「もっと……その……」どうすればいいんだろう。ううん、どこまでしていいのかな?「あっためてもらえる? 足の、ゆび……」 「は……」一瞬目を見張って、「はひ……」嬉しそうにうなずく。  何をするのかと思ったら、靴を試着させてくれる靴屋さんみたいに、両手で足を捧げ持って、顔を近づけた。  ふうっ――と。  爪先に唇をあてて、息を吹き込む。  指のあいだに染み込んだのは熱気なのに、ぞくぞくと寒気のような心地よさが爪先から駆け登ってきた。思わず、ぎゅっと太腿を閉ざす。 「ふくっ」 「……どうですか?」  「ん、そういうの。そういうの、もっとして……」  ぱあ、と笑みが優花里の顔に浮かぶ。こくんと大きくうなずいて、よりぴったりと、片方の頬を押し付けながら、すふすふと息を注ぎ始めた。 「は……ああ……あふ……」  足の甲に、親指の股に、次の指、次の指に。唇が滑りながらたっぷりと吐気を吹き込んでくれる。そしてもちろん、吹き込んだ分の息を、押し当てた鼻からすう、すう、といっぱいに持っていく。  舌。靴下越しに尖った舌先まで感じるようになった。もちろんみほは指摘すらしなかった。言う必要をまったく感じなかった。してもいいと思っているし、したいだろうとわかっているから。  爪先を甲側から温め尽くすと、とろんとした目で優花里が見上げた。言われなくても何が言いたいのかみほにはわかる。みほもしてやりたくてたまらない。足の、もっと温かくて柔らかな側を、好きにさせてあげたい。  でも、だったらこうして、とじかには言えなかった。それをすると、どう言っても取り繕えない、無理な姿勢になりそうだった。 「優花里さん……」 「ふぁい……」 「どう……どうしようね。はは。続き、わかるんだけど……」 「あっ、はい……それはちょっと、無理ですもんね……えへへ」 「うん、無理だけど……」ちょっとだけ、建前を忘れることにした。「あの、そこにごろんしてもらえる? なんとなく、だけど……」 「なんとなく、ですか。は、はい……」  照れ笑いを交わしてから、ごくりと唾を飲んで、優花里が床に仰向けになった。 「んっ……と」  みほは体育座りのときのように膝下を手で持ち上げて、ぶら下げた爪先をそろそろと降ろした。  足の裏に凹凸が触れて、ふきゅ、と小さな声が聞こえた。左右の手がくるぶしをつかむ。すふー……と熱い息が靴下越しに足指の裏側へ染みてくる。次いで、すうっと吸いこまれて冷たい空気が通った。  ゆ、優花里さん……。  体重をかけないように膝裏を支えながら、みほは恥ずかしさに身を縮めてしまった。  一度では終わらなかった。すう、すう、と何度も深呼吸の音がして、そのたびに足指からぞわぞわと生まれて初めての心地よさが届いた。鼻の尖りや唇の柔らかさが敏感な足の裏を滑り、時おり、つかんだ手でしっかりと下に押し付けられた。  みほの胸の中でいろんな気持ちが入り混じってざわついた。気持ちを口から出すと、「ごめん、ごめんね、優花里さん……」という謝罪の言葉になった。  優花里が動きを止めて、もぞもぞと何か言った。よく聞こえなかったけれど、たぶん同じことを言ってくれたんだろう、と想像がついた。  嫌ならすぐにでも、足をひっこめて席を立って、離れられる。でも、そうする気にはなれなかった。これは優花里がすごく喜んでくれることなのだし、同じほどじゃないけど、自分もほのかに心地いい。何よりも、誰ともしないし、誰もやってないはずの秘密のいたずらを、二人だけでやっているという背徳感が、たまらなかった。  優花里が大きく、ぶんぶん首を振った。嫌なのかな? と思ったら、思いきり両足先を抱きすくめられて、「うううう、みほどのぉ……」と泣くような声が聞こえた。  それが、嬉しさの振り切れてしまった優花里の声だということを、ほんの数回だけど、前に耳にしてみほは知っていた。胸の奥から温かい安堵が湧き出して、みほは深々と息をついた。 「ゆかり、さん」  気が楽になった。呼び方は、今はこちらのほうがふさわしい気がした。ゆかり・さん、と柔らかく声をかけながら、足を横へ動かした。首から下へ。横たわった優花里の、あちこちへ。  きゅむ、きゅむ、と軽やかに体に足裏を置いていった。ソファに手をついて自分を支えながら。目を閉じたけれど、はあ、はあという優花里の息遣いは聞こえてきた。その強弱で、どこをどうしたらいいのかわかった。  きゅむ、きゅむ、と肩や腋へ。ふにふに、と乳房へ。すりすり、と顎下を撫でてがら、するりとみぞおちへ。ぺたり、とお腹。もう一度顔。手のひらがわきわきと動いていたから、それも胸に重ねて、きゅむっと踏んだ。硬い腰骨をぐりっぐりっと足指で挟んでから……あそこへ? ううん、それはちょっと。スカートの上から、さすっと撫でるだけ。  それでも優花里は、「は、はぐっ……んん……」と鋭く身をこわばらせた。  額からおへそまで、土踏まずの柔らかいくぼみで、するり、するりとまんべんなく撫でてあげてから……ふう、と一息ついた。もともと疲れていたし、脚だけをそうやって動かし続けるのは、ちょっと苦労が大きかった。  すると優花里が、「休みます?」と聞いてきた。  休むって、このまま優花里さんを足置きにして? その想像に、みほは思わずくすりと笑ってしまった。 「ううん、そろそろお開き……いいかな?」 「あ、はいっ。もちろんです」  こくっと息を呑んでから、そんな返事が来た。  みほは足を抱えて、本物の体育座りになる。優花里がのろのろと身を起こした。横顔はまだ赤い。それに、ものすごく恥ずかしそうに見える。  その場にぺたんと座りこんでしまったけど、ぽんぽん、とみほがソファの座面を叩くと、上がってきた。お説教を待ってるみたいに、ちんまりと肩を縮めている。  じきに、目が合った。上目遣いにいろんな気持ちがこもっている。  でも一番感じ取れるのは、申し訳なさだった。  みほはたまらなくなって、優花里を抱き寄せ、肩にあごを乗せた。 「ゆかり、さん」 「はい……」 「足の『マッサージ』、どうだった?」 「それは……その、すみません……」 「ううん、謝らないで。無理にしたんじゃないよ、二人でしてたんだよ。私、優花里さんのお顔をふみふみしちゃったけど……あれは、悪いことじゃなかったんだよね?」 「は、はいっ」そこは、きっぱりとした返事。「みほどのが反省される必要は、全然ないですっ。私が、してほしくて、してもらったので……」 「優花里さん……ほんとにあれがよかったの? 私の……足なんかで、きゅむきゅむって」 「はい……」今度は、消え入りそうな返事。「私、私……どう言ったらいいのか、それが一番、響くんです。みほどのの存在を感じるのに、みほどののいい匂いが流れ込んでくるのが、一番嬉しいんです。あんなふうにしてもらえて――」  ぎゅう、と背中に抱き着く手に力がこもった。 「死ぬほど幸せでした……鼻の奥、脳みそまでみほどのに染められてしまったみたいで……んふっ?」  驚いた声をあげたのは、みほが大きくぶるっと震えたから。  優花里の物言いは、それぐらい淫らで、蠱惑的に思えたのだ。 「優花里さん……」 「は、い?」 「だめだよ、そんなことあんまり言ったら……」 「え?」 「それ、ね」自分も、思い切りぎゅっと、抱擁に力をこめる。「すごく、どきどきする。危ない線、越えたくなる……」 「あぶない線、ですか?」 「うん……優花里さんには何してもいいみたいな気持ちになっちゃう……」 「あの――」少し、息を詰めたのは、それだけ真剣だってことだろう。「何しても、いいですよ。みほどのなら……」  耳から忍びこんだ、その思いつめた感じのささやきに、くーっと息を詰めて――。  みほはゆっくりと息を吐き、優花里をじわりと押し離す。 「……だめ、優花里さん」 「は、はい」あはは、ともしゃもしゃ頭をかく優花里。「思い詰めすぎですかね、重いですよね、すみません……」 「違うよ」  照れ隠しする優花里の脇に手をやって、いっぱいの欲情を瞳にゆらめかせて、みほがセーラーのファスナーを上げる。 「もう、止まらないってこと。踏みこんじゃうから。優花里さんの中に。一歩ずつ……」 「は」  笑いを凍り付かせて、優花里が頭から手を放す。こわごわという感じで一言。 「はい……来て、ください。どこにでも」 「――もうっ!」  なかば襲い掛かるように、みほは優花里をソファへ押し倒す。  (おわり)