次へ 戻る メニューへ  皇帝陛下は15歳! エピローグ


 差し出された数枚の書面にソリュータがさらさらとサインをすると、レンダイク無地公爵がうやうやしい手つきで革張りの手紙綴じに挟んだ。縦横に三重に紐をかけ、結び目を蜜蝋で固めて、その上に貼った封緘にソリュータがさらにサインすると、皇后裁可済みの書簡一式ができあがった。――これははるばる王都まで運ばれて、国議の席上で初めて開けられる。それまではレンダイクだろうがデジエラだろうが開けることはできない。
 半年前からグレンデルベルトに滞在しているソリュータは、そういう形で帝国の国政に携わっていた。起案から実施まで文官たちが取り仕切る政務のうち、年に数件という大きな事案に許可を出すことで。
 前帝クリオン一世と同じように、実務を行うことは求められていないし、その能力もない。単なる飾りだ。しかし飾りには飾りの意味があって、きちんとした建物には屋根の頂上のガーゴイル像が欠かせないのと同様、人口六千八百万の大きな帝国には、皇帝なり皇后なりの名前だけの存在が不可欠なのだった。
 ただ、その飾りのところへ宰相本人が訪れる必要はないはずだった。
 書簡を受け取ったあとも、レンダイクは何か言いたそうな顔でソリュータを見つめている。広間には玉座に腰かけたソリュータの他、数人の召使いや護衛のシェルカが立っているが、いずれも気心の知れた者ばかりだ。密談をためらう理由はない。
 すると彼は、周りの人間ではなくソリュータ本人に遠慮しているのだ。そうと悟って、ソリュータは促した。
「何か言いたいのならどうぞ。それとも、私が王都に戻ってからでもいい用件ですか」
「では……純粋に外交上の案件として、申し上げます。私自身はあまり気乗りしないのですが、一応お耳に入れておくという意味で」
 持って回った言い方のせいで内容は想像できたが、ソリュータは無言でうなずいた。レンダイクは言った。
「シッキルギン連合王国内のヴィエル王国の皇太子が、皇后陛下に求婚して参りました。――二十三歳、誠実で民の信望も厚いお方だそうです」
 彼はソリュータをじっと見つめ、やがて淡い苦笑を浮かべた。
「お聞きするまでもありませんでしたな」
 ソリュータはにっこりと笑い、言った。
「お断りすると不都合がありますか」
「多少、皇太子の機嫌を損ねるでしょう。陛下のことを詳しく調べて、個人的に好かれたようですから。彼の不興を買えば交易にも影響が出ます。ヴィエルは質のいい石炭を産していますので。――しかし、大きな問題ではありません」
「それなら、お断りしてください」
 レンダイクは深々と一礼した。
 しかし、さらにひとこと言った。政治家としてではなく、若者を心配する年配者としての顔で。
「この先もずっと?」
「……ええ」
 ソリュータは静かにうなずいた。
 レンダイクは今度こそ何も言わずに出て言った。
 ソリュータはしばらく物憂げに窓を眺めていた。午後の日差しがまぶしい。ヒバリの鳴き声が聞こえる。
 立ち上がって言った。
「ちょっと歩いてきます。いつもの散歩」
 召使いたちが無言で頭を下げた。

 五星暦一二九二年五月、怪物グルドと眷属たちをからくも斥けた大陸戦争から一年半。
「遷ろう者ども」が国中に引き起こした大混乱は収拾され、大陸連合軍も解体された。ジングリット帝国は皇后ソリュータのもと、イシュナス・レンダイク宰相とデジエラ・ジングピアサー北鎮将軍による文武の統治体制を敷いて、皇帝空位のまま国情を安定させていった。
 西のシッキルギン連合王国との同盟は、従前どおり――つまり、剣を抜く前に言葉の応酬で勝負をつけることに努力を払うという形で――維持された。南のフェリド族との関係は非常に好転したといってよく、ギニエ市南方のガジェス山麓に居留地が設置され、まずは通訳を育てる試みが始まっていた。しかし、東の大明合衆帝国との関係は破綻したままだった。大明では大統令不在の間に、六人もの諸侯が覇権を争って内乱を起こしていたのである。
 元大統令となった霞娜は、捕虜の待遇で王都フィルバルトにとどめられた。じきに彼女と彼女の臣下に害がないという判断が下されて、一行は帝国北部の小さな村へ送られた。「遷ろう者ども」の跋扈によって荒廃した地方の再開拓が、彼らに与えられた仕事だった。霞娜以下の五千人あまりは、不服の声一つ立てず従った。帰る国をなくした彼らは、むしろ厚遇と感じたようだった。
 国内、特に王都における最大の問題は、イフラ教会の崩壊だった。民が精神的な支えを失ったということは脇へ置くとしても、新生児の洗礼、結婚式、様々な祭り、葬式などを司る者がいないのは大問題だった。しかしほどなく、民は新たな神を見つけ出した。他でもない、伝説的な死闘の後に姿を消した前帝クリオンである。人々は朝夕の祈りに、イフラの名ではなくクリオンの名を唱えるようになった。祭儀においても徐々にその習慣が浸透した。たとえば結婚式では、司祭の代わりに近所の出身のある程度位の高い軍人が呼ばれて、慣れないながらもこんな文句を唱えた。
「天と地と勇敢にして高貴なるクリオン皇帝の名において――汝らの誓いは認められん」
 実のところ戦争の終わった帝国では軍費の削減が検討されていて、軍人がもてはやされるこういった風潮は帝国府の望むところではなく、国立汎技術学校ではイフラ教に代わる人工的な宗教の構築が極秘裏に進められていた。シエンシア・M・プロセージャ率いるプロセジア占星団がこの作業に参画していたが、千二百年も栄えてきた宗教の代替物を造るのは生易しいことではなく、成果が出るとしてもだいぶ先になりそうだった。
 ともあれ、民衆の視点から見た帝国は、急速に暮らしやすくなっていた。経済、産業などの面からそれを説明することも可能だが、ここではもっとわかりやすい一つの事実を述べておくにとどめよう。――この一年、つまり一二九一年五月から一二九二年五月までの間、帝国正規軍による演習以外の戦闘は一度も行われず、一人の死者も出なかった。
 皇后ソリュータは大陸戦争終結後の国葬以来、人前に出るときは決して黒衣を脱がず、大きな同情と若干の揶揄のこもった、葬礼皇后という呼び名を奉られていた。それでもしばらくはフィルバルト城で国事に参加していたが、前年九月には奥院の他の八人とともにグレンデルベルトへ帰郷した。この際、二人の肉親が同道した。
 一人は兄であるレグノン・ツインド。彼が帰郷したのは実父スピグラムの病臥の報を受けたからで、出発前にグレンデルベルト侯爵位を継いだ。
 ソリュータと帰郷したもう一人の肉親というのは、ジョカ・ツインドだった。国立汎技術学校の生徒だった彼女は高等部へ進学するはずだったが、中等部を卒業するとともにレグノンと結婚した。それによって数ヵ月後にはグレンデルベルト侯爵夫人になったのだから、世間的に見ればうらやむべき玉の輿だったが、本人はどちらかというと、社交界に足を踏み入れることよりも、中規模の貴族領であるグレンデルベルトの統治者たるべきことに意欲を燃やしているようだった。もちろん、それが目的でレグノンに添い遂げたのでないことは言うまでもない。
 二ヵ月後の一二九一年十一月、スピグラムは病癒えることなく息を引き取った。息子と娘とその他多くの人々に見守られて逝き、死に顔は穏やかだった。享年四十九歳。
 それから半年、ソリュータはグレンデルベルトにいる。来月には王都に戻る予定である。
 彼女は十九歳になった。
 前帝の遺体は、三ヵ月間の捜索もむなしく発見されなかった。

 ソリュータは柔らかな下草を踏んで森の中を歩く。グレンデルベルト館の敷地内である。ロン・ネムネーダ率いる第一軍の兵、千六百名あまりが皇后を警護しているが、彼らは敷地の外にいるので、ソリュータの暮らしが乱されることはない。
 木漏れ日に目を細めて歩いていくと、タン、タン、と小気味のいい音が聞こえた。
 森の一角で、レザが弓の稽古をしていた。
 矢を番え、弦を引き、切れ長の目を細めて指を離す――タン、と三十ヤード先の的が鳴る。的には二十本近い矢が刺さっている。
 一息ついて、レザは得意げな笑顔を向けた。
「うまくなったでしょう」
 青い短衣に革の胸当て、厚手のタイツとブーツ。狩人の服装そのもので、華美とはいえない。しかしそれでも、悲しいほどレザは美しかった。
 ソリュータは言う。
「そろそろ本当の狩りでもしてみる?」
「そんな気はないわ。これは気晴らしよ。あなたもやってみない?」
「そうね」
 ソリュータは的を見つめた。弓をやるのはいいだろう。いかにも雑念を振り払えそうだ。
 しかし、今はそこまでしなくてもよさそうだった。レザの張りつめた精神に触れただけで心地よかった。
「また今度にするわ」
「秋には弓技会があるわ。練習するなら早めになさい」
 レザは微笑み、また弓を持ち上げた。迷いのないまっすぐな立ち姿だった。
 それをせずにはいられないというのが、レザの悲しさだったが。――彼女もこの一年、片手に余る求婚を断っていた。
 二十一歳。ソリュータ以上に気高く哀れな花。
 タン、と的が鳴った。正確に中心を射ていた。
「すごいわ」
 ソリュータは素直に感心した。
 それから、その場を離れた。
 
 散策路は森を出て湖畔に至る。うまく時間が合えばキオラに会えるはずだった。
 土手に上ると風が当たった。グレンデル湖を渡ってきた水の匂いのする風だ。二年前、クリオンとともに箱舟を見つめた場所。あの激動の半年はここから始まった。
 グレンデル湖には獰猛な肉食魚がいるが、それを除けば素晴らしい湖だった。何よりも、ジングリットとシッキルギンの中間というその立地が。この湖は、両国を行き来する隊商の三分の一に、水運という便利な交通手段を提供しているのだ。
 ジングリット側の港は館から少し離れたところにあったが、半年前、この土手の下にも小さな桟橋が作られた。キオラの願いによってである。ソリュータがそこへ降りていくと、思ったとおり、彼と彼の船がやってきていた。
 キオラは、二十人ほどが乗っているその船の船長だった。
「艫寄せて、もうちょっと――よし、縄!」
 オールと帆を半々に使う貨物船である。船楼から身を乗り出したキオラの指示で、うまく桟橋に船体を寄せた。縄が交換されて固定されると、降り板が渡されて彼が上がってきた。
「お帰りなさい、キオラ殿下」
「あ、お迎えですか。ソリュータさん」
 白い歯を見せて笑った彼の顔は、南のミゲンドラの人間かと見まごうばかりに日焼けしている。短衣から覗く細い手足も真っ黒だ。美しい金髪は以前のままだが、今は少女というより快活な少年に見える。見かけだけでなく、キオラはかなり船乗りとしての技能を身につけていた。
 いや、正確には船乗りではないのだが。
「待っててくださいね。今日はサロ半島からいいワインが来てます」
 言い置いて荷揚げを仕切りに戻る。たいして大きな船でもなく、荷物はすべて船員が担いで上げる。キオラが船員たちに、あれを先に、これは壊れ物だから気をつけて、と指示を出す。かなり様になっている。
 ソリュータはいたずら心を起こして、船員の一人をつかまえた。
「ちょっといいですか」
「は、これは皇后陛下!」
 船員は麻袋を放り出して直立不動になる。実は彼らも生粋の船乗りではない。もともとはシッキルギンの近衛兵である。
「どう、キオラは頼りになる?」
 ソリュータがそう聞くと、船員は生真面目な顔をかすかにほころばせて言った。
「十六歳のお方にしてはなかなかだと思います。自分が十六の頃は、上官に尻を蹴飛ばされなければ何もできない鼻たれでありました。――失礼」
「あの子はもともと、物怖じしない子だものね」
「は!」
 船員は目を細めて敬礼した。自分の主人が他国の貴人に誉められれば、部下としては嬉しくもなるだろう。
 要するにキオラは老王キルマの命で、帝王教育の一環として、船という人間集団の主人をさせられているのだった。船は小さな世界だが、船長の権限と責任は絶対である。一つの社会でもあり、軍隊でもあり、経済組織でもある。クリオンのように一国をいきなり任されるのは異常というべきで、少年にとってはこれぐらいが適当なところだろう。
 しかし、わざわざこの地にこんな航路を開いてこんな船を置かせたのは、キオラ自身の発案だった。
 キオラの仕事はなかなか終わらない。ソリュータは桟橋から声をかける。
「今日は館ですよね」
「はい! いつもと一緒、一晩泊まってからまた出ます。チェルはいますよね?」
「ええ」
「じゃ、後で行きますから」
 ソリュータはもうしばらく彼を眺めてから、また歩き出した。
 キオラは元気だ。完全に元気ではないにしても。――長い髪を絶対に切ろうとはしないし、以前のような少女の服もまだこっそり持っている。着れば今でも似合うだろう。それに何より、ソリュータたちのそばから離れようとしない。
 彼もまた、クリオンを忘れられないでいるのだった。
 
 他の妃たちは、大体いつも館にいる。ソリュータは戻った。
 エメラダたちのところへ向かおうとしたが、厨房からいい匂いがしたので、気を変えてそちらへ向かった。面白い光景が見られると思ったのだ。
 覗くと、その光景があった。――別の意味でだったが。
 召使いたちと同じ黒い衣装を身に着けた女が、調理台に向かっていた。台には湖で取れた魚が置かれている。横のかまどでは鍋が煮えていて、鍋が済んだのでこれから魚、というところらしかった。
 女が包丁を手にし、魚に当てた。すると不思議なことに、包丁が空中の見えない線をなぞるようにするすると動き、いつの間にか魚は皮とはらわたを取られていた。女がもう一匹魚を取ると、また同じことが起こった。もう一匹。もう一匹。
 都合二十匹近い魚が、二分でさばかれた。てっきり悪戦苦闘していると思ったソリュータは感嘆の声を上げる。
「マイラ……いつの間にそんなに上手に」
「あ」
 驚いた顔で栗色の髪を揺らして振り返った女は、途端に包丁を取り落とした。決まり悪そうに拾い上げる。
「見ていたならそうと言ってほしかった」
「ごめんなさい、でも恥ずかしがることはないんじゃない?」
 ソリュータは魚に目をやる。今日はムニエルらしい。
「私よりも上手だわ」
「切るだけならな。味付けと火加減はまだ新兵並みだ」
 そう言って肩をすくめつつも、マイラは楽しげに調理台を振り返った。
「料理は奥が深い。極める価値がありそうだ」
「……無理しなくていいのよ」
 ソリュータがそっと言うと、図星だったらしく、マイラは顔を赤らめた。自分のスカート姿を見回してつぶやく。
「やっぱり無理だと分かるか……」
「別に料理やお洗濯だけが必要なわけじゃないと思うの。あなたはあなたのままで、剣を持って鳥に乗っていればいい。……それでもきちんと育つわよ」
「そうかな」
「そうよ」
 マイラは首を傾げていたが、やがて調理台に戻った。
「じゃあそれはそれとして、今日のところは食事を作る。一度始めたことだし」
「そう」
 ソリュータはそれ以上言わずに厨房を出た。不器用な――手先がではない、生き方がだ――マイラはいろいろ苦労しているようだったが、落ち込んではいないのが嬉しかった。
 二十七歳といえば、まだ若いうちに入る。きっと似合いの生き方を、そして育て方を見つけてくれるだろう。

 館の上階にある書庫に上がると、窓際の机を挟んで、ポレッカとエメラダが筆を動かしていた。
 見かけという点で一番変わっていないのがポレッカだ。以前と同じように水色の質素なドレスを身につけている。十七になって背が伸び、体もふっくらしてきたが、外見から受ける印象は前と変わらない。
 それに比べるとエメラダはだいぶ変わった。金銀宝石の類を余り身につけず、漂白したような白いワンピースでいることが多くなった。立ち居振る舞いもおとなしい。あまり綺麗にしてると悪い虫が来るからね、と本人は言っているが、本音のところは、見せたい相手がいなくなったから地味になった、というところだろう。
 ソリュータが近づいても、二人は顔を上げなかった。静かに書き物をしている。エメラダの眼鏡が日を浴びて光り、インクの乾く匂いが上がっていた。
 しゅっ、と計算尺を滑らせて、エメラダはソリュータを見もせずに言う。
「先週の上がり、六十五メルダ。キオラ殿下ってどっか変よ。どうやったら仕入れの三倍で売れるものばっかり探せるのかしら」
「さっき戻ってらしたわ。今日はサロのワインですって」
「げー……それ、おとついシニオン領の伯爵が買い占めてた奴よ。あの美食家のおっさんが褒めちぎったら、百リーグ以内の貴族全員が騎士団出して探し回るわ。売れるなんてもんじゃないわよ」
 エメラダは計算尺を放り出して椅子にもたれる。
「お爺さんのままごとやらせておくのはもったいないわ。あー、あたしあの子と組んで本格的に商売始めようかなあ」
「やればいいじゃない」
 笑って言ってから、ソリュータは付け加える。
「私は手伝えないけど。実家に頼んでみたら?」
「まさか」
 ぐいっと体を起こして、エメラダは眼鏡越しに不敵な眼差しを見せた。
「やるならお父様をぶっ潰すわ」
「……それもいいかもね」
 そんなやり取りの間、ポレッカは無言で何かを書いている。エメラダのように表を埋めているのではなく、長い文章だ。ソリュータはそっと尋ねる。
「ポレッカ、それは何?」
「伝記」
「伝記……」
「陛下の。残しておきたくて」
 真剣に文面を見つめながら、ポレッカは言う。
「昨日、荷物を整理してたら、学院時代のノートが出てきたんです。あの頃はわけわかんなかったけど、今ならわかる。教科書に載ってるのは化石の記録じゃなくて、生きて動いていた人の姿。それを書いた人たちは、多分今の私と同じ気持ち」
「……忘れられない?」
 ソリュータは思わず言ってしまったが、ポレッカの厳しい眼差しを受けて口を閉ざした。
「忘れないから」
 きつい口調で言うと、ポレッカはまた筆を動かした。エメラダがソリュータの手を引いて、耳打ちした。
「やらせてあげましょ。粘土みたいにぐったりしてるよりましよ」
「……そうね」
 それが昨日までのポレッカだった。ソリュータはうなずいた。
 周りを見て、尋ねる。
「他のみんなは?」
「姫とハイミーナはお守当番でしょ」
「……なんだかすごい組み合わせに思えるんだけど、大丈夫かしら」
「大丈夫よ。二人はベロベロ舐め倒したりしないから」
 それはフウのことだ。フウは、とソリュータは聞く。
「上」
 ちょい、とエメラダは羽根ペンを天井に向けた。

 フウはベランダから屋根への梯子など要求しなかった。いつも手すりから勝手に登った。梯子を置いたのは、それを危険と見たレグノンだ。
 その梯子を伝って、ソリュータは館の屋根に登った。
 急な傾斜の切妻屋根は安全とは言いかねる場所だが、これもレグノンが手すりをつけさせていたので、捉まることはできた。頂上まで登ると素晴らしい眺めが目に入った。
「ああ……」
 南できらきらと輝くのはグレンデル湖の湖面だ。うすもやの彼方にシッキルギンの港がかすんで見える。視線を巡らせると緑の草原と、もっと濃い緑の森がある。館を囲む形の森の向こうは、どこまでも続く麦畑とゆるやかにうねる街道。
 ソリュータは髪を押さえて目を細める。王都では望めない、穏やかで優しい風景。だからこの地へ戻った。
「立つな。風がある」
 振り向くと、天窓の破風に乗せられた板にフウが横たわっていた。鷲が見つけたら巣をかけそうなそこが、彼女の特等席だ。ソリュータもそばへ行き、隅に腰かけた。
 彼女は九人の中でももっとも変わった部類だった。まず姿が。エメラダからぶん取った山吹色のワンピースを着て歩くようになった。着てみると意外に似合っていた。彼女はもともとめりはりのある体つきで、決して音を立てずにしなやかに歩く。体の線が出る服を着る素質があったのだ。レザがちょっと教えただけで貴族並みに美しい歩き方を身に着けた。しかし、ダンスはまだ覚えていない。
 だが、言葉を覚えた。まだ片言だが意思の疎通はできる。しかし教え手が強敵のハイミーナなので、硬い口調でけんか言葉をしばしば話す。
 そんなフウが普段何をしているかというと、ソリュータに見える範囲では何もしていない。寝ているか、さもなければいないかだ。いない時は森で遊んでいるらしい。
 で、いる時はここなのだった。
 仰向けにゆったりと横たわるフウを、風がさらさらと撫でる。手足の金の毛が揺れている。羽虫が一匹飛び回っているのは、彼女の香りを花と間違えたのか。耳に来れば耳をぴくぴくと動かし、尾に止まればぱたりと尾を振って、のんびりと虫を追い払っている。
 退屈しているのか、満足しているのか、ソリュータは前からずっとわからなかった。
 それが、不意にわかった。
「もうそろそろかな」
「……何が?」
「戻ってくるのが」
 ソリュータは胸を締め付けられたように感じた。この子は待っていたのだ。現実を理解していないのだろうか?
「フウ……あのね」
「言うな」
 フウはちらりとソリュータを見て、またうたた寝するように目を細める。
「言うと本当になるぞ」
「……」
「フウは一度も言っていない。だから大丈夫だ」
 多分、わかっているのだろう。受け止め方が違うだけなのだ。ソリュータには理解できない行動を取ることが多い彼女だが、無理に自分たちと同じ気持ちを抱かせるのは忍びなかった。
 不意に、ぴく、と耳がこわばった。
 がばっと起き上がったフウが周りを見回す。驚いてソリュータは聞く。
「どうしたの?」
「……いにしえ様が要る」
 言うなりフウはそばの屋根に移り、するすると滑って軒から飛び降りた。ソリュータはあわてて見下ろす。
「フウ!?」
 フェリドの娘はもういなかった。

 フウを探して館を歩き回っていると、修道服姿のハイミーナと、キオラのお下がりの白い短衣とスカートを身に着けたチェルと出会った。ソリュータを見かけると、二人してしーっと口に指を当てた。
「静かにね、ソリュータ」
「……寝てくれた?」
「ああ。ようやく」
「大変だったのよ、わんわん泣いて」
 二人は穏やかに顔を見合わせる。これは別にこの二人に限ったことではない。お守のときは皆こういう顔になる。
 それにしても――今初めてソリュータは気づいたのだが――ハイミーナとチェルは、それに向いているのかもしれなかった。
 ハイミーナは、一番それを望んでいたからだろう。彼女の人生は、九人の誰よりも過酷だった。本来、安息と幸福を与えてくれるはずの神が、彼女の身も心も辱めた。穏やかな暮らしを心底から望んでいたに違いない。それが手に入ったということが、悲しみや寂しさを相当紛らわしてくれているのだ。
 チェルも過酷さで言えば似たり寄ったりだ。彼女もハイミーナと同様、多くの人を手にかけた。幼いなりに理解していただろうし、十二歳になった今ではもっとはっきりわかっているはずだ。はずではなく、実際にソリュータは何度も、夜中にうなされるチェルを見ている。ごめんなさい、許して、とここにいない大勢に謝っていた。
 守ることが大きな慰めになっているのだろう。
 チェルがソリュータの手を引く。最近では無邪気というよりおしゃまな表情をみせるようになった。
「ソリュータ、レザさまのところへ行きましょ。楽しいのよ」
「ごめんなさい、さっき行ってきたんです。私、フウを探してて」
「そうなの」
 じゃあ行くわ、とチェルは走っていってしまった。スカートの長さに応じた走り方について教えてやる必要をソリュータは感じた。
 振り返る。
「ハイミーナは?」
「本をとってくるだけだ。また戻る」
 そう言って去っていった。彼女が何を読んでいるかソリュータは知っている。以前、クリオンの部屋にあった本ばかりだ。彼女も追いかけているのだろう。
 軽いため息が漏れた。

 しばらくフウを探してうろうろしていたソリュータだが、はたと気づいた。もう探す必要はないのだ。
 憂鬱さがだいぶ薄れていた。
 ソリュータが皆のところを回るのは、持病の薬を飲むようなことだった。以前のことを思い出しすぎてしまったとき、気がめいった時、そうする。妃たちは皆、自分なりに立ち直る方法を見つけて、あるいは探して、努力している。それを見て回ると、自分の気力も蘇るような気がするのだ。これは逆の場合にもあてはまることで、九人はお互いに(一人で抱え込みやすいポレッカを除いて)、生きる力を与え合っているようなところがあった。
 ソリュータは立ち止まる。館の玄関ホールだった。さて、と考える。広間に戻ろうか、別のところに行こうか。その気になれば皇后としてやることもある。
 その時、玄関の樫の大扉が開いて、第一軍の者らしい兵士が入ってきた。いくら護衛の者だといっても、女性のいる館に案内も請わずに入るのは少し無礼だ。ひとこと言ってやろうとしたソリュータは、ぎょっとした。
 兵士は化け物に出くわしたように目を見張り、真っ青な顔をしていた。ソリュータを見つけて何か言おうとする。
「こ、皇后、へっへいっ」
「……どうしたんです?」
「案内はいいから」
 後ろから声がして、兵士を押しのけるように誰かが入ってきた。砂にまみれた帆布のマントを羽織り、フードをかぶった細身の人物。腰に剣を下げている。
 その人物がフードを取った。
「……ソリュータ」
 ソリュータは頭を殴られたようによろめいた。
 柔らかな金髪、コバルトの瞳、男性にしては少し頼りない感じの頬の線。心に焼き付いていて、何度も忘れようとして、決して忘れられなかった顔。
 クリオンが歓喜にあふれた顔で両腕を伸ばした。
「ソリュータ……」
 やめて、とソリュータはつぶやく。すうっと頭が冷える。吐き気がこみ上げる。またこの悪夢。醒めれば気が狂うほど悲しくなる地獄の夢。せっかく慣れたのにせっかく癒えてきたのにどうしてまた悲しませるの何度苦しめばいいの――
「いやあぁぁーっ!」
 絶叫とともに、ソリュータは意識を閉ざした。
 
 目を開けると自分の部屋の天井が見えた。
 どっと息を吐く。体中が冷や汗で濡れて、喉がからからに乾いて、最悪の気分だった。横から、すっとグラスが差し出された。顔を回すと兄のレグノンがいた。
「飲みなさい、水だ」
「……お酒がいい」
「いいから」
 ソリュータは体を起こし、苦い唾を水とともに飲み干した。うつむいてつぶやく。
「私……また叫んでた?」
「気絶する前にな。森にいたレザ殿まで来たぞ」
「そう……」
 ソリュータはうなずいた。
 しばらくして、ゆっくりと顔を上げた。不思議そうにレグノンを見つめる。
「……気絶?」
「倒れたんだ、おまえは。無理もないが」
「倒れたって……」
 レグノンは顔を背け、十年に一度の凶報でも聞いたように顔をしかめつつ、ちらりと振り向いた。
「……夢じゃないんだよ、ソリュータ」
「……うそ」
「いいか、落ち着け。といっても、おれも浮き足立ってるんだが、おまえが見たとおり――」
 レグノンはため息をついて顔を伏せた。
「クリオンが戻ってきた」
「やめて!」
 反射的にソリュータは叫んでいた。一年半かけて築いたまともな心を壊されたくなかった。
 レグノンは顔を上げ、言葉に迷った風だったが、次の言葉を口にする前にチェルが戸口に現れた。
「レグノンさま……ソリュータ、起きた?」
「ん。今ね」
「じゃあ、来られるかな」
「確かめましたか」
「うん。……本物……」
 そういうチェルの表情も、重い不安で歪んでいる。レグノンが立ち上がり、ソリュータの手を引いた。
「来なさい。居間に皆集まっている」
 夢の続きのように頼りない足取りで、ソリュータは兄の後についていった。絨毯の敷かれた居間に入ると、妃たちが靴を脱いで座り込み、呆けたような顔でソファを見ていた。
 クリオンが座っていた。――ソリュータはまた頭の血が下がるのを感じる。
 レグノンがしっかりと脇を支えて、指差した。
「見なさい。チェル姫とフウ殿に、聖霊で確かめてもらったんだ」
 チェルは雷天錫を抱えて一番遠いところに腰を下ろしていたが、フウはまだクリオンに槍を突きつけ、近づけたり離したりしていた。急にいなくなったのは、それを取りに行ったかららしかった。
 レグノンが言う。
「わかるな、『遷ろう者ども』のような偽者じゃない。他人の空似でもない。そして――夢でもない」
「どうして……」
 つぶやくソリュータを、レグノンが座らせた。一同を見回す。
 まともなのは彼だけのようだった。皆、クリオンに近づこうともしない。一様に不安な表情を浮かべている。ソリュータと同じなのだ。
 レグノンが、またため息をついてクリオンに向き直った。
「見ての通り皆様方は脅えていらっしゃる。というか、五人も失神した。おれのジョカまでぶっ倒れた。――納得のいく説明をしてもらおうか、クリオン。でなければ永遠に受け入れてもらえないぞ」
 一息に言ったのは、彼自身、恐れていたからかもしれない。
 クリオンもそれを感じたようだった。困ったように首を傾げて、口を開いた。
「ごめんね、みんな。そんなに驚くとは思わなかったから。……考えてみれば、ぼくにとってはみんなは生きていて当たり前だけど、みんなにとってはそうじゃないんだよね」
「それだ――一体どうやって生き延びたんだ、北海で!」
 レグノンが吐き捨てるように言った。クリオンはうつむき、ぽつりと言った。
ジェンで」
「……ジェン?」
「『白沢バイズェ』に積まれていた一人乗りの空飛ぶ機械だよ。グルドを倒してからそれに乗ったんだ。動かし方がわからなかったけど、適当にいじったらなんとか飛んでくれた」
「あれか……」
 レグノンもジェンを見たことがある。王都が大明タイミン軍に占領された時、たくさんのそれが飛び回っていた。
「それで? それに乗ってどこかの田舎に下りて、おれたちを驚かそうと一年半も隠れていたのか?」
「田舎じゃないんだ。ジェンは大明に飛んでいった」
「大明!?」
 さすがのレグノンもぽかんと口を開けた。クリオンは申しわけなさそうにつぶやく。
「悪かったと思ってるよ、みんなのところに戻れなくて。でもどうしようもなかったんだ。機械のせいなんだから。機械というより、ジェンの大気霊のせいかな。巣に戻る鳥みたいなものだと思う。とにかく、ぼくはジェンの中でへたばってて、機械を動かすどころか、自分がどこにいるのかもわからなかった。それで次に気づいた時には大明の首都の凱陽カイヤンに着いていた」
「どうしてすぐに帰って――」
 言いかけてレグノンは声を抑える。
「……内乱か」
「そう。大明では内乱が起こっていて、ぼくは捕まった。霞娜の密偵と思われたんだ。それでまあ……逃げ出したり、また捕まったり、いろいろやってるうちに一年半もたっちゃった」
 そこまで言って、クリオンはようやく笑顔を浮かべた。
「納得してもらえた?」
「まだだ」
 レグノンは渋面を崩さない。
「戻ったなら戻ったで、国境辺りから伝えてくればよかっただろう。なぜいきなり」
「手紙なんかより直接きたほうが早いでしょ! ぼくは国境の部隊からエピオルニスを借りて、ここまでまっすぐに来たんだよ! みんながいるって聞いたから!」
 叫ぶクリオンの腰の剣を指差して、レグノンは最後の抵抗というように叫び返す。
「ズヴォルニクは! それがあれば逃げることも、身の証を立てることもできただろう?」
「彼は……」
 クリオンが初めて、言葉を切った。
「――帰った」
「帰った?」
 クリオンは剣を少し抜き、柄を見せた。そこに封球はなかった。
「グルドを海に沈めたときに、一緒にね。……がんばってくれたよ」
 きっかけは、彼の説明よりも、この時の寂しげな表情だったろう。
 それまで質問というより訊問をしていたレグノンが、不意に大股でクリオンに歩み寄った。
 そして、彼を引きずり上げるようにして抱きしめた。
「よく帰ってきた……よく戻ったな、クリオン!」
「レグノン卿……」
 目を丸くしたクリオンも、すぐにほっとした顔になって彼の広い背に腕を回した。
「ただいま、レグノン卿」
「クリオンさま……」「陛下……」
 妃たちもおずおずと近づいてきた。ソリュータも。
 ソリュータは手を伸ばす。クリオンの腕に触れる。肩へ、頬へ。それは消えない。温かい。喉をくすぐられた猫のように、細めた目をクリオンが向ける。
「ソリュータ、ただいま」
「う……」
 心が、乾ききった粘土板のように砕けた。
 ソリュータはひったくるようにしてレグノンからクリオンを奪い取り、力の限り抱きしめた。
「クリオンさま、クリオンさまぁ!」
「ソリュータ……」
 クリオンは、しっかりと抱き止めてくれた。
 それを皮切りに、一斉に叫び声が起こった。皆が口々に彼の名を呼びながら、腕を抱き、首を抱き、泣きわめいた。
「陛下、お帰りなさい!」「陛下……陛下!」「お兄さま!」「ふーぅ!」
「みんな、ただいま。会いたかったよ……」
 クリオンが一人ずつ抱擁していく。そして最後にはソリュータに戻ってきた。しっかりとした腕が以前よりも少し強い。それに背も――。
 クリオンの背丈は、もうソリュータより高くなっていた。背伸びしないと頬ずりできない。ほんの少しのくすぐったい違和感と、心臓が溶けてしまいそうな喜びに突き動かされて、ソリュータは何度も彼を抱きしめ直した。
「本物ですね。夢じゃないんですね」
「そうだよ……」
 声が耳をくすぐる。それはまだ、澄んでいた。

 そのままいつまでも抱かれていたかったが、やがてクリオンが顔を離したので、ソリュータは仕方なく腕の力を緩めた。
 クリオンが皆を見て言う。
「一つ確かめておきたいんだけど……」
「なんですか?」
「みんなは、まだぼくの妃だと思っていいの?」
 その途端にレザが憤然と叫びかけた。
「わたくしが他の殿方に身を捧げるとでも!? いえ、ここにいる全員が――」
「レザ、待って」
 ソリュータがレザを制して、穏やかに、きっぱりとうなずいた。
「ええ、そうです、クリオンさま。みんなあなたの妃です。――もう一つ言うと、ジングリットもまだ陛下の国です。イシュナス卿とデジエラ将軍がちゃんと治めてくれています。だから、今は私たちのことを考えてくださいませんか」
「そう、よかった」
 はにかむように首を傾けるクリオンに、ソリュータは優しく言う。
「クリオンさまも不安だったんですよね。私たちが無事か――自害していないか」
「うん。それはすごく心配だった」
 真剣な顔で見回して、クリオンがほっと息を吐く。
「早まったことをしないでくれて、本当によかったよ。もししてたら、謝っても謝りきれなかった」
「理由があったんですよ」
「理由?」
「絶対に死ぬわけにいかない理由が。……来ていただけます?」
 不思議そうな顔をするクリオンを、誇りに満ちた気分でソリュータは招いた。
 皆で居間を出て、別の部屋に向かった。東向きの日当たりのいい部屋だ。一歩入って身を硬くしたクリオンを、ソリュータは後ろからぎゅっと抱きしめた。
「……みんな、陛下がくれたんですよ」
 その部屋には八つの籠が並べられ、一つ一つに、布に包まれた小さな赤いものが収められていた。しわくちゃの顔は少しずつ違っていて、中には頭の上にぴょこんと耳が生えているものまでいるが――どれも、ほぼ同じ大きさだった。
 男女八人の赤ん坊だった。
 棒のようにかちこちになってしまったクリオンの耳元で、ソリュータがささやく。
「クルビスクのあの夜です。みんなが授かっちゃいました」
「みんな……マイラも、ハイミーナも?」
「ええ」
「レザもチェルも?」
「ポレッカもフウもエメラダもです」
 クリオンが振り向くと、妃たちがそれぞれに顔を赤らめたり、胸を張ったりした。大変だったのよ、とチェルが背伸びする。
 ソリュータが言う。
「……そして私も」
 右端の、まだ茶色っぽい髪がもやのように薄く生えているだけの赤ん坊を、ソリュータは抱き上げる。――その手つきは、プロセジアで見せたような覚束ないものではない。
 小さな命の扱い方を知り抜いた確かさで、ソリュータはその子を差し出した。
「ほら……」
 クリオンがぎこちなくそれを受け取った。ぽってりとしたまぶたが閉じられ、胸の横で握った小さな小さな手がぴくぴくと動いていた。
 ソリュータが顔を寄せて言う。
「男の子です。きっとクリオンさまみたいに綺麗で強くなります」
 クリオンは夢でも見ているような気分だったが、そっとつついた指がいきなりぎゅっと握られたので、目を見張った。――プロセジアで聞いた言葉が耳に蘇った。
 力強く、必死で、泣きながら生を求め……そのくせ危ういほど無防備で、簡単に死んでしまうもの。
 守ってやらなければいけないもの。
 顔を上げる。ソリュータが微笑んでいる。振り返る。妃たちも。
 胸を占めていた驚きが、ゆっくりと退いていった。拒む必要はどこにもなかった。クリオンはこの娘たちをすべて愛したのだし――娘たちは、多分クリオンには想像もつかないような苦痛を経て、この命たちを世に送り出してくれたのだから。
 そう、苦痛。ただの肉体の痛みだけではない。クリオンが残したものだと思ったうえで、父親がいないことを覚悟して生んでくれたのだ。その覚悟の一端なりとも想像したとき――クリオン我知らず、瞳を潤ませていた。
 赤ん坊の乳臭い腹に、顔を押し付けた。
「みんな……ほんとにがんばったんだね。ごめん、いなくてごめん……」
 最後は涙声になった。
「ありがと……」
 ソリュータは新たな喜びに打たれて静かに天を仰ぐ。
 それは、彼女が望んだとおりのひとことだった。

 赤ん坊が泣き出す前に籠に戻し、一人ずつ見て回った。当然だが、名前はもうついていた。それをクリオンは胸に刻み付けていった。父親になったという実感など、数分やそこらで湧くはずもなかったが、焦る必要もないと知っていた。ジングリット帝国は赤ん坊の八人ぐらい楽に養えるし――帝国がやらなくても自分でやる決意はあった――心構えの面にしたところで、それを教えてくれる八人もの(心構えだけならキオラも口を出してきそうだったが)妃がいるのだから。
 クリオンは、ただ落ち着いてこの子たちを見守ればいいのだ。
 しかしあることを知ったときには、さすがに声を上げた。
「みんな同じ日に!?」
「しーっ……戻りましょ。まだしばらくはおねむの時間ですから」
 居間に戻ると、ソリュータが改めて言った。
「そうです、みんな同じ日に生まれたんです。時間もほとんど同じ――去年の十月一日の明け方です」
「大変だったぞ」
 レグノンが笑いを噛み殺しながら言う。
「そのための里帰りだから医者も産婆も呼んであったが、まさか同日同刻とは思わなかったからな。近所の宿のおかみだの、厩の婆さんだのまで連れてきた。――しかし、あの朝の泣き声の八重奏は、それはそれは素晴らしいものだった」
「お父さまにも見せてあげられましたしね」
 スピグラムが亡くなったことはすでに言ってあった。そう、とクリオンは目頭をこすってうなずいた。
 その彼の腕を引いて、レグノンが部屋の端に連れていく。
「それでな、一つ心に留めておいてほしいことがあるんだが」
「なに?」
「あの子たちは誰が兄で誰が妹なのか、まったくわからん。何しろすごい騒ぎだったから。――つまり、性別を除けば、皇位継承権が平等なんだ」
「……あ!」
「しかも、全員の母親が身分違い。正室、大貴族、平民、商人、異国の王族、騎士、尼、フェリド。これがどういうことかわかるか」
 クリオンは少し考えて言った。
「……公平でいいことに思えるけど?」
「まったく逆だ」
 レグノンは首を振り、声を低めて言った。
「序列がはっきりしないと争いのもとになる。我こそは時期国王の後ろ盾に、と考える輩がごまんと出てくる。そいつらはそれぞれの仲間たちと語らって、あの子たちに取り入ろうとするだろう。たとえばエメラダ殿の子なら、まず間違いなく商工連盟が接近してくる。……下手をすれば、国を八つに割っての騒乱が起こる」
「レグノン卿!」
 クリオンはまなじりを釣り上げて叫んだ。
「そんな理由であの子たちをどうこうしろなんて言ったら、いくら卿でも許さないよ!?」
 するとレグノンは微笑を浮かべてクリオンの肩を叩いた。
「その言葉が聞きたかった。――おまえが言ったとおり、このことは逆の意味をも持つ。八人が一枚岩になって国の舵取りをすれば、ジングリットはあらゆる不公平のない、世界のどこにもなかった素晴らしい国になる」
「レグノン卿……」
「おまえには、それを目指してほしいのさ。……しっかり八人の面倒を見て、仲良く育つようにな」
 彼の言うことはクリオンにとって、まだとても想像の及ぶことではなかった。だが、最後のひとことは、すんなりと胸に落ちてきた。
「……要は、放り出したり追っ払ったりしなきゃいいんだね」
「難しいがな。ゼマント陛下には無理だった」
「……そうか」
 クリオンはその意味を噛み締める。彼自身、放逐された王子だった。
 ふとあることを思い出す。
「卿、霞娜は今どこに?」
「心配はいらん。北方の村で臣下たちとうまくやってる。――血筋のことか?」
 うなずくクリオンに、レグノンは小声で言った。
「ソリュータから聞いた。しかしそれも大丈夫だ。霞娜はおまえとの血のつながりを明かしていないし、明かすつもりもないそうだ。そっとしておいていい」
「でも、一度会いに行くよ」
「そうだな。……まあ、落ち着いてからでいいだろう」
 考えこむクリオンを見て、先の話だ、とレグノンは切り上げた。
 部屋の真ん中に戻ろうとするクリオンに、マイラがそっと声をかけた。
「信じています、陛下」
 クリオンは、はっと顔を上げて妃たちを見回す。――すると逆に、気が楽になった。子供たちをえこひいきするということは、とりもなおさずこの娘たちの誰かを傷つけるということだ。
 それはクリオンの望むところではない。マイラにちらりと笑顔を向けた。
「大丈夫。みんな仲良く、だよね」
 マイラが深々と頭を下げた。
 
「お話は終わりましたか」
 レザが立ち上がり、部屋を出ていこうとした。クリオンは声をかける。
「どこ行くの?」
「決まっています。ネムネーダ将軍のところへ伝えに。――まっすぐここへいらしたのなら、まだ将軍にもお会いしていないのでしょう? 軍と王都に伝えてもらわなければ」
「そ、そうよ! のんびりしてる場合じゃないわ」
 エメラダも立ち上がる。
「お布令よ、お布令! 国中に使いを出して、近所の国にも知らせて、その前にここの領内に知らせて……とにかく、そこらじゅうに教えるのよ!」
「ワインが売れるなんて考えてるんじゃないでしょうね」
 キオラがくすくす笑う横で、ポレッカも立ち上がって決然と言う。
「お祝いです! 思いっきりお祝いしましょう! 私もうすごいお料理作ります、倉庫なんか空っぽにしちゃいます!」
「夕食は作りかけていたんだが……」
「じゃあそれも出しましょう、なんでもかんでも!」
 頭をかくマイラにポレッカは叫ぶ。ハイミーナとチェルが顔を見合わせる。
「そうなると、乳母を頼まなければいけないな……」
「みんなで交代でいいでしょ、順番に見にいって」
 フウものっそりと立ち上がって言う。
「森へ行ってくる」
「森って……ちょっと待ってフウしゃべれるの!?」
「習った。さっきは忘れてた。森で兎をとってくる」
「じゃあおれは、まずジョカと館の者に教えてくるか……」
 そう言ってレグノンも出て行こうとする。
 クリオンは叫んだ。
「みんなちょっと待って!」
 皆の視線が集まる。クリオンはレグノンを見て言う。
「あ、卿は行ってくれないかな」
「どうした? ……ああ!」
 レグノンはにやりと笑って、片手を挙げた。
「知らせるのは明日にしよう。子守のほうもなんとかする」
 さすがは王都で浮名を流した彼だった。完全に見抜かれていたので、クリオンは赤くなった。
 レグノンが出ていくと、ちょっと、と言って妃たちを呼び集めた。皆が膝をついて顔を寄せてきたので、ささやく。
「あのね……ぼく、ずっと一人だったんだ」
「はあ」
 ソリュータが曖昧にうなずく。クリオンはもっと小さな声で言った。
「つまりさ、してないんだ。あの夜から」
 全員がぽかんと口を開けた。――やがてレザが、その事実に気づかなかったことを恥じ入るように、つぶやいた。
「それは……当然ですわね、ずっと捕まったり逃げたりしていらっしゃったんですから」
「何も? ほんとに何もなかったんですか? あのお兄さまが?」
 キオラが、信じられないというように詰め寄る。クリオンは怒っているような恥じ入っているような赤い顔で言い返す。
「そりゃ向こうでは迫られたり押し倒されたりとかあったけどさ、頑張って切り抜けたんだよ! きみたちのためだよ!?」
「私たちのため……」
 ポレッカが胸に手を当ててつぶやく。
 妃たちをぐるりと見回して、クリオンは言う。
「それで戻ってきたら、みんなすごく喜んでくれたし、なんだか以前と雰囲気もちょっと変わっててどきどきするし……だから……」
「したくてたまらない?」
 エメラダの言い方は身も蓋もなかったが、クリオンはうなずいた。
 そして、少し笑顔になって、ささやいた。
「一年半ぶりだよ……わかるでしょ?」
「一年半」
 ソリュータがつぶやいた。
 それから十秒の間に起こったことは見ものだった。――九人の妃たちが、夕日を浴びたようにぽうっと頬を赤らめたのだ。
 クリオンはにっこりと笑った。立ち上がり、自信に満ちた仕草でソリュータの腕を引く。ソリュータはふらふらと立ち上がる。クリオンが抱き寄せると、早くも陶酔しきったように目を潤ませて、ぴったりと体を押し付けた。
「クリオンさま……お願いします」
「いっぱいね」
 そうやって戸口まで歩いていく二人を、八人がうらやましそうに見つめていたが、クリオンが振り返ってからかうように言ったので、いっせいに顔を輝かせた。
「みんなもおいで。ちゃんとしてあげる」
「……はい!」
 八人が立ち上がった。
 ソリュータがくすくす笑ってささやく。
「大丈夫ですか? クリオンさま。みんなも一年半ぶりなんですよ」
「任せて。ぼくだって成長したんだから」
「そうか……もう、十五歳じゃないんですね」
「そうだよ!」
 十七歳の皇帝に招かれて、妃たちが軽やかな足取りでついていく。
 色とりどりの花が流れるように。


 ――皇帝陛下は15歳! 終――












Please choose "Sakuranbo kiss" as BGM.























His Imperial Majesty is Fifteen!



CAST



Crion Coedirect Jingra

Soluta Twind


Emerada Viase

Leza Stordin

Kiora Sikkirgin

CRGNNRD LKRWN VSSRM

Porecca

Mira Nissen

High-Miina

Who? (Mele)


Soomii Shamlister

Sciencia "MOUSE" Procedure

Xia-Na




Ishnass Rendike
Camman Lewdroph
Lahash Judica
Lovelace Vecter
Celestina Imaron
Bergood Kingew
Trinze
Jewna
Churros

Dezierra JingPiercer
Shelker
Nostra Fowney
Eirei Garmon
Plater Garmon
Long Nemneda
Shapplin Doze
Meter Etna
Berg
(Sin-Ten-Rai)

Lord Horatio
Elcott
Lord Harnas
Niezel
   Baron Noriadd
   Baron Level
   Nyx
   Toto

Zemant Lofoten Jingra

Juzecca De Viase
Prof. Fendel
Michel
Canarin
Mrs. Genes
Tass
Ginte
   Grimm
   Camely
   Trigitt
   Nems
   Zola
   Nola
   Sem

Spiglam Twind
Regnon Twind
Gjoka (Gjoka Twind)

Kinlochraven 49th
Emdin Trask
Gartan

Lord Franbony
Kinal Sikkirgin
Kirma Sikkirgin

Jamrin
Onis
Semaroda

Li-Fu
Jie-Na

Plugna Procedure
Thermistor Procedure


Citizens and Soldiers



Zvornik

Law-Bane

SLNGSHHT

Churun-Vena

An-San-Xing


Sagarumata
Tungstein
Ki-Shu-Ha
Maitnail
Betelgeuse
Arktika
Ji-Gung
Baobaab
Noctrovalk



Bergain Bergadd Jingra


The inbreeded

Gould





Special thanx to...

Mr.Hiro
Ms.Mikan
Ms.(Mr.? sorry...) Tsukasa Koino
Ms.Anko
Ms.Kotobuki

and

All readers !!




Created by
Yukihiro Tobira
2001-2004



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