こんな気持ちは知らなかった    ぶぽぽぽ、ぽぽぽん、と私のバイクがのどかな音を立てる。普通のバイクじゃなくて、左側に車輪付きの低い席があるやつ。  ヴェスパのサイドスクーターっていうんだって。どこから持ってきたのか知らないけど、生徒会が所有する乗り物のひとつだ。もちろん私はバイクなんか乗ったことないんだけど、タイヤが三つあるから多少のことじゃ転ばないって言われて、こわごわ乗ってみたら、意外になんとかなった。  年度が替わって新しい生徒会ができたけど、学園艦は生徒が運営するっていう伝統と、去年の角谷会長譲りの強引さは、今年も受け継がれたみたい。その生徒会の命令で、私たちはお仕事をすることになったんだ。  自動車の流れに乗って、ぶぽぽぽん、と学園艦の道路を走る。最近あったかくなってきて、風が気持ちいい。スカートはめくれないようにきちんと太ももの下に巻き入れてるけど、後ろ髪がひらひらなびいて、いま私はちょっとかっこいいと思う。お椀みたいなヘルメットがなければ最高なんだけどな。これ、髪がぺったんこになる。  隣の低い椅子から声がする。 「沙織、あんまり飛ばすな」  椅子には麻子がちょこんと乗ってる。やっぱりヘルメットをかぶって、お膝に荷物を抱えて。  私はメーターをちらちら見て答える。 「飛ばしてないよう。五十キロも出してない」 「免許もないんだから気を付けろ」 「あるよ免許!」 「無線と戦車のだろ。タイヤのないやつと、タイヤありすぎるやつ」 「二枚も持ってるんだから、タイヤ三つのバイクぐらい楽勝だよ!」 「全然関係ない。調子に乗るとケガするぞ」  相変わらずのぶっきらぼう。ん、でも心配してくれてるのかな。  嬉しいけど、私はどっちかっていうと、運転してもらって、助手席で心配するほうがやりたいんだよね……。  言われた通りスピードを落として走っていき、しばらくして私たちは現場に着いた。  学園艦の先っぽのほう。人の住んでいない、古い建物が並んでる地区。  そこに本土の業者が来て、危険な建物の取り壊し作業をしてる。ちょうどお昼で、休憩に入った人たちがプレハブの事務所に入ってくところだった。  私は大きく手を振る。 「みなさーん、ご飯ですよーっ!」  そう、私たちはお弁当係。ここらにご飯食べるところがないもんだから、運んであげて、って生徒会に頼まれたんだ。それがお仕事。  バイクを止めると、作業員の人たちがわらわらとやってきた。乗ったままの私たちのまわりを取り囲む。 「おっ、女子高生」「かっわいいなぁ」「名前なんて言うの?」「一年生? 二年生?」 「えっごめんなさーい、私たち大洗女子の生徒でぇ、お弁当運んでねって言われただけで、あはは」  埃だらけで首にタオル巻いたりした筋肉ムキムキの人たちばっかりで、大勢で来られるとちょっと怖い。私はなんとか笑顔でやり過ごそうとする。麻子なんか驚いた猫みたいに顔ひきつらせてピンと固まってる。  そしたら、ムキムキマンたちをかき分けて、あまりガッチリしてない、ネクタイをした若い男の人が出てきた。目元が涼しくて、あっ、けっこうイケメン。 「こらこら、みんな。お嬢さんがびっくりしてるじゃないか。ごめんね、驚かせて。お弁当、持ってきてくれた?」 「は、はい。持ってきました。麻子、貸して」  大袋入りのタッパーを持ち上げて、どさっと渡す。受け取ったネクタイの人が、ニコッと白い歯を見せた。 「ありがとう。僕はヤマダって言います。ここの監督をしてるんだ」 「あ、武部沙織です。えっと大洗の普通一科の三年生でぇ、得意なのはむせ……じゃなかった、お料理です……」  やだもうなに言ってんだろ私。ほっぺたがぽっと熱くなる。 「タケダです」「イシダです」  聞いてもないのに周りの人も名乗り始める。バイクを回りこんだヤマダさんが、お茶ももらうね、と麻子の脚のあいだに置いてあるペットボトルの袋を取ろうとした。 「こっちの子はなんていうの?」  麻子がビクッと震える。それを見たとたん、私はさっと手を伸ばして、うんしょと重い袋をひっぱり上げていた。 「すみませーん、この子、男の人苦手なんで」 「あっ、そうなんだ? ごめんね」  麻子の顔の前で袋を渡して、私はヤマダさんににっこりと笑ってみせた。うん、だいぶ強い感じで笑えたはず。  もたもたしてると全員が名前を言いそうだったから、きゅるきゅるぶぽぽん、と急いでエンジンをかけた。「それじゃ、これでー」と頭を下げると、みんなが離れた。  ちょっとそっけないかなと思ったけど、ヤマダさんは爽やかな笑顔で手を振ってくれた。 「ありがたくいただくよ。また来てね!」 「あっはーい、どうもでーす」  うん、ヤマダさんはいい人みたいだ。やっぱり、もう少しお話ししてもよかったな。  でも麻子が青くなってるからな……。  ぽんぽんぽん、と学校へ戻っていく途中で、思った通り麻子がぶーたれた。 「なんだ沙織、へらへら笑って。男が相手だとすぐそれだ」 「ちょっ、そういうんじゃないよ! がんばってくれてる人たちに、笑顔でご挨拶するのは当たり前でしょ?」 「赤くなってたじゃないか」怒ったみたいに麻子がにらむ。「なにがお料理だ。あのヤマダって男に、あっさり名前まで教えて……」 「あれは! なんか、そういう流れだっただけで!」  言ってから、変な気がした。麻子が男の人の名前覚えるなんて珍しい。  ひょっとして。 「あの麻子、もしかして、気に入った?」 「はぁ!? 誰を?」 「ヤマダさん」 「ばっ……そんなわけないだろう! なんでそうなる?」  大声を上げた麻子が、きっとにらんだ。 「おまえこそどうなんだ、気に入ったんじゃないか? あの人、顔は良かったし」 「あっ、やっぱり顔見てたんじゃん! えーっ麻子、ああいう人がいいの?」 「顔はいやでも見えるだろ! おまえだって、私が名前聞かれたら邪魔したじゃないか!」 「教えたかったの? えーっ麻子、ふーん?」 「教えたかったって、おまえ、そんなこと……ああもう!」やっきになって打ち消そうとした麻子が、はっと前を見て指さした。「前みろ! ぶつかるぞ」 「えっ? うわっと」  いつの間にか路肩に寄っちゃってて、ガードレールをあわててかわした。  前を見ながらちらっと横に目をやると、麻子はむくれてあっちを向いてる。こんなに意地になって否定するのも珍しい。麻子に限ってそれはないと思ってたけど……そうなのかなあ。  私がヤマダさんに割って入ったのを、邪魔をしたって思うなんて。それこそ、ありえないよ。麻子にヤマダさんを取られちゃうなんて、あのときは思いもしなかった。  あのとき思ったのは……。 『はいそこのサイドカー止まりなさーい! バイクは校則で禁じられてます! ていうかまだ授業中よ何やってんの!』  突然後ろから拡声器の声がして、私たちは振り向いた。軍隊用みたいな茶緑色の変な車から、腕章つけたおかっぱの女の子たちが身を乗り出してわめいてる。風紀委員だ。 「うわ、そど子」 「ありゃ。止まって説明する? 生徒会の仕事だって」 「だめだ、あいつらに理屈は通用しない」麻子が私の背中を叩く。「ルールを守るためなら悪魔にだって魂を売るやつらだ。逃げるぞ」 「う、うん!」  ぶわん! とハンドル切って向きを変える。横の椅子を斜めに浮かせて百八十度後ろを向いてから(超信地旋回っていうの? ちがう?)、ぶぽぽぽーっとエンジン全開で風紀委員とすれ違った。 『あっこら、待ちなさーい!』 「止まるなそこ入れ!」  サイドカーはものすごく変な傾き方をするけど、麻子が思い切り外へ身を乗り出して、バランスを保ってくれる。  こういうときは頼りになるのになあ、と思いながら、私たちは細い路地に走りこんで逃げた。      〇oooooooo〇  それが数日前。  今日は戦車の練習があって、そのあとみぽりんのうちでミーティングをやることにした。議題は新入生獲得のための作戦会議。もちろん食材をいっぱい買って、デザートも忘れずに買いこんで。うん、中身はご飯会。腹が減っては戦が出来ぬってやつ。  五人でスーパーで買い物してる時に、「あっ」とみぽりんが声を上げた。 「優花里さん、あのね……」  ゆかりんを横へひっぱってって、何かごしょごしょ話してる。えっでも、いいんですか、と声が聞こえたけど、そのうちに、了解しました! と敬礼してゆかりんだけが走っていった。  そのときみぽりんは、ゆかりんに何も渡さなかったと思う。  戻ってきたみぽりんに聞く。 「なんだったの?」 「えっ、うん。ちょっとね」  いつもの困り顔でみぽりんが頭を傾ける。三年生になっても、やっぱり普段のみぽりんは、ほわわんとして頼りない感じ。  ビニール袋をぶら下げてアパートの四階にのぼると、みぽりんは鍵をカチャカチャ開けて自分の部屋に入った。「ただいまーっ」と声をかけると、「おかえりなさい」と返事があった。  出てきたゆかりんは迷彩柄のエプロン姿。私たちを見て、「先に来て少し掃除してました」と照れながら言った。 「おじゃましまーす」  言いながら靴脱ぎを見下ろすと、メーカー違いの使い込んだスニーカーが二足あった。ふーむ、とうずきながら私は中に入る。 「さてと」  練習後の汗と埃と硝煙は学校のお風呂で流して来たから、みんな湯上がりのさっぱりした気持ち。雰囲気としては会議っていうより、全然くつろぎモードだ。みぽりんも華も麻子も、荷物を降ろしてそこらに思い思いに座っちゃう。  そういうのを見ると逆のスイッチが入るのが、私の性格。すちゃっと眼鏡をかけて袖をまくって、ぽんぽんと手を叩く。 「さーさーみんな、先にぱっぱとご飯にしちゃお! 食べて片付けて、それから会議ね!」 「はぁーい」  武部どの援護しますっ! と一番に乗ってきてくれるゆかりんが頼もしい。いいなーこの子、と思う。それと、こんな子と仲良くていいなーみぽりん、とも思う。  それは一つ一つは掛け値なしの好意なんだけど、ふたつ合わさるとちょっぴり変な気持ちが混じる。二人が他の誰よりも仲がいいっていうことへの……なんだろうね? これ。もやもやした感じ。  それはさておき、食材を広げて調理台に並べて、あごをつまみながら、ふむーんと手順を組み立てる。私は自他ともに認めるあんこうチームのシェフだから、ここが一番の頭の使いどころ。  頭の中でコトコト考えながら、目はみぽりんちのキッチンをさまよってる。  食器棚にはボコ柄のコーヒーカップが二客。グロリアーナにプレゼントしてもらった、木箱入りのセットとは別のやつ。  お箸立てにもみぽりんの白いやつとは別に、真ん中でつなぐ携帯式のお箸が一膳。  他にも、見慣れないお皿や調理器具がいくつか。冷蔵庫の上には飯盒まで置いてある。  試しに洗面所へ首を突っこんだら……やっぱり、あるんだよね。歯ブラシが二本。 「ふーむ」 「武部どのっ、何から取りかかりましょうか?」 「えっと今日は和食だから……茶碗蒸し用の鳥とほうれん草からいこっか」 「茶碗蒸しができますか!? 蒸し器ありませんよ?」  「でっきるよぉ、電子レンジでチンッてね――」  そうかそうか、蒸し器がないことも知ってるんだ。  支度を始めると、みぽりんが加わって三人になる。 「ほうれん草オッケーです! じゃ私はご飯を炊きますねー」 「待って優花里さん、ガスコンロ埋まっちゃったら煮物できない。使うよね? 沙織さん」 「うん」 「優花里さん、今日は炊飯器つかお?」 「それもそうですね。でも時間かかっちゃいますけど」 「早炊きがあるよ。これね、こうボタンを押して」 「あーそういうのがありましたね。たまには文明の利器もいいかな」 「私はあっちで華さんとサラダ作るから。えーっとあれ、おっきいお皿は」 「あっそれは上の棚です。落とさないでくださいよ」 「大丈夫だよう。ちょっと後ろごめん、んっしょっと」 「みぽりんお砂糖切れてる。それとみりんってある?」 「みりんはないですね、砂糖は流しの下に袋があります!」  二人ともてきぱき動いてくれて、さくさく準備が進む。うーん、コンビ感がすごい。   料理が進んでいい匂いの湯気が立ちこめる。リビングでサラダを作ってる華の声がした。 「あの冷泉さん、ここ空けていただけると……」  転がってる麻子が邪魔になってるみたい。私はそっちに顔を向けて叱る。 「こら麻子だめでしょ! 起きて、そこどいて!」 「んうう、でも今日はすごくがんばったぞ」 「がんばったのはみんな一緒! だいたいなんであんただけ寝てるの、ちゃんと働いて!」 「うるさい……皿、どこだ」 「お皿こっち、待ってあんた、手洗ってないでしょ? 手洗ってから!」 「はいはい」  のそのそ後ろを通って麻子が洗面所に入っていくと、思わず愚痴が漏れちゃった。 「あーもー、ゆかりんはちゃんとみぽりん手伝ってくれるのに、なんで麻子はいつもこうかなあ」 「だって秋山さんたちは付き合ってるじゃないか」 「麻子!」  ひょいと洗面所から顔を出した麻子の一言に、私は声を上げちゃった。  麻子は知らんぷりして顔をひっこめる。それ言うかなあ、と思いながら私が振り向くと、リビングとの境目にいた、お箸持ったゆかりんと、お布巾持ったみぽりんと目が合った。  二人とも固まってて、みるみる赤い顔になっちゃった。今の麻子のひとことが聞こえたみたい。私はちょっと困ったけど、「えーっと、ほら、煮物できるよ! そっちの用意してね!」と笑ってごまかした。  そういうの、今まで見て見ぬふり、知らんぷりしてたんだけどなあ。お茶碗の準備をしながら、私は考える。二人が付き合ってるってこと。冬に一度聞いたけど、触れないほうがいいと思って、なんとなく流しちゃってた。  ううん――と思い直す。  私が触れたくなかった、かな。  じきにご馳走がたくさんできあがって、みんなでいただきますした。 「あっ、茶碗蒸しおいしー! これ優花里さんが作ったんだよね?」とみぽりんがほっぺを押さえて、「えへへへ、おいしいですか」とゆかりんがはにかむ。「でしょ、私直伝だからね!」といばって見せると、「そこは、秋山さんの腕がいいから、だろ」と麻子が突っこむ。「これでいつでもみほさんに作ってあげられますね、優花里さん」と華がまとめる。  二人は顔を見合わせて、にっこりとうなずきあってる。  それを見てると、ここへ来る前から感じていたもやもやがなんなのか、今さら分かった。  ああそっか。  これ、やきもちだ。  みぽりんとゆかりん、どっちかに感じてた気持ちじゃなくて、二人だけが仲良くなって自分がその中に入れないっていうときの、あれだ。寂しさの裏返しのもやもや。小さな女の子がよく感じるやつ。  でも私は、もう小さな女の子なんかじゃない。 「ねえみぽりん? みぽりんってさ」 「ん、なに? 沙織さん」 「ゆかりんちの合鍵はもらってるの?」 「え? 優花里さんちは実家だから、合鍵はもらえ――」って言いかけて、私のにやにやの意味に気づいたみたいで、「も、もらってないよ……」って赤くなっちゃう。 「そういえば優花里さんはもらってますよね」と華が乗ってくる。「みほさんのおうち、好きに入れるんですよね。そういうのって、何かうらやましいです」 「すっ好きに入れるってわけではなくてですね!」と、こっちも赤くなるゆかりん。「あくまでも、その、必要があってやむを得ない時だけ使うものとして、お預かりしているわけでして!」 「でも今日は使ったな」と、さばの味噌煮をはぐはぐしながら、麻子。「さりげなく抜けてって、先に来てた。何してたんだ。みんなに見せたくないものがあったのか」 「だよねそれ私も気になってた! 何隠したのゆかりん? ていうかむしろみぽりん! ゆかりんと二人だけの秘密ってなに? そこのボコのあいだの戦車のプラモとか、お揃いの歯ブラシよりも恥ずかしいもの?」 「えっ、ああっ? き、気づいてたの? そういうの」 「それは気づきますよ、みほさん。この部屋って、お邪魔するたびに優花里さん色に染まっていってるじゃありませんか。まるで二人の愛の巣さながらに」 「あっあ、あいのすって……」 「あ、これか、隠したやつ。ふーん、置きパジャマまでしてるとは」 「うわわ、やめてください!」 「おお? この迷彩柄の細いのは……」 「麻子さんひっぱり出さないでー!」  ソファの向こうに押し込んであった洗濯かごを探し当てた麻子に、お茶碗を放り出したみぽりんとゆかりんが飛びかかる。「ちょっと、ごはん中にバタバタしない!」と私は声を張り上げる。  大騒ぎ。それが不思議に、すごく楽しい。  初めてだからだ。二人が付き合ってることに、こんなに真正面から触れるの。今までどうやって話したらいいかわからなくて、口に出せないでいた。  華が戦車砲を連射するみたいに畳みかける。 「この際だからお聞きしますけど、優花里さんってそんなにここに泊まってるんですか? ご両親は何もおっしゃらないんですか? それよりも、ご両親はお二人のことをご存じなんですか?」 「親は関係ないでしょう、親は! 言ってませんけどそのうち言うつもりですし、絶対説得してみせますよ! みほどのがお相手でなんの不足があるっていうんですか!」 「秋山さんすごい本気だぞ。西住さん、あなたはいいのか。西住流家元のお母さんに、女の子と付き合ってますって言えるのか」 「わっ私も本気だから大丈夫です! お母さんもお姉ちゃんもうんって言わせてみせます! 優花里さん戦車すごく詳しいから絶対みんな気に入ってくれるはず! そのうち二人で帰ろうねって言ってるの。ねっ優花里さん?」 「え、はあ、戦車は詳しいですけど……」 「ていうかみぽりん、もうそういうこと二人で話してるんだ? やっぱ、その、だいぶ仲いいんだ? 二人」 「仲いいです!」「なか、はふ……みほどの……」 「言い切ったな」「すがすがしいですね」 「みんなも大好きだけど、優花里さんはとくべつです! だから優花里さんは、ええと、 合鍵も上げてるしお泊まりもしてもらってるし、それは別にみんなに泊まってほしくないってことじゃないんだけど、優花里さんは別に必要なくてもやむをえなくなくても来てほしいし、お洗濯ものは昨日たまたま私が洗うって言ったやつだから、別に優花里さんがいつもここで脱いでるってわけじゃなくて」 「わーわー、みほどのもうその辺で!」 「い、いつもではないけれどたまには脱ぐ……ということですか?」 「昨日たまたま西住さんということは、秋山さんが洗う日もあるのか?」 「ちょ華と麻子なに聞いてんの!? ていうかなんかすごいよ? これもう二人アレってこと?」 「アレってなんですか! なんのことですか!」 「アレというのはですねみほさん。愛し合う二人の気持ちが高まった時になるべくしてなることで」 「気持ち、気持ちが高まったら、私たちはね!」 「ストップ、みほどのストップです! あの皆さんほんと、お願いだからやめてくださいぃ……!」  天井知らずに暴走するみぽりんについていけなくて、ゆかりんが泣き入っちゃった。 「はー……すごかった」  ベランダに出た私は、手すりにくてんと身を預けた。学園艦の冷たい夜風が、熱くなったおでこを冷ましてくれて、気持ちいい。 「いろいろためになりましたねえ」  隣に出てきた華がうなずく。やり切ったみたいな満足げな顔に、私は降参の横目を向ける。 「華あんたほんとすごいよね。ここぞというときの追い込み」 「あら? 追い込んでなんかいませんよ」 「じゃ、なんだっていうのよ。あの砲撃ぼかぼか」 「こういうの、一度みんなで話したいと思ってたんです」 「そお? 踏みこみすぎじゃなかった?」 「それを言うなら、今までは腫れ物に触るような感じ、なかったですか? 沙織さんずっと、あの二人が前と何も変わってないような振りをしてましたよね。そうじゃないって聞いたのに」  おっとぉ。 「あんたからもそう見えてたかぁ……」 「気持ちはわかりますけどね」目を逸らした私に向って、華が微笑んでる。「女の子同士って、よくわからなかったんじゃありません?」 「んー……まあね」 「でも、今はどうですか?」  明るい部屋の中を振り向く。レースのカーテン越しに、三人がお片付けしてくれてるのが見える。麻子がデザートの用意をして、みぽりんとゆかりんがお皿を重ねて、おっとっと、って支えあいながら運んでる。助け合うのが楽しそう。そういう二人。 「今は……」 「別に、どうってことないですよね?」  そうだね、と私は小さくつぶやいた。 「全然普通だね。なんか私、特別なことだって思いすぎてたかも」 「ねえ、沙織さん。わたくし、たまに考えるんですけど――」 「ん?」 「あんこうチームって、なんなんでしょう?」  私はまた振り返る。華が暗い街のほう、その向こうの海を見てる。 「何って……私たち五人でしょ。五人の戦車チーム」 「それって、そのうちなくなりますよね」  ひょいと投げられた言葉の重さに、ぐっと喉が詰まった。  華が振り向く。ひゅーっと強い風が吹いて、長い黒髪がばさりとなびいた。 「わたくしたちは偶然集まって、たまたま一緒に四号戦車に乗っただけ。この先、新しいメンバーが来て、戦車も顔ぶれも変わるかもしれませんし、卒業したら進路が分かれるかもしれません。いえ、きっとそうなるでしょう」 「そ、それはそうだけどさ」  想像もしなかったことを言われて、でもそれが間違いなく本当であることが分かって、私は思わず打ち消したくなる。 「それでも今この時は最高の五人なんだから……そうだ、華あんた、前に戦車にお花を生けたよね? あれって私たちを花にたとえたんじゃない?」 「……ええ」 「でも、お花ってその場限りの芸術だよね? いっとき、ぱっと綺麗に咲き誇るけど、それが済んだらばらばらにして、片づけちゃう。だけど、それでお花はだめだってことにはならないよね。ほんの一日、素敵に集まって輝くことに、意味があるって……」  続かなくなる。自分の言ってることが、華の言葉を打ち消すどころか認めちゃってることに気づく。 「……それからは、どうなるか知らないけどさ」なんか悲しくなってきた。楽しい日なのに、なんでこんな話してるんだろ。「あんまり考えたくないな、これ」 「沙織さん」  華は優しく笑っていた。この子らしくない、なんだか気弱な感じの笑み。 「わたくしもそう思ってたんです。一期一会、このチームは今限りのものだって。でも……ひょっとして、そうでなければ?」 「……華?」 「最初は抵抗があったんです。華道の考えにもとるので。よくできた花を、永遠にそのままとどめたいなんていうのは、よくばりすぎです。花は咲いて枯れるから美しい……けれど、本当にそうでしょうか」 「っていうと?」 「人は花ではないんです」なんだか恐ろしく真剣な顔で、華が言う。「一度咲いて枯れるだけの存在じゃありません。形を変え、心を変えて、もう一度咲くことができるんです。うちの母がそうですし……ほかでもない、みほさんや、お姉さまのまほさんがそうでしょう。黒森峰での悲しい出来事があって、お二人が別れることになったけれど、もう一度戦車道を始めて、また出会って、ついにはともに肩を並べて戦うまでになった。人はまた咲けるんです。何度でも」 「それは……私たちが別れちゃっても、また会えるっていうこと?」 「いいえ」きっぱりと華は首を振る。「わたくしたちは、『咲き続けられる』んじゃないでしょうか? 別の戦車に乗り、別の道に歩んだとしても、どうしてそこでチームを終わらなければいけないんですか? いいですか、沙織さん。人と花との一番大きな違いは、人はものを思うということです。花と違って、人は自分で自分を生けることができるんです。だから――」  華は、大きな体の、大きな両手を広げて、うなずいた。 「『わたくしたちはあんこうチームです』。こう思っている限り、わたくしたちは終わらないんです。誰かに、戦車に、進む道に、生けられる必要なんてありません。沙織さん――わたくしたちは、ずっとわたくしたちなんです」  私は、ぽかんと口を開けて親友を見ていた。言葉の意味が全部わかったわけじゃないけど、この子が今、何かとても大事なことを言ったのは、よくわかった。 「おお、お……」  進み出て、がしっと両肩に手を置く。 「すごい!」 「すごいですか」 「すごいよ! なんか、元気出てくるよ! 華あんた、今いいこと言った!」  ふふっと笑うと、でもこれは、わたくしの願望なんですけどね、と華は言った。 「皆さんはまた、別の考えがあることでしょう。それでも私は……こんなふうに思ってしまいます」 「みんなも絶対そう思うよ! これはいいこと聞いちゃった、みんなにも話さなきゃ。なんだっけ、そう、私たちは私たちなんです!」  両手グーにして言ってみたけど、華が言ったみたいな重みは全然なかった。がっくり来る。 「……私が言うとなんだかしょうもない〜」  「うふふ、またわたくしから話しますね」  そんなことを話してると、ガラッと窓が開いて、麻子が顔を出した。 「二人とも何してる。始めるぞ」 「デザート出た?」 「会議だ、会議。新入生獲得」  テーブル囲んで話し始めたけど、会議が得意な面子じゃないんだよねえ。卒業した角谷会長や河島先輩がいればともかく、私たち五人だとケーキとプリンとタルトの話になっちゃって、あんまり意味がなかった。  どっちみち、去年の活躍があったから、新入生はたぶん多すぎて困るぐらい来ると思うしね。  そんなわけで、新入生のことは、また希望者が来てから考えるとして、なし崩しに食後のくつろぎタイムになっちゃった。  華はみぽりんの机に積んであった手紙の束に目を止めて、お互い旧家の子は大変だみたいな話を始めたし、麻子は麻子でラックにあったプラモを手に取って眺めていたのが運の尽き、ゆかりんの怒涛の戦車解説を受けて、ふんふんうなずいてるし。  私は満腹になってポケーとしていたけど、棚の隅に、前はなかった大判の真新しい冊子みたいなものがあるのに気づいて、何の気はなしに見つめた。  むむむ? 「みぽりんちょっと、これってもしかしてアルバム?」 「え、どれ?」振り向いたみほがうなずく。「ああ、それお姉ちゃんが送ってくれたの。CDとかより、印刷したやつのほうが見やすいだろうって」 「てことは、もしかして昔の写真? 見ていい?」 「ん、いいよ」 「みほどののアルバムっ!? 私も見たいです!」  ゆかりんが秒速で食いついてきた。あ、ゆかりんもまだ見てなかったんだ。私は棚から革張りの赤いアルバムを出して、カップの並ぶテーブルに広げた。  一枚目でもうやられた。白いおくるみに収まった、つやつやほっぺの赤ちゃん。にっこり笑ってちっちゃな手を出してる。 「かっわいー!」 「はう……」ゆかりんがのけぞって胸を押さえる。「あ、赤んぼのみほどの……うぐぐ」 「どしたのゆかりん。かわいくない?」 「か、かわいいという以前に、なんか、なんか……」写真と本人を見比べて、床に手を突く。「恐れ多いというか、もったいないというか」 「まだそんなこと言ってるの? これゆかりんの彼女なんだよ。あんたのなんだよっ」  言って、ぐいっと顔の前に写真を突き付けた。あ、初めてゆかりんをあんた呼びしたかも。はああうう、とゆかりんはまぶしそうに顔を押さえる。 「すみませんごめんなさい、清らかすぎてきついです……」 「いいから次見よう次。わー何これ! やだーすごい! かわいい!」  子供用の戦車型キコキコ自動車に乗ってるみぽりん。空の燃料缶にすっぽり入って顔だけ出してるみぽりん。なんか変なリボン付きの棒爆弾みたいなのをかついでるみぽりん。でっかい砲弾をお姉ちゃんと一緒にがんばって持ち上げようとしてるみぽりん。  三歳とか四歳とかのころかな。ぷっくりした子供っぽい顔してて、吊りズボンを油まみれにして、楽しそうに遊んでる。 「あらほんと、おてんばさんですねえ」 「おてんばというか、泥んこ? なんだこれ」  いつの間にか華と麻子も左右に群がってきて、押し合いへし合いながら覗きこむ。「あっ、三号ですね。なんですかこのパンツァーファウスト? ティ、ティーガーの実弾! 実弾ですよねこれ? 危ないですぅ!」と、嬉しいんだか怖いんだかわからない悲鳴を上げるゆかりん。 「昔はほんといたずらっ子だったみたいで、私……」  みぽりんが照れながら、写真を指差す。なんか鉄骨組みの横柱みたいなところにまたがってるやつ。 「これなんかも、登っちゃいけないって言われてたんだけど、このころ怖いなんて思わなくて」  「ひゃああ……」ゆかりんがまた顔を押さえてのけぞる。「勘弁してくださいよぉ、みほどの!」 「なにこれ。どゆこと?」 「格納庫の天井クレーンの横梁ですよ。戦車のエンジン吊り上げるやつ! 高さ七、八メートルありますよ? 落っこちたらどうするんですか!」 「あはは、落ちなかったから今ここにいるんだってば……」  次をめくるとみんなぴたりと黙った。縁側で顔べったべたにしてスイカ食べてる、五歳か六歳ぐらいのみぽりんと、まほさん。  それはいいんだけど、隣で包丁持ってスイカを切り分けてる、淡い色のブラウスとスカート姿の、きりっとした顔の女の人は――。 「……お母さん?」「お母さまですね」「家元か」「西住流家元……ですよね」 「こういうころもあったんだよ」  懐かしそうにみぽりんが写真を撫でる。へぇー……と私たちはちょっと驚いちゃった。むしろ、こういう格好もするんだ、っていう感じ。  ちらほらと、みぽりん本人だけじゃなくて家族や他の人も出てきた。何枚か、お母さんより少し若い女の人が写ってて、誰これって聞いたら、お手伝いさんだよって言われた。みぽりんち、お手伝いさんいるんだ、へー……。  なんだかすごいと思いながらページをめくっていった私は、あるところでふと手を止めた。  一瞬、知ってる人に思えた。  そこだけ色合いが薄かった。今風のデジカメで撮ったやつじゃないみたい。写ってる格納庫みたいな場所も、なんだか狭くてごちゃごちゃしてる。  作業服姿の男の人がいた。戦車の背中でしゃがんで機械を覗きこんで、そこで声を掛けられて、ふと振り向いたような姿勢。肩越しに照れくさそうに笑っている。  実際には知らない人なんだけど、なんだか目が離せない。栗色の髪で、ツナギの作業服を着てるのにあんまり男臭くなくて、どことなくふわっと優しい感じがする。でも、なよなよしてるわけでもない。袖ポケットのペンとかお尻に突っこんである軍手とか、そばにばらっと並べてある黒光りする道具なんかが、すごく自然。ただのポーズじゃないってわかる。  きっと、いつも戦車のそばにいる人。 「この人」ゆかりんが、はっと顔を上げる。「この笑顔は、まさか……」 「ん? お父さん」 「うわぁー……!」  声は私とゆかりんだ。そしてゆかりんは食い入るようにまじまじと写真を見つめると、やにわに両手を合わせて、ありがとうございますありがとうございます……! とぶつぶつつぶやいた。  私もびっくりした。そりゃみぽりんにもお父さんがいるはずだけど、そして家族のアルバムだから出てきて当然なんだけど、これまで想像したこともなかったから。西住流って言ったら、お母さんの存在感が強すぎて、お父さんのことは意識からすっぽ抜けてた。 「お父さん、こういう人なんだ……」 「うん、あ、これは若いころの写真なんだけどね」  「あ、そっか」 「なるほどって感じですよね。面影がよく似てます。優しい方なんじゃありません?」 「そうだよ。よくわかるね」みぽりんはアルバムを取って、自分のほうに向ける。「お父さんはとっても優しくて、絶対怒ったりしないの。私やお姉ちゃんがお母さんに叱られても、いつも慰めてくれたし、ふふっ」なぜか急に笑って、「実はお母さんにも優しいの。お母さんが疲れて愚痴漏らしたとき、よしよしって撫でてるの、見たことある」 「へぇー……!」 「それで、すごく内気でね。このアルバム、撮ってるのがほとんどお父さんだから、本人の写真がこれしかないんだけど、もともと撮られるのすごく苦手ってのもあるんだ。人前にも出ないし」 「でもすごく有能だ。そうじゃないか?」  麻子がぐいと身を乗り出すと、みぽりんも真顔で、そうなの、とうなずいた。 「お父さんは整備士なの。戦車の整備をさせたら日本一。ううん、世界一だって思う。どんな難しい壊れ方をしてても、コンコンって叩いてちょっと覗いただけで、ベアリングだね、って当てちゃう。そして、直し始めると絶対手戻りしないの」 「手戻り?」 「部品のはめ方とか、ボルトを締める順番を間違えて、やり直しちゃうこと。そういうの、お父さんはしない。んーって考えながら戦車をしばらく見てから、よしって部品を集めて手を動かし始めると、もう止まらない。全部の部品と道具を、一度も持ち直したり戻したりせずに、さらさらさらーっと分解して、組み立てちゃう。それがもう、魔法みたい。うちの技術の人たちも、あれはとても真似できませんって言ってたよ」  みぽりんは楽しそうに、嬉しそうにお父さんの話をしてくれる。私たちは、「はぁー……」と間抜けな声を上げながら、そういうことかって、心から納得してた。  みぽりんの才能。どんな難しい戦車道の試合でも、あわてず冷静に分析して立ち向かう、あのすごい頭の良さ。  あれ、この人からもらったんだよ……! 「それがみほどののお父さんなんですね……」写真とみぽりんを見比べるゆかりんの目が、キラキラ潤んでる。「すごいです。どんな戦車も直してしまうメカニック……ああ、素晴らしいですぅ……」 「優花里さん、今度会わせてあげるね。きっと話が合うと思う」 「はいっ!」  ふーむふむとうなずいていた私は、ふとすごいことに気づいて、思わず声を上げちゃった。 「あ、あーっ!」 「なんだ、いきなり」「どうしたの、沙織さん」 「待って待ってみぽりん、大発見! この人、お父さん! イケメンだよね?」 「イ、イケメンって……自分のお父さんだから、よくわかんないけど……」 「イケメンだよお父さん! それでさ、そのイケメンさんを西住流家元がゲットしたってことだよね?」 「ゲットって、武部どの……」「どちらかというと逆じゃありませんか。お婿さんですよね」 「なんでもいいけど、ってことはだよ?」  私はぐっとこぶしを握る。 「戦車道やってて素敵な彼氏ができた女子じゃない! みぽりんのお母さん!」 「へっ?」  意表を突かれて変な顔をするみぽりん。ゆかりんと華も首をかしげてる。私は力説する。 「言われたじゃない、私たち。戦車道やるときに、よき妻よき母よき職業婦人になれますって。あれ私、ほんとかなあって最近思い始めてたんだ。でもだよ? こんなところに実物がいたよ。なってるじゃんみぽママ! イケメンつかまえてる! あれ本当だったんだ!」 「ああ……」「それは、そうかもしれないけど……」「それが大発見なのか?」 「大発見だよう!」ふんす、と鼻息を漏れる。「これは大事だよ。そっかー整備士か。そういう出会いがあるかあ、待って、イメトレする!」 「はあ?」 「整備士さんね。えーっと」目を閉じて頭をツンツンつつく。「大洗の整備は自動車部がやってくれてるけど、将来私が別のところで戦車乗るかもだよね。そこには男の整備士さんがいたりするわけよ。私が戦車壊れちゃったんですーって言うと、その人がどれどれ見せてごらんって優しく見てくれて。ああ、これならすぐ直るよ。こうして……わあすっごいです、腕利きなんですね! いやあそれほどでもないよ。丁寧に使ってくれてるからだ。君はいい戦車乗りだね。そうですか? もっと戦車のこと教えてください! よかったらお食事でも? ああ、かまわないよ。何でも教えてあげるよ――ってきゃーきゃーきゃー! こうだよ!」  勝利につながる乙女の方程式がぱーっとできあがって、私が目を見開いて叫ぶと――。  みんながうっすらと微笑んでた。  なんか、生暖かーい感じで。 「沙織さん……」「恋女子エンジン全開ですね……」「恋女子というか、夢女子?」 「あーっ、何それみんな! 人がせっかくやる気になってるのにぃ」 「やる気」  低い声がした。  麻子だった。写真を見て、私を見て、横を見て。  死ぬほどつまんなさそうに、はぁーっとため息をついた。 「それがお前のやる気か……くだらん」 「そんな言い方ないでしょお?」さすがにカチンと来た。「いいじゃん彼氏目当てだって! 戦車道の目的にそう書いてあるんだから! きっとみぽママだってこういう気持ちだったよ!」 「そんなわけがあるか。家元はあくまでも勝つために戦車道をやってるに決まってる」 「そんなのわかんないでしょ、第一、好きじゃなきゃ結婚しないじゃん! みぽりんだってさっきご両親は仲がいいって言ってたし、恋愛は戦車道に含まれてるんだよ!」 「恋愛恋愛って、うるさいな!」横を向いていた麻子がいきなりこっちを向いて叫ぶ。「おまえはいつもそればっかりだ、少しはまわりを見たらどうだ! 他にそんなにオトコオトコ言ってる人がいるか! 歴女の人たちはどうだ、アヒルさんは、会長たちはどうだった! 誰もそんなこと言ってないだろう! おまえだけだぞ? ほんとに沙織は、ちょっと身近に男の気配がすると、すぐふらふらとだらしなく寄っていって……」 「だらしないって何さ、それはいくらなんでもひどくない!?」  カッとなって言い返したとき、ぽんと最近の出来事が頭に浮かんだ。 「あー、わかった。麻子、妬いてるんでしょ」 「なに?」 「何じゃないよ、お弁当係のときにさ。麻子いっつも機嫌悪いじゃん。あれでしょ、私が先に彼氏できると自分ひとりになっちゃうもんだから、寂しいんでしょ」 「さび――」  麻子が、ぐっと言葉を詰まらせた。  ガタン、とテーブルを揺らして立ち上がる。カップから紅茶がこぼれる。なんだかギラギラした、怖いような目で見降ろす。 「誰が寂しいって?」 「ま、麻子――」 「寂しくない。私は私でやってく。そんなに彼氏がほしければ勝手にしろ」  そう言うとずかずか歩いて靴はいて出てっちゃった。  バタンとドアが閉まる。「えっ……」と私は固まっちゃう。みぽりんが立ち上がって追いかけようとすると、「みほどの、ここは私が」とゆかりんが手で押さえて、出て行った。  残された私に、二人の目が集まる。 「ええ……何あれ。麻子ったらいきなりキレちゃって……困ったね」  ほっぺたかいたりしたけど、脇の下がひんやり冷たくなった。なんだかわかんないけど、やらかしちゃったみたい……。  みぽりんが華と顔を見合わせて、うなずきあうと、はーっと息をついて立ち上がった。「テーブル拭くね」とキッチンに引っこむ。華が私を見て、きれいな顎に指を当てて少し考えてから、「沙織さん」と言った。 「な、なに」 「お弁当係のとき、というのは?」 「あっ、それはね――」  私は、生徒会に頼まれた仕事のことを話した。それを聞くと華はうんうんとうなずいて、「わかりました」と言った。 「女の子二人だけで、殿方がたくさんいるところに通っていたわけですね」 「うん」 「それは怖いですよ。近くに町の人もいないわけですし。麻子さん、心配してたんですよ。麻子さんでなくても心配になります、それは」 「考えすぎじゃない?」私は思わず言い返す。「ちっとも怖くなんかないよ、ヤマダさんは。いい人たちだよ。だいたい真っ昼間の学園艦の上だよ? 何が心配って言うの」 「沙織さん、いえ、私たち、戦車に乗ってちょっと気が大きくなってるんですよ。ほんとはもっと気をつけなきゃいけないと思います。その人たちも、私たちが戦車道やってるなんて、知らないのでは?」 「それは……言ってないけどさ。関係ある?」 「関係は、あまりないかもしれませんが……」華は、なんだか一生懸命言葉を選んでるみたい。「とにかく、沙織さんを心配して麻子さんが言ったのに、からかうようなこと言ったら、悪いと思いませんか? 逆に考えてください。私が見知らぬ殿方のところへ出かけると言ったら、沙織さんは心配になりません? それを引き留めて、沙織さん寂しいんですか、って笑われたら、いやだなって思いませんか?」 「う」  その通りだ……華にそんなふうに言われると、自分のやったことが分かってきた。 「それは……思う」 「でしょう」華がほっとした顔になる。「麻子さんもそうですよ。せっかく心配してあげたのに、ってがっかりしたんですよ」  がっかりっていうか、あれはきっぱり怒ってたと思うけど、まあ言い返す場合じゃないよね。 「わかった。私が悪かったよ」 「わかっていただけてよかったです。どうしたらいいと思います?」 「うん、謝る。そうだね、私もちょっと彼氏彼氏言いすぎてた。麻子はそんなの興味ないのに。反省する」  私がしょんぼりしていると、布巾を持ってきたみぽりんがテーブルを拭きながら、「あの」と顔を向けた。 「沙織さんは――」 「ん?」 「んっと……」ちらっと華の顔を見てから、あはは、とみぽりんは小さく笑った。「なんでもない。私、言葉で言うのはうまくないから。大体、華さんの言った通りだと思う……」 「そっか。ごめんね、みんなで楽しくやってたのに、ケンカしちゃって」 「ううん、仕方ないよ。こういうこともあるって」  携帯の音楽が鳴った。みぽりんのだ。 「はい。優花里さん? うん、うん。わかった。言っとく。ありがとね」  短く答えて電話を切ると、麻子さんこのまま帰るって、と言った。 「華さん、荷物持ってって上げて。沙織さんはお片付け、手伝ってくれる?」 「わかったー」ため息をついて私は立ち上がる。「これ、今はまだ電話しないほうがいい感じかな。麻子に」 「そうだね。少し間を置いたほうがいいんじゃないかな」 「沙織さん、明日の朝、また迎えに行きますよね。その時ご一緒します」 「ありがとう。助かるよ……」  みんないい子たちだ。ほんとにいいチーム。頭が冷えてくると、叱られないのが不思議になってきた。麻子には悪いことしちゃった。  でも……やっぱりなんだか、納得できない気持ちが残った。  麻子、なんであんなに怒ったの?  ――それはきっと、聞いちゃいけないことだ。私は、それがわかってて謝らないといけない。  でも……わかるかなあ。明日までに。      〇oooooooo〇   ぶぽぽぽ、ぽぽぽん、とバイクがのどかな音を立てる。今日も学園艦はあったかい春の海を航海していて、気持ちのいい風が吹いてくる。  風は気持ちよくても、私の気持ちはいまいちだった。 「麻子さん、まだ電話に出ないんですか?」 「うん……」  隣の椅子にいるのは、麻子じゃなくて華だ。聞かれた私は、しぶしぶうなずく。  あの日の翌朝、麻子は私を待っててくれなかった。一人で起きて家を出ていた。メールしたら、「もう学校」ってたった四文字の返事が来ただけ。かけた電話も無視された。  それ以来、避けられてる。 「ちゃんとメールで謝ったんだけどなあ。じかに話せたらいいんだけど」 「会ってもいないんですか」 「だめ、練習の後すぐ逃げられてる。それ以外のときも、顔見たとたんにぴゅーっとどっか行っちゃう。あの子、目がいいうえに野生の勘だから。こっちから近付くの、無理」 「それは……苦しいでしょうね」 「苦しいっていうか、素直に寂しいよ。長い付き合いなのにさ。あの子がこんなにへそ曲げるなんて、初めて。もー、どうしたらいいんだろ」 「そうですよね。沙織さんも苦しいんですね」  うん。  えっ?   いっこ目は麻子のこと言ったんだ。んん? それってどういう……?  考えてると、路肩を歩いてる作業服の人たちを追い抜いた。通り過ぎてから、あれっと振り向く。 「あ、沙織ちゃんたちだ」「おーい」  やっぱり、ヤマダさんたちだった。手を振って追いかけてくる。私はバイクを止めて待った。なんか、みんなビニール袋を手に提げてる。 「どうしたんですか? お弁当持ってきたのに」 「ほらー、やっぱ持ってきてくれただろ」「おまえが行こうって言うから」  肩を小突きあう男の人たちの中から、すらっとしたヤマダさんが出てきて言った。 「いや、ごめん。今日は午前中が早めに終わったから、お出迎えも兼ねてみんなで歩いて行こうかってなったんだ」 「え、でもその袋……」 「うん。歩いてるうちにコンビニ着いちゃったから、思わず」 「買っちゃったんですか? ていうか、コンビニまで二キロぐらいありますよね?」 「みんなでワイワイしゃべってたらすぐだったよ。それにこっちは、空気みたいなもんだ」袋を掲げて、ヤマダさんがにこっと笑う。「そっちももらえるかな? やっぱり沙織ちゃんのお弁当じゃないと、おなかが膨れないね」 「あははは、またまたー」  思わずぱたぱた手を振って照れちゃった。ヤマダさん、そういうこと言ってもちっともキザっぽくないから……。 「あっ、私たちが来るの、遅れちゃったからか。すみません!」 「いいって。でも、どうしたの?」  バイクに群がってきた男の人たちが、横の椅子を見て、前のちっちゃい子じゃないね、と言う。 「そのちっちゃい子を探してて遅れたんです。あの子、逃げちゃって」 「そうか、まあこんなむさいおっさんばかりじゃ、仕方ないよね」  全然気にしてない感じでうなずいてから、華の顔を覗きこむ。 「現場監督のヤマダです。こちらもとても素敵な人ですね」 「タケダです」「イシダです」  ムキムキマンたちが頭を下げる。この人たちも、慣れたらけっこうかわいい気がしてきたんだけど、華はどう思うかな……?  華は横の椅子(側車っていうんだって)に身を起こすと、優雅に縁をまたいで道路に立って、両手を前に揃えて深々とおじぎした。 「大洗女子学園戦車道グループ三年、五十鈴華です。いつも、友だちがお世話になっております」  おお、と声が上がった。そうそう、びっくりしてくれなくちゃ。礼儀作法と立ち居振る舞いでは、華は学園一だぞ。者ども、頭が高い。 「五十鈴さんっていうんですね。どうもどうも」真似した感じで頭を下げてから、ヤマダさんが「戦車道?」って首をかしげる。 「はい。分厚い装甲と力強い履帯の戦車で駆け回り、巨大な大砲で相手を打ちのめす競技なんですよ」  にこにこしながら華が似合わないことを言う。あ、これ対決モード入ってる?  戦車道、おまえ知ってる? いや俺は、と男の人たちが顔を見合わせる。あれ、知らないんだ。学園艦の外の人たちだからかな。  一人がスマホで検索したみたいで、こういうの? と差し出した。私たちは画面を覗きこむ。  グレーの制服の女の子たちが野原にテーブルを出して、山盛りのイタリア料理を食べてる画像だった。  これ、あれじゃん。アンツィオ高校じゃん! なんでこれが一番に出てくるの?  でも、ちょうどよかった。アンツィオの戦車はゴーカートみたいなちっちゃなCV33で、それも背景にちょっと写ってるだけだから。これなら、華が言ったごっつい激しい戦いのイメージを打ち消せる。 「これはうちの学園とはだいぶ違って――」 「そうそう、こういうのです、こういうの!」  言いかけた華を遮って、私はぶんぶんうなずいた。巨大な大砲で打ちのめす乙女だなんて思われたら、たまんないよ。 「そうか。楽しそうな競技だね」  みんな可愛いな、俺も混ざりたい、と後ろの人たちも言う。よかった、ごまかせたっぽい。  「弁当もらえますか?」 「あっ、はいはい。華、渡してあげて」  華がうなずいて、側車に積んできた袋を渡し始める。バイクの座席で見守っていると、いつの間にかこっち側に回りこんできたヤマダさんが、「沙織ちゃん」とささやいた。 「はいっ? なんですか」 「いつもありがとう。これ、持ってって」  何気ない感じで差し出されたのは小さな箱だった。コンビニのチョコ菓子。 「えっ? あの、受け取れません」 「いいって。高いもんじゃないし」 「でも……」 「甘いもの苦手? あ、ダイエットしてるかな?」 「えー? そんなに太って見えます?」 「うそうそ、全然そんなふうに見えない。すごく可愛いよ」  軽く手を振ると、持ってって、と箱を押し付けて、ヤマダさんはすっと離れて行っちゃった。どうも……と、つい頭を下げちゃう。  箱に目を落とすと、チョコはチョコでも、お菓子棚の一番目につく段に置かれてる、ちょっと高めでおしゃれな新商品だった。  あー、うまい。うまいよ、ヤマダさん。これいま大人気のやつだし、かといって重荷になるほどすごく高いプレゼントでもないし。こんなの、さらっとくれたら、嬉しくなっちゃうよ。  こういうの選ぶってことは、慣れてるのかな。そうだよね、ヤマダさんモテそうだし……。  なんかごしょごしょ考えていたら、「沙織さん?」と華に呼ばれたから、「えっ、うん何?」とあわててスカートのポケットに突っこんで振り向いた。 「お弁当、渡し終わりましたけど……」 「あ、そう? じゃあ帰ろっか」  エンジンをかけて、「みんな、お疲れ様でーす」と頭を下げた。またね、と手を振るムキムキマンたちの中で、ヤマダさんがぱちっとウインクしたのが目に入った。 「ま、またねー……」  手を振ってUターンする。やばいやばいやばい。顔がすっごく熱かった。  ぶぽぽぽ、ぽぽぽん、と帰る途中で、華が言った。 「確かに、怖そうな人たちではなかったですね」 「でしょお? だから言ったじゃない、大丈夫だって」 「でも、わかりませんよ?」 「まだ言うの?」  言い返すと、華は気がかりそうな顔でこっちを見上げていた。 「こういう言い方はしたくないんですけど、わたくしも大きな家の跡取りとして、それなりに人を見てきているんです。その経験から申し上げると、少し気になるような……」 「何それ、私に人を見る目がないっていうの?」 「そういう意味では」  私はつい、ぐいっとアクセルをひねった。ぶぽぽん! とバイクが加速して、「きゃ」と華が座席に押さえつけられる。 「もういいよ、そういうの……!」  せっかく嬉しい気持ちだったのに、水を差された気がした。私はびゅんびゅんバイクを飛ばして走った。  学校へ戻ってから、授業の合間にトイレでポケットのお菓子を出してみると、箱の裏のラッピングにボールペンで文字列が書いてあった。そういうの、実はちょっと期待してたから、本当にあるのを見たら、胸がどきっとした。  自分の携帯を出して、箱と見比べながらメアドを打ち込んだ。送信ボタンを押す前に、指が固まった。  ほんとにいいのかな?  ぶるっと頭を振った。麻子はあれきり返事もしてくれない。華はお金持ちみたいなえらそうなことを言う。みんなのことは好きだけど、みんなは私みたいに恋したいって思ってない。私の気持ちなんか、きっとわからない。  ぐっ、と押した。  個室を出ると、トイレの窓から青空が見えた。なんだか足がふわふわした。怖いような、楽しみなような、胸がわくわくする気持ち。  これから素敵なことが始まるんだ、って思った。    ――華は普段、自分の家柄のことを、けっして自慢したりしない。  それなのに、あえて口に出した。偉ぶってると、たとえ思われても、言わなきゃいけないことを、言ってくれた。  その意味が、私にはその時、全然わかってなかったんだ。  二週間のあいだに十回お弁当を届けて、三十回もメールのやり取りをした。  そして、二週間後の金曜日に、こんなことを言われた。 『今日で作業が終わったので、日曜日の寄港で陸に帰ることになりました。その前に一度、食事でもどうですか。土曜日の夜』  ショックだった。ヤマダさんが行っちゃうなんて。  でも、仕方ないことだ。もともと学園艦の人じゃないんだから、いつかはこうなるに決まってた。  別れる前に一度ぐらい……二人だけで会ったって、いいよね?  危ないことないよね?  ね?      〇oooooooo〇   土曜日も戦車道の練習があった。私は内心でうきうきしてそれどころじゃなかったけど、集中して通信手の仕事をやった。顔に出したらきっとまた何か言われる。ここでけちをつけられたくなかった。  夕方に練習が終わると素知らぬ顔で帰ろうとしたけれど、呼び止められた。 「沙織」  麻子だった。二週間ずっと避けてたのに、よりによって今。 「なに?」  用事があるんだけど――と喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲みこんだ。いくら浮かれてても、大事なこととそうじゃないことぐらいは、わかってる。  これは大事なこと。だって他の人ならともかく、麻子のことなんだもの。 「ええと、その……」  自分から声をかけたくせに、麻子は目を伏せてなかなか話を切り出さない。私はひと気の多いまわりを見て、麻子を格納庫裏に引っ張っていった。  そこでふうと息を吐いて、言ってなかったことを言った。 「麻子、ごめん」 「え?」 「この前のこと、ね。もっぺん改めて謝っとく。あんたの気持ちをわかってなかった。心配してくれて、感謝してるよ」 「おまえ……」麻子が声を落とす。「そんなこと、言われたら……」 「それで、あんたは? ずっとちょろちょろ逃げ回ってたけど、そろそろ機嫌治った? ん?」 「別に怒ってたわけじゃない」 「じゃあ、なんでよ。私も寂しかったんだぞ」 「ほんとか?」背伸びするみたいに寄ってくる麻子。「おまえも寂しかったのか?」 「も、って?」やっぱり寂しがってんじゃない――と言いかけて、また飲みこむ。さすがに同じ地雷を二回踏んだらまぬけじゃん?「ううん、私のほうがずっと寂しかったよ。やっぱり麻子がいなくちゃー、地球が回っていかないよ私は。あは」 「そうか……」  少しほっとしたような顔に、麻子はなった。  それを見て、私は切り出した。 「じゃあ、また今まで通りってことでいい? 私、これから用事があるもんだから」 「用事?」一度柔らかくなった麻子の顔が、またきっと引き締まる。「何の用事だ?」 「何ってね、えーその」言いわけ言いわけ。考えてあるけどさ。「明日上陸じゃん? ちょっと実家に顔出そうと思って、冬物返すから荷造りとか、それと宿題先に済ませとこうかなって」 「手伝おうか。私は荷物なんかないし」  うっ、なんかやけにしおらしい。ごめん、麻子。 「あー、自分でやるからね! だいじょぶ。でも明日は一緒に上陸しよう! 朝行くからね。ね?」  あ、やばい。自分でもこれは苦しい気がするぞ?  でも麻子は、それ以上押してこなかった。「そうか……」とうなずいて、片手を上げる。 「じゃ、明日」 「うん、また明日ね!」  みんなにも挨拶して自分ちに急ぎながら、うーんと考えた。ほかの子はごまかせたと思うけど、麻子はどうだったかなあ。なんだかおかしい、ぐらいは思われたかも。  でもいいよね、明日は会うんだし。そだ、麻子さえよければ、実家に呼んであげよう。  帰ってお出かけの支度を始めたら、いつの間にそんな心配も吹っ飛んでた。シャワー浴びて、服選んで、かるーくお化粧なんかして。うふふふ、デートだ。初デートだ!  とっときのワンピにサッシュ巻いて髪ふんわり広げて、抜かりなく靴も可愛いのはいて、戦闘準備万端で、パンツァー・フォー!  ――したんだけれど。 「こ、ここは……」 「ん、どうかした?」  学園艦の繁華街から、海側に離れた静かな地区。待ち合わせたヤマダさんが連れてってくれたのは、おしゃれな窓の並ぶレンガ造りの壁に蔦の這う、フランス料理のお店だった。  私てっきり、居酒屋とか普通のチェーン店のレストランを想像してたのに――。 「僕、よそ者だから学園艦のことってなんにもわかんなくて」スーツ姿で妙にかわいい柄物のネクタイを締めてきたヤマダさんが、手元のスマホを覗いて言う。「ちゃんとしたお店ならここかなって思ったんだけど……もっといいところ、あった?」 「ありませんっ!」振り向いた私の目には、星が飛んでたと思う。「ここ、大洗艦で一番人気のビストロなんですよっ? 一度来たかったの、うわー、うわー」 「そう、そりゃよかった」  さ、どうぞと手を引いてくれるヤマダさん、ダンディだよおー。作業服のときもよかったけど、スーツだともっといい……。  味、わかんなかった。いやむちゃくちゃおいしかったのは確かなんだけど。照明暗めで生ピアノ流れてぴっとしたギャルソンが季節のなんちゃらとかシェフのなんちゃらとかお給仕してくれて。ヤマダさんはナイフとフォーク慣れてなくてまっ適当でいいよねなんて笑ってたけどそれもざっくりして素敵に思えて。やだおいしーこれかわいいって言ってる間にあっという間に時間が流れてた。夢見心地だった。  だから、途中でお手洗いに行って戻ったら、ワイングラスが二つになってたのも、そりゃそうだよねって思えちゃって。 「未成年には……まだ早いかな?」なんて言われたら、振るでしょ? 首。横に。 「じゃ、ちょっとだけ……いいですか?」  小さな泡の立つきれいな液体をくぴっと飲んで――。  そこまで。  記憶、そこまで。  気が付いたら外のひと気のない夜道で、ふらつきながら歩いてた。 「ひゃれ……あひもと、なんか……」 「沙織ちゃん、大丈夫? 歩ける? ここ座って」  ベンチがあったから、腰を下ろした。目の前がくらーん、ふわーんとゆっくり回って、背中立ててるつもりなのに、傾いちゃう。いま町のどこにいるのか、よくわからない。  なんだろう。なんでこんなに酔っちゃったんだろう。前に実家で、パパのお酒を少しだけ飲んだことがあったけど、そのときもここまでクラクラにならなかった。 「すひませっん……おしゃけ、なれてなくてぇ……」 「まあ、女子高生に飲ませるにはいい酒だったし、それに酒だけじゃないしな」 「ふぇ?」  ヤマダさんの言葉の意味が分からない。口調が急に雑になった理由も。  でも、何かがわかった。帰らなきゃ。 「か、帰りまひゅ……」 「うん、いま車呼んだから。動かないで」  立ち上がろうとすると、手を引かれてドサッと座らされた。やだ、乱暴だよぉ、ヤマダさん……。  キッと目の前の道路に車が止まって、何人か降りてきた。ヤマダさんと何か話してる。 「うっわー、ベロベロ」「飲ませすぎじゃないすか?」「いやむしろ減らしたよ、未成年だぞ」「じゃすぐ抜けるっすね」  わかんない、意味わかんない。  こわい。 「さあ、乗ってね。沙織ちゃん」 「やっ……」  逃げようとしたけど、両腕をつかまれて、ささっと車に連れ込まれちゃった。  ぶおん、と走り出す。左右両方をどっしりした男の人の体が挟んでる。イシダさんとタカダさんだ、ううん、タケダさんだっけ? わかんないけど、あの人たちだ。工事現場の。  なんでここにいるの。ヤマダさんと二人でデートだったはずなのに。なんでこんなに何人も……。 「なんでぇ……」 「なんでって、ねえ」助手席からヤマダさんの薄笑いしてるみたいな声がする。「毎日自分から来てくれたじゃない。探す手間省けちゃったんだもの、しょうがないよ」 「探すって……」 「いつもは探さなきゃいけないの。渡りつけるのにそれなりに手間かかるし。でも沙織ちゃん全部自分でやってくれたでしょ。……一人暮らしなんだよね?」  振り向いたみたいだけど、車の中は暗くて顔が見えない。 「すごく楽だったよ。いっそこのまま沙織ちゃんちで、とも思った」 「アシつくっすよ」 「冗談だよ。飯場なら撤収しちまうから跡残んないもんな」 「うまいやり方っすよね」  男の人たちが笑った。体がガタガタ震えはじめた。  この人たち、何かひどいこと話してる。何かひどいことするんだ。女の子誘って、いい気にさせといて、猛獣みたいにばくっと捕まえる、悪い人たちなんだ。  私、その獲物にされちゃったんだ……!  助けを呼ぼうにも、携帯はバッグごと取り上げられてた。  そのうちに車が止まって、引きずり降ろされた。「だ、誰かぁ! たすけて……」って私は叫んだけど、グローブみたいなごつい手で口を塞がれて、薄暗い小屋の中に連れこまれた。  そこはあの、解体現場のプレハブだった。私はいったん部屋の隅に放り出された。電気をつける人は誰もいなくて、携帯のライトだけを頼りに、がたがた動き回ってる。椅子やテーブルを動かしたり、床に何かを敷いたりして。  それはずいぶん慣れてる感じで、私はぞっとした。  不意に、周りの黒い影が動きを止めた。パッと顔にライトを向けられて、目がくらむ。 「うく……」 「こっち向いて」  ヤマダさんがぐいと顎をつかむ。 「これからどうなるのか、わかってる?」 「わわ、わかんないけど」歯がカチカチ鳴って、細い声しか出ない。怒鳴ってやりたいのに。「つ、捕まるよっ、こんなことしたら……!」 「ノー、捕まらない。沙織ちゃんは自分から遊びに来たの。自分から、ここで楽しいことしにきたの。だから俺たちはなんにも悪くないの。そのうち、沙織ちゃん自身がそう言ってくれる」 「そんなこと言うわけないし!」 「そう? でもすぐに考えが変わると思うよ」  向こうは余裕たっぷり。こっちは何か話すたびに気力が吸い取られていくみたい。  それでも私は気持ちをふるい起こして叫んだ。 「せっ、戦車道女子を舐めないでよっ!」 「戦車道?」  それまで黙っていた周りの男の人たちが、ドッと笑った。 「戦車道がどうしたって?」「ご馳走作ってくれるの? ん?」「かっわいいよなあ」  笑い声の中で私は両腕をつかまれて、「いやっ、やめて!」と暴れながら、部屋の真ん中の毛布にどさりと横たえられた。さかさまになった窓の向こうに夜空が見えた。 「コンビニまで二キロだよ、沙織ちゃん。叫んでいいよ!」  ぎっしりと周りを塞いだ影が手を伸ばしてくる。  私は泣きたくなった。こんなのひどい。みんなから遠く離れた場所で、一人だけで乱暴されちゃうなんて……。  そのとき、顔が見えた。  さかさまの顔。窓の外に。なんだかいやにごついゴーグルみたいなものをつけて、中を覗きこんでる。  ――え?  見間違いかと思ったけど、そうじゃなかった。部屋の中のライトの照り返しで、ぼんやりと浮かび上がったそれは、私と目が合うとぎょっとしたみたいにのけぞって――。  後ろを振り返って、何か合図したみたいだった。  そして爆発が起きた。  どごぉん! とものすごい音がして、横手の戸口の壁がまるまる消し飛ぶ。爆風と破片が男の人たちをなぎ倒す。私は思わず顔をかばったけど、真ん中で囲まれていたせいで、かえって破片は浴びなかった。 「な、なんだぁ?」  吹き飛ばされた男の人たちがわめく。私も呆然としたけど、何が起きたのかわかったような気がした。  立ちこめる埃の向こうから、拡声器にかけられた凛々しい声が飛びこんでくる。 『パンツァー・フォー!』  ゴゴゴゴゴ……キュラキュラキュラ。地面ごと建物を揺さぶるような重々しい振動と、分厚い鉄と鉄がこすれあういかめしい金属音。聞き間違えるわけがない。  私が、私たちが、一番好きな、あの――。  ずごごごご、と崩れた壁を踏みつぶしながら、小屋よりでっかい鉄の塊が姿を現した。ついーん、とモーター音を立てて砲塔を回して、七十五ミリの長砲身をピタリと部屋の中に向ける。  カカッ、と四号戦車の背後から強烈な光が浴びせられた。その光を遮って、操縦手席、砲手席、そして車長ハッチの扉が次々と開いて、パンツァージャケットの姿が立ち上がった。  目が曇った。涙で見えなくなったけど、誰が来たのかはっきりわかった。 「みんなぁ……!」 『今すぐ沙織さんから離れなさい!』みぽりんの声がわんわん響く。『壁沿いに並んで! さもないと撃ちます!』 「戦車か?」ヤマダさん、って私が呼んでた男の人が、私の服をつかもうとする。「やれるもんならやってみろ、こいつがどうなるか――」 『ウサギさんチーム、カモさんチーム、主砲照準! ――撃て!』  ずどどぉん! とまた爆音。今度はさらにすごかった。  まだ残ってた反対側の窓の外で、どかん! って真っ赤な爆発が起きた。あわてて顔をかばった男の人たちが、割れた窓の外を見てあんぐりと口を開ける。  一面の火の海ができていた。私を連れてきた車が、榴弾でこなごなに吹っ飛んだんだ。 「ああ、あ……」「車、が……」  燃え盛る炎をどろどろと踏み越えて、M3リーとB1bisまで顔を出した。  そっちを見ていた四号の人影が、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。  今はもう、飛び散った火のおかげで、みぽりんの顔が見えた。めらめらと燃える炎が映りこんで、瞳が真っ赤に輝いていた。  聞いたこともないぐらい低い声で言う。 『もう一度言います。壁に沿って、並びなさい』   それは、何も知らない人にだって、みぽりんが誰の娘なのか思い知らせるような、凄みのある声だった。 「へ、ひゃはは、ひ」  腰を抜かした男の人たちが、そろそろと後ずさって壁際に並ぶ。「ひいっ」と一人が外へ走り出したけど、そのとたんにM3が怒ったみたいに、ずどどどっとすごい機銃掃射をした。周りの地面がバシバシはぜて、男の人は「わひゃああ」とへたりこんだ。  その人の名前が何だったのか、私はもう考えないことにした。 「武部どの」  暗いほうから駆け込んできた迷彩服の人影が、私を助け起こしてくれる。ごっついゴーグルを跳ね上げると、ゆかりんの心配そうな顔が出てきた。 「大丈夫ですか。おけがは?」 「ううん、どこも。ゆかりん……」 「すみません、一秒を争うと思ったんで、主砲撃ってもらいました。もっと早く来られたらよかったんですけど、最初は車のほうを探していたので――」 「ううん、ううん」首を振るうちに、ほっとして、こらえられなくなってきた。 「助かったよ。ありがとぉ……!」  泣きながら抱き着いた私を、ゆかりんはそっと抱き締めてくれた。  助け出される私と入れ替わりに、銃で武装したおかっぱの女の子たちがいっぱい入ってきた。銃? と驚いたけど、たぶんゲーム用のおもちゃかな。後ろに控えてる戦車は本物だから、迫力は十分。 「あなたたちのことは調べさせてもらったわ。善良な作業員の振りをして、各地の現場を渡り歩き、婦女子に乱暴を働く極悪犯たち! ここ大洗学園艦で狼藉に及んだのが運の尽きね! 風紀委員の名において警察に引き渡します!」  私はみんなの手で四号の中に入れてもらった。「沙織さん」「大丈夫だった?」と囲まれると、ほんと安心して、力が抜けちゃった。 「うん、うん。大丈夫だよ。ありがと……」 「行こう。ここは園さんと澤さんたちが見てくれる」  投光器をつけた三式や八九式に見送られて、私たちはその場を離れた。  ごとごとと走っていく戦車の中で、後ろの席のゆかりんが教えてくれた。 「冷泉どのが教えてくれたんですよ、武部どのが危ないって」  麻子は私と会わなかったあいだに、あの人たちのことを調べていた。まだ捕まってないけど、どうも悪いことをしてる人たちがいるらしいっていうネットの噂を見つけて、情報を集めた。確かなことを知るために、他校の人や進学した角谷元会長にまで調査を頼んだ。  その返事が来たのが、今日、私と別れた後だった。 「ただちにみほどのがみんなを呼び戻して、戦車で学園艦じゅう探したんです。風紀委員も協力してくれました」  だんだん事情が分かると、私は苦しくなってきた。麻子や華に言われた通りだった。それなのに私は舞い上がってひょいひょいついてって。あんな目にあってみんなに迷惑かけた。  情けなくて、恥ずかしかった。  それだけじゃなくて、なんだか胸元に気持ち悪さがこみ上げてきた。 「ちょっとごめん……戦車止めて」 「武部どの?」 「は、吐きそう」  ギギーッ、と履帯を鳴らして戦車が止まる。私が口元を押さえてると、操縦席の麻子が仕切りから身を乗り出してきて、「出られるか?」と聞いてくれた。 「むり、ん……ぐっ」 「秋山さん、袋か何か」 「はいっ」  水筒より大きな砲弾の空薬莢が差し出された。「いいぞ」と麻子が床に立ててくれたそれに、私は戻した。 「沙織……沙織」  うつむいて震える私の背中を、ちっちゃな手が撫でてくれる。すごく必死な、心配そうな手つきだった。  ああ、まただ。  また、麻子が助けてくれた。  おなかの中身を出し切ってはあはあ息をしてると、ハンカチで口元を拭われた。ペットボトルのお茶で口をゆすぐと、だいぶ気分がよくなった。 「はふ……ありがと、もういいよ」 「医者へ行くぞ。何か飲まされたんだな?」 「ううん、お医者はいいよ。それよりみんなといたい。大丈夫、たいしたことないから……」 「ないわけないだろう!」  怒鳴られた。びっくりして麻子を見た。  にらんでた。めちゃくちゃ怒ってる顔だった。 「おまえ、あんな目にあって、大丈夫って、そんな……」  違う。食いしばった歯がぶるぶる震えてる。こらえてる。苦しんでるんだ。  と思ったら、挑みかかるみたいな顔が、急にくしゃっと崩れた。 「沙織っ!」  ぐいぐいと体ごとこっちへ入ってくると、どっと抱きついた。 「沙織、沙織ぃ! ……うう、うえええぇ!」  泣いちゃった。  あの麻子が、きついことばかり言ってすぐ叱る麻子が。  私の首にすがりついて、子供みたいにえんえん泣いた。 「ばか沙織、ばか沙織ぃ……このばか! おまえ、私がどれだけ、この……うああ、ああぅぅう……!」  ぼこぼこ肩を叩いて、ぐりぐり頭をこすりつけて。痛いぐらいって言うか、ほんとにさっき腕つかまれた時よりも痛かったけど、不思議にちっともいやじゃなかった。  いきなり、私がこの子のなんなのか、わかった。胸の中でぽっと小さな灯がともったみたいに。  ああ。  そっか。  麻子あんた……。  私は、肩の上でわしゃわしゃ動くさらさらの黒髪に頬を預けながら、ぼんやりとその新しい発見を味わってた。小さな明かりがすべてを照らしてくれた。  ホットケーキを代わりに焼いてくれた麻子。太腿をつねってすねてた麻子。病気が治ったらそばにいた麻子。寂しくない、って吐き捨てた麻子。  そういうことだったの。 「なぁんだ……」  胸に灯った小さな明かりは、甘酸っぱい泡になってしゅわしゅわと体中に広がっていく。誕生日にサプライズパーティを仕掛けられたみたいに、ほっとする安心と、くすぐったい嬉しさと、それと自分がこれまでしたことの苦みが、混ざりあってぐるぐる回った。  えっえっ、とまだ嗚咽している麻子の頭を撫でて、耳元でささやく。 「麻子」 「ん……」 「あんた、私が好きなんだ」  麻子が顔を上げた。切れ長の目をぱっちり見開いて、おどかされた子猫みたいにぽかんとしてた。  私はくすっと笑って――後ろの三人には聞こえないように、うんと小声で言った。 「わかっちゃった。やっと」 「さ、沙織、おま――」 「しっ」  叫び出そうとした唇に人差し指を当てて、目を覗く。 「何も言わないで。ちょっとだけ待って。私も今わかったばかりだから……よく考えたいの」 「いや、でも」 「ねっ?」  ぐっと強く見つめると、押されたみたいに、「あ、ああ……」と麻子はうなずいた。  私は胸を押さえて深呼吸してから、振り向いた。  何も言わずに、さりげなく覗きこんでいたみぽりんとゆかりんがいる。 「みぽりん、今ここ、どこかな?」 「えっ? えーっと」  バタンとハッチを開けてゆかりんが外を見た。「もう学校の近くですよ」と言う。 「すぐそこ、いつものコンビニです」 「じゃあ、歩いて帰れるよね。あのさ、わがまま言っていい?」 「わがまま?」   「戦車貸して」  三人が顔を見合わせた。「大丈夫ですか?」と華が聞いてくる。 「うん、麻子と二人で少し話がしたいの。助けてもらったばかりで悪いけど……今夜だけ、四号貸してくれない? ね?」  そう言うと、三人は何か心当たりがあるみたいにうなずき合った。  ああ、みんなもわかってたんだ。そっか、気づいてなかったの、私だけかぁ……。 「わかりました。じゃあ、私たちはここで降ります。戦車、明日までに戻しといてね」 「何かあったら遠慮なく呼んでくださいね」  ゆかりんは拾った私のバッグを渡してくれた。  外へ出て歩道に並んだ三人が手を振る。通信手席のハッチから、砲身越しに「みんな、ありがとー!」って手を振り返すと、私は足元をのぞいて言った。 「麻子、出して」 「ええ? どこへだ?」 「どこでもいいよ。そだ、海見に行こう、海!」  操縦手席に戻った麻子が、ぐおん、とエンジンを噴かした。  ごろごろごろ、と四号が走り出す。涼しい夜風が髪をくすぐる。街の景色が周りを流れて、道端の人や車のドライバーが手を振ってくれる。私は笑顔で手を振り返す。  さっきまでのごちゃごちゃが、風に洗わられてきれいに滑り落ちていく。  麻子が天井ハッチを開けて叫ぶ。 「左舷の公園でいいか?」 「いいよ、もっと飛ばして!」  ガリガリガリ! とアスファルトを削って四号が爆走する。ぐいっ、ぐいっ、といくつも角を作って交差点を曲がる。ものすごい騒音と振動。どんなにかっこいい車よりも、力強くてかっこいい。  どんな運転手だって、この子にはかなわない。 「行けーっ、麻子ガンガンいっちゃえー! パンツァー・めちゃくちゃ・フォー!」 「ばかか沙織! ちゃんとまわり見ろよ?」  私が腕を振り回してわめいたのは、高鳴る胸のどきどきを隠すためで。  私がいるのは、最高の助手席だった。      〇oooooooo〇   夜の公園の片隅に戦車を止めた。でっかい割りに人が減ってる学園艦だから、そのあたりにもほかに人はいなくて、私たちは波の音と、冷えていく戦車のカチカチという音だけに包まれた。  私は砲身をくぐって、のぞき窓の上の段に腰を下ろした。そうやって暗い海を見ていると、麻子が立ち上がってそばのハッチから顔を出した。 「沙織……」  見上げる顔の前の板を、ポンポンと手で叩く。よっ、と身軽に這い上がった麻子が、ハッチを閉めてその上にちょこんとお尻を乗せた。  すぐそばだけど、向こうをむいてる。セーラー服の背中が小さい。練習の後、着替えもせずに走り回ってくれたんだ。  私は、声をかける。  「疲れた?」 「別に……」 「疲れてるって。頑張ってくれたんでしょ」 「別に全然」肩越しに、じとっと見てから、さっと目を逸らす。「お前に比べたら……」 「私はもう大丈夫だってば。ほらほら」両腕ぐっぐっと曲げて、元気のポーズをする。「よくなったって。ね? 絶好調」 「体はそうかもしれないが……」 「体はって? もう」肩をつかんでひっぱる。「こっち向いて。ね」  おずおずと膝を回して、隣に並ぶ。うつむいていて、まだ距離がある。こぶし一つ分。  その隙間のことを、私はこれから考えなくちゃいけない。 「麻子……」 「ん」 「いつから?」 「いつから、って?」 「私を……なったのって? 最初からじゃないよね」  小学校のころからの友達だ。気づいてなかったって言っても、そんなに前からそうなら多少は心当たりがありそうなものだけど、昔はなかった気がする。 「みぽりんたちが……そうなってから?」 「あのな、沙織」ようやく麻子が顔を上げた。て言っても、困ったみたいに頭を傾けてる。「私は……西住さんたちみたいな気持ちじゃないぞ」 「え、ええっ?」さっと顔が熱くなった。「違うの? 私、早とちりだった?」 「いや、待て、その……ええと」あわてて首を振った麻子が、目を逸らし気味につぶやく。「早とちりじゃ……ない」 「なんだ。じゃあやっぱりそうなんだ?」 「だから待てって!」  噛みつくみたいに言って、うーっとにらむ。うわ、なんだろ。今夜の麻子は難しいぞ。  ううん、今夜も、か。 「だからな、まず……おまえは男の人が好きだ」 「う、うん」 「それが、あんな目にあって、あいつはひどいやつだってわかった。それって……がっかりしたんじゃないか?」 「がっかり? は、したけれど、ああ、心の心配してくれてるのね」  機銃でおどかされて、ぶざまにひっくり返ってた姿が頭に浮かぶ。あれ、ウサギさんたちキレてたんだろうなあ。心配させちゃったな。 「それはもういいよ。思い出したくない。ていうか忘れた。はい忘れた!」 「そうか……」  いくらか顔を和らげると、麻子は穏やかに言った。 「でも私は、お前に気持ちを押し付けるつもりはないんだ」 「押し付けるって……みぽりんたちだって、そんなことしてないと思うけど」 「押し付けてはいないけど、あの二人はもともと好きなものが同じで、同じものが好きな相手のことが気になってて、気になってることが何かのきっかけでわかったから、仲良くなった。相性ぴったりってやつだ」 「うん、相性は抜群っぽいよね。二人で何か完成しちゃってるみたいなとこある」 「そうだろう」麻子は言って、ひとつ息を付く。「でも私と沙織は全然だ」 「全然ってなにが!?」 「何もかもだ。わかるだろう」うざったそうに麻子が顔をしかめる。「好きなものもしたいことも全然違う。……それに、繰り返すけど、私はあの二人みたいな気持ちじゃないぞ。沙織と……その、なんだ、ええと……」 「それって、どんなの?」 「ええ?」 「あの二人みたいな気持ちって」  嫌そうに眉をひそめる。「なんでそんなこと聞く?」 「えっ、だってあんたが違う違う言うから。聞かなきゃわかんないじゃん」 「それは、うう……」夜型の麻子の抜けるように白いほっぺが、じんわりと赤くなっていく。「こい、び……恋人同士……みたいな感じの。二人でにこにこ見つめ合ったり、手をつないだりっていう……ううう」  どんどん向こうへ傾いていった麻子は、「だめだ私、そういうのは……」と両手で顔を覆っちゃった。  そうだよね。麻子はそういうのだめだ。それはわかるよ。こないだみぽりんちでキレたときも、そういうキレかたしたよね。  あれがそういう理由だけじゃないのはもうわかったけど、麻子は性格のせいで、二重に苦手だってことだね。うん、なるほどなるほど。 「じゃあさ、麻子」私は身を引いて、人差し指なんか立てながら聞いてみる。「どういうのだったらオッケーなの? 麻子は」 「は?」 「比べたらダメだってのはわかったからさ。でも麻子にも気持ちがあるんでしょ。それはどういうのか、聞かせてよ」 「お前それ、それは……」向き直った麻子が、口をはくはくさせる。「押しつけたくないって、さっき言っただろ……」 「だから聞くだけ。聞いてから考えるのはこっち」指を麻子の胸に当てて、顔を寄せる。「ね、言ってみ? 麻子さんはどんな気持ちなの? ん?」 「沙織おまえなあ!」麻子が叫んで手を押し戻す。でもその顔は真っ赤だ。「私、私が、今までどういう気持ちで黙ってたと……!」 「だから、それ」逃げない。ここまで来たら私も真剣だ。こぶし一つ分の幅。それを麻子がどうしたいのか知りたい。「それを教えて。麻子いままで怒ってばかりで、教えてくれなかった。それじゃ私もわかんない。知りたいよ」 「それはっ……私、は……」 「うん」 「私は……」 「うん」  指を立てた私の手を、麻子がつかんでる。その手がすごい勢いで汗ばんでいく。うつむいた麻子が、はっはっと窒息しそうな息をしてる。  私も目が離せない。息ができないぐらい緊張してる。 「私は……っ」  震える右手を、麻子が私の肩に乗せた。それから、左手も。かすかな力が加わる。逆らわない。目を閉じて必死になった麻子の顔が、小さな唇が、ぐっと近づく。 「それ」なの? 麻子はそれがしたいの?  ――いい、かな。麻子なら。  不思議と抵抗感はなかった。これまでずっと友だちだった麻子が、その全部を投げ捨ててでも別の関係になりたいっていうのなら、応えてあげても、って気持ちになってた。  麻子……。  私は目を閉じて、唇を差し出し――。  そのすぐそば、でも決定的に違う場所に、柔らかいものがぺたりとくっつくのを感じた。  麻子のほっぺた。かすかに涼しい匂いのするつやつやほっぺが。  私の右頬に、きゅうっと押し当てられた。すぐに、反対側の頬にも。 「さお、り……っ」  両腕を背中に回して麻子が抱きつく。ぎゅうう、としぼりあげるようくっついてくる。  ――あ、あれっ?  私は、肩透かしを食ったような気になった。 「ま、麻子……」おずおずと抱き締め返しながら、思わず聞いちゃう。「キス、じゃないんだ……?」 「そういうのじゃない」ふるふる、と麻子が首を振る。「でも、ただの友達でもない。それじゃいやだ。それよりもっとだ。私は、沙織と……」  ぐいっ、お尻をずらして体ごとくっついてきた。 「ずっと一緒にいたいんだ……!」  麻子のちっちゃな全身から、私が好き、私といたいっていう気持ちが伝わってきた。それはものすごく熱く甘くて、私は背中がぞくぞくして嬉しくなりかけるんだけど――。 「違うの? 友だち以上、恋人未満ってやつ……?」 「未満じゃないっ」顔を離した麻子が、鼻が触れそうな近さでにらむ。「恋人よりも以上だ。お前に彼氏ができても、それより上がいい……!」 「できてもいいの?」 「だって仕方ないじゃないか!」裏返った声で叫ぶ。「お前がほしがるんだから! それでおまえが幸せになるっていうなら、止められないだろ! 私は……」  吊り上げた目尻に、大きな涙の玉を浮かべる。 「幸せなお前が好きなんだ! 好きだから幸せになってほしいんだ、わかれ、ばか沙織!」  私は息もできずに、本音をぶちまける麻子に魅入られていた。  今までで一番きれいで、いじらしい顔をしていた。 「麻子……」 「わかれ、沙織ぃ……」ぽとぽとと滴を落して、麻子がほっぺに頭をこすりつける。「お前を引きずったりしたくない……お前はお前でいてくれ……世界で一番かわいい沙織がいいんだ……」  じんわりと染み込むようにわかってきた。麻子が、私たちが、みぽりんたちとは何もかも違うっていうこと。  私たち二人の気持ちは――いま、切り替わった私の気持ちは――あの二人みたいに、まっすぐ重なって一つになることは、決してないんだ、って。  だって私は、好きだって思い始めてる。  たとえ私に彼氏ができても仕方ないなんて、そんなことを言えるほど一途な麻子に、胸が震えるぐらいの愛しさを感じてる。  突然始まっていつかは終わる恋なんかじゃない。ずっと昔から積み重なってきて、今から死ぬまで続いてくに違いない、これは……。  わからない。きっと名前なんかないんだ。  私と麻子、二人しか知らない気持ち。 「麻子」  私は、麻子の小さな肩を両手でつかんで、そっと引き離した。  涙でべとべとの麻子の頬を、手でそっとぬぐう。そこに顔を寄せて、キスする。  麻子がぽかんとしていく。その反対の頬も拭って、もう一度キスした。  さらさらの黒髪を、指で長々と梳く。肩に置いた手を、ゆっくりと腕へ撫でおろす。細い体を胸で柔らかく抱き止めて、狭い背中を円を描くように撫でる。お尻にも手をかけて、ぐいっと引き寄せた。体をぴったり寄り添わせる。脚を膝まで撫でて、ぐっと膝頭を私の膝に並ばせる。 「沙織……」は、は、と短く息をしながら、麻子が戸惑ったみたいに言う。「何してる……?」 「いや?」 「いやじゃ、ない。でも……」 「こういうことかな、って思って」麻子のあごを肩に乗せて、後ろ頭の髪の奥を、くしゅくしゅ、と撫でてあげる。「他の人にしたこと、ないよ。きっと誰にもしない。麻子だけだ」 「それって……?」 「あんたの言うこと、私がわかったならいいんだけど」麻子の背を抱き寄せて、胸を押し当てる。私の大きな胸の谷間に当たる麻子のちゃっちゃな胸、その間でとくとく鳴ってる、二つの音。「でも、わかったような気はしてるよ。あんたは私の、ここに来てくれたの。私、ここに麻子を置いとく。どんな時も。どこにいても。あんたを一番にするね」 「うん、沙織……うん」 「それでいい? ううん――」  すりすり、と首を振って、頭にキスする。 「私から頼むね。麻子、一番そばにいて。ずっとずーっと……あんたが私に、愛想を尽かすまで」 「尽かさない」  腰に腕を回した麻子が、ふるふるふるっ、て体震わせた。それに共鳴したみたいに、私も同じように震えた。  そして二人で同じようにほーっと深く息を吐いて、ゆったりともたれ合った。  麻子の体がお人形みたいに、くにゃくにゃに柔らかくなってる。緊張が一気に解けて安心してる。私、正解できたみたいだ。麻子が嬉しいかたちで、麻子を好きになってあげられた。  でもそれは、麻子が教えてくれた気持ちなんだよ。 「ねえ、麻子」  「ん?」 「大好き」 「う」  ぴくっ、と少しだけ麻子が固くなった。おかしくて私は笑う。 「なんで照れるの」 「苦手だって言ったろ……」 「それに、言うとまた、意味を考えちゃう?」 「うん……」ふぐ、とひどく素直にうなずく。「今まで、すれ違ってばっかりだったから……」 「だね。ごめんね麻子、心配かけて。……んん、違うな。気づかなくってごめんね、だ。私、いやなこといっぱい言っちゃったよね」 「ううん、いい」すー、と麻子が肩をかぐ。「許してやる。全部許してやる。私も……悪かった。勝手にしろなんて言って」 「いいよ、わかったから。むしろ嬉しい」言われたこと全部、今ではほんとの意味が分かる。「嬉しいよ、麻子」 「そうか……」  それきり私たちは口を閉ざして、長いあいだ抱き合っていた。ときどきお互いの体をなでて、ほっぺや鼻にキスをした。 「さ、そろそろ帰ろ。遅くなっちゃった」 「うん……ああ、みんなにも連絡しないと」 「そうだね。そしたら戦車返して、うちに帰って……麻子んち、泊まるからね」 「うん」 「お風呂入って、アイス食べて、それから……」 「それから?」 「一緒に寝よ? ね?」  顔を上げた麻子が、久しぶりに見る笑顔を浮かべた。 「ああ」 「あは」  こつん、とおでこをぶつけて、私も笑った。      〇oooooooo〇  「それじゃ今日は、新しい戦車道履修者のための演示を行います! 皆さん、準備を始めてください!」 「はーい!」 「青チームこっちです、集まって!」  よく晴れた月曜日。格納庫前に整列したメンバーが、みほの号令一下で、それぞれの戦車に向かっていく。副隊長に任命された澤梓がグループの半分を仕切っている。グラウンドの端に並んだ新入生たちが、動き始めた各チームを見て、歓声を上げる。 「始まったよ!?」「西住隊長ー!」「澤せんぱいがんばってー!」 「はーいはいはい新入生はラインから出ないで! あっぶないからねー!」  誘導係という名目の世話役を買って出た沙織が、手を叩いて叫ぶ。 「戦車道はぁ、よき妻よき母よき職業婦人になるための伝統ある武道です。でもね、それよりもっといいものが手に入るんだよ。わかるかなー?」 「なんですかー?」 「それはね、素敵な友だち! ううん――」立てた指をくいくいと揺らして、びしっと突きつける。「友だちよりも大事な相手!」 「恋人ってことー?」「彼氏ができるんですか?」 「かもしれない! 彼じゃないかもしれない! それはあなたたち次第! でも間違いなく、一生もののかたーい絆で結ばれるかんね!」 「沙織さん、絶好調ですねえ」  出番待ちの四号から新入生たちを眺めて、華が微笑む。みほがうなずく。 「大丈夫そうだよね。よかった」 「冷泉どののおかげですね」  優花里が通信手席から声をかける。今日は砲撃機会が少ない予定なので、みほが装填手を兼任している。操縦手席の麻子がぶっきらぼうに答える。 「みんなのおかげだ。私は戦車を走らせただけだ」 「そんなことないですよぉ、全部冷泉どのが頑張ってくれたからじゃないですか」  そう言ってから、優花里が無線機をいじって、ささやき声で言った。 「外部、切りました。あの、冷泉どの……」 「なんだ」 「たぶん聞いていいと思うんでお聞きしますけど、実際のとこ、どうでした? 土曜日。武部どのとは……」 「あ、わたくしもおうかがいしたいです」砲手席から足元を覗いて、華が屈託なく言う。「メールでは、丸く収まったから帰る、とだけしかおっしゃってませんでしたし。日曜日はお二人で本土へいらしてましたよね。仲直りされたんですか?」 「余計な詮索はチームの不和を招くぞ」 「あら」「そ、それもそうですね。すみません、野次馬根性むき出しで……」  優花里が汗をかいてうつむく。後ろからこっそり覗いていた車長席のみほが、あはは……と苦笑する。  麻子がふうとため息をつくと、操縦桿から手を離して後ろにもたれた。 「冗談だ。このチームが壊れたりなんかするもんか。みんなには心から感謝してる。だから報告するぞ」 「え?」 「通った」  振り向いた麻子が、トランスミッション越しに、Vサインを出した。 「装甲貫通。沙織を撃破」 「えっ……ええええ! それって!?」 「ほんとですか?」  向きを変えて後ろにもピースして、麻子はニッと笑う。 「私たち、もう特別だからな」 「はああ……」わたわたとトランスミッションを乗り越えて、優花里が満面の笑みを突き出す。「おめでとうございます、冷泉どの!」 「まあ、それはそれは……」「よかったね、麻子さん!」 「ありがとう、秋山さん、五十鈴さん、西住さん」麻子は順番に頭を下げて、ほんのりと頬を赤く染める。「そう言ってくれて、嬉しい」 「私も嬉しいですよ! 冷泉どの……ああもう、なんて言ったらいいか!」 「秋山さんたちとは、ちょっと違うけどな」 「え?」  身もだえしている優花里に、麻子はいたずらっぽい笑みを見せた。 「隊長! 準備できました!」  無線機から梓の声が飛びこんでくる。優花里があわてて席に戻って、自分たちのグループの様子を確かめた。 「こっちもオーケーです、いけますよ!」 「わかった」うなずいたみほが、車内を見回す。「――ね、みんな。今日は帰ったら、お祝いしない?」 「そうですね、今夜はパーティーにしましょう」「そうですよ、この前のリベンジです!」 「麻子さん、いい? 沙織さんには麻子さんから言ってね」 「ん」  麻子はうなずいて、前に向き直る。パーティーか、と考える。  すると、不思議に胸がわくわくしてきた。  そんなことは初めてだった。今までのパーティーが楽しくなかったわけではないけれど、自分の一部に蓋をして、触れないようにしてきたのは確かだった。心の底から楽しみにしていたことは、なかったかもしれない。  でも今は違う。もう隠さなくていい。きっとみんなと、あいつと、食べて笑って、ふざけあえる。  すごく楽しみだ。  ぐっ、と操縦桿を握る。 「いいぞ。いつでも動ける」 「よーし、それじゃあ……演示を始めます! 全車、パンツァー・フォー!」  心地よい号令とともに操縦桿を倒して、麻子はいっぱいにアクセルを踏みこんだ。      (おわり)