できればうまくいきますように  わたしは最近、二つのことを心配してる。  ひとつは、麻子がちっちゃくてかわいいこと。  もうひとつは、麻子がすっごくへそまがりなこと。 「麻子ー」 「なんだ」 「まっこまこー」 「だからなんだやめろはなせ」  長いばさっとした黒髪を、横から手でにぎにぎすると、麻子はうるさそうに払いのける。  夜の麻子んちの、こたつ。勉強会で、ノートを開いてる。かりんとうのお皿と湯呑みが二つ。私の左手には、さっきつけたテレビ。私の右手には、本を読む麻子がいる。  麻子は英語の宿題をとっくに終わって、今はなんか綺麗な表紙の小説を読んでる。だから勉強会といっても、私がだらだらノートを埋めてるだけなんだけど。そんなのさっぱりやる気にならなくて、手遊びに麻子をいじる。  切るのが面倒だといって伸ばしっぱなしにしてる黒髪を、さらり、さらりと手で梳く。麻子は案外文句を言わない。麻子のさわり方には私しか知らないコツがある。だまって静かにさわること。  くしゅくしゅ、と指先で頭を揉むと、「んっ……」と小さく目を閉じる。  麻子はちっちゃくてかわいい。  顔小さいし口も小さい。目だけは切れ長で大きくて、とてもきれいで、私よりいろんなものを見てる。くやしいけど、美人かどうかで言ったら、麻子は一番の美人だと思う。ぶっきらぼうな性格と中学生並みにちっちゃい背丈のせいで、みんな気づいてないと思うけど。  髪から肩を撫でる。肩、細いし、手もちっちゃい。力がないのは麻子の弱点。でも動きはすばやい。しゅっしゅっ、て動物みたいに動く。なんか妙にジャンプ力がある。  本を開いてる手の甲を、指の背でコンとつつく。「なんだ」とまた、麻子が言う。 「何読んでるの」 「古野まほろ」 「おもしろい?」 「あふれるロマンとえげつない役人気質。個性がすごい」 「ふーん……役人? 麻子お役人になるの?」 「なんでそうなる」 「麻子頭いいし。お役人になったらお給料いっぱいもらえるかなーって」 「お給料……」ちょっと上を見つめて、すぐ首を振る。「お金もうけなら役人は向いてない」 「じゃ、何ならもうかる?」 「クラウドファンディングで新規起業とか。渡米して資格とって開発とかコンサルとか」 「麻子アメリカ行っちゃうの!?」 「行かない」うるさそうに手を振って、その手でテーブルの上をもそもそ探す。「お金には興味ない」 「あ、そうなんだ……ならいいけど」  私はお皿のかりんとうを取って、ちっちゃな手に乗せてあげる。麻子はぽりぽりかじる。この間ずーっと本から顔も上げない。またすぐ手を伸ばしたから、今度はかりんとうを口に寄せてあげる。 「ん」 「うん」ぽりぽり。  二つ、三つ。ちっちゃな口でぽりぽりかじる。 「リスみたい」 「うるさい。お茶」 「んー」  急須を取ったら軽かった。立ち上がって、流しで淹れ直してくる。 「はい」 「ありがとう。うん」くぴっ、と熱いお茶を飲んで、うなずく。「沙織のお茶はうまい」 「お父さんみたい」 「誰がお父さんだ」言って、ようやく顔を向ける。「そんなことより、宿題、終わったのか」  ますますお父さんみたい。私はてれーっとテーブルに腕を投げだす。 「しらなーい。わかんなーい」 「だらだらやってるから集中力が切れる」ノートを引き寄せた麻子が、溜息をつく。「やると思った。その象は平らな彼と違ってマンションに住んでいました。違う。この場合のマンションは邸宅。彼が住んでるのはメゾネットだ」 「渡米すればあ?」 「するか」  ちょこちょこ書き込んでくれたけど、見る気なんか起きない。テレビから恋愛ドラマの痴話げんかが流れてくる。私は画面を見てぼんやり言う。 「ギッシーとNAMIHA、ほんとに付き合ってるのかなあ」  麻子は返事もしない。今ブレイク中のイケメン俳優と美人女優なんか、本にくっついた埃よりも興味がないみたい。  そのとき麻子が、ぶるっと肩を震わせて、「んむ……」と眉根を寄せた。 「ん?」  私はピンと来て、麻子の肩をがっしりつかんだ。うっすらと笑いながら「ところでさあ麻子、こんな話しってる? 冬の夜に二人の女の子がテレビ見てたんだけどさ、そのとき玄関のドアががんがんって叩かれたのね」 「へ」 「ところが見にいったらガラス戸の外には誰もいなくてぇ、変だなーおかしいなーって部屋に戻ったの。そしたらぁ、そこにいたはずの友だちがなぜかいなくなってて……」 「わー、わーわー! やめろ!」  あわてて麻子が口を塞ごうとする。私はひょいとその手を避ける。 「隙間風がぴゅーっと入ってくるの。あれっ……て窓のほうを見るとぉ、靴下を履いた足が、ずるっ、ずるっ……て外へ」 「やめろってば! トイレ行けなくなるだろう!」 「えっ、行きたかったの? へえー、偶然ー」  もちろん知ってる。麻子は、ちっちゃいせいでお手洗いが近い。 「ごめんねー変な話聞かせちゃったかな? もちろん冗談だからねー行ってらっしゃい」  ひらひらと手を振ると、うーっとにらんだ麻子が、私の手をつかんだ。 「来い」 「え?」 「一緒に来い。変な話したバツだ」 「えー、冗談なのにぃ? 麻子ほんとに怖くなっちゃった?」 「うるさい、ここでおしっこするぞ!」  泣きそう。そしてほんとにしそう。  誰にも言ってないけど、麻子ははほんとにする。小学校のころ私の部屋でしちゃったことがある。  あれは私が悪かったからなぁ。行きたいって言ってるのに焦らしたから、我慢できなくて漏らしちゃった。私が初めて麻子を泣かせちゃったことだった。  苦笑して立ち上がる。 「はいはい、一緒にいこ」 「このばか。ばか沙織」  ぶすぶす文句言う麻子を連れて、玄関に出た。麻子はトイレに入ったけど、手を離さずに私をひっぱりこむ。 「ちょっと、ドア閉めれないよ」 「そこ立ってろ。後ろ向いて」 「えーっ? 何それぇ、ありえなくない?」 「それぐらい怖かった! いいからそっち向いて、耳ふさいでろ」 「片手じゃ無理よぉ……」  仕方なく背中を向けると、ごそごそと脱ぐ気配がしてから水洗がじゃーっと流された。「んっ……」て小さな声がする。ふわんと漂う甘からい匂い。ああもう。麻子ほんとにこのまましちゃった。  できるだけ聞かないふりをしているうちに、からからごそごそと音がして、二度目の水音。「いいぞ」って言われたけど、顔を見られなかった。  もう……いくら幼なじみだからってさあ。  トイレを出ると、麻子は手を洗いながら、くしっとかわいいくしゃみをした。  部屋へ戻ってこたつに入ったけど、また、くしっくしっとくしゃみする。「沙織のせいで体が冷えた」とほっぺたを膨らませる。一人で行ったって冷えるのは同じなのに。  暖房はこたつと、すみっこの小さな電気ストーブだけ。麻子の部屋は少し寒い。 「しょうがないなあ……」  私は場所を移って、麻子の後ろからぽふっと抱きつく。こたつ布団をかき寄せて、体の左右に足を伸ばした。 「ほら、これであったかいでしょ」 「お、おお……」 「今度は一人で行ってよね。もー、トイレの中まで引っぱりこむなんて信じらんないよ。かっこ悪いよ?」 「別にいいだろ。沙織だし」 「私だったらどーでもいいっていうの?」 「そんなことは言ってない」 「私だって恥ずかしかったよぉ……」見てはいないけど、聞こえてたし。「一人で行けるようにしないと、彼氏ができたとき困るでしょ……」  そう言ったらなぜか、太腿をぎゅっとつねられた。「いった、何!?」と横顔を覗くと、「知るか」とそっぽを向かれた。 「もぉー、なんなのよー……」  ちょっぴりうんざりしてると、麻子がうつむいて何か唸っていたけど、手を伸ばして急須からお茶をいれた。「ん」と後ろの私に差し出してくる。 「なに? 私も漏らしちゃえって?」 「違う。これは」ぼそぼそと低い声で言う。「お詫び。悪かった」 「あ、そう……」  私は受け取ってお茶を飲む。もう濃くなっちゃってたけど、まだあったかかった。 「かりんとう、食べるか」 「たべう」 「ほら……これ」 「んー」  なんだか妙に甲斐甲斐しく取ってくれる。振り向く横顔がちょっとしおらしく見えて、腹が立ったのも収まっちゃった。  子どもみたいな体をぎゅーっと抱き締めて、頭に頬ずりする。 「まこまこー」 「なんだ、もう」 「かわいいなー、まこまこは」 「や・め・ろ」  歯をむいて嫌そうな顔をするけど、もうあまり暴れない。髪の中の耳たぶにさらっとほっぺたが当たると、そこはカイロみたいに熱かった。あ、なんか照れてる。  ごうっと家の外で風が吹いて、ガタガタッと窓が鳴った。「ひ」と硬くなる麻子の体を、すっぽりふんわり包んであげる。「大丈夫だよー、こわくないよー……」とおなかを撫でてあげると、ふにゃっと柔らかくなってもたれてくる。  へそ曲がりでキレッキレで、でも怖がりで寝ぼすけで。拾った子猫みたいなちっちゃな麻子。いつまでも抱っこして、なでなでしてあげたい。昔から、麻子と二人きりでほんとうにくつろいでいるときは、よくこんな気分になった。  だから最近、麻子が心配。 「麻子さー」 「ん」 「麻子かわいいじゃん」 「はぁ……?」 「知ってるー? 麻子、男子のファンめちゃめちゃいるんだよ。ネットとかでミニまことか、ねこまことか呼ばれてぇ、隠し撮り写真とか流れててー」 「うげ……」 「まあ戦車道やってると? そういうのすごいあるし、あんこうみんなファンいるけどー、麻子のはすごいんだって。なんかこう、尖ったファン? マニア? みたいなのが」 「やめろ……」声だけで、一リットルぐらい血を抜かれたみたいに青い顔してるのがわかる。「そういうの、嫌だ。寒気がする……」 「うんうん、だよね。それはわかるよー。私もマニアみたいな人は苦手。だけどさぁ……」  つけっぱなしのテレビに目をやる。さっき痴話げんかしてた二人が、なんやかやあって誤解が解けたのか、熱く見つめ合ってる。 「たとえば、ギッシーみたいなのは?」 「ぎっしー?」 「あの人。江岸リョータ君。イケメンでー優しくてー、いつもちょっと悲しげで」 「男子か」 「男子っていうか俳優だよ。マニアじゃないよ。そういうのは?」 「そういうのはって、どういう意味だ」 「タイプじゃ、ない? ないね、うん」  半眼になって、つまらなさそうな顔。でも私は続ける。 「じゃあ、どういうのがタイプ? 顔とかじゃなくてもさ。性格とか、特徴とか」 「……なんでそんなこと聞くんだ」 「なんでじゃないよ、前にもみぽりんのうちで話したじゃん。私たち戦車道女子としてはぁ、いつなんどき彼氏ができてもおかしくないっしょ? 麻子の基準が厳しいのはわかるけど、ひょっとしてある日突然、理想にぴったりの人が現れるかもしれないじゃない! 麻子の前に現われなくても、私の前に出てくるかもしれない! そしたらぁ、協力とかしてあげられるかなって……」 「沙織は」振り向いた麻子は、なんだか静かな顔をしてた。「私がもし男子を好きになって、付き合いだしたら、どうする」 「どうって……応援するよ?」 「ほんとにか」私の胸元に目を落とすと、もそっと身体を回して、抱きついた。「私が、どこかの男子とこうやって抱き合っても、いいのか」 「う……」  麻子にそんなことを言われるのは初めてだった。具体的に想像してみると、なんだかすごくもやもやして、落ち着かない気がした。  でもそれは、麻子の好きなタイプがわからないから。誰を好きになるかわからないからだって、自分に言い聞かせて、私は答えた。 「それはね、変な男子につかまって、さらわれちゃったりしたら、私イヤだよ? すごく心配! でも、だから聞いてるんだよ。麻子が理想の男子とそんなふうになったら! 私、応援してあげなきゃねって思うわけよ」 「私は――私の理想のタイプは――」 「うん? どんなタイプ? 言ってみ?」  麻子は私のおっぱいの間でしばらく顔をしかめていたけど、「沙織――」とつぶやいて、「沙織は」って続けた。 「沙織のタイプは。どんな人なんだ」 「あっ私?」こっちから言ったら、呼び水になるかも。「私はね、えっともちろん、かっこいい人がいいよ。頼りになって、困ったときに助けてくれて。顔は、どっちかというと濃いよりも薄めがいいかな。だけど影の薄い感じじゃなくてね? 言うべきときはしっかり言ってくれて、怖がったりしなくて堂々としてて。お金は、あってもなくてもいい!」 「怖がったりしない……か」 「そうそう。戦車砲ドーン! と当たったときに、わーって怖がっちゃうような人はダメだよね。それに……あっ、欲張りかもだけど、車持ってるといいなあ。助手席ドライブ、超してみたい……」 「ふうん、車……」 「そう。やっぱり包容力だよね! か弱い乙女を包んで、守ってくれるみたいな男の人がいいな……!」  うわあ、憧れる。彼氏の隣に乗せてもらって、夜景の見えるハイウェイをドライブして。キラッと白い歯を光らせた笑顔で、沙織ちゃんどこへ行きたい? なんて言われたら……!  ズボッ、と麻子が立ち上がって、私は後ろへひっくり返った。 「うわ」  ずんずん一人で部屋を出ていく。「麻子……?」と待ってるとバシャバシャと音がして、濡れた顔で戻ってきた。 「下らなさすぎて眠くなった。さっさと宿題の続きをやるぞ。テレビ消せ、妄想しまえ」 「え、なに?」 「もう八時だ」時計を見て、ずかずかすぽんとこたつの横に座る。「残り、三十分で片付ける。終わったらさっさと帰れ。夜道は危ない」 「う、うん……」  しまったなあ。恋愛話、やっぱり嫌だったか。  ノートに目を戻しながら、ちらっと麻子の冷たい横顔に目をやる。  私は、あんたが心配なんだよ? 麻子……。      〇oooooooo〇  電話が来て、行っていいかと言われたときには、優花里はもう半分ほど事情の見当がついていた。ほんの十分でやってきた麻子は青ざめた顔で震えており、怪談聞いたあとで夜道を歩くのは怖かったと言ったが、怖さと寒さのためだけではなさそうだった。  部屋にあげて話を聞くと、思った通りだった。 「それは、きつかったですね……」 「沙織は悪くない」むすっとした不機嫌そうな顔で、麻子がぼそぼそと話す。「あれが普通なんだ。私が、子供っぽいから」  声をかけてどうなるものでもない。優花里はただ、遭難者をいたわるみたいに、毛布を渡して暖房を強めてやった。 「背中、貸してくれ」 「背中ですか?」  座りこんで背を向けた優花里に、麻子が後ろ向きにもたれる。んっ……と背筋を反らして目を閉ざし、はーっとため息をついた。 「助かる……寒くて死にそうだった」 「武部どのほど柔らかくはないんでしょうね、私」 「うん、比べものにならない」さらりと言ってから、少しだけ穏やかに言った。「でも、あったかい」 「はい」 「泊まってっていいか」 「えっと」ちょっとだけ考えてから、優花里はうなずく。「いいですよ。ゆっくり休んでってください」 「西住さんはいいかな」麻子がやや心配そうに訊く。「あの人、気にしないか」 「ええまあ、しますけど……」言って、優花里は苦笑する。「それは忘れちゃってください。きちんと話せばいいって言われてますから。やましいことはないですしね」 「だな」麻子が微笑む。「秋山さんが友達でよかった」  その夜の会話は、それがすべてだった。先に布団を敷いてから優花里が下へ行ってこまごまとしたことを済ませてくると、小さな姿が布団にくるまって眠っていた。 「元気出してください、冷泉どの」  そうささやくと、優花里は隣に並べた寝袋に入った。    (つづく)