彼女は知らないだろうけど  よく晴れた風のない日。赤レンガの戦車格納庫の裏で、積み上げられた古い枕木の上に、女の子が一人腰掛けて、手元を見ている。  離れたところからそれを見つけた沙織が、手を上げて声をかけようとする。 「いたいた。ゆかりーん――」 「あ、待って」  一緒にいたみほが止める。じっと女の子の姿に目を凝らす。空を見て、まわりを見回して、ささやく。 「ちょっと来て、沙織さん」 「えっなに? あれゆかりんだよ?」 「いいから」  格納庫の中に引っぱりこむと、ひそひそとささやく。 「ほっといてあげよう」 「えーっ、なんで? 呼んであげようよ! おやつもあるんだし」  沙織は驚いて、お菓子袋の入ったかばんをぱんぱんと叩くけれど、みほは首を振る。 「あれって、たぶん、一人でいたいと思うの。本読んでたし。楽しそうだったし」 「本読むよりみんなと話すほうが楽しいに決まってるじゃん! 仲間外れにするなんてよくないよ!」 「そういうことじゃないよ。みんなでおしゃべりするのは楽しいけど、たまーに、そうじゃないときもあったりしない? なんとなく、ぼーっとしたかったり」 「ないない、私は絶対お友だちといるほうがいいー! わかんないよみぽりん!」 「うーん、沙織さんはそうなんだ。でも……」みほはちょっと困った顔で小首を傾げる。「優花里さんは、たぶん違うと思うの。今日は風がなくてあったかそうだし、あそこも気持ちよさそうだし。だから、ちょっとだけ……ね?」 「ふうん? まー、そこまで言うなら……」ぽりぽりとこめかみをかいた沙織がうなずく。「そうしてみるけどさ。ほんとにいいの?」 「大丈夫! あっ、お菓子は残しておこうね」 「もちろんだよ! でもなあ、うーん……」      〇oooooooo〇 「ということが、あったんだけどっ!」  ずい、とテーブルに両手を置いて、沙織が身を乗り出す。  夕方の待機室。そういう部屋が、ちょっと前から開かれた。格納庫の左舷側の扉の中にある、元は事務室だったらしい部屋だ。埃まみれの蜘蛛の巣だらけのガタガタで、夏のあいだは誰も入らなかったけれど、寒くなって戦車のそばにいるのもつらくなったので、掃除して古テーブルや椅子を持ちこんで、みんなの居場所にした。  薪ストーブが赤々と燃えている。それなりに広さがあるのでテーブルも十卓近く入った。他のチームの人間もちらほらといる。あんこうチームのテーブルには三人。  今いるのは沙織と麻子と華だ。沙織が配ったチョコクッキーをぽりぽり食べながら、華がうなずく。 「ああ、それでお昼は優花里さんがいなかったんですね」 「そうだよ。みぽりんが意地悪するとは思わないけどさー、聞いてもよかったと思わない? こっちおいでーって」 「私はわかるぞ」と麻子。べてっとテーブルに伏せている。沙織が目を向ける。 「わかるって何」 「一人でいたいとき」 「へー?」  両手で包んだ湯呑みの番茶を、ずずーっとすすって、麻子はぼそぼそ言う。 「別にみんなが嫌いでも、うっとうしいわけでもないが、本読んだり書き物したりは、一人のほうが進むときがある。西住さんはそれがわかったんだろう。沙織と違って」 「それ、私が鈍感だって言ってない?」 「わりと」 「あーっ、ひどい!」 「怒るな。おまえは鈍感でいい。鈍感だからがんがん踏みこめて、誰とでも仲良くなれる。西住さんと友達になれたのはそのおかげだろ」 「そういえば、みほさんは最初すごく戦車道を嫌がっておられましたよね。それを沙織さんがナンパして言いくるめて手ごめにして、無理やり復帰させてしまったんでしたっけ……」 「そこまでやってないし! ていうか華、あんただって一緒に誘ったじゃない、他人事みたいな顔で言わないで!」 「そこは結果オーライだとして」軽く流して、麻子がコンと湯呑みを置く。「常に五人一緒でいようっていうのは、逆にプレッシャーになる。一人でいたそうに見えたら、尊重するほうがいい」 「えええ……でもさあ……」  まだ納得いかないらしく、沙織はトレードマークの三本眉をひそめて、お菓子皿をざらざらかき回す。  華が顔を覗く。 「沙織さんはチームが疎遠になってしまうのがいやなんですよね」 「そうだよ」 「そこは、信頼していいんじゃありません?」 「信頼?」  沙織が手を上げると、華はしとやかな手つきでお菓子皿をさらりと撫でて、微笑む。 「私たちみんな、もう、ちょっとやそっとのことじゃ壊れないと思います。一人でいたって、遠くへ行ったって、心は五人一緒。ね?」 「う、うん……」  華の笑顔に瞬きし、うんうんとうなずいている麻子に目をやってから、沙織は「そうかぁ……」とため息をつきかける。 「信頼って言われたら、もちろん信頼してるしね。ほっといたぐらいじゃ壊れないか……ってあれ? 華?」 「わかっていただけて嬉しいです」  口元に手をやって華は目を細める。菓子皿は空になっている。        〇oooooooo〇 「と、いうことがあった」 「は、はい?」  麻子の話に、優花里が面食らって声を上げる。  夜の秋山理髪店、その店頭だ。営業時間はとっくに過ぎているが、麻子が突然電話してやってきたのだ。中に入れて客用のソファに並んだ。なんでこんな時間にと訊くと、夜は普通に出歩いてる、といつもの平然とした顔で返した。   散髪台の蛍光灯を一つだけつけてある。店のこちら側は薄暗い。 「今日は秋山さんと会わなかった。これは聞かせておこうと思って」 「それはありがたいですけど……わざわざ出向いてもらわなくても、電話でよかったんじゃ」 「電話だと顔が見えない」 「は、はあ」 「いっぺん二人で話したかった。昼はみんながいる」 「二人で……」  優花里は頭半分低い麻子の横顔を見つめる。キリッとした小作りの顔を、離れた蛍光灯が青白く照らしている。朝方のナマコのようなぐったりした様子とは別人みたいだ。笑うと可愛いのは知っているけれど、普段の近寄りがたい無表情にも、整った鋭い魅力がある。まるで――ええと――強力な機関砲を備えたすばしこくてちっちゃな、ルクス偵察戦車みたいに。  チームの仲間ではあるけれど、こんな形で話したことは今までなかった。優花里は緊張してしまって、膝に拳をおいてもじもじする。 「みほどのが、昼間に気を遣って下さった、と」 「そうだ。西住さんの言う通りか」 「あ、はい。月刊パンツァーの発売日だったんでー、つい夢中で読んじゃってました」 「秋山さんらしい。戦車、そんなに好きか」 「大好きですね。あのいかつい造形、とてつもない火力、生き物みたいに滑らかに地面に追従していく履帯の回転――あっすみません。つい、えへへ」 「別にいい」 「えーと、そのっ。冷泉どのは? 戦車、好きですか?」 「普通」  少し残念な、でも予想通りの返事だった。しかしそれでは愛想がなさすぎると思ったのが、やや早口で付け加えた。 「嫌いじゃない。単位のためだけじゃない。戦車は努力しただけ応えてくれる。限界まで頑張らないといけない。学校の授業ではあそこまで力を出し切れない」 「出し切ってなかったんですか? 学年一位なのに?」 「あんなの教科書に書いてある通りに答えるだけだ」 「だけって。その、だけができないんですよ。すごいですよぉ」 「みんなのおかげだ。沙織と五十鈴さんと秋山さんと――」 「いえ、私なんか」 「西住さんの」こちらを振り向く。「おかげだ」 「はい……」 「嬉しいか」 「それは、もう……」  優花里はにやにやしてしまって、首の裏をかく。  そこで麻子は、なぜかふわりと表情を和らげた。楽しそうに続ける。 「西住さんはすごい。みんなに優しい。それに敬意を失わない。絶対に怒鳴らない。泣き言を言わない。与えられた条件で最良の結果を出す。いざとなれば恥じらいも捨てる。そしてたぶん、私より頭がいい。私はあんな人、見たことがない」 「えへへへ、へへへ」  優花里は赤くなって頭をかき回す。麻子はさらに続ける。 「でも本当は弱い。よく震えてる。泣きそうなときもある。中身はすごく子供っぽい。ボコ。あれはなんだ。あんなかっこ悪いヒーロー、見たことがない。はっきり言って趣味は最悪だ」  優花里は次第に戸惑って、手を止めた。 「あの……冷泉どの?」  麻子がじっと見つめる。 「でも、そこが可愛いか」 「そ、そうなんですけど……えっと」  ただ単に褒められているのではないらしい。麻子が長々としゃべるということ自体が驚きだが、今日はそれ以上に、雰囲気が変だ。優花里は薄汗を浮かべる。 「どういう、お話しですか……?」 「沙織はどうだ」低い声。「秋山さん、沙織は好きか」  唐突な質問に、優花里は考えこむ。何か言おうとして、遮られる。 「評価してくれてるのはわかってる。沙織は無線の免許まで取って、立派に働くようになった。戦車の見分け方も覚えたし、作戦の手伝いもする――」 「そっそれに料理がとてもお上手です!」優花里は身を乗り出す。「面倒見がいいしみんなにも小まめに気を遣ってくれますし、今日だって私を呼ぼうって言ってくれたんですよね? 感謝してます!」 「尊敬してるか」 「そ」  優花里は言葉に詰まり、次の瞬間には、しまったと思う。  自分の心にないものを、言い当てられた気がした。 「それは……」 「秋山さん、最初のころ、しょっちゅうすごい顔をしてた」麻子がまた前を向いて、平板に言う。「沙織がクッション買ったり、彼氏がほしいとか言うたびに。うぎぎって顔で沙織をにらんでた」 「にらんで、ましたか」 「自覚、なかったか」 「はい……すみません」  うつむいて答える。今度は別の熱さが頬を覆っていた。 「まあ、わかる」あっさり麻子はうなずく。「私でもあれは少しうっとうしい。沙織は大事なことがわかってない」 「大事なことっていうと……」 「ええと例えば」ちょっとだけこめかみに指を当てて、「どういうことだと思う」 「ええと」偶然真似したような感じで、優花里はこめかみをつつく。「ここが女子高の学園艦だってことですかね。いるのは女の子ばっかりで、男子なんかほとんどいないから、いくら騒いでも彼氏ができない、みたいな……」 「それも大事だな」麻子は自分の細い太腿を両手でさする。「本気で彼氏がほしいなら大洗を出て行かなきゃいけない。気づいてなくて助かる」 「言ってみたらどうですかね? 陸のほうが男子がいますよって」口にしてから馬鹿なことを言った気がして、優花里は腕を組む。「あー、でもそんなのとっくにわかってますよね、武部どのも」 「言わないでくれ」じろりと麻子がにらむ。「案外、そういうことに気づいてなかったりするのが、沙織だから」 「そ、そうですか? 言っちゃったらあんこうチームが崩れちゃいますもんね、はは」  優花里は笑ってみせたが、麻子は合わせてくれなかった。何やらじっと見つめている。  ふと、優花里は何かを感じた。はっきりしたものではない。うっすらとした直感だ。 「あの、冷泉どの、もしかして」  麻子が黙って手のひらを突きつけた。優花里は口をつぐむ。なんとなく、直感が当たった気がした。 「どう……言ったらいいのかな」  一段と聞き取りづらい口調でささやく麻子の頬に、かすかな赤みが差している。 「秋山さんって、前は友達いなかったな」 「とも」ぐさっと来たが、なんとか笑顔を保った。「ええまあ……はい」 「私もだ」  優花里が真顔になると、麻子も同じような顔でうなずく。 「敬遠されてたし、作らなかった。このへん、秋山さんも同じだと思うが」 「あっ、わかります……」うなずいてから、手を振る。「でも最近はいっぱいできましたよね。冷泉どの、風紀の人たちと仲良くなりましたし」 「あれは」ちょっとだけ驚いたような顔で、「なったが。でも最近だ。そうでなくて、昔の話だ」 「はい……」 「沙織だけは、ずっと来てくれてる」  少しずつ目を逸らしていく麻子を、優花里は見つめ続ける。 「ただでさえ私は人づきあいが悪いし、そのうえ家のおばあや親がうるさかったから、たまに誰かが来ても、いつもびっくりして逃げていった。でも沙織はそうじゃなかった。全然怖がらなかった。親にもおばあにも気に入られてた。親が亡くなったときには――」  少し、言葉が途切れる。優花里がポケットからハンカチを出そうとすると、いい、とうるさそうに手を押さえられた。 「私よりもわあわあ泣いた。十倍ぐらい。あんなに泣く人間は見たことがなかった。おかげでこっちの涙まで引っこんだ」 「冷泉どの……」 「沙織がいたから、ほかの友達がいなくても平気だったんだ」  優花里は手の中のハンカチを握りしめて、うつむいた。 「すみません」 「謝らなくていい。秋山さんはまだ沙織との付き合いが浅いから、しょうがない。というか……」消え入りそうな声。「本音、言っていいか」 「はい」 「秋山さんと張り合わなくていいのは、助かる」  麻子はうつむいている。磁器みたいに透き通った頬が、ピンクに見える。  優花里はおずおずと手を伸ばして、麻子の片手を取った。 「なんか、わかった気がします」 「うん」 「それで、うちに来てくれたんですか?」 「まあ、そうだ」 「みほどのには、話しづらかったですか?」 「なんとなく」うなずいて、麻子は長い黒髪の一筋を、指先でくるくるつまむ。「西住さんは、こういう話は苦手な気がする」 「一生けんめい考えてくれると思いますけど……」 「かもな。でも――」優花里に握られた手を、麻子はきゅっと握り返した。「誰かに憧れて好きになる、ってことを、わかると思うか。西住さんが」 「……ああー」  優花里は深くうなずいて、麻子の手をしみじみと握り締めた。 「そうですよね、それなんですよね。冷泉どの……」 「痛い」 「あっすみません」 「もっと聞いていいか」 「はい、なんでしょう?」  優花里は顔を寄せる。麻子が声をひそめて言う。 「どっちから言った?」 「それは――」優花里は口ごもったが、真剣な目で見つめられると、麻子がこんなことを話せるのは自分だけなんだと気づいて、「言います」とうなずいた。 「私がぽろっとそれっぽいことを言っちゃって、逃げようとしたんですけど、引き留められて。私もだよって……」 「すると大体同時か」 「はい」 「お互い似た気持ちだったと」 「はい……幸運なことに」 「ほんとに幸運だな。キスとかは」 「それ聞いちゃいますか!?」 「参考にしたい」 「えっと」  あわあわと、まるでみほの態度がうつったみたいに目を泳がせてから、優花里は消え入りそうな声でつぶやいた。 「してます……」 「しました、じゃないのか」 「う、え、そ」 「その分だともっといろいろしてそうだな。ああ、もういい」  真っ赤になって優花里がうつむくと、麻子は手を離して、ふん、と眉を上げる。 「うらやましい」  つぶやいて、ちょっと首をかしげる。 「いや、うらやましくない。私はそういうことをしたいわけじゃない。それが今わかった。秋山さんたちは、それがしたいと。ふー……」  軽くため息をつくと、麻子はさらりと言う。 「恋か」 「は……」 「それって、どんな気持ちだ」 「えっそれはですね」自分がそんなことを尋ねられるなんて、考えたこともなかった。「あの人のことを考えると、どきどきして、ふわーっとなって、幸せで……」 「具体的に頼む」 「具体的、ですかぁ」苦笑した優花里は、よく考えて口にする。「私なんかが言うのもアレですけど……考えられてるって、考えるって、ことですかね」 「考えられ……主語は。あと目的語」 「みほどのが私のことを考えてるってことを、私は考えます」噛みしめるようにゆっくりと優花里は言う。「それで、私が考えてることを、みほどのも考えてくれるんです。合わせ鏡みたいですね」 「……なるほど。今日のやつか」 「あっはい……」 「ふうん。……私が考えてることを、沙織が考えて。沙織が考えてることを、私が……」  麻子は足を組んで、頬杖を突く。 「ないな」 「あの、もちろん武部どのも、冷泉どののことは」 「考えてると思う。でもそういうことじゃない」麻子は語尾をあまり上げない。今は特にそうだった。「秋山さんと西住さんみたいな形じゃない」 「冷泉どの……」 「沙織が好きなのは男子だ。沙織はそういうやつだ。それはわかってる」  優花里はなんだか胸が詰まって、また麻子の手を取りたくなったが、麻子はじっと頬杖を突いたまま浮いた足をぷらぷらさせており、取り付く島もない。それは慰めてもらいたいなどと彼女が思っていないからで、そんな麻子を、優花里にいつにも増して尊敬してしまった。 「強いですね……」 「どこが。甘えん坊だ」揺らしていた爪先を止める。「恋でもないなら、これはただのそういうことなんだろう。私は沙織に甘えてる。ずっと甘えていたいと思ってる」  振り向いた麻子が、小さく微笑んだ。 「情けないな、私」 「いいえ」  優花里は強く首を振る。 「そういうことって、あると思います。友達か、恋人かって、きっぱり区別つけなきゃいけないわけじゃないですよ! 冷泉どののそういう気持ちも、私はアリだと思います!」 「そう言ってくれると嬉しい。秋山さんに相談してよかった」  うなずくと、唐突にすっと立ち上がる。 「片付いた。帰る」 「もうですか?」 「ああ――あ、でも、また来ていいか」 「もちろんです!」  大きくうなずくと、優花里は店のドアを引き開けてやった。  路上に出た麻子が、コートの上にマフラーをまき直して髪を払い出す。子供のように小さな背中にはらはらと黒髪が流れ落ちる。けれどこの小さな人は子供のように無自覚な甘えん坊ではなくて、ずいぶんとはっきりと自覚した甘えん坊になったのだった。  胸を張る麻子に、優花里は思わず言葉をかける。 「あの、冷泉どの! 冷泉どのは――」 「ん」 「かっこいいです! 素敵です! がんばってください!」  麻子は眉をひそめている。励ましのつもりが、的外れだったことに優花里は気づく。この人が喜ぶ言葉は。自分がさっき言われて嬉しかったのは――。 「あのっ、私! 武部どのを見直しました! 冷泉どのに言われて、武部どののよさがわかりました。友達思いで、優しくて、ええっとそれから――」 「それから、ひとつ大事なことを忘れてるぞ」  麻子は、肩越しに得意げに目を細める。 「沙織は世界でいちばん可愛い」  歩き出した背中が角を曲がるまで優花里は店に入らない。      〇oooooooo〇 「と、いうことがありまして」 「え、麻子さんが……」  砲弾を差し出したみほが、ちょっと目を見張った。  次の日の昼過ぎ。午後の練習のために格納庫で四号戦車の準備をしている。もちろん優花里は昨夜のことをすべて話したわけではない。麻子が来て、みほの気遣いを伝えてくれた、とだけ。  それを聞くとみほは、少しだけ心配そうに確かめる。 「うん、そういうつもりだったよ。優花里さんがもしみんなといたかったら、待機室で本読んでるだろうなって。――そうだよね?」 「はい! お気遣いありがとうございます」  優花里は笑顔でうなずく。ああいう微妙な気持ちをきちんと読み取ってくれたのは、素直に嬉しかった。自分からは言い出しづらいことだった。ちょっと本読みたいので一人でいます、なんて。人の輪から離れるのは、忘れられそうでまだ少し怖い。  優花里が砲弾を車内のラックに収めると、うんしょ、とみほが次の一発を渡す。 「私もたまにあるから、わかるよ」 「だと思いました。みほどのって、こう言っちゃうとなんですけど、黒森峰にいたころも、よく一人でいたんじゃないですか」 「わかる?」あは、とみほが苦笑する。「私、一年生なのに小隊長を任されちゃったけど、戦車のメンバーは二年生ばかりだったんだよね。それで休み時間なんかも、あまり会わなくて」 「うわ、それはやりづらかったでしょう」 「仕方なかったの、経験の浅い私をサポートしてもらうための配慮だったから。断るわけにもいかなくて」 「あー、えっとですね。きのう冷泉どのがすごく褒めてましたよ!」優花里は話題を戻す。「西住さんは私よりも頭がいいって。尊敬してるって」 「ええっ、私が? そんなことないと思うけどなぁ」  首をひねったみほが、むー? と優花里を見つめる。 「そういうこと言いに、わざわざ一人で優花里さんのおうちまで行くかな?」 「いえ、もちろん戦車の話なんかもしましてですね! 操縦とかエンジンとかの」 「ふーん……はい、これで八十発」 「はい! ――もしかして妬いてくれてます?」 「や」みほは戸惑ったように瞬きする。「妬いて……るのかな? これってそうなの? 優花里さん」 「初めてですか? うふふ、私は知ってますけど……」 「そ、そっか。こういうのか……妬いちゃったかも。ごめん」 「くぅ、みほどの……大丈夫ですって。変なことじゃないです!」  赤くなったみほが可愛くて、優花里は笑ってしまった。  悪いとは思うが、本当のことを話すわけにはいかない。麻子も言っていたように、これは手の届かないものを望む人間にしかわからない話だった。 「麻子ー! 麻子どこー?」  そんなことをやっていると、呼びかけながら沙織がやってきた。四号のそばに立って見上げる。 「みぽりん、麻子見なかった?」 「え? 見てないけど……」 「いないのよー。教室見に行ったら、もうこっちへ向かったって言われたのに」 「待機室にはいなかったんですよね」 「うん、華も見てないって。まったくもー、どこ行っちゃったんだか」  んっとこせっ、と四号によじのぼった沙織が、キューポラの上に足を踏ん張って、格納庫の中を見渡す。 「いないなあ。ねえ、いつのまにか操縦席にいたりしないよね?」 「はい、それはもちろん。変ですね、冷泉どの遅刻はするけど、無断で練習サボったりはしないと思うんですが」 「麻子さんが行きそうなのって、どこだっけ? 図書室?」 「考えてみるとよく知りませんね……」 「待って待って、考える」  腕組みした沙織が、うーんとうなる。 「あの子、今朝はいつにも増して寝不足だったから、遊びにいったり本読んだりじゃないと思うんだ。きっとどっかで寝てる。それで寝るなら戦車か待機室だけど、どっちにもいないし、まさか他の戦車じゃないだろうし、ひょっとして適当な新しい寝場所を見つけたのかもしれない。昨日から今朝までは私と動いてたから、あの子が新しい寝場所を見つけたとしたら――あっ、そうだ!」  突然叫んだ沙織が、真下の優花里を見下ろした。 「ゆかりん、ちょっと来て。腕力のパワーが必要だから!」 「は、はあ?」  意味がわからないなりに、戦車から飛び降りた沙織のあとを、二人も追いかける。  向かったのは、なんのことはない、格納庫の裏手だった。そちらは今日も日当たりがよく、ということは学園艦が昨日と同じ向きに航行しているわけだが、そのおかげで艦首からの風も当たらず、うららかな陽だまりになっている。  積み上げられた古い木材の上に、黒髪の小さな人影が、ごろんと横になっていた。沙織が声を上げる。  「ほらいた!」 「よくわかりましたね、武部どの」 「昨日ゆかりんがここにいたって話を、麻子の前でしたのよ。それできっとお昼寝ポイントに入れたと思ったの。あの子、一回聞いたことは忘れないからね」 「記憶力の無駄づかいですね……」 「よーし、引きずり起こしてやる。ゆかりん、手伝って――」  腕まくりして進みかけた沙織が、ふと足を止めた。んー、えーっと、と何か考えるように宙を見上げる。 「どうしたの?」 「一応聞くけどさ、みぽりん」振り向いた沙織が、やや自信なさそうに聞く。「これは、一人でほっといたほうがいい感じ? そういうアレ?」 「ふぇ?」  面食らうみほに、沙織は頭なんか掻いてみせる。 「やー私も昨日ちょっと考えたんだけどさ、たまには一人でいたいときもあるっていう? あっゆかりんがそうだったんだよね? でしょ? ああいうのって私今まであんまり気にしてなかったなーって思って。それでほら麻子なんか一番古い付き合いじゃない、私。気づいてないだけで、麻子にもそう思われてたら、なんかちょっと悪いなあって……」 「え、え、なんの話?」  みほは戸惑うが、話を聞くうちに優花里は顔を輝かせている。  沙織の横に出て言う。 「冷泉どのがほんとは迷惑に思ってないか、心配なんですね?」 「心配っていうか、まあねー。ずっと慣れでやってるけど、案外本人は本気で嫌なのかもしれないし、そういうの改まって聞くのもちょっとだし――」 「いえ、大丈夫です!」  優花里は自信満々に断言する。 「気にしてません! ていうか、冷泉どのはぜひ武部どのに起こしてもらいたいと思ってますよ!」 「そ、そお?」 「そうですよ! ドーンといっちゃってください!」 「そっかー、それなら行っちゃうけど、ってゆかりん?」 「さあ!」  優花里は沙織の背中を突き飛ばす。おっとっと、とたたらを踏んだ沙織が、まあそれなら――と忍び寄っていって、寝ている麻子の腋を唐突に全力でくすぐり倒した。 「麻子起きろーっ!」 「うああああっ!?」  跳ね起きた麻子が、いきなり何をする、と沙織に食ってかかる。寝ぼすけのあんたが悪いんでしょー! と沙織が言い返す。 「戦車の操縦のためには十分な睡眠が必要なんだ。居眠り運転で溝に突っこんだらどうする!」 「それなら夜ちゃんと寝なよ夜に! あっちょっと二度寝するな、みぽりーん、ゆかりーん! 手伝ってー!」 「あれ、ほんとに起こしてほしがってるの? 優花里さん……」  困り顔のみほに、はい、と優花里は笑顔で答える。 「世界中の誰よりも、武部どのに起こしてほしいんですって」   (おわり)