五人のおみまい作戦です!  あとから考えれば、そうなるのはわかり切ってた。  六十日前。 「予防接種?」 「そー、文科省からの補助の一環。すこやかで美しい戦車道女子となるためにワクチン打っとけってさー。この書類もって最寄りのお医者に行くと、無料でやってくれるかんね」 「そっか、インフルエンザの季節だよね。でも最近忙しいし、行く時間あるかなあ」 「予防医療は大事ですよ! 感染症は集団生活をする軍隊でよく発生しますからね。気をつけないと」 「えーっ、注射だよね。私、ああいう尖った針ってちょっと……」 「あら、針は怖くないですよ。チクッとするのは一瞬だけです、沙織さん」 「そうだぞ、ちゃんと打っとけ」 「華は剣山で慣れてるかもしれないけどさー! 麻子あんた、そんなこと言って自分は打つ気あるの?」 「夜中にやってる病院があれば……」 「結局それだよね?」  三十日前。 「そういえばみほどの、予防接種って行きました? 会長から勧められた、あれ」 「あっ、そういえばまだだ。でも今、行ってるひまないよ。優花里さんは?」 「私はとっくに済ませました! あれ効果出るまで二週間かかりますからね。皆さんはどうなんでしょうか」 「華さんは先週行くって言ってたような。でも沙織さんと麻子さんは」 「うーん、行ってるといいんですけどね」  二週間前。 「あ、そうだ。ね、沙織さん。前に会長にもらった書類って」 「ちょっとみぽりん聞いて聞いて! 再来週の土曜日だけどさ、マゴッツが学園艦訪問ライブやるんだって! 知らない? 知っとこうよこれ今めちゃめちゃ人気あるんだよ! それでさーウサギさんチームの子たちがなんかチケット回してくれるって。行かない? 行こう?」 「再来週って、定期試験があるけど……」 「だから、ちょうどその試験明けなの! 戦車道だけじゃなくてたまにはこういうのも、ね? ね?」 「か、考えとくね」  三日前。 「おはようございます、沙織さん。あら、顔色すごくありません……?」 「うー、ちょっと徹夜で試験勉強しちゃってさ。やっぱりひどい?」 「ええ、だいぶよろしくないような。今夜、みほさんと演奏会に行くんじゃありませんでした? 大丈夫ですか?」 「演奏会じゃなくてライブ! そのライブに行くためにがんばったの、成績落ちたら親に叱られちゃうからね! みぽりんは結局行けないって言ってたけど。華、来ない?」 「そうですね、たまには……あら、でも麻子さんは?」 「麻子はうるさいのは嫌だって言うし、ゆかりんは戦車出てこないのはちょっとって言うしでさー。私のほか、一年生だけになっちゃうよ」 「でしたら、ご一緒しましょうか。こんな状態の沙織さんを行かせるのも心配ですし」 「やたっ、じゃあ放課後にいったん着替えてから行こうね!」  前日。 「では、今日の練習は終了。解散!」 「おつかれさまでしたー!」 「はー疲れたー」「休み明けはきついよね」「そういえば試験の結果、どうだった?」「聞くな、ハルツームの戦いのゴードン将軍というか、ディエンビエンフーのフランス軍というか」「全滅、か……」 「今日もおつかれさま! でもあの、沙織さん? 大丈夫? ずっと咳してたけど」 「うん、ごめーん。ちょっと体調やばいみたい……」 「やっぱり無理してたんですね。つらそうです〜」 「顔、真っ赤だぞ。送ってやる」 「わたくしは荷物を持ちますね」 「ありがとー、持つべきものは友達だねー。今日は帰って寝るよお」 「お大事にね、沙織さん……?」  そしてとうとう運命の日。  学校を休んだ沙織が、こんなメールを打ってきたのだった。 『あたまあつい 体とてと足いたい 動けない たすけて』      〇oooooooo〇 「優花里さん、麻子さんをつかまえて!」  火曜日の戦車道の練習後。沙織からのメールをみんなで読んだ直後に、麻子が顔色を変えてふらふらと走り出した。素早くみほが命令し、優花里がタックルをかけて取り押さえた。  連れ戻して話し合う。 「高熱と関節痛、それに激しい咳。インフルエンザでしょうか?」 「かもしれませんね。みんなで助けてあげましょう」 「そうだ。沙織が死にかけてる。行くぞ」  じたばたする麻子を、待ってください、とみほが制止する。 「これは、作戦を立てなきゃいけないと思います」 「そんなことやってるひまがあるか! 早く、早く行かないと……」 「もちろん、沙織さんを助けるのが第一です。でも、インフルエンザだとすると私たちもうつっちゃうかもしれない。私たち三人が一人暮らしだし、優花里さんのところもお店があるから、みんながかかったら大変です。だから、慎重に動かなきゃいけません」  みほの顔つきと口調が引き締まって、指揮官モードに入っている。「そ、そうですよ、みほどのの言う通りです!」と、優花里が強くうなずいた。  みほが三人を見回した。 「まず、いま熱がある人は、他にいますか? 私は大丈夫」 「私もです」「はい、わたくしも」「……私も、熱はない」 「わかりました。じゃあ、予防接種をしたのは?」言って、少し目を伏せる。「私は、しそびれちゃったんだけど……」 「私、やりました!」「わたくしもです」「私は……やってない」  優花里と華が手をあげたが、麻子がうなだれた。 「つい、面倒だったから……すまん」 「麻子さん、沙織さんは注射した?」 「してないと思う。あいつ、痛いのは嫌いだから」 「ますます疑いが濃厚ですね」  優花里が言い、みほがうなずく。 「では、優花里さんと華さんに看病をしてもらっていいですか」 「はい」「もちろんです」 「まずはお医者に診てもらいましょう。二人は今すぐタクシーを呼んで、沙織さんのうちへ向かってください。そして華さんは沙織さんを病院へ連れていってください。優花里さんは沙織さんから鍵を預かって、待機してて。もし入院となったら、身の回りの品やなんかを持ち出さなきゃいけないから」 「はい!」  みほのてきぱきとした指示に、優花里が学園艦のタクシー会社の番号を調べて、電話を掛ける。麻子がもどかしそうに訴えた。 「私も行きたい」 「麻子さん、落ち着いて聞いてね。私と麻子さんはうつっちゃうかもしれないから、沙織さんには触れない。だから、買い出しをして、看病の準備をしよう。沙織さんとこはそういうの、何もないでしょ?」 「で、でも」 「大丈夫、優花里さんと華さんが頑張ってくれるから。二人を信用して、できることをしよう?」  そう言ってから、みほは顔を寄せてささやく。「心配なのはわかるよ。幼なじみだもんね。ううん、大事な人なんだよね」  みほに見つめられた麻子は、まばたきをしてから、子供のようにうなずいた。 「……うん、わかった」 「じゃあ――おみまい作戦、開始です!」  校庭の向こうの校門に、タクシーがやってきたのが見えた。優花里と華が走っていく。それを追ってみほたちも歩き出す。 「行こう、麻子さん。まずはドラッグストアだよ」 「ああ」 「きっとこれは、長丁場になる気がする」 「え?」  麻子が見上げると、みほは敵部隊に囲まれたときのような、険しい顔をしていた。  ドラッグストアでの買い物を済ませてスーパーの中ほどまで回ったころ、華から電話が入った。沙織はインフルエンザ確定の診断が出て、注射を打ってもらい、家へ帰されることになったそうだった。 『入院するほどじゃありませんけど、一週間は自宅で休みなさいとのことです。買い出し、そのつもりでお願いしますね』 「わかりました、華さんありがとう!」  続いて優花里から電話が入った。 『ここに武部どのの電話があるんですけど、いま一年生の澤さんから連絡がありました。ウサギさんチームの宇津木さんと大野さんも昨夜から発熱してるそうです』 「ウサギさんといえば、土曜日に沙織さんと華さんと一緒にライブに行ったよね?」 『はい。しかも、発熱した二人も予防接種をしてなかったそうです』 「ってことは、沙織さんと同じ」 『ですね。おそらくそのライブ会場で感染したんでしょう。インフルエンザの潜伏期間は半日から二日ですから、計算は合います』 「むー、そっか……」 『とりあえずこちらの武部どのも発病していることを伝えて、病院へ行くよう勧めました。他になにか伝えることってありますか?』 「予防接種がまだの人は触らないようにってことかな」 『それはすでに言いました。あっちも手伝ったほうがいいですかね?』 「それは待って」みほは考えつつ答える。「まだ、こっちも人手がいるから。でも手が空いたら助けてあげたいね」 『はい』 「沙織さんの家はどんな感じ? あっ、食材とか薬とか」 『お米や普通の材料はいくらかありますけど、スポーツドリンクとかがありません。薬は市販の風邪薬とか頭痛薬だけです。基本、病人向けは何もない感じです』 「そっか、買ってくね。あと……沙織さんのご実家はどうしようかな」 「それは、まだいいと思う」横で聞いていた麻子が口を挟む。「沙織の親が心配する。もうちょっと様子見て……なんなら私が話す」 「そう? じゃあ、そうしてもらおうかな。優花里さん、聞こえた? 実家のほうは麻子さんが伝えてくれるって。あと何か必要なものある?」 『えーっと、今のところはいいです。体温計もありますし』 「わかった、ありがとう」  電話を切ると、麻子がくいくいと袖を引っ張った。 「なに? 麻子さん」 「会長に伝えた方がいい」 「え? あ、そうか」こういう場合は、みほもすぐに察する。「他のチームにも広まってるかもしれないもんね。気を付けてもらったほうがいいか」  すぐさまみほは角谷会長に電話をかけて、大洗戦車道グループ全体にインフルエンザの恐れがあると伝えた。  沙織のアパートへ向かう途中で、タクシーに追い越された。小走りになる麻子を、みほが追う。  アパートに着くと、入れ違いに優花里が出てきて、敬礼した。 「下着とか軽く洗って干しときました! きっとしばらく洗濯できないでしょうし」 「うん、それ正解だよ。優花里さん、気が利くね」 「えへへ、どうってことないです」ちょっと相好を崩してから、すぐ真顔に戻る。「武部どのはいま帰ってきたところです。容態、聞きましたか? まだ熱が三十八度あるみたいです。どうしましょうか」 「そうだね……あっ、麻子さん」  横をすり抜けた麻子が中へ入っていく。「沙織」とベッドへ向かったが、そこにいた華が振り向いて、両手を広げた。 「いけません、麻子さん。今年のインフルエンザはてごわいそうです。そこで止まってください!」 「うう……」  麻子がしぶしぶ立ち止まると、ベッドの上でひらひらと手が上がった。 「麻子ぉー、来てくれた……?」 「沙織、大丈夫か」 「うんー、華が付き添ってくれたから……」こほこほっ、と苦しそうな咳が聞こえる。「大丈夫だよぅ……麻子も心配かけてごめんね」 「沙織……」  玄関から覗いたみほが、優花里に買い物袋を差し出す。 「これ、いろいろ買ってきたから。優花里さん、今夜はいそがしい?」 「いえ、特には」 「じゃあ、一晩付き添っててもらえるかな。野営道具、持ち歩いてるよね?」 「はい、いつでも外泊オーケーですよ。こういう事情なら、親も文句はないと思います」 「あは、頼もしいな」 「あのう、わたくしは……」 「華さんは今日は帰りましょう」 「でも、優花里さんお一人でいいんでしょうか?」 「それはね――ちょっと来て」  華が出てくると、みほは少し声を低める。 「今回の病気は、一年生もかかってるみたいだし、ちょっと大きなことになると思うの。明日以降も看病の人手が必要になりそうだから、戦力はセーブしていきたい。華さんは、今日はゆっくり寝て、体力を保ってもらえませんか? きっと出番が来ると思う」 「そういうことですか。わかりました、さすがはみほさんです」 「沙織さんがこれ聞いてると、遠慮しちゃうかもしれないから、ね」 「はい」 「麻子さん!」  三歩先のベッドを心配そうに見守っている麻子を、みほは呼び戻す。 「麻子さんも。気がかりだろうけど、今夜は優花里さんに任せてくれない?」 「うう……わかった」うなずいたものの、麻子は暗い顔でつぶやく。「こんなことになるとは……あいつをひきずってでも注射につれていけばよかった」 「来年はそうしようね」  みほが苦笑していると、ベッドから、みんなー、と声がした。 「ありがとー、嬉しいよ。私、早くよくなるから……」 「沙織さんはゆっくりしてて! じゃあ優花里さん、お願いします。ごめんね、私がついててあげられなくて」 「とんでもないです、任せてください!」  胸を叩く優花里を残して、三人は心配しながらアパートを離れたのだった。      〇oooooooo〇  翌日は、優花里が昼に登校してきた。一応、沙織の容態が落ち着いて、一人でいられると言ったのだ。しかし熱はまだ下がっていないそうだった。 「インフルエンザの治療薬って、発症から四十八時間以内に打たないと効かないんですよね。武部どの、いつから症状出てましたっけ」 「えっと、一昨日の夕方に具合が悪かったんだよね」 「その前夜からだ」麻子が訂正する。「月曜の朝、うちに来た時にはもう咳をしていた。発症してたんだ」 「沙織さん、土曜日の演奏会に行く前、徹夜なさってました」華も言い添える。「あのときから体力が落ちていたんです。きっとそのせいで、そんなに早く症状が……」 「病院に行ったのが火曜日の夕方だから……」指折り数えたみほが、眉をひそめる。「ひょっとすると、遅すぎたのかも」 「うぐぐ、月曜日に病院に連れてってれば……」  麻子が歯噛みしてつぶやき、優花里が無言でその腕に触れた。  みほが顔を上げる。 「とにかく、今日も看病を続けましょう。優花里さんは帰ってください。華さんは、バトンタッチお願い」 「はい!」 「私、昨夜は仮眠を取りましたし、もう一日ぐらい大丈夫ですよ?」  身を乗り出す優花里に、みほは難しい顔で言う。 「それなんだけど……あのね、優花里さんには明日頼みたいことがあるの」 「明日?」 「私と麻子さんの看病」 「ええっ? み、みほどのもお熱が出たんですか?」  優花里があわててみほの額に触れる。まだ出てないけど、と苦笑してその手を押し戻したものの、みほは真剣に続けた。 「月曜日、五人で一緒に戦車に乗っていたでしょ。あのとき沙織さんからうつってた可能性があると思うの。今日は水曜日だから、もしうつってたら、今日の夜ぐらいに発熱するはず」 「そんな……」 「まだ決まってないけどね」みほは小さく笑う。「準備しとく必要はあるんじゃないかな」 「そ、そうですね。みほどのが発熱されたら……」想像したのか、優花里はぐっと拳を握り締める。「不肖・秋山優花里、命がけで看病させていただきますっ!」 「私だけじゃなくて、麻子さんもだよぉ」  ぱたぱたと手を振って、みほは麻子に目を向けた。 「だからね、麻子さん。今日も買い出し、行こう」 「まだ何か足りなかったか?」 「沙織さんのじゃなくて、私たちの分。麻子さんちは、大丈夫? ドリンクとかある?」 「ない……な、昨日はそれどころじゃなかった」  ますます暗い顔をする麻子を囲んで、三人が微笑みかけた。 「大丈夫、沙織さんも明日にはきっとよくなってるよ。ね?」 「うむ……」  麻子が華たちに向き直って、深々と頭を下げる。 「五十鈴さん、あいつを頼む。秋山さん、昨日はどうもありがとう」 「お気になさらないでください。わたくしたち、仲間じゃありませんか」 「そうですよ、どんどん甘えてください!」 「うん……」  麻子がようやく、小さな微笑みを見せた。  だが――。 「みほどの、発症されたそうです」  木曜日の朝、いつも待ち合わせるコンビニ前にやってきた優花里が、しょんぼりとした顔で報告した。 「昨夜のうちに熱が出て、今はまだちょっと動けるとのことです。病院が開いたらタクシーで行ってくるって」 「そうか……」  寝坊していられなくて早々に起きてきた麻子がうなずく。優花里が弱々しく笑ってみせる。 「冷泉どのは大丈夫みたいですね。よかったです」 「なんていうか……すまない」 「いえいえ、いいことです。私も今夜はみほどのの看病で手一杯になりそうですし。それより、武部どののほうは?」 「電話があった」麻子は携帯を取り出してみせる。「熱は七度台まで下がったって。今日はもう起きてるそうだ。秋山さんのおかげで助かったって言ってた」 「私だけじゃないですよ、五十鈴どのも」 「その五十鈴さんだが、昨夜、やらかしたらしい」 「は?」 「うどんを作ろうとして鍋をひっくり返した。――結局、秋山さんの作り置きのおかゆを食べたって」 「あは、そうでしたか」 「五十鈴さんは昼から来るそうだから、改めて礼を言っとくか」 「てことは、今朝は二人だけですね」  優花里と麻子は歩き出したが、少し行くと、また優花里があっと声をあげた。 「そういえば、一年生のほうはどうなったかな。冷泉どの、聞いてます?」 「いや。そういえば何も」 「ちょっと聞いてみましょうか。ええと、澤さんの番号あったかな」 「それより会長のほうがいいと思う。かけてみる」  麻子があんこうチーム以外の誰かに電話を掛けるというのは、それだけでもう珍しい。優花里が目を丸くして見ていたが、相手も同様らしく、驚いたような声が携帯から漏れてきた。  通話が終わると、麻子がしかめっ面で言った。 「広がってる。ウサギさんの山郷さんが今日休むそうだ。アヒルさんとカバさんでも一人ずつ」 「あちゃー……」優花里が天を仰ぐ。「やっぱりですか。軍隊じゃないですけど、戦車道みたいな集団は、病気に弱いんですよね……」 「西住さんの読み通りだ。あの人がリーダーでよかったな」 「ほんとです、はい」 「私は――今日は澤さんに会ってくる。買い出しの手伝いとか、出来ると思う」  決然とした面持ちの麻子を、優花里はやさしい顔で見つめる。 「悔しいですか」 「ん?」 「悔しいですよね。一番大事な時に、力になれなくて」 「何を――」  麻子は顔を赤らめてうつむいたが、やがて、きっと振り向いた。 「そうだ、悔しい。ほんとはそばにいてやりたい」 「冷泉どの……」 「それが無理なら、せめてできることをする」 「はい」  優花里が片手を差し出す。それを見た麻子が、しっかりと握りしめた。 「お互い、頑張りましょう!」 「おお!」      昼から出てきた華とともに、麻子は一年生の澤梓に協力を申し出て、買い出しに当たった。メンバーの半分が倒れてしまったウサギさんチームは手が足りず、リーダーの梓は困り果てていた。  沙織は熱もいくらか下がって、自分で動けるとのことだったので、余力のある華が一年生の看病に入ることになった。  その夜、家に帰った麻子は一人で夕食の支度をしながら、沙織に電話をかけた。コール音が二十回を越えても向こうは出ず、仕方なくメールを送ったが、三十分待っても返事がなかった。  いやな予感がした。メール魔の沙織は、いつもなら起きてさえいればすぐ返事をしてくる。眠っているならいいが、二十回鳴らしても起きないというのは……。 「沙織……何してる……」  携帯を持ったまま室内をうろうろしてしまう。麻子は沙織が倒れてから病気のことを調べ上げていた。インフルエンザは四日目でもまだ感染の恐れがある。今行けばきっと、うつってしまう。  でも、優花里も華も、今は手が離せないはずだ。頼れる人は誰もいない。 「ええい!」  我慢できなくなった麻子は家を飛び出した。  長い付き合いなので、お互いに合鍵も交換している。気休めのマスクをかけてから「沙織、入るぞ」とドアを開けると、むっとするような生暖かい空気が顔を撫でた。病人の部屋の匂いだ。  室内に入ると加湿器代わりの洗濯物が部屋干ししてあって、電気とテレビがつけっぱなしだった。ベッドに目をやった麻子は立ちすくんだ。  水色のパジャマ姿の沙織が、明るい色の髪を広げて斜めに突っ伏している。布団をかぶっておらず、ふらついて倒れ込んだという感じだ。それを見たとたんに、麻子は駆け寄って肩をつかんでいた。 「沙織! しっかりしろ!」  助け起こした顔は真っ赤だった。手で額に触れるとべったりと脂じみて熱い。しかしそれよりも、髪の毛がひんやりと重く湿っていることに麻子は愕然とした。 「んう……まこぉ……?」  うっすらと沙織が目を開け、いきなり激しく咳をする。麻子は顔を背けながら呼びかける。  「沙織、沙織! おまえ、髪を洗ったのか?」 「おっきな声出さないで……」きつく眉をひそめて、沙織がぼそぼそと言う。「あたま、いたい……」 「当たり前だ、ぶり返してるじゃないか。まだ治り切ってもないのに、なんでそんなこと」 「だってぇ、もう三日もお風呂入ってないんだもん、きもちわるくて……」言ってから、ふらりと目を泳がせる。「三日……四日かな? もういいかなって、思ったから……」 「この……」ぎりっと歯を食いしばって麻子は叱る。「ばか! ばか沙織!」 「ごめ……んぐっ」また、げほっげほっと苦しそうな咳。「あたまいたい……からだ、いたいよぉ、ぎしぎしする……」 「沙織……」  麻子は呆然とする。いつもは陽気に可愛らしく笑ったりすねたりする沙織が、酔っぱらったみたいに赤黒い顔で、うつろな目をしている。取り上げた手首も熱い。指もぐったりとして力がない。手を握っても反応がなかった。 「沙織、沙織」と声を掛けても、もう返事もしない。乾いて荒れた唇から、はっはっと不健康な熱い息を漏らしている。  どうしよう。どうすればいい……西住さん……秋山さん……五十鈴さん。  麻子は携帯を取り出しかけて、すぐポケットに突っ込み、おろおろと室内を見回し、ふらふらとうろついてから、ぴたりと足を止めた。  ――どうもこうもない、私がなんとかするしかないじゃないか! 「んっ!」  自分のほっぺたをばちんと左右から叩いて、気合を入れる。なんのための勉強だ、なんのための学年一番だ。こういう時に役に立たなくて、知識もへったくれもあるか。病人にしてやれるのは――。  くるりと振り向いて、再びベッドに近づいた。顔を覗きこんで声をかける。 「沙織、いま助けてやるぞ」  沙織は天井の隅をぼんやりと見つめるだけだったが、もう構わなかった。  まずはドライヤーとタオルを持ってきた。沙織の頭をベッドの縁へ引き出して、髪をしっかりと乾かす。「ああん……やぁぁ……」とむずかって頭を振るのを、「動くな」と押さえつける。  髪が乾くと体に触れて確かめる。汗ばんでいたら着替えさせようと思ったのだが、体は焼き芋みたいに火照っているのに、パジャマは乾ききっていた。よくない兆候だ。体温を下げる汗が出ていないのだ。  ベッドに上がって、沙織の下から掛け布団をひっぱり抜く。小柄で非力な麻子にとって、ふっくらとした柔らかい沙織の体を動かすのは、それだけで大仕事だった。暑い室温に大汗をかきながら、まっすぐ寝かせ直してやる。息苦しくなって、自分のマスクを剥ぎ捨てた。 「このっ……もうちょっと痩せろ、おも沙織っ」  赤外線体温計を耳に突っこんで測る。三十八・九度。冷凍庫から氷嚢をいくつも持ってくる。みほの手配と華の支度がありがたい。沙織の首と腋の下に挟みこむ。額に当てるよりも、大血管に近いそういう箇所のほうが効果的だと知っていた。  それはそれとして、額にも冷感ジェルを貼りつけてから布団をかぶせた。温めるのか冷やすのか難しいところだが、この辺はもう気分の問題だった。  吸い飲みにスポーツドリンクを入れて持ってくる。筒先を唇に当てて注いだが、多すぎてこぷっとあふれてしまった。拭きとりながら「こら、ちゃんと飲め」と声をかけると、えうう、とくぐもった声を上げる。苦しそうな様子にともすれば同情したくなるが、懸命にこらえる。  なんとかして水分を取らせたい。点滴でもあれば打ってやりたかったが、仕方なく、湿らせる程度にちょっとずつ注いだ。  それが済むと、もうできることがなくなった。 「はあ……」   床にへたり込んで、ベッドに身を伏せた。はっはっはっとせわしない息遣いが聞こえ、バラエティ番組の笑い声がかぶさる。今ごろ気づいてテレビのスイッチを切った。見るものといえば、上下する布団のふくらみと紅潮した横顔だけになる。チーズケーキの焼き色を連想させるライトブラウンの髪が目にかかっている。指を伸ばして、横へ梳いてやった。 「ばか沙織……」  すん、と麻子は鼻を鳴らす。伏せたシーツから、沙織の匂いがした。いつもお菓子めいた甘く楽しい匂いのする沙織。病気になった今は、薬と洗濯物の匂いがする。どっちにしろこの部屋の空気には、沙織の体内でいっぱいに増殖したウイルスがうようよ飛んでいて、自分が一息一息吸うたびに、喉に入りこんでいる。  知ったことかと思った。  そいつらが暴れ出して、自分が熱を出すのは二日も先だ。それまでこいつを守り抜いてやれたら、こっちの勝ちだ。 「くぅ……うう……」  沙織がうめいて、身をもぞつかせる。腕が痛いのか、背中が痛いのか。思わず布団の中の手を握ってやりながら、麻子はつぶやいていた。 「沙織、死ぬなよ」  鼻の奥がつんとなる。 「死んじゃやだ」  死ぬなんてありえない、と信じられたらどんなにいいか。人は死ぬし、この病気で死ぬ人もいる。こういうパターンでだ。弱った体で無理をして、病気を舐めて、一気にやられる。  このときばかりは、自分の知識が忌まわしかった。  コートを拾って羽織り直し、ベッドのそばに寄り添った。  熱を測って氷嚢を取り換え、熱を測って氷嚢を取り換える。その合間に、無力なだけの数時間の寄り添い。  これまでのどんな夜よりも長く、麻子は沙織の横顔を見つめた。  いろいろなことを思い出した。無線の勉強を教えてやったこと。免許が取れて得意そうにしていたこと。やめると言った自分を叱っていたこと。女の教官が来てすねていたこと。  それより前、自分よりも大泣きしてくれたあの日のこと。そしてそれより前、それより後、いろんなときに二人でいたこと……。  時間の感覚がなくなっていく中で、ふと思う。この先、こいつがどんな人生を歩もうと、それは今こうして自分が看病をしてやっているから、実現するんだと。たとえこいつが誰とくっついて、どこへ行こうと、その未来は自分が作ってやったことになるんだと。  その想像は、少しだけ慰めになった。いつも偉そうに朝起こしに来る沙織が、これから先は、麻子は命の恩人だね、と感謝してくれることになるのだ。  いい気味だ、と思った。  そんな想像のせいで、少しだけ気が緩んだのかもしれない。  いつのまにか眠り込んでしまい、はっと気が付いたのは、冷たい風がひゅうと体の周りで渦を巻いたときだった。  瞬きする。ベッドに氷嚢が散らばっている。いない。 「沙織!?」  愕然として振り向くと、玄関のドアが開いていた。  外へ出た麻子が見たのは、廊下の手すりにつかまって町を眺めるパジャマ姿だった。夜風が吹き付けて灰色めいたオレンジの髪がばさばさとはためく中、振り向いた顔には意思の感じられない弱々しい笑みが漂っており、漏れたささやき声は床にでも話しかけているみたいだった。 「やっと取れたんだって」 「――」 「あの、赤いやつ」  意味のわからないことを言って、んっ、と手すりに身を乗り出そうとする。  その瞬間、麻子は体ごとぶつかって、廊下に引きずり倒した。  「何してる沙織!」  冷たいコンクリートに横たわった沙織の体はもう、お湯の詰まった袋のようにぐんにゃりとしていた。夢を見ているようだった顔から、徐々に表情が薄れていく。  自分より大きな体を担いでベッドに戻すという、信じられないことをやってのけながら、麻子が感じていたのは、その体の異様な熱さと、心の底からの寒気だった。  震える手で耳に刺した体温計が示したのは、四十という数字。  高熱による異常行動。頭でそう分かっていても、麻子は恐怖を抑えられなかった。沙織が行ってしまおうとしている。どうしよう。どうすれば――。  テーブルのビニール袋をひっつかんだ。中身をぶちまけて薬をより分ける。あった。まさか使わないだろうとも思いつつも、ドラッグストアで買い物かごに入れた紙箱。アルミパックをつまみ出しながら計算する。アセトアミノフェン解熱剤の投与量は体重三十キロの子供で三百ミリグラム、沙織の体重は四十四キロだから必要量およそ四百五十ミリグラム。坐剤にして二個半、いや、もうここは三個だろう。三錠だ。  沙織に壁を向かせてパジャマのズボンを下着ごと引きずり下ろし、膝を押し曲げて胎児のような姿勢を取らせる。ふっくらとした形のいいお尻が蛍光灯に白く輝いた。動揺を押し殺して尻から太腿への肉をぐいと押し開く。美しい桃色の谷間が目に映るが、つとめて何も考えないようにする。  パチンと容器からはじき出した白い小さな砲弾を、谷間の中心で息づく朱鷺色のすぼまりに押し付けた。指が震えてぬるぬると滑り、つるっと部屋の隅へ飛んでいってしまう。薬は油脂でできているのだ。  パチン、ともう一錠。今度は飛ばないように慎重に。とがった先端を突き刺すと、花の形のすぼまりが飲み込まずに抵抗した。沙織のそこは思ったよりも湿り気に乏しくて滑らない。  麻子は焦る。 「沙織……力を抜け……」  反応はなかったが、くりくりとひねるように押し付けているうちに、潤みが生じた。薬が溶けてきたのだ。滑りがよくなったような気がして親指に力をこめた。ぬむり、と塊が奥へ沈んでいった。  よし、と思ったが、そのとき沙織がうめいて身動きした。 「……んやぁ、ァァ……」 「こら、暴れるな」  朦朧とした顔でごそごそと布団を蹴る。弱々しく手を上げて、ぱし、ぱし、と麻子を叩く。嫌がって抵抗しているのだ。んんっ……と太い眉がしかめられて、腰の筋肉に力が入り、指で押さえているすぼまりがひくついた。ぬりゅ、と白っぽい油が押し出されてくる。 「あっ、だめ……沙織……!」  乱暴なことはしたくないが、沙織の命がかかっていた。麻子は沙織に覆いかぶさって呼びかけた。 「出しちゃだめだ、沙織。我慢してくれ」 「うう……」 「薬だから! おまえを助けるためなんだぞ!」  はー、はーと曇った息を吐いて、沙織はぐったりと脱力していく。麻子の言葉が届いたのか、それともわずかな抵抗で体力を使い果たしたのか。わからない。  しばらく様子を見てから、麻子は手を離してもう一錠をつまんだ。ぬかるんだつぼみに押し付けて、溶けだす前にぐっと入れ込む。「……」と沙織がかすかにうめいて、背中を気持ちかたくしたが、もう抵抗はしなかった。 「そうだ……いい子だな、沙織……」  尻を出して体を丸める沙織を見守るうちに、麻子は大きな赤ん坊の世話をしているような気持ちになってきた。太腿から膝へと何度も手を滑らせて、ささやきかける。 「いい子だ、沙織。苦しいか……? もうすぐ楽になるからな……」  言いながら手を離して三つめの坐薬をつまんだ。顔を寄せて、ぐいと尻肉を押し開く。ぬかるんだ紅色の中心に白い溶け残りが見えた。最後の一錠をそこに押し付けて、人差し指の先でゆっくりと、指先が埋まるまで、押し込んだ。 「はぁ……はぁ……は――」  つかの間、沙織の息が止まった。  潜りこんだ麻子の指先に、沙織の体内のやけどしそうな熱さと、かすかな脈動が、ひくっ……ひくっ……と伝わってきた。潤みの中で小さな油脂の塊が溶けていく。  その短い数十秒のあいだ、麻子は不思議な気持ちを味わっていた。今までにないほど生々しく沙織の体を感じながら、体などなくなって、沙織の存在そのものとふれあったような感覚。細い指の一本を通じて、一人の女の子の命を支えてやっているような充足感。  やがて、指先に当たっていた塊が消えた。そこから去るのが惜しいような気持ちを覚えながら、麻子は指を引き抜いた。  ティッシュで押さえて下着とズボンを穿かせてやってから、洗面所へ行って手を洗った。ベッドに戻って沙織の寝相を整え、氷嚢を当て直して布団をかぶせると、ベッドにもたれてへたり込み、大きくため息をついた。 「はあ……」  ずっしりと疲れがのしかかってきた。無我夢中の十分間だった。  手を開いて指を見つめると、頬が熱くなった。この指で……沙織のあんなところに触れてしまった。小学校のころから、見たこともなかったのに。  いや、あれは必要な手当てだったんだ、それだけなんだ。麻子はぎゅっと目を閉じて、ぶんぶんと首を振った。   変なことを考えている場合じゃない。向きを変えて、また沙織を見つめる。顔はまだ赤い。薬はそんなにいきなり効くものじゃないとわかってはいたが――いや? 心なしか、少し呼吸が落ち着いてきたような……。  とにかく、できるだけのことはした。あとはもう祈るしかない。 「早くよくなれよ」  布団の下に入れた手をまた握って、麻子はつぶやいた。  水平線から差した曙光が海霧を貫き、海原を行く学園艦の姿を浮かび上がらせる。  小鳥のさえずりと大通りを走る車の音とともに、朝日が窓を叩いた。ワインレッドのカーテンに閉ざされた室内が、うっすらと明るくなる。  ぱちり、と二つの瞳が開いた。何度か瞬きしてからむくりと起き上がって、んんーっと気持ちよさそうに伸びをする。 「あーっ、よく寝たぁ……! 何時だ? いま」  振り返って枕元の時計を取ろうとした拍子に、ベッドに突っ伏した黒髪の頭に気づいた。 「……麻子?」 「んあ」  意外にも、返事があった。こちらを見上げて、どす黒いくまのできた目でしょぼしょぼと瞬きする。 「沙織」 「うん」 「生きてる」 「生きてるよ、絶好調だよ! なんであんたがいるの?」 「……よし」  一つうなずいたかと思うと、ふらっとのけぞってパタリと大の字に倒れてしまう。 「やだ麻子、ちょっと!? 何あんた徹夜してたの? 華は? ゆかりんは?」  返事はない。小さな姿はもう、すうすうと安らかな寝息を立てていた。        〇oooooooo〇 「こんばんはー」「お邪魔します」「失礼しますね」 「あっ、みんな。みぽりんも! もう出歩いて大丈夫なの?」 「大丈夫だよ、昨夜から平熱だったし。学校にはまだ出られないけどね」 「そっか、よかった。ゆかりんの看病のおかげだね!」 「うん、とってもがんばってくれて、助かっちゃった。ね、優花里さん」 「え、あっはい、その、いろいろお世話させていただいて、私も……がんばりました」 「華も、いいの? 昨日寝てないんじゃない?」 「いえ、昨夜はもう、きちんと家で休みました。一昨日の夜は山郷さんのお宅だったんですけど」 「じゃあウサギさんも、もういいのね?」 「はい」「他のチームも、生徒会が手配してくれて」 「よかったー、一時はどうなることかと思ったよ。私のせいでみんなに風邪うつしちゃったなんてさあ」 「風邪じゃない……インフルエンザだ……」 「あ、麻子さん起きてた?」  部屋の真ん中に敷いた寝床に、四人が目を向ける。おでこに冷えピタを貼った麻子が、赤い顔で沙織をにらむ。 「なんで呼んだんだ……呼ぶなって言っただろう」 「えーっでも華とゆかりんはかからないじゃない?」 「ワクチン打っててもうつることはあるんだ、余計な危険を増やすな……うぐ」  ごほごほと咳をする。あわてて左右からみほと優花里が手を当てる。 「ごめんね、麻子さん。心配だったから、つい来ちゃった」「私も気がかりで。そうですよね、余計なことでした」 「いや……気持ちはうれしい……」  小さな体を折ってしきりに咳をしてから、へはー、と麻子はのびてしまう。あんまり騒がない方がよさそうだね、とみほたちは顔を見合わせて苦笑した。 「じゃあ、私たちは早めに退散しましょうか。これお見舞いのケーキ……ですけど、今は食べられないかな」 「あっ、大丈夫! それは私がもらっとく!」 「沙織さん、病み上がりですけど、お任せして大丈夫ですか?」 「もっちろん、みんなにはいっぱい助けてもらったからね、今度は私の番だよ!」髪をポニテにして眼鏡をかけた、お世話焼きモードの沙織が、威勢よく答える。「麻子だって今朝注射打ってもらってきたからね。すぐ治っちゃうって!」 「そうだよね。来週は、みんなでまた練習できそうかな」  うなずき合うと、お大事にー、とチームの三人は帰っていった。  後に残った沙織はいそいそとお皿とフォークを出して、ケーキケーキ、と楽しげにパックを開ける。 「わー、フルーツ三種盛りのチョコクリームだ。うっれしい、寝てる間おやつなんか食べらんなかったからなー」 「さお……り……」 「ん? ほしい? ほしいかね? ダーメ、病人には上げられまっせーん」  見せびらかしながらぱくぱくと平らげてしまうと、ちらっと麻子に目をやって、ごそごそと自前のビニール袋を漁った。 「あんたには特別のやつがあるの……これっ」  ずりずりと膝ですり寄ってきた沙織が両手で差し出した小箱を見て、麻子は、うっと息を呑む。  お子様の急な発熱に、10個入り。 「麻子……あんた、やってくれたよねぇ……?」 「あれ……は」 「覚えてないと思った? 残念でしたー、ちゃんと覚えてます。こっちがなんにもできないのをいいことに、無理やりお尻ぺろんして……」ぽっと頬を染めて、身を乗り出す。「は、恥ずかしかったよっ! もう……!」 「し、仕方なかったん、だ……」こちらは熱のせいもあって赤面しながら、麻子は懸命に言い返そうとする。「あのときは、おまえがすごい熱だったから……」 「知ってる」  箱を下げて、ふっと優しい顔になったかと思うと、沙織が顔を寄せた。  麻子の紅潮した頬に、ちゅ、と唇を当てる。 「麻子、頑張ってくれてた」 「うあ……」 「はっきり覚えてないけど、沙織、沙織って泣き声が何度も聞こえた。……嬉しかったよ」  身を起こした沙織が、へへ、と微笑む。麻子は口をぱくぱくさせたが、布団の縁を両手でつかんで、すっぽりと顔を隠してしまった。 「泣いてない……あれは、つい勢いで……」 「強がらないの! 今度はあんたが病人なんだからね。いっぱい甘えて、しっかり治すんだよ? えーっと、これどうやるんだろ」 「それはいいから」 「ええー? だめよぉ、私もやってあげるんだから。さっ、お尻出して、こっち向けて!」 「や・め・ろ!」  にやにや笑う沙織に向かって、思わず叫んでしまう麻子だった。 (つづく)  付記:本作品の病状や処置、薬効には医学的な正確さがありません。     実際に発病したら医師・薬剤師などの指導を受けてください。