夏の空しか見ていなかった 「ただいまー、あー暑かったー!」 「ふー、へとへとです。お邪魔しまー……」 「あっ、だめだよ優花里さん。『ただいま』!」 「へっ?」 「ただいまだよ。ほら、言って?」 「た……ただいまぁ……」 「うん、そう。あ、でも二人のときだけね?」 「あっはい、もちろん。……えへへ」 「ふふ」  先に上がってリビングに帽子を放り投げたみほが、キッチンで振り向いて微笑む。照れ笑いを返した優花里は、たくさんの紙袋を置いてスニーカーを脱ぎながら、小声でつぶやく。 「ただいま」 「わー、蒸し風呂みたい。エアコンエアコン」  部屋に入ったみほがピッとリモコンを入れてから、夏物ワンピの胸元をぱたぱたつまんで言った。 「服もべったべた。シャワー浴びたーい。優花里さんもだよね、先入って、しゃわしゃわっと」 「あ、それならみほどのがお先にどうぞ」 「何言ってるの、お客さん置いといて先に入ったりできないよ」 「もうお客さんじゃないんですよね? 私」 「それはそれ、これはこれ!」  戻ってきたみほが、優花里の紙袋と頭の空軍キャップを取り上げて、代わりにタオルを押し付ける。 「遠慮しないで、ね?」 「わ、わかりましたよぉ……」  遠慮はあったけれど、タンクトップもショートパンツも汗だくで、本音を言えば自分の汗臭さが気になった。優花里は承知して、洗面所に入った。  ドアを閉めようとすると、さっと手で止められた。 「優花里さん、ちょっと」 「はい?」 「あ、鍵鍵」  玄関のドアを確かめに行ってから、すぐ戻ってきたみほが、いたずらっぽくささやく。 「ブラジャー、禁止ね」 「ええ?」 「シャツと下だけで出てきて」 「な、なんでですか?」 「んん? そのほうが素敵かなって思って」  邪気のない顔でにこっと笑うと、パタンと洗面所を閉ざした。「なんでですか、もぉ……」と優花里は苦笑する。理由は見当がついているが、いつになく積極的にみほが言ってきたのが、恥ずかしかった。  服を脱いでバスルームに入り、蛇口をひねった。ほとばしるぬるい水がすぐ熱くなる。ここで裸になるのはもう何度目かわからないけれど、みほの場所だ、と意識してしまうのもいつものことで、立ちこめる石鹸の香りと、それをかき消していく自宅とは違うお湯の匂いに、胸がざわついた。  今日は昼から、みほと市街地に出ていた。日用品の買い出しと、戦車ショップでの趣味の買い物。今日は快晴の夏日、学園艦は南のほうの海を航行しているみたいで、突き刺すような直射日光とアスファルトを舐めた熱風に、こんがり焼かれてしまった。  温水で顔から背中まできれいに流す。髪はさすがに洗えない。仕上げに冷水をざっと浴びてバスルームを出ると、ショーツを穿いてブラを付けかけ、そこで言われたことを思い出して、タンクトップだけに頭を通した。 「お先に失礼しましたー……」  下着だけで部屋に出るというのが、もうすでに恥ずかしい。みほとはとっくにそういう仲だけど、普段はむやみと脱いだり見せたりしない。「そういうとき」は「そういうとき」で、そうでないときはちゃんと服を着て、友達同士の間合いでいるつもりだ。 「出た? じゃあ私入るね、待っててね」  入れ替わりにみほがタオルを抱えて洗面所に飛びこんだ。わざとこちらを見ないふりをしていた気がする。優花里はリビングに出て、うん、とソファに腰を下ろす。みほのいないみほの部屋をなんとなく見回す。  なんのつもりか、テーブルがテレビ前に立てかけられて、タオルケットが床に敷かれていた。ベッドが作られていないのが、ちょっと面白い。まだ昼間だし、と迷ってこうしたみほの考えが分かる気がして、「たはは……」と優花里は頭をかいた。  シャワーの水音が聞こえている。エアコンは全開で冷風を吐き出している。その風が、水を浴びた肌にはだいぶ冷たく感じられた。  優花里はふと、名案を思いついた。  草色のカーテンをいっぱいに開け放つ。アルミサッシをカラカラと開けて、それだけでなく左右とも外してしまった。横に倒してベランダの手すりに立てかける。  そうすると、空が開けた。  水色や青と言うよりも、紺の空だ。日本国内では、いやその近海ですら仰げるとは思えない、海の青さを映しこんだ、どこまでも遠く深い紺色。 「おおーお……」  立ったままだと、手すり越しに町並みが見える。しかし腰を落とすと、ベランダの手すりが周りの建物を隠した。そのまま後じさりして、タオルケットにすとんと腰を下ろす。大丈夫、この位置からは、空しか見えない。 「よーし……オッケーですね」  室内の冷気と、屋外の風が入り混じって渦を巻くので、エアコンも切った。風が収まるが、さほど蒸し暑くはない。思った通りの状況を作れて、優花里は満足して仰向けに横たわった。  背後でドアのあく音がした。 「お待たせー。……わわっ? 優花里さん、何これ?」 「みほどのー」転がったまま逆さまに見上げて、優花里は手招きする。「ちょっと工夫してみました。どうですか?」 「み、見られちゃうよう」 「大丈夫ですって。ここ四階でしょう。あっちに高い建物がないから、視線届かないんです」 「でも……」 「ほら、かがんでこっちへ来てください」  何度も言い聞かせると、みほは中腰でそろそろとそばにやってきた。思った通り、彼女もTシャツとショーツしか身に着けていない。  ぽすん、とタオルケットに腰を下ろすと、首だけ伸ばして手すりの向こうを見たりしてから、「いいか、な……?」とまだ心配そうにうなずいた。  「どうしてこんなこと?」 「空、見たくて」 「空? 何か飛んでるの?」 「そういうんじゃないですけど。解放感、すごくないですか?」 「解放感……」  つぶやいたみほが、あっ待ってねと戻っていき、さっき買ってきたドリンクのボトルを、はい、と差し出した。  それから、優花里の隣にゆったりと横たわり、斜め上の青空をじっと眺めた。 「空……広いね」 「はい」 「落っこちちゃいそう。吸い込まれそう、っていうのかな。すごい色してる。歩いてるときは気づかなかった。……なんか、いいね」 「はい」  優花里は嬉しくなって、うなずいた。  ふわあ、と風が吹き込んでカーテンを揺らす。午後の太陽光は軒から斜めに差して、タオルと四本の脚を膝まで白く輝かせ、そこから上に暗い影を塗っている。影の中で二人は何をするでもなく、ぼんやりと横たわる。少し肘を動かすと、相手のひんやりした二の腕が触れる。 「水、浴びたんですか」  「うん。優花里さんも」 「暑くないですよね、むしろ太陽、あったかくて」 「うん、海水浴みたい」  言ってから、くすっとみほが笑う。 「なんだろう、これ。窓全部開けちゃって、丸見えなのに二人ともパンツだけで寝っ転がって……変なの」 「パンツだけにしろって言ったの、みほどのじゃないですか……」 「うん、そうだけど。こんなふうにするの、思い付かなかったから。優花里さん、おもしろい」 「なんか、思い付いちゃったんですよね」水滴が浮き始めた冷たいボトルを、ぴたぴたと自分の頬に当てながら、優花里は言う。「うちではできないことも、ここならやっていいんだ、って思ったら……」 「それは、なんかわかるかな……」みほがプシッと音を立ててボトルの蓋を回す。「私も、家では絶対パンツで歩き回ったりしなかったし。さっき、ふっといいかなって思って。優花里さんならいい気がして……」 「私ならってなんですか」軽く笑って、「でも……はい。いいですよ。私の前でなら」 「みんながいるとできないよね」 「できません」優花里はちょっと赤くなる。「いくら友達でも、それはさすがに……あ、今日の集まりは六時でしたよね」 「うん。まだまだ大丈夫」  あんこうチームの仲間とは、夕方に落ち合って外で食事をする約束だった。だからここへは来ない。  うなずいたみほが、寝たままボトルを差し出す。 「はいこれ。飲んで? 優花里さん」 「え? は、はい……」  体を横向けたみほが差し出すボトルが、口元に当たる前からしゅわしゅわと炭酸飲料をあふれさせた。戸惑いがちに唇を開けた優花里の口の中に流れ落ち、すぐにあふれて顎へこぼれる。 「んわ、かぼっ」 「あ、ごめん……」  あわててボトルを置いたみほが、顔を寄せて舌を伸ばした。ぺろりとしたたりを舐めあげて、唇を重ねる。 「ん」「ふ……」  甘い液体を挟んだ柔らかな接触、ほんのささやかなぬめりの侵入。舌先だけをちゅるっと触れ合わせて、すぐに離す。 「おいし」 「んう。みほどのぉ……」  ふにゃ、とあっさり顔をとろけさせた優花里にキスを、みほはまだ続けない。代わりにそのふさふさの頭髪に顔を突っこんで、ふしゅふしゅと鼻をなすりつける。 「くふー……いい匂い」 「だめですって……」 「ううん、優花里さん、いいって言って」髪の中の耳たぶを探り当てて、唇でくきくきと折り曲げる。「くんくんしていいです、って言って。私、優花里さんの匂い、好きなの」 「そんなぁ……ひうっ」 「優花里さんだって、私のが好きって、言ったでしょ?」少しだけ、すねたようにささやく。「私、くんくんしていいって言ったよ。優花里さんはだめなの?」 「それは……あ……」耳たぶに舌で伝えられるささやきに、ぞわぞわと肩をひくつかせた優花里が、ぎゅっと目を閉じてうなずく。「じゃあ……はい。か、嗅いでください……」 「うふ……」ぶるっと身を震わせて、みほが押しかぶせる。「も、もう一回言って、優花里さん」 「私の、髪――」消え入りそうな小声。「か、嗅いでください、みほどの……」 「……うんっ」  みほは優花里の髪に指をくぐらせてすっぽりと手で包むと、すんすん、すんすんと、耳から頭頂へ、額から後ろ頭へと、毛穴をたどり歩くように、じっくりと鼻を滑らせていった。  犬や猫をうっとりとさせてしまう、あの毛づくろいの快感が、ジンジンと頭皮をしびれさせる。それに加えて、自分から嗅いでほしいと言ってしまった羞恥が焦げる。優花里は半口を開けて「あ、あ、あ」と声を漏らし、手足をもぞつかせて悶えてしまった。  陽光で蒸れた髪の香りを存分に味わったみほは、さらにそのまま顔を下へ滑らせて、肩にキスする。やんわりと歯を立てて、丸みを帯びたしなやかな筋肉の感触を味わい、二の腕をつかんではぷりと唇に挟み、水洗いした肌を舌で溶かそうとするみたいに、ぺっとりと舐めた。 「み、みほどの……」顔をそむけた優花里が、はくはくとあえぐ。「あの、なんですか? 今日、すごいです……」 「優花里さん……」口を離したみほの舌から光る糸が垂れる。「だめ? いやかな……?」幼さの残る瞳が今は熱く潤み、色白の目もとが、どきりとするようなピンクに輝いている。 「だめっていうか、いきなりだから……」 「うん、なんかね――さっき一緒に歩いてたら、優花里さん元気でかっこよくて、ほんとにかわいくて。そばにいるだけで、いい匂いがして、どきどきして……」  手が伸びて、優花里の薄いタンクトップの上から、ふくらみに触れる。 「さわりたい、って気分になってたの。暑かったせいかも……」 「た、食べられちゃうみたいです、私……」 「えと、ひょっとして、私だけだった? 一人で勝手に盛り上がっちゃったかな……?」  身を引くみほを、んくっと唾を飲み込んだ優花里が押し戻した。大の字になってはあはあとあえぐ。みほが浴室から持ってきたタオルで、優花里の腕を拭いた。 「いいん、ですけど」 「うん。けど?」 「ちょっと心の準備っていうか、モードが。今、私まだ、お昼な感じなので……」 「お昼。う、うん。そうだよね。お昼だ。ごめんね……」 「あっ、謝らなくてもいいです。いやじゃなかったです、大丈夫です」  しょげ返ったみほに、あわてて手を振ってから、優花里は乱れた前髪の下から、なんとか笑みを浮かべてみせた。 「ただ、ですね。もうちょっとだけ、二人でぼんやりしてたかったんです。えっちもいいですけど、始めると夢中になっちゃうでしょう……」 「そ、そっか」  襲っていた最中よりも顔を赤らめて、みほがうなずく。 「そうだよね。えっちすると時間忘れちゃうもんね。昼も夜もなくなって……せっかく優花里さんが、ここを素敵な感じにしてくれたのにね」 「いえ、そんなにたいしたことじゃないですけど……」 「うん、いいよ。ぼんやりしよう」彼女らしく気の入った真面目な顔で、みほが優花里の手を取った。「えっちは取り消しね、優花里さん」 「えーっと、はあ……」  そう言って日光浴のように再び仰向けになった二人だが、やがて優花里がふーと息を付いて、手を伸ばした。 「みほどの」 「ん?」  横顔を優花里の手が包む。垂れかかる栗色の髪ごと、さわさわと頬を撫でてから、唇に親指を当てた。 「なんか贅沢言っちゃいました。みほどのから触れてくれるなんて、そんなにないことなのに……」 「ううん、全然」優しく目を細めてみほが首を振る。「私、優花里さんのしたいこと聞くの、好きだよ。どんどん言っちゃってほしい」 「それは、私もです。みほどのが素直になってくれるのは嬉しいです……」言ってから、あはっと笑う。「なんか難しいですね。お互い合わせようと前に出て、相手が合わせに来たから引いて、結局ずれちゃう、みたいな」 「そうだね。私たちぐらい仲良くなっても、まだこうなるんだね」 「すれ違いが大きいと、離れたまま戻れなくなっちゃうんでしょうね……」つぶやいて、髪をつまむ。「でも私たちは、そんなに大きくすれ違わないですよね? もう」 「それはそうだよぉ、優花里さん」  当たり前、と言わんばかりにみほが明るくほほえんだので、優花里は大きく息を付いた。 「さわっていいですか、みほどの」 「ん」どこに、とも聞かずに、みほが目を閉じる。「いいよ」 「では――」  優花里はごろりと横へ転がって、体ごとみほに乗り上げた。「うぎゅ」と息を漏らしたみほが、さすがに驚いて「優花里さん――?」と目を開く。  その鼻に軽くキスをして、柔らかな体に全身の重さを一度、ぎゅっと押し付けてから、そのまま向こう側へ、ごろんと優花里は転がり落ちた。 「ふは」  目を合わせて笑う。すぐにみほも乗ってきた。「えい――」と転がって優花里の上に乗る。おでこをぐりぐりっと押し付けてから、来たほうへごろりと戻ろうとした。  それをそのまま戻さずに優花里は腕を回して抱きつき、ごろんとまた乗った。「重いぃ」と悲鳴を上げるみほを抱いたまま、さらにごろんと半回転して自分の上に引き上げる。  みほも腕を回して来て、抱き合ったままで右へ左へ、ごろりごろりと何度も転がった。  冷えたさらさらの肌とその奥のぬくもり、シャツの下の乳房の柔らかさと、あばらや腰骨の硬いぶつかり合い、そしてお互いの確かな重さと匂いが、転がるたびに上から下から押し付けられ、混ざり合って、でも夜にベッドで求め合っている時のような濡れた興奮はちっともなくて、ただひたすら安堵と楽しさだけがシェイクされて――。 「やだ優花里さん、あはは、何これ!」 「何って別に、みほどのこそ、わわ」 「えいっ」  最後にぶんと横へ放り出されて、どしんとソファにぶつかって、ばらりと体を離して、笑い崩れた。 「何いまの、ごろごろぉ……」 「なんとなく前からやってみたかったんですよっ。いてて」 「子供みたい。あっでも、むかーしお姉ちゃんとやったことあるかも」 「いいですね、きょうだいがいると。私は初めてですよ。じゃあこんなのは――」  起き上がった優花里がうつ伏せのみほの背に、後ろ向きにまたがった。みほの片足の足首を取って太腿で挟みながら、くるりと体をひねって背中に貼りつく。細首に片腕を回して、頬ずり半分できゅっと顎を締め付けると、「んくっ? 優花里さん苦しい……!」と、たちまちみほが息を詰めた。 「わわ、入っちゃった」  仕掛けた優花里のほうが驚いて、すぐに腕を離した。みほは咳きこみながらも、何が起こったかわからないらしく、怒るというより戸惑った顔で振り返った。 「今の、なに? 足も痛かった」 「すみませんすみません! プロレス技のSTFです。ミリやってると、なんかこういうのも目に入っちゃって。試しにかけたら、みほどのって細いですから、するっと……」 「乱暴はだめだよ!」 「はっはい、ごめんなさい!」 「優花里さんがそういうことするなら、私だって――」  優花里を背中から押しのけると、みほは床に押さえつけて、もたもたと腕をひっぱったり、脚を抱えこもうとした――が、技の知識など何もないので、どこもどうにも極まらない。 「ええと、こうして……あれっ?」 「み、みほどの、それだと関節が普通に曲がっちゃうので、別に痛くもなんとも――あっ腋はだめです腋は、あははっ」 「もう、こうしてやるからっ!」 「くっくすぐりはーははっひゃっ、やめっそれっはっ、んくくギブですギブっ!」 「ここ、優花里さんここ弱点だね? えいえいっ」 「ギブっていうのはごめんなさい降伏ですっていう意味でー!」  這いずって逃げ回る優花里を、みほが追いかけ回してくすぐった末、端に立ててあったテーブルの脚にごちんと頭をぶつけて「いたたた……」と離れたので、取っ組み合いが終わった。 「く、くすぐりは反則です、みほどの……」 「そんなの知らないもの! あー、いた……」 「え、大丈夫ですか」  笑いすぎでひーひー言っていた優花里が、ぱっと身を起こして、みほがぶつけた頭を見る。「たいしたことないから」と押し戻したみほが、そのまま優花里を押し倒して、正面からキスをした。 「んんっむ、ゆはりふぁ」  腕を腋から背に回して、しっかりと唇を押し付ける。すると今度は優花里がまた二人の体をごろりと転がして、上からみほにキスを返した。 「はむ」「んんぅ……」  頭を手で挟み、またいだ体を押さえつけて、たっぷりと舌を入れ、舌を吸う。んっ、んんっと鼻から息を漏らすだけで、もう唇から空気を抜きもしない。お互いの瞳も次第に涙で潤む。肺と肺のあいだで熱い息をやり取りし、舌の感覚が麻痺してどちらがどちらに差しこんでいるのかもわからなくなったころ、ようやくとろりと口を離して、はぁ……と過熱した吐息を胸元に落とした。  はあはあと酸素を取り戻しながら、優花里さん、とみほの瞳が呼び掛けている。自分の瞳も同じように相手に訴えかけているのが、優花里にはわかった。  でも、気持ちが交わりすぎていて、名前を口に出せない。「ゆかりさん」「みほどの」、たったそれだけの言葉が、長すぎて今の二人の間では邪魔だった。  みほが優花里を隣に横たわらせて、鼻が触れるまで顔を寄せる。 「ゆ……ゆーゆ。ゆー」  まるで乳児の喃語のような、くだけ切ったその音が、零距離に近づいたみほの呼びかけだった。優花里はぞくりと震えて羞恥を忘れ、目を閉じてそれに答える。 「み……みぃみ?」 「んっ。ゆーゆ、んん」 「みぃみ……みぃみ」  互いの髪に指を埋めて、最小限の意味だけを残したささやきを交わしながら、唇を甘噛みしあう。舞台を仕立て合って、言葉で触れ合って、体と力を重ね合った末に出てきた、そんなやり取りに、照れもためらいもなくしっくりと入りこめるぐらい、今の二人は溶けあっていた。  互いの体を開いて、最初に空を見た時と同じように仰向けに横たわって、片手だけは相手の頭に残してキスを続ける。もう片方の手は自然に体に伸びた。シャツにしか覆われていない、自然な柔らかさの乳房を優花里は撫でまわし、その腕をみほは撫で、脇腹から腹へと撫で、ショーツの貼りついた股間を撫でる。そこに生まれる心地よさを、優花里も相手に返そうと思う。腕をクロスさせてみほの股間に触れ、さわさわとさすり、なだらかな丘を手で包んで、きゅっと軽く握りしめた。  二人の少女の脚が、傾いた日の差すベランダへすらりと伸びて、時折ぴくり、ぴくりと震える。撫でさする片手の動きはどこまでも穏やかで優しく、性急な絶頂へ追いやる責めには程遠い。二人ともそんなところを目指してはいない。紺から橙へと色を移していく、あきれるほどゆっくりとした夏空の変化よりも、まだ二人の触れ合いのほうが、遅く長く、深かった。  カァ、カァと、学園艦に住み着いている町鳥の鳴き声が窓から入って来たころ、指に触れる温かな粘りと柔らかさが心地よすぎて、そこそのものが自分の一部のように思えていた優花里の耳に、「ゆーゆ……?」とかすかなささやきが染み入る。 「まだ……まだ、ね?」  このままずっと、いつまででもこうしていたい、そうねだっているのだとわかる。自分の秘部を止めどなくこね回し続けてくれる相手の指にも、同じ思いを抱いている。映画や漫画で描かれる尺に囚われたその種のシーンでは、決して目にできない特別な愛し合い方があるのだと、すっかり気づいてしまった。体の動きそのものは激しくしない。そんなことをしなくても湧き出してくる、浮遊するような穏やかな心地よさだけを保ち続ける愛し方。さっきからずっと、頭も体も手足もないような、交じり気のない安楽感だけが満ちている。間違いなく相手も同じで、そのこと自体が心地よさをしっかりと支えていた。  だが、ねだられたことで気づいてしまった。  無限にこれを続けるわけにはいかない、ということに。  気が付けば部屋が暗い。高い空が、オレンジ色の時間帯を終えようとしている。  締めくくりの方法は二つあった。やめるか、飛ぶか。どちらもこのまま続けるよりは味気ないことだけれど、選ばなければならない時間だった。さんざん舐めつくした相手の顔のそばで、ささやく。 「みぃみ……おしまい。ね?」 「やぁ……おしまい、いやぁ」 「んーん。おしまい。ね……?」  そう言って、少しだけ手の動きを強めた。それだけで十分だった。それまでにもうすっかり高めていた。 「んっ、んっん」肩を縮めて胸を反らせたみほが、仕方ない、というように自分でも愛撫を強めてきた。優花里は、より解放的に快感を味わえるように心もち脚を開いて――みほが同じようにするのを感じ取りながら――伸ばした舌をくすぐり合いつつ、ささやく。 「みぃみ、すき。だいすき、ん……」 「んっ、うんっ、ゆーゆ、すき、すき、すきっ……!」 「んっ、みぃみっ……!」  来る時が来た。今までずっと引き延ばしてきた瞬間が、大波になって襲ってきた。ぎゅっ、ぎゅっと揉みこむ指に力を入れて伝える。びくん、びくん、とみほの下腹が跳ねて、同じ強さで彼女の指が食い込んでくる。 「んっ、んんんんっ――!」 「――くぅっ……!」  まるで頭の中に満ちた思いを伝えあうように、額を強く押し付けて、抱き合った肩に爪を立てて。  太腿のあいだの心地よい手先を、ぎゅうっと締め付けあって、二人は一つだった時間を、終わらせた。 「優花里さんシャワー出たら窓直しといて、窓、窓。荷物いいから」 「はっはい、あっじゃあ明日取りに来ます。えと下着もいいですか、お借りしても?」 「うんいいから出しちゃって穿いちゃって。私入っていい? 入るね? 見ないから!」 「はい、どうぞ!」  体を拭くのももどかしく、全裸でタオルを巻いて飛び出した優花里と入れ違いに、みほがバスルームに飛びこむ。大急ぎで着替えた優花里が外したサッシをはめ直していると、それより速い大慌てでシャワーを終えたみほが出てきて、下着を穿いてワンピをかぶって、しかし前後を間違えた。 「あああ、みほどの、前後ろです!」 「えっ? ああっ、ほんとだ!」 「万歳して! 上げますから! はいくるっと! これでよし!」  さらに猛烈に急いで髪にブラシを入れてから、玄関前で急停止して、二人はお互いを確かめた。 「いい? 大丈夫? 痕見えない?」 「オッケーです、隠れてます! 私は?」 「大丈夫、つかないように噛んだから!」 「ですか!? さすがですねありがとうございます!」  ふう、と一息つくと、目が合った。お互いきちんと服を着て、仲間の前に出られる格好。  でも、十分前までは。  優花里は顔を寄せて、こそりとささやく。 「ゆ……ゆーゆって、呼びます?」  ぼっ、と焼夷榴弾の爆発さながらに、みほが真っ赤になる。ぶんぶんぶんと首を振って、「呼びませんっあれはナシですっあのときだけっ!」と叫ぶ。  が、ぴたりと優花里を見つめると、耳元に顔を寄せ返して、ささやいた。 「みぃみ、って、すごく嬉しかったです優花里さん……」  ぼふっ、とFAE弾の爆発並みに髪を膨らませて、優花里はうつむく。 「あ、あれは無理です……よっぽどでないと……」 「えへ……また今度ね?」 「はい……」  秘かな微笑みあいのど真ん中でメールの着信音が鳴り出して、二人は飛び上がる。 「あっ、沙織さんだ! もう集まってるって、うわー遅刻!」 「急ぎましょう!」  先を争って靴を履き電気を消す。ばたんとドアが閉じて足音が駆け去ったあとの部屋に、カーテンを閉め忘れた窓から差す星明りと、かすかな二人の香りが残る。 (おわり)