秋山優花里の、ある日と、ある日 「行ってきまーす」 「気を付けてね」 「寄り道せずに帰るんだよー」  開店の準備をする母と父の声を背に、優花里は重い扉を引き開けて表に出る。  今日の学園艦は晴れた海を航行しているみたいだ。青い静かな秋空の下を歩いていく。  学校に近づくにつれて生徒が増える。二人、三人と連れ立って、白と緑のセーラー服姿が前後を挟む。  意地悪な目をした風紀委員が頑張る校門を抜けて一年生の校舎に入る。廊下の掲示板でちょっと足を止める。  生徒会新聞に気になる記事はない。すぐにまた歩き出す。  朝の教室はにぎやかだ。あちこちに固まったクラスメイトの島から声が上がっている。「今日ってもしか、三限体育?」「そうだよー」「げっ私ジャージ忘れた」「あはは」「ばかじゃーん」「やっべ隣で借りてくる」誰かが教室を駆け出していく。 「あっ、ねえねえ、秋山さんさー」  荷物を置いた優花里に、斜め前の知り合いが振り向く。「はい、なんでしょう?」と優花里は答える。 「数Aの課題超面倒くなかった? やってきた?」 「やりましたよ。面倒ですけど、量はそんなに多くなかったですよね」 「まじ? 悪いけど見せてくれない?」 「えっ、えーと……」 「あっ、じゃあ今日の古文、明日見せるから! 吉岡どうせ書き下し文のプリント出してくるよね。それと引き換え。どう?」 「あっ、はい、喜んで」 「まじで? ありがとー!」  優花里がノートを渡すと、その子は机に広げてすごい勢いで写し始めた。しばらくすると別の生徒がやってきて、「やーす、ミノリ。何、数学写してんの? 誰の?」「秋山さんの」「そっかー。秋山さん、ありがとね!」優花里に向かって笑った。 「は、はい」  優花里は笑い返した。  ものの七、八分でノートを写し終えた生徒は、「ありがとっ、明日のは任せてね!」とウインクして返してくれた。隣で待っていた友達と、楽しげに好きな漫画の話を始める。  優花里は少しのあいだ二人を見つめてから、持ち歩いている月刊誌を取り出して、読み始めた。  じきに担任がやってきたので、素早く雑誌を机に隠した。  午前の時間割は、数A、地理A、体育、現文。うち三つは好きな科目だったし、最後の苦手な現文も、終われば楽しみな昼食だから耐えられた。 「お昼だー!」「ねえねえランチ何にするー?」「あんたいつもそればっかりだよね」  クラスメイトたちが三々五々動いていく中で、優花里は弁当箱を持って教室を出る。  向かう先は運動場の端にある、三角破風が五つ並んだ、古風なレンガ造りの建物。生徒たちには「お化け工場」とか「呪いの屋敷」とか、単に「倉庫」とか呼ばれている、正体不明のその建物が、優花里のお気に入りの場所だ。  人が来ない裏に回り、いつから放置されているのかわからない、鉄道の枕木の山に腰掛けて、弁当を広げる。  戦車がいるのだ、この倉庫に。  かつて戦車道が行われていたこの学園の、二十年前の遺物が。   中に入ったことはない。見たことがあるわけでもない。それどころか扉には錆び付いた大きな錠前がかけられており、開くのかどうかすらわからない。外に説明が書いてあるわけでも、誰かが言っていたわけでもない。  それでも、かすかな気配みたいなものが残っている。倉庫のまわりに点々と落ちている特殊鋼のボルトや歯車、土に埋もれて朽ちている真鍮の空薬莢、何か小さな硬いものが勢いよく当たったに違いない、レンガ壁の古い傷。  定かでない痕跡の数々から、優花里はそれを確信していた。  一体どんな戦車がいるんだろう。チハ車かな。ジャクソンかな。T−28かな。それともひょっとして、あの数々の伝説を作った名戦車、ティーガーかな……。  考えながら食べるのは楽しかった。この扉を開けて戦車を見る。それが、今の優花里の夢だった。高等部に入ったばかりのころに、生徒会に申請して断られはしたが、いつかきっといい方法を考えて、中を見てやるつもりだった。  母の手作り弁当がすぐになくなった。枕木に寝転んで空を見上げる。  そして、いやでも考えてしまうことをまた考えた。  ここには戦車があるけれど、それは死んでいる。  もし倉庫を開けてもらっても、優花里一人でそれを直すことはできない。もし努力を重ねてレストアしたとしても、走らせることはできない。もし走らせることができても、砲を撃つことはできない。砲を撃てたとしても、装填はできない。  仮にすべてできたとしても、戦うことはできない。  一人では戦車に乗れない。 「……」  優花里は空を見上げている。倉庫の陰は風が当たらないけれど、日が翳ってくると寒くなる。そして予鈴が鳴る。  袖で顔を拭き、弁当をしまって教室に戻る。  午後の授業を受ける。終わるとまたみんながにぎやかになる。部活のある生徒は急いで出ていく。そうでない生徒はおしゃべりして肩を叩き合う。 「ねえねえ、帰りどこか寄ってく?」「アイス食べよアイス!」「えー寒いよ、お汁粉がいい」「それ、絶対それ!」「あっ、秋山さん」 「はい?」  手早く荷物を片付けてリュックを背負っていた優花里は振り向く。 「お汁粉食べに行かない?」  ちょっとだけ迷う。別にみんなが嫌いなわけではない。 「あ、じゃあご一緒します」 「よーし、行くよ!」  クラスの四人ほどと学校を出て、和菓子処ののぼりを出した店に入る。温かい汁粉を食べる。にぎやかな同級生たちに相槌を打つ。はい。はい。そうですね。おいしいです。 「秋山さんって映画とか見るの?」 「えっと、そうですね。遠すぎた橋とか、西部戦線異状なし、とか」 「えー、そうなんだ」「それって誰が出てるの?」 「橋のほうはまずロバート・レッドフォードでしょう。ショーン・コネリーとローレンス・オリヴィエと、まあとにかくすごいです」 「ん、んー?」「知ってる?」「聞いたことない」「えっとさ、洋画がいいってことだよね? それならこれもお勧めするから! これ、激泣ける。絶対いいって!」  パンフを持ち歩くほど熱心な子がいて、勧めてくれる。優花里はうなずく。 「そうなんですか。見てみますね」  食べ終えて店を出る。手を振って解散する。家路に着く。  みんないい人だと、と思う。勧められた映画も見てみよう、と心に決める。  歩きながら、ふと道を逸れる。舷側公園に出る。学園艦の横腹に突き出したテラス。  晴れた一日だったので、今は夕焼けだ。手すりをつかんで、どこまでも広がるオレンジの海を眺める。風が吹き付ける。伸ばしている、というよりも切っていなくて膨らんだ髪が、揺れる。  いい一日だった。好きな授業が多かったし、晴れていて倉庫でお昼を食べられたし、みんなともかなりしゃべった。  いい一日だった、はずだ。  優花里は、叫びたくなる。 「――」  何か大きなものを吐き出したい。何か大きな物が足りていない。  何も出てこない。その何かが大きすぎて、どうしたらいいのかもわからない。  どうにもできない。ここは、自分が暮らすこの町には、それはない。  口を開けて、二、三度ぱくぱくさせて。  手すりを離してくるりと背を向ける。  歩き出す。朝と同じ歩幅で、朝よりも少しのろのろと。  夕暮れの道を歩いて、自宅に着く。 「ただいま」  重い扉を押し開けて店に入る。「おかえりなさい」「おかえり!」と父母が朗らかに答える。       〇oooooooo〇 「行ってきまーす!」 「あっ優花里」「今日は」 「わかってる、誘うから!」  開店の準備をする母と父の声をぶっちぎって、優花里は軽々と扉を開けて飛び出す。  今日の学園艦は向かい風の海を航行しているみたいだ。もう木枯らしと呼べそうなほどの秋空が強く吹いている。  構わず優花里は駆けていく。学校に着くまでに二人、三人と白と緑のセーラー服姿を追い抜く。 「秋山さん、そのストラップ派手すぎじゃないの?」 「えーっ、そうでもないですよ?」  意地悪な目をした風紀委員に言い返して、二年生の校舎に入る。廊下の掲示板に人だかりがしている。 「文科省が高校戦車道に補助金つけることにしたんだって!」「えーっ、それどういうこと?」「わかんないけど進学とかでも有利になるんじゃない?」「うっそまじ? 私もやろうかなあ」  小耳に話題が入ったので、顔を伏せ気味にして小走りに駆け抜ける。  朝の教室はにぎやかだ。あちこちに固まったクラスメイトの島から声が上がっている。「今日ってもしか、二限英1?」「そうだよー」「げっ私辞書忘れた」「あはは」「ばかじゃーん」「やっべ隣で借りてくる」誰かが教室を駆け出していく。 「あっ、ねえねえ、秋山さん!」  荷物を置いた優花里に、斜め前の知り合いが詰め寄ってくる。その後ろにさらに二人ぐらいくっついている。「はい、なんでしょう?」と優花里は答える。 「物理の課題超面倒くなかった? やってきた?」 「やりましたよ。面倒ですけど、運動量の計算だから公式だけですよね」 「まじで? あのさ、よかったらノート……」 「見ます? いいですよ、四限までに返してもらえば」 「あっ、ありがとう!」「うわ、いいなミノリ」「ねえ秋山さん、次私もいい?」 「どうぞどうぞ」 「わー秋山さん優しい!」「ねね、あのさ、ゆかりん……って呼んでいい? ゆかりんなんだよね?」 「あんた何言ってんの!?」「それ行くかー?」 「え、はは……いいですよ」 「うわーありがとう!」  持ってきた雑誌を読むひまもない。囲まれているうちに担任が来て、授業が始まる。  午前の時間割があっという間に終わる。昼休みのチャイムが鳴ったとたんに教室に緊張感が満ちる。三つぐらいのグループが視線を向けてくる。それぞれお互いににらみ合っている。 「ね、ゆかりん……」「秋山さん、あっあのさ!」「ランチどうする?」 「あっ、今日は一応お弁当があるので……」  弁当箱を取り出すと、「じゃあさじゃあさ一緒に食べよ?」とあっという間に囲まれる。食堂組や屋外組らしいグループが残念そうに出ていく。 「ねねね、また練習の話きかせて?」「砲弾ってこっちに当たるとどうなの? 痛いの?」「西住さんってどんな人? こわい?」「ちょっと、西住さん目当てはやめろよ」「そうだよ、戦車の話しようよ。ねー、秋山さん!」 「えーっと、まあ、いいですけど……」  戸惑って頭をかきつつ、今さら抜け出すこともできずに、優花里は弁当を食べながらぽつぽつと受け答えする。はっと思い出して急いで携帯でメールを打つ。  予鈴が鳴って午後の授業が始まり、いくぶん気だるい時間が流れる。優花里は教科書とノートに集中しようとする。終わるとまたみんながにぎやかになる。部活のある生徒は急いで出ていく。そうでない生徒はおしゃべりで盛り上がる。 「ねえねえ、帰りどこか寄ってく?」「アイス食べよアイス!」「えー寒いよ、喫茶店でカフェオレがいい」「それ、絶対それ!」「あっ、秋山さん」 「すみませんっ!」  手早く荷物を片付けてリュックを背負い、優花里は片手を上げる。 「約束があるので!」 「う、うん」「だよね、行ってらっしゃい!」 「また今度ご一緒しますね!」  優花里はダッシュで格納庫に向かう。 「秋山さーん」「やっほ、ゆかりん」「揃ったな」「優花里さん!」  四人の仲間がすでに四号を校庭に出している。「遅れましてっ!」と叫んで優花里はリュックを格納庫に放りこみ、戦車に飛び乗る。 「今日は何を?」 「うーん、三年生が模試でいないから、各個に走行と位置取りの練習と、最後にちょっと発砲かな」 「はいっ」  戦車道は選択科目だが、部活同様に授業後の練習も奨励されている。メンバーの揃った戦車から、重いエンジン音とともに土煙を蹴立てて校庭に姿を現す。「さおりんせんぱーい!」「がんばれー!」「西住さーん!」と喚声を上げるのは、校舎側に陣取った大勢の生徒たちだ。近ごろはずいぶんギャラリーが増えた。「みんなありがとーっ! そこどいて、危ないよー!」と沙織が身を乗り出して声をかける。 「みぽりん、山のほうへ一発どかんとやっちゃってくれない?」 「ええー……そういうのはちょっと」 「いいじゃん、お客さんにサービスするのも戦車道のうちだって! よき妻よき母になるための、なんていうの? ほら」 「おもてなしの心と言えば、言えるかもしれませんね」 「そう、おもてなし!」 「仕方ないなあ……じゃあ、優花里さん、空砲を装填してください。麻子さん、一度信地旋回して、それから華さん、学園艦右舷稜線を越える形で、発砲を」 「任せろ」「はい!」  ぎゃぎゃっ! と履帯を軋ませて四号がダッシュした。ギャラリーの目の前で片側をロックして、派手にぐるりと回ってから、主砲の仰角を取る。  ずどん! と発砲。骨に響く砲声と広がる硝煙を浴びて、きゃーっ、とすさまじい黄色い悲鳴が上がる。 「五十鈴せんぱい、こっち撃ってー!」「冷泉さん超クールー!」 「うっはぁ、すごいコール」 「あはは……」  得意満面の沙織と反対に、みほは困り顔で笑うばかりだ。こういうときには、キューポラに引っ込んだまま決して顔を出さない。 「演習エリアへ向かいます!」   「はい!」  ほかの戦車を引き連れて、四号がフィールドに出ていく。  日暮れまで練習してから、格納庫に戻った。優花里は一時置き場に戦車砲弾の空薬莢を捨てるために、カートを押して格納庫の裏に出た。  そこで唐突に、三人の見慣れない生徒たちと鉢合わせした。 「うわ」 「わっ」「あっすみませーん――」「ちょっと、これ秋山先輩! あんこうチームの!」「えっマジ?」  三人の目の色が変わったような気がした。素振りが少し幼いので、一年生か、ひょっとしたら中等部の子かもしれない。「あのっ!」と声を張り上げてくる。 「秋山優花里先輩ですよね! 握手してもらっていいですか?」 「あ、握手?」 「はいっ! 装填手なんですよね?」「腕力すごいあるって」 「え、まあ、そうですけど……」 「ほんとなんだ!」「いいですか?」  真ん中の子が手を出してくる。つい成り行きで、優花里はその手を握ってしまった。 「ンッ……」  その子が、ぎゅっと力を込めてくる。お、と驚いたので、少しだけ本気になってグッと握りしめた。 「あたたた、すごっ、マジすごい先輩!」  すぐにその子が音を上げたので、優花里は手を離した。「うわーすごー」「赤くなってない?」と握られた手を三人が囲んでいるので、苦笑して「あの、何か御用ですか?」と尋ねた。 「えっ、戦車道すごいって聞いたんでー」「ちょっと見に来ました」 「そうなんですか?」優花里は親しみを覚えて格納庫を指し示す。「よかったら中も見ていきます? 今練習終わったけど、まだみんないますよ。戦車も洗浄前なんで、すごく荒々しくてかっこいいし!」 「あっ、すみません。それはいいです」「秋山先輩見れたんで十分です!」 「そうですか……」 「どうもありがとうございましたー」  そろって頭を下げると、三人はくるりと身を翻して走っていった。 「うおー、びびった」「あんこうチーム見ちゃったね」「生あんこう!」  笑い声が遠ざかる。優花里はそれを見送って、軽くため息をついた。  空薬莢を捨てて振り返ると、少し後ろで沙織が見ていたので驚いた。 「わ、武部どの、いたんですか」 「ん、なんか声がしたから。ゆかりん、大丈夫だった?」 「えっ、何がですか?」言ってから背後をちらりと見て、「ああ」とうなずいた。 「大丈夫ですよ!」 「サービスとか、やらないほうがよかったかな……」 「まあ、いいんじゃないですか?」  話しながら、カートを押して沙織と中に戻った。  戦車のそばでは、片づけを終えた仲間たちが、この後のことを相談中だった。 「お夕飯、どうしましょう。食べに行きます?」 「外食は勘弁してくれ。今月、もうお財布が苦しい」 「そ、そっか。じゃあまたうちで作る?」  そう言ったみほが、ちらりとこちらを見る。それを聞くと優花里は大事なことを思い出した。今しがたのことを忘れるつもりで、「あの」と声を上げる。 「皆さん、うちで召し上がっていかれませんか?」 「秋山さんの?」「おうちで?」 「はい」驚く華と沙織にうなずいて、「実はうちの店のお客さんが新巻鮭をくれまして。おっきな鮭なんで、お世話になってる皆さんを呼んで石狩鍋にでもしないかって、親が言うんです」 「へえー、石狩鍋? 私まだ作ったことない! 花嫁修行にやってみたーい!」  沙織が手を上げると、華も「大きな鮭なんですね。それならご遠慮しなくてもいいでしょうか……」と嬉しそうな顔をする。 「みほどのと冷泉どのは?」 「いただく」と即答する麻子。「出てくるものならなんでも食べるぞ」 「私も、楽しみかも。うわぁ、優花里さんのおうちでご飯なんて……」  みほが賛成したので、「じゃあ決まりですね!」と優花里はガッツポーズをしてみせた。  寒風の中を「うーっ、さぶーっ!」「冬、来ちゃってますねえ」「艦が冬へ来てるんだ」と楽しく帰る。「ただいまー!」と秋山理髪店の扉を押し開ける。仕事をしていた父親が振り返って、「おおっ、いらっしゃいませ!」と微笑む。母親が言う。 「お店が七時までだから、皆さん、ちょっと待っててもらえます?」 「それなら私たちで作っちゃおうよ、いいかな?」  沙織がやる気満々で提案し、全員がうなずいた。  ひときわにぎやかな夕べになった。包丁さばきでは右に出る者のない沙織が、レシピ本片手に見事な腕前で鮭に立ち向かい、みほは懸命に野菜とこんにゃくを切り整え、優花里は嬉々として米を炊き、麻子が天職とばかりにコンロの前に張り付いて、ひたすらじっと火加減をにらむ。途中で参戦してきた優花里の母が味付けを指南して、台所にいい匂いが立ち込める。  そしてもちろん、あんこうチームの誰一人として、材料が余ることを心配しなかった。 「いただきまーす!」  秋山家の広くもない居間に七人が陣取って、カセットコンロに移した鍋を囲んだ。部屋もテーブルも七人分の肩幅と食器でいっぱいになってしまったが、狭いなどと文句を言う者は誰もいない。 「おばさま、ガードです! ガードしてください! 華の前を空けちゃだめです!」 「そうなの? いっぱい食べてくれていいんですよ」 「五十鈴さんの燃費はマウス並みだからな」 「マウス? マウスってねずみですかね? それなら心配しなくてもいいんじゃ」 「マウスっていっても百八十八トンある八号戦車のほうのマウスだよ! 黒森峰戦の時に見たでしょう? いいからお父さんはわけのわからない気を遣ってないで、皆さんにお茶を淹れてあげて!」 「優花里さん、うちだとそんなしゃべり方なんだ……」 「ふぇえっ? そ、それはやっぱりですね、身内と外だと自然に言葉遣いも変わっちゃうので……」 「あら、素敵だと思います、優花里さん。わたくしの家などでは、家族のあいだでも言葉を崩すことがないので、どうしても堅苦しくなってしまって……」 「華華、華っ。お願いだから加減して。しゃべりながら食べてるのに、なんでそんなにするする入ってくの? よそ様だよっ!」 「あはは……華さんを止めるよりも、急いで食べたほうがよさそうだよね。あの、おばさま、おじさま? この辺がおいしそうだから、どうぞ」 「いや、いやっ! そんな、けっこうです! 優花里のお友達に鍋をよそってもらうなんて、そんなおそれ多い……」 「お父さん、落ち着いて。すみませんねー、みほさん。うちはこういうの初めてなんで、うろたえちゃって」 「そうだよお父さん、ほんっと恥ずかしい……!」 「恥ずかしくないぞ。秋山さん、ご両親は大事にしろ」 「そ、そうだよね! 私たち急に来てきゃーきゃー言い過ぎちゃってるから、おじさまもびっくりされてるだけですよね? ほら、ゆかりんがお父さんによそってあげればいいんじゃない!」 「あっ、はい! えっとみほどの、お玉を」 「ていうか、私がやってもいいか」 「麻子?」「冷泉どの!?」 「これぐらいか。どうぞ」 「あ、ありがとうございますっ……!」 「ね、おじさまも召し上がってくださいな。おばさまの味付け、本当においしいですよ」 「あああ、だから華ってば!」 「いいなあ……こういうの、いいなあ……」  大騒ぎのうちに、鮭一本がまるまる消えた。  デザートは優花里の母が作っておいてくれたボウル一杯の牛乳プリンで、これもおおいに盛り上がった。本当ににぎやかな宵だった。 「ごちそうさま!」「あーおなかいっぱい」  食後のお茶を飲んでひとしきりくつろぐと、さすがににぎやかな友人たちも帰り支度を始めた。順番に店に出て靴を履いていると、あ、そうだと麻子がつぶやいて、四番目に出てきたみほを、ぎゅうぎゅうと押し留めようとする。 「西住さんはもうちょっといろ」 「え? どうして?」 「居たくないのか?」  麻子は不思議そうな顔で、みほと優花里を見比べる。顔を見合わせた二人は、あっと少し赤くなってしまう。 「私たちは帰る。秋山さん、本当にごちそうさまでした」  優花里とその後ろの両親に礼儀正しく深々と頭を下げると、麻子は長い黒髪をなびかせてさっさと出て行ってしまった。「あっ麻子待って!」と声を上げると、沙織もちょっとぎこちない感じで挨拶した。 「えーっと、麻子ほらあれ、うちがちょっと遠いからね! 私送っていくから! おじさま、おばさま、ごちそうさまでした。みぽりんとゆかりん、また明日ね!」  最後に華が、五十鈴流華道の後継ぎにふさわしい端然たる優雅さでもって、「本日は素晴らしいお夕食会にお招き下さって、本当にありがとうございました。また改めてお礼させていただきますね。おやすみなさい、失礼いたします」と礼を述べて、退出した。 「えっと……」  残されたみほは、困って優花里と両親に目をやる。どういう気持ちなのか、優花里にはちゃんとわかっていた。「部屋に行きましょう」と手を取って誘う。 「お? まだ大丈夫なのかね?」  と尋ねた父親には、「せっ戦車の話をするから!」と言い返した。  二階の自室で腰を下ろすと、みほが、はーっとため息をついて照れ笑いした。 「結局、麻子さんたちに気を遣わせちゃったね」 「はい……ちょっと油断してました。今日はこれでお開きかなって思ってたので」 「帰ったほうがよかった?」 「とんでもない。逆に聞きますけど、帰りたかったですか?」  言ってから、ちょっと背筋を伸ばす。 「みほどのは、もうちょっといたいと思ってくださると、思いましたっ」 「えへへ……当たり」  思った通りだった。優花里も笑い返した。 「優花里さんのお部屋……一人で来るのは初めてだなあ」  見回したみほが、ちょっと見ていい? と立ち上がって調度に顔を寄せていく。 「前来た時から気になってたんだけど、この薬莢付きの大きい砲弾って、何? 四号の七十五ミリよりも、ティーガー2の八十八ミリよりも大きいよね」 「それ、わかんないんですよねー。信管があって弾頭が割れる感じなんで、ひょっとしたら高射砲弾とか、艦載砲の弾かもって思うんですけど」 「優花里さんのじゃないの?」 「私のですけど、ショップの格安放出品で、出所も形式も不明なんです。みほどのでもわかりませんか」 「んー、うちにあったやつなら大体覚えてるんだけど……」 「そうですか、みほどのでもわからないなんて、なんかほっとしました!」 「出所不明って、いつの弾薬かわからないってことだよね。そんなのお部屋に置いとくの、危なくないかなあ」 「あっもちろんレプリカです、本物じゃないです……」 「そうなんだ、よかった! 部屋の中に五発も置いてて大丈夫なのかなって、ちょっと心配だったんだ」 「み、みほどののおうちでは、本物だったんですね……」 「うん。あ、こっちの机のは弾頭だけだね。それにこの転輪って、本物? すごいなあ、いっぱい……こっちのポスターは?」 「それはですね! これがかの有名な小林源文先生が描かれた、黒騎士物語のパンター乗りのバウアー大尉で、上のやつはロシア女子戦車小隊と萌えよ戦車学校ってやつで、あっ本のほうはこっちに全部あるので! みほどのもぜひ!」 「いいの? じゃあ貸してもらうね。それとこれ、のれんが履帯柄なんだね。最初わかんなかったよ」 「えへへ、ちょっと和風みたいで面白いですよね」 「あとこれプラモデルだよねー。私、こういうの作ったことないや。クロムウェルにジャクソンに二号に……このちっちゃくてかわいいの、なに?」 「一号指揮戦車です! 黒森峰になかったですか?」 「これはなかったかな。指揮も主力戦車でやっちゃうから。あっ、あっちの箱はP40? なんであんなにいっぱいあるの?」 「あれはレアモデルだったんで、つい買い溜めちゃって……マニアっぽいですよね。一つ差し上げましょうかっ?」 「う、うーん……嬉しいけど、作れるかなあ……」 「でしたら、完成品を! 私プラモ作るほうはそんなにやらないんで、ウェザリングとかしてませんけど」 「うぇざ? りんぐ?」 「模型をわざと汚して、実際の車両みたいな迫力を出すんです。うまい人はほんとにすごいですよ!」 「へええ……それも見てみたいな。あれ、そういえば四号はないの?」 「四号は、だって」優花里は微笑む。「私たち、もう持ってるじゃないですか」 「……そうだね!」  ひとつひとつの品物にみほが目を留めて、そのたびに話の花が咲く。  いつしか優花里は、胸に何かがこみ上げてきて、言葉に詰まってしまった。 「弾薬箱もいっぱいあるけど、何入ってるんだろ。開けてみても……優花里さん?」 「んっく……ひっく……うう」 「ど、どうしたの?」  あわてて寄り添うみほの手を取って、優花里は泣き出してしまった。 「ううう、嬉しいですぅー!」 「はわ……」 「こんな、こんなことを人と楽しく話せるなんて、思ったこともなかったです。たまに戦車とか大砲の話をすることがあっても、たいていお義理やお付き合いで聞いてくれる人ばっかりで、本当に戦車が好きで、よく知ってる人なんて……みほどの、みほどの!」  片手を握ったまま目頭を拭ったが、あふれる涙をぬぐい切れない。ぼたぼたとしずくをこぼしながら、優花里は何度もしゃくりあげた。 「そっか、優花里さん。ほんとに話したかったんだね……」  みほが抱き寄せて、背中を撫でながらハンカチで顔を拭いてくれた。  二人の話はいつまでも終わらなかった。あまり長引いたので、下から母親がやって来て顔を出した。 「優花里、もう十一時だけど……」 「あっ、もうそんな時間? わわ、みほどの、送りますっ」 「外を歩くには遅いわよ。みほさん、よかったら泊まっていきません?」 「えっ、いいんですか?」 「ええ」母親はにっこりと笑う。「明日は早いの? そうでもない? じゃあ、今日は泊まっていて、朝帰るといいわ。おうちに連絡は……一人暮らしでしたっけ?」 「はい。アパートです」 「だったら、朝ごはんもつけちゃいましょうか」 「えーっ?」 「早めに食べて、それから帰って支度をするといいんじゃないかしら?」 「そんな、悪いです……」  そう言ったものの、優花里が顔を輝かせて手をつかんでいた。みほが遠慮がちに、「じゃあ、お言葉に甘えて……」とうなずいた。 「お風呂、使ってくださいね」  そう言って母親は降りていった。 「優花里さん……」と振り向くみほに、優花里は畳みかけるように提案する。 「大丈夫です、お布団もパジャマもお貸しします、私は寝袋でけっこうです! 歯ブラシもタオルも新品が、あっでも下着のほうは……ええと」 「それは」みほがいたずらっぽく微笑む。「優花里さんの、借りていい?」  ぽーっと顔を赤らめて、優花里はこくこくとうなずいた。 「い、いちばんいいのをお出しします……!」  部屋を片付けて、押し入れから布団と寝袋を出した。交替で風呂に入って、優花里が戻ってくると、すでに電気が小玉にされていて、優花里の枕を抱えたみほが、敷布団にぺたんと座っていた。パジャマ代わりに貸した大判のTシャツと、コットンのやわらかいタップパンツ姿だ。  自分のシャツを誰かが着ている、しかもそれがみほだというのはひどく新鮮な光景に思えた。優花里は思わず、自分の部屋だというのに、「し……失礼しますね……」と小声になってしまった。  寝袋は並べたけれど、そちらに入ってしまうのはさすがにそっけなさすぎると思った。布団の上に腰を下ろす。みほは抱きしめた枕に、すーっ、すーっと顔を当てている。干したのはちょっと前なので恥ずかしくなって、「あの、みほどの……」と声をかける。 「これ、好き」とみほが言った。 「これ……優花里さんの匂いで、いっぱいになる」 「はふ……」 「今ね、待ってる間、私どきどきしてたの。ここは優花里さんだらけだから」  顔を上げてオレンジ色に染まった室内を見回して、みほは目を閉じる。 「優花里さんが集めたもの、優花里さんが毎日さわってるもの、優花里さんが大好きなもの……そうやって考えると、優花里さんが来る前から、優花里さんに包まれてるみたいだった。ううん」  薄目を向けて、夢見るようにつぶやく。 「ここにいると、私もこの部屋に溶けちゃう。……優花里さんの好きなものの一つになったんだな、って」  言葉のひとつひとつに優花里はぞくぞくと寒いような嬉しさを覚えていたが、その眼差しを受けるともうたまらなくなって、手を伸ばしていた。 「みほどの……!」「うんっ」  肩を抱いて布団に横たえた。頬ずりすると、湯上りのみずみずしい肌が、ぴとぴとと吸い付いた。 「んっ、みほどの、みほどの……」 「待って、優花里さん、しーっ……」  楽しそうに押しとどめて、みほが掛布団を二人の上にかぶせる。 「お母さんたちに聞かれちゃうよ」 「そ、そうですね」 「今夜は、静かにしよ……?」  枕とクッションをつなげて、呼吸を整えながら、穏やかに二人の体を並べた。  優花里は腰の横をまさぐって、みほの手を取る。なぜかみほは、その手を顔の横まで持ち上げた。オレンジの薄明りの下で、何かが気にかかるように、指をクッと折り曲げる。「握手……」とかすかにつぶやいたのが聞こえた。  優花里は、はっと思い出した。 「みほどの、まさか今日の格納庫で……?」 「う、うん」少しだけ寂しそうに、みほが笑う。「見えちゃった。沙織さんの後ろから……」 「あわ……」優花里は気を付けをしたくなる。でも布団の中でやることではないので、ぐっと息を吸って、みほの手を握りなおした。 「すみません、みほどの! これからはもう、ああいう握手はしませんから!」 「えへへ……ほんと?」 「はい」  頬に手を当てて、引き寄せる。 「みほどのにしか、さわりませんから――」 「んっ」  吸い付いた唇が、すべてを許してくれた。  とろとろと夢に引き込むような甘い口づけのあと、ぽすんと肩に頭を乗せて、「うれしい」とみほがささやく。 「ね……さわろ。さわりながら、寝よう……?」 「はい……さわりますね」  手を下ろして、交差させる。二人だけの温かい洞穴みたいな布団の中で、相手の柔らかな身体にゆったりと手のひらを埋めていく。  カチリ、と時計が音を立てて一日が終わる。  (おわり)  付記:私は軍事知識があまりないので、ゆかルームのテレビの後ろや壁にかかっている砲弾の種類を突き止められませんでした。もしわかる方がいらしたら、教えてください。また、誤字脱字などのご指摘があれば歓迎します。