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crossleaves
木漏れ日に撫でられている相葉理慧子の寝顔を見ているうちに、葉月沙良は衝動を抑えられなくなった。
谷沿いの単線をカタンカタンと走る、二両だけのディーゼル列車。誰かが気を利かせてくれたみたいに、シートはすべて前方向きの二人掛け。理慧子は窓際できれいな黒髪の頭を少し傾けてうたた寝している。沙良はその隣の通路側だ。
二人ともぱっと見は髪型ぐらいしか特徴がない。黒髪の理慧子に対して沙良は栗色のショートボブ。他の点はごく平凡だ。同じ学校のセーラーの夏服を着て、膝より少し短いだけの紺のプリーツスカートを履いて、足元に学校ロゴ入りのスポーツバッグを置いている。身長も体つきも平均的で目立たない。
よく見ると差異はある。
沙良はやや活動的な印象だが、理慧子はまじりけなしの日本少女という感じだ。沙良は自分がきれいかどうかを知らないが、理慧子に関してはきれいだと断言できる。学校の男子がよく言うように、理慧子をいくら見つめていても飽きない。
そして彼女が好きだ。いま、すごく手を握りたいと思っている。
同級生の、女の子同士だけど。
座った二人のちょうど中間、二つのシートの中心線。その線から、理慧子の白くてほっそりした指がわずかにはみ出して、列車の震動に合わせてゆらゆらと揺れている。
テリトリーの侵犯だ、と沙良は思う。
侵犯されているんだから、わたしの指がさわってもちっとも不自然じゃない。大丈夫、わたしが自然に手を下ろしたら自然にさわるだけ。知らんぷりしてれば何も言われない。
相葉さんは寝てるし大丈夫。
そんなことを十五分以上も自分に言い聞かせてから、沙良はようやく膝の上のこぶしを真横に滑らせた。いかにも重力のせいですよといわんばかりに――その実、他人が見たら吹きだしそうなほどぎくしゃくした動きで――ぽろりと右手を落とした。
指の甲と甲が当たる。
肌合いと体温を感じた瞬間、沙良の息はたしかに止まった。そのまま息を詰めて理慧子の様子をうかがう。――指は動かない。寝息も乱れていない。うたた寝している彼女が目を覚ます兆候は何もない。
「はぁ……」
沙良は息を吐き、少しずつ緊張を解いて指の感触を味わおうとした。自分よりも細くてしなやかな指。縦長のきれいな爪。図書室で机の向かいに座った彼女の指をさんざん見てきたから、まぶたに焼きついている。
あの指にさわってる――そう考えただけで胸のどきどきが高まって幸福感におぼれそうになる。わずか一平方センチかそこらの温かさが、不思議なほどうれしい。
そしてこの指は当然――沙良はちらりとそこに目を落として妄想する――相葉さんが十七年間使ってきた指で、相葉さんのありとあらゆる行いを知っていて、それどころか相葉さんの体のすみずみまでふれたことがある……。
「……ひゃくっ!」
暴走した自分の想像があまりにも露骨で、沙良は思わずしゃっくりじみた声を漏らした。
「なに?」
理慧子が言った。
頭を起こして、銀フレームの眼鏡越しに切れ長の目をこちらに向けて。
「え……」
沙良は硬直する。タイミングがひどすぎる。よりによってあんなことを考えている真っ最中に目を覚まされるなんて。すべてを見抜かれたような錯覚に陥る。
「ご……ごめんなさい……」
身の縮む思いでうつむいて、右手を自分の腿にぴったり貼りつけた。理慧子が聞きとがめる。
「え……なにかあったの?」
「なんにも、なんにもないよ」
顔をまっかにして沙良はぶんぶん首を振る。口が裂けても言えるわけがない。
「そう?」
いぶかしげにつぶやいた理慧子が、左手に目を落として、つぶやいた。
「手、さわってなかった?」
「え、あ、当たっちゃっただけだから。ごめんね。起こした?」
自分でもわざとらしいと思いつつ、右手をあげてひらひら振った。ごまかすぐらいなら最初からさわらなきゃいいのに、と後悔が押し寄せる。さっきの衝動はあとかたもない。
理慧子がますます眉をひそめて、責めるような口調で言った。
「なにをそんなに謝ってるの?」
「なにって、その、勝手にさわっちゃったから……」
「はあ?」
「相葉さんの……手に、わたし、寝てると思って……」
「思って?」
「きれいで、さわりたくなったから……っ」
ひとこと答えるたびに下心を知られてしまう。恥ずかしさで泣きたくなる。
ああ、とようやく理慧子が眉根を緩めた。
「そういうこと……」
しばらく沙良を見つめた。
それから左手を置いたまま上向きにそっと開いて、かすかに指先をくいくいと曲げた。
「いいけど、別に」
「え?」
「さわっても……」
「……あ」
理慧子の目を見つめ、手を見つめてから、沙良はおずおずと右手を重ねた。五本の指の間にするりと理慧子の指が入ってきた。手のひらも指の谷間もぴったりとくっついて、眠気のせいかほわっと温かい指が軽くにぎりしめてくれた。
沙良は溶けそうになって目を閉じる。
「相葉さん……」
「ん」
理慧子はきゅっと力を入れて答えてくれた。
しかし、沙良はすぐまた不安になる。季節は七月で木漏れ日が沙良にも当たっている。エアコンは効いているけど肌が湿りがちだ。
水に潜る人がたっぷり息を吸うように、指の感触をできるだけ味わってから、沙良は手を離そうとした。理慧子がふたたび目を向ける。
「葉月さん?」
「ん、はなす。汗かくから、ね」
「……あの」
理慧子がいぶかしげな顔のまま、ひざを少し沙良に向け直して言った。
「汗、私も出るから……」
「出るよね、しょうがないよね、暑いし、だから」
「汚い?」
「きっ」
言われてあわてて沙良は首を振った。理慧子の気持ちに気づいて、今度は全力で。
「汚くない、絶対ない! 違うの、私が汗かくから!」
「このままで」
「こ――え?」
「私も汚いと思わないから」
言葉に続いて、少し強く手を握られた。手のひらににじみかけていた二人の汗が、にちっ、と音を立てたような気がした。
ぞっと寒気が背筋を駆けのぼって、沙良は目を細めた。気持ち悪さの寒気ではない。
とても甘くて暗い、これまで感じたことのない嬉しさ。
浮かせていた体をゆっくりとシートに預けて、手をしっかり握りなおしてみた。信じられなかったけれど、理慧子も握ってくれた。はーっと息を吐くと、理慧子も同じように吐いた。もう目を見なくてもよかった。――もう、相手を怖がらなくてもよかった。
この瞬間、沙良はようやく実感した。
――相葉さんと恋人同士なんだ。
窓の外をずっと流れていた木立が途切れて、キラキラとまぶしい光が目に入った。谷川が広がって湖になり、土曜の遅い午後の太陽を反射していた。
理慧子が言う。
「葉月さん、ダム湖だよ」
「うん、ダムだ」
窓の外を見るために身を乗り出すと、腕や肩もふれた。沙良はまだそれをいちいち意識してしまったが、もう遠慮しなくてもいいというのが不思議で、くすぐったかった。
「もうすぐかな」
「あと一時間ぐらいだよ」
ダムを越えてしばらくすると平野に入る。街があって水族館があって花火の上がる平野に。
そこへ二人で泊まりに行くのだ。
●
葉月沙良と相葉理慧子は図書室で恋をした。
初めて会ったのは半年前、一年生三学期の始業式。それをどちらも正確に覚えているのは、そのとき、相手しか図書室にいなかったから。海から百キロも離れているような山の中の高校で、図書室で活字の並んだちゃんとした本を読む生徒はほとんど他にいなかった。
その日、火の気のかけらもない寒すぎる図書室に沙良が入っていくと、窓際の長テーブルに見たことのない長い黒髪の女子がいて、静かに厚い本を読んでいた。
目にした瞬間、足が止まった。すぐに歩き出したけど、何かが起きたのはわかった。今日、隣のクラスに転入生が来たということは教師から聞いていたし、全校生徒が互いの名前を知っているような小さな高校だから、目の前の子がその女子だろうと見当がついた。 でも、その子が珍しいから足を止めてしまったのではないと、もうそのときに気がついていた。たとえ他の友達のように入学式で出会っていても同じ気持ちになったに決まっていた。
その子は、特別な子だった。
沙良は借りていた本を返却して(自分でハンコを押すのだ、図書委員なんていない高校だから)、新しい本を十冊ほど棚から抜き出し、新入生と同じテーブルの、反対の端に腰かけた(そこが日当たりがいいから)。一冊目を開く前にちらりと様子をうかがうと、相手と目が合った。
沙良はあわてて本に目を戻した。相手もそうした。普通の子なら話しかけるタイミングだとわかっていたが、沙良はそんなことのできる性格ではなかった。
数冊の本の「味見」を済ませて、気に入ったものだけ借りる手続きをしようと立ち上がると、テーブルの対角線の向こうから声をかけられた。
「勝手にもっていっていいの?」
名前を呼ばず、「すみません」とも「あの」とも「ちょっと」とも言わないのに、見ず知らずの相手に一語目から意味を伝えられる、整った発音。それなのに少しも押しつけがましくない穏やかな語調。――そんな話し方のできる女子を、沙良は初めて知った。
しどろもどろに答えた。
「え、んっと、自分でやるんです。手続き、書いて。そこのカウンターに台帳があるから」
「台帳?」
「あれ。あのピンクのファイル」
沙良は本を抱えて無人のカウンターに行き、出しっぱなしの貸し出し管理台帳を開いた。女子がそばに来て覗きこむ。ひんやりした甘い髪の香りを感じて、沙良は高山植物を連想した。
「ここに日付、学年、名前、タイトル。えっと、こんな感じで」
沙良が書きこむと、相手が読み上げた。
「一月八日、一年二組、はづき……さら?」
「そう! はい、さらなんです!」
「葉月沙良、ソロモンの指輪」
相手が沙良の目を見た。彼女も何か本を持っていた。沙良は鉛筆を渡した。
その女子は、自分でも読み上げながら書いた。
「一月八日、一年一組、あいばりえこ、ガリア戦記」
相葉理慧子、という大き目の流麗な文字が、小さくて丸っこい葉月沙良の文字の下に並んだ。
沙良はつぶやいた。
「葉ですね」
「葉?」
「葉月と相葉で」
「ああ」
女子は――理慧子は、ひなたの猫のように目を細めて微笑んだ。
「どうもありがとう」
そう言って、本を持って出ていった。「よろしくね」とも「仲良くして」とも「友達になって」とも言わずに。
けれども翌日、沙良が図書室の窓際で本を読んでいると、理慧子が部屋に入ってきて、沙良の向かいに腰かけた。他にも十人ほど受験勉強をしている生徒がいたのに。
次の日もその次の日も、ずっとそうだった。
だから沙良は、理慧子と友達づきあいをほとんどまったくしていない。
好きだと自覚する前から、最初から、恋をしていたのだ。
●
その巨体からは信じられないような高さまでジャンプした黒いシルエットが、どぅん! と地響きを立てて着水した。
「きゃーっ!」
大プールの縁を越えた海水が、目の前の床で滝のようにはじける。飛沫をかぶった沙良は笑いながら悲鳴を上げた。
体重二トンのシャチが、海面をこんもりと押し上げながら泳ぎ去っていくと、観客席最前列の沙良はすっかり興奮して、かたわらの理慧子の腕を揺さぶった。
「見た? 今のブリーチング。本物のシャチの跳躍だよ! すっごいよね、イルカとは迫力が全然違う」
「ええ」
「うわあ、ほんとおっきい。うわあ、来てよかったあ」
日本一の大きさという触れこみの回遊プールをぐるぐる回るシャチを、沙良は身を乗り出して食い入るように見つめる。理慧子が言った。
「素敵ね、あれ」
「うん」
「とても力強くて、優雅で」
「あれで哺乳類っていうんだからすごいよね」
理慧子が問いかけるように目を向けた。沙良は気づかず、黒い巨影を見つめたまま言う。
「わたしたちと同じ、空気とおっぱい吸う生き物なのに、あんなに泳ぎがうまくて強いんだよ。もう、なんていうか……」
「あんなふうに泳ぎたい?」
「そうじゃなくて! あんな生き物がいることがすごいの! なにがどう変われば哺乳類がああなるんだろう」
「……ああ、進化の話ね」
沙良は振り向いた。理慧子がよくわかったというようにうなずいていた。
「海棲哺乳類は収斂進化の顕著な例だものね。生き物を磨き上げるその仕組みが好きなんでしょう。葉月さん、前にドーキンスを読んでいたし」
「えっ……と」
すとんと椅子に腰を下ろして、沙良は驚いた目で理慧子を見つめた。
「すご……一発でわかってもらえた」
「ええ、まあ……そんな顔しなくても」
「するよ。だって他の人は、シャチかわいいよねで終わりだもの。やっぱり相葉さんってすごい。なんの話でもそうやって知識があって、誰の話題にもついていけて……」
「ちょっと、やめて」
焦ったように沙良の手を押し戻すと、理慧子はきつい目つきで見つめた。
「私なんか、知ってるだけだから。葉月さんみたいに好きでやってないから。葉月さんは素敵。生物の本を読んでるときは表情が違うもの。そんなに好きなものがあってうらやましい」
沙良の胸がきゅーっと痛くなって、顔に血が上った。
知られてた。きっと、すごくにやにやしながら読んでいたんだ。なんて隙だらけだったんだろう、恥ずかしい。――でもとてつもなく嬉しい。そんなにしっかり見ていてくれたんだ、自分に興味を持ってもらえたんだ。
沙良にとって、ドーキンスが通じる同級生は初めてだった。それだけではなくて、理慧子はさらにファインマンもキケロもモーパッサンもディケンズもマルクスも読んでいるのだ(もちろん沙良はそんなの名前しか知らない)。
だから沙良は彼女に憧れた。そんな彼女が逆に誉めてくれると、幸せすぎて現実感がなくなる。
理慧子が、少し照れくさげに目を逸らして言う。
「葉月さんが喜んでるのを見ると、私も同じことで喜びたくなる」
「う……そこまで言われると……」
「いや? あなただけ見てればいい?」
沙良は首を振る。シャチなど上の空になってしまいそうな自分を必死に抑える。「あなただけ見ていればいい?」――自分の表側だけではなく核のところに共感されている。なんていう贅沢。
――この「好き」は、たぶんいちばん強い「好き」だ。
見せ掛けだけではない思い。沙良はいちだんと彼女に惹きこまれた自分に気づく。
●
実を言えば沙良は頭の悪い同級生たちを敬遠していたが(その最良のひとりでも、せいぜい学年で一番の成績を取れる程度でしかなかった)、それだけに理慧子を認めるのも早かった。最初は彼女のことを「少しは本を読む子」だと思っていたが、すぐに「かなり賢い子」に認識を改め、「自分と同じぐらいかも」、「自分よりもすごいところがある」、「知ってる限りでは最高」へとランクアップさせていき、気がつけば視野の中心に据えていた。
理慧子の簡潔で賢明な言葉、おとなびていながら斜に構えない素直さ、上品でしっかりした仕草や歩き方が、否応もなく沙良を惹きつけた。なにもよりも本を読んでいる時の、深い満足感をたたえた柔和な表情に目を奪われた。あんな風になりたいと思い、なれないこともわかってしまい、手に入らないものを望んだときの、あの強いもどかしさを覚えた。
その憧れが恋だと気づいたのは、実に他愛ないことのせいだった。理慧子が彼女のクラスメイトに呼ばれて立ち去った時、嫉妬を覚えたのだ。
彼女がいなくなった席を見つめて、沙良はしばらく呆然としていた。同性の理慧子に対して、自分が恋としか言いようのない感情を抱いてしまったことに。
けれども屈託はすぐに消えた。最初からまるで見込みのない恋だったから。かえるはずのない卵なのだ。沙良は安心してその思いを温め始めた。
ほんのささいなきっかけがなかったら、その思いは沙良の胸に抱かれたままだったろう。
それにひびが入ったのは、三ヵ月前、二年生一学期始業式。
沙良が休みの間に借りていた本を返しに行くと、思ったとおり理慧子がいた。図書室には他に誰もいなければ火の気もない。始業式だけなので校舎全体が空だった。
沙良は理慧子がいたことに喜びつつ、それを表に出さないように彼女の向かいに腰かけた。
「相葉さんって、いつもいるんですね。みんな帰ってるのに」
「待ちたくて」
言ってすぐにはっと口を抑える仕草がなかったら、沙良も気づかなかったかもしれない。
まだほとんど信じられずに、沙良は冗談めかして言った。
「誰か待ってる人がいるんですか?」
その時――沙良はその光景を一生忘れないと思う――理慧子はじっとうつむいて、わかってほしいと言うように、ちらりと短く沙良の顔を見たのだ。
沙良はわかってしまった。
理慧子が遅いときには、自分も同じことをしていたから。
冗談どころではなくなって、相手の目を見られなくなって、机に話すようにうつむいてぼそぼそ言った。
「わたしを?」
「ええ」
「その……わたしも」
「やっぱり?」
「……うん。もしか……して?」
「かな?」
「なにがですか?」
「同じ……かも」
「うそ……」
「……」
二重の意味で、それ以上話せなくなった。
もし相手がまるで違うことを話しているんだったら、恥もいいところだから。
そして、同性なのに相手がそんなことを考えているなんて、ありえそうもなかったから。
けれども二人の間の時間は重い岩が乗ったように押しつぶされてしまって、それをなんとかしないことには場を離れられそうもなかった。
沙良は苦しまぎれの方法を思いついた。生徒手帳のページを一枚破って相手に見せないように文字を書く。理慧子も気がついたらしく、同じことを始めた。書きながら沙良は言った。
「あの」
「なに?」
「どっちも絶対笑わないって約束で……」
「ええ」
「じゃあ……折って渡しますから、後で」
「ええ、まだ見ないで」
机の上にメモを滑らせて交換した。
それから持ち物を片付けて、他人のようにそっけなく顔を背けて図書室を出た。
家に帰った沙良は、部屋のドアをしっかり閉じて、震える指でメモを取り出して開いた。
好き
沙良の書いたこととは違った。
沙良は「I like you.」と書いたので。
「好き……?」
メモを両手で開いたまま、沙良はふらふらとベッドに倒れこんだ。
そして喜ぶのでも泣き出すのでもなく――その二文字が表しているのかもしれない相手の気持ちの「度合い」を考えて、果てしなく悩み始めた。
●
水族館を回る間、沙良と理慧子はしっかり手をつなぎあっていた。それは女の子同士がよくやる軽い友情の確かめあいや、甘えた悪ふざけとはまったく違った。人ごみに押しのけられたり細い通路を歩いたりして離れたことがあったが、近づくとどちらからともなく手を伸ばして、再び握りしめた。
約束したわけでも、片方が無理やり握ったわけでもない。義務だったのだ。わたしはあなたにさわりたい、わたしはあなたにさわられてもいい、それを絶え間なく宣言し続けるためのふれ合いだった。だから歩きにくくても、展示に手を伸ばした後でも、意志的に握りなおした。
土曜日の夕方で家族連れやカップルで混みあっていた。それをいいことに必要以上にくっついて立ち、半袖から伸びた腕やひじをふれあった。三時間前には列車の中で、指一本ふれるのにもためらっていたのに、今は好きなだけ手を握れるばかりか、それ以上のことをしても相手がまったく拒まない。――歯止めが利かなくなるこわさに胸をどきどきさせながら、指の腹同士をこすりつけあったり、手首を蛇のようにからめたりした。
それを無言でやることを、沙良は最高に楽しんでいた。
水族館を出た後は近くのレストランで夕食を食べた。日が沈んでからそこを出ると、再び、あたり一帯が満員電車のような人ごみになっていた。水族館があるのは港の埠頭で、埠頭の沖には台船が浮かんでいて、台船からは間もなくたくさんの花火が打ち上げられる。つまり、花火見物のために大混雑が起こっているのだ。
沙良と理慧子も、花火を見るためにここへ来た。親や教師にそう言ったし、二人の間でもそうとしか言わなかった。
そうとしか言わなかったのに、今、理慧子が自分に合わせてくれている。沙良の喜びはそのためだった。
夏の晩の人ごみだ。暑さと湿気で汗がいくらでも出てくる。
「のど渇いた、飲み物買ってくるね」
わざとそっけなく理慧子の手を振りはらって、沙良は自販機に近づく。お茶のボトルを一本買って、理慧子の元に戻る。群衆の流れに合わせて歩きながら、キャップをまわして外した。口をつけずに理慧子に差し出す。
期待した通り、理慧子が不思議そうにつぶやいた。
「葉月さんはいいの?」
「わたしもほしいな」
軽く驚いたように理慧子がこちらを見た。沙良は呼吸が止まりそうな興奮を覚えながら、落ち着いているふりをしてうなずく。
理慧子は、応えてくれた。
白いのどを見せてボトルから飲み、はぁ、と息を吐いてから、かすかに震える手で差し出した。
「はい」
「……はい」
沙良は冷たいアルミのボトルを受け取り、口をつけた。理慧子の唇の温かみと湿り気が残っていた。ただのお茶なのに舌先がしびれてしまいそうだった。
三口ほど飲んで差し出すと、理慧子が受け取って、また飲んだ。そうやって、缶が空になるまで何度も渡しあって飲んだ。
二人とも、回し飲みなんかするのは初めてだった。
しばらくして人の流れが止まってしまった。もう先がいっぱいでそれ以上進めないようだった。ここで立ったまま花火を見ることになる。それでも後ろからどんどん人が来て、二人をぎっしりと閉じこめてしまった。
「葉月さん、大丈夫?」
「うん、相葉さんは?」
「なんとか……」
並みの体格だが、並みよりだいぶおとなしい性格の二人だった。周りは混みすぎて、二人の腕力では押し返すこともできなかった。
並んで立っているのがつらくなって、沙良は言った。
「相葉さん、こっち向いて」
「……ええ」
二人は開いていた本が閉じるようにくるりと向き合った。
「……」
「……」
さすがに息を呑んだ。後ろへのけぞらなければ鼻と鼻が触れてしまいそうな至近距離だ。首から下は断るまでもなく密着している。相手の体の起伏がわかる。
なかば望んでやったことだが、想像よりはるかに刺激的だった。心臓がどきどきしすぎて胸が痛み、目がかすむほど頭に血が上った。
理慧子が花びらのような唇を開いてかすかに息を漏らし、沙良はそれをふっと唇に感じた。
「ひぁ……!」
がくっと膝が崩れるほど頭がしびれて、理慧子にしがみついた。透けるほど薄いプリーツスカート越しに、下腹部と下腹部が当たった。相手のブラジャーの縫い目もわかる。
「相葉……さん……」
理慧子は切れ長の目を大きく見開いて沙良を見つめている。夢中で何かを学び取ろうとしているような、とても真剣な顔だ。
その唇に、ふ、と沙良も息をかけた。
「……くぅ!」
理慧子が目を閉じて天を仰いだ。がくっと折れた膝が沙良の膝に当たった。
二人はもたれ合うようにして抱き合った。もう周りから押しつけられているとは言えなかった。
唇を合わせないでいるほうが難しかった。
「ん……」
目を閉じたまま、おそるおそる顔を近づけた。周りに人がいることも、みんなが南の空を見ていることも、すっかり意識から消えた。相手の体温が、唇のすぐ先に感じられた。
――まぶたを射抜くまばゆい閃光。
「え?」
わあっと歓声が上がり、ほとんど遅れず、どっと衝撃が体を叩いた。目を開けた二人は、目の前の顔の半分を染める金の光を見た。
ぱらぱらぱらっ、とはじける音が降ってきて、ようやく頭上を向いた。幾重もの火花の輪が広がっていた。どどっ、どっ、と突風と勘違いするほど強い爆音が降る。おびただしい白煙が夜空に広がり、それをまた爆発が照らしてピンクや緑に染める。
花火大会が始まったのだと気づくまで、初めての二人はずいぶんかかった。
「すごぉい……」
「ええ」
二人はたちまち目を奪われてしまった。田舎で花火といえば手持ちかせいぜいロケット花火だ。天の半分を覆って咲き狂う、こんな巨大な火の華は見たここともない。それは確かに百キロ先から見に来る価値のある代物だった。
ただ、お互いの腕を腰にまわして抱きしめた体だけは、離そうとしなかった。
●
「あの……」
「ん」
「どれぐらい好きなの」
沙良がそれを聞いたのは、なんと六月に入ってからだった。
メモを交わした告白から二ヵ月もすぎ、図書室の生徒たちは白い夏服になっていて、窓は開けられ、たまにしか来ない司書の先生が、気まぐれで壁のポスターを取り替えていた。
沙良と理慧子は何も変わっていなかった。テーブルを挟んで座り、本を読み、予復習をするだけ。その時間が閉館までに伸びて、たまに視線を合わせたときに微笑みあうのが、強いていえば告白の結果だった。
それ以外に何をしたらいいのかわからなかったのだ。
告白して、お互いの気持ちはわかった。自分が夜、相手のことを考えているときに、多分相手もそうしている、と思うことはできるようになった。相手が誰かと話しているとき、声をかければ、自分のほうへ来てくれるという小さな特権も持てるようになった。
それ以外に何を?
沙良が唯一考えつくのは、キスぐらいのものだった。それをしたいという気持ちはある。理慧子の清潔そうな唇にふれたいという気持ちは。――だけど、できるわけがなかった。そんなことをするのは上品とは言えないし、いやらしい気がする。理慧子に言ったら軽蔑されるだろう。だから聞くこともできなかった。
しかし、それで収まるわけがなかった。沙良の心の中では、理慧子に対してもっと直接的な行動に出たいという思いがどんどん強くなっていた。やっかいなのは何をすればいいのかわからないことだった。いや、違う。どこまで許されるのかがわからなかったのだ。
男と女の恋人同士なら――保健の授業で聞くまでもなく沙良は知っている。どんな生物でも同じ行為をするから。しかし、同性の間で何かすることがあるのか、あるとしてもしていいのか、していいとしてもどうやってするのか、そういった知識が沙良にはまったく欠けていた。ふれたい、抱きしめたいという衝動ばかりが強くなり、それが正しいとは思えなくて苦しんだ。
ある日とうとう、理慧子とキスをする夢を見た。正確には無理やり奪う夢だ。場所はなぜか、呼んだこともない自分の家。理慧子は何も知らずに部屋に入ってきて、ここにいることは誰にも言わなかったわ、と言った。沙良は自制することができなくなって、ドアに鍵をかけ、理慧子に抱きついて押し倒した。けれども腕に感触を感じるより早く理慧子は消えて行き、あわててキスをしたところで枕を抱いていると気づいた。
目覚めた時の自己嫌悪と下着の不快感は、かなりひどかった。
そんな状態に耐えられなくなって、本人に聞くことにしたのだ。
「わたしのこと、好き……好きだよね? それって、どれぐらい……」
両思いはずの相手を目の前にしながら、おびえきって沙良は尋ねる。好きだと気づいて以来、理慧子を怖くないと思ったことは一度もない。
理慧子はかすかに微笑んだ。
「とても好き」
「とてもって?」
「とても……嫌いなところが見つからないぐらい」
「ど、どうも……」
沙良は嬉しさのあまり頬を染めてうつむいたが、内心では複雑な気分だった。自分の醜いところを隠しているから好かれたのかも、と思ってしまう。
その部分を知られないように注意深く言う。
「わたし、もっと相葉さんと仲良くなりたい」
「ええ……私も」
「あの、それで……どんなこと、してほしい?」
「葉月さんは?」
「わたしは……別に」
「何もないの?」
「ないってことはないんだけど」
「じゃあ、なに」
「わたしはいいから、相葉さんは?」
「私は――」
理慧子は眼鏡をきらりと光らせて横を向き、ぽつりと言った。
「――あれに行きたいかも」
「あれ?」
彼女の視線を追った沙良は、壁に貼られたばかりのポスターを見つけた。
夜空を背景にした、尾を引いて上がる花火の写真。都会で開かれる花火大会の告知だ。司書の先生が生徒を誘うわけがないから、単に夏らしいデザインだというだけの理由で貼ったのだろう。
理慧子が振り向く。
「二人で……行きたい」
「え……でも、遠いよ」
「ええ、だから電車で」
「電車……」
沙良はちょっと想像した。理慧子と二人きりで電車に乗り、遠くへ行く。他の生徒に遠慮する必要もないし、いろいろ話すこともできるだろう。楽しそうだ。
けれども沙良は、その計画の致命的な欠陥に気づいた。
「だめだよ、これ、終わるのが九時だ。うちへ帰る電車がなくなっちゃう」
「だから」
理慧子がこっくりとうなずいた。
「帰れないから、行くの」
「帰れないから……?」
「一泊」
いっぱく、と沙良は口の中でつぶやいた。それから、ぎくりとして理慧子を見直した。
変に力が入って、椅子がガタンと揺れた。他の生徒の視線が集まり、二人はうつむいた。
うつむきながら小さく顔を上げて、沙良は訊いた。
「泊まるの」
「いや?」
「いやっていうか……」
考えたこともなかった。理慧子と夜をすごすなんて。いや、早とちりかもしれない。深い意味はないのかもしれない。本当に花火が見たいのかもしれない。でも、もし、そういうつもりだったら……。
沙良が軽いパニックに陥っていると、理慧子がだめを押すように言った。
「水族館もあるのよ」
そのときは沙良は、理慧子が見かけよりはるかに行きたがっていることに気づいた。どうしてなのかはともかく。
だから、ごくりとつばを飲んでうなずいたのだ。
「水族館があるなら……行きたいかも、行こうか」
●
沙良がやったのは両親に頼むことだけ。理慧子を連れてきて顔を見せ、一緒に水族館へ行きたいと言った。沙良の生き物好きをよく知っている両親は、そういえば三年前から街に連れて行ってないなと気づき、自分たちで行ける歳になったか、とむしろ励ましてくれた。娘を少しも疑わなかった。
あとはぜんぶ理慧子がやった。学校への外泊届け(そんなものがあるのだ。今の生徒はほとんど無視しているけど)、電車と水族館と花火の時間調べ、持ち物のリスト作り。そういうことがさっぱり苦手で、電車の時刻表も読めない沙良は、理慧子に任せきりにした。
ホテルも理慧子が決めた。
花火大会が終わって地下鉄の駅へ流れる群集の中で、沙良はそのことを考えて、どうしようもなく緊張していた。
泊まる。理慧子と同じ部屋で寝る。ひょっとしたらベッドも同じかもしれない。着替えを見られるかもしれない。それよりもお風呂。湯あがり。見たくなったらどうしよう。我慢できるんだろうか。理慧子もこんなことを考えているんだろうか。
「遅れるわね」
そう言った理慧子に、目を向けた。
「すごい混雑。やっぱり終電に間に合わないわ」
地下鉄駅の入り口で人の流れがひどく詰まっていた。ピストン輸送する地下鉄に少しずつ乗りこんでいるのだ。この分ではターミナル駅についても、沙良たちの遠い街へ帰る列車には間に合いそうもなかった。間に合ったら帰ってくるようにと、親に言われていたのだが。
逆に言えば、逃げるチャンスがなくなったということだった。
もう、嫌でも理慧子と泊まるしかない。沙良は覚悟を決めて、携帯で自宅に連絡した。
地下鉄の車内ではひとことも話せず、さっきのように抱き合うこともできなかった。手だけはしっかりつないで、うつむいて立っていた。
ターミナル駅について、コインロッカーに入れておいたスポーツバッグを取り戻した。夜の大都市の駅はさまざまな姿の人が歩き回っていて、無人駅しか知らない沙良にはちょっとした驚異だった。みんながみんな好き勝手な方向に歩き回っている。微生物の顕微鏡映像みたいだ、と沙良は思う。みんなどこへ何をしに行くんだろう。この中に、自分たちみたいに初めて泊まる二人はいるんだろうか。
「こっち」
理慧子が手を引いたので、屠られる羊のようにおとなしくついていった。
圧倒されるほどのネオンにあふれた駅前ロータリーから、三百メートルほど歩いて、ビジネスホテルの看板を出しているクリーム色の細長いビルに入った。間接照明の効いた静かなロビーに客は誰もおらず、フロントは制服姿の若い女性だった。沙良は少しほっとした。そこに着くまでに、あんな下品なところは絶対に入りたくないと思うような、けばけばしいホテルがあったからだ。ここは少なくとも、入っても恥ずかしくないような宿だった。
フロントの女性に、理慧子が言った。
「部屋、空いてますか」
女性は微笑みながら理慧子を見て、沙良を見た。沙良は恥ずかしさに身を縮めながら、どう思われているんだろう、と想像した。泊まる理由を聞かれたらどうしよう。未成年だから断られるかもしれない。それより相葉さんは予約していなかったのかな。ああ、帰るかもしれなかったからか。
女性はもちろん、沙良が考えたようなことは言わなかった。
「ツインでよろしいでしょうか」
「はい」
「かしこまりました、こちらにお名前とご住所をお願いします」
女性が紙とペンを差し出した。
咎められなかったことで沙良は安心したが、理慧子の手元が気になった。しかし理慧子はなんということもなく、自分と沙良のフルネームと住所を書き終えた。
理慧子がそれを女性に差し出すのを見て、沙良はあわてて財布を取り出した。
「あ、一晩おいくらですか?」
女性が苦笑し、理慧子が少し眉をひそめて言った。
「精算はチェックアウトのときだから」
「は……はい」
耳まで赤くなって沙良はうつむいた。
ルームキーを受け取った理慧子に続いてエレベーターに乗ると、沙良は小声で言った。
「ごめんなさい、変なこと言って」
「いいから。気にしてないわ」
「ありがと……相葉さん、前にも泊まったことあるの?」
「家族旅行で。お父さんのやってること、見てただけ」
それでもすごい、と沙良は思った。理慧子がとても大人びて見えた。
横顔をじっと眺めていると、理慧子が小さくうつむいた。そしてこちらを見た。
「葉月さん……」
「ん、はい」
「ここまで来ちゃったけど、あなたは……その」
「え?」
「いえ。なんでもない」
エレベーターが止まってドアが開いた。理慧子はそのまま歩き出し、脱出経路のパネルをしっかり見つめた。沙良も真似をした。
「802号室よ」
廊下は静かで、ありがたいことに誰もいなかった。802と書かれたドアを理慧子が開けて、一緒に入った。沙良は大きく息を吸う。ベッドがひとつなのか二つなのか――。
明かりがついた。二つだった。沙良は嬉しいようながっかりしたような気分で、ため息をつく。
「ああ、二つ……」
「なにが?」
「あ、ベッドが。一つだったらどうしようって……」
「ツインって言ったでしょ? ……わかんなかったか」
どさっとバッグを置いた理慧子の横を通り過ぎて、沙良はきょろきょろと部屋の中を見回した。初めてなので物珍しかった。
「へえー……」
靴で入れる絨毯の部屋で、左手にぴしっとシーツのかかった立派なベッドがあり、右手のサイドボードにテレビとポットがおかれていて、はめこみの小さな冷蔵庫と椅子が一客あった。エアコンの吐く乾いた空気は、不快でない程度の煙草の匂いがした。
窓に歩み寄ってカーテンを開ける。思わず声を上げた。
「わあ……」
無数の灯火に彩られたビル街が見下ろせた。ここより高いビルがたくさんあったが、ここより低い建物のほうが多く、道を流れる自動車のライトが鮮やかだった。沙良はそれで十分だった。振り返って叫ぶ。
「相葉さん相葉さん、ほら夜景。すごくきれい」
「夜景って言うほどじゃ……」
「いいから」
そばに来た理慧子は、あ、ほんと、と言ってくれた。沙良は何度もうなずいた。
「街だねー……」
「葉月さん」
沙良は横を見た。理慧子が見つめていた。多少は浮かれていた気分があっという間に鎮まった。
正真正銘、ふたりきりだった。いや、エレベーターに乗ったときからそうだったのだと沙良は気づいた。あの時から理慧子は気づいて、意識していたのだ。そうでなかった自分が、急に隙だらけに思えた。
「葉月さん」
理慧子がもう一度言った。
たったそれだけのことで、沙良はなぜか、とても怖くなった。
「ご、ごめん、トイレ……」
そういうと身を翻して出て行こうとした。ドアを開ける寸前、理慧子の声が飛んできた。
「そこにトイレあるから」
言われて沙良は入り口と直角の位置にあるドアを開けた。洋式便座とユニットバスが同じ部屋に並んでいた。ドラマでしか見たことのない道具立てだった。ひとまず入って、便座にしゃがんだ。
すると外から声がした。
「いい?」
「え、はい」
「お風呂、先にどうぞ。バッグと浴衣、ここに置いとくから。私はあとでいい」
「……うん」
浴衣? と首を傾げたが、便座の隣の洗面台には使い捨ての歯磨きセットがあった。そっとドアを開けると、スポーツバッグの上にホテルの名前の入った浴衣が置いてあった。いろいろ便利なんだ、と思いながらそれを中に引き入れて、少しだけためらった。
脱ぐのが恥ずかしい。ドア一枚へだてただけで理慧子がいる。
でも、それをためらっていたら何もできないと、さすがに気づいた。だいいち理慧子がトイレに入れない。
「……えい!」
ぎこちなくセーラーを脱いで、きちんと畳んでバッグに入れた。浴槽に入ってカーテンを引いてお湯を出そうとした。
また声をかけられて、飛び上がった。
「葉月さん」
「え、はい!?」
「一応言っておくけど、カーテンはバスに入れるんだからね」
「入れる? って、濡れちゃったら」
「濡らしていいの。外に飛び散らないようにするカーテンだから」
「……うん、わかった」
「それと、お湯は使い捨てていいわ。洗い場がないけど、その中で洗うの」
ぜんぜん知らなかった。教えてくれて助かったと思いながら、沙良はあわただしく体を洗い、少し迷ってから髪まで洗い、忘れずに歯も磨き、湯に浸かる余裕もないまま、念入りにそこらを掃除して浴衣を着た。
外にドライヤーがあることは覚えていた。浴衣の胸元をしっかり合わせて、沙良は風呂から出た。
「お先に失礼」
「ん」
理慧子はベッドの端に行儀よく座って、テレビのニュースを見ていた。出てきた沙良をちょっと見つめて、顔を逸らし、バッグと浴衣を持って立ち上がった。
「入るわ」
「はぁい」
理慧子が風呂に入り、沙良は入れ違いにベッドに腰を下ろした。テレビの隣にドライヤーを見つけて引っぱり出す。
栗色の短いボブカットの髪を乾かしながら、ぼんやりと考えた。
港ではキスする寸前までいった。したことはないけど、もう少しでキスだったってことはわかる。正直に言って、キスはしたい。理慧子にふれてみたい。
でも、その先が怖かった。何が起こるのかわからない。まったく経験はないくせに、キスだけで終わらないんじゃないかという予感だけはしっかり感じていた。
多分、それが一線を越えるってことなんだ、と思う。
怖いのは二つのことだった。何をされるのかわからない。そして自分が何をするのかわからない。今まで想像を途中でやめていたが、改めて考えてみると、沙良がさわりたいのは理慧子の唇だけではなかっただ。手がそうだし、腕がそうだし、多分その他のところもすべて……。
女の子同士ですることじゃない。
妄想と予想の間で沙良は迷う。理慧子はベッド二つの部屋を頼んだ。別々に寝るつもりなのだ。これは、キスまでしかしないで、という意思表示なのかもしれない。それぐらいが適当だと沙良自身も思う。キスより先に進むなんてまだ早すぎるという気がするし、早いのではなくて女同士ならキス程度がちょうどいいんだ、という気もする。
髪を乾かし終わっても、沙良は座ったままずっと考えこんでいた。カチャリと音がしたので身をすくめた。
「いいお湯だった」
浴衣姿で湯気とともに現れた理慧子を、沙良は息が詰まるような気分で見つめた。
ただでさえ色白で透き通るような肌をしているのに、今はその奥から血の赤みがうっすらと浮き上がって、白黒の絵画に色がついたようなあでやかさだった。温まった姿は普段よりいっそう柔らかそうで、抱き締めたくてたまらなくなる。自分と同じものを使ったはずなのに、リンスの香りが危険なほど甘い。
眼鏡を外していた。
沙良は初めて、純粋に理慧子の美しさに欲情した。水仙のように可憐な顔と、墨を伸ばしたような濡れ髪を目にして、自分が何をしたいのか悟った。
ものすごくあわてた。
「ねっ、寝るから!」
立ち上がってドライヤーを突き出してくるりと身を翻して、爆弾から逃げるようにベッドにもぐりこんだ。シーツを首元までひっぱりあげて枕にきつく頬を埋めて、一瞬で倍になった鼓動を必死に鎮めようとした。
「……ん、おやすみなさい」
小さな理慧子の声に続いて、ドライヤーの音がした。
それを聞きながら、沙良は妄想と戦っていた。いつか見た夢が思い出された。理慧子を押し倒して力ずくで唇を奪ってしまう夢。あれはそっくりそのまま今と同じだ。誰にも邪魔されない。理慧子本人だって拒まない。たぶん、かなり無理なことをしても許してくれる。
そして明日から沙良は掛け値なしの変態として、自分と理慧子に覚えられる。
「……ばかばか駄目駄目……!」
きつく目を閉じて胸のざわつきをやり過ごそうとした。
じきにドライヤーが止まった。身動きの音に続いて隣のベッドがきしみ、照明の明るさが半分ぐらいになった。沙良はそれらの気配に背を向けて、じっと壁のほうを向いていた。たとえ眠れなくても、そのまま朝までがんばろうと思っていた。
部屋に静寂が訪れ、都市を走る車の響きとエアコンの風音だけが残った。
少なくとも一時間半は粘ったと思う。
眠らなくてよかったと、その後死ぬまで沙良は思った。
その信じられないほど長い沈黙の後で、小さな小さな声が聞こえたのだ。
「……寝ちゃったの?」
沙良はゆっくりと振り向いた。
隣のベッドで、横になった理慧子が寂しそうな目でこちらを見ていた。
●
沙良はベッドから足を下ろし、座って理慧子を見下ろした。理慧子は沙良を見上げて少しベッドの奥に寄った。
沙良は理慧子のベッドに移って腰かけた。呼吸が少しずつ荒くなっていた。シーツをめくって足からその中に入った。
理慧子と同じベッドに横になった。
顔を傾けて理慧子を見た。理慧子は体をこちらに向けて見ていた。沙良は少しずつ腰をにじらせて近づいた。シーツに溜まっている理慧子の温かみの中に入る。
体がふれた。ひじや腰の骨がごつごつと当たって、ベッドで抱き合うのは意外と難しい、と沙良は知った。それでも、もう戸惑わなかった。
「ひじ、もうちょっと」
「待って。……ん」
「んしょ」
「つっ」
「あ、ごめん」
「ううん」
片手で体を浮かせて腕を受け入れたり、頭のほうへ少しずり上がったりして、一番楽な姿勢を探した。
それが見つかると、ようやく沙良は大好きな人の体をしっかりと抱きしめた。理慧子も同じほど力強く背を抱いてくれた。ずっと息がかかりっぱなしで、そそられていた。気持ちを抑えずにキスした。
「んんむぅ……」
唇をぴったりと重ねて、軽くついばんで、優しく吸いたてて、暴れる舌を舌で追いかけて、初めてなのにとんでもなく大胆にキスした。胸を押し当てた。つま先をくすぐりあった。髪に手をやって何度も梳いた。
ふれたところすべてから、甘いしびれがたっぷりと流れこんできた。鼓動がはねあがり、下腹部が絞られたみたいに熱くなった。
沙良は直接肌にふれようと理慧子をまさぐっていたが、うまく浴衣の合わせ目を見つけられなかった。理慧子ももどかしげに体をひねっていた。沙良はいったん手を引いて、自分の帯を外し始めた。
「脱ご」「ええ」
結び目をほどいてしゅるしゅると引き抜き、シーツの外に蹴りだす。てこずっていた理慧子の帯もほどいて同じように捨てた。
浴衣も脱いだ。ブラジャーとショーツだけの姿になると、糊の利きすぎたパリパリのシーツが肌に直接当たって、ひりひりした。エアコンで肩が冷えるから、二人の肩にかかるように片手でシーツをひっぱりあげた。
そして、今度は最初よりも落ち着いて相手を抱きしめ、キスをした。
すべすべしてほのかな熱をたたえた理慧子の体を、沙良は初めて全身で感じることができた。ふくらはぎや腹をこすりつけると雲みたいに柔らかくて、想像を軽く超える心地よさだった。胸は心地いいなどという言葉であらわせない。そんなところを当てちゃいけないという、焦がされるような抵抗感があって、その気持ちを砕きながら押し付けあうのが、ぞっとするほど気持ちよかった。
あっという間に物足りなくなった。ほんの少し前までは浴衣ですら薄着に思えたのに、今では上と下の二枚の薄布すら邪魔だった。むしろ滑稽だった。
目を閉じた理慧子の頬に、たっぷりしたキスを何度も押し付けながら、沙良は思う。こんなことまでしてるのに下着なんか残していたって、なんの意味もない。頭の中ではとっくに剥ぎ取ってる。
片手の指を伸ばして、理慧子のあばらの下からブラジャーの中に差しこんだ。お湯のような温かみのある頼りない乳房が隠れていた。乳首が思った以上にはっきり硬くなっていて、少しどきどきしながら揉みしだいていると、理慧子が沙良の背をまさぐって、ブラジャーのホックをはずしてしまった。
「わ……」
「私のも、外して」
言われたとおり沙良も理慧子のホックを外す。――そうやって腕を背に回すと、理慧子の細さが特によくわかる。胸もあまりなくて体の輪郭が涼しい。それが服の上からでも想像できて、沙良は憧れていたのだが、理慧子は逆のようだった。腕を持ちあげて互いのブラジャーを外し終わると、性急な手つきで沙良の乳房にふれてきた。
「え、わ、あ」
理慧子は顔を離して、沙良の胸をしっかり見つめていた。細い理慧子の指にもてあそばれると、じんじんと続けざまに響きが生まれる。声が勝手に漏れてしまい、沙良は目を細めて押し殺す。
「ひ、くふ、ふぁ……」
さわられるのが心地よくて、沙良はしばらくさわることを忘れた。理慧子に押されるまま、仰向けになる。気がつくと理慧子の頭が目の下にあった。胸を舐められていた。
「あ……」
すでに真っ赤だった顔がもっと赤くなる。理慧子の頭は動いていないし表情も見えないが、舌の動きだけはわかる。乳首を吸われているから。理慧子の舌のざらざらが、一定のリズムでくりかえし乳首をこすりあげている。
「んあ、んう、んうぅ……」
とても気持ちいいのだが、じっと受けていられなかった。甘いくすぐったさに攻められて、逃げるように体をくねらせた。このままずっとされていたいと思ったが、同じだけの強さで反対のことを思った。
理慧子が息継ぎに動きを止めた瞬間、彼女の頭を両手でもちあげた。
「わたしもする」
「……ん」
軽く目を見張った理慧子が隣に横たわると、位置を交代して沙良が覆った。シーツがだいぶはだけていて、理慧子の薄い乳房がはっきり見えた。
ゆっくりと顔を寄せて、そっと舐めた。びくっ! と目に見えるほどはっきり理慧子が震えたのを、可愛いと思った。
目を閉じて敬虔な気持ちで丁寧に舐めた。舌を大きく出して広くぺろぺろと――それから小さな乳首を唇に含んでゆっくりと。その次は反対の乳房へ。理慧子も快感をこらえ切れないらしくて、沙良の腕や肩を何度もつかみ替え、きれぎれの声を漏らした。
そして、太腿をきつく閉じて膝頭をこすり合わせていた。
今までのいろんな愛撫と同じように、沙良はずっと舐め続けていたいと思ったが、この夜ばかりは、先に進みたいという気持ちが常に勝っていた。なにをするのも初めてなのだ。なにをどこまでできるのかという好奇心が強かった。
顔を上げて、ゆっくりと理慧子の体に身を預けた。――理慧子の足の間に太腿を押し入れながら。
裸の胸を合わせると、下半身もぴったりと合わさった。理慧子のすんなりした太腿の間に、自分の太腿。体を抱いて半回転して、再び横向きになった。両足がますますからんだ。
お互いのショーツのひどい有様もよくわかった。
理慧子が息を震わせながら、沙良の太腿をはさんで股間を強く押しつけてきた。沙良も同じぐらいの強さで押しつけ返す。さらに、小刻みにこすり付けるような動きをした。理慧子も同じことをした。
股間の中心に、信じられないぐらい気持ちいいところがあった。胸や唇とは、快感の質が違った。沙良は知った。ここは、こういうところなんだ。このためについている部分なんだ。
下着越しに太腿に押し当てるぐらいではもどかしい。じわじわとしか快感が増さない。もっと直接さわりたい。いや――
「ね、離れて」
「いや」
「ちょっとだけ。脱ごう、ね」
「ん……うん」
腰を離すと、膝をぶつけ合いながらショーツを脱いだ。とうとう、一糸まとわぬ姿。シーツから手を出して外へ捨てるときに、それに染みた湿り気の重さをふと感じて、沙良はほんの少しためらった。
――べとべとになっちゃうな、二人とも。
そしてすぐに目を閉じて打ち消した。なってもいい。我慢できない。
「……きゃ!」
悲鳴は、理慧子が指を入れてきたせいだった。待ちきれないように沙良の股に片手を。指先は一度で股の真ん中を見つけて、そこを正確にこすりあげた。
神経を氷の筆で撫でられたような刺激がきて、沙良は爪先までピンと伸ばした。
心底驚いた。そこまでいいなんて思ってもいなかった。理慧子は何度も繰り返して指を立ててくる。そのたびに鋭すぎる刺激が来て、沙良は跳ね回った。
「ちょっ、だめ! 相葉さっ、なにこれっ!」
「……したことないの?」
「なにを?」
理慧子が指を止め、沙良を見つめた。その顔になんとも優しげな笑みが浮いた。
「手、貸して……」
言われるまま右手を出すと、それは理慧子の股間に導かれた。ふわふわと柔らかい陰毛の奥の、重い蜜でとろとろに濡れたひだに。沙良は唾を飲んで指を進める。沙良にとってそこはもう完全に、禁じられたところだった。今までは。
理慧子が指を添えて、沙良の指を動かしてくれた。ひだの合間をすくい上げるように、その端のつるつるした粒をひっかくように。
そうしながら理慧子は、とても気持ちよさそうに喉をさらしてうめいた。
「葉月さんの手……さわってる……」
「ん、と……わかった、さわる」
「うん、お願い」
「わたしも……して」
もう一度理慧子の指が忍びこんできて、沙良は心地よく跳ねた。
その最後のところを、沙良は最高の嬉しさとこわさと切なさを抱きながら思うさまふれて、理慧子にふれさせた。手を交差させているので抱き合うには不便な姿勢だったが、小鳥のように顔を突き出して、鼻や舌をこすりつけあい、首を噛んだ。
やがて波が来た。
一番敏感な粒から股間全体に、じんじんと音が聞こえるような波が広がって、沙良の下腹を溶かした。動き回る理慧子の指が少しでも粒から離れるのに耐えられず、哀願するように叫んだ。
「あい、あいばさんっ、さわって、さわっててっ――ちがう、さっきのとこ、さっきの、そうっ、それおねがい、んっ、んうう、なん、なんかぁ、なんかっ、すごいっ……!」
「葉月さん……!」
理慧子が嬉しくてたまらないというように声を震わせながら、片手でしっかりと抱いてくれた。
それで沙良は、体を開ききってふわりと落ちていくことができた。
「――う?」
沙良の意識は、底が抜けて一気に空になった池に、ゆっくりと水が再びたまっていくようにして戻ってきた。自分を抱きしめている理慧子の感触と、彼女の手の小刻みな動きが感じられた。
顔を動かすと、微笑している理慧子と目が合ったので、ちょっと悪い気がして訊いた。
「わたし、いま寝ちゃった?」
「失神だと思う」
「失神……」
「ちょっとうらやましい。私は経験ないな」
「なんか、すっごい気持ちよくて……」
さっきのことを思い返しながら沙良はつぶやいた。いきなり自分の体がなくなって意識だけが落ちていくような感覚。生まれて初めての、怖いほど心地いい体験だった。
今では四肢にじんわりした疲労感が残っている。というよりは脱力感だ。体を動かそうにも力が入らない。少し頑張って、すぐベッドに身を沈めた。
「――だめ。動けない……」
「すごくよかったのね」
「ん」
小さくうなずいてから気づいた。顔を向ける。
「相葉さんは、誰かとしたことあるの?」
「そんな。あるわけないわ」
きれいな眉がつりあがったので、ごめん、と沙良はつぶやいた。
「私は……一人でしてたから」
「一人で……」
「……あなたのこと、考えて」
ちょっと横を向いて、咳きこむように言った。
沙良は目を丸くしてまじまじと彼女を見つめた。
「じゃ……前から?」
「ええ……」
「それじゃ、その……この旅行って、やっぱりこのためだったの?」
「ええ……ごめんなさい、あのね」
沙良に顔を近づけて、理慧子は真剣に言った。
「言い訳するつもりじゃないけど、さんざん悩んだのよ、了解を取ろうかどうか。嫌だって言われたら絶対にするつもりはなかったわ。でも、そんなことを話すまでもなくあなたは旅行に行くって言ってくれたし、手を握ったり体を寄せたり、とてもその気に見えた。それでも確信がもてなくて、ベッドに入って一時間半も待って、ひとことだけ声をかけたら……」
来てくれるんだもの、と理慧子はつぶやいた。
そしてきつく目を閉じて言った。
「ごめんなさい」
沙良はわけがわからずに訊いた。
「な、なにが?」
「だから、私なにも言わなかったでしょ。葉月さんと寝たいってこと、始めから終わりまで黙ってた。それで、なるようにしかならないところまであなたを追いこんでから、藁でもつかむみたいにねだったりして……こんなの、まったく公平じゃないわよね」
「え、ええと……」
だんだん沙良はわかってきた。理慧子は、沙良を誘惑して堕落させてしまったと思っているのだ。
でも、それはつまり、沙良とまったく同じだった。
「そんなのじゃないよ!」
沙良は理慧子に体を向け――ようやくそれぐらいの動きはできるようになった――彼女の手を握った。
「わたしだって最初から、相葉さんにさわりたいと思ってたもの! 手にさわりたかったし、今もさわっててすごく嬉しかった。そりゃ、最後にすることは知らなかったけど……ずっと前から、さわってキスしたかった。そういう夢も見たのよ?」
「夢?」
「うん――あ、相葉さんに抱きつく夢」
このひと言の途中で沙良は我に返り、猛烈に恥ずかしくなったのだが、つい最後まで言ってしまった。すると理慧子は驚いたように瞬きして、くすりと笑った。
「そうなんだ。……じゃあ、謝らなくていいのね」
「……うん……」
沙良が赤くなって縮こまっていると、理慧子がすらりと両腕を回して、抱きしめにきた。
ただし今度は、ちゃんと言葉を交わしながら。
「いい?」
「……うん」
「好き、葉月さん」
「……わたしもぉ」
沙良は心地よい楽しさとともに理慧子のキスを受けた。さっきと同じキスなのにまるで違って感じた。
キスしながらのびのびと相手の体を撫で回し、乳房や腰を押し付けていくと、理慧子が期待するような声で言った。
「それじゃ、今度は私が……いい?」
「ふぇ?」
「まだいってないの」
いってない? と沙良はまばたきしたが、理慧子に手を引かれてふれさせられると、気がついた。
「まだよくわからないけど、いい?」
「ええ、練習だと思って。私、合わせるつもりでしてみる。ちょっと長引くかもしれないけど……」
「いいよ、がんばる」
体を伸ばした理慧子に沙良は覆いかぶさった。
そして、それからの試行錯誤を心から楽しんだ。
●
「チェックアウトお願いします」
そう言って理慧子が差し出したルームキーに、802と書かれたプラスチックの棒がついているのを見て、沙良は言った。
「八百室もあるなんて大きなホテルだよね」
フロントの男性が苦笑し、理慧子が少し眉をひそめて言った。
「八階の二号室だから802なの」
「……八百室もないの?」
「八十室ぐらいじゃないの」
沙良は耳まで赤くなってうつむいた。
外に出ると、ビルの間から差す朝日がことさらにまぶしかった。沙良はスポーツバッグを持ちあげて大きく伸びをした。
「あー……寝不足ぅ」
「そんなこと言わないの」
理慧子がそっけなく言ってむこうを向く。え、と振り向いた沙良は、ワンテンポ遅れてその意味に気づいた。
また赤くなりかけたが、そこでいたずら心が湧いた。今まではなかった気持ちだ。
理慧子に近づいてささやく。
「相葉さんが可愛かったから……」
瞬間、理慧子が焦ったような顔で振り向いた。
「葉月さん!?」
「だいじょぶ、人には聞こえてないよ」
沙良はくすくす笑いながら歩き出す。理慧子もそしらぬふりでついてきた。
ちらほらと通行人のいる歩道を、駅に向かって歩く。
「今日どうする?」
「夕方までいろいろ行けるわね」
「その前に朝ごはん。マック行きたい」
「スタバにしましょうよ、スターバックス」
「あ、それ採用。マックは今度で」
「ゆっくり食べれば映画館が開くと思う」
「相葉さん」
「なに?」
振り返った理慧子に、沙良ははにかんでみせる。
「楽しい」
理慧子はちょっと面食らったような顔をして、すぐに手を出してくれた。
沙良はとても軽やかな気持ちでそれを握った。