「春の匂いと、夏の香り」  みほが好きな匂いは、もともとそんなに多くなかった。  幼いころからそばに置いているボコ人形の匂い――染みついた、自分の匂い。それを抱くと安心できた。一時はそれしか安らげるものがなかった。  けれども大洗学園で戦車道を続けるうちに、たくさんの匂いが好きになった。  沙織の女の子らしいシャンプーの匂いと、華のしとやかな花の香り。麻子の家の古い畳の匂い。みんなで行くケーキショップのコーヒーとクリームの匂い。本当はいい人たちだった生徒会の三人と食べたあんこう鍋の匂い。  そして、鉄と油と硝煙の匂いも、別れていた古い友達のように、また親しくなった。  それと一緒に、近ごろいちばん好きになったのは――。 「命中……! ポルシェティーガー、仕留めました!」 「華さん油断しないで、砲塔を十時方向へ! 麻子さん交差点から二メートル出してバックしてください! 沙織さんつかまって!」 「えっ、まだ相手小隊残ってたっけ? っきゃあ!」  ぐおん! と音を立ててダッシュする四号の車内で何もかもが後ろに押し付けられる。その中で一つだけ揺らがないものが、何を言わなくても重い砲弾を弾庫からつかみ上げて、力強く主砲にガランと装填してくれる。  焦げ茶色の髪から、夏草の茎を折ったみたいな青くさい香りがふわりと飛び散って、汗の粒が足元で飛び散る。  交差点から飛びだしてすぐに引っこんだ四号の目の前を、唸りをあげて砲弾が通過。みほにはそれが来るとわかっていた。発砲地点には、スーパーの大看板に隠れていたルノーB1bisが、射撃を外したことが信じられないみたいに、ぼんやりとたたずんでいる。開幕からずっと待ち伏せていたんだろうけど、他のチームの動きで読めていた。  再び四号を前進させる。 「華さん撃って!」  ズパン! と発砲。徹甲弾がカーンと音高くB1正面左の覗視口に突き刺さる。白旗が上がって勝負が決まる。大洗学園戦車道グループ、四対四に分かれての練習試合はこちらの小隊の勝利。 「やりました、みほさん!」「やったね、みぽりん!」「今回は履帯切らなかったぞ」 「ありがとう、みんな」  チームの三人に答えてから、みほは車長席の右下にほっとした眼差しを向ける。  装填手の秋山優花里が白い歯を見せる。 「おつかれさまです、西住どの!」  少しだけ頬を染めて、みほは微笑む。 「うん、お疲れさま、優花里さん」  動きの激しい彼女の香りが、すぐ隣の車長席まで漂ってくる。  それが今、みほのいちばん好きな匂いだ。      〇oooooooo〇 「しっかしみんな強くなってきたよねー」 「三突がM3にやられるとは思いませんでしたよね」 「そど子は校門での待ち伏せが染みついてるから読めたな……むぐもぐ」 「あーっ冷泉どのそれ私のトルテ」 「うますぎるのが悪い」 「まあまあ、優花里さん。私のシュークリームをおわけしますから。……あら」 「華、さっき全部食べてた」 「まあ……そうでしたっけ?」 「あー私も食べちゃったよもう。麻子ダメでしょ!」 「う……すまん」 「じゃあ、私のケーキ半分あげるね。はい、優花里さん」 「ありがとうございます西住どのぉ!」  試合後のいつもの夕食会。みほのアパートに集まって沙織シェフ&秋山コックの手料理に舌鼓を打ってから、五人はデザートタイムに入っていた。皿に出したコンビニスイーツと聖グロリアーナからもらった紅茶がテーブルに並び、手と口がにぎやかに動いてあっというまに消えていく。  狭いアパートに立ちこめる料理の匂いと女の子五人分の熱気。これも最近のみほが大好きなものだった。 「ねえねえみんな聞いてあのさ、実は今度ウサギさんチームの子たちが男の子紹介してくれるっていうから会ってみるんだけど! 誰か一緒に来ない? ていうか五人で行ってみない?」 「戦車より強い男なんかいるのか」「そうですよねー、私も男子はちょっと苦手で」「沙織さん、とうとう一年生に頭を下げたんですね……」 「何よもーみんな、華まで! そんなこと言ってたら一生恋人できないよ? 大学選抜に勝って学校も取り戻したんだから、ここらで女子力発揮して恋人探ししてみようよ! いい人いるかもしれないじゃん! カッコよくて優しくて頭よくて強い人!」 「じゃあ、行く」 「麻子来るの? ありがとう――」 「沙織が変な男に引っかかったら連れて帰る」 「そういうんじゃなくてー!」  沙織がばたばたとテーブルを叩き、みんなが笑う。華も麻子も、まだ当分、男の人には興味がないみたいだ。沙織にしたって、理想がすごく高いみたいだから、あのお眼鏡にかなう人はなかなかいないだろう。いざ付き合おうとしたら、考えこんでしまいそうな気がする。  五人がこのままならいいな、とみほは思うのだけど。  じきに時計を見た麻子が腰を上げる。 「そろそろ帰る」 「え? あ、もうこんな時間か」 「それじゃお開きにしましょうか。みほさん、お片づけを」 「いいよ、やっておく」 「あっ、私も手伝います!」  また明日、と三人が帰っていく。それを見送ったみほは、残った一人に声をかける。 「やろっか、お片づけ」 「はいっ」  優花里が元気よくうなずく。  キッチンでカップを洗いながら、みほは部屋の空気の変化を感じる。立ち込めていた熱気と楽しさがドアから流れ出していって、ちょっとしたお祭りの後みたいな、空っぽな感じがする。いつもそれを寂しく思っていたけれど。 「西住どの、ごみ袋ってありますか?」 「待ってね、この下」 「ついでにごみ箱もまとめちゃいます? 可燃ごみ明日ですよね」 「あーっと、頼んでいいかな? そだ、悪いけど生ごみも」 「はい!」  よく動く、楽しそうな気配が、静けさを和らげてくれる。  優花里さんはどうなんだろう。  いやな顔一つせずに生ごみを袋に入れてくれる優花里を見ながら、みほは考える。この人も、私と同じような考えなのかな。  それとも、沙織さんみたいに、いま相手がいないだけで、そのうち素敵な男の人が現れたらくっついちゃう、普通の女の子なんだろうか。  それを思うと、寂しさがちょっとだけぶり返した。  片付けが終わると、みほはソファにしてあった折り畳みベッドを寝るために倒す。その横で優花里がいつものリュックに持ち物をまとめる。彼女はいろいろ変なものを持ち歩いているから確認が大変だ。 「えーと飯盒とコッヘルと十徳ナイフとエンピはいいとして……あれっ、私って今夜メタルマッチ使いましたかね?」 「使ってないと思うけど」 「どこかやっちゃったかな。ええと」  ベッドの下とか覗きこんで、もたもたしている。わざとやってるならいいのにな、と思う。 「あーあった、こっちのポケットでした。これがないと火が起こせませんからねー」  リュックを背負って立ち上がった優花里に、みほは声をかける。 「あのっ、優花里さん」 「はい?」  振り向くとふわりと焦げ茶の髪が広がる。ああ、この匂い。 「き、今日は、早く帰らないといけないのかな」 「いえ? 親にはみんなとご飯だって言ってあるので、多少遅くなっても大丈夫ですけど」 「そっか、その」理由理由。「あっ、動きをね! ちょっと。検討したくて、戦車の」 「はい、戦車の動きですか」 「カバさんチームが、今日。やられたでしょ、ウサギさんチームに。駆逐戦車って射界限られるから、四号でもっとフォローするような動き方ができたかなあって」 「射界、そうですね。それは大事です」 「動き思い出して、書いてみるから。あの、付き合ってくれない? もしよかったら」 「はい! 喜んで」  優花里はにっこり笑って、背負ったばかりのリュックを下ろす。  テーブルに作戦ノートを広げて鉛筆で書き込みをする。装填手の優花里は外が見えないはずなのに、戦車の動きをよく覚えていた。みほの命令と説明をきちんと汲み取ってくれていたのだろう。 「ここでアヒルさんチームがこう来たから、この家を回りこんで、撃ったよね」 「いえ、このときは装填がまだだったので、もう一軒先まで出て撃ちました」 「あれ、そうだっけ。覚えてないや」 「いつもすごいです、西住どの。ここで榴弾に変えて、ちょっと遅れたのも拾ってくれましたよね」 「あ、そっか。それでこの木を巻いたんだ。装填間隔、体で覚えてるから……後から考えても、なんでそう動いたのかわかんないときがあって」 「多分西住どの、敵と味方の装填間隔も全部拾ってますよね。三突がやられたこのときは……ああ、だめです。やっぱり間に合うタイミングじゃなかったですよ」 「そうだね。すると……ここか。路地一本間違えて迂回したときだ。十五秒無駄にした」 「こんな序盤の小さなミスが、後で効いてくるんですねえ」  戦車道の難しいところに踏みこんだ話題でも、優花里はちゃんとついて来てくれる。ほかのみんなもずいぶん上達したけど、この子は別格だ。たぶん、黒森峰でも立派に副隊長が務まるぐらいの実力がある。  ううん、別枠、と言ったほうがいいかもしれない。……華さんや沙織さんや麻子さんも好きだけれど、優花里さんはそれ以上。なくてはならない、って感じる。  戦車道に限ったことじゃなくて。こんなふうに二人で心おきなく話せる相手は、他に一人も……。  いつしか、みほは優花里の横顔を見つめていた。気づいた優花里が、「西住どの?」と目を向ける。 「あのね、優花里さん……変なこと聞いていいかな」 「変なこと?」 「さっき沙織さんが聞いたとき、言ってたよね。男子はちょっと、って」 「え? あ、はい」 「恋愛とか……全然、興味ない?」 「そ、それはもちろんです。今は戦車道一筋です!」  身を乗り出して力説する。そっか……とみほは目を逸らす。 「優花里さんらしいよね」 「はい! ……あの、何か?」 「ん……ううん」 「なんでしょうか? 言ってください! 不肖この秋山優花里、西住どのがお悩みならば、なんだって聞いちゃいますよ!」  そう言ってから、ふとショックを受けたような顔になる。 「まさか西住どの……どこかの、だ、男子のことでお悩みなんですか?」 「え、ええっ? ないないない」驚いてみほは両手を振る。「それはないから。私も、好きな男の子なんかいないよ。大丈夫」 「そうですか……よかったあ」  ほっと胸を押さえて、優花里はテーブルに突っ伏す。それを見つめたみほは、我知らず彼女の頭に手を当てていた。 「よかったあ、なんだ? 心配してくれたのかな」 「しますよお、私の……我らが大洗学園の総大将が、恋をして戦車を降りちゃったりしたら、どうしようかって思いました……ん、んん」  頭をもぞつかせたのは、みほがさわさわと髪に指を入れたからだ。優花里のふわふわ頭は人気があって、よく他の人にもいじられている。人前でなら、みほも何度も触ったことがある。  本人はあまり嬉しくないらしくて、やめてくださいよぉ、と頭を振るのが常なのだけど。 「いい? これ。こしょこしょ……」 「いやじゃないですけど……ううん……だ、だめですって」  少しだけ触らせてくれたけど、結局優花里はみほの手を押し戻してしまった。  伏せたままちらりと目を向ける。垂れかかる髪から覗く頬が赤い。 「あの、じゃあ……さっきのは? なぜ恋愛の話を」 「んん? んー……」  みほはまた目を逸らしてしまう。 「私も……優花里さんとおんなじだよ。優花里さんが誰かを好きになって、あんこうチームから抜けちゃったら、寂しいなって思っただけ」 「そう……ですか」 「ん」 「そう言っていただけて、嬉しいです。西住どの」  その口調がちょっと硬いような気がしたけれど、話に区切りがついた気がしてみほは微笑んだ。チームメイトとしてのお互いの気持ちを確かめられて、よかった。  そこで爆弾が飛んでくるのは予想外だった。 「二人きりだからって、ちょっと期待しちゃいました。はは」 「えっ!?」 「いえ」  さっと顔を背けると、優花里はリュックを担いで立ち上がった。固まっているみほの前で、「それじゃ、今夜は失礼します」と出ていこうとする。 「ちょ、ちょっと待って優花里さん!」  玄関で追いついて腕を取る。振り向かせようとすると、なんと優花里は抵抗した。「あの、帰るんで」と振りほどこうとする。「待って、待ってって!」とみほは呼びかける。 「今の、なに? どういうこと?」 「なんでもないです、冗談です、忘れてください」 「冗談にできないよ、優花里さん、今のって」 「あの、ほんっと! お願いします」  叫ぶような強い口調に、びくっ、とみほは手を放してしまう。  背中を向けたまま、優花里は肩を震わせた。 「口が滑っただけなんです。すみません……なかったことにしてください」 「優花里さん……」  今のはきっと、優花里さんが絶対隠したかったことだ。このまま帰しちゃいけない。  そう思うとともに、すっと覚悟が決まった。 「私も、期待してた」  肩の震えが、ぴたりと止まった。 「みんなが帰ったのに優花里さん残ってくれたから、嬉しいなって。私と一緒にいたいのかなって。そう……だったんだよね?」 「西住どの……」  ちらりと優花里が振り向く。その瞳が、信じられない、というふうに見開かれている。  みほは精一杯の笑顔を浮かべてみせた。 「さっきのは、うそ。チームにいてほしいだけじゃない。私、優花里さんに……もっと近くにいてほしい」 「それ、って」 「こっち、向いてくれる?」  優花里が体ごと振り返る。その肩に両手を置いて、引き寄せる。 「もうちょっと……いてくれる? お話、してくれる?」  優花里はリュックのストラップを両手でつかんだまま、手も伸ばしてこない。  ただ、不安の残る目のまま、こくりとうなずいた。  手を引きながら、二人ともふわふわした足取りで戻って、ベッドに並んで腰かけた。しばらくは緊張して言葉が出てこなかった。まだ何か、お互いに誤解があるかもしれなくて、怖かった。  それで、手を取った。優花里が膝の上に固めた拳に、みほはそっと手を重ねる。  びくり、と肩までこわばらせて、優花里がつぶやく。 「に、西住どの……」 「優花里さん」  はずむような声音になった。大好きな夏草の香りがすぐそばにある。触れていいかどうかわからなかったものに触れられる。  緊張のどきどきが、期待のそれに変わっていった。 「いい……んだよね? 優花里さん」 「あの、西住どの」喉がかわくのか、かすれた声で優花里が言う。「ほんとに? そういうことですか?」 「そういうことって、どういうこと?」 「つまりですね!」叫ぶように言ってから、うんと声を抑える。「すき……ってことです?」 「うん」肩が触れる。温かい。「すきだよ、優花里さん」 「女の子……ですけど」 「男子は苦手なんでしょ?」 「ですけど、西住どのこそ……」 「私は……だって、優花里さんって男の子みたいなところあるし」 「男?」 「あ、ごめんね。悪い意味じゃないの」あわてて首を振る。「ただ優花里さんって力も強いしかっこいいし、頼れるところあるから。ずっと見てるうちに、いいなって思えてきて……」 「そ、そうですよね。確かに私は女の子っぽくはないです……すみません」 「謝ることじゃないから! 素敵だよ? 優花里さん。かわいいっていうのも、もちろんだよ。優花里さんすごくかわいい」 「いや、そんな、その」 「かわいい、けど、それだけじゃないの。華さんとも沙織さんとも、麻子さんとも違うじゃない。優花里さんだけなの。こうやって……」手首を交差させ、指を開かせて、五本ともきゅっと絡める。「さわりたいって、思うのは」 「さ、さわりたい……」 「そういうのって、『すき』だよね? ただの友達じゃなくって。優花里さんは、いい? そういう『すき』で」 「にし、西住どの……」  かぁぁ、と耳まで真っ赤になった優花里が、こくこく、とうなずく。 「そういう『すき』です。西住どの、好きです」 「そうなんだ。優花里さんも……」  口に出して、耳にしているうちに、幸せな実感がどんどん湧いてくる。肩に頭をすり寄せる。 「うわぁ、優花里さんもなんだ。うそ……なにこれ」 「はぁうう……」  木の人形みたいに体をこわばらせた優花里が、口をぱくぱくさせる。 「ゆ、夢っ、これ夢ですよね? こんなこと現実にあるわけがありません! えいっ」 「いたっ」  優花里のチョップが額に当たり、みほは顔をしかめる。「もう、何するの?」と見上げると、あわわわわ、と手をばたつかせた優花里が、ずざっとお尻をずらして下がり、目いっぱい頭を下げた。 「も、申し訳ありません! 西住どのになんてことを……!」 「落ち着いてよ、優花里さん。夢じゃないよう」 「だ、だってですね。だって」  顔を上げた優花里はあわれなほどうろたえている。 「こ、こんなのって、私、絶対ないと思ってて、学校で初めてお見掛けしてから、何度も何度も妄想だけはしましたけど、まさか本当にこんなこと……!」 「妄想、してたの?」 「あふぁ」ぱっと両手で口を押える。「え、いえっ、その」 「どんな妄想、してたの?」みほは腰を寄せて追いかける。「教えて?」 「そ、それは……」優花里は宙に目をさまよわせる。「言わないとだめですか?」 「だめ」 「えと、西住どのが……ですね、何か困ってしまって……戦車がスタックするとか、道に迷うとか……そこに私が駆け付けて、お助けして差し上げると、西住どのが、わぁありがとうって……それから……」 「それから?」 「それから」優花里の顔は、真っ赤を通り越して、脂汗が浮かんでいる。「だ、大好きって……言ってくださる……んです」 「優花里さん」みほは、どうにも楽しくなってきてしまう。うつむいている優花里の耳元に顔を寄せてささやく。 「だい、すき」 「あっ、あふっ、ふがっ」  優花里は変な声を漏らして、げほげほとむせた。息が詰まってしまったみたい。 「なに、もう、優花里さん」みほは思わず笑って、優花里の背中を撫でる。「大丈夫? しっかりして」 「無理ですよぉ……」とうとう優花里は泣き出した。「そんなこと考えるたびに、情けなくなってへこんでたんです。西住どのは名門のエリートじゃないですか。それに比べて私は友達もいない、ただの戦車マニアじゃないですか。本物の戦車に乗ったことすらない、頭でっかちだったんですよぉ! まるで高い山を見上げてるみたいで……」 「そんなことないよ」 「一緒のチームになれたときは少し近づけたと思いましたけど、それが今ではチームの、学校のみんなを引っ張っていくリーダーになってしまって……近づくどころか、もっと遠くなった気がして……ああ、これはないなって。私一人のものになってくれるなんて、夢だなって……隠し通すつもりでしたのに……」  みほはじっと寄り添って優花里の告白を聞いていたが、だんだん顔をこわばらせていき、ふと立ち上がった。「西住どの……?」と優花里が顔を上げる。  そこに、棚から取った特大のボコ人形を、ばふっ! と押し付けた。 「はわ!?」 「やーってやーるやってやーるやってやーるぜー!」  声を張り上げて歌いだす。そのみほの胸にも別のボコがある。抱いたボコで優花里のボコに殴りかかる。 「イーヤなあーいつをボーッコボコにー!」 「あの、ちょっと西住どの? おわぷ。え、えいー」  唐突な成り行きに戸惑いながらも、優花里は見よう見まねでボコを抱き上げて、調子を合わせる。自分のボコでみほのボコと殴り合い、しばらくしてから顔面にパンチを一発入れると、「うわぁー!」とみほが声を上げて、ボコごとベッドにひっくり返った。 「やーらーれーたー!」 「やったぜー……で、いいのかな? えっと、西住どの?」  優花里はおそるおそる覗きこむ。マイボコを抱いたみほがじっと見上げている。 「エリート?」 「え?」 「リーダー? そうなの?」  みほはマイボコにぐりぐりーっと顔を押し付けると、はーっ、と両手を広げて、おなかの底から弱音を吐きこぼした。 「そんなの無理だよう! 格下の戦車を寄せ集めて何も知らないみんなに一から教えて、グロリアーナとサンダースとアンツィオと強い強い黒森峰とぶつかって、全部やっつけてからそのまた上の大学選抜のパーシングとかセンチュリオン三十両一つも残らず撃破して、偉い人が決めたことを根こそぎひっくり返すなんて、できるわけないよ絶対無理だよそんなのめちゃくちゃだよ全部捨ててどっかへ逃げちゃいたいよー!」  手足をばたつかせてわめき立てた。優花里がぽかんとしている。口が三角だ。  叫ぶだけ叫んで、はあはあと胸をあえがせたみほは、もう一度ボコを抱きしめてつぶやいた。 「そうやって、私が思ってなかったって、なんで思うの? 優花里さん……」 「西住、どの……」 「思ったよ。百ぺんも思ったよ。思ったけど誰にも言えなくって、ずっとずーっと、しまってたんだよ。言いたかった。誰かに言いたかった……!」  胸に抱いたボコの後ろ頭に声を食いこませてから、みほは優花里に目を向けた。 「これが私だよ。優花里さんが思ってるようなすごい人じゃ、全然ないよ……どう? 幻滅した?」  優花里は答えなかった。ただその呆然としていた顔に、泉から湧き出すきれいな水のように、優しさがあふれ出して来た。  横たわるみほに覆いかぶさって、ぎゅうっ……とボコごと抱き締める。 「西住どの……」 「……優花里さん」 「そんなにも、そんなにもいっぱい……一人だけで……西住どの」  優花里は涙を浮かべていた。細い体を何度も抱え直して、ぎゅっ、ぎゅう、と腕に力をこめる。 「ほんとに、ほんとうに、お疲れさまでした、西住どの……!」 「ゆ、優花里さん、苦しい……」  息が詰まって押し返すと、優花里の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。思わずみほは小さく笑った。 「わ、ひどい顔」 「ひっ、ひどくもなりますよう」  えくっとしゃくりあげて拳で顔を拭い、優花里は訴える。 「西住どのが、そんなにおつらい気持ちだったなんて。私、全然気づけませんでした。無責任に頼ってばかりで……ああっもう、私のばかばか!」  ゲンコツで自分の頭を叩く優花里に、いいの、とみほは軽く触れる。 「今まではね、こういうの、ボコにしか言わないようにしてた。初めて人に聞かせちゃった。こんなこと聞いたら、心配しちゃうよね。ごめん、優花里さん」 「いえっ、西住どの!」  ごしごしと顔を拭ってから、優花里はキラキラと瞳を輝かせてみほの手を取る。 「嬉しいです、話して下さって! そういうことなら、そんな西住どのなら、私、もっともっと好きになれます!」 「そ、そう? ……不安にならない? こんなリーダーで」 「リーダーはナシです! そうでしょう? 私の前でだけは、ただの女の子でいてください。ううん、いていいんです!」  「優花里さん……」  みほは思わず声を詰まらせると、今度は自分から両手を伸ばそうとして――胸の上のボコに気づいて、それをそっと、横にどけた。 「じゃあ、私……ただのみほで、いい?」 「みっ……は、はい」 「言ってみて?」 「みほ……どの」 「どのも、なし」 「み、みほ……」呼び捨てにしようとして、それはやっぱりどうしてもできないみたいで、「……さん」と優花里はささやいた。  ぞくり、と嬉しい寒気がおなかへ走る。呼び方ひとつで、ぐっと優花里が近づいてくれた気がした。 「もういっぺん」 「みほ、さん」 「もういっぺん」 「みほさん……」 「……優花里さん」  胴に腕を回して引き寄せると、肩に腕を回して抱き締められた。  息を吸うと、どっと香りが胸に満ちる。髪の温かみ、汗の匂い、夏の香り。そこに飛びこんで何も考えずに転がり回ってしまいたいような、懐かしくて優しい香り。  引き締まったしなやかな腕と胸が、自分を包む。肘と膝で体を支えて、のしかからないようにしてる。そんなことしなくていい。重さを全部かけてほしい。抱き寄せて、胸もおなかも脚もすっかり重ねてもらう。 「乗って、優花里さん。くっついて」 「にし……みほさん、こんなにぴったり……」 「いいから。ぎゅーってして! あっためて……」 「は、はい……」  装填手の力強い腕が、しっかりと捉まえてくれる。  溶けちゃいそう、とみほは目を閉じた。  二人で抱き合うのは、しびれるような最高の時間だった。何も考えずに相手の存在だけを感じていればよかった。  手のひらで背中を撫でまわし、頭を抱いた。髪をくしゅくしゅとかき回すと、「んくぅ……」と優花里が鼻を鳴らした。 「髪、いやだっけ……」 「んえ」  優花里が首を振る。みほのセーラーの襟に口を埋めているので、声がくぐもっている。 「きもちいいです……ほんとは」 「いつも、嫌がるのに?」 「時と場所ですよ……そこらでむやみと触られても、気持ちよくなれないじゃないですか」 「じゃあ、今は?」  五本の指を深々と髪に埋める。引っ張らないように気を付けながら、するすると梳き通す。指先を立てて、カリカリ、と頭皮をかく。  びくびくっ、と優花里が震えた。 「ふぅんっ……んん……くぅ……」 「きもちいい?」 「い、いいです……すごく、ぞわぞわして……」  返事の続きに、優花里がみほの頭に触れた。突然みほは理解した。 「んぃっ!?」  さりさりと指先が頭皮を這い回る。ぺたり、と手の平で覆う。くるり、くるりと、と撫でまわす。  それは優花里が言うように、神経をかき鳴らされるような甘い快感だった。「ほ、ほんとだぁ……」とみほは吐息を漏らす。 「ね、いいでしょう? くぅぅん」 「ふぁ、ふああぁ……」  二人で競うように頭を撫で合う。直接触られる部分だけでなく、背中から腕から、触れている自分の指先まで震えてしまうような心地よさだった。 「優花里さん、すき、すき」 「んっ、私も……みほさんの髪の毛、さらさらで……」  声を漏らしながら頭を揺らしていると、不意に目が合った。 「あ……」 「……」  この上ない近さだった。鼻と鼻のあいだに指も入らない。お互い瞳をかすませて、目もとを赤く染めている。 「んっ」  思い切ってというよりも、ほとんど本能的に、唇を押し付けていた。  柔らかくて、湿っていた。吐息は感じられなかった。二人とも反射的に息を止めていた。動かすこともできなかった。ただ全身の意識だけがそこに集まっていた。  数秒か、それより少しだけ長い口づけをして、そっと顔を離した。目を見張っていた。信じられない、という顔。 「キス」 「はい……」 「しちゃった……」  すごいことをしちゃった、という思いが一瞬頭の中に渦巻いた。たぶん、優花里もいっしょみたいだった。唇が震えている。ううん、これは……自分とは、ちょっとだけ違う。  優花里が謝り始める寸前に、みほは手に力を入れて、もう一度だけ、んんっ、とキスした。そして顔を離すと、えへ、と微笑んだ。 「ファーストキスと、もう一つおまけだよ。優花里さん」 「み……みほさん……」  ふわっ、と嬉しそうに微笑んだ優花里が、ぐっと頭を抱き寄せた。みほは逆らわずに従う。  優花里の自信を持った唇が、しっかりと奪ってくれた。唇がつぶれるほど強く――少しだけ息まで感じさせて、長く捺していった。 「……はあっ!」  それが離れるときにはもう、みほは感激でくらくらしてしまっていた。自分のいちばん好きなところを、優花里が剥き出しにしてくれた。 「わ、私は、三つめまでさしあげます!」 「優花里さん……!」  四つめから先は、もう数えてなんかいられなくなった。上になった優花里と下になったみほが、お互いにプレゼントを渡し合うみたいにして、何度も唇を押し当てた。  そのうちにみほがごろりと体を回して、優花里を隣に横たわらせる。体が開いて、手の行き場が増えた。肩を撫で、腰を撫で、お尻を撫でる。背中のしっかりした厚みが素敵だった。 「優花里さん、さ。鍛えてるよね。着てるとわかんないけど、お風呂で見るじゃない? ここ……筋肉がすらっとついてて、ほんと好きだよぅ……」  肩甲骨のあたりを撫でまわすと、「んぃぃい」とくすぐったそうに目を閉じた優花里が、みほの腰のあたりを手でつかむ。 「お言葉ですが、みほどの。わた、私もですねっ、みほどののこの体……柔らかくて優しそうで、ほんとに、ほんとに……」 「もう、なんでみほどのになってるの?」 「す、すみません。つい……」 「いいよ、もう、なんでも……」  頭から腰への愛撫、あいまあいまに際限なく繰り返すキス。重ねるほどにどんどん体が熱くなっていった。触れた部分がジンとうずく。こすれ合う膝。二人の胸。  先に意識したのは優花里のほうだった。は、は、と息をしながら、白と緑のセーラーの胸をこすりつけている。二人とも背丈はほぼ同じだ。なだらかな丘の頂が、くむくむとお互いをくすぐり合う。  遅れて気づいたみほが、「あ、あの……」と声を詰まらせる。 「それ……んんっ……優花里さん?」 「はい……ここ、いやですか?」 「いやじゃない、けど……」  サージの布とカップに隔てられていてなお、そこがいつもより敏感になっているのがわかった。まず自分がそんなふうになるのが初めてで、みほは恥ずかしくなった。  そこから、いま自分たちがしていることを、意識してしまう。 「待って、優花里さん、ちょっと待って……」 「ふぁ、んん……はい」  優花里はいつでも素直だ。そっと押し当てたまま動きを止めて、みほの言葉を待つ。 「これって、さ……えっちなこと、だよね」 「はい」うなずいてから、優花里は照れくさそうに目を細める。「えっちなこと、しちゃってますね……!」 「い、いいのかな?」 「いい、とは?」 「だって私、初めてで。こういうのって、もっと大人になってからやるんだろうなって、思ってて……」 「はい。私も、そう思ってました」  言いながら、優花里はみほの膝のあいだに、するりと膝を入れる。それだけで滑らかな肌の感触が心地よくて、「んっ……」と二人は目を閉じる。 「……だから、これがこんなに気持ちいいなんて、知りませんでした。みほどのは……?」 「私も知らなかったよ……!」 「ここから、どんなことするのかって、詳しく知ってるわけじゃないですけど。私、みほどのとなら――」鼻と唇に、ちゅ、ちゅ、とキスをする。「なんだって、できそうな気がするんです」 「わ、待って、私はまだ――」 「はい」  汗ばんだ顔に、優花里は澄んだ笑みを浮かべる。 「みほどののお気持ちがいちばんです。無理になんて、したくないです。どうしますか?」 「優花里さん……」  自分がしたいことがあるけれど、こっちの気持ちを考えてくれる。そんな優花里の態度に、みほは胸が温かくなった。逆に、この人とならなんでもできそう、という気持ちになってくる。 「じゃあ、あのね」 「はい」  うなずく優花里に、みほはこれ以上ないほどの小声で、ひそひそと伝える。 「私も、もうちょっと続けてみたい……けど」 「はい」 「それはだめ、ってことがあるかもしれない」 「はい、ええ」 「だから、ちょっとずつ。無理だったらやめる、ってことで……いい?」 「はい!」  優花里が嬉しそうに答えてから、んーっと肩を震わせて、ぎゅっとみほを抱きしめた。 「みほどの可愛いですぅ……!」 「やっ、は、そう……?」  びっくりしてみほは少しだけもがいたけれど、優花里は以前初めてハグしたときみたいに、あわてて離れたりしなかった。愛しそうに抱いていてくれる。それだけ二人が近づいたんだと、みほも嬉しくなった。 「優花里さん、離れて。……む、胸だよね」  二人のあいだに隙間を作って、みほは優花里の手を取る。セーラーとキャミソールのあいだに導いた。カップ越しに触れさせて、自分も優花里の服に手を入れる。  それは、うずうずと体が切なくなってくるような触れ合いだったけれど、すぐにもどかしくなってきた。 「ね……脱がない?」 「ですよね。やっぱりこれだと、服がごわごわしちゃいますね」 「んしょ」  身を起こして、セーラーのファスナーを上げた。もぞもぞ脱いでキャミソール姿になると、立ち上がってスカートからキャミを引っぱり抜いて、それも脱ぎ捨てた。  みほはわりと手早くそこまで済ませたのだが、隣を見ると優花里はまだセーラーを頭から抜くところでもたもたしていた。「どうしたの、引っかかったの?」と聞くと、差し上げたセーラーの襟から顔だけ出した、怪獣みたいなかっこうで、優花里がはにかんだ。 「な、なんかですね。みほどのの部屋で服を脱ぐのって、恥ずかしくて……」 「……あ、そうだよね」  みほにも覚えのある感覚だった。熊本から大洗に越してきた初日、アパートの見知らぬバスルームで裸になるのは、馴染みがなくて妙に恥ずかしかったものだ。 「じゃあ、こうしない? んと」  みほは部屋とキッチンの照明を切って回った。テレビをつけて音を消し、カーディガンをかぶせる。  みんなが食事をしておしゃべりした明るい部屋は消えて、灰色のぼんやりした空間になった。ウール越しの瞬く光だけが、家具の輪郭と二人の横顔をほのかに照らす。  また、空気が変わった――と、みほは感じる。戦車の話や学校の話は、もう別の世界のこと。ここは、私たち二人だけの、世界。 「どう?」  ベッドに戻ると、優花里がうなずいてそそくさとセーラーを脱いだ。彼女が下に着ていたのは戦争映画ネタのTシャツで、それも脱ぐと、迷彩柄のスポーツブラをつけていた。  二人ともブラジャーだけで、むき出しの肩を並べて、照れながら微笑み合う。 「なんか、すごくいけない雰囲気ですね、これ……」 「うん、お風呂とか更衣室では平気なのにね。えへへ……」 「あっ、みほどののそれ、すごく可愛いです。女の子っぽくて」  レースに縁どられた初々しい若草色のブラを、優花里が指さす。そう? と小首をかしげてから、みほも優花里の肩に触れる。 「優花里さんもかわいいよ。似合ってるよ」 「そうですかぁ? 私なんかこんな色気のないやつで……」 「そんなことないって」  本当はかわいいっていうより、かっこいい、かな。みほは思う。優花里の肩にうっすらと筋肉が浮き出している。服を脱いだせいで、彼女の汗の香りが広やかに漂い出している。  そんな優花里も、手を伸ばしてみほの肩をさすり始めた。ふにっ、と二の腕をつまんで、言う。  「みほどのって、ほんとに肩細いですよね」 「そうかな?」 「はい。ときどき、すごく不思議になるんです。こんなに細くて華奢なのに、どうしてあんなに立派に、胸を張ってキューポラに立っていられるんだろうって」 「そういうときは、必死だから……」 「私は脱いだら筋肉があるって言っていただけましたけど、みほどのは逆に、脱いだらもっと細いですよ……痛々しいぐらい」  言いながら優花里は両手で二の腕をさすり下ろし、ぎゅっと体ごと挟むようにした。「ひゃっ」と声を上げるみほを見て、目を潤ませる。 「ほら、こんなに細いです。……抱きしめていいですか?」 「うん……でも待って。これは?」  つい、とブラの真ん中のリボンをつまんでみせる。ひゃぁぁ……と優花里が口を開ける。 「それもいっちゃいます? みほどの、えっちです……」 「だ、だって、抱き合ってるとき邪魔じゃなかった? 優花里さんだって、取りたいなって思ったでしょ?」 「そ、それは……」 「思わなかった?」 「……思いました」赤い顔で、優花里はこくんとうなずく。「何もつけないみほどのを見たいなって……でも、いいんですかね? 見ちゃって」 「ゆ、優花里さんも脱ぐんだから!」みほは拳を握って力説する。「見せっこだから。いいよ、お互いさまなんだから!」 「うひゃぁぁ……みほどのと見せっこですか……」  頭を抱えてわしゃわしゃしてから、んっと気合を入れるそぶりをして、優花里は座りなおした。 「ど、どうぞ、みほどの! 私なんかの裸でよければお捧げします!」 「優花里さん、そんなに頑張らなくていいから……」  そう言うとみほは優花里の腋に手をやって、「ばんざいして?」と声をかけた。んっ、と優花里が目を閉じて腕を上げる。  スポブラは少しきつくて、脇腹に食い込んでいた。両手でそれをつまんで引き上げる。ふさふさの髪の毛がすぽりと抜けると、みほは優花里の胸に目を落とした。  あ、きれい……というのが、最初の感想だった。  男の子っぽいイメージばかりが先に立っていたし、お風呂などでも意識して見たことがないので気づかなかったけれど、優花里の乳房は胸の筋肉に沿ってのびやかに盛り上がり、縦長のなだらかな丘を形作っていた。先っぽは少しくすんだ色の小さな点で、さっきこすり合っていた名残か、真ん中がちょっとだけツンと尖っている。 「わあ……」  思わず手のひらですっぽり覆ってしまいたくなるような可愛らしさに、みほは目を惹き付けられた。優花里はそこを隠したくなるのをがまんしているみたいで、浮いた手をぶるぶる震わせている。 「あの、みほどのっ……」 「あ、ごめんね? つい見とれちゃった」 「見るほどのものじゃないですよぅ……」 「そんなことない。かわいいよ……!」 「ううー……」  恥ずかしげににらんだ優花里が、さっとみほの腋に手を伸ばす。「あっ――」と驚いたが、みほは懸命にこらえた。お互いさまの約束だ。  優花里は緊張した顔で抱きすくめるように両脇に手を入れた。さすがに普通にブラの作りは知っているらしく、背中のバンドをきゅっと寄せ合わせてホックを外す。肩のストラップを左右に払って、おずおずとカップを取り去る。  湿った柔肌が空気にさらされて、ひやりとした。まじまじと見つめた優花里が、「おおぅ……」と低い声を漏らした。 「優花里さん?」 「知ってるつもりではいましたけど、こうして間近で見ると、やっぱり……みほどの、けっこうありますよね」 「えっ? 普通、普通だよ!」 「普通なんかじゃないですよう。みほどのって……」そっと手を伸ばして、乳房に触れる。「び……美しいです……」 「や、やめてよぉ……」  優花里はすごく真剣な顔で、手のひらを沿わせてきた。丘の下側に張り付けて、そっと持ち上げるように搾る。生まれて初めて自分のものではない手に触れられて、みほは少しだけ緊張する。  でも、怖がらなくてもよかった。柔らかな丘にふんわりと指が食い込むと、頭を撫でられるのに似た心地よさが、じぃんと広がった。 「あ、それ……」 「いいですか?」 「うん……ふにふに、して……」  ゆっくりと包むように、優花里が胸を揉んでくれる。すぐ内側の心臓がどきどきと鳴って、また気持ちが熱く高まってくる。先っぽに感覚が集まってちりちりする。優花里は注意深くそこを避けているみたいだ。 「さ、先っぽもさわって……」とみほは口に出す。 「はい……」  つん、と指の腹で触れられるとピリッとした。つむ、つむ、と押し込まれると、ジン、ジン、と音がするような気がした。くっきりと硬くなってきたのが自分でもわかる。「つまんで」。遠慮がちにきゅっと挟まれると、じぃぃんっ……と心地よさが響いた。頭の芯がしびれる。 「きもちいいよ……優花里さん……」 「み、みほどの」  優花里は感激して目を細め、腰をぐっと近づけてぴったりと寄り添ってきた。片手を腰に回して、念入りに愛撫してくれる。触れられるほどに、とろけるような幸福感が湧き出してくる。みほは優花里の肩に額をこすりつけ、唇を当てて、細い声を漏らした。 「はあ……優花里さん、すてき……もっとさわって……」 「はい……はい!」 「私もしてあげる」  右手で愛撫してくれる優花里の胸に、みほも左手を伸ばした。自分がされているのと同じにすくい上げようとすると、他愛もなくすっぽりと手に収まってしまう。だから、くぼめた手のひらで全体を包んで、やさしく押して回すようにした。「あ、みほどの、あっ……」と優花里も声を上げた。 「ね、いいでしょ?」 「はい……じんじんします……」 「だよね。ね、素敵だね。さわると、こんなにきもちいいんだね」 「はいっ……!」  怖くはないし、痛くもない。それがわかってきたから、思い切ってこねるように揉み始めた。下から撫でつけるように乳房を押しつぶし、手で挟んで揉みこんだ。やりすぎて少し痛むこともあったけれど、顔を見てすぐに加減できた。  胸だけでなく、腋にも腹にも首にも、くまなく手を滑らせた。今はもうお互いの上半身のどこもかしこも、さわりたいところで、さわっていいところだった。 「優花里さぁん」「みほどのっ」  どちらからともなくまたキスして、抱き合った。 「んむ……」「くふん」  二人の間で柔らかな丘が押しつぶされ、ふにふにと流れて形を変えた。ぽつりと突き出したお互いの先端が感じられる。意識して合わせてみると、優花里も乗ってくれた。硬い場所同士がこりこりとぶつかって潰れて、じりじりと気持ちよくうずく。  すごくえっちだ、と感じる。口には出せない。口は重なり合って、求めあって、声より舌が出てしまっていた。  キスそのものが快感だった。濡れた温かい感触にひきずられて、ともすれば乳首のほうを忘れてしまうほど。軽くついばんでいたのは最初だけで、「ふあ」と優花里が息を漏らした瞬間に、その唇の隙間をちろりと舐めた。  それで、呼びこんでしまった。優花里が舌を入れてきて、みほの舌先と、歯をくすぐってから、抵抗がないのを感じ取ったらしく、覆いかぶさるようにさらに深く挿入してきた。  んっ、優花里さん、優花里さん、優花里さん……!  みほは声にならない叫びを上げ続ける。優花里はみほを両腕ごと抱き締めて、熱烈に唇を奪い続ける。深く入れた舌を絡めて、唾液を吸い立てて、唇の内側を一周して――みほが少しでも合わせようと舌を出すと、今度はそれを吸って、自分の口内でぬるぬるとねぶり上げて、んくっと喉を動かして呑みこんで、さらに唇をむぐむぐと動かして、みほの唇を吸い立てた。  すごい、優花里さん、すごいっ……!  注ぎこまれる快感だけで、目も見えなくなるほど興奮した。タガの外れた優花里は抱擁もすごくて、胸ごと体がつぶれるほどの力で抱き締めてくる。息が詰まって、ぞくぞくと鳥肌が立った。  それどころか気が遠くなりかけたので、みほは肩をぱんぱんと叩いて、降参の合図をした。 「んんっ、ぷはぁっ。ま、まって、優花里さんまって……」 「はぁっ、はっ、みほどの?」 「死んじゃうよぉ……」  はあ、はあ、と激しく胸を上下させて、みほはあえぐ。目の前がちかちかして失神しそうだった。 「優花里さん、すごすぎ……」 「あわわ……申し訳ありません! つい夢中で」  優花里が腕の力をゆるめたので、みほはくんなりと倒れ込みそうになる。あわててまた抱きとめて、「みほどの、大丈夫ですか?」と優花里が覗きこむ。 「ん、大丈夫……」  手で肩に触れて押しとどめる。唾液の光る口元から、はー、はー、と熱い息をこぼしながら、みほはうっとりと微笑んだ。 「苦しいけど、すてきだった。優花里さんに愛されてるって気がして、ぞくぞくした……」 「愛……」ぞぞっ、と優花里が細かく震えた。「み、みほどの……!」 「あ、待って待って」  もう一度腕に力をこめようとした優花里を、あわててみほは押し留めた。 「すてきだけど、もうちょっとゆったりして? ね?」 「はい! ゆったりですね?」  二人は微笑み合って、今度は息継ぎを挟みながら、ゆるやかにキスを再開した。  乳房を押し付け合って、額やあごにも唇を当て、背中に長く手のひらを滑らせ、指と指をからめる。「優花里さん」と小さく呼んで、「みほどのっ」と弾むように答える。  それは、こんなふうにできたらいいな、とみほが思っていた触れ合いそのものだった。満ち足りた優花里の顔から、同じ思いだとわかった。  そうやって長いあいだ安らかに肌を重ねていたけれど、何度か、ぎこちなくなるときがあった。それは、からみ合わせていたお互いの膝が深く入ってしまって、脚の付け根が当たったときだった。なんともいえない、甘く強い刺激がジンッと走って、思わず「んっ……」と息を止めた。  そんなとき優花里の目は、もっとそれをしたい、と懇願しているようだった。その意味が分からないなりに、応えてあげたい気はした。でもそんなところに触れるなんて、考えたこともなかった。  何度目かにスカート越しに優花里の腿が当たって、「みほどのぉ……」と彼女が訴えたとき、みほは懸命に自制して首を振っていた。 「だ、だめだから、優花里さん。それはだめ……」 「いやですか?」  いやじゃない、と言ったらそのまま流されてしまいそうだったから、ふるふると首だけ振った。 「とにかく、待って。そんなのは、だめ……」 「……はい。わかりました」  多分、本心でないことまで察したのだと思うけれど、それでも優花里はうなずいてくれた。  彼女がおとなしく従ってくれたので、みほは安心したけれど、かえって悪いような気持ちになってきた。それで、優花里の腕枕で横たわりながら、静かにささやいた。 「あのね、優花里さん……優花里さんて、えっちなの?」 「え、えっちですか」唐突な質問に戸惑ったのか、はにかんで小首をかしげる。「どうなんですかね。普通……だと思ってますけど。みほどのにさわりたいなって思うぐらいで……」 「うん、それは私もだけど……」見慣れた天井を見つめながら、ぽつりとつぶやく。「私、知識が全然ないんだよね。えっちなことの。好きな人同士で、キスをして抱き合う……ってことまでは、うっすらと知ってたけど、そこから先、わからないの」 「……本とか、映画とかでもですか?」 「うん、ずっと戦車道ばかりだったから。実家も前の学校も、そういうこと話す感じじゃなかったし……」 「でしょうねー、西住流」深くうなずいてから、優花里は少し目を逸らす。「私は、ほら……戦争映画って、けっこうラブシーンもあるじゃないですか。戦場に出かける男と、引き止める女、みたいな。そういうので、わりといろいろ……」 「そうなんだ。じゃあ、ここから先のこともわかるの?」 「さあ、それは……」 「あ、そうか。女同士の戦争映画って、なさそうだよね」言って、くすりと笑う。「じゃあ、優花里さんも、この先知らないんだ」 「てはは。そう言われるとそうです」ぽりぽりとあごをかいた優花里が、でも、と目を向ける。「ほんと言うとですね……あの、もっとえっちなこと話してもいいですか?」 「う、うん」みほは真剣な目を向ける。「いいよ。どんなこと?」 「自分一人では、それなりにしちゃったりしてまして……」 「え」みほは口元を押さえる。「一人? それってどんな……」 「あ、やっぱりみほどのは、それもまだなんですね」優花里はいたずらっぽい顔になる。「一人っていうのはですね、好きな人のことを考えて、自分で、その……さわったりします」 「さわるの? それって、もしかして……?」 「えっと」決まり悪そうに目を逸らしつつ、優花里はみほの手を取って、自分のスカートの前に、そっと押し当てた。「はい、そうです。こういうところ、ですっ……」 「はわぁ……」  みほは思わず口を開けて、混乱した言葉を漏らしてしまう。 「そ、それで、そこさわるの? あれって、そういうことなの? でもだって私、そこはお風呂でしかさわったらダメって思ってて……」 「みほどの、知らなかったなら無理もないです。そういうの、抵抗あるんですね。だったら急がなくてもいいと思います。これって、気持ちが高まったら自然にすることですから」  みほの手を大事に胸元に戻して、優花里はおだやかにうなずいた。 「みほどのがその気になってくれたらでいいです。私、待ちますから」 「優花里さん……」  返された手を胸元に抱き締めつつ、みほはそれまでとは違う新しい気持ちになっていた。 「優花里さんは、知ってるんだよね。どうするのか……」 「はあ、まあ。自分のことなら……」 「私も同じ女の子だし、それってたぶん、そんなに変わらないよね」 「かもしれませんけどですね、みほどの、そんなに焦らなくても――」 「焦ってないよ。知らなかっただけだよ」首を振ると、みほは優花里に顔を寄せていた。「教えて、って言ったら……いや?」 「みほどの……それはさっき、だめって……」 「言ったけど、優花里さんはしてるんでしょ」  うちでいけないと言われていたことを、してしまう。その楽しさを、みほはもう知っている。 「だったら、してみたい。怖いけど、やってみたいよ。優花里さん……どう?」 「そっ、あの、みほどのぉ……」  追い詰められた優花里は、頭を反らして何かをこらえるみたいにぶるぶる震えていたが、不意にみほの肩をつかんで顔を寄せた。 「そ、そんなこと言われたら、私がまんできなくなっちゃいますよ!?」 「う……」優花里の勢いに少しだけみほは引いたが、決心して、うなずこうとした。 「い……いいよ。優花里さん、なら――」 「みほどの……!」  優花里が再び肩を抱きしめようとした、そのときだった。  どかーん! どかーん! どかーん! どかーん! 「ひゃあっ?」「あわっ?」  背後から響いた轟音に、二人は思わず飛び上がった。  優花里の携帯の着信音だった。あわててリュックに飛びついた優花里が、「あっ、親です。うえっ、もう十一時!?」と声を上げ、電話に出て平謝りに謝った。  通話を終えて振り向いた優花里は、情けない泣き顔だった。 「……みほどの、申し訳ありませんー。門限とっくに過ぎちゃってました。今夜はもう帰らなきゃです」 「そ、そっか。ごめんね優花里さん、こんな遅くまで」 「いえ、みほどののせいじゃありませんから!」  手早く服を着こんで、照明をつけた。玄関に出て靴を履いた優花里が、トントンと爪先を立てながら、振り向いて気弱に笑った。 「あのっほんと……なんかひどい成り行きで、すみませんでした」 「謝らないで、優花里さん」みほはぶんぶん首を振って、しっかりと優花里の後ろ手を握る。「すごく楽しかったよ。嬉しかった! 私たち、付き合っちゃったんだよ!」 「そ、そうですね」 「明日から恋人同士だよ。これっ、もう、なんて言ったらいいか……」  言葉に迷ってわたわたするみほを見つめると、優花里は顔を寄せて、ちゅっとキスした。  可愛らしく目もとを染めて、うなずく。 「一生の思い出、ですよね」 「……うんっ」 「じゃ失礼します、また明日!」 「おやすみなさい、気を付けてね!」  優花里は玄関から飛び出して駆けていく。みほは階段まで出て、道路を走る彼女の姿が曲がり角で消えるまで見送った。  それからふらふらと部屋に入っていき、ベッドに腰かけようとして、あわてて玄関に戻って鍵をかけてから、またベッドへ向かって、ぽすんと倒れ込んだ。  シーツに、夏草のような爽やかな汗の香りが残っていた。 「優花里……さん」  すぅーっと胸いっぱい吸い込むと、まだ彼女がそこにいるような気がした。はにかんだ笑顔。しっかりした肩。きれいな胸。手に、胸に、唇に、まざまざと感触がよみがえる。  付き合っちゃったんだ。 「……えへへへぇ……」  ゆるみ切った笑みを浮かべて、ごろんと仰向けになる。その拍子に、下着がくちゅりと食い込んだ。思い出してスカートの中をもぞもぞとまさぐり、「うわ」と顔をしかめる。股のところが前からお尻のほうまでぐっしょりと濡れていた。 「こんなになってたんだ……」  バレなくてよかった、と思うのと同時に、あのまま続けたらここも触られちゃってたんだ……と気づいて、思わず顔を押さえる。 「うわー……恥ずかしー……」  ……優花里さん、自分でさわる、って言ってたよね。  好きな人のことを思い浮かべて……?  ごろり、とまたうつ伏せる。香りを吸い込む。中断されてしまった高ぶりが、すぐに戻ってくる。胸がどきどきする。 「優花里……さん」  おなかの下から脚のあいだに手をやって、そっと奥をさすってみる。 「あっ」  最初の心地よいしびれが、体の芯を貫いた。 「はっ、はっ、はっ、はっ……」  優花里は夜の学園艦を走っていた。ロードワーク並みの勢いだった。もちろん、早く家に着きたいからなんかじゃない。走らずにはいられないからだった。  西住どのが……みほどのが……恋人……!  ずっと、一歩離れていた。誰からも好かれる沙織と、強くて美しい華に挟まれたみほを、素敵だと思ってきた。へそ曲がりで面倒くさがりの麻子を本気で働かせるみほを、尊敬していた。縁の下の力持ちであることに満足してきた。  その人がいきなりすっぽりと腕の中に収まってくれたのだ。  同情やただの好奇心なんかだとしても、文句は言わなかったと思う。それなのにみほは飾りも建前もなく、一人の女の子として自分の前に来て、自分が一番だと言ってくれたのだ。  信じられないという言葉でも、まだ足りなかった。夢に決まっていた。嘘みたいに体が軽かった。空でも飛べそうだった。「ううーっ」とうめいて袖で顔を拭う。わけのわからない涙があふれていた。心がぐちゃぐちゃだった。こんなに嬉しいことをどう喜んでいいかわからなかった。  袖からふわりと、春の宵に咲く花みたいな、甘い匂いがした。  抱き締めた髪の匂い。  それを嗅ぐと、優花里は足を緩めた。  みほに好かれるより早く、ずっとこの匂いを好いてきた。いつも戦車の中で左後ろから漂ってくる匂い。アドレナリンが底無しに湧き出してくる頼もしい匂い。みんなと話しているときにはその場をすっぽり包むような優しい匂い。一人でいるときには少しだけ寂しそうで、守ってあげたくなるような、あえかな匂い。  あの春の日、木陰でうじうじしていた自分に、明るく吹いてきてくれた風の匂い。 「みほどの……」  夢なんかじゃない。これは……。  彼女と、とんでもないことをしてしまった証。 「うわっ……うわぁ……」  思い返して真っ赤になる。告白して、キスをして、服を脱いで、素肌でからみあって……それから調子に乗って、何を話したっけ?  一人でしてます、とか。こういうところです、とか。それから……あのみほどのに、してみたい、なんて言わせてしまって。 「わ、私、なんてことをー!」  心から尊敬していた人にいけないことを教えてしまった、喜びとうしろめたさで、優花里の頭はさらにぐしゃぐしゃになる。髪の毛をかき回してぐるぐる回りながらふらふら歩いて、電柱にぶつかりそうになってあわてて避ける。 「みほどの、申し訳ありません……ごめんなさい……最高です……すみませぇん……」  にやけているのか泣いているのかわからない顔で、優花里はよろよろと歩いていく。      〇oooooooo〇 「きりーつ、れーい」 「あー今日も終わったー」「ねー今日うちで勉強会しない?」「いーねー」  翌日の放課後、さざめきが満ちる2−Cの教室から飛び出して、優花里はA組の前に向かう。しかしA組には目当ての人たちはいなかった。ホームルームが早めに終わってもう解散したらしい。  朝から今まで、あんこうチームの面々と一度も顔を合わせていない。そういうことはたまにある。優花里は携帯を覗きながら校庭に出る。エルヴィンからメールが来ている。レンガ造りの戦車格納庫へ走る。 「あっ、ゆかりん。はおー」  先に来ていた沙織が手を振る。四号の横に机を置いて、教科書を挟んで麻子と向き合っている。「試験勉強ですか?」と聞くと沙織がうなずく。 「数学苦手でさー。麻子に見てもらってるの。私このままだと単位微妙で。ほんと戦車道だけで卒業できればいいのにねー!」 「そういうわけにいくか。二級ハムと女子力だけで生きていけるほど世の中は甘くないぞ」 「あーっ麻子にそんなこと言われた! あんたこそその寝起きの悪さでこの先やっていけるの?」 「だから面倒見てる。沙織より先に卒業したら起こしてもらえない」 「一生起こさなきゃいけないの!?」  麻子が優花里に目を向けて、一緒にやるか? と聞いてから、ああ、とうなずく。 「秋山さんは理系強かったな」 「あっはいまあ、弾道計算とか金属強度なんかはですね。あのー、他の人は?」 「華は生徒会に引っ張られてった。あの子仕事できるから、最近会長たちに気に入られてるのよね。ひょっとしたら後継ぎにされちゃうかも。テスト前だっていうのに、大変だよねー」 「生徒会の後継ぎとおっしゃるなら、もっとふさわしい人がいるような……」 「あー、みぽりん?」  言ってから、沙織は眉をひそめて、「メール来てない?」と言った。 「来てませんが……」 「ゆかりんに来てないって、なんでだろ。あの子今日、補習」 「補習!?」 「私といっしょー。てか、私よりやばいみたい。物理教室行ってるはずだよ。みぽりん、戦車道してるととんでもなくすごいけど、成績のほうはそんなでもないのよ」 「そんな、あの西住どのが補習なんて、おいたわしい……」 「ねー、間違ってるよね! みぽりんが本気になったら学校なんかぶっ潰しちゃえるのに!」 「みんなで守ったものをぶっ潰してどうする」 「あっ、そうだったー! でも、連絡ないって変だよねえ。みぽりんがゆかりんのことほっとくはずがないのに」 「そ、そういうこともありますよ。西住どの、けっこううっかりしたとこありますし……」  優花里が苦笑していると、「グデーリアン!」と戦車の向こうから声がかかる。  ドイツ軍装コスプレをした歴女チームのエルヴィンがやってきて、がっしと肩をつかむ。 「メールは見てくれたか? いいところに来た。これぞ天の配剤だ。ワーテルローのプロシア軍だ!」 「なんですか? エルヴィンどの」 「実は我々は苦境に陥っている。歴史のことならどんな問題にでも胸を張って答えてやるのだが……」くっ、と拳を握ってエルヴィンは叫ぶ。「物理と数学はさっぱりなのだ! グデーリアン、おまえはその分野が得意だと聞いた。どうか我々に力を貸してくれないか?」 「あはは、そういうことなら……」  みほが補習なら、しばらく待っていてもいいな、と優花里は判断する。帰りにはきっとここへ寄ってくれるだろう。 「お手伝いしますよ!」 「おお、助かるぞ!」  ところがそれは、判断ミスだった。三突の横で五人でテーブルを囲んであれこれやっているうちに、気がつくと三時間も過ぎていた。歴女チームに別れを告げて戻ると、沙織と麻子の姿はすでになく、先に帰ったらしかった。  夕日に照らされた校庭を横切り、校舎を見て回ると、生徒会室ではまだ人々が動いていて、物理教室はもう閉められていた。華はまだ働いているみたいだし、補習は終わったのだろう。  携帯を見たけれど、誰からもメールは来ていなかった。 「すれ違いになっちゃったかな……」  校門を出て家路につく。すでに秋が深まっていて、海から吹く風が冷たかった。  明るいコンビニの店内で、帰宅途中の生徒たちが棚を見ている。  車がそばの道路を行き交う。  前にも後ろにも人影はない。  胸の奥がひんやりと沈んでいく。  世界の誰もかれもが、親しい人と快適に過ごしているのに、自分だけ放っておかれているような、寂しい気持ちに襲われる。  別に、いつものことだ。  戦車道を始める前は毎日一人で学校に通っていたし、チームのみんなと仲良くなってからも、毎日五人でいるわけではなかった。それぞれ都合があるから、一人で帰ることだってあった。ほんの二、三日前もそうだった。  今日は沙織と麻子に会えたし、エルヴィンどのたちと楽しく勉強ができたんだから、よかったじゃないか、と自分に言い聞かせてみた。  けれども、だめだった。  歩くにつれて、足取りが重くなってきた。今日はこんな日じゃないはずだった。昨日に続く特別の日のはずだった。朝からわくわくして学校に来た。  それなのに、こんなふうに一人で帰るなんて。 「うう……なんでですかぁ……」  みほは携帯を忘れたのかもしれない。それとも、壊したのかも。  でもそれなら、同じクラスの沙織に頼んで伝言ぐらいしてくれるはず。言ってくれれば、朝までだって待ってもよかった。  それとも。 「まさか、私、やらかしちゃったとか……」  西住流のお嬢様の、無垢なみほに、変なことを教えすぎたせいで。一夜明けたところでみほが冷静になって、引いてしまったのかもしれない。困って顔を見せられないのだ。そのうちに改めて、優花里さんごめんね、あの夜は流されちゃったけど、よく考えたら……と、謝られるのかもしれない。 「あ、もうだめです私。これはだめ……」  考えすぎでふらふらになって、気がつくと目の前で赤青白のサインポールがくるくると回っていた。自分の家だった。窓の中で父母が笑顔で接客している。笑顔でただいまと言わなければいけない。心配性の両親の目をなんとか切り抜けて部屋に入らないと。  優花里はパンパンと自分の頬を叩いて気合を入れ、「よしっ」とドアに手をかけた。  どかーん! どかーん! どかーん! どかーん! と携帯が鳴って、飛び上がった。 「ふわっ!? え、あ、みほどの!?」  着信表示に驚きながら耳に当てる。 「秋山です!」 「あ……優花里さん? もう勉強会、終わった?」 「勉強会、って……」 「カバさんチームと、やってたじゃない。格納庫で」 「あれ、いらしたんですか!?」 「うん。でも楽しそうだったから、お邪魔しちゃ悪いかなって……」 「そっ、そんなことないです! 大歓迎でしたのに! 今どこですか?」 「えっ、私? 私はもう、うちだよ。あの……あのね、優花里さん」 「はい」 「今日、どうしてメールも電話もくれなかったの?」  その言葉を耳にしたとたんに、優花里はそばのサインポールに頭をぶつけてかち割りたくなった。電話を手で押さえて店に顔を突っこむ。 「ただいま! 行ってきます!」 「あれっ、優花里?」「どこ行くの?」 「みほどののところへ! また遅くなるから!」  そう言うと駆け出しながら、携帯に叫んだ。 「私、今すぐ近くですから! おうかがいします!」  アパートの四階まで一息に駆け上がった。チャイムを鳴らしながら、最初のひと言は決めていた。足音が近づいてくると直立不動になった。ドアが開いて、何かの料理の匂いとともに「優花里さ――」と声が流れ出したとたんに、九十度体を折って叫んだ。 「申し訳ありませんでした、みほどの!」 「優花里……さん」  ボーダーのトレーナーとズボン姿のみほが、「どうしたの?」と目を丸くする。  優花里は顔を上げられないままで言う。 「私、みほどのからご連絡があるのを待って、何もしませんでした。こちらからご連絡するべきでした! 待っていらっしゃるって信じられなくて、変なことばかりぐじぐじ考えてしまって……」 「考え……てたの?」 「はい。みほどのの気が変わられたんだったら、どうしようって……」 「そ、そんなわけないよ。私も朝からずっと優花里さんのこと考えてたよ。でも――実は、補習になっちゃって。それを言うのが恥ずかしかったから、ついメールしなくって……」 「そうだったんですか」  優花里が顔を上げると、みほは照れ笑いしながら言った。 「うん、だめだよね、隊長がこんなのじゃ。それで、たぶん優花里さんは格納庫で待っててくれるだろうから、知らんぷりして入っていこうって思ってたの。そうしたら、優花里さんがみんなと楽しそうにしてたから……」 「それで……お一人で?」 「うん、帰ってきちゃった」  みほは少し寂しそうに言ってから、くん、と小さく鼻を鳴らす。 「この匂い……優花里さん、もしかしてすごく走ってきた?」 「はい。あ、いえ。たいしたことはないです。全然走ってないです!」 「あっ……そうか!」はっと気づいた顔になる。「優花里さんからしたら、私が一日ほっといた感じになるんだ? あっ、ごめん! ごめんなさい!」 「いえっ、大丈夫です。ほんと……」ここまでのダッシュはなんてこともなかったのに、いきなり膝の力が抜けてきた。優花里は力なく微笑む。「そういうことで、よかったです」 「そっか、うわあ、優花里さんほんとにごめん! 私こそ連絡するべきだったよね」 「次からしましょうね。お互いに」 「うんっ。絶対メールするね!」  力強くうなずくと、みほはちらっと背後を見て、「上がってってくれる? ご飯まだだよね?」と言った。 「喜んで。あれ? なんかおいしそうな匂いが……」  「作っちゃった。電話の前に」みほが目を細めて、はにかむ。「ひょっとして勉強会終わったら来てくれるかなって……あは、早とちりだよね。約束もしてないのに」 「わっ、私のためにですか?」 「そうだよ。あ、もう冷めちゃってるけど、それに私あんまり上手じゃないけど――」 「そんなことないです、嬉しいですいただきます!」 「そう? じゃあ、そのあとで……お話し、していってくれる?」 「はい、おはな」  答えかけて、優花里は棒立ちになる。  言っちゃった、という感じみほの顔に、少しずつ血が上ってくる。  まるで二人の間に熱いストーブでもあるみたいに、優花里の頬も染まっていく。 「……お話し、しましょうか。いっぱい」 「うん、いっぱい」  優花里は嬉しい匂いの中へ足を踏み入れて、ドアを閉める。 (おわり)