ただいまって言っていい? 「ただいまぁ……」  アパートのドアをガチャリと開けたみほは、玄関にどさりと荷物を置くなり、はあっと前へのめりそうになる。連絡船からアパートまでの道がきつかった。東京から学園艦までの道が遠かった。文科省でのやり取りが長かった。  大洗艦を離れていた一週間、本っ当に長かった。  大学選抜チームとの戦いに勝利した記念式典、の打ち合わせと準備って話だったけど、正直、なんで今頃、だ。廃校になるはずだった学校を復活させるために、大人の事情でそういう仕切り直しが必要だってことで、角谷会長と一年の澤梓と一緒に出てきたけれど、災難もいいところだった。大勢の大人と他校のチームにずっと囲まれて、延々と会議や打ち合わせに顔を出していた。話し合いなんて得意じゃないから、へとへとに疲れてしまった。  もぞもぞと靴を脱いでふらふらと洗面所に入り、顔と手を洗ってから、流しをつかんでぼんやりする。ようやく帰ってきたけれど、これから何をしたらいいかわからない。頭がうまく回らない。  そうだ、晩御飯――とよろよろ冷蔵庫へ向かう。けれど一週間の留守に備えて出る前に片づけておいたから、開けてみてもなんにもなくて。今からインスタントを作ったり買いに出るのも面倒で。それにお腹が減っているというよりも、足りないのはもっと別のものだと気が付いた。  顔を上げる。蛍光灯に白々と照らされた自分の部屋。いつもなら、帰ってきた、って落ち着くところだけど、今はことさらに、空っぽに感じた。  ここじゃない。ここも私のうちだけど、今はもっと「帰りたい」。一本足でずっと立っていたかかしみたいに、倒れそうな気分だから。しっかりつかまってもたれたい。  携帯を取り出して、耳に当てていた。  るるるるる、るるるるる、と二回呼び出し音が鳴っただけで、さっと相手が出てくれる。 「秋山です! みほどの?」 「優花里さん――」  元気な声を聞いただけで、ほーっとひとつ、ため息がこぼれた。 「あの、ね」 「はい!」 「会いたい」 「あっ……はい!」一段と嬉しそうな声。「今どこですか? もう帰られました? すぐ行きます――」 「ううん」どこにいて、どんな事情かと話すのも億劫で。というよりも、好意の塊みたいな声を聞いたとたんに、甘え心が出てしまった。「いいから。私が行きたい。今、おうち?」 「えっ、いいですよ、行きますよ。お疲れでしょう? ご飯はもう食べられました? なんでしたらうちから持っていきます。残り物になりますけど――」 「まだだけど、ううん、ううん。あのね」ふるふると首を振って、「お迎え、とか、準備とか、いま無理。行って、迎えてほしい」 「……みほどの? 大丈夫ですか?」  一転して、心配そうな声になる。だよね、こんな言い方じゃわからないよねと思いつつも、わがままが止まらない。 「だいじょぶ、疲れてるだけ」はあ、と一度息継ぎをして、「お帰り、って言われたいの。だから行きたい……だめかな」 「――」  答えが途切れた。その意味はちゃんとわかってる、と思う。嫌がってるわけじゃない。こっちがどうなってるのか、考えてくれてる。 「……わかりました、お待ちしてます。あ、こっちは今うちです。準備とか何もしなくていいですよ」  やっぱり。通じた。 「ん、ありがと。……あのね、優花里さん」 「はい?」 「可愛い優花里さんがいいな」 「かわっ? え、それはどういう――」 「行くね」  電話を切って、どっと壁にもたれた。今なにか、無茶なこと言っちゃったかな――と思いつつも、自分が何を言ったのかもよくわからない。  ただ不思議なことに、部屋から出る気力は湧き出した。わかってる。待っててくれる人がいるからだ。  着替えや書類が詰まったトランクは放り出したままで、リュックだけ片手でつかんで、とぼとぼと部屋を出ていった。   「あ、みほどの! みほどの!」  くるくるポールの横に立っていた、サフラン色のひらひらふわふわしたものが、飛び上がって両手を振った。叫びながら駆け寄ってくる。 「いらっしゃい、お待ちしてました! 荷物持ちますね、あの……みほどの?」  リュックを受け取りながら覗きこむ顔が、みるみる心配に曇る。 「大丈夫ですか? なんかゾンビみたいなお顔の色ですけど……」 「ん」  こく、と小さくうなずくのが精いっぱい。体力の残りはあとわずか。 「なんとか……」 「上がってください、上がって! ご飯ありますよ、ゆっくりしてください!」 「ううん、おへや」 「へ?」 「おへや、入れて」 「は……はい」  家に上がって、廊下で覗いている優花里の父親と母親にかろうじて会釈だけしてから、八十歳のおばあちゃんみたいに手を引かれて階段を昇り、優花里の部屋に足を踏み入れた。 「どうぞ……」  パタンとドアを閉じた優花里が前に回ってきて、「みほどの?」と顔の前でひらひらと手を振る。  するとようやく、みほの目の焦点が合った。垂れ目気味の人なつこい顔。サフラン色はワンピースのスカートだった。夏向けの薄手のノースリーブで、柔らかく優花里の体を包んで、まるっこい肩を覗かせている。  ぷつん、とみほの中で何かが切れた。自制が、というより、ここまで持たせてきた気力が底を突いた。 「ゆ゛が゛り゛ざああんん……!」 「うひゃは!?」  思考を投げ捨てて抱きついた。びくんと優花里が硬直するが、お構いなしに胸元に顔をうずめて、ぐりぐりと頬を押し付ける。 「ゆがりざん、ゆがりざんんん」 「ちょ、あの、みほどの!?」  そのまま体を預けて、ずるずるぺたん、と床にへたりこんだ。慣れ親しんだ、鼻がスッとするような好ましい汗の香りを感じながら、んーっ、んーっとブラの上の鎖骨に顔を押し当てる。 「ど、どうしちゃったんですか……」  ものすごく戸惑いながらも、ちっとも抵抗せずに身を任せて、優花里が尋ねる。腕ごと抱き締めた体を、さらにぎゅっと締め付けながら、みほは泣き言を吐きこぼす。 「つかれたよぉぉ……」 「お疲れ、ですか?」 「うんん……すっっっごくつかれた……あたまも、からだも、ぐてぐてだよぉ」 「あははは……会議、大変でした?」 「ん、だった」幼児のように、こっくんとうなずいて、「あのねあのね、なんか式典でパレードをするっていってね、戦車の並びを相談したんだけど、大学選抜が先か高校生が先かを決めるのに、六時間」 「六時間!?」 「うん、でね、でね。大学選抜が先になったんだけど、そのあと高校生の先頭をどこにするかで、また六時間」 「また!」 「そのあいだ会長とよその隊長がずーっとやりあってて、私すみっこでじーっと座ってて」 「はわあああ……」 「そんなのが七日間ずっとだったよ」 「ひええええ……」 「つっ」もう鎖骨なんかに逸らしたりせず、優花里のおっぱいに、服の上から、むーっと口を当てる。「かれたぁ……」 「それはそれは……」  苦笑した優花里が、よいしょ、と腕を引き抜いて、みほの頭に回してくれた。 「ほんとにほんとに、お疲れ様でした」  さわさわ、さわさわと撫でてくれる。「んっ」と鼻を鳴らしたみほが、ぐっと力を込めて押した。 「ごろん、して」 「は、はい?」 「いいから。ごろん」  言われるがままに優花里が仰向けになり、その上にべったりとみほは覆いかぶさる。 「はああ……柔らかい」 「はい、あ、みほど、の」 「もう、優花里さん分が足りなくて、飢え死にしちゃうかと思ったよぉ……」 「あは、それは、嬉しいん、ですけど……」 「んんん、もうっ、んんんーっ」 「あっ、ちょっと、あっ」  ずりずりと這い上がって、右の首元に頬ずり、顔を上げて、左の首元に頬ずり。ぐだぐだの泥のように疲れきった体を優花里に押し当てて、みほは何度も深呼吸した。  ワンピースの裾を、指先でくいっと引く。 「……これ、服、おめかし?」 「はあ、可愛くって言われましたから……」照れくさそうに微笑む気配。「似合わないんで着たことなかったんですけど、これでよかったですかね……?」 「ううん」ぐいぐいっ、と首を振る。「似合わなくない。ぜんぜん、似合わなくないっ。優花里さん可愛いし。もう、可愛いしっ……!」 「ですかぁ? あ、あのですねっ!」密着の度合いが強すぎると思ったのか、やにわにあわてた声で、「まだ親が起きてますし、下で待ってるので、その、今は……!」 「いい」  みほは、ふーっと深く息を吐いて、力任せだった抱擁を、少しだけ緩める。 「ご飯、いいです。その代わり、しばらくこのまま……」 「しばらく? って?」  優花里が聞き返したが、みほがゆったりと力を抜いて、体に回した手でそっと肩をつかむのを感じると、自分も息を吐いて体を柔らかくした。 「――いいですよ、みほどの。どうぞ、好きなだけ」 「ん」  うなずいたみほが、もう少しだけ体をもぞつかせて、胸とおなかと脚をちょうどよく重ねると、小さな声でささやいた。 「ただいま……って言っていい?」  優花里の両手が背中に回って、腰の後ろでそっとしっかり、組み合わさった。 「お帰りなさい、みほどの」  夜半、ふとみほは目を覚ます。板張りの天井。見慣れない、でも知っている部屋。  ベッドではない布団。おなかにかけられたタオルケット。いい匂いの枕――はっと我に返る。 「あっ、ここ……私っ?」  身を起こすと、机の優花里が振り向いた。いつの間にショートパンツ姿だ。 「あ、起きられました?」 「優花里さん……」 「寝てていいですよ。私はもうちょっと起きてます」  覆いをかけた電気スタンドの光が、微笑む横顔を照らす。何か書き物をしていたみたいだ。その優しい顔を見ていると、だんだん自分のしたことが思い浮かんできた。 「ご……ごめんなさい、優花里さん……」 「ん? 何がですか?」 「何がって、私、疲れてわがまま言って、いきなり押しかけて寝ちゃって……」顔が熱くなって、手で押さえた。「めちゃくちゃだったよね、うわー、もう……恥ずかしい」 「いいんですよ。それより、起きたならお腹すきません?」 「え?」 「夜食でもいかがです? 何か出しますよ」 「そんな、この上そんなこと――」  断ろうと思ったのに、夜食という言葉に体が反応した。ぐきゅるるる、と大きな音が響く。みほはお腹を押さえて小さくなる。優花里が笑う。 「やっぱり。待っててくださいね」  ――やがて、一階へ降りた優花里が、お盆を持って戻ってきた。香ばしい湯気を立てる丼が二つ。ごくりとみほは唾を飲みこむ。 「まさか、優花里さん……」 「うふふふ、この時間のこれは禁断の味ですよねっ」  たまご乗せ味噌ラーメン。卓袱台がわりに並べた弾薬箱に乗せて、向かい合う。 「さあ、召し上がれ!」 「いただきます……」  割り箸を割って食べ始める。ずーずーはふはふとすすっていくと、涙が出てきた。 「優花里さん」 「ふぁい?」 「おいしいれす!」 「えへへへ、私もです」 「うれひいです……!」 「うふふふ、私もです!」  スタンドの黄色い光が白い湯気を照らす。赤い鼻の二人が笑い合う。 (おわり)