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 白き馬の背に黒の鳥

 1

  とく  とく  とく  とく
 ミッションエリアが近づくと必ず心拍数が高まる。何度任務を重ねても平静ではいられない。
「コンガC1よりDB各機、Aゲートはクリアード・アップ。レッゴー、レッゴー」
 前線滞空戦術統制機フラックの制空戦闘終了宣言が突撃ラッパだ。ミレイは震えたままの指で左スティックのマスターアームを入れる。半球状の仮想俯瞰キャノピーから控えめな航法表示が消え、カラフルな戦術情報が立て続けに表れる。コンパスゲージ、バードステータス、ウェポンステータス、コンプレックスレーダースコープ、そしてもっとも重要な装置、高反応航過爆撃システムクルーズスローの円いターゲットサークル。
 バーガーショップの「乗ったままお会計」システムをもじった名前に、これを開発した人間のとてつもない悪趣味をミレイは感じる。もっとも、悪趣味なのは名前だけではなくて、システムのコンセプト全体がそうだ。その悪趣味なシステムが極めて有効なのだから救いがない。
「コンガC1よりDB各機、Bゲートはクリアード・アップ。レッゴー、レッゴー」 
 フラックが再度通告してきた。アプローチゲートを通過して亜音速で降下していたDBを、ミレイはボムゲートに向ける。機はミッションエリアの手前に設定された、座標としてのゲートを高度百八十フィートで通過。爆撃コースに入った。
「んっ……」
 左のひじの内側に圧迫感を感じて、ミレイはうめいた。取りっぱなしの静脈バイパスに感覚亢進剤が注入された感触だ。息苦しさが増し、心拍がますます上がる。
  とく とく とく とく
 不安な気持ちが急激に高まり、丸太のような伏臥シートに、細い手足で思い切り抱きついた。タイトなハーフパンツの股間もぴったり押し付けられるが、そこは緊張のあまり萎えきっている。もともと抱きつくためのシートではない。下方を見やすくするためだ。
 目の下の仮想半球キャノピーに、灌木の茂るサバンナの眺めが投影されている。味方の装甲兵員輸送車が長々と街道を埋めている。機はその先へ向かっている。その先が前線だ。
 ミレイの乗る高速戦術爆撃機・ダークバードは、敵地上軍を部隊単位で撃破する任務を負っている。
「コンガC1よりDB各機、プレゼン・トゥ・ゼム」
 ごくりと唾を飲んで、ミレイは血走った目で地上を凝視した。
 サバンナの風景の一画に、黄土色の角ばったものを見つけた。
 すかさず右手のスティックを動かしてターゲットサークルを操作。角ばったものを大ざっぱに捕捉してピン照射。即座に指向性敵味方識別装置による応答があり、警告ブザーとともに青いボックスが目標を囲む。友軍の高機動空挺戦車だ。ちらりと見えた四本の足からすると、ホワイトホース型。ここまで〇・一秒以下。
 続いて前線にひしめく無数の敵味方兵器が視界に入ってきた。
 鋭い注意喚起音とともに、黄色のボックスが無数に花開く。その一つ一つがレーダー反応のある物体だ。ピン照射が片っぱしから自動で行われ、ボックスが青と赤に選別されていく。赤と出たものは最優先対処対象だ。ボックスにキャッチされた物体は照準も自動で行われている。左スティック操作でアクティブを次々にジャンプさせ、そのまま左トリガーでシュート。短射程HiGMが超高速で直線的に飛んでいく。
 しかしミレイの役割は自動照準のトリガー役ではない。レーダー反応のない物体、自動照準が間に合わない物体を、人間にしかないパターン認識能力で見つけ出すことだ。右手で動かすターゲットサークルはそのためにある。
 ミレイはせわしなく画面を見回し、不審な物体に対して次々にピンを撃っていく。味方応答がない物体は瞬時にズーム画像がポップアップする。その段階で、ミレイの肉眼によって、味方あるいは非戦闘員だと識別できることもある。
 できなければ、攻撃する。重金属弾頭のHiGMをマッハ五で飛ばして、串刺しにするのだ。
 問題は、それを時速六百キロで通過しながらやらなければならないことだった。
 戦場の景色が恐ろしい速度で眼下を流れ去る。捕捉ボックスが次から次へと開いては消える。選択して撃ち、選択して撃ち、選択して次へ飛ぶが、飛んだ後で青から赤へ変わるものもある。ステップバック、シュート、爆発。その間にも右手で不審物体を追わねばならない。捜索、捕捉、識別。捜索、捕捉、識別、攻撃。
  どくどくどくどく……
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
 血が激しく流れ、頭が燃えるように熱くなる。いかにミレイにずば抜けた識別能力があっても、おのずから限界は訪れる。手がかすむほどの速度でスティックを操っていれば、つい選択を誤ることもある。
 選択、攻撃。捜索、捕捉、識別。捜索、捕捉、識別、攻撃――
  どくん!
「くっ……」
 撃つ寸前、友軍機の特徴的なアンテナポールが見えたような気がした。しかし指が止まらなかった。HiGMが命中し、燃料と弾薬と肉片による極彩色の爆炎が開いた。誤射だ。最低でも三人の味方を殺した。
 ミレイは唇を噛んで恐れをねじ伏せ、引きつった形相でさらに敵を探す。感傷に浸るなと徹底的に教え込まれている。それ以前に、倒さなければ倒される。ダークバードは無敵の死神ではないのだ。
「DB2、Aフラワー、Aフラワー」
 フラックの警告とともに、赤の二重ボックスで囲まれた敵兵器が視界に現れた。Aフラワーの名で呼ばれる全方向対空砲塔だ。低空を高速で飛ぶダークバードは、携SAMや旋回砲塔にとって指向しにくい対象だ。だが最初から全周に砲口を向けておけば狙う必要もない。そういうコンセプトで造られた、対ダークバード専用兵器だ。
 目にした途端に背筋が冷え、きゅっと音を立てて股間が縮み上がったような気がした。
「いって……!」
 祈るようにつぶやいて、右足バーをキック、同時に左足バーもかき上げた。ドロップブースターが爆発したような炎を吐き、四十トンの機体を八Gで加速させる。五百発の発煙発熱弾を一斉発射するミックスジャマーも作動し、バードの周辺で爆竹のような派手な小爆発を起こした。
「くぅ……!」
 風景が倍の速度で溶けて流れた。火線を吐き始めた数基のAフラワーが急速に近づき、背後へ遠ざかる。全方向対空砲塔のただひとつの死角は直上だ。そこを通り抜けざま、ミレイはHiGMを撃ち下ろしていた。
 ひときわ大きな爆炎とともに鋼鉄の砲塔が宙に舞った。しかしミレイは、高速で通過する最中にいくつもの赤いボックスを見逃したことに気づいていた。
 データモニターでそれを知ったフラックが命じてくる。
「コンガC1よりDB2、百五十秒後にリアタックせよ。トラブルはあるか?」
「……ノートラブル」
 もう戦場に戻りたくなかったが、敵を残しすぎた。ミレイは一時的に操舵モードを呼び出し、次回進入コースへ向けてスティックを動かした。
 股間がじくじくして気持ち悪かった。パイロット用のハーフパンツは失禁を完全に吸い取ってくれるわけではなかった。

 2

 オンライン対戦ゲームがことごとく政府機関に監視されていたと知っていたら、ミレイ・トールトンは間違ってもプレイしなかっただろう。いくら当時が平和だったにしても。
 しかし空軍機動進攻軍は周到にもそれを実行し、ゲームの得意な人間を残らずリストアップしていた。十二歳のミレイがその中に含まれていたことは少しも奇妙ではない。ゲームの才能は大人より子供のほうが優れていることがままあるし、進攻軍は抵抗しない扱いやすい人材を求めていたからだ。いざ開戦の時が来ると、すぐさま進攻軍のヘッドハンターがミレイのいる養育施設を訪れ、他の十五人の孤児の食費を一年分立て替えるという条件で、彼を猫の子のように連れ去った。
 こうしてミレイはダークバードのパイロットにされた。
 敵味方の電子機器で攻防ともに飽和状態になった戦場で、手詰まりを打開するために考案されたのがダークバードだ。高空を飛ぶ爆撃機は戦闘機や対空ミサイルで迎撃される。低空を飛ぶ攻撃機も歩兵用の携行ミサイルで容易に落とされる。被撃墜率を下げるもっとも根本的で有効な方法は、できるだけ敵の前に姿を見せないことだ。攻撃機の飛び方は低ければ低いほど、速ければ速いほどいい。低空高速機の設計は不可能ではない。索敵識別の問題さえ除けば。
 その最後の条件を、機械はどうしても満たすことができなかった。
 だから、並外れた索敵識別能力を――それだけを持つパイロットが求められたのだ。
 最初の四週間、ミレイは嬉々として訓練をこなした。シミュレーターの構造と流れる画像は、よくできた縦スクロールシューティングゲームと変わらず、ミレイはそれが得意中の得意だったからだ。
 三十一日目に実戦に駆り出され、即日十七機のターゲットを撃破し、ダークバード計画の驚くべき有効性を軍の内外に知らしめた。その後もしばらくは、出撃のたびに高い撃破数を叩き出した。二回目に十五機、三回目に十一機、四回目に三十二機。
 五回目はゼロだった。
 五回目に帰還したミレイは、キャノピーの中で吐瀉物と小便にまみれて胎児姿勢をとっていた。大人が手で触れようとすると野獣のように歯を剥いて抵抗し、病室に収容された後もカウンセラーですら寄せ付けなかった。その状態は一週間と二日続き、十日目にとうとう、空軍機動進攻軍司令官のアーヴェン・ホロ准将が病室を訪れた。
 彼が部屋に入るなり、椅子と罵声が投げつけられた。
「でてけ! ぼくはもうぜったいに人殺しなんかしない!」
 淡い琥珀色の髪でまるく顔を縁取った、少女のように華奢な少年が、下着一枚でベッドに立っていた。ホロ准将は椅子を避けもせず、胸板で受けた。ゴキリと嫌な音がしたが彼は軽くよろめいただけだった。それどころかうなずきさえした。
「うむ、応答可能か」
「可能だけど、おまえたちなんかに――」
「ヘン中佐」
 ミレイには目もくれずに振り向いて、准将は後ろの部下に声をかけた。
「今から、この少年にひとつ質問をする」
「はい」
「彼がいいえと答えたら、ナムベック孤児院の全員を準備局権限で逮捕拘禁し、ヌエバ地方の山岳刑務所へ送致しろ。部屋は渓谷上の吊り下げ房とし、全員を一室に入れる。そして床面を一時間に十センチずつスライドさせていけ。あそこの吊り下げ房の差し渡しはどれぐらいだった?」
「縦横五メートル四方だったと存じます」
「ということはだいたい二日でけりがつくな」
 振り向いた彼を、ミレイが凄まじい形相でにらみつけたが、今度は罵倒しようとしなかった。准将も質問しなかった。
 やがて口を開いたミレイが、可能な限りの敵意を込めた震え声で言った。
「おぼえてろ。いつかテレビとか、新聞で言ってやるから」
「何を?」
 ミレイが大きく目を見張った。准将のような人間が証拠となるようなもの残すわけがないと悟ったのだ。それが、この二人の間に成立した、最初で最後で最悪の会話だった。
 ミレイががっくりとベッドに膝をついて泣き出すと、准将は踵を返した。用は済んだといわんばかりの態度だったが、それは事実、その通りだった。

 ダークバードは戦闘時以外は、自動操縦される。前線へ向かうときと帰るときはパイロットの手を煩わさない。前線滞空戦術統制機のレッゴーが出た時のみ、手動操縦とマスターアームを作動できる。パイロットはミレイのような若者ばかりだから、無理もない仕組みである。
 しかしそれが、操縦者の反乱を防ぐための措置であることも、また確かだ。
 ミレイの所属するC1ダークバード戦術中隊の四機は、数十キロ後方の前線基地へ戻ってからも、優先着陸する友軍機のために、しばらく上空で待機させられた。自動操縦で周回するバードの機内で、ミレイは無表情に伏臥シートの端を噛んでいた。
 ……また殺しちゃった……。
 それも味方を。吹き飛ぶ戦車が目の奥に焼きついている。バラバラになった人体の部品まで見分けられたような気がする。自分の動体視力のよさがうらめしかった。
 感覚亢進薬が切れたせいで頭がどんよりと重く、体が熱っぽい。興奮状態が治まって副交感神経が働いているのだと聞いた覚えがある。それは寝る前や寝起きの時と同じ状態らしい。だが、今のミレイにとってはだるくて不快なだけの感覚だった。
「コンガC1よりDB各機、ランウェイ・クリアー」
 フラックの指示とともに、バードがゆっくりと滑走路へ向きを変えた。ダークバード計画に携わる大勢の大人たちの中でも、この統制官はもっとも嫌いな部類に入る。ミレイたちが逃走や戦闘放棄をしないように、出撃時から帰還時までじっと見張っているからだ。ただ、その声は毎回変わるので、名前を持った個人として憎むのは難しい。
 バードが着陸し、専用エプロンまでタキシングされていく間も、ミレイは一言も口を聞かなかった。統制官は皆嫌いだし、中隊の他のバードも毎回組み合わせが変わるからだ。最後に仲間の名前を聞いたのがいつだったか、ミレイはもう覚えていない。
「コンガC1よりDB各機、リジェクチュア・バイパス」
 点滴外せの号令は機の停止を意味するものだが、それで任務が終了したわけではなかった。まだいちばん嫌なことが残っていた。フラックが読み上げる数字を聞くことだ。
「DB1、十四機撃破。DB2、十九機撃破。DB3、九機撃破。DB4、十八機撃破。よってDB2を当ミッションのMVPとする。おめでとう」
 これだ。自分が殺人の名人であることを思い知らされるのだ。しかも最近では嫉妬すら受けるようになった。脅迫されてやっているだけなのに。左ひじの留置針にキャップをはめて保護シートを巻きながら、ミレイは心と体両方の不愉快さに耐えた。
「コンガC1よりDB各機、解散」
 電源が落ちてコックピットが真っ暗になり、数秒後に真下のキャノピーが開いて光が入ってきた。すぐ下に待機していたバギーに飛び降りて、ミレイは宿舎へ向かった。ダークバード部隊の宿舎は基地のビジターセンターだが、別に厚遇されているわけではない。単に他部隊から隔離されているだけだ。ミレイたちは極度に行動を制限されている。この数ヵ月、外出を許されたことは数えるほどしかなかった。
 しかし、今日に限って異変が起きた。
 バギーを運転していた兵士が、無線の呼び出しを受けてマイクを手に取った。
「はい、ラビット21……警備ですか? しかし今は――はい、はい、わかりましたよ、もう」
 マイクを置いた兵士は周囲を見回し、いきなりバギーを止めた。そして助手席でじっと黙っていたミレイに顔を向けた。
「ちょっと降りてくれ、割り込みで任務が入った」
「え?」
「そこからまっすぐだ」
 兵士が指差したのは、今まで前を通るだけだった兵舎だ。
「そこの通路が、渡り廊下になってまっすぐビジターセンターまで貫通してる」
「でも……」
「いいから行け。三分以内に来いって曹長がうるさいんだ」
 厄介者を見る目で兵士は言った。彼がダークバード計画の兵士ではなく、基地の駐留兵であることにミレイは気づいた。そういった普通の軍人はたいてい、得体の知れない秘密計画を嫌っている。
 逆らえばますます嫌がられるだろうし、逆らいたくもなかった。
「わかりました」
 ミレイはうなずいてバギーを降りた。彼が兵舎の入り口に入るところまで見届けると、兵士はバギーを勢いよくターンさせて去っていった。
 レンガ造りの兵舎に立ち込める汗とほこりの匂い、それに静寂がミレイを包んだ。この建物には誰もいないようだった。
「……どうしよ」
 真っ先に考えたのは脱走だったが、すぐにあきらめた。この建物からは出られても、基地の塀とゲートを越えるのは無理だろう。警戒が厳しい。
 それに、ミッションをこなした後にはつき物の倦怠感が、抜けきっていなかった。悔しいが、今はセンターに戻って泥のように眠りたかった。
「帰るか……」
 のろのろとミレイは歩き出した。
 道のりは長かった。通路はいくつものかまぼこ型の兵舎を、直角に貫いて伸びていた。途中で歩道橋になって基地内道路をまたぐ箇所もあり、ミレイの疲労はますます深まった。白昼であるためか宿舎の兵士はほとんど出払っていて、途中まで誰とも出会わなかった。そのせいでミレイは、いつしか自分も機密の一部分であることを忘れていた。
 三つ目か四つ目の歩道橋を越えたところで、ミレイはどうしても歩けなくなった。いつもバギーで五分もかけずに往復する距離が、こんなに長いとは思わなかった。かすむ目で前方を見ると、次の階段の手前に置かれたベンチと、壁際のやたら大きな自販機が目に入った。疲れきっていたミレイはふらふらとそこに近づいた。
 ベンチに腰を下ろし、壁にもたれた。まだ春は来ていないが、薄汚れた窓から差す日差しが琥珀色の髪にあたり、ほのかに暖かかった。
「ふぅ……」
 目を閉じると、鼓動の音が聞こえた。
  とくっ   とくっ   とくっ
 静謐な、ゆったりとしたリズムだ。自分のその音に引き込まれるようにして、ミレイはそのままうとうととまどろんでしまった。
 と思ったら、鼓膜をぶっ叩くような胴間声で目が覚めた。
「おんやあ、こんなところに見慣れん可愛い子ちゃんがおるぞ?」
「ひっ!?」
 飛び上がって目をこすると、目の前にやたら顔の大きいゴリラのような男が立っていた。グリーンを基調とした迷彩服姿で、ブーツではなくなめし革の柔らかなシューズを履いている。空挺戦車乗りの戦車兵だ。
「おまえ、名前は? どこからまぎれこんだ?」
 メダルのように丸くぎらぎらする目で、ミレイの体を上から下まで見つめる。彼が身につけているのは体にぴったりしたブルーのシャツと黒のハーフパンツ、それに白のオーバーニーソックスだけだ。地面を歩かないダークバードのパイロットに、それ以上の衣服は必要ない。
 男の目がすっと細められた。
「むぅー、ほんとに可愛いの」
「……ヘンこと、言わないでください」
 なんとなく不快なものを感じたので、ミレイは思わず両手で体を隠した。
 その仕草がかえって男を刺激したらしい。やにわに彼は毛むくじゃらの腕を伸ばしてミレイの肩をつかもうとした。
「いかんなあ、君! そんなアレな格好でこんなナニなところにおると、悪い男に捕まっちまうぞ? ひとつ、わしが送ってやろう。どこへ来た? 誰かの家族か? んん?」
「ちょっと、やっ、やめて!」
 思わず悲鳴を上げたとき、別の声がかけられた。
「分隊長、やめてあげましょうよ! 怖がってますよその子!」
「あんだぁ?」
 ゴリラ男とともにミレイも振り向いた。
 横手の通路から顔を出したのは、まだ若い青年、いや、少年兵だった。黒髪を刈り上げにして戦車兵の迷彩服を身に着けているが、顔の線はやっと固まり始めたころのようだ。ミレイよりほんの二、三歳年上なだけだろう。
 ゴリラ男がうなる。
「なんだ、サージ。下っ端のくせに俺のやることに文句をつける気か」
「やめましょうよ、デンさんたちが死んじゃったばかりだってのに」
「む……」
 口を閉ざすとゴリラ男は少年とミレイを見比べ、やがてそっと手を離した。
「もっともだ。今日は精進潔斎せにゃあ。……サージ、面倒を見てやれ」
「アイアイ」
 どすどすと足音を立てて男が立ち去ると、少年がミレイを振り向いて笑った。
「ごめんな、おどかして。悪い人じゃないんだけど、女ぐせがちょっとね」
「おん……あの、そうじゃなくて」
 ミレイは言い返そうとしたが、少年の言葉に口をつぐんだ。
「でもじっさい、君もちょっと……野郎ばっかりの兵舎を歩き回る格好じゃないと思うな」
 そう言う少年がつとめて自分の体から目を逸らそうとしていることに、ミレイは遅まきながら気づいた。心なしか目元が赤くなっているような気もする。ダークバードのパイロットだとは気づいていないようだ。単純に布地の薄さのことを言っているのだろう。
 なぜか、さっきの男の時には感じなかった恥ずかしさを覚えて、ミレイはもう一度両手で胸と股間を隠してしまった。
 少年は上を向いてあごをぽりぽりかいたりしていたが、ふと何かを思いついて顔になって兵舎の奥へ消えた。やがて戻ってきたときには戦車兵用の裾の短い防寒ジャケットを持っており、それをミレイの肩にかけて、ようやく明るい笑みを浮かべた。
「な、これでいい」
  ――とくっ
 ミレイは、恐怖や驚愕以外のことで心臓が跳ねることを、初めて知った。
「あ……ありがと」
「ううん、どういたしまして」
 声を聞きながら、ジャケットの前をかき合わせた。男だとばれたら、なあんだ、と言われそうな気がした。女だと勘違いされているならそれでもよかった。
 少年が顔を覗きこんでくる。
「君、名前は?」
 少しかすれていて、声変わりの最中だとわかった。ミレイにはまだ来ていない変化だ。彼の顔を見上げて、頬が赤らむのを感じながら、声を出そうとした。ちょっと喉につかえた。
「ミ……ミレイ・トールトン」
「ミレイか。僕はサージ・サンガン。見ての通り徴用少年兵だ」
「何歳? その、まだ」
「十五。うん、わかってる。若すぎだって言いたいんだよね。でも学校で工業の成績がよかったもんだからさあ、軍属に目つけられちゃって」
 自慢げに言ったかと思うと、一転して真剣な顔をミレイに突きつけた。
「今のオフレコね」
「う……うん」
「軍属の悪口なんか言ったってバレたら、捕まるからね」
「うん」
「なぁんて!」
 また一瞬で笑顔になってミレイの肩を叩いた。
「まあ大丈夫だろうけどね! なにしろ僕はもう現役の戦車兵なんだから」
「……あは」
 ミレイは笑った。硬い結び目がほどかれたように、するすると笑い出していた。それを見たサージもますますニッと目を細めて、楽しそうに肩を震わせた。
 首をすくめて笑いながら、とく、とく、とく、と軽やかに高鳴る鼓動の響きをミレイは感じていた。久しぶりの温かな感覚だった。
「それで、ミレイ。どうしてここにいたの?」
「ビジターセンターに行く途中。ちょっと疲れて」
「センターは今閉まってるんじゃなかった?」
 しまった、とミレイは思ったが、サージはひとりでに納得してくれた。
「ああ、誰かの家族なの。本部のお客さんの」
「うん、まあ、そんなところ……こっちであってる?」
 ミレイが次の歩道橋への上り階段を指差すと、サージがうなずいて先に立った。
「隣だよ。ここを越えればセンターだ。こっちから来たんじゃないの?」
「ううん、外から……」
「そうか、じゃあ帰るところだな」
 ミレイはうなずき、立ち上がった。突っ張るような感じがしたハーフパンツの股間を指で直して歩き出す。
 サージと並んで階段を上った。歩道橋を越えるとセンターのガラス戸に突き当たった。ドアを開けたところで、サージの立場を思い出した。
 入り口をはさんで振り向く。
「ここ、シークレットだから」
「うん」
「ごめんね、ありがとう」
「わかってる」
「これ返す。ありがとう」
「ああ」
 ジャケットを脱ぐとき、ツンと砂の匂いが鼻をついた。どことなく孤児院の庭を思い出す懐かしい匂いだった。
「じゃ、また」
 ジャケットを渡して身を引くと、重いドアが閉まって、声も聞こえなくなった。
 それでもサージはにこにこしながらずっと手を振ってくれていた。
「えへ……」
 なんとなく嬉しくて、振り返り振り返りミレイはドアを離れた。
 そこは裏口だった。一階の奥の隅に当たる、人通りのない場所だ。スーベニアショップにポップな商品がたくさん並んでいる。空軍兵のキャップやバッジ、ミニチュアの戦闘機や子供向けのおもちゃ……平和な時代には、大勢の観光客が訪れた。
 今は照明が落とされて薄暗い。陳列棚にはビニールがかけられている。
 そこを通り過ぎようとしたミレイは、鋭い声をかけられてびくっと足を止めた。
「誰だ?」
 振り向くと、ショップの奥から見覚えのある年配の男が出てきた。ここの店長だ。しかしそれも昔の話で、今はセンター一階の警備員のような仕事をやらされている。
「パイロットのトールトンです」
 ミレイが答えると、店長はいぶかしげに裏口へ目をやった。「外で下ろされたから歩いて戻ったんです」とミレイは付け加えた。
 ミレイに目を戻した店長は、奇妙なことを言った。
「何かいいことがあったのか」
「え……」
 顔に出ていたかな、とミレイは頬に手を当てた。だが、ほのかな幸福感は一瞬で打ち砕かれた。
「今日も殺してきたんじゃろ」
「……機密です」
 ミレイは身を翻して走り出した。せっかく忘れてたのに、と憎らしい気分だった。

 3

「コンガE2よりDB各機、ファイア・ファイア・ファイア」
 フラックの鼓舞を聞き流しながら、ミレイは半ば機械的にHiGMを撃ちこんでいく。今日の任務は拠点制圧支援だ。敵部隊を中心にぐるぐると円を描いて旋回しつつ、要請に応じて攻撃をするだけ。
 敵の上空に長々ととどまるわけだから、低空高速侵攻を旨とするダークバードにとっては、やや用途外の任務である。とはいえ遂行できないわけではなく、むしろ楽な仕事だ。在空機はDB1と2だけだが、ミレイはさほど緊張していなかった。
 敵拠点は中世の古い城だ。城郭上に据え付けられた対空機銃はすでに吹っ飛び、中庭に一台だけあった旧式のSAMも焼けた金属の塊と化している。今は突入する地上部隊のホワイトホースを眺めつつ、時折あちこちから顔を出す敵スナイパーを黙らせている段階だ。
 もうすぐ終わるだろうと思っていたミレイは、しかし、フラックの声で物憂い気持ちを破られた。
「コンガE2よりDB各機、南門を出た車列を確認できるか」
「こちらDB1、視認できない」
「こちらDB2、視認した」
 ミレイはちょうどその車列に頭を向けていた。四駆が五台、トラックが二台。ブドウ畑の中の道を砂埃を立てて走っていく。負けを悟って逃げたのだろう。警戒を要しない。
 だがフラックは、無慈悲な命令を出してきた。
「コンガE2よりDB2、南門を出た車列を撃破せよ」
「――一周して確認したい」
 嫌悪感がこみ上げ、ミレイは思わず時間稼ぎの申請をした。BクラスやCクラスならともかく、Eクラスのコンガには下士官しか乗っていない。そんな連中のいうことを聞くのもしゃくだ。
 レーダー反応が明白に出ているので、バードはすでに全車をボックスに捉えている。今の速度は最前線での戦闘速度の半分程度だから、文字通り目をつぶっていても皆殺しにできる。ミレイがゲーム感覚で左手の人差し指を動かすだけでいい。
「コンガE2よりDB2、南門を出た車列を撃破せよ。重要な目標だ」 
 フラックがダメを押した。重要だって? ミレイたちパイロットは作戦の本当の意味について、常に最低限の情報しか与えられない。座標Aから座標Bまでの区間を掃射せよ、座標Xの周りで三十分援護せよ、それだけだ。「重要な目標だ」と言われることすら稀だ。
 そうはいっても、明らかに無抵抗の逃亡者を撃つことが正しいとは思えなかった。
 申請した一周が終わり、再び車列が見えてきた。前方に森があるので入り込まれると多少厄介かもしれない。いや、入り込んでほしい。ミレイはその可能性に賭けようとした。
「DB2よりコンガE2、クルーズスローにエラー発生、リブートする」
「DB2、再起動は不許可、再起動は不許可。AMCOMへのダイレクト入力で発砲せよ」
「コンガE2、クルーズスローとAMCOMのトラブルを切り分けられない。トラブル源が不明」
「DB2、全HiGMをマニュアルドロップせよ」
「ちぇっ……」
 いくらなんでも、弾薬の緊急投棄レバーが折れたなどという言い訳は通用しない。ミレイはしぶしぶバードを車列に向けてレバーをつかんだ。できるだけわざとらしくないように外してやろうとした。
 その時だった。最後尾のトラックの幌を跳ね上げて何かが顔を出した。クルーズスローが排熱を検知し、瞬時にミサイルの赤外線シーカー冷却作用だと判断、ズームをポップアップした。ミレイの目にミサイルを背負った兵士が映る。だがそれはこちらを向いていない。後方の城を向いている。
「――戦車!」
 そちらに振り向くと、友軍のホワイトホースが車列を追って門から顔を出していた。
 ミサイルが射出された。
「なんでだよ……!」
 叫びながら反射的に機を降下させていた。モーターに点火したミサイルと直交するコースだ。射線に割りこみながらミックスジャマーを発動し、白煙と炎の弾を盛大にぶちまけた。
 ブドウ畑に落下した破片が、あたり一面を熱点だらけにしてミサイルを狂わせる。同時に、この有様を目撃したホワイトホースも門前で側方へ跳躍した。目標を見失ったミサイルは奇妙な奇跡を描いて空へ駆け上り、城壁の一角に当たって爆発した。
 ビーッ、と警告音が耳をつんざく。 
  どくん!
「二発目!?」
 斜め後方、ほとんどの戦闘機なら確認もできない致命的な位置で、車列を捉えたボックスが赤くフラッシュした。別のトラックがこちらに二発目のミサイルを向けている。しかしダークバードは機体下方のほぼ全周を攻撃できる機体だ。HiGMなら一秒以内に到達する。
 ミレイはためらった。HiGMが突っこんだら、乗用車程度のソフトターゲットはまとめて粉砕してしまう。
 だが、被弾の恐怖には耐えられなかった。高まる警告音の中でミレイは決心した。
 ――そっちが悪いんだ!
 見つめたまま左手のトリガーを引いた。HiGMが並みのミサイルとは比較にならない高速で飛翔した。今にもミサイルを撃とうとしていた敵のトラックを貫通、巨大な運動エネルギーを路面に叩きつけて爆発を引き起こした。
 ぱっと衝撃波が広がり、土煙のきのこ雲が立ち昇る。距離がせいぜい数百メートルだったので、ミレイはその情景の細部まで目にしてしまった。
 先導の四駆が軒並み路肩に転がって、壊れたおもちゃ箱のように中身をまき散らした。色とりどりの花――女物の衣服に包まれた人体が、ぞっとするほどの乱暴さで路面に叩きつけられた。
 曲がる、ちぎれる、弾ける。赤いものがバケツで撒いたように飛ぶ。
「……ぐう……ぇっ……」
 舌の脇に苦い唾が湧いてくる。ミレイは顔を背けて、キャノピー画面にとめどなく吐きこぼした。

 基地の自室に帰っても涙が止まらなかった。それらしい光景は何度も目撃していたが、殺した相手の性別や年頃までわかったのは初めてだった。
「見えなければいいのに!」
 だが、見えるからこそミレイが選ばれたのだ。これは避けられない責め苦だった。
 食事も拒否してベッドに横たわっているうち、いつしか眠りこんでいた。目が覚めたのは夕食後の時間だった。普段でも静かなビジターセンターは、物音一つしない。
 ミレイは飢えを覚えた。飢えといっても肉体のではなく、心のだ。何かが足りない。胸に隙間ができたような気がする。
 それが何かわからぬまま、部屋を出て廊下を歩き始めた。
 エレベーターに乗り、一階に降りる。ロビーも闇に沈んでいる。ほのかに裏口の非常口の標識だけが明るい。なぜとなくミレイはそちらへ向かった。
「止められるぞ」
「ひっ?」
 振り向いたミレイは、スーベニアショップのレジに座る影に気づいた。例の初老の店長だった。
「センサにカウントされる」
 彼が指差したのは、裏口を見下ろす壁に取り付けられた電波センサーだった。小さなタグを検知するだけの代物だが、ミレイたちパイロットの衣服はすべてタグが仕込まれている。だから見つからずに出ることはできない。
 しかしミレイは不思議に思った。やましいことは何もないのだ。
「見つかるといけないんですか」
「外へ出るんじゃないのか」
「外……」
 そんなことは考えてもいなかった。けれども、言われると急に思い浮かんだ。ガラス戸の向こうに、彼がいたことを。
 サージ……サンガン。孤児院を出てから初めて出会った、まともな人。
「外……行きたいです」
 自然に、そんな言葉を口にしていた。
 しかし老人は首を振った。
「許可できんな」
「どうして?」
「兵舎には電子的セキュリティがないからな」
「逃げません。逃げたって基地からは出られないし」
「それでもだ」
 ミレイは老人をにらみつけた。しかしその程度の視線では、老人の顔のしわひとつも動かしてやれないようだった。
 ガラス戸に目を移す。ドアの外はまっくらで誰もいない。当たり前だ。
 見るだけでもいいのに。
 笑顔が見たい。ひとの笑うところが。
 急に視界が潤んだ。涙がひとりでにあふれて、頬を伝った。
「うう……くふ……あぅ……」
 あふれるしずくを手の甲でぬぐっていると、老人の声がした。
「なんで行きたい?」
「あいたい……会いたいの」
「この間の男の子か」
「うん」
 なにやらごそごそと背後で音がした。
 やがて、レジにどさりと何かが置かれた。ミレイが振り向くと、老人はハンディライトを持って背を向けていた。
「見回りの時間だ」
 そう言って階段を上っていってしまった。
「ふん……」
 しばらくふてくされていたミレイは、ふと、レジに目を止めた。さっき老人が出していたものだ。持って行くわけでもないのに、なにを出したんだろう。
 ミレイは何の気なしにその包みを手に取ったが、眉をひそめた。
「……服?」
 かすかな希望が湧いた。センサを振り返る。胸元に目を落とす。
 着替えてしまえば、カウントされない。
 ためらったのはわずかな間だ。ミレイはもともと、決断力に富んでいた。
 服の包みを持って階段の下の暗闇に走る。開けてみるとフリルやレースの手触りがあった。女物のようだが、かえって都合がいい。サージはミレイのことを女だと思っているはずだから。
 下着にタグが縫いこまれているかどうかわからなかったので、思い切って全部脱いだ。ソックス、ハーフパンツ、シャツ。全裸になると、細い体にエアコンの乾いた空気がまとわりついて寒気を感じた。急いで包みの服をあさる。小さなショーツを履いた。スカートにも足を通した。キャミソールも着た(スカートの前に着るものだと気づいて、なんとか直した)。ややぶかぶかだったが、長袖のブラウスも身に着けた。
 ソックスを太腿まで引き上げると、ミレイはパイロットの服を観葉植物の鉢に押しこんで、階段下から出た。歩き出した途端に違和感を感じた。
 下半身が寒い。布で覆われた上半身に比べて、ずいぶん頼りない感じだった。自分が周りからどう見えているのかがひどく気になり始めた。
  とくん とくん とくん とくん
 心臓の音が速い。誰も見ていないとわかっていても恥ずかしい。顔が火照る。やけに喉がかわく。
 見つかったら罰を食らう。ホロ准将の無表情な顔を思い出すと足がすくんだ。
 だが、こくっと唾を飲んで自分に言い聞かせた。
 ――あの店長は味方。服を貸してくれたんだから。
 一息に走った。ロビーを横切り、ガラス戸を開けて渡り廊下へ駆け上る。
 兵舎側の下り階段で足を止めた。明かりがついている。ほっとした。サージが起きてる。
「サージ……!」
 呼びながら階段を駆け下りたミレイは、急停止した。
「あぁん?」「誰だ」「女?」
 見るからに素行の悪そうな顔つきの戦車兵たちが、通路の真ん中でカードを囲んで座りこんでいた。ミレイは思わず身構える。
「あ……あの」
「う、ウィナイー?」「ウィナイーだな」「ウィナイーちゃんか!」
「え?」
 突然男たちが愉快そうな顔になったので、ミレイはあっけに取られた。近づいた三人が物珍しそうにミレイを取り囲む。すると兵舎の奥のほうへも「ウィナイー?」「ウィナイーだって?」と声が連なっていき、やがて数十人もの兵士が集まってきてしまった。
「ほんとだ、ウィナイーだ」「なんでいるんだ?」「なんでもいいよ、可愛いし」「よう、こっち向けよ」「ほんとにわけわかんねえな」「本人も怖がってるぞ」
「あ、あの、ウィナイーって……」
 体格のいい男たちに包囲されたミレイは、脅えきって硬直してしまった。コックピットで被照準音を聞くのとはまた違う、なにが起こるのかわからない怖さだ。
 そのとき、後ろのほうでぴょんぴょん飛んでいた人影が大声を上げた。
「ミレイだろ? おーい、ミレイ!」
「サージ!」
 ミレイは思わず走り出し、親を見つけた子供のように少年の腕に飛びこんでいた。

「マスコットキャラクターの衣装?」
「そう、空軍がイメージアップのために作らせたキャラクター。空戦少女ウィナイーっていうんだ」
 サージと二人で自販機横のベンチに腰掛けたミレイは、あらためて自分の姿を見回した。フリルつきの短いフレアスカートと、パイピングで縁取られ、肩と袖口が膨らんだいささか装飾過剰なブラウス。どちらも色はラムネ菓子のような派手な水色だ。
「親子連れが買って行くんだよ。開戦前は普通に見たけど、最近はないね。ミレイは知らなかった?」
「うん、ぜんぜん……」
 ミレイは脇の下に冷や汗を感じつつうなずいた。そんな浮かれた代物を知らずに着ていたなんて、うっかりにもほどがある。まあ、そんなものでもなければ軍のスーベニアショップに女児用の衣装が置いてあるわけがないが。
 借り物だということを話すと、サージはようやく納得してくれた。
「そういうことね、それならみんなに説明できるよ」
 うなずくとサージは立ち上がり、兵舎の通路に消えた。ミレイは不安になって腰を浮かせたが、待つほどもなく少年が戻ってきた。ミレイの前に立って肩をすくめる。
「お子様の遊びには興味ないってさ」
「お子様なんかじゃ!」
「怒るなよ、僕だけ面会がないから気を利かせてくれたんだ」
 さらりとした言い方だったが、口調のかすかな気負いにミレイは気づいた。
「もしかして、サージもみなしごなの?」
「……君も?」
「うん。ぼ――親、いないの。ここには、叔父さんしか」
「そうか。それじゃお互い苦労人だ」
 そう言うとサージは笑った。あの屈託のない笑顔だった。
「うん……」
 ミレイはうなずく。温かい湯を注がれたような安らぎが、額から体の深いところまで広がっていく。ひとりでに長いため息が漏れた。顔がほころんでいるのが自分でもわかる。
  とくん   とくん   とくん   とくん
 心臓まで静かになった。
 それが、サージに訊かれて跳ねた。
「今日はどうしたの?」
  とくっ
「……人を……」
「え?」
「……人が、人を殺したって聞いて」
「どういうこと?」
 サージが隣に腰を下ろした。ミレイは膝の上でぎゅっと拳を握り締めて言葉を作る。
「今日、ね。人を殺した……っていう話を聞いたの。逃げていく弱い相手を、空の上から撃って、ふっ飛ばしたって……」
 また、唾。ここでは吐けない。苦味に耐えて飲み込む。
「ミックスジャマーもIRサプレッサーもあったけど、オフセットなら直撃でも耐えるって言われてたけど、それでも万が一があるかもしれない。ベイルアウトは噂よりずっと危険らしいし、抜けたら抜けたで評価が落ちる。ううん、とにかく怖かった。撃たれるって思ったら耐え切れなくて急いで撃ち返」
「パイロットなの?」
  ど
「君のおじさん」
  くんっ……
「うん」
 ミレイは詰まった気管から絞り出すようにして返事を吐いた。
 そっかあ……と背中を反らしたサージが、いきなりぴょんと跳ね戻って、聞こえるか聞こえないかの声でささやいた。
「ダークバードの? あっ、言えないなら言わないで」
 息が耳にかかる。ぞわっと腰の奥がふるえた。
 その意味がわからないままミレイは顔を向けて、うなずいていた。
「そう……あの黒い飛行機の」
「そっかあ……!」
 ミレイはびっくりした。サージが声を抑えながら、最大限の喜びをたたえた顔で両肩をつかんだからだ。
 次の言葉はミレイにとっても驚きだった。
「それ見たよ! 僕らを助けてくれたんだ!」
「え……?」
 聞き返し、ミレイは突然、遅ればせの事実に気づいた。
 この少年はホワイトホース乗りなのだ。ミレイと同じ空軍機動進攻軍に所属する、空挺戦車兵。あの城から顔を出していた機体に乗っていた。
「あの時は敵がミサイルを撃ってきたんだ。無抵抗じゃない。それをおじさんのダークバードが邪魔して、撃ち返した」
 ホワイトホースは上空から大型パラシュートで投下される。任務を終えるとVTOLで速やかに揚収される。迅速な展開と撤収を旨とする空軍の一部隊なのだ。だから陸軍とは違って、戦車兵でありながら、昼に前線で戦っていても、夜は基地に戻って眠ることができる。
 自分がこの人の命を救った。
「すごかったよ、ほとんど真後ろに近かったトラックに一発で高速ミサっ!?」
 ミレイはサージを抱きしめた。両腕を体に回し、首元に顔を押し付けるようにして、ぎゅっと、強く。心からの安堵が言葉になる。
「よかった……撃ってよかった……!」
「み、ミレイ?」
「……ん、叔父さんが」
 腕の中の確かな体と、その温かさが懐かしい。動揺のほとばしりが収まっても、ミレイはサージを抱いていた。
 じきに、背中にぎこちなく重みが加えられた。ミレイは軽く息を呑む。サージも抱いてくれている。
「こっちこそ、ありがとうだよ。伝えといて、叔父さんに」
「ん……」
 ミレイは目を閉じた。とくとくと、自分の鼓動と同じほど速い音が聞こえていた。

 4

 自分が今までの何倍も強くなったような気がした。
 撃つとき、撃たないときをくっきり分けられるようになった。
 撃つときも撃たれるときも怖くなくなった。
「コンガC5よりDB各機、キル・オールエネミー」
「ロージャ」
 無線を通してでもフラックの驚きがわかる。これまでは必要もないのに了解を返したことは一度もない(最初期の四回の出撃を除いて)。ミレイは腹を据えていた。必要とあらばいくらでも殺せる気になっていた。
 広域掃討戦。ダークバード中隊に与えられたのは東西五マイル、南北四十マイルの地域だ。そこは市街地と森林の中間にある耕作地である。農場と牧場と疎林と民家が点在している。
 敵味方の兵器も。
「シュート。スルー。スルー。シュート。シュート。シュート。シュート。スルー。シュート。スルー。スルー。スルー……」
 ミレイは細めた目で地上を見下ろし、機械のような冷静さで左右のスティックを動かして、標的を選別していく。今日は敵という敵を見逃さず、味方という味方を完璧に回避していた。撃破数は四十分で六十五機に達し、なおかつ弾薬の二十パーセントを温存した。
 通過後に振り向いて、戦果確認を行う。自分が担当した帯状の区域には、非の打ち所のない戦術支援効果が表れていた。さながらコンピューター仕掛けのロードローラーでも通過したかのようだ。
 敵戦車や砲座の残骸のそばを、味方のホワイトホースやウォートホッグが駆け抜けていく。ミレイは満足する。
 ぼくはもうただの殺戮者じゃない。何かを守るために戦っているんだ。今までは何のために戦っているのか、この戦争がなんなのかもわかっていなかったけど、これからはあの人のために戦うんだ。
 基地に戻るとこっそり着替えて渡り廊下を渡った。兵舎を覗くとがらんとしていた。いなくなったのかと思って焦ったが、しばらくして気づいた。今日のような大規模な戦闘では、空挺部隊といえどもすぐには戻ってこられない。陸軍が本格的な橋頭堡を築くまで地域制圧を命じられているのだ。
 二日間、待った。誰かを待ったのは軍に入ってから初めてだった。
 それ以上に、そんなに恐れながら待ったのは生まれて初めてだった。
 二日後の昼に戦術VTOLのエンジン音が聞こえてくると、ミレイは居室から飛び出した。エレベーターを待っていられずに階段を駆け下りる。一階のショップでは例によって店長が新聞を読んでいた。一体いつ寝ているのだろうと思いながら、ミレイは階段下ですばやく着替えて、彼の横を駆け抜けようとした。
「待て」
 びくっと足を止めると、店長は新聞に目を落としたままで言った。
「走るな」
「はぁ?」
「女の子じゃろ」
 自分の姿を見回して、ミレイは赤面した。確かに、この格好でバタバタ飛んだり跳ねたりしたら丸見えだ。女の子ならもっとおしとやかにしなくては。
 いやそれよりも、本当に女の子に見えているんだろうか。
「あの」
「ん?」
「ぼく、変じゃないですか?」
 ミレイが両腕を広げると、店長はちらりと一瞥をくれて、また新聞に目を戻した。
「女の子はぼくなんて言わんな」
「あっ、はい」
「内股で」
「はい」
「本気か」
「え?」
 ミレイは顔を上げたが、新聞に集中する老人の横顔からは何も読み取れなかった。
 どうも……と頭を下げてその場を離れた。白昼なので、窓越しに誰かに見られないように身をかがめて渡り廊下を渡った。
 兵舎のベンチに座り、呪文のように唱えて待った。
「わたし、わたし、わたし、わたし……」
 やがてざわざわと靴音がした。ミレイは自販機の陰からそっと顔を出す。ジャケットをまとった戦車兵たちが大勢入ってきた。まだ戦場の緊張が抜けきっていないのか、誰もが険しい顔でむっつりと黙っていた。
  とく とく とく とく
 胸が痛い。あの中にサージの顔がなかったらどうしよう。
  とくっ!
「……サージ」
 いた。無骨な男たちの間でもみくちゃにされながら、ほそっこい少年が入ってきた。垢じみて疲れきった顔をしている。ジャケットを脱いでベッドへ向かおうとしてこちらに気づいた。
 その顔に、にへっ、と力のない笑みが浮かんだのが、ミレイは嬉しかった。
 サージはこちらへ来てくれたが、自販機の先で立ち止まった。ミレイは手招きする。
「座って。疲れたでしょ」
「後じゃだめ?」
「後って、なんで」
「いや、その、さあ……」
 サージが小脇に抱えたジャケットを、軽く左右に振った。ぷん、と体臭が漂ってきてミレイの鼻をかすめた。
「臭いでしょ」
「う……うん」
「三日間ホースん中で座りっぱだったかんなー。シャワー浴びるまで待って」
「い、いいから!」
 ミレイは思わず身を乗り出し、サージの腕をつかんでいた。
「気にしない! それより」
「そっ、それより?」
 聞き返されると、ミレイは思い切ってサージを引っぱり、隣に座らせた。汗臭いのを我慢してぎゅうっと抱きつく。
「こうしたい……」
「うっひゃ」
 びくんと逃げ腰になったサージが、頭をかきながら早口で言った。
「てっ照れるなぁ……」
 見上げると顔が真っ赤になっていた。くすりと笑ってミレイは胸に顔をこすりつけた。薄く筋肉のついた、男の子らしい硬い感触を頼もしく思う。
「おかえり。わたし、待ってた」
「あ、ありがと……」
 照れくさがってしきりにバリバリ頭をかくので、それはちょっとやめてくれないかな、とミレイは思った。
 ひとしきり抱き合って無事を確かめると、サージは着替えに行き、また戻ってきて座った。土産話が始まった。バードの爆撃のおかげで楽に進めたこと。街を占領したこと。敵のATMがかすってちょっとヒヤッとしたこと。でも大体はそんなに壊しも壊されもしなかったこと。
 最後のところを聞いて、ミレイは安心した。サージには危ない目にあってほしくなかった。
 ひとしきり話すとサージは言葉を切り、しばらく黙っていた。それからケホンとせきをして、改まった口調で言った。
「み、ミレイ」
「うん?」
「ミレイはさ、今、好きな人とかいたりする?」
 ミレイは目を見張ってサージの横顔を見つめた。少年は向かいの壁を見たまま、どうなの、と急かすように言った。
「んと、わたし……」
 ミレイは返事に詰まった。
 自分たちがそんな雰囲気になりつつあることは漠然と感じていたが、現実に告白されるとは思っていなかった。口にしたら、決まってしまう。恋人同士になるか、ただの友達になるか。ミレイはその中間、ずっと近づき続ける漸近線のような間柄のつもりでいた。
「……ひゃっ」
 サージに手を握られた。緊張のせいで少し冷たい手だ。ずっと壁をにらんでいる。彼は中間で済ませるつもりはないのだ。
 と思ったら、こっちを向いた。赤くなった顔をぐっと近づけてくる。笑うと糸目になる彼だが、今は目を開けていて、怖いほど真剣な顔だった。
「どう?」
「待って」
「いやなら言えばいいから」
「待って、待って」
「無理、僕も死ぬかもしんないし」
「……!」
 後ずさりしていたミレイは、その言葉で逃げられなくった。サージの顔はそのまま近づく。
「いい?」
「ん……!」
 触れる直前、もう目を開けていられずに、ミレイは視界を閉ざして体をぎゅっと縮めた。
 次の瞬間にはしっかりと両腕で抱かれて、ぎこちない、力のこもった口づけを受けていた。
  とくとくとくとく……
「……ミレイ?」
「はあっ! はぁっ、はっ、はっ……」
 唇が離れると、無我夢中で息を吸いながら顔をそむけた。舌も入れてこない幼いキスだったが、焼きつくような熱さが唇に残った。一度に百の標的を見つけたときのように頭がごちゃごちゃになってしまい、ミレイは呆然と震えだした。
 キスされたぁ……。
「……ごめん?」
 謝るような、反応を見るような声が背後からかけられる。ミレイはとても振り向けなかった。こくりと小さくうなずいただけ。
「……だめ、だった?」
 今度ははっきり、落胆の声だった。憑き物が落ちたように消沈している。ミレイは気づく。もうどっちつかずは無理。受け入れるか、拒むかの二択しかない。
「ごめんな」
 けりをつけるようにきっぱり言ってサージが立ち上がったとき。
 ミレイは後ろ手に、彼のズボンをつまんでいた。
「だいじょぶ……」
 少年が見下ろす。ミレイは――少女の姿のミレイは、勇気を出して振り向く。
「だいじょうぶ、だから。いかないで」
「……じゃあ?」
「うん」
 ごくりと唾を飲んで、ミレイは真っ赤な顔でうなずいた。
「いいよ。つき……付き合う。サージと」
「う……」
 サージの顔がみるみる変わった。一瞬ミレイは、すべてが冗談で大笑いされるのかと思った。
「うひゃほぅう!?」
 違った。なんだかわからない歓喜の声だった。叫んだサージが大きく両腕を広げてミレイを抱きしめた。ついさっきの不安そうなキスなど忘れたように、思いきりほっぺたを押しつけて頬ずりしてくる。
「ほんと? マジ? いいのミレイ?」
「う……うん」
「ヤーホー!」
 その場で両手をバッとあげると、身を翻してサージは走り去った。唖然とするミレイの耳に、やったやったばっきゃろーと調子はずれな叫びが届く。すぐに兵舎中から罵声が殺到した。うるせえ盛んなクソボケ黙れ!
 いつぞやのゴリラのような分隊長がひょっこりと現れて、凍りついているミレイに声をかけた。
「おまえさん、あんなのでいいのか?」
「えっと、その……って聞いてたんですか!?」
「だってなあ、ずうっとあんたのことばっか話してやがったんだぜ、ヤツ。また会えるかなあとか、好きな食べ物はなんだろうとか、恋人がいたらどうしようとか。うざってえのなんの」
「……そうなんだ」
「俺が悪いんじゃねえよ、ヤツが話すから悪いんだ」
「結局盗み聞きしてたんじゃないですか!」
 ミレイは憤然と立ち上がって叫んだが、サージが舞い戻ってきたのであわてて口をつぐんだ。立ち止まった少年は息を整えながらきらきらした目でミレイを見つめる。
「ミレイ!」
「な、なに?」
「ミレイ〜!」
「ちょっ、とっ、あのっ!」
 もう一度思い切り抱きしめられたミレイは、せめて分隊長のにやにや笑いから逃れようとじたばたもがいたが、まったくの無駄だった。

 5

 自販機の陰の陽だまりのベンチは、最初からそのために置かれていたように、二人のデートの場所になった。電話も手紙も交わせない間柄だったが、二人とも少しでも時間が空けばそこへ来て待ったから、妨げにはならなかった。
 ビジターセンターと兵舎の往来は禁じられているから、兵士たちさえ黙っていればばれる心配がない。任務の後の夕べに、薄明出撃の前のわずかな時間に、訓練日の昼食時に。二人はなるべく通路から見えないように身を寄せ合って、一緒の時間を過ごした。
「ん……んふ……くぷ、んレイ……」
「サージ……ふはぁ……あん……」
 最初の数回はミレイも固まっていたが、回数を重ねるにつれサージの腕の中でとけていった。いったん受け入れると決めてしまうと、何もかもが大丈夫になってきた。サージの唇、舌、指、てのひら、干草のような体臭や強い抱擁。そういういろいろに触れられると、頭がぼうっとなって深く安心してしまう。
 いや、ぼうっとなるのは麻痺なのかもしれない、と思うときもあった。ダークバードでミッションに出ている最中だ。
 冷静に、果断にパイロットとして行動しているときは、自分の中に強い核があるのを感じる。敵を倒してやろうとする心がある。もし今、サージがいちゃいちゃしてきたら、怒鳴りつけてぶっ飛ばすだろうなと思う。
 その硬さが、バードを降りてベンチへ向かうと、ふにゃふにゃに溶けてしまう。ぼくはこんなこと――と抵抗しかけても、サージに微笑みかけられて、優しく髪を撫でられると、麻酔をかけられたように心が柔らかくなってしまう。
 その切り替えの心地よさにミレイが気づくまで、さほど時間はかからなかった。普段強くあればあるほど、溶けるのが心地いい。
 サージに肩を抱かれて、自分の細い肩をすりよせて、鼻声でささやきながら頬にキスを繰り返す。
「サージ、ん、サージぃ、んんー……」
 自分でもむずがゆくなってしまうほど可愛らしい声を漏らして、子猫のように甘える。興奮して顔を赤くした少年が、欲情のこもったねっとりした手つきで、けれども精一杯ていねいに、自分の腕や脇を撫でまわす。
「ミレイ……もっとこっち……」
「ん……」
 従順に答えながらも、熱い綿でいっぱいになったような頭の隅で、ミレイは別の自分を思い浮かべている。審判の神さながらに敵と味方に死と救いを振りまく自分。恐れられ憎まれ、隠されている秘密のパイロット。一介の徴用少年兵とは比べ物にならないほど重要な立場。
 その立場も、能力も規則も性別さえも、すべて投げ捨てて一人の少女として抱かれている。そう考えると、感じたこともないほどぞくぞくした。
「好きぃ……サージぃ……だぁいすき……♪」
 よそへ届かないようできるかぎり声を殺して、できるかぎり愛らしく。甘えれば甘えるほど興奮は高まった。興奮するとさらに瞳が潤み、声が濡れる。それがサージの興奮を誘う。
「ミレイ……すげっ……」
 唇に唇をつけて舌でくすぐっていると、サージが我慢できなくなったように上体の向きを変えて、正面から抱いてきた。彼の胸でミレイは息ができないほど抱き縮められる。何も知らないミレイでも、自分の本能はわかる。より近づきたい、より深く添いたい。
 ――もっと一緒になりたい……。
 ぐぐっ、と股間が痛んで、ミレイはためらいを思い出す。
 ――でも、くっついたらバレちゃう……。
 ショーツの中のものが跳ね上がろうとするので、太腿をぴったり合わせて無理やり押さえこんでいる。それが悩みの種だった。
 じんじんうずくそれの意味はもう見当がついている。たぶん、好きあった同士はそれに触れるのが本当なのだ。自分のものにさわりたくてたまらないし、サージもそうだとわかる。抱き合うとやたら腰をもじもじさせるし、ズボンの上に形が浮き出している。
 でも自分たちは無理だ。人目があるし、性別がばれてしまうし、第一、口に出すのも恥ずかしい。そういうことをせずに続けるしかない。
 ミレイはそう思っていたが、さすがにサージに同じ期待を抱くのは無理だった。
 付き合い始めて二週間ほどたったある日、とうとうサージが求めてきた。
「ね……さわっていい?」
 夜だった。消灯後の深夜過ぎ。通路の照明も消えていて、自販機の明かりが廊下を照らしている。二人はその陰の闇の中にいる。
「ミレイ、さわりたい」
 たっぷり交わしたキスの後、声とともに、ひざに手を置かれた。ミレイは自分の手でそれを押しとどめ、頬を押しつけて懸命に振る。
「だめ、それはいや」
「怖くないから。誰も見てないし」
「でもだめなの。それだけは」
「お願い……」
「やぁ……やめ、だめっ」
 ぐいっと強く押し返した。声が不満そうになる。
「じゃ、いつならいいの」
「いつって……」
「僕、ミレイがほんとに好きだよ。毎日どんどん好きになってる」
「うん……」
 ささやかれるのはとても嬉しい。ミレイは何度もうなずくが、だからといって許すわけにはいかない。
「どうしてもだめ?」
「……ん」
「あ、そう」
 突き放したような声に、ミレイはひやりとした。嫌われるのはいやだった。
 しばらくしてサージが、すねたように言った。
「じゃあ、さわるのは?」
「え?」
「ミレイが、僕のに」
 手をつかまれた。
 ミレイは、今度は抵抗しなかった。それで済むならそのほうがいい。背に腹は代えられない。引き寄せられるまま、サージの股間に手を差しこんだ。
「これ……」
 ごわごわした布を持ち上げる山脈に触れて、ミレイはどきりとした。自分と同じ、でも少し大きなもの。
「いい?」
 もう一度聞かれて、ミレイはそれを軽く握り返すことで答えた。
「くぅ……」
 もぞり、とサージが身動きする。ミレイはそれを、指先で注意深く調べ始めた。ちょうどズボンのファスナーの真下にできた山脈。長さもファスナーと同じぐらい、幅はミレイの指でぴったり握れるぐらい……。
「こすって……くれる?」
「こするの?」
「そう……ちがっ、つかんだまま……」
 ミレイは筒状にした指を上下させ、さらに一回り大きくなる感触に驚いた。もうズボンの布の意味がない。輪郭も、くびれも、先の丸さもはっきりわかる。鼓動をそのまま表す脈動も。
  どっどっどっどっ……
 耳が熱い。興奮で自分も息が詰まりそうになる。他人のそれ、しかも硬くなった性器にさわるのはもちろん初めてだ。さわ、さわ、さわ、とこすりあげると、とてつもなく悪いことをしているような気分に襲われる。けれども止めるには愉しさが強すぎる。
「くふ……ふぅ……」
「サージ?」
「きっもちぃ……」
 ゴト、とずいぶん離れてサージの靴音がする。気持ちよさで足をピンと伸ばし切っているのだ。硬直した体が彼の快感を示している。ミレイは暗闇で目を皿のようにしてサージの様子を見つめようとする。
「くぁ……うう……あ……」
「サージいいの? そんなにいいの?」
「うん……ち、ちんちん焼けそ……」
 ぎゅうう、とミレイは自分の太腿に力をこめる。その下で自分のあれがきんきんと張り詰めている。さわりたい、猛烈にさわりたい。
 ちがう、さわってほしい。サージに。
 ミレイは左手をスカートの中に突っこんで、太腿に思い切り爪を立てた。痛みのあまり声が漏れるまで。
「くぅ……」
 そうでもしないと、我慢できそうもなかった。
 サージは夢中で気づかない。いまやミレイの右手に股間をぐいぐい押しつけて、腰を浮かせるような姿勢になっている。
「強くして……強く、そう、それでぎゅっぎゅって……」
「い、いいの?」
「いい。もう僕、だめ、このまま」
「このまま?」
「出す、だっ」
「な、なに?」
「続けてっ、やめないで」
 いきなりサージはミレイを抱きしめ、やみくもにキスしてきた。唇が当たらず、頬への口づけになった。
 ミレイの耳にうめきがかかる。
「ミレイ……っ」
 声のおかげで、その瞬間の激しい動きが自分に向けたものだとはっきりわかった。
 びくっ、びくっ、びくっ、とサージの腰が何度も跳ねた。手の中のものが確かに膨らんだ。びっくりしたミレイは反射的にそれをぎゅっと握り締めてしまった。
「くぅん……っ」
 ぶるるるっ、と手の平に激しい震えが伝わった。好きでなければとても感じていられないような、なにかひどく生々しい痙攣だった。
 やがて、がっくりとサージの体から力が抜けた。はぁはぁと荒い息遣いがかかり、触れている頬に汗がにじんだ。なんとなく終わったことを悟ってミレイが手を止めていると、サージが体の向きを変えて、何やらごそごそと拭き始めた。
 ミレイは後ろから聞いてみた。
「……漏らしちゃった?」
「ん……悪い、見ないで」
「今の、なんだったの?」
 振り向く気配があって、優しい口づけが頬に触れた。
「大人がやるアレ。……ミレイは知らない?」
「いやらしいこと?」
「うん……でも、悪いことじゃないんだよ。恋人同士なら」
「恋人同士だと、手でさわるの?」
「ううん、中に入れる」
 ミレイはしばらく考え、その言葉の意味することをじわじわと思い浮かべた。サージは、今の硬いものをミレイに入れると言っているのだ。そういうつもりで手で握らせたのだ。
「わたしの中……?」
「うん」
 それは息苦しくなるような、ねばっこく、恐ろしく、甘いイメージだった。サージの性器が自分の中に(どこに?)入ってきて、びくびく震えながら何かを(何を?)流しこむ。そんなことは今まで考えたこともない。
「……そんなのされたら」
「ん?」
「そんなの、恋人しかできないよね……されたら、なんだか、もう」
 つながり合ってしまいそう、とミレイは思った。
 サージが思い出したように訊く。
「いやだった?」
「ううん……」
 ミレイは自然にそう答え、さらに付け加えていた。
「どきどきした……まだしてる。体、あつい……」
「する?」
「え?」
 思わず闇の中で見つめなおした時。
 突然、静寂を引き裂いてけたたましいベルの音が鳴り渡った。空挺戦車部隊の緊急出動の合図だ。
 パパパッと全兵舎の照明が点灯し、男たちがベッドから飛び起きた。あたりはたちまち騒然となる。二人はあわてて立ち上がった。
「ったくいいところなのに! ごめん、行ってくる!」
「うん、気をつけてね」
 あわただしいキスを交わして、ミレイは少年の背を見送った。
 差し上げた右手には、握ったもののごつごつした感触がしっかり焼きついていた。

 部屋には着替えずに戻った。ドアを閉めると同時に、隣の部屋のパイロットが駆け出していった。ということは今夜は自分の出動はないらしかった。
 明かりのスイッチを入れ、衣装鏡の前に立った。ぱっと照らし出された姿を見て、ミレイはごくりと息を飲んだ。
「おんなのこ……」
 袖が手の甲まである、サイズの大きなブラウスで覆われた上半身と、反対に短いフレアスカートで脚の線を強調した下半身。パイピングとレースとフリルで飾り立てられ、中途半端なオーバーニーソックスで、わざと太腿を見せつけるようにした姿。その上に、とうてい男らしいとはいえない、琥珀色の髪を頬に沿わせた小さな顔が乗っている。
 スカートを、たくし上げた。
 粘液がさんざんにじみ出して、すっかりてろてろになったショーツの中心で、小ぶりなものが痛いほど屹立していた。そこだけ周囲と明らかに雰囲気が違う。唐突で攻撃的な異物。ミレイは眉をひそめる。
「おとこのこ……」
 そこに右手を近づけ、ショーツを太腿まで下げた。
 そして、胸の中がぶるぶる震えてしまうほど興奮しながら、サージをつかんだ手で、自分をつかんだ。
 ぎゅにっ……と硬い感じがした。右手がサージの感触を思い出す。が、サージのよりも細い。頼りない。
 そしてそこからは、サージ自身が感じていたのと同じはずの快感が、ぞくりと昇ってきた。
「あは……っ」
 ひざがガクッと崩れそうになり、あわててこらえた。軽く握っただけで、腰が抜けてしまうような快感があった。期待で胸が高鳴る。
   どくどくどくどくどく……
 右手でしっかり握って、サージをこするつもりで、サージになったつもりで動かし始めた。
「あ、あ、あ、はぁ」
 静かだった部屋に、たちまち息遣いと濡れた音が満ちる。きちゅきちゅきちゅきちゅ、と小さな摩擦音がどんどんペースを上げていく。ミレイは興奮に潤み切った目で食い入るように鏡を見つめている。可憐なスカートの下から露骨に勃起を突き出し、小さな袋を小刻みに揺らして、透明な粘液をとめどなくしごき出している自分を。
 ミレイはそこに二重の像を見ていた。こすられて感じる男の子のサージ、そしてサージに欲情されていた女の子の自分。
 焦らしに焦らされていたミレイが達するまで、一分もかからなかった。
「ひゃ、あぁっ! っあ! んっあ!」
 意識が吹っ飛びそうな甘い爆発が性器を貫く。ツンと匂う白い粘液が、びゅっ、びゅちっ、びゅくっ、とたっぷり鏡にぶつかる。腰を突き出し、サージがやったのとそっくり同じに、ミレイは好きな人のことで頭をいっぱいにして射精を繰り返した。
「はぁ……ん」
 一転して、暗い穴のような虚脱感に包まれ、ぐったりと壁に背中を預けた。
「はぁ……はぁ……」
 その初めての体験のおかげで、さっきのサージの状態がありありとわかった。
 飢えてたんだ。わたしがものすごくほしかったんだ。わたしをつかまえて好きなだけじろじろ見ながら、白いのを出したかったんだ。
「サージ……ごめん……」
 なんとかして、彼に自分をあげたい。あげよう。ミレイはそう決めた。
 しかしサージは、翌日も、翌々日も、その次の日も帰ってこなかった。

 6

「トールトン」
 死体のようにベッドに仰向けになっていたミレイは、そう呼ばれただけでは反応しなかったが、
「トールトン、面会だ」
 そう聞いてハッと跳ね起きた。
「サージ!?」
 叫びながらドアに手をかけ、開ける最中に服のことを思い出した。いけない、パイロットウェアのままだ。
 だが心配の必要はなかった。
「ミレイかい?」
「ナムベック先生!?」
 ドアの外には学僧の長衣をまとった小柄な男が立っていた。去年までミレイが世話になっていた孤児院のリンロウ・ナムベック師だ。ミレイは思わず彼の腕に飛びこんだ。だが、そばに立つ軍人に気づくと表情を消して身構えた。
「……どういうことですか」
 ダークバード部隊のパイロット管理を行うヘン中佐だ。やせぎすの中佐はむかむかするような猫なで声で言った。
「積もる話もあるだろう、中に入りたまえ。特別に二十分の時間をあげる」
 ということはミレイが釈放されるわけではないのだ。しかし断る理由もないのでミレイは師を部屋に入れた。
「元気だったかい? ミレイ」
「うん、大丈夫。先生は? みんなは?」
「なんとかやってるよ。勝ち戦で街中の景気はいいからね。院の周りをうろつく連中のことを除けば――」
「先生」
 ミレイは手のひらを立て、それを寝かせて、聞かれてると指で文字を書いた。師は苦笑してうなずいた。
「そんなことだろうね」
「元気ならいいんだ。あいつら、目的のためなら汚いことも平気でやるから。今日だって無理につれてこられたんじゃない?」
「まあ、頼んできたのは彼らだね。私も会いたいと思っていたから渡りに船だったが」
「そう……」
 ミレイが表情を和らげると、ナムベック師は何気ない口調で話しながらミレイの手を取った。
「ところでね、ミレイ。院の床下に猫が住みついていただろう。あの子が暮れに子猫を生んじゃって、いま院では子守で大忙しなんだ――」“私たちは人質?”
 手のひらに書かれた文字を見て、ミレイは顔をこわばらせた。手を握りなおして書く。
「近所にあげればいいじゃない」“うん”
「なかなかもらい手がなくてね」“一人でどこかへ逃げられる?”
「パン屋のロームさんや革職人のインチンさんがねずみに困ってるでしょ」“できる。でも”
「そうだな、ロームとインチンに聞いてみよう。しかし子猫は三匹生まれたんだ」“私たちのことは大丈夫”
「あっ、じゃあハンドックのお屋敷は? 前にメイドのトコが猫を飼いたがってたでしょ」“でも!!”
「そういえばそうだ。まだ探しているかもね!」“国を出るあてがある”
 ミレイは目を見張った。師の笑顔は本物に見えた。大きくうなずく。
「それじゃ……うん、それがいいと思う。ぜひそうしてよ」
「早いほうがいいね」
 ナムベックもうなずいた。
 それから、少し顔を曇らせてミレイの目を覗きこんだ。
「ミレイは本当に大丈夫かい」
「ぼくは……」
 ミレイは言葉に詰まった。重大なことに気づいたのだ。
 たとえナムベックたちが遠くへ逃げ延びてくれても、自分にはまだサージがいる。軍からは逃げることはできない。
「ぼくは……いま、守ってるんだ」
「ミレイ?」
「大事なものができちゃって……ぼくが守らないと、危ないんだ」
「そうだね、国を守らなければ」
 ミレイは師の目を確かめたが、話を合わせてくれているだけだとわかった。ナムベック師は盲目的な愛国心を抱くような人間ではない。
「でも、ちょっと困ってて……ぼくは好きなんだけど、ぼくが好かれているとは限らない。本当のぼくを見せてないんだ」
「ミレイみたいないい子なら、本当のことを見せればわかってもらえるよ。軍隊にも情けはあるだろうし」
「……先生!」
 ぎゅっとミレイは師の手にしがみついた。彼の温かさにほだされて、つい気持ちがあふれた。
「だめだったらどうしよう?」
 師は背丈のわりに大きな拳でミレイの手を握り、思いがけない強さで言った。
「当たって砕けろだ。男の子だろう?」
「おとこのこ……」
 ミレイはつかの間、混乱に陥った。ぼくはどっちなんだろう? 男の子? でも男の子のサージをこんなに好きなのに? 心はほとんど女の子なのに?
 乱れた心が鎮まる前に、ノックの音がした。
「時間だぞ、開けたまえ!」
「いちばん好きなもののために行動しなさい」
 最後にそう言って、師はミレイを抱擁した。
 廊下で別れを告げ、彼の姿を見送ると、ミレイはヘン中佐を振り返った。感傷はしばらく抑えなければいけない。軍人たちにそんなものを見せたくない。
「中佐」
「なんだね」
「それで、何をしろって言うんですか」
「察しがいいな」
「今の面会は前払いのご褒美なんでしょう。これから何かをさせるための」
 今までは面会すらなしで自分に人殺しを強いてきた連中だ。ひどいことを命じられるのはわかっていた。
 それでも、中佐の指示には絶句した。
「我が部隊は今週から局地的な戦術戦闘ではなく、戦略攻撃に参加する。君たちにはその最先鋒を担ってもらう」
「戦略攻撃?」
「民衆レベルの戦意喪失を狙った無差別爆撃だ」
「……街を燃やせっていうんですか?」
「わかっているな。拒否などさせんぞ」
 中佐の顔にはもう作り物の笑みすらなく、力ずくでいうことを聞かせようとする威圧感のみがあった。しかしミレイは彼が使用人でしかない見抜いていた。敵意をぶつけるべき相手は別にいた。

 サージは四日目に戻ってきたが、ミレイがそれを知ったのは五日目だった。五日目の昼前に何の気なしにセンターの窓から外を見ると、街へ遊びに出る戦車兵たちを満載したトラックが、基地の門を出て行くところだった。昨日のうちに帰還していたらしい。何度か渡り廊下の上からベンチを覗いたときには、誰もいなかったのだが。
 着替えて兵舎を向かったが、やはりベンチは無人だった。軽いショックだった。街へ出るならここにメモぐらい残していってくれればいいのに。あきらめ切れずに、通路と直角に交わる兵舎内の廊下に足を踏み入れた。
 ほとんどの兵が出て行ったらしく、レンガ造りの廊下には午前の白い光が静かに満ちているだけだった。いや、どこかからラジオの音楽が聞こえる。居残りがいるのだろう。
 口の悪い兵が「ム所」と呼んでいる、ずらりと並んだ六人部屋を一つずつ覗いていくと、床に座ってぼんやりラジオを聴いている兵がいた。こちらを向いたので声をかけた。
「あの……サージ、いませんか」
「んぁ?」
「サージ・サンガン。戦車兵です」
「何分隊だ」
「分隊……は知りませんけど、ゴリラみたいな、こんなごつい分隊長のいる」
「そいつはソネットだ。ダン・ソネット。すごい名前だろ」
「はあ……いえ」
「ソネット隊は西翼の二部屋目だ。まだいるかな」
「ありがとう」
「ちょっと」
「はい?」
 振り向くと、兵士は尻のポケットをごそごそ漁って、クリップで留めた札束を出した。
「後で来いよ。奮発するから」
 あまり穏やかな顔で言われたので、しばらく意味がわからなかった。兵士がふざけたようにズボンのファスナーを上下させたので、なにか卑猥な意味なのだと気づいた。
「知りません!」
 走ってその場を離れた。今にも後ろから襲われそうな気がした。
 西翼は中央通路を挟んで反対側で、その二部屋目は入り口にカーテンがかかっていた。そっと中を覗くと右と左と正面に一台ずつ二段ベッドがあった。薄暗さのせいで、それ以上のことがわかるまでしばらく時間がかかった。
 目が慣れると、左のベッドの下段に大きな塊があるのがわかった。
 塊がこちらを見ていた。
「ひ!?」
「……ミレイ?」
 ミレイは目を疑った。近づいてよく見ると、それは確かに座りこんだサージだった。
「サージ……どうしたの、そんなところで」
「ミレイ……来て」
「え?」
「ここ」
 サージがベッドの縁を叩いた。様子がおかしい。いつもの明るい彼ではない。だがミレイは彼の言うとおりにした。
「こう……? んっ!」
 腰を下ろすと、思ったとおりサージに抱きつかれた。ふるえる荒々しい腕がミレイの体を締めつけ、まさぐり、つかんだ。帰ってからシャワーを浴びていないらしく、小便くさい肌着の匂いが鼻を突く。だが、その程度のことは気にもならない。ミレイは黙って彼のしたいようにさせた。
「ミレイ……」「んっむ……んぅ」
 強引なキス。舌が入ってくる。口の中を調べていく――が、それはすぐに止んだ。唇が離れる。
 けれども執拗な愛撫は長い間続いた。ミレイの服と肌の下の、肉と骨格を確かめるように、少年は繰り返し手のひらを這わせた。
 その後で、奇妙なことを聞かれた。
「ミレイ、生きてる?」 
「生きてるよ……」
「ほんとに?」
「ほら。聞いて」
 頭を抱きしめ、自分の胸に押し付けてやった。
  とっ とっ とっ とっ とっ
 軽く弾むようなリズムを聞かせてやると、サージはようやく深いため息をついて、ミレイの腕の中で力を抜いた。泣いているような彼のささやきが耳に入った。
「よかった……ミレイが生きてた……」
「死ぬわけないじゃない。ずっと待ってたよ」
「死んでても仕方がないような気がしてた」
 文字通り受け取れば不吉な言葉だが、そんなことをいう理由があるはずだった。ミレイは顔を寄せてささやいた。
「なにがあったの?」
「たくさん殺した」
 ぴく、とミレイは震えた。サージが途切れ途切れに告白する。
「緊急出動は情報部がかけた。敵の前線の穴が見つかったんだ。そこを突破して一気に敵の領内に進んだ。街があった。川沿いの大きな都市だ。僕らはそこが敵の拠点だって教えられた。……攻撃した」
 わかってきた。サージが何をして、何を見たのか。
「市外から街の中の赤外線源を探して、つるべ打ちに曲射した。戦車もバギーもたくさんいた。全部潰せって言われていた。だから撃ちまくった。……その後で突撃した。そしたら」
 曲がり、ちぎれ、弾けた、赤いものの洪水。
「ふつうの人たちだった」
 ミレイにきつく抱きしめられたまま、サージは嗚咽し始めた。
 この日の攻撃は、両国の主戦場からかなり離れた、無防備な都市に対して行われた。事前の偵察がないままの一か八かの戦闘だったので、適正な砲撃量がわからず、空挺戦車部隊は最大限の発砲を命じられた。反撃がないのを不審に思った兵や下士官もいたが、敵が隠れているのだと指揮官に言われれば反論できなかった。間違っていても自分たちが被害を受けるわけではないという気の緩みもあった。
 突撃後に判明したのは、自分たちの砲撃が、わずか八十名ばかりの自警団と、二万六千名以上の民間人を殺害したという事実だった。
「僕も撃った、僕も撃ったんだ。ミレイ、僕は分隊長に八発撃たせてもらった。自分で十字路を照準した。敵が集中していると思って。でもそこに行ってみたら、穴の周りに物凄い数のばらばらの――」
 サージがベッドの足元に倒れこみ、ごみ袋に顔を突っこんだ。ミレイはそっと背中をさすってやった。
「でも、サージ……命令でやったんでしょう」
「撃ったのは僕だ」
「責任は指揮官にあるよ。サージが悪いんじゃない」
 サージは首を振って、ミレイに顔を向けた。口を開きかけて一瞬ためらったが、吐き捨てるように言った。
「あいつら、知ってて撃たせたんだよ! 民間人がたくさんいるってこと! 誤射なんかじゃない、誤射なんていう生易しいものじゃない、殺すつもりで殺したんだ!」
「なに、それ……どういうこと?」
「分隊長が言ってたんだ。あの街は自由都市だから、攻め落とせばどこの国のものでもない土地や財産が出てくる。僕たちの司令官はそれを目当てに、戦場でもない町へ攻めこんだんだって」
「よけい悪いじゃない、それならなおのこと、サージに罪はないよ」
「でも、言えないんだ」
 サージは沈んだ顔でつぶやいた。
「今のは話すなって言われたことだ。司令官の目論見なんかどこにも話せない。あの街の人たちは、僕たちの手違いで死んだことになった。……そして、僕たちがトリガーを引いたのは、どっちにしろ事実だ」
 言葉を失うミレイの目を、サージはようやく見上げてくれた。
「あんなに殺した僕が、罰を受けないはずがないような気がしたんだ。きみがちゃんと生きて、ここにいてくれるなんて……」
「……つりあわない?」
「うん」
 サージはミレイを押し離した。ゆっくりとした息遣いとともに言う。
「来てくれてありがとう……さあ、もう行って」
「どうして? わたし、ここにいたい」
「ひと殺しのそばに?」
 薄暗いベッドで、沈黙を挟んで二人は見つめあった。サージが念を押すように言う。
「きみはひと殺しが平気な子なんだ」
「サージ……そんなこと言わないで」
「なにか言うことはないの? 気持ち悪いとか、聞きたくないとか……全然ないの?」
「サージ」
 ミレイはきっぱり首を振った。彼の気持ちは痛いほどわかった。罰を受けて楽になりたいのだ。
 そんな救いはないことを、ミレイは知っていた。
「ひと殺しは大きらい」
「ミレイ――」
「でも、サージはそれよりも好き」
 サージが不思議そうに瞬きした。ミレイは近寄って、また彼の手を取った。
「もしサージが悪くても、その悪さはもう済んだの。今のサージは悪くない……でもサージがした悪さは消えない。サージはそれをずっと覚えていなくちゃ。覚えているなら、忘れてもいいと思うんだ……」
 それは自分に言い聞かせた言葉でもあった。そうとでも考えなければ正気を保ってはいられなかった。
「ミレイ……いいの?」
「うん」
 その小さなうなずきとともに、サージのかたくなな素振りも消えた。もう一度、今度は震えの収まった手で、サージがミレイを抱き、引き寄せた。
「ミレイ」「サージ……」
 名前を呼びながら、しっかり抱き合った。鼻をこすり合わせるような軽いキスが始まって、すぐに深く舌を交わすようになる。十五歳のサージのむさぼるような舌使いを、ミレイはもう心地よいと思うことができる。うねる舌に口の中をこすられ、吸われ、柔らかいところをじっくりとえぐられると、それだけでほわっと体が温まって幸せな気分になる。
「んふ、ミレイー……」
 唇を離すと、サージは愛しげに呼びながら頭を抱いてくれた。髪の中ですうすうと呼気が動く。「いつもいい匂い……」と言われると誇らしくなった。今までの堅い心が溶けて、ミレイの胸で甘えの虫がうずきだす。
「サージ、いいよ――」
 言いかけて、大事なことを思い出した。ナムベック師に言われたことをするのだ。
「サージ、わたしが好き?」
「うん」
「わたしが変な子でも、いい?」
「うん、ミレイがどんな子でも……」
「わたしもサージが好き、男の子でも好き」
 どうしたの、というように顔を離したサージに、ミレイは頭を押しつけた。恥ずかしさで顔が見れない。しがみつくような姿勢で、ささやいた。
「ぜんぶさわっていいよ……」
「……うん」
 サージが唾を飲む音が聞こえた。
 膝頭に触れた手が、しっとりと太腿に張りつく。それが遠慮がちに体の奥へ近づいてくる間、ミレイは祈るような気持ちで心臓の音を聞いていた。
  どっどっどっどっ……
「いい?」
「うん」
 太腿を撫でられるだけで腰がそわそわするほど気持ちよく、ミレイはすっかり勃起していた。さわられるのが待ち遠しい。けれどもその瞬間すべてを失うかもしれない。期待と恐怖で震えてしまう。女の子としてサージを慕いながら、このときのミレイは男の子の決心を固めていた。
 ――もう、当たって砕けろだ!
 指先がショーツの中心に触れた。
「ふぅ……っ♪」
「……え?」
 サージが戸惑う。指がおそるおそる伸びて、ぴんとショーツを持ち上げた幹をまさぐっていく。ミレイにとっては、最初で最後になるかもしれない好きな人の愛撫。二の腕に鳥肌が立つほどの快感を覚えて、硬くなるまでそれを反り返らせた。
「さぁ……じ……きもち……イイッ!」
「ミレイ……ミレイって……」
「ひんンッ♪」
 確認、というようにサージが全体を握り締めた。大きな手のひらの感触に我慢できず、ミレイは小さく暴発した。
「っ……んっ……!」
 根元にびくびくと二度ほど痙攣を感じるとともに、短い電光が幹を駆け抜けた。とっさにりきんで決壊はこらえたものの、切れこみからトロリと滴が漏れ出したのを感じる。それがショーツに染みていく。
 すっと手が離れた。サージが信じられないというように自分の手を見ていた。指先にキラリと湿り気が光っている。ミレイははぁはぁと荒い息をつきながら、やるべきことを果たした気分で、待った。
 ――見捨てられるかな。それとも……。
 サージはしばらく、口も利かずにミレイを見つめていた。
 そして、確かめ始めた。
 両手を伸ばしてなめらかな頬を包む。唇を親指でなぞる。耳をくすぐり、あごを伝う。
「ん、んふ、く……」
 細い首に指を回し、軽く締めつけてから下げ、ブラウスの胸のリボンをほどいた。ボタンを外し、胸に手を差しこみ、キャミソールの薄布の上から、ふくらみのない乳房を撫でて……乳首にコリッと触れた。
「くぅ……んっ!」
 胸からわきの下へ手を送り、背中を滑らせ、腰骨を過ぎる。スカートの上を一度通り過ぎてから、裏側へ回りこみ、尻の丸みに届いた。ミレイはおとなしく膝立ちになり、薄く足を広げる。腰の外側から両手を伸ばして、ショーツに包まれた尻をさわさわと撫で回したサージが、やがてさらに指を沈めた。ミレイの尻の谷間へ。
 じわじわと中心を過ぎて前へ這い出してくる指の感触を、ミレイは目を閉じて味わった。温かさでほぐれている袋を、きゅむ、と軽くつままれた。
「んん……っ」
 指はするりと出ていった。
 残る両足を、サージの手はていねいになぞって降りていった。足首までつかんだところで、彼は手を離した。
 ミレイはすとんとベッドに腰を下ろす。
「はぁ……はぁ……」
「……気持ちよかった?」
 聞こえたサージの声に、こくりとミレイはうなずいた。
「だからさわらせてくれなかったんだ」
「うん……」
「どうしてだましたの?」
「だましてない。気がついたら好きだったの。嘘もついてない。この服じゃないとセンターから出られないから」
「ミレイはそういう好みの子なの?」
「ううん、初めて。サージだけ、特別……」
 ミレイは目を開け、考えこんでいるような顔のサージを見つめた。
「……嫌いになった?」
「待って」
「言ってよ。嫌ならもう来ないから」
「待ってって」
「でも、ぼくはサージが好きなの」
 突然、サージがぶんぶんと激しく頭を振った。ぎょっとするミレイの前でぶんぶんぶんと降り続け、ぴたっと止めた。――ふらぁっ、とよろめく。
「も、わけわっかんね……」
「さ、サージ?」
「僕もなんか変……頭ごっちゃごちゃ。だって、ミレイのこと普通のオトコだって思えない……」
「そうなの?」
「うん……」
 サージが近づいて、ミレイを抱きしめ、ベッドに押し倒した。体をぴったり重ね、股間に股間を押しつける。
「うわ……ああ」
 ミレイは湯を浴びたように真っ赤になった。硬く大きくなったサージのものがわかる。それに触れられて、ミレイのものも再びむくむくと硬くなった。腰を動かすと、コリッ、コリッと心地よい手ごたえが伝わった。
 サージがかすれ声で言う。
「こういうこと、したいんだけど……」
「う、うん」
「変……かな。変だよな、僕」
「ぼ、ぼくも変だから! いいよ、サージ!」
「いっか。いいよね」
 にっ、とサージが顔の上で笑った。ミレイの大好きな暖かい笑顔だった。
 たまらず抱きしめた。
「サージ、大好きっ♪」
「僕も……」
 唇をとがらせてからかうようなキスを交わしながら、腰の間に腰をこすり付けあった。心地よかったが、間のファスナーが痛かった。サージも同じらしく、じきに腰を浮かせた。
「ね……脱いでいい?」
「脱ぐの?」
「じかに当てたら、と思って……」
  どきんっ……
「おち……んちん……と?」
「うん、両方」
「サージ、やらしー……」
「やらない?」
「ううん、やる、やる」
 顔を寄せてこそこそささやき合うと、二人はあわただしく両手を動かした。サージがベルトを外してズボンを下ろす。ミレイはスカートをたくし上げてショーツを脱ぐ。
 ミレイが両足を軽く広げて待つと、その間に膝をついたサージが、ふと思いついたように体を起こした。上段ベッドに頭が当たる高さから、しげしげとミレイを見下ろす。
「な、なに?」
「ミレイ……やらしいよ? ミレイも」
「ちょっ……」
 かあっと火がついたように頬を火照らせた。自分のはしたなさに気づいたのだ。スカートに巻かれたすべすべの下腹あたりから、白い太腿を包むソックスまでの間だけ、一糸まとわず肌を見せている姿。しかもその中心では、誰にも見せたことのないおもちゃのような可愛らしい性器を、期待でせいいっぱい反り返らせている。
 スカートで覆い隠し――てしまっては触れ合うことができないので、ミレイは顔を背けて訴えた。
「見るのはだめ、早くしてっ!」
「うん……」
 サージがまたのしかかってきた。ミレイの両脇にギシッと手をつき、腰を寄せる。
 ひたっ、と包皮がふれ合った。
「あ」「あっ」
 二人とも敏感に反応した。気持ちいい。感じたこともないほど気持ちいい。目が合う。すごい、と互いの顔に書いてある。
「さ、先にだっこして、サージ」
「うん」
「まだあそこ触らないでね、って、う!」
「ごめっ、当たった。こ、こう……」
「うん、そう。ぎゅってして。胸乗っていいから」
「ん、キス……」
 サージのがっしりした両腕で体と頭を抱えこんでもらって、ミレイは彼にしっかり抱きつき、顔に顔を寄せた。そうやって十分態勢を整えてから、サージが浮かせていた腰を下ろさせた。
「あっ」「あ、あっこれ、うぁっ」
 幹と幹をべったりと重ね、二人の下腹で押し潰してしまうと、腰の中に蜂でもいるようにじんじんとうずいた。うずきに急かされるまま腰をくねらせると、とろけてしまいそうな純粋なしびれが湧き出した。
「ミレイ、これっ、すご……」「うん、すご、すごいぃっ!」
 ミレイの小ぶりな茎の上で、サージの大人に近い棒がごりごりと8の字を描くと、神経を直接こすられているような、激しい快美感が脊髄を昇ってくる。まともな思考も目に映るものも脳裏から吹っ飛んで、ミレイが感じるのは肌の快楽とサージの存在だけになった。サージの重さ、息遣い、抱擁、匂い、そして熱烈な交尾のしぐさ、それだけがミレイを満たして、幸福しか感じられなくした。
 快感があっという間に許容量を越えてしまい、ミレイは自分がどうなったかもわからないまま一度目の絶頂に達した。
「サージぃ、サージぃ!」
 両腕でしっかり抱きついて叫びながら、ブリッジのように爪先立ちで股間を押しつけて、びくん、びくんと腰を跳ね上げた。ふれ合った腹の間に、幼いミレイの粘度の高い精液がびゅるる、びゅるっとあふれ出した。
「ミレイっ……」 
 小さな性器がしゃくりあげる健気な動きと、その後に自分のものを包んだねっとりとした感触のせいで、サージも達してしまった。つるつるした先端同士を押しつけながら、まだ続いていたミレイの吐出に激しい流れを合流させた。
「くうっ!」
「サージ……っ!」
 どくどくと暴れるサージの痙攣をミレイも感じて、悲鳴のように高い声を上げた。なおも動き続けるサージのせいで、触れ合っているところが境目もわからないほどぬるぬるになる。彼のささやきが耳に入りこむ。
「これ、赤ちゃん作る汁だよ」
「あ、赤ちゃん?」
「男と女でやるんだ」
「ぼくたちは?」
「できないけど、ほらっ」
 サージが動き、射精したばかりでじんじんしている性器で精液をかき回した。生クリームのような感触にミレイはぞくぞくと震え上がる。
「混ざっちゃったぁ……♪」
「混ぜよう、つながろうよミレイ、いっしょになりたい!」
「んっ、んうん、ぼくもぉ!」
 達したばかりの性器をたちまち回復させて、二人は飽かずに何度でも射精を繰り返した。狭いベッドの上には、嗅覚がぼやけるような青臭い花の香りが立ちこめ、度重なる放出で二人の腹の上は糊の缶でもあけたようにドロドロになった。
 痙攣に痙攣を重ねて疲れきったころ、サージがゆっくりと動きながら最後のささやきをミレイに聞かせた。
「あと一回……もう一回だけ、いい?」
「んっ……」
 ぬちゃっ、ぬちゃっ、ぬちゃっと音を立てて動いていたサージが、ぎゅっと腰を押しつけて眉をひそめる。ミレイはサージの根元がきゅっきゅっと縮み上がるのを感じ取る。いつの間にか撃ちだすタイミングまで、自分のことのようにわかるようになった。
「ミレイっ……」「出てるぅ……」
 ひくっ、ひくっ、ひくっ……と弱々しく膨張して、とうとう二人の性器はくったりとやわらかくなった。しぼり出された二筋の滴が押しつぶされてつながった。
 二人は何度も名を呼び合いながら、長い間身を重ねていた。

 シャワーから戻ってきたサージが、自販機の横腹を妙な角度で思いきり蹴った。機械の中でガゴンとやばそうな音がして、数本の缶コーヒーが出てきた。
「ここんとこ蹴ると、出るから」
 先に浴びてベンチで待っていたミレイは、目を丸くしてコーヒーを受け取った。
 並んで飲む。ベンチのあたりは相変わらず暖かく、心地よい。サージの肩にもたれたミレイは、やがて眠たくなってきた。この世に心配事は何一つないような気がする。
「決めた」
 声とともに、肩に腕が回される。
「僕、がんばってみる」
「……なにを?」
「二度とあんなことをしないように」
 そのときふとミレイは、自分のことをすべてこの人に話してしまおうかと思った。ダークバードのパイロットであること、サージよりもはるかに多くの人を手にかけてきたことを――。
 言えるわけがなかった。バード一機の戦力指数はホワイトホース百五十両分以上とされる。ミレイはサージの百五十倍殺すよう期待されているのだ。これまでも、これからも殺し続けるのがパイロットの任務だ。それがわかっているのにサージに告白できるわけがない。
 それにもしサージのことを上層部に知られたら――考えるまでもなかった。彼を人質にされてしまう。
「……がんばって」
 だからミレイは、自分の分の願いもこめて彼にそう言った。
 サージが何をしようとしているのか、よく理解しないままに。

 7

 戦略爆撃――
 僚機のダークバードとともに敵領土を低空で飛行しながら、ミレイは黙然と考えていた。
 罪のない人たちを殺すのが、どうして許されるんだろう?
 大人は簡単に説明する。国と国との争いではそういうこともあるんだ、と。道で人を刺せば犯罪者だが、戦争を起こした人間は単なる決断者と見なされる、と。
 ミレイにはわけがわからない。人を殺すのは悪いことだと思う。誰に言われたわけでもなく、殺している最中の自分の気持ちで、そう判断している。人を殺すのはとても気分が悪い――少なくとも人を助けるよりは。
 もちろん、もっと悪いのは殺されそうなときの気持ちだ。砲弾やミサイルを食らって爆発するのは絶対に嫌だ。被照準警告音が鳴ると、おそろしさのあまり手足がふわついて、頭の後ろから魂を持っていかれそうな気分になる。体がバラバラになって血をまき散らす自分が想像できて涙が出る。
 大人たちはいっぺんバードに乗ってみればいいんだ。
 だから殺されそうだからやむをえず殺す、という気持ちはとてもよくわかる。それなら許せる。
 でも、殺されそうでもないのにわざわざ爆撃をしにいくのは、どう考えても納得できない。それは「単に可能」というだけで、人間がやっちゃいけないことに含まれていると思う。道で人を刺すことと同じに。どれほど効果的であっても。
「なのに……」
 それをやりに行くぼくはどうなるんだろう。
 胸に土が詰まったような気分でミレイは地上を見下ろす。どうなるんだろうとは、生き残れるかどうかという意味ではない。そんなことは悩むまでもない。死ねば死ぬし、生きれば生きる。
 そうではなくて、もし自分がそんなことをしてしまったら、どんな気分になって、どんな人間になるのかが怖い。落ち込んで、立ち直れるとしても、仕方のないことなんだと自分に言い聞かせているうちに、とてつもなく心が歪んでしまいそうな気がする。殺して言い訳することを繰り返したらどうなるんだろう。どんどん平気になるのか? まあいつものことだよ、って具合に? ――ひょっとして、大人たちみたいになる?
 そして十二歳の子供を捕まえて言い聞かせるのかもしれない。行って殺してこい、俺も嫌だったがじきに慣れる、と。
「うう……」
 ミレイは軽く喉をえずかせた。最悪に不愉快な考えだった。去年までのミレイならこう叫んでいただろう、「死んだほうがましだ!」。
 だが今のミレイは死ぬのもいやだ。
「時間稼ぎするしかないかな……」
 友軍支援以外の爆撃は可能な限り外そう、ミレイはそう決めていた。サージも同じように考えているはずだ。彼は三日ほど前に出動していった。多分、また現地で出会うはずだ。
 そのとき聞こえてきた声に、ミレイはどきりとした。
「コンガA0よりDB2」
 いつにも増して冷ややかな声だった。胸のうちを見透かされたような気がした。気を鎮めて答える。
「コンガA0、DB2レディ」
「DB2、今から送る目標を撃て」
「セイアゲン、コンガA0」
 命令の反復をリクエストすると、返事の代わりに半球キャノピーの縁が赤線で彩られた。マスターアームをオンできるレッゴーコマンドが送られてきたのだ。実弾を撃てという合図だ。
 キャノピー画面に赤いボックスがフラッシュした。その四角形は塔のある平屋の白い建物を囲んでいた。周りは緑の牧草地だから、サイロを持つ農家だろう。
「DB2、シュート」
 ミレイは硬直する。あれを撃てって? 敵兵器でも兵士でもない、縁もゆかりもない農家を?
「DB2、シュート、ナウ」
 接近に伴ってボックスが急速に縮まり、ディスタンスゲージが最低値を取る。真横を通過。その瞬間、トラクターと農夫が見えた。離脱、ボックスは後方へ。
「DB2、シュート!」
 落雷のような声が叩きつけられた。ミレイはビクッとおびえてしまった。ためらいつつも左スティックを動かす。ボックスがアクティブになる。トリガー、オン。
 HiGMが飛び、人形の家のような白い農家をこっぱ微塵に吹き飛ばした。
「あう……」
 小刻みに震えるミレイに、前線滞空戦術統制機フラックの低い声が届く。
「ミレイ・トールトン、おまえは民間人を意識的に殺害した」
  どくっ……
「次回も同じ行動を取れ。多くは求めない。オーヴァ」
「あ……ああ!」
 ミレイはうめいた。いま自分はなにをした? 命令に屈してあっさりとミサイルを撃った。どうして? 目標が一つだけだったからだ。一つだけ、一発だけ、だから深く考えずに撃った。
 とんでもない間違いだった。これは、この後に続く虐殺の皮切りだ。ミレイはすでに罪を犯してしまった。これでは、たとえ今後の命令を拒んでも意味がない。
「くそぉ……っ!」
 拳で伏臥シートを殴りつけた。
「コンガA0よりDB各機、Aゲートはクリアード・アップ。レッゴー、レッゴー」
 フラックの宣言とともに、編隊は小さな丘を飛び越えた。悔し涙でにじむミレイの目に、前方の光景が映る。
 息を呑んだ。すさまじい規模の戦闘が繰り広げられていた。
 大平原を睥睨するさしわたし五マイルはありそうな囲郭都市だ。数知れぬ城塔と砲楼を花崗岩の長い胸壁がつなぐ。そのあらゆるところから黒煙と銃火が立ち昇っている。攻撃軍と守備軍が激しく争っているのだ。空軍の空挺戦車や陸軍の高機動車が走り回り、弾丸やミサイルを浴びせている。まるで巨大な戦艦に無数の小魚が襲いかかっているようだ。
 異常事態だった。民間人を爆撃しにきたのに、これほど敵軍がいるとは。驚くミレイの耳に初めて聞くコールサインが届く。
「キューベックB9よりビジター、セイユアサイン」
「キューベックB9、こちらコンガA0、およびDB1からDB8」
「コンガA0、アイデンティファイド。コードEI、コードEI、ジョイナス」
 EIは敵増援出現を意味する符号だ。察するに、攻城戦の途中で予想外の援軍が現れて苦戦しているのだ。こちらの指揮下に入って協力しろと言っている。キューベックが陸軍軍団司令部指揮機のコールサインであることをミレイは思い出した。空軍機動進攻軍のこちらのほうが序列が低いから協力の義務がある。そうなれば不本意な任務が取り消されるかもしれない。
 ややあってこちらのフラックが答えた。
「キューベックB9、こちらコンガA0。現任務遂行後に協力する。オーヴァ」
「そこまで……!」
 ミレイは信じられないという気持ちだった。軍団司令部命令を断ってまで、このフラックは爆撃がしたいのか。
「コンガA0よりDB各機、Bゲートはクリアード・アップ。レッゴー、レッゴー」
 ボムゲートはクリアですらない。敵味方双方の制空機の在否が確認されていない。いったん爆撃態勢に入ったダークバードは制空攻撃に対してほぼ無防備になるから、確認が必須なのに。このフラックはなぜそこまで任務に執着するのか。それよりも本当にまともなフラックなのか?
 八機のダークバードが逆V字型に整列する。それぞれのカバーエリアをわずかに重なり合わせて、城郭全体を覆う幅で直進する。
「コンガA0よりDB各機、デストラクション・ナウ」
 編隊が城壁を飛び越えると同時に爆撃が始まった。民家が、四辻が、市場が、赤いボックスの花畑になり、そこへ片っぱしからHiGMが撃ちこまれていく。着弾の炎と衝撃波があたり一面を埋め尽くす。市内には人々が大勢避難していた。城壁に囲まれて安心していた彼らが、逃げ惑いながら空に顔を向けて悲鳴を上げている。
 バードのパイロットたちは反抗しない。機械になったように淡々と任務をこなしている。
 ミレイ一人を除いて。
「DB2、シュート! シュート!」
 八機の航跡の下に一本だけ、幅数百メートルの安全地帯が形成される。たまたま幸運にもそこに居合わせた人々が、右方と左方に立ち上る爆炎の城壁をぼうぜんと眺めている。
「DB2! 懲罰だぞ!」
 怒りの声にミレイは歯を食いしばって耐えた。反抗した結果どんな懲罰が待っているのかわからないが、それがかえって恐ろしい。どんな罰でもありそうに思える。ナムベック師はもう逃げてくれただろうか?
 八機がとうとう都市の上空を通り抜けた。振り返ると無数の小爆発であばただらけになった市街地が見えた。恐るべき眺めだ。死者は五千人をくだらないだろう。
 ミレイだけはまだ農夫たちしか殺していない。ビッ、ビッ、と短い被照準警告音をミレイは聞く。短時間過ぎて照射源を確認できないが、距離はきわめて近い。左右の僚機の仕業なのだ。もっと殺せと言っている。
「い……いやだぁーっ!」
 ミレイが叫んだとき、フラックが不気味に静かな声で言った。
「DB各機、回頭。リアタック用意。――DB2、今から送る目標を見ろ」
 キャノピー画面に青いボックスが一つ生まれた。その箱は、城外から砲撃を続けている空挺戦車の一両を囲んでいた。
  どくん!
「ソネット分隊のホワイトホースだ」
「……セイアゲン?」
 直感的に危機を感じてミレイはしらを切った。しかしフラックは冷厳に宣告した。
「サージ・サンガンが乗っている。あれを守りたければ命令に従え」
「そんな人――」
「センター一階の警備員の報告だ」
 がん、とハンマーで頭を殴られたような気がした。あの老人が密告していたなんて!
「ミレイ・トールトン、戦え! この街だけでいい、約束してやる!」
「……一度だけ?」
「そうだ、あとワンパスでいい。それでこの都市は片がつく!」
 ミレイは手の震えを押し殺して、スティックを握った。操舵モードをセレクト、再進入コースへアプローチ。
 ――それだけで、サージが助かるんなら。
「よし、DB各機、デストラクション・アゲン!」
 フラックの歓喜の声が上がり、八機がまさに都市上空へ入りこもうとしたときだった。
 ミレイが目の端に捉えていた青いボックスが、二、三度瞬いて変化した。青枠の外側に新たに赤枠が現れる。初めて見る変化だったが、意味は知っていた。
「寝返り!?」
 右スティックでズーム画像をポップアップさせる。ホワイトホースは停止して砲身を後ろへ向けていた。ということは、戦闘続行拒否だ。サージがやると言っていたのはこれだったのだ!
 それを見た瞬間、感動とともに背の凍るような恐怖がミレイを捉えていた。
 ――戦闘の真っ最中にそんな宣言を出すなんて、自殺行為だ! 敵味方双方に撃ってくださいって言うのとおんなじだ!
 フラックのつぶやきが、恐れを裏付けた。
「DB2、ソネット分隊は戦闘続行を拒否した。見ておけ、これが臆病者の末路だ!」
「待って、やめて――」
「DB1、シュート!」
 DB1は少しもためらわなかった。閃光のように走ったHiGMが地面を爆発させ、四本足で後退していたホワイトホースを、子犬のように跳ね飛ばした。
「サー……ジ……」
「全部隊へ、総攻撃開始!」
 呆然となったミレイの心の底で、何かが動いた。
 全部隊?
 一介の戦術統制官がどうしてそんなことを? ダークバードとホワイトホース両方に対して言ったのか? なぜこんなところにいる? 自由市民がいなくなればたくさんの利益が手に入るから? 軍事面で陸軍に楯突く必要があるのか? それが可能で、それをする意味があるのは?
  どっ……
 冷や汗が噴き出した。すべてが理解できた。
 自分だけが今、元凶を打ち砕ける。
「……そうか」
 ミレイは、スティックを思い切り横へ倒した。
 世界がぐるりと回った。
 大地は背中へ、視線は空へ。
 黒煙で汚れた空の真ん中に、空とほとんど同じ迷彩色の、小さな機体がいた。八機のダークバードを統制する戦術統制機、コンガA0。
 Aクラスのゼロ番機ならば、彼が乗っているに違いない。
ホロ准将・・・・
 その一言でミレイの意図は伝わった。悲鳴のような命令が飛んできた。
「DB各機、シュート・DB――」
「ノー、アイキル・マザーバード」
 右手が最速で動き、ターゲットサークルにコンガを捉えると同時に、トリガーを引き続けた。〇・九秒後、すでに十七発のHiGMを発射していたダークバード2へ、五機の僚機からのHiGMが殺到した。
 凄まじい振動が襲った。ミレイはシェイカーの中のクラッシュアイスのように、コックピット内で振り回された。
 しかし、それが収まってもかろうじて意識を保っていた。
「ぐ……がはっ……」
 伏臥シートに這い上がって、スティックをつかんだ。キャノピー画面はほとんどの画素が死んでいたが、かろうじて地平線は見えた。機は動安定力によって滑空に入っていた。しかしエンジンも舵もほとんど反応しなかった。
 それでもミレイは、残った舵面に鞭打って、バードを巡らせた。
 行きたい場所は、決まっていた。

 黒煙渦巻く城壁の上空に、八羽の怪鳥が舞っている。
 そのうち一羽が、仲間からいっせいに攻撃されて破片と煙をまき散らした。力尽きた様子で落ちてくる。
 ただ、仲間たちは追ってこない。親鳥を失って心細そうに旋回するばかりだ。
 落下する怪鳥はぐんぐん大きくなる。黒く広い翼と複雑な形の尾羽を持った、大きな鳥だ。地上の兵の多くはそれをじっくり見たことがない。見る前に速やかに去ってしまうからだ。ましてや落ちるところは一度も見たことがない。
 自分に向かって落ちてくることなど、ありえない。
「鳥が……」
「んん?」
「来るよ」
「ああ……来るな」
「ぶつかる」
「黙ってろ。所属部隊に義理欠いたんだ、飛行機の一機や二機ぶちかまされても文句は言えん」
 少年は不思議に思う。戦車の中にいたはずなのに、なぜ鳥が見えるんだろう?
 圧倒されるほど大きな影となって、鳥は真上を通り過ぎていった。
 やがて、少年の周りで人々がざわめいた。付き添ってくれていた大きな人が場所を空け、代わりに両手を支えられた小さな人影がそばに現れた。顔を覗いてくる。琥珀色の髪が小さな顔を縁取っている。心配げな言葉が飛び交う。
「だ……大丈夫なの?」
「まあな。ホースがコケたんで直撃は食らってない。バックに慣れてなかったのが不幸中の幸いだった。……そいつは見ての通り手も足もついてるよ。頭は打ったが」
「それよりあんたこそ、両足なんとかしたほうがいいぜ」
「いいの、こんなの……ん、ぎぃっ」
 苦しげな声の後で、人影がさらに近づいた。突然、それが誰だかわかった。
「み……れい……」
「サージ!」
 とても嬉しいものが抱きつき、首が締まった。
 少年はそれを夢の中の出来事のように感じた。遠く離れたところにいるはずの好きな子が、あの大きな決断をした後で来てくれた。夢だと考えなければ説明がつかない。
 夢ならば、覚めてしまったらどうしよう。
 しかしその子が口にしたのは、夢ではありえないような峻厳な事実だった。
「ぼくはパイロットなの」
 大粒の涙を少年に落としてその子が言う。
「たくさんの人を殺した」
「……あの鳥の?」
「うん」
 その言葉は少年の胸に落ちた。今まで、不思議なほどその子を身近に感じていたから。
 それでもまだ、慰めることはできると思っていた。
「……命令でやってたんでしょ?」
「ううん。殺そうと思って殺した。今」
「ああ……」
 ようやく、理解した。
 この子は常に自分よりつらい道を歩んでいたのだ。
 今までそれに気づかなかったことが、恥ずかしかった。
 だが、今なら声をかける資格が自分にもあった。
「それでも僕たちは殺さないようがんばった。ほんとにがんばったじゃない」
 その子が瞬きした。何度も。
 やがて見たこともないほど晴れやかな笑みを浮かべて、顔を寄せてきた。
「そうだよね……」
「うん」
 温かい鼓動が胸に重なった。
 大人たちが動き出し、いくつもの高機動車の音が周りを囲んだ。見慣れない軍装の味方が少年とその子をひとまとめに担架に乗せ、軍団司令部へ来て事情を話せと殺気立った声で命じた。
 平和はまだ先かもしれない。けれども自分たちがそこへ向かう道を開いたことを、二人はもう知っていた。

( 終 )



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