次へ 戻る メニューへ  皇帝陛下は15歳! 最終話 前編

 1

 ソリュータは湖のほとりに立っていた。
 周りを急な坂に囲まれた、ボウルの底のような湖だった。灰色のざらざらした砂で覆われた坂を、たくさんの人が降りてきた。
 男もあり、女もあった。子供もあり、老人もあった。人だけではなく、動物の犬や馬もいた。木や草も、そよ風に押されているようにゆっくりと降りてきた。
 そして静かに湖に入っていった。
 湖は真っ白だった。水面はとぷん、とぷん、と重く揺らいでいた。ソリュータがしゃがんで手を伸ばすと、ねっとりとした甘い匂いの液体が指にからんだ。
「精液……」
 顔を上げる。差し渡し半リーグはありそうなこのくぼ地は、男の子種をなみなみと満たしているのだった。
 ぽつりぽつりと小さな液の球が湖面に浮かび、絶え間なく空へと昇っていた。白い雨が逆さまに降っているようだった。頭上を見上げると、灰色の空のかなたに、じわりと朱をにじませたような点があった。雨はそこへと向かっているようだった。
「みんな巡っていくんだよ」
 声に振り返ると、少し先に金髪の少年が座っていた。ソリュータの好きな人によく似た、しかし違う少年だった。
「ここはどこですか」
「ここは中有さ」
「ちゅうう」
「うつしよとかくりよの境にある場所だ。生を終えた生きものはここでたねに戻る。記憶も感情も、それまでまとっていた種族さえも忘れてね」
「怖くないんですか」
「安らかで気持ちいいものだよ」
 ソリュータは渚に目を戻した。体内の血が半分に減ってしまったようにだるく、疲れていた。安らげるものなら、そうなりたかった。はだしの足を湖水に伸ばした――
 後ろから肩を引かれた。
「きみはまだ、戻っちゃだめだ」
 少年が困ったように微笑んでいた。ソリュータは不満だったが、おとなしく後ろに下がった。
 少年が空を指差す。赤い点の周りで無数の白い粒が踊っている。
「見て。たねになった生きものは、再び卵を目指す。そして生命の環が巡るんだよ」
「生命の環……」
「巡るのが生命だ、と言ってもいいね。ただの砂や灰とはそこが違う。だから生命は素晴らしい。だからグルドはそれを忌む」
「グルド」
 その言葉はソリュータの心を揺さぶった。何かとても大事なことに関係がある言葉だった。しかし、どうしても思い出せなかった。
 頭を押さえてソリュータは言った。
「何か、忘れているんです」
「思い出したい?」
「はい」
「だったら帰らなきゃ」
 少年が背後を指差した。ソリュータは絶望しかけた。長い長い、果ても見えないほど長い上り坂がそびえていた。こんな疲れきった体で、どうやって登れというのだろう。
 でも、ソリュータはもう知っていた。胸に宿る焦りは、帰らなければ消えないと。
「帰ります」
 ソリュータはきっぱりと言った。少年がほっとしたように笑った。
「それがいい。がんばって」
「はい」
 ソリュータは一礼し、歩き出した。
 少し行って、振り向いた。
「……あなたは?」
「予は、倒しきれなかったんだ。――だからここで、次の者を待っていた」
 少年はそう言い、がんばって、ともう一度手を振った。それで、ソリュータにもよくわかった。
「行ってまいります」
 少年に背を向け、一歩、また一歩、と坂を登り始めた。

 目を開けると、柔らかな光をたたえた白い天井が見えた。
 起き上がろうとしたが、できなかった。体を見回すと、薄緑のツタのようなものがたくさん絡まっていた。それは確かにツタであるらしく、瑞々しいハート型の葉がたくさん茂っていたが、その茎の一部は手足にからまるだけでなく、肌に突き刺さって体内へ潜っていた。なのに、不思議にも痛みは感じなかった。
 ただ、血管に鉛を詰められたような気だるさだけがあった。
 寝かされているのは、寝台というより細長い桶のような入れ物だった。背中が温かい水に浸されていた。入れ物の外がどうしても見たくて顔を動かした。たぷり、と水が鳴って、夢の中の淡い記憶が少しだけ蘇った。
 ……かえって、きたんだ。
 苦労して顔を持ち上げると、外が見えた。ここは四角い部屋の中で、そばに椅子があり、一人の少年が首を垂れて目を閉じていた。
 クリオンが。
 水音に気づいたらしく、クリオンは目を開けた。コバルトの瞳がじっとソリュータを見つめた。その疲労の色濃い顔に、徐々に、輝くような歓喜が浮かび上がった。
「ソリュータ」
「……ぁ……」
 ソリュータの喉はまだ声を出せなかった。クリオンはソリュータの目から想いを汲み取ろうとするかのように顔を近づけ、ささやいた。
「まだきみに触れないんだ」
「……」
「でも、そばにいるから。ずっといるから。もう少し、お休み」
「……ぃ……」
 ソリュータは嬰児のように小さくうなずき、頭を戻した。
 彼の顔を見た途端、自分がしたこと、それが正しかったことがいっぺんにわかった。湧き上がる嬉しさが胸をいっぱいに満たした。
 入れ物の中にゆったりと手足を伸ばして、ソリュータは静かに涙を流した。
 帰ってきたんだ。

 2

 隠顕都市プロセジアに運び込まれた時、ソリュータ・ツインドの出血量は体重の七パーセントにも達し、出血性のショック症状で危篤状態にあった。待機していた修創師たちは職能不足を宣言した。ソリュータは怪我人から重損傷生体に扱いを変更され、都市内の生命再構房へと送られた。
 輸血液と並行して開腹措置が取られ、血管交換、臓器修復、化学防疫、免疫停止の各手順のあと、細胞の急速賦活のために炭酸同化組織が挿入され、ソリュータの肉体構造と機能は再構された。
 しかし、彼女の精神機能の再構は行われなかった。――それは一人の少年に任された。

 ソリュータが次に目を覚ますと、白衣の者たちがはさみでツタを刈り取っていた。肌に残ったツタの切り口は、ソリュータの見ている前でゆっくりと肉に潜っていき、やがて跡形もなく消えた。
 それが済むと白衣の者たちはソリュータを起こし、体を拭いて薄いガウンを着せてから、清潔なシーツの張られたベッドに改めて横たえた。それからツタの桶を押して、音もなく出て行った。
 入れ替わりに、あわただしくクリオンが入ってきた。彼はソリュータのそばに立つと、目を輝かせて顔を覗きこんだ。
「ソリュータ、ぼくがわかる?」
「……はい」
「もう話せるんだね。よかった……」
 彼が手を握る。やや華奢な、それでも力強い指がソリュータの指にからむ。握り返し、引き寄せて、抱きついてしまいたかったが、それをするにはまだためらいがあった。
 口を突いて出たのは、どうでもいいようなことだった。
「ここはどこですか」 
「プロセジアだよ。霞娜シャーナが天舶で連れてきてくれた。今は、きみが刺されてから四日目だ」
「霞娜……彼女は? それに、他のみんなは……」
「みんなはいったんフィルバルトに戻った。討伐軍を整えないといけないからね。ここにいるのはぼくたちと、プロセジアの人々だけだ」
「いいのですか。クリオン様がいないと、王都は……」
「デジエラやレンダイクがやってくれるよ。そんなことは気にしないでいいんだよ! 今は回復することだけを考えて。そのためにぼくは残ったんだから!」
「そうですか……」
 クリオンは何かを期待するようなまなざしを向けている。何を求められているのか、わかる。しかし、それでもまだ、ソリュータは応える気持ちになれなかった。
 じっと黙っていると、クリオンがそわそわした様子で言った。
「あの……何かしてほしいことはない? 頭を冷やすとか……」
「熱はないみたいです」
「そ、そうだよね。手当ては完全だって彼らが……あ、おなかはすいてない?」
「……少し、のどが渇いています」
「持ってくる!」
 クリオンは飛び出していった。ソリュータは腹に手を当ててみる。確かに空腹だった。――にしても、今は昼なのだろうか、夜なのだろうか。
 クリオンはすぐに戻ってきて、琥珀色の液体を満たしたグラスを差し出した。ソリュータは身を起こしてそれを飲む。――動いたことで、意外にも体が軽いことに気づいた。それに、喉を滑り落ちた飲み物が、体がじわりと火照るような活力を与えてくれた。
 グラスを返して言う。
「ありがとうございます。……これ、なんですか?」
「わからないけど、力がつくって。おいしくなかった?」
 心配そうなクリオンの様子が愛しくて、ソリュータは初めて微笑んだ。
「いいえ。とってもおいしかったです」
「そう。それじゃ、もう少し休んで――」
「体、そんなにつらくないんです。歩いていいでしょうか?」
「いいのかな」
 クリオンはまた出て行き、戻ってくると笑顔でうなずいた。動けるものならどんどん動いて、体を慣らしたほうがいいということだった。
 それで、ソリュータはその半日、クリオンの手を借りて体の動きを取り戻すことに努めた。
 最初は手足の曲げ伸ばしから。次いで、ベッドから立っては座る動作。その次は壁に手をついてゆっくり歩く。――この辺りでクリオンがミルク粥の昼食を持ってきたので、目覚めたのが朝だとわかった。――昼食の後は少し休んで、今度は手すりを離して歩く練習。さらに物を持ったり降ろしたり。
 クリオンは文字通り手取り足取り、献身的にソリュータに付き添った。そんな彼はとても楽しそうだったが、時おり、物足りない顔でソリュータを見つめるのだった。
 一通り練習をこなして、ソリュータが室内を自由に動けるようになると、クリオンが言った。
「だいぶ元に戻ってきたね。今日はこれぐらいにして、夕食にする?」
「いえ……その前に、ここから出ることはできませんか」
「外が見たい?」
「はい」
 今度は、クリオンは外に聞きにいかなかった。ソリュータの手を取って、白いのっぺりした扉に導いた。
「行こう。どこでも行っていいって言われてる」
 開いた扉の向こうは誰もいない廊下で、左右に同じような扉が並んでいた。壁も床も真っ白で継ぎ目がなく、天井は一面が光を発している。見たことがない、というより得体の知れない場所だった。一人だったら脅えてしまったかもしれない。
 だが、クリオンがいてくれた。ソリュータは彼の手をしっかり握ってついていった。
 廊下の先には行き止まりの小部屋があった。そこに入ると扉が勝手に閉まり、一瞬、体が重くなった。クリオンが振り向く。指にこもった力を感じ取ったらしい。
「大丈夫。これは上下の階に運んでくれる箱だよ」
「箱……?」
「ロープで吊っているんじゃないかな。どうやって動かしているのかわからないけどね」
 階段はないのかと聞こうとしたが、それより早く扉が開き、ソリュータは目を見張った。
「……これは!」
 異様で壮麗な街並みが、眼下に広がっていた。
 差し渡し一リーグはありそうな円形の町だ。中央に高い塔があり、そこから放射状に街路が伸びている。石でも木でもない滑らかな象牙のようなもので造られた建物が、外へ向かうにつれ高さを増しながら並び、外周では壁のようにつながって街を囲んでいる。驚いたのはその上だった。街全体が透明な丸い天井で覆われている。外周の建物と中央の塔がその天井を支えているようだった。
 二人がいるのは、外周の建物のテラスだった。ソリュータは精妙な彫刻の施された手すりに手をついて、声もなく景色を眺める。隣に立ったクリオンがぽつりと言った。
「隠顕都市プロセジア。――千二百年前から続く、占星団の本拠地だよ」
 見るのは初めてではないだろうに、その声には畏敬の響きがあった。街の光景を掃くように手を動かす。
「三千五百人の人が住んでる。外とはめったに交易しない。全部町の中でつくっているんだって。食べ物も服も……」
「水は? ごみは? それにあの建物は? あれはそんなに古くないように見えます。千二百年も立っていれば崩れてもおかしくないのに」
「ぜんぶ繰り返し使っているって。建物も建て直してる。石を取ってくるんじゃなくて、石を作ってる」
「この街はジングリットの中なんですか。こんなの、聞いたことも……」
「あれがその秘密だよ」
 クリオンは塔の頂上を指差して言う。
「透明な壁に覆われているよね。あの天蓋がこの街を人の目から隠し続けたんだ。外からだと大きな岩山のように見える。それから、あれ」
 街路のところどころで、細長い箱のようなものが動いていた。窓があり、人が乗っていた。だが、馬も牛もついていない。
「あれもすごい。ひとりでに動く車なんだよ。聖霊の力も使わずに。それに――」
 ソリュータの胸を指差す。
「きみを助けたのも、彼らの不思議な力だ。肌を切って臓腑を縫うところまではぼくにもわかった。でも、きみも見たでしょ? 彼らはきみの体にツタを生やして、それに手伝わせて傷を癒したんだよ。でなければ歩けるまで何ヵ月もかかっていたって。――いったいどうしてそんなことができるんだろう。リュードロフがいたら、泣いて教えをせがむだろうね」
「……彼らは魔法使いなんですか」
 ソリュータはぼんやりと言った。クリオンは首を振る。
「魔法じゃない。木をこすれば火がつくのと同じ、自然のことわりに則ったことだそうだよ。ただそれを、極限まで深く解き明かしただけって……」
「信じられません」
 ソリュータは力なくつぶやいた。本音を言えば、クリオンが懸命に看病してくれたから治ったのだと思いたかった。こんなわけのわからない方法で治されても、気味が悪いだけだった。
 プロセジア占星団――伝説の中の人々。どんな方法を使ったのかはともかく、何のために何を思って自分を助けてくれたのかわからない。彼らもまたグルドのように、不気味な陰謀の一つとしてそれを行ったのではないだろうか。
 ソリュータはぞくりと身を震わせ、視線をさまよわせた。――その目が、テラスのすぐ下に止まった。
 今いる建物は外壁が階段状になっている。二人の立つテラスの三つほど下の段に、小さな広場のような開け放たれた場所があった。そこにいくつかの人影がめまぐるしく動き回っている。
「……子供だわ」
 ソリュータはつぶやき、振り向いた。
「クリオンさま、あそこに行けませんか」
「行けると思うよ。おいで」
 再びクリオンに手を引かれて、ソリュータは昇降箱に入った。クリオンが箱の中の壁に書いてある文字に触れる。よく見ると一から十八までの数字があった。クリオンが触れたのは十五だった。ソリュータは気づく。
「それが階数なんですか。押すと目当ての階に着く?」
「やっぱりソリュータは賢いね。その通りだよ」
 この不思議な街の仕掛けが一つわかったと言うことに、ソリュータ自身、驚いた。
 めまいをもたらすかすかな浮遊感の後で、扉が開いた。今度の廊下は優しい草色に塗られていた。突き当たりの扉に、意外な――しかし、ここが予想通りの場所ならばちっとも変ではない――絵が描かれていた。
 童話の挿絵のようにかわいらしい、熊、犬、猿の顔。
 クリオンが扉を開けた。途端に、わあっと黄色い歓声があがって、小さな影が殺到してきた。
「おかあさん!」
 子供たちだった。まだうまく走れない二歳ぐらいの子から、手足の伸び始めた五歳ぐらいまで、十五人はいるだろうか。ソリュータに抱きつこうとする。
 が、寸前で足を留めた。この人だあれ、とささやきあってから、ばつが悪そうに後ろへ下がっていく。
 張りのある声がかけられた。
「はいはいあなたたち、お迎えはまだよ。もう少し遊んでいらっしゃい」
「はあい!」
 子供たちは再び、向こうの露天になったテラスへ出て行く。部屋の隅の揺りかごを揺らしていた白いトーガの女性が、そばへ来て言った。
「失礼しました、ここは幼育所なのです。プロセジアの民は七歳になるまで、このように集めて育てられます。――今日は月に一度の親帰りの日だから、みんな間違えたのね」
 それから、その老婦人はソリュータに目をやって微笑んだ。
「もう歩けるのですね。治ってよかったわ」
「ひとつ、お聞きしてよろしいですか」
「なんでしょう」
 小首をかしげる婦人を見つめて、ソリュータは言った。
「なぜ私を助けてくれたんですか」
「それが不思議なの?」
「だって、あなたたちは千二百年も身を隠していたのでしょう。外の世界との関わりを断って」
「私たちにだって、傷ついた人を救いたいと思う気持ちはありますよ」
「でも、誰かがプロセジアに助けられたという話を、私は聞いたことがありません」
「確かに私たちの長は、クリオン皇帝に貸しを作るつもりで命じたのだと思います」
 けれども、と婦人は首を振った。
「私たち街の民があなたを助けた理由は、命令があったからだけではありません」
 おいでなさい、と二人を手招きして、揺りかごへ向かった。
 中を覗くと、たっぷりとした綿にくるまれて、ぎょっとするほど小さな赤いものがうごめいていた。――よく見るとそれは、まだ目も開かないような赤ん坊で、ソリュータの耳たぶほどの小さな小さな手の平を、しきりにくしゃくしゃと握り開いているのだった。
「抱いてみて」
「え、ぼくが?」
 婦人が赤ん坊を抱き上げて差し出した。目を丸くしたクリオンが恐る恐る両手を出し、綿ごと受け取る――が早いか、赤ん坊の首ががくんと垂れて落ちそうになった。
「わわっ?」
 あわてて支えると、どこかが痛かったのか、赤ん坊は大口を開けて泣き出した。人の声というより猫の声のような、甲高い叫びがクリオンを襲う。
「ちょっと、これっ、どうしたら!」
「渡してください、クリオンさま」
 見かねたソリュータがその子を奪い取り、軽く揺すってあやしてみた。だが、赤ん坊は泣きやむどころかますます絶叫する。
 ――ひやあああ、ひああ、ひゃあああ!
「お、おっぱいかしら……」
 ソリュータは困惑して棒立ちになる。家事は人並み以上にできる彼女だが、子守だけはしたことがない。普通の娘がそれを身につける期間、ソリュータは二つ下のクリオンの面倒を見ていた。
 くすくす笑いながら見ていた婦人が、壁の棚からソーセージのような柔らかい筒を持ってきた。色は白で、先を軽くひねるとぴゅっとミルクが飛び出した。
「よしよし、ご飯ですよ……」
 それを唇に当てると赤ん坊はすぐに吸い付き、ちゅくちゅくと一心に飲み始めた。耳をつんざく泣き声がきれいに消えて、二人はほっとして赤ん坊を見つめた。
 筒を渡され、ソリュータが持った。赤ん坊は小さな手にとても強い力をこめて、ぎゅっと筒をつかんでいた。そこだけで体をぶら下げられそうなほどの力だ。そのくせ体重は大き目のパンぐらいしかない。恐ろしいほど頼りない。
 筒がぺちゃんこになるまでミルクを飲むと、赤ん坊はそれを投げ捨てた。肩に乗せて背中を軽く叩いてあげて、と婦人が言い、ソリュータがその通りに指で背を叩くと、くへっと小さなげっぷをした。
 腕の中に戻すと、赤ん坊は目を閉じていた。まだ表情らしい表情もない。だが体からはすっかり力が抜けていて、満足していることがありありとわかった。口元を拭いてやってから、婦人がクリオンとソリュータを等分に見た。
「これが命です」
 気負った様子ではなく、軽快に婦人は言った。
「力強く、必死で、泣きながら生を求め……そのくせ危ういほど無防備で、簡単に死んでしまうもの」
 婦人がソリュータに目を留めた。
「それを愛するから、私たちはあなたを助けました。そしてグルドを憎みます」
「……はい」
 ソリュータは目を伏せてうなずいた。
 部屋の扉が開き、幾人かの女性が入ってきた。今度こそ母親たちだった。子供たちが争うようにして駆け寄り、飛びつく。時ならぬ歓声が部屋に満ちた。
 うつむいて赤ん坊を抱いているソリュータの顔を、クリオンは覗きこむ。
「ソリュータ……泣いてる?」
「怖くて」
 ソリュータはクリオンを見て、青ざめた顔で微笑んだ。
「わかりました。私、たくさんの奇跡があってここにいるんです。この人たちに助けられて……クリオンさまにいてもらって……それに、あの人に帰れって言ってもらえたから」
「あの人?」
「それ全部がなければ、死んでいました」
 ソリュータは針で刺されたように泣き出した。先ほどの赤ん坊よりももっと激しい泣き方だった。婦人はソリュータから赤ん坊を受け取っただけで、クリオンに目配せした。クリオンがおずおずとソリュータを抱いた。
「ソリュータ……もう大丈夫だよ」
「クリオンさま、クリオンさまぁ!」
 顔を歪めて大粒の涙をこぼしながら、クリオンの優しく強い腕の中で、ソリュータは泣きじゃくった。

 ツタの部屋に戻って二人で夕食を食べていると、プラグナの配下の占星団員がやってきて、主塔にお連れします、と言った。彼に従って一階まで降りると、例の馬のない車が、誰も乗っていないのにやってきた。二人はそれに乗った。――ソリュータはもう泣きやんでいたが、笑顔を取り戻してはいなかった。
 クリオンにどんな顔を向けたらいいのかわからない。
 嬉しさはある。恋しいと思う。けれども、ここ数ヵ月のあいだに形作られた心の歪みが消えたわけではない。クリオンが自分のものではない、クリオンが他の娘たちにも触れていた、という苦しい想いが。
 クリオンがシエンシアとともに王都に乗り込む前、野営地の天幕で、その心をさらしてしまった。思い出しただけで我が身を切り裂きたくなる。他の娘をすべて捨てて自分を選べ、と言ってしまったのだから。
 ――なんて醜い嫉妬。
 ソリュータは車の窓から街を眺めて、自虐した。優しいクリオンがエメラダやレザたちを追い払うわけがない。第一、今までそれを許してきたのは自分だ。ここへ来て独り占めしようとするのはわがまま以外のなにものでもない。
 だから、ソリュータはクリオンに笑顔を向けられなかった。笑うほど優しくなれず、悲しんでみせるほど身勝手にもなれなかったから。
 ソリュータはそういうことを顔に出さずに考えていたつもりだったが、そんなふうにじっと黙っていればクリオンが気づかないわけがなかった。彼もしばらく沈黙していた。
 しかし、やがて口を開いた。
「ぼくたち、昔は仲良しだったよね」
「……はい」
「グレンデルベルトで、二人きりだった。その頃はまだ、お互い好きとか恋したとかもなかったけど……」
「そうですね」
「いろいろ、ありすぎたね」
「ええ……」
 さあっと音を立てて雨が降ってきた。見上げると、透明な天蓋の向こうに冬の寒々しい夕焼け空があった。すると、わざわざ天蓋から雨を降らせているのだ。――うっとうしい仕掛け、とソリュータは思った。
 スーミーはベバブの香を使っていたんだよ、とクリオンが続けた。
「死体を調べたリュードロフが言ってた。ぼく、彼女に魔薬でたぶらかされていたんだ」
「そうですか」
「わかってる、言いわけにはならない。彼女を抱きたいと思っていなかったら、たとえ魔薬をかがされてもそんなことはしなかったはずなんだから。ぼくが悪いんだ」
「もういいです」
「他の子を妃にし続けたことも……きみの気持ちを考えてなかった」
「クリオンさま……」
「その上ぼくは……きみを疑った。きみがやきもちのあまりスーミーを刺したんじゃないかって」
「クリオンさま」
 ソリュータは振り向き、彼の肩を押した。
「もう、いいんです。……どうでも」
「よくない!」
 はっとするほど強い口調で言って、クリオンが逆にソリュータの両肩をつかんだ。
「ぼくはきみが一番好きなんだ。きみがこっちを向いてくれなきゃ嫌だ。こっちを向いてよ、ソリュータ! どうすればいいの?」
「どう……って」
 ソリュータは気づく。――こうしてほしい、と思うことは、クリオンはもう全部やってくれていた。帝国も王都も放り出してソリュータをここへ連れてきてくれた。他人に任せず、ずっとそばについていてくれた。ここに他のどの娘も置いていなかった。
 それなのに自分はまだぐずぐずとすねている。なぜこんなに素直になれないのか、我ながら腹が立つほどだった。もっと悪いことに、どうすればこだわりを捨てられるのかもわからなかった。
 肩をつかまれたまま、ソリュータは激しく首を振った。
「そんなの、わかるわけないじゃないですか! 私だってクリオンさまを好きです。大好きです! あなたが好きって言ってくださって嬉しいです! でも不安なの、好かれてるって感じが足りないの! あきらめたほうが楽なぐらいに!」
「ソリュータ!」
 突然、唇をふさがれた。ソリュータは目を見張る。クリオンが強く目を閉じて口づけしていた。両腕で抱きしめられた。逃がさない、抵抗も許さないといわんばかりに強烈な力で。
 ついさっき泣いた時とは全然違った。優しさも労わりもなかった。きみがほしい、というクリオンの燃えるような想いだけが伝わってきた。
 身動きもできなくなったソリュータから顔を離して、クリオンがささやいた。
「ぼくの妃になって」
「……」
「皇妃に。もうためらう理由なんかないはずだ。ううん、理由なんか知るもんか、誰がなんと言ったってきみを妃にする。一番の妃に」
「クリオン……さま」
「きみがぼくを大人の男にしてくれた。だからぼくがきみを奪う。わかる? きみがこれを望むと思うから、こうしてるんだよ。――それに、ぼくもそうしたくてたまらない」
「クリオンさま」
「きみをもう一度抱く。二度でも三度でも、きみがぼくのものになるまで。きみがぼくの妃だってしっかり思えるまで。きみが――」
 ほんのわずかに口ごもってから、クリオンは真剣な眼差しでソリュータを貫いた。
「ぼくの赤ちゃんを宿してくれるまで」
「……はい!」
 体が溶けてしまいそうな喜びが湧いた。ソリュータは本当に体中の力を失って彼にもたれかかった。何が足りなかったのかようやくわかった。これだ――自分のささいなこだわりなど打ち砕いてしまうほどの激しい愛。
 クリオンの乱暴な抱擁に身を任せて、ソリュータは熱いため息をつく。この場で彼を迎え入れられそうなほど体が火照っていた。
 屋根を叩く雨の音が、ふっとやんだ。――車が中央の塔に入ったのだった。

 それからプラグナとの対面があったが、ソリュータはその間、完全に上の空だった。まるで初めて男に触れられた生娘だった。
 いや、実際ソリュータは生娘も同然だった。――クリオンに比べれば。彼はこの半年あまりで、数え切れないほどの回数、娘たちと褥をともにしてきた。それに引きかえ、ソリュータの経験は、あの無我夢中だった五月の一夜だけしかない。
 期待と恐れが、同じぐらい大きく膨れ上がって、ソリュータの胸を満たしていた。
 しかし、クリオンのほうも似たようなものだった。元はと言えばクリオンが何人もの娘たちを抱いてしまったから、ここまでソリュータを追い詰めることになったのである。ソリュータが房事に嫌悪感を抱いていないわけがなかった。クリオンが慣れているからといってそれが軽減されるものではないことぐらい、彼にもわかっていた。
 それで二人は結局、食事が終わって寝室をあてがわれるまで、自分たちがどこに送られるのかろくに聞いていなかった。――例の昇降箱とはちょっと違う、床だけの昇降板に乗せられ、目的地に着いた二人は息を呑んだ。
「……雪!」
 広い円形の部屋に、大雪が降りそそいでいた。
 いや、それは一瞬の錯覚で、雪は天蓋の上で舞い狂っていた。曲面の透明な天蓋がすっぽりと部屋を覆っているのだ。それが街全体を覆う天蓋の頂点で、つまりこの部屋は主塔の最上階にあたる場所なのだということに、二人はかなりたってから気づいた。
 それ以外にもこの部屋にはかなり風変わりなところがあった。照明は床に置かれた一抱えほどの球。大きな寝台が一つ。手ずれのした本が並ぶ書架が二つ。立派なピアノが一台。古びた広い机が一つ。
 居室だということはわかる。――だが、客のための部屋ではない。明らかに、誰か一人が使っていた個室だ。クリオンは音の響かない床を歩いて、机に近づいた。その上に羊皮紙の書きつけが広げてあった。
 一目見て呆然とする。
「ベルガイン一世のサイン……ここは、初代皇帝の部屋なんだ」
「ベルガイン陛下のお部屋? なぜプロセジアに」
「さあ。 ……ううん、わかるような気がする。だって、最初の聖霊武器は、彼が占星団に命じて作らせたんだよ。きっと、一緒に暮らした時期があったんだ」
「そうかもしれませんね。――クリオンさま、見て!」
 クリオンが振り返ると、ソリュータはベッドに仰向けに横たわり、天蓋を指差していた。クリオンも近づいて、ベッドの反対側から横たわった。
 ソリュータが何を指差したのかわかった。闇のかなたから舞い降りる雪片が、天蓋に当たって崩れもせず四方に流れていく。横になっているとそれだけしか見えない。まるで――
「……飛んでいるみたいですね」
 きゅっとクリオンの指が握られた。
 横を向く。ソリュータの逆向きの顔がこちらを見ている。心配事をすべて忘れたようなあどけない笑顔。クリオンの顔にも同じ表情が浮かぶ。
「クリオンさま」
「ソリュータ……」
 身を起こし、腕を伸ばし、抱きしめあった。不安を抱く必要などなかった。二人は昔と同じ、グレンデルベルトでともに育ったクリオンとソリュータだった。
 十五歳の少年が、小声でささやく。
 十七歳の娘が、頬を赤らめてこくりとうなずいた。

 床の球が投げかけるオレンジの淡い光が、影絵のように動く二人を照らす。
 クリオンが剣とマントを外し、衣服を一つずつ脱いで、下着だけになった。ソリュータは少しためらった。ツタの部屋で着せられたガウンしか身につけていない。
 向かい合って座ったまま、クリオンはしばらく待った。胸元を押さえたソリュータが何度か深呼吸し、やがて小声で言った。
「明かり、消せませんか……?」
 クリオンは球のところへ行って調べたが、すぐにベッドに戻って首を振った。
「ごめん、消す方法がわからない」
「そうですか……」
「無理しなくていいよ」
「……やめてください。そんな優しい言い方」
 クリオンは瞬きした。ソリュータは恥ずかしげに目を伏せている。
 かすかに微笑んで、クリオンは手を伸ばした。
「そうだね。ぼくが脱がせてあげる」
「あっ」
 肩を押されてソリュータが声を上げた。だが抵抗はせず、そのまま横たわった。
 クリオンは彼女の上に覆いかぶさり、口づけで視界を塞ぎながらガウンを左右にはだけてやった。袖から腕を抜く時、ソリュータは体を石のように硬くしていた。
 だが、ガウンを取り去ってぴったりと胸を重ねると、その緊張も徐々に抜けていった。
 クリオンの下に、ソリュータのしなやかな裸身がある。胸に触れる乳房が水のように揺れている。体重をかけるにつれて柔らかくつぶれ、やがて心地よい弾力でクリオンを支えた。
 腕をソリュータの頭と背に回しながら、クリオンは他の部分もソリュータに預けていった。腹も、腰も、太腿も。――ソリュータは重さをかけられるのがちっとも苦しくないようだった。体を伸ばして進んでクリオンを受け止め、腕を回してクリオンの背を抱きしめた。
 ふたりは体の半面をぴったりと重ねた。互いの肌が驚くほど熱かった。重なってからも動きを止めない。小刻みに胸を動かし、乳房をこねて、腹をこすりつけ、足を挟みあった。触れているところが次第に汗ばんでいった。
 口づけも続けている。ただ、求め合いとは少し違う。それよりはふざけ合いという感じで、唇を噛み、舌先を細かくくすぐりあい、いたずらっぽく息をふっと吹き込んだ。互いの息の交換がとても楽しかった。
 クリオンに頬を吸われながら、ソリュータが目を細めてつぶやく。
「クリオンさま、硬いの、当たってます」
「怖い?」
「ううん、大丈夫です。一度見ましたし」
「あの時、やり方が全然わからなかったよね」
「そうですね……」
 額を押し付けて、くすくすと笑いあった。それからまた口づけを続けた。さらに、抱いたままクリオンがごろりと転がり、ソリュータを上にした。ソリュータが仕返しとばかりにもう一度転がる。そのまま二人はじゃれあう子猫のように広いベッドを転がり回った。その都度、相手に触れる手の位置を変えて、手のひらの温かみを体中に伝えた。
 やがてクリオンが上になったとき、ソリュータがすっかり上気した頬をこすりつけて言った。
「下着、脱いでください」
「ん……」
 クリオンがそうして、腰をソリュータの腹に押しつけた。ソリュータが目を閉じてそれの感触を受け取る。
「熱いですね……」
「……うん」
「します?」
「どうしよう」
「……したくないんですか?」
 不思議そうにソリュータが目を開けた。クリオンは軽く微笑んで首筋を吸う。
「ちょっとね、ぼく、面白いことになってる。……一番好きなソリュータと抱き合ってるって思うと、なんだかそれだけで幸せなんだ。したい気持ちよりも大きいぐらい」
 ソリュータも? と薄水色の瞳を向ける。ソリュータは少しだけ顔を背ける。
「それ、すごくよくわかります。でも……」
 クリオンの腕がソリュータに握られた。下のほうへ導かれる。そのまま二人の腰の間へ。熱気の溜まった下腹部へ。
 クリオンの指にかすかな茂みと、その下の潤みが触れた。うっすらと粘液をまといはじめた頼りない谷間が――
 くくっ、とソリュータの全身が引きつった。一瞬呼吸を止めてから、はっと湿った息を吐いて、ソリュータが薄目を開ける。
「……うずいてるんです。震えてます。好きっていう気持ちより強いぐらい……」
「ソリュータ……」
「私、クリオンさまほどそれに慣れてないんです……」
 もう一度クリオンの背中を抱いて、ソリュータは唇をわななかせてささやいた。
「して。もういいんでしょう? してって言っても。これ以上待たせないで……」
 クリオンはもう何も言わなかった。ソリュータのまるい膝をつかんで広げ、両足を大きく開かせた。それから短い時間、ソリュータを見下ろした。
 両手を軽く握って頭の上に曲げているので、滑らかな脇の下が見えている。乳房は腕に引かれて少し吊りあがっている。その美しい丘の下でみぞおちはくっきりとくぼみ、引き伸ばされた腹筋が呼吸に合わせて上下している。
 レザの彫刻じみた高貴さや、エメラダの躍動的な肉感はない。――それを言うなら今までのどんな娘とも異なる。ソリュータの肢体から感じられるのは懐かしさだった。この胸に抱かれ、この腕に引かれ、時には叩かれた。クリオンが十年をともに生きながら、十年目にして初めて目にする全裸の姿だった。
 それは腹から下も――ここは王宮の部屋より少し明るい。左右に開かれてぴんと張った内腿の肌も、霞のように薄い茂みも、その下の白桃色の谷間もはっきり見えた。濡れて閉じていた細いひだが、クリオンの見ている前で小さく開き、しずくが一滴、ゆっくりと垂れ始めた。
「クリオンさま」
 顔を上げると、ソリュータが見ていた。黒い瞳を潤ませ、涼しい眉をかすかにひそめ、形のいい鼻にうっすらと汗を浮かべて、つや光る唇をかすかに開き――そんな懇願するような表情の顔を、乱れてからまった長い黒髪が縁取っている。
「あまり見ない――」
 いいかけて、ぎゅっと目を閉じた。
「……いいえ、見てください。お気の済むまで」
「いくよ」
 クリオンは足の間に体を進め、ソリュータの上半身を抱いた。
 そして股間を押し付けた。――先端が軽く触れただけで、同じ震えが二人を襲った。
「あ、当たった……」
 つぶやくソリュータを抱きしめて、力をこめる。わずかに拒んだ硬い入り口を、何度も力を加えて潤ませていくと、じきに奥への道が感じられるようになった。そこに力の向きを合わせて、縮んでいた管を広げるように、クリオンは少しずつ深みへ入っていった。
 やがて、クリオンの下腹とソリュータの尻がすっかり密着した。クリオンは深々と息を吐いてソリュータを抱きしめなおす。
「……入った、よ」
「わかります……っ!」
 ソリュータはクリオンの二の腕をつかんで、小鳥のように震えている。それが愛しくてクリオンは何度も口づけを繰り返す。お互い、口に出す必要もないほどわかっていた。
 ソリュータの胎内にしっかりと食い込んだものがひくひくと反っている。彼の心地よさがじかに伝わってくる。クリオンもそれを感じている。自分の震えに合わせてソリュータがくっくっと力を加えている。
 しばらく二人は、言葉を使わずにその交流を味わった。短い突き込み、ゆっくりとした出し入れ、奥深く差し込んだままの力み。――それは舌を入れる口づけに似て、口づけよりももっと興奮を誘う直接的な伝え合いだった。
 指が食い込むほど強い抱擁を受けながら、ソリュータは下腹の熱いしびれを見つめている。鉄のように張りつめたクリオンのものが嬉しそうに暴れている。時には壁を長くなぞり上げるように、時には入り口をかき回すように、時には腹の奥まで突き破ろうとするかのように。
 そのすべてがソリュータの神経をかき鳴らし、背筋を溶かすような甘い火で灼く。これだけクリオンの思うままにさせながら、自分がそれを十分に受け止められること、自分にとっても最高に快いことが、ソリュータには奇跡のように嬉しい。
 ――私、女でよかった。
 自分でも意識しないあえぎ声を漏らしながら、ソリュータは快感に酔いしれる。
 その様子がクリオンの喜びをも倍にする。ただでさえソリュータは美味しい。髪の香りもにじむ汗も果物のように甘い。腕に刺さる爪や腰を挟む足にまでクリオンへの気遣いが満ちている。性器を包む胎内の感触は言うまでもない。――もうそこは水音がするほどたっぷりとあふれ、クリオンを溶かして飲み込もうとするように熱く強くうねっている。
 その上、彼女自身がそれを喜んでいるとなれば、ためらう理由は何もなかった。クリオンは絶頂に向かってまっすぐに動きを強めていった。
 本当に心の通じた相手とならば、言葉は何もいらない――そのことをクリオンは身に染みて感じていたが、最後の瞬間には言わずにいられなかった。力いっぱい突き込みながら、抱きしめたソリュータの顔にささやいた。
「ソリュータ、赤ちゃん、作ってね?」
「はい! ……はいっ! 下さい、クリオンさまのっ!」
「頼んだよ……?」
 そう言うと、息もさせないほど強く口づけしながら、クリオンは長い断続的な痙攣を始めた。
 ぶるるっ、ぶるるっ、と腰を震わせながらソリュータの股間を押し上げる。ソリュータが遠い声を聞いたように瞳の光をふっとなくして、喉の奥で叫ぶ。
「んーっ! んーっ! んぅーっ!」
 しびれきった下腹の奥に叩きつけられる奔流を、ソリュータは確かに感じていた。歓喜の白い津波がさあっと頭の中に満ち、五体をきゅうっと縮めさせた。
 ――植えつけてくださってる……
 このつらい半年、いや、その前の最初の夜に望んで果たせなかった願いが、とうとうかなえられた。
 ソリュータは涙のあふれる目を閉じ、腹の中に染み渡っていく熱さをしっかりと味わった。

 いったん波が引いて穏やかな心が戻ってきても、クリオンは身を離さなかった。――それがソリュータの望みだろうし、クリオンもまだ物足りなかったからだ。
 ソリュータは体を激しくこわばらせて達した後も、長いあいだ細かく震えていた。しかしやがて、さなぎが蝶になるようにゆるゆると手足を伸ばしていき、すっかり弛緩しきると薄目を開けて微笑んだ。
「感じました、クリオンさま。……今も感じてます。ここが熱いの」
 手を体の間に入れてへその下を撫でる。クリオンが耳元でささやく。
「ちゃんと届いた?」
「ええ、きっと。……昼間のあの子みたいに、かわいい赤ちゃんができるといいですね」
「当たり前だよ。ぼくときみの子供だもの」
 小さく笑って、ソリュータはクリオンのこめかみに唇を当てた。
 二人はしばらく、汗に濡れた互いの肌を撫で回していた。少しだけおとなしくなったクリオンのものが、ソリュータに包まれたまま再び脈打ち始めた。二人とも、このままもう一度交わりたいと思っていた。
 だが、その前に、というようにソリュータが口を開いた。
「クリオンさま……」
「ん」
「今になって言うのもなんですけど……王都に戻ったほうがよくありませんか」
「戻りたい?」
「私の傷は治りましたし、今のことでもう、心残りもなくなりましたし……」
「これから死ぬみたいな言い方、やめてよ」
「……すみません」
「それなんだけどね……」
 クリオンは顔を上げて、真上からソリュータを見下ろした。
「今のきみは、あのツタ――シンピオシア、とかいったかな。それが体の中にあるから普通に動けるんだって。本来の力が戻るまではツタの世話がいるし、治ったらツタを殺さなきゃいけないから、それまではここを離れられない」
「そうなんですか。でもそれなら、クリオンさまだけでも戻られたらどうですか」
 ソリュータも軽く頭を上げる。
「いくら将軍や天領総監がいらっしゃっても、やっぱりクリオンさまがいないと軍の士気にかかわるでしょう。もうすぐ決戦なんですから……」
「多分、ここが前線になる」
「……ここが?」
 ソリュータは瞬きした。クリオンが目を据えてうなずく。
「なぜ占星団がここに町を築いたんだと思う? グルド本体の居場所に近いからだよ。今、シエンシアたちが斥候に出ているけど、近いうちに奴らが見つかるはずなんだ。……だから、軍の集結地点もここにした。待っていれば軍のほうでここへ来るんだ」
「間に合うんですか」
「わからない。プラグナはぎりぎりだろうって言ってた。軍が王都を出てここへ来るまで十数日――グルドはもう目覚めていて、動き出したら数日でここへ来る。最悪の場合は、ぼくがここで時間稼ぎをする」
「それで、クリオンさまお一人で……」
 ソリュータは目を見張ったが、クリオンはごく軽く言って彼女の額をつついた。
「きみのためだけじゃなくて、ごめんね」
「そんな……そっちのほうがよほど大事です。いえ、そういうことなら、こんなことしている場合じゃないんじゃありませんか? 準備とか」
「そういうことだから、だよ」
 クリオンが優しくソリュータの髪を梳く。
「戦いが始まったらどうなるかわからない。きみといられるのは今だけかもしれないんだ。今なら二人だけでいられる。――どちらかから報せがあるまで、誰にも邪魔されずにね」
「その時間を……クリオンさまは、他のみんなを連れてきて過ごすこともできたはずですよね」
「まだ言うの?」
 きゅ、とクリオンが軽く髪を引っ張った。ソリュータは顔をしかめ、次いで無理をしているような笑顔を浮かべた。
「ごめんなさい、もう言いません。私がクリオンさまの妃です。信じます……」
「その顔は、信じた顔じゃないね」
 そう言うとクリオンはしっかりとソリュータを抱きしめ、おとがいに唇を当てて言った。
「言ったでしょ、ぼくのものになるまで抱くって。事が起こるまで――何日あるかわからないけど、その間は、何度でもそうするからね」
「クリオンさま……」
 頬を赤らめて責めるようににらんだソリュータに、クリオンは言い返した。
「あの夜から半年だよ? ううん、そのずっと前から……ぼくはきみに触れてなかった。それを取り戻すんだから、数日が数年でも足りないよ」
「いいです」
 ソリュータはクリオンの鼻に口づける。
「わかりました。何度でも。嫌になるまでしましょうね」
「ならないよ、嫌になんか……」
 そのまま二人はとめどない口づけの交換を始める。口づけよりも濃密な触れ合いを。クリオンが舌を伸ばして、子犬のようにソリュータの顔を舐めまわす。ソリュータは笑いながらあごを上げて、顔中がぺたぺたになるのに任せる。
 クリオンが少し恥ずかしそうに言う。
「待ってね、いま真面目な話をしてたら、気が抜けちゃって……」
 股間のものが柔らかくなって、ソリュータから押し出されかけているのだ。柔らかいまま押し付けていると、ソリュータが肩を押して、わずかにかすれた声で言った。
「さわると、硬くなりますよね?」
「う、うん……さわってくれる?」
「できること、全部しておきたいと思うんです。その……」
 半年前、見ただけで驚いた娘が、細い指を自分の唇に当てた。
「口でして差し上げるっていうのは……やる人も、いるんですよね?」
 クリオンはぽかんとして彼女を見つめた。
 それからあわててうなずいて、体を起こした。

「ソ……ソリュータ、ソリュータぁ……」
「んむ……なんですか……?」
「こ、これ恥ずかしい……」
「私だって恥ずかしかったんですよ、最初の時は……」
 クリオンは仰向けで両足を抱え込まされていた。股間を宙に突き出しているような格好だ。その前にソリュータが座って、クリオンの腰を支えながら舌を這わせていた。
 クリオンは恥ずかしくて目を閉じている。閉じても感覚は伝わってくる。濡れた柔らかいものが内腿を這い、幹にからみ、先端をくすぐり、すっぽりと覆う。くぷくぷという音とともに弾力のある輪が上下する。――抵抗できない、抵抗したくなれない甘美な恥ずかしさに耐えられず、クリオンは目を開ける。
 光景がさらに羞恥をかきたてる。ソリュータの整った顔が自分の秘所に重なっている。清らかな唇に出入りする自分のものが、あまりにも卑しい。その上ソリュータはさらに下まで――
「……ここ、痛くありませんよね?」
 二つの球を収めた袋から、ぞわぞわと快感が伝わってきた。反射的にクリオンは強く目を閉じる。そこが滑稽な造りだと、自分でもわかっている。そんなところを口で吸われ、目で見られると、剣技で負けるよりも恥ずかしかった。
 それに――
「ソリュータ、それ怖いよ!」
 小さな歯がころころと球をはさんでいる。彼女がその気になれば噛み潰されてしまう。だがソリュータは低い声でからかう。
「痛くは、ないんですよね?」
「痛くはないけど――」
「じゃ、続けます。……私がクリオンさまを傷つけるはずがないでしょう?」
 言いながら、頬をすぼめてちうっと吸う。クリオンは頭を振って悲鳴を上げる。
「ひうぅぅんっ!」
 怖さがそのまま快感になっている。敏感すぎる急所を任せているという恐れが……。
 ソリュータも胸がざわつくような心地よさを覚えていた。
「クリオンさま、可愛い……」
 自分を犯した男といっても、弟のような少年だ。昔から自分のほうが立場が上だった。凛々しいと思い始めたのは最近の話で、以前は可愛いと思っていた。
 今ですら、女生徒の姿をしたクリオンに美しさを感じ、あえかな胸の高鳴りを感じたこともある……。
 クリオンがソリュータに欲情したように、ソリュータもクリオンを責めたいという気持ちを持っていた。――普段は意識もしない感情だったが、今はそれが呼び覚まされてしまう状況だった。
 ソリュータの鼻先で、ぴんと反り返ったクリオンの性器がひくついている。それが自分の粒と同じような神経の塊だと知っている。自分がクリオンに舐められた時は絶え入りそうな恥ずかしさと気持ちよさに襲われた。だったら、クリオンだってそうに違いない。
 そう思って口づけしてみると――案の定だった。
 軽く触れただけでそれは跳ねた。舌を当てるとぶるぶると震えた。思い切って口に含んでみると、交わった時に感じた状態、そっくりそのままで――それよりもっとはっきりと、背伸びするように大きくなった。ソリュータはまざまざと感じ取った。
 ――この子、私の中と勘違いしてる……。
 射ち出したい、包まれたい、とねだる駄々っ子のように思えて、それの味や匂いまで愛しくなった。そうなると、そこも袋も同じようなものだった。ソリュータはクリオンのためというよりは、純粋にそれが可愛らしくて、丁寧にそれを湿らせてやった。
 さらにその下も――
「……クリオンさま」
「な、なに?」
「多分、ここもですよね?」
 上目遣いに性器の向こうの顔を見上げながら、舌でちろりと触れた。びくん! と体全体を震わせて、クリオンが追い詰められたような顔をした。
「だめっ、そこは痛いっ!」
「……うそ。痛いわけないです……」
「そんなぁ……」
 薄紫のすぼまった口に唇を押し当て、ソリュータは目を閉じた。舌をたっぷり濡らしてからそこを掃いた。心の一部が麻痺してしまっているのがわかっていた。その一部を無視してやるのが楽しかった。
「は、はふ、はくぅ……」
 クリオンが顔を真っ赤にしていやいやをする。性器がはじけそうなほど腫れあがっている。その根元にソリュータの鼻が当たっている。木の根のように硬くなったそこをくむくむと押してやると、鋭い反応があった。
「くっ……ううぅ!」
 クリオンが歯を食いしばってうめく。それでも抑え切れなかったらしく、性器がひくっと大きく震えて、短い精液の筋を吐いた。
 自分の鼓動が耳の中で聞こえるほどソリュータは興奮する。クリオンを感じさせるのが物凄く楽しい。それだけで股間がきゅうっとうずき、潤みが増してしまう。額に汗を浮かべて熱心に舌を押し当てる。我慢などかけらも感じていない。そこを舐めるのが嬉しい。
 クリオンの秘所をあますところなく唾液漬けにすると、最後にソリュータは性器に戻って、優しく舐め上げた。ぐったりと遠くを見ているクリオンにささやきかける。
「二回目、そろそろなんじゃありませんか。……入れます? このまま?」
 クリオンは答えない。愛撫される快感に溺れきってしまったようだった。
 腹の中にほしいと思ってから、ソリュータは考えを変えた。彼ならこの後でもまた犯してくれる。それなら今回は、このまま彼が達するまで続けたい。――半年前は夢中でわからなかった彼の射精を、しっかりと見届けたい。
「続けますね。……クリオンさまの種、見せてください」
 そう言って、袋の上から幹の先端まで、思い切りねっとりと舐め上げた。
 その途端にクリオンがはじけた。
「くふぅっ……!」
 鼻を鳴らして目を閉じると同時に、ぐいっと腰を突いて射ち出した。濃い赤に染まった先端から一直線に白い筋が伸び、クリオン自身の苦しげな顔にはじけた。
 クリオンの手がさっと伸びる。その動作でソリュータは思い出す。手でした時に、ずっと続けて、と言われた。それが始まっても止めてはいけないのだ。
 とっさにクリオンの手を押さえ付けて、ソリュータは素早くもう一度舐め上げた。もう一度、もう一度――クリオンの激しい痙攣に合わせて。それは正しかったらしく、健気に背伸びしたクリオンのものは、ひと舐めごとに嬉しげに張りつめて、力いっぱい精液を放ち続けた。
 後から後から放出される液を見つめて、ソリュータは思う。――他の男のそれを見たことはないが、やはりクリオンは普通でなく多いのだ。ひと射ちひと射ちがとても長い。性器からクリオンの顔まで、つながった白いアーチができるほど。それにとても濃い。ほとんど飛び散らずに顔に張り付いている。
 そんな細かいこととは別に、彼の全身の震えが、ソリュータに満足感を与えてくれた。彼が身動きもできないような快感に縛られているのがよくわかった。
 長い射精を終えると、クリオンのそれはおとなしくなった。ソリュータはささやきながら舌でくすぐってやった。
「おつかれさま……」
 ふとクリオンの顔に目を止めて、我に返る。そういう姿勢だったとはいえ、派手に汚してしまった。自分が自分の排泄物を顔にかけられたら嬉しくはない。――それなら、彼だって。
 そう思うと急に悪いことをした気分になって、あわててソリュータは彼の顔のそばに動いた。シーツに広がっていたガウンを取って拭こうとする。
「すみません、クリオンさま――」
 手を止めた。クリオンの朱に染まった頬を汚した白い粘液が、ゆっくりと垂れていく。汚した? ……汚れてなどいなかった。それはついさっきソリュータが受け止めたのと同じもので、見た目も混じりけのないミルク色だった。
 ソリュータは顔を近づけた――
「ソリュータ?」
 ぺろっ、と頬に舌を感じてクリオンは目を開ける。が、まつげに粘液がかかってよくものが見えない。いたわるような声が言った。
「待ってください、いまお清めします」
 頭をそっと抱き上げられた。おとなしく身を任せていると、肩にふわりと乳房が当たった。ぺろり、ぺろり、と顔がなめられる。そのたびにそこが涼しくなっていく。
 まぶたにも当たった。ちゅくちゅく、と温かい舌が吸い付いてくる。それが離れるとクリオンは目を開けた。ソリュータが母猫のように優しい顔で、こくりと舐めたものを飲み込んでいた。
 胸が痛むほどの幸福感を覚えながら、クリオンはからかい交じりに言う。
「ソリュータ、さっきぼくのお尻も……」
「――す、すみません!」
 ぱっとソリュータがクリオンを放り出し、口元を押さえた。猛烈に焦った様子で辺りを見回す。クリオンは笑い出した。
「いいよ、もう」
「でも、そんなところに当てた口でお顔を……いえ、クリオンさまが汚いという意味じゃ……そのっ、ええと!」
「ソリュータとなら、何も汚いと思わないよ。――なんならぼくもしてあげようか」
「結構です!」
 ベッドの横の小さな卓に水差しとグラスが置いてあった。ソリュータはそれを取って念入りに口をゆすぎ、グラスに水を吐いて、またクリオンを向いた。もう一度頭を抱き上げる。
 目を閉じながら、クリオンはささやく。
「まだ続ける……?」
「お顔、まだ綺麗になっていません……」
 ソリュータはそう言って、クリオンの顔を隅々まで舐め尽くした。彼女の清潔さの基準がおかしくてクリオンはくすくす笑う。普段なら全部嫌がるに決まっている。それだけ今は心を開いているのだ。
 ようやく解放されたクリオンは、体を起こしてソリュータを見つめた。彼女はこくりと飲み終わってガウンの端で唇を拭いたところだった。クリオンは思わず尋ねる。
「……まずくない?」
「味わうものじゃないでしょう」
 澄ましてそう答えたものの、少し目を逸らして、ソリュータは付け加えた。
「……お望みなら、また……」
「――ソリュータ!」
「きゃっ!?」
 彼女の控えめなおねだりに衝動をかきたてられて、クリオンは乱暴に押し倒した。腰をつかんで足を開かせ、抵抗する間も与えず股間に顔を沈める。ソリュータが手で隠すより一瞬早く、唇を押し付けた。
「クリオンさま、そこさっきの!」
「ぼくのだよ。気にしないで」
「そんなこと言っても、あっ、んっぅ!」
 ソリュータがぴんと体をつっぱらせる。温かな泉にクリオンが舌を埋めている。そこは控えめに言ってもどろどろだった。混ざり合った二人の体液がしとどにあふれ出し、しかもさっき手で触れたときよりも柔らかくほころびていた。
 つるつる滑るひだを舌で追いかけながら、小さく固まった真紅の粒を歯でこすった。ソリュータは他愛もなく屈した。
「ひぃ……んっ!」
 クリオンの頭に当てられた手が、ぎゅっと髪をつかむ。クリオンは息継ぎの合間に言う。
「いっぱいしてくれたから、お礼」
「お、お願いですから下だけは……ほんとに下だけはっ!」
「不公平じゃない?」
「だめ、だめっ……やめてくださいっ!」
 まだソリュータは彼女なりの一線を残しているようだった。本気で暴れてクリオンの腕から脱け出す。伸びやかな肢体が半回転してうつ伏せになった。
 浜に打ち上げられた魚のように這いずるソリュータの、可憐な尻のふくらみがクリオンの目に映った。ほとんど本能的にクリオンは飛びかっていた。体重をかけて上半身を押さえ込み、腰をこすりつける。
「じゃ、こうするね」
「クリオンさま、クリオン……はぁっ!」
 大きく口を開けてソリュータが鳴いた。とろけきっていたひだを、クリオンが串刺しにしたのだった。
 クリオンは足を絡め腹を抱き首を抱え、ソリュータが身動きもできないように捕まえる。髪に顔を押し付けて髪ごと耳をくわえた。そのまま腰だけを小さく動かしてソリュータの中を削る。ソリュータのもがきが急速に弱々しくなる。
「クリオン……さまぁ……動けま……せんっ……」
「動かなくていいよ。何もしなくても。――さっきしてる間、せつなかったでしょ? こうしてほしかったでしょ?」
 ぐいっ、ぐいっ、と真っ白な尻を押しつぶしてクリオンは突く。ふるふる震えたソリュータが、降参したようにこくりとうなずいた。
 抵抗が消えた。犯される喜びに身も心も委ねて、ソリュータが嬉しそうに目を閉じている。彼女のうなじに熱い息を当てながら、クリオンは一気に昇りつめた。
「んんっ……も、一度……」
 捕らえた獲物に毒を入れる蜂のように、クリオンは鋭い体液の矢を射ちこむ。ソリュータがびくんと震えて喉を開く。
「あ……ハ……ァ……」
 爪先まで引きつらせて、二人はびくん、びくん、びくん、と震える。――そしてある瞬間、どっと力を抜いて横たわった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」 
 クリオンがごろりと仰向けになり、彼の腕に頭を乗せたままソリュータも半回転する。しばらく、心地よい息を吐き続けた。やがてクリオンがソリュータの頭を引き寄せ、また頬ずりした。
「こんなの初めて……三回もしたのに、まだソリュータがほしい……」
「私もです……」
 ソリュータが大儀そうに上体を持ち上げ、ひたりと胸を重ねた。目を細めてクリオンの鎖骨を吸う。
「満足できないっていうんじゃなくて……私の中にクリオンさまの型ができたみたい。そこにあなたが入っているのが自然なんです。ずっとひとつになっていたい……」
「そう、そうだよ。ソリュータの中がぼくの居場所って気がする。いつまでも入っていたい……」
「そういうわけにも……いかないんですよね」
 ソリュータがつぶやくと、クリオンがにこりと微笑んだ。
「それはまだ先。――今夜はまだ長いと思うよ」
「……じゃあ」
「つながっていようよ、ソリュータ」
 顔を上げたソリュータに、もう何度目になるかわからない口づけをクリオンは与える。
「動けなくなるまで……動けなくなっても」
「はい……」
 唇を重ね、体を重ね、やがて二人は動き出す。
 床の球は変わらぬ光を放ち続け、頭上を覆う雪もまた降り続けた。

 3

「クリオン、プラグナです。入ってよろしいか」
 ソリュータが目覚めたのは、その声でだった。
 顔を上げると、灰色の曇り空が弱い陽光を落としていた。雪はやみ、朝になったようだが、床の球はまだオレンジに光っていた。
 温かいクリオンの体に触れている。起こそうとして、一瞬でソリュータは赤面した。股間に異物感がある。クリオンのものを受け入れたまま眠ってしまったのだ。――それとも眠ってから入れられたのだろうか?
 余りにもはしたないことだったが、思わず笑みを漏らしてしまうほど嬉しかった。この一夜、文字通りクリオンとつながり続けていられたのだから。
 それはさておき、呼びかけを無視するわけにもいかなかった。体を離して起こそうとすると、また声がかかった。
「お話しがあります。入れていただきたいのですが」
「はい、ただ今! 少しお待ちください!」
 声がどこから聞こえてくるのかわからない。返事も届いたかどうかわからず、ソリュータはあわててクリオンを揺さぶった。目覚めたクリオンは依然として全裸のソリュータを見て照れくさそうに笑ったが、プラグナのことを話すとあわてて起き上がった。
「服を着なきゃ、ソリュータはシーツを、ああこんなのじゃどうにも!」
「なんとかしますから、お早く!」
 いっぺんに王宮での二人に戻ってしまったようだった。もともとガウンしかないソリュータが先にそれをまとい、汚れたシーツを引っぺがして書架の後ろに放り込んだ。さらに、もたついているクリオンの着付けを手伝い、ざっと体を見回して、まずいところがないか確認した。
「大体、大丈夫です!」
「うん――あ、ソリュータ。髪」
 言われて頭に手をやったソリュータは真っ青になる。いつ付いたのかもう覚えていないが、なんだかわからない液体がべっとりと……。
「私、隠れています……」
「そうだね」
 こんなことまでしていたなんて、とソリュータは悄然と書架の後ろに向かった。苦笑して彼女を見送ったクリオンは、昇降板があったあたりの床に言った。
「プラグナ、入っていいよ」
「失礼します」
 まるい板が降りていき、それに乗ってすぐにプラグナが現れた。ざっと室内を見て、小さく鼻を動かす。クリオンは内心で冷や汗をかく。匂いのことを忘れていた。
 だが、占星団の女団長は眉一つ動かさずに、手に持ったグラスを差し出した。
「これをお渡しするのを忘れていました。シンピオシアの肥料です。早めにソリュータ嬢に飲ませてください。朝晩必要です」
「あ、うん」
 クリオンがグラスを受け取ると、プラグナはずばりと言った。
「昨夜は上首尾でしたか」
「じょ……うしゅびって、なんのこと」
「これから戦に出ようという皇帝が、妃に気を取られているようでは困ります。思い残しなく夜を過ごせるよう、この部屋をお貸ししたのですが」
「ああ、そうなの……ま、まあ上首尾だったかな」
「歯切れの悪い。あれだけ側室を侍らせておいて、今さら恥らうこともないでしょうに」
 冷酷に言い捨てると、プラグナは口調を変えた。
「肥料の他に、用件がもう一つ。探光の行の反応が激増しました」
「探光の行?」
「グルドの放つ光を捉える儀式です。グルドは活性化すると大量の光を――厳密に言うと光ではありませんが――放ちます。我ら占星団は暗黒の地底湖に目を凝らすことで、地殻を貫くその光を検知するのです。それが通常の七日間ではなく、一刻単位の行で検知できるほど増えました」
「……いよいよ、グルドが来るってことだね」
「いえ、まだ居場所がわかりません」
 身構えかけたクリオンは、え、と意外な声を上げる。
「シエンシアたちが見つけたんじゃないの?」
「あれらも懸命に探していますが……ぜんたい、あなたはグルドをどんなものだと思っているのです?」
 この質問はクリオンの意表を突いた。言われてみれば、グルドの外見についてはなんの知識もなかった。
「……さあ。見た者が狂い死にするっていうぐらいだから、とても恐ろしくて大きなものなんじゃないの。でもそれは本当じゃないでしょう。本当ならベルガイン陛下だって倒せなかったはずだ」
「狂い死にというのが大げさなのは確かです。しかし、グルドの姿は本当にわからないのです」
「わからない?」
「ええ」
 プラグナは悩ましげに眉を寄せる。
「というのも、ベルガイン陛下以外に実際にあれを見た者がいないのです。千二百年前、我ら占星団は陛下とともに戦に出ましたが、グルドと戦えるのが陛下だけだったため、我らは雑魚の『遷ろう者ども』の掃討に徹し、陛下をグルドのもとへ送り出しました。――そして、陛下もグルドも、ともに姿を消したのです」
 ひゅっ、と書架の後ろから音がした。しかしクリオンは別のことに気を取られていた。
「じゃあ、姿もわからないものを探しているの?」
「そうです。せめて地底湖が二つあれば一本の線上にまで絞り込めるのですが……今のところは、あてずっぽうも同然です」
「それなら、もし出会ったとしてもわからないじゃないか!」
「わかりますとも。――全員が生きて戻ることはありえませんから」
 クリオンは息を呑んだ。プラグナは乾いた笑みを浮かべる。
「お気になさらず。シエンシア以下二百名、斥候隊は全て覚悟の上です。それに、どのみち我らすべてがグルドと対峙することになります。……あなたも、私も」
 クリオンが沈黙していると、プラグナはややわざとらしく手を振った。
「焦らないで下さい。この都市にも防備はあります。たとえ敵の発見が遅れても時間を稼ぐことはできます。……ですからあなたは、当座はゆっくりなさるのがよろしいですね」
「……わかったよ」
 ごくりと唾を飲んで、クリオンはうなずく。今町の外へ出ても斥候隊以上の働きはできない、ここにとどまるのが最良だと自分に言い聞かせて。
「では……また、その時に」
 プラグナが去ろうとしたので、クリオンは別のことを思い出して、あわてて呼び止めた。
「ちょっと待って、プラグナ」
「なんでしょう?」
「その……着替えとか水浴びをできないかな」
「昨夜お話ししましたが」
 眉をひそめたものの、プラグナは簡単に言った。
「一つ下の階が水周りになっています。リフトに命じれば止まります。ああ、それで明かりがつけっぱなしなのですね」
 プラグナは床の玉を見て、消灯、とひとこと言った。――あっけなく明かりは消えた。
「では」
 プラグナは去っていった。
 ソリュータが書架の後ろから出てくる。浮かない顔をしている。クリオンはそれを察して、明るく言った。
「大丈夫だよ、シエンシアが死ぬもんか。たとえグルドに出会ったって、なんとか生きて帰ってくるよ」
「いえ……」
「そんなに心配?」
 クリオンが顔をのぞきこむと、ソリュータは首を振って微笑んだ。
「大丈夫でしょうね。それよりクリオンさま、下に行きましょう。早く水が浴びたいです」
「そうだよね。そのまんまじゃ外に出られないし」
 髪を指差されるとソリュータは顔を赤くし、逃げるように昇降板で降りていってしまった。

 その休暇がどんなものなのか、なぜそんなに穏やかなのかは、二人ともわかっていた。――死罪を宣告された囚人の休暇だ。いつ来るかわからないその時までは、長く奪われていた平穏が与えられる。
 しかし、クリオンもソリュータもそれを口にすることはなかった。ただ無心に、片時も離れず、この不思議な閉鎖都市での暮らしを楽しんだ。
 身だしなみを整え、占星団員が運んできた朝食を取った二人は、主塔から降りて散策に出た。町の中には意外にも緑が多く、白い建物の合間に樹木が茂り、小道に沿って石組みの小川が流れていた。そのあちこちに、白いトーガをまとった町人たちがいて、木陰で読書にふけったり、釣りをしたりしていた。
 クリオンは疑問に思った。グルドに対抗するための準備をしなくていいのだろうか。本を読んでいた男に聞いてみると、彼はほがらかに言った。
「準備はもう済んでいるんですよ。最初の探光の行で反応があったときからね。今は皆、心を落ち着けて戦いを待っているんです」
 言われてみればもっともだった。彼らはジングリットの人間よりも、ずっと前から気づいていたのだ。
 心配の必要がないとわかると、別のことが気になった。ソリュータが男に聞いた。
「ここの人は外とあまり交流をしないんですよね」
「ええ。姿を変えて様子を見に行くことはありますが、物を売り買いしたり、部外者を出入りさせることはほとんどありませんね」
「じゃあどうやって品物を、たとえば食べ物を手に入れているんです。この町に畑はないみたいですけど……」
 男は面白そうに微笑んで、地下一層に行ってごらんなさい、と言った。
 街角の昇降箱で地下に降りた二人は、口も利けないほど驚いた。そこには広大な地下室――というよりも地下広場が広がっていて、あの輝く天井の下で、ありとあらゆる野菜や小麦がぎっしりと栽培されていたのだ。それらは土ではなく水の中から生えており、また、一株一株が異様に大きかった。
 手近の農夫をつかまえて、二人は矢継ぎ早に質問を浴びせた。なぜ太陽のない地下で植物が育つのか。冬にこれだけの作物を生やせるなら、一年中収穫があるのか。土もないのになぜ芽が出るのか。肥料はなんなのか。人手はこんなに少なくて足りるのか(クリオンの見たところ、この量の作物を世話するには少なくとも八百人の人手と六十頭の牛馬が必要だった)。こんなに密集させて病気で枯れないのか、等々。いずれも、ジングリット帝国でこれができれば、という思いから出た問いだった。
 訊かれた農夫は静かに首を振って、天井を指差した。
「今のご質問の答えは、ほとんどあれです。――あの光を生む力で、我らは大勢の人手に代わる労働力を手に入れているのです」
「あれはなんですか?」
「地下二層に行ってらっしゃい」
 二人はそうした。――昇降箱から出ると、今までの人々とは違う分厚いトーガを頭までかぶった男が、二人を押しとどめた。
「ここから先は行けません」
「プラグナに許してもらったよ。予はクリオン皇帝だ」
「どなたであろうとです。いかずちは人を選びませんから」
「いかずち?」
 がぁん! と物凄い衝撃音がとどろいて、クリオンの質問に答えた。ひっぱたかれたように二人が立ちすくんでいると、少しだけですよ、と男が手招きした。
 短い廊下の先で、壁がなくなっていた。外を見ると、そこが巨大な地下空洞の天井近くに作られた通路だとわかった。農場よりもまだ広い。フィルバルト城がまるまる入りそうな空間だ。
 その空間の真ん中に、くもの巣のような木製の網で支えられた黒い球があった。それに見覚えがあった。クリオンはつぶやく。
「聖霊の封球……」
「大気霊が封じられています。ヘイリン数は六千三百」
「六千三百!?」
 クリオンは目を剥いた。ズヴォルニクの四倍以上の聖霊強度である。それが本当なら町ごとこの空間が吹き飛ばされてもおかしくない。
 だが、男は寂しげに首を振った。
「九百年前の測定値ですよ。ずっと力を使い続けていますから、今はせいぜい七、八百というところでしょうね」
「そう……」
 クリオンがつぶやいて見ていると、再び轟音が響いた。それと同時に、紫色の強烈な雷柱が天井に突き刺さったのを、二人は見た。
「ああやっていかずちの力を鉄板に蓄えます」
 男の言うとおり、天井は鈍い銀色の一枚板だった。床も同じ造りのようだ。
「大気霊は気まぐれで、どちらにいかずちを飛ばすかわかりません。鉄板が比較的いかずちを呼ぶようですが――いけません!」
 指差そうとしたソリュータを、男が思い切り引っ張った。血相を変えて叫ぶ。
「尖ったものを向けてはいけません、こちらに来ます! 黒焦げになりますよ!」
「す、すみません……」
 青ざめた顔でソリュータが下がると、男は封球を支える木の網に目を向けた。
「あれですね。……なにしろ物が大気霊なので、大気のある空間に置かなければならないんです。そうでなければ導線を当てて直接力を吸い取るんですが」
「よくわからないけど、とても危険なことをしているんだね」
 クリオンが振り向いて言う。
大明タイミンの霞娜は強力な大気霊を一人で封じていた。ああいうことはできないの?」
「あれはグルドの力を借りた邪法です」
 男は首を振る。
「人の命と引き換えに、本来成り立つはずのない秩序を成り立たせているのです。精妙極まりない人体を犠牲にして、単純な聖霊の支配を行っているのですから、物質秩序の損得から言えばひどい大損をしていることになります」
「そ、そう」
「彼女は比較的弱い聖霊の支配を、性的な儀式によって行ったようですが……同じことです。一人の娘が聖霊と結ばれれば、その娘は子を為さなくなる。結果として生まれるべき生命が幾人か減ることになる。そういったエントロピー抑制行為が、グルドの基本的な行動理念です」
「えんと……」
「古語ですよ」
 男は微笑み、頭上を見上げた。
「私も断片的な用語しか知りません。団長や評議員だけが口伝しています。知りたければ聞いてください。……千二百年はプロセジアにとっても長かった。技のほとんどが風化するほどに」
 後半はひとりごとのようだった。しばらく沈黙してから、男はまたクリオンを見た。
「都市を支える力を知りにいらしたのですよね。これが答えです。――我ら占星団は、聖霊からいかずちの力を受け取って応用しています。聖霊の本来の用途からは外れています。残念ながら、ジングリットで行うことは無理でしょうね」
 この街の人々は、二人の興味を見通しているようだった。答えを得た二人は、礼を言ってその場を辞した。

 来た時とは別の昇降箱で地上へ戻ろうとすると、絶壁に出てしまった。
 都市を囲む外壁の上だった。二人は歩き出す。左が市街で、クリオンたちの少し下まで建物の屋上が迫っている。右手は透明な壁で、その向こうが高さ百ヤードもの垂直に切れ落ちる崖になっている。
 街の中と外が一度に見えた。――外は一面の雪に覆われた丘陵地帯だった。入り組んだ丘の間に凍った池や一握りほどの林が点在している。人の姿はなかったが、兎が一匹、雪面に長い足跡をつけて走っていった。
 クリオンはつぶやく。
「寒そうだね」
「ここはもう真冬ですね……」
 そう言ったソリュータの姿は長袖の薄手のドレス一枚だ。クリオンもマントを置いてきた。都市内はまるで寒くないのだ。
「これだけ広い町を一つの部屋みたいな暖めるなんて、一日に何把の薪を使ってるんだろう」
「これも聖霊のいかずちの力じゃありませんか」
「そうかもしれない。……ねえ、ソリュータ」
 クリオンは足を止めて振り向く。
「ぼくたちは偶然の成り行きでここに来たけど、そうでなくても来る価値のある場所だと思わない?」
「そうですね」
「戦が終わったら、プラグナに訊いてみよう。聖霊の応用は無理かもしれないけど、学ぶことがたくさんありそうだ」
「ええ……」
 しばらく考えてから、クリオンはまた歩き出した。ソリュータがおとなしくついてきた。
 やがて、また別の昇降箱の入り口が近づいた。ふと外壁全周を眺めると、八つの昇降箱が等間隔で配置されていた。すると箱と箱の間は半リーグ弱ぐらいか。
 クリオンは尋ねる。
「降りようか」
「降りたいですか」
「次の箱まで歩く?」
「それでもいいです」
「どっちがいいの?」
 ソリュータはふわりと微笑んで、クリオンのひじに腕を回した。
「こうやって迷っているのが、一番いいです」
 目を閉じて肩に頬を押し付ける。――二、三度瞬きして、顔を向けた。
「クリオンさま、背が伸びました?」
「そうかな? 最近測ってないけど」
「きっと伸びましたよ。だって、もたれられますもの」
 そういえば、ソリュータが以前ほど大きく感じられないような気がした。クリオンが追い越すまであと一インチかそこらだった。 
 ソリュータはまぶしそうにクリオンを見つめる。
「ね。並んでいるだけで新しいことが見つかる。こんなこと、ずっとなかったじゃありませんか」
「そうだね……」
 クリオンは深々とうなずく。何もしなくていい、何をしてもいい、二人だけの時間。本当に長い間なかった。なぜそれがなくても耐えられたのか、今ではもうわからなかった。
 ソリュータを抱き寄せて軽く口づけした。すぐに顔を離して、驚いている彼女に言う。
「したかったから。いいよね」
「もちろんです」
 にこりと笑って、ソリュータも口づけしてきた。少し長くなった。やめなければいけない理由が何もない。
「ソリュータ」
 クリオンが引き倒すようにソリュータをしゃがませた。戸惑って目を開く彼女に、周りを指し示してみせる。
「誰もいない」
 ゆるやかな孤を描く前後の通路に人影はない。街側は高い手すり、町の外は無人の原野。
「ソリュータ」
 もう一度言って、クリオンは彼女を手すりに押し付けた。抱きしめた腕は緩めない。
 はい、と少し震える声でソリュータがうなずいた。

 日が暮れるまで、二人は街の中をぶらついた。路地裏の小さな料理屋で昼食を取り、芝生の広場で昼寝をし、通りすがりの人に尋ねては、面白そうな場所へ足を向けた。
 その合間合間に、ふざけ合い、口づけを交わし、抱き合った。
 中央の主塔に戻った頃には、だいぶ疲れていた。――それでもソリュータは、朝に準備しておいたことを実行に移した。
「上で待っててくださいね」
 そう言われて、クリオンは最上階のベルガインの私室で待った。服でも着替えてくるのかと思ったら、半刻ほどたってもまだ現れないので、いささか不安になった。
「ソリュータ、まだ?」
 クリオンが上を向いて尋ねると――声が伝わる理屈はいまだに理解できなかったが――ソリュータがどこかで答えた。
「すみません、今焼きあがります。おなか減ってますよね」
「晩御飯、作ってくれてたの!?」
「ここへ来てからクリオンさまのお世話になってばっかりでしょ。侍女の面目、丸つぶれです」
「もう侍女じゃないよ」
「妃になったって、お世話したい気持ちは変わりません!」
 はずんだ声で言う。そういうことならクリオンも文句はない。そわそわしながら待つ。
 やがて、かすかな音とともに昇降板が上がってきた。ワゴンとともに現れた彼女の姿を見て、クリオンは笑い出す。
「なんだ、服も戻しちゃったの?」
「用意してもらいました。これが一番落ち着きます」
 質素な黒のワンピースと白いエプロン。見慣れた姿で微笑み、ソリュータはワゴンを机のそばに押した。
「さ、おかけください。お給仕しますから」
「きみは? 一緒じゃないと許さないよ」
「そうですか……それじゃ、あれを使いましょう」
 ソリュータはピアノの椅子を持ってきて机の横に置いた。それから机にクロスをかけて、カトラリーを手際よく並べていった。
「下のお台所は便利なんだか不便なんだかわからなくて。火のない竈とか刃のない包丁にちょっとてこずりましたけど……いい材料を揃えてもらったので、美味しくできたと思います。ほら!」
 ワゴンの腹から、色とりどりの料理が次々と取り出された。――まだぐつぐつと泡を浮かべている大きな銅鍋。じゅうじゅうと油の煙をあげる熱い肉。つややかに光る果実のプティング。朝露を残しているような瑞々しいサラダ。それに透き通ったスープ、ほんわりと膨らんだパン、七つもの小壺にわけられたソース……。
 芳香をたっぷり含んだ湯気に顔を覆われて、クリオンは頭がくらくらするほどの空腹感に襲われた。どれから手をつけるかも決めかねる。するとソリュータが赤ワインを注いで差し出した。
「どうぞ。最初はおなかの用意から」
 酒精を入れるといよいよ本格的に腹の虫が鳴いた。クリオンはソリュータが盛りつけた皿に、片っぱしから手をつけていった。
「全部いっぺんに出してすみません。冷める時間まで合わせられなかったものですから。とりあえずこっちのシチューと羊を。あとはお好みで……」
「ふん、ひいよ、みんなおいひい」
 本式の宮廷料理とはだいぶ異なる。見た目の美しさはあまり考えられていなくて、むしろ田舎料理に近い。それなのに、雑な感じは少しもしなかった。クリオンはほとんど手を休めもせず平らげていった。
 が――半分を越えたところで止まった。うつむいて口を閉じた彼の頬に、涙が落ちた。
「これ……グレンデルベルトの」
「……ええ、くにの料理です。昔はいつもこれでしたよね」
 クリオンの顔をのぞきこんで、城の料理のほうがお口に合いますか、とソリュータが聞いた。クリオンは激しく首を振って、空の皿を指差した。
「こっち……。ポレッカのはみんなが喜ぶけど、ソリュータはぼくだけに合わせてる……」
 最近はもっぱらポレッカがクリオンの食事を賄っていて、ソリュータの出番はほとんどなかった。ほっとした顔でソリュータが言う。
「よかった。クリオンさまの舌が変わっていなくて」
「ソリュータこそ、よく覚えて……」
「自分でも心配でした」
 笑うソリュータを見上げたクリオンは、遅まきながら気づいた。彼女はまだ酒も飲んでいない。しかも、肉やスープは一人分しかない。逆に腹が立った。
「きみも食べてって言ったのに!」
「あら、クリオンさまは私の楽しみを奪う気ですか?」
 ソリュータが人差し指でクリオンの額をつつく。
「好きな人が、自分の作ったものをわき目も振らずに食べてくれる。……それを見ているのがどんなに嬉しいか、わかります?」
「ソリュータ……」
「ふふ、ご心配なく」
 ソリュータは澄まして笑うと、深皿に銅鍋のシチューを汲み取った。
「これはちゃんと、私の分も。――これで十分です」
「じゃ、これも」
 クリオンがプティングを切り分けて、スプーンで差し出した。ソリュータは口を開いて、ぱくりと食べた。――顔を離してから、口元を押さえる。
「あ……スプーン、すみません」
「取り替えるなんて言ったら、怒るからね」
 クリオンは笑って、同じスプーンで食事を再開した。
 ソリュータもすぐに微笑み、クリオンのワインを取って飲み干した。

 食事が済むと、ソリュータは片付けに降りていった。クリオンは部屋の中を見て回った。今夜は雲がなく、暗い天に怖いほど鋭く星々が輝いていた。しかし、書架の本の題がわかるほど明るくはない。床の球の光は弱い。
 クリオンは試しに言ってみた。
「もっと明るく……なるかな?」
 球が輝きを増し、同時に天蓋が不透明になって光を反射した。室内全体が字の読める明るさになった。何度か命令してみて、クリオンはこの明かりの扱い方を身につけた。
 書架の本に手を伸ばす。しかし、四、五冊見ただけであきらめた。神代語がほとんどで、中の一冊は開いた途端に塵になって落ちた。無理もない、千二百年前の書物だ。いかに占星団の技をもってしても完全な状態で保存することはできなかったのだろう。
 本はあきらめて、ピアノに向かった。――夜空そのもののように磨きぬかれた漆黒の表面に、金の華麗な装飾が施されていた。側面には神代の飾り文字が光っていた。
 STEINWAY & SONS  OLDYORK  THE 10 MILLIONTH
 読めはしない。だが、由緒正しい品なのは感じられた。ソリュータが戻ったら弾いてもらおう、とクリオンは考える。グレンデルベルトの館ではたまにノクターンを弾いていた。
 そうやって待っているうちに、クリオンは、まだ自分が城の習慣に縛られていたことに気づいた。別に待っている必要はないのだ。そうと決めるとさっそく昇降板に乗った。
 一つ下の階は窓がなく、いくつかの小さな部屋に仕切られている。音のする部屋を覗くと、そこが広い厨房で、ソリュータが壁の棚に食器を収めていた。妙なことに、その皿はまだ洗っていない。
「ソリュータ?」
「ああ、クリオンさま」
 振り向いたソリュータが言った。
「今終わりますから」
「お皿を洗ってたんじゃないの」
「洗うつもりだったんですけど、ここへ入れておけばいいと言われたんです。勝手に洗ってくれるって」
「誰が?」
「さあ」
 二人は苦笑する。この街のそういう面を追及していくときりがない。適当なところで理解をあきらめるしかなかった。
 皿をしまうと、ソリュータはクリオンに向き直って、ちょっと目を逸らしながら言った。
「終わりましたけど……まだお休みになるには早いですよね。お風呂――」
「うん。上にピアノが――」
 二人の声がぶつかった。ソリュータが口を閉じる。お風呂がいい? とクリオンは尋ねる。
 するとソリュータはうつむいて、小さな声で言った。
「あの……今夜もなさいますよね?」
「え。……う、うん」
 何を、などとクリオンは聞かない。むしろ、この数日間をそれをするための日々にしようと思っている。
 ソリュータはクリオンの袖をつかんで、楽しそうにささやいた。
「一緒に入りませんか」
「いいの?」
「ここ、広かったでしょう」
「うん!」
 クリオンは大きくうなずくと、ソリュータを引っ張るようにして歩き出した。
 浴室は別の小部屋だった。小部屋、というのは上の天蓋の部屋に比べての話で、広さはかなりある。フィルバルト城の広大な湯殿ほどではないにしても、一度に二十人は入れそうなほどだ。
 部屋のつくりはかなり異なっている。――ひとことで言うと、そこは温かい池だ。部屋の真ん中に浅く湯が溜まっている。他にはなにもない。衣服を脱ぐ前室さえも。
 浴室に入った二人は、濛々たる蒸気に包まれた。たちまち汗がにじんでくる。エプロンを外しながらソリュータが言う。
「昔の人は、私たちと全然違う暮らしをしていたんですね。脱いだ服、どこに置いたんでしょう……」
「置かなかったんじゃないの」
「え?」
「ここは皇帝の浴室でしょう。他に誰かいるわけでもない。いても召使いだから気にしない。……入って脱いで召使いに渡す。出るときは受け取って着る」
「そうします?」
 ソリュータがエプロンを外しかけで振り返ると、湯気の中から突然クリオンの腕が伸びてきて、胴を横抱きにした。
「きゃ!」
 叫んだのもつかの間、ソリュータは湯の中に放り込まれた。ざばっ、と盛大なしぶきが上がる。あとからクリオンも飛び込んできた。濡れねずみのソリュータに抱きつく。
「ちょっと、クリオンさま?」
「着替えぐらいあるでしょ? 一度やってみたかったんだ」
「だからって、あのっ、溺れますっ!」
「そんなに深くないよ」
 水際の浅いところで、ソリュータが後ろ向きににじりながら逃げる。クリオンは細い足首をつかんで引っ張った。
「きゃあっ!」
 ずるるっ、とソリュータは深みに引きずりこまれた。スカートが思い切りまくれあがり、白いタイツに包まれた足が根元まであらわになる。彼女が手でスカートを押さえるより早く、クリオンが飛びかかって抱きしめた。
 一瞬、二人の動きが止まる。――濡れて乱れた侍女の黒い衣装は、一部がぴったりと体に張り付き、隠れた美しい曲線を浮かび上がらせていた。それがもっともはっきりしているところ、可憐にふくらんだ二つの乳房に、クリオンはそっと顔を当てた。
 艶の浮いた布越しに唇をこすりつけて、ささやく。
「こういうのは、だめ?」
「で、でも、するなら脱がないと……」
「脱がなくてもできるよ。――昼みたいに」
「あれは! ……あれは、脱げるような場所じゃなかったから……」
「じゃあ、ちょっとだけ脱がす」
 ワンピースの胸のボタンを外して、クリオンは合わせ目に手をかけた。肌に張り付いた布を左右に押し開く。
 ほのかな白桃色に染まった乳房が、明かりを浴びて艶光った。色も大きさも木苺にそっくりの乳首を舌で押すと、丘全体がふるりと揺れて乳くさい香りが立ち昇った。
 口に含んで、ちゅくちゅくと吸いたてる。――ソリュータの体から力が抜ける。あきらめたような、困ったようなささやきがクリオンの耳に入る。
「こういう正しくないやり方、お好きなんですか」
「あのね、ソリュータ。男女の触れ合い方って、きみが思ってるよりずっと自由なものだよ。……それとも、絶対に真っ暗のベッドでお互いを見ないように交わらなきゃだめ?」
「恥ずかしいんです。でも……」
 ソリュータは首元に手をやって、まだ襟にかかっていた細いリボンをするすると解いた。服の前をすっかり開けて、浮き出した鎖骨をさらす。
 うっすらと微笑んだ。
「だんだん、好きになってます……」
「ソリュータ、かわいい」
 クリオンは顔全体で、乳房の形が変わるほど強くこね回した。
 ソリュータが白い喉を見せてあえぎだす。両方の乳房を十分に愛撫して、手のひらに感じられるほど熱さが増してくると、クリオンは徐々に顔を下方へ滑らせていった。ソリュータの衣装は胸元しか開かない。――合わせ目が尽きると、腹部を通り越してまくれたスカートを乗り越えた。
 白く薄い下着は、ほとんど透けていた。薄い茂みの下方に充血した谷間が浮き上がっている。そこに唇を当てて軽く動かすと、内側からとろりと重い粘液がにじみ出してきた。押すほどにとろとろこぼれてくる。――クリオン自身が、昨夜から何度も注ぎこんだものだった。クリオンは布越しにちろちろと舌でくすぐる。
「ソリュータ、あふれてる……」
「だって、仕方ないじゃ……く、クリオンさまが多すぎ……」
「赤ちゃん作るんだから、こぼしちゃだめだよ」
 からかうように言って、クリオンは布に浮き出した小さな赤い点をちゅうっと吸った。ソリュータが息を詰めて、張りのある太腿でクリオンの頬を挟み込んだ。
「ひっ……ぃ」
「ほら、そんなにしたらまた……」
 力がかかったせいで塊がこぷりとあふれてきた。タイツの編み目が頬についてしまうほど強い太腿の締め付けを、クリオンは両手で開き、体を持ち上げた。
「新しいの、注いであげる」
「もう、好きにしてください……」
 ソリュータは真っ赤になって手で顔を覆っている。手の上からひとつ口づけをして、クリオンは腰の高さを合わせた。取り出した自分のものを、横へずらしたソリュータの下着の隙間に押し付け――じわりと一動作で貫いた。
「くふ……ぅん」
 ソリュータは鼻を鳴らして顔を反らせる。羞恥と歓喜が入り混じって夢見るような表情を浮かべさせている。その頭を抱え込んでクリオンは腰を動かし始める。あふれて出て行く精を、さらに多くの精で補うために。
 半身が湯に使っているような姿勢だ。動きに合わせてぱしゃぱしゃと波紋が広がる。波紋とともにソリュータの手足もゆるやかに広がっていく。しがみつくのではなく、クリオンに任せて体を開いている。立てた片膝以外はすっかり手足を伸ばした。床に張り付けるように手のひらまで開く。力を抜き、ただ胸だけは荒い呼吸で大きく上下させた。
 クリオンは反対に縮み上がる。大きな湯の塊のようになった柔らかなソリュータを抱きしめて、意識を性器に集中させた。
「くんん……っ!」
 射精。ソリュータの中心でほとばしる細く鋭い流れ。その一瞬は、流れを通じて二人のもっとも深い感覚が結びつく。命綱をかけられたように。
 ソリュータは開ききった手足をぴいんとつっぱらせる。右の爪先でタイツがピリッと破れる。クリオンを拒むのでも迎えるのでもなかった。ただ彼に支配されるために全身を投げ出していた。
 胸の上で硬直したクリオンが、腹の中で断続的に脈動している。ソリュータはぼんやりと思う。普通の交わりではきっと、ここまで無防備になれない。身籠りたいと思っているから、こんなに深く体を開ける。――多分この先、これより大きな幸せなんてない。
 快楽に硬直する肉体を追いかけるようにして、ソリュータの心も真っ白な絶頂に飛びこんでいく。
 ……気がつくと、ソリュータは生まれたままの姿にされていた。頭が岸辺に置かれ、湯に浸った首から下を、クリオンが丁寧に撫で回していた。
 目を開いたソリュータに気づいて、彼が微笑む。
「おかえり」
「……私、気絶したんですか」
「どっちかというと眠ったみたいだった。全然苦しそうな顔じゃなかったもの。そんなの初めてだよ」
「私、達したんだと思います。ただ気持ちいいっていうのとは、はっきりと違いましたから……」
「そう」
 クリオンはうなずき、少ししてからもう一度、そう、と嬉しそうに言った。
 それからソリュータの腕を引いた。導かれるままソリュータは体を起こし、彼とともに湯の中に滑りこんだ。泳ぐような、水底を叩くような浮かび方で、二匹の魚のように体をこすりつけあい、抱き合っては離れ、沈んだまま口づけした。
 存分に動き回ると、再び水際に横たわり、触れ合った。濡れた相手の肌はロウのようになめらかで、いくらまさぐっても飽きなかった。一度鎮まった炎がまた強まり、クリオンは勃起し、ソリュータも息を荒くし始めた。
 彼女のほうから熱い声で言った。
「もう一度……?」
「あまり濡れてると、風邪引いちゃうよ」
 クリオンは立ち上がり、脱ぎ捨てた服を絞って体を拭いた。
「上に行こう。……このままでいいや、誰も見てない」
「はい……」
 二人は、歴史の初めにあったという無垢の青年と乙女のように、一糸まとわぬ姿で出ていった。
  
 それからまる一昼夜が、クリオンとソリュータのもっとも激しい蜜月だった。
 浴室を出てから日が昇るまでだけでも、二人は三度交わった。一度目は天蓋の部屋に入ってすぐ、ベッドに倒れこみながら始めた。二度目はシーツをまとったソリュータがピアノを弾き始めて――ノクターンではなくセレナーデだった――しばらくしてから、ピアノに押し付けるようにしてクリオンが犯した。三度目は夜明けの直前、先に目覚めたソリュータが、眠っているクリオンを押さえつけて始めた。
 日中、町を歩く間もだった。二人は隠顕都市の天文房に行き、占星団が占星団と呼ばれる基となった、星々にまつわる膨大な知識に触れた。また、地下五百ヤードの最下層にある地底湖に下り、岩肌をぼうっと照らすほど明るい、水中の激しい蒼光を見た。
 そういった散策の合間に人気のないところを見つけると、すぐに抱き合って事を始めた。盛りのついた獣よりも激しかった。狂ったように、といってもいいほど。――クリオンに比べて経験も体力も足りないソリュータは、朝からすでに疲れを見せていたが、クリオンの求めを拒みはしなかったし、無理を押して自分からほしがる素振りも見せた。
 地底湖からの帰り、曲がりくねる細い洞穴の片隅で不意に立ち止まり、膝下のスカートを下着ぎりぎりまで引き上げて、暗い上目遣いでクリオンを見つめる――
「またしていただけますか? クリオンさま……」
 クリオンはためらいなく体を寄せて、立ったまま彼女を犯し上げる。彼ももう、もってまわった気遣いをするのはやめていた。互いの体力を底まで使い切るつもりで、隙があればソリュータを襲った。
 日暮れ前に、最初にソリュータが目覚めた生命再構房というところで、体内のツタを枯らす手当てを受けた。それは少なからぬ体力を消耗させる処置だったが、ソリュータは二時間後には起き上がり、そこを出た。白衣の医師たちも止めようとはしなかった。
 そして夜。食事のあとも変わらなかった。ベッドに上がった二人は降りることも眠ることもしなかった。触れ合い、重なり、達して横たわり、しばらくすると這いずるようにしてまた相手にしがみついた。夜半の頃、クリオンの腰にまたがって動いていたソリュータは、くぅんと空に突き抜けるような甲高い声を上げて達したあと、精根も尽き果てたという様子でぐったりと横たわった。――それでもやがて重いまぶたを上げて、クリオンの腕にすがりつき、涙を浮かべて哀願した。
「してください。もっともっと、私がすり切れてだめになるまで」
「そろそろ限界だよ。ぼくだって底なしじゃ……」
「うそです、クリオンさまはまだできるはずです。私の心配なんかしないで。ほら、まだ息はあるでしょう? 息なんか絶えてもいいの、気を失うまで、気を失っても、ずっと犯し続けてください……!」
 その言葉で精一杯だったらしく、ソリュータは声を失って浅くあえぎだした。どう見てもまともに愛を交わせる状態ではなかった。
 それでも、クリオンは柔らかな体に重さをかけ、ろくに反応しないソリュータをまさぐって、すでに精液であふれ返っている胎内に入っていった。
 結末は当然、失神だった。いつしか二人は泥のように眠りこんでいた。二人の上で星空が巡り、やがて東に曙光が差した。
 かたかた、と小さな音を聞いてクリオンは目を開けた。室内に青いまばゆい光が満ちていた。
「目覚めよ、クリオン皇帝」
 彼のレイピアが部屋の北に浮き、封球を輝かせていた。
「ズヴォルニク……」
「敵、至れり」
 はっとクリオンは体を起こした。立ち上がって地平線を眺める。
 森と丘の連なる風景のかなたに、地平線を埋め尽くすような白い雪煙が騒いでいた。
「『遷ろう者ども』だ。各地から集めたな。……百万は下らぬ」
 呆然とするクリオンの隣に、白い裸身が立った。地平線を見つめ、クリオンに目を移す。
 務めを終えた女の静謐な眼差しが、彼を射た。
「来ましたね」
「……ああ」
「行ってらっしゃいませ、皇帝陛下」
 ソリュータは優雅に一礼した。
 クリオンは愛剣をつかみ、身を翻した。

 4

 隠顕都市プロセジアの市域は、東西南北三リーグに及ぶ。――すなわち、光電磁隠蔽躯体に覆われたドームは、中心区画でしかない。
 周囲に点在する丘が次々に隠蔽を解除し、上に乗っていた樹木と雪をふるい落とした。現れたのは巨大な花崗岩を組み上げた砲塁だ。砲眼に詰まった雪が中から押し出され、鈍く輝く鋳鉄の曲射砲が中天に伸びる。
 その数、百二十八門。
 東西に展開した斥候の測距値が届くと、砲群は攻撃を開始した。
 耳を聾する轟音とともに、丘という丘から大木のような発射煙が吹き上がった。爆薬のたっぷり詰まった砲丸が、紅の暁天高く昇っていく。それが見えなくなってずいぶんたってから、地平線に立て続けに火球が膨らんだ。ぱっぱっ、と衝撃波の円が広がり、湧き騒ぐ雪煙を右に左に吹き乱した。
 炎はすぐに黒煙に変わり、北風にたなびきながら上昇していく。それが薄れぬうちに第二射が殺到した。再び火球、そして吹き飛ぶ雪煙。
 その頃ようやく、第一射着弾の爆音が、鈍い地響きとなって都市主塔に届いた。
 ずぅん……と地の底から湧いてくるような震動にわずかによろめいて、プラグナはすぐに姿勢を立て直した。主塔の頂上から三分の一ほどの高さにある、八十五階の防衛指揮室。数十名の団員が詰めている。
 プラグナの左右に、双眼鏡を構えた観測員が八人立っている。その一人が言った。
「着弾はほぼ正確です。敵の最前列を押さえています」
「効果判定」
 プラグナが短く言うと、八人が順番に答えた。
「第一群、毎分六十体制圧」「第二群、毎分八十体制圧」「第三群、毎分四十体弱。やや第四群と重なっています」「第四群、毎分三十五体制圧」……
「砲塁へ指令。的を散らせ」
 命じてから、プラグナは舌打ちした。
「時間当たり三万にも届かん……蟷螂の斧だな」
「せめて我らに歩兵があれば、釘付けにできるのでしょうけどね」
 振り返ると、砂色の髪を高く結い上げた娘が、かすかな笑みを浮かべて立っていた。白いトーガはあちこち泥で汚れ、その下の短衣とズボンにもかぎ裂きが見えた。
「無事だったか、シエンシア」
「百七十三名も戻りました。敵の支隊に引っ張りまわされていたんです。おかげで本体を見つけ損ねました。……見つけていたら十分の一しか戻らなかったでしょうが」
「よい、策を思いついた」
 軽く手を振ると、プラグナは送話線についている部下に声をかけた。
「全砲塁へ指令。弾薬を半分残せ。六割まで減ったら報告」
「了解」
「弾薬を……」
 つぶやいたシエンシアが、静かにプラグナを見た。
「まさか、ここで?」
「全弾撃ち尽くしても五十万がいいところだ。対して敵はここだけで百万、北部諸州全体で五百万。――せめてここへ来る奴らぐらい、根こそぎにしたいだろう」
「爆薬だけで百万を潰せますか」
「『ノクトロフォルク』も使う。……我らに残された最大の力だ。民生機器ばかり残さず、軍事兵器も少しは保存しておくべきだったな」
「それをしたらプロセジアは自滅していたと思いますよ。人類には十八世紀の軍事技術ぐらいが似合いでしょう」
「……歴史を学んだか?」
「はい」
 うなずくシエンシアを見て、プラグナはぽつりと言った。
「おまえを次の団長に指名する。万が一グルドを取り逃がしたら、次の千二百年に占星団を継承しろ」
「それは……」
「拒否は許さん。おまえたち、証人となれ」
 プラグナに命じられて、周りの者たちが深々とシエンシアに頭を下げた。シエンシアはややひるんだが、やがてため息をついた。
「枯れ木の主に木を継がされた。薪にもならず、花も咲かぬに」
「花は咲こう。皇帝が生き延びればな」
 プラグナが小気味よさそうに笑った。
 また地響きが床を揺すった。かなたの地平線はもはや黒煙の城壁に覆われている。だが、それで敵を食い止められはしないだろう。恐怖に足をすくませることもなく、仲間の残骸を踏み越えて、『遷ろう者ども』はじわじわと近づいてくる――
「プラグナはここ?」
 昇降箱の扉が開き、クリオンが現れた。シエンシアを見て微笑む。
「やあ……やっぱり無事だったね」
「ええ、手ぶらですが。ソリュータはどうしていますか」
「上にいる」
 頭上を指差して、クリオンはプラグナを見た。
「安全なところに移したい。地下に行かせるわけにはいかない?」
「地上階にしてください。もうすぐ非戦闘員を退避させますから、それと一緒に脱出させましょう」
「ここも危ないってことだね。国軍が来るまで持ちこたえられない?」
「二十万までならもったでしょうが」
 プラグナは首を振る。普通なら驚愕するべき数字だ。しかし今回は敵の桁が違う。
 クリオンは不安を覚えて尋ねる。
「デジエラのことだから、四十万と言ったら言葉通り四十万を連れてくると思う。……でも、それで勝てるのかな」
「『遷ろう者ども』をすべて掃討しようと思ったら、四百万でも足りないでしょうね」
 プラグナは冷然と言ったが、すぐに微笑んだ。
「しかし、こちらの戦略はグルド本体の撃滅です。国軍はクリオンとグルドの接触を手助けするだけ。陣地を築けば切り抜けられましょう。また、そうするしかありません。……『遷ろう者ども』は国中に散らばっているのですからね」
 クリオンは緊張しながらもうなずいたが、次の言葉で顔色を変えた。
「時間を稼ぐと言った約束、守ってみせましょう。――プロセジア本市は、あの敵集団の到着に合わせて自爆します」
「自爆……どうしても?」
「どうしてもどころか、それで敵全部を倒せるわけではありません。今見えている百万を壊滅させるだけです。しかしそれが、他の敵集団とグルド本体を呼ぶでしょう。……国軍はその隙に備えを整えればよろしい」
「予にできることは」
 腰のレイピアに手を当ててクリオンは言う。プラグナが軽くうなずく。
「一リーグ以内に近づかれるまでは砲塁が機能します。その後で敵勢を削ってもらいましょうか」
「全部倒すよ」
「いま力を使いきっていいのですか」
 そう言われると返す言葉もなかった。黙り込むクリオンに、プラグナは彼女に似合わない柔らかな笑みを向けた。
「疲れて動けなくなられても困ります。あなたには退避していただかないと」
「……プラグナは?」
 半ば答えを予想しつつ、クリオンは尋ねた。思ったとおりの返事が来た。
「都市を自爆させるには、人手が要ります」
「……死ぬな、と命令したら?」
「我らは使命を果たすのですよ」
 穏やかな、しかし揺るぎない決意をこめた言葉に、クリオンは喉を詰まらせた。プラグナは昇降箱を指差す。
「さあ、あなたは前線へ。シエンシアがお供します」
「……ありがとう」
 シエンシアとともにクリオンが歩き出した時だった。
 送話線についていた団員が叫び声を上げた。
「南西群第四砲塁より緊急報告! 本市南西三リーグに敵別働群を発見、南方へ向かっているそうです! 概数三万!」
「なんだと!? 警戒線はどうなった?」
 プラグナが鋭く尋ねる。北方より現れる敵の素通りを防ぐために、占星団は本市の東西に延べ四百リーグにも及ぶ聖霊警戒線を敷設していた。ごく低ヘイリンの封球を使ったもので、攻撃力はないが、グルドやその眷属が通過すればただちに本市に知らせてくるはずだった。
 長距離送話線で各地の監視所に問い合わせた団員が、無念の面持ちで報告した。
「西十七番監視所、応答ありません……グルドに矯惑されたようです」
「十六番と十八番に指令、十七番への爆破線に点火しろ。――ぬかったな」
 それから室内をぐるりと半周して、南側へ向かった。クリオンとシエンシアも続く。
 南西の方角ではすでに砲撃が始まっていた。しかし、明らかに弾幕が薄い。砲塁のほとんどは北向きに設置されているのだ。
 双眼鏡を覗いたプラグナがうめく。
「散開している……弾質を読んだか!」
「団長、回り込まれます!」
 シエンシアが叫んで、真南を指差した。
「退路をふさがれます、ただちに退避命令を!」
「三万だぞ? 非戦闘員だけで突破できるわけが――」
 二人は同時にクリオンを見た。クリオンも瞬時に了解した。
「……出番が早まったみたいだね」
「お願いします。あなたしかいません!」
「任せて」
 うなずくと、プラグナよりも凛然たる声音でクリオンは命じた。
「指令! 退避する者を半刻以内に都市南門へ集合させろ! 持ち物は防寒着と糧食二日分、それ以外は不要! 車と荷駄があればありったけ出せ、足の弱い者を乗せる!」
「各員、そのまま伝達だ」
 プラグナが言い添え、団員たちがただちに伝え始めた。
 また、砲声が塔を揺るがした。――重い轟きと町中に響く退避命令の中で、都市の主がクリオンとシエンシアを見た。
「後を頼みます。……ウーレー・クリオン」
 二人は小さくうなずいて、出ていった。

 街から退避する人々の数は、二千六百名に達した。子供はいたが、クリオンの予想に反して年寄りはほとんどおらず、成人男性も多かった。そのわけを聞くと、シエンシアはこともなげに言った。
「プロセジアのいくさは機械のいくさです。男の腕力は必要ありません。成年はプロセジアの技を後に伝えるためにも必要ですし」
「それで年寄りを残すことが正当化されるの?」
「プロセジアに、若者に後を託せないような老人はいません」 
 冷たい口調の陰に、故郷への誇りが隠されていた。クリオンはそれ以上聞かなかった。
 南門に集合した一行は、数を確かめるが早いか出発した。空は晴れ大気は澄んでいたが、刃のような北風が絶え間なく吹き、時おり雪塵が渦を巻いて人々を叩いた。
 乗り物はあまりなかった。――都市内で見かけた車は、都市の床から力を得て動いていた。外では使えるものは十台ほどの幌馬車だけで、その原始的な乗り物に子供たちを乗せて、一行は黙々と進んだ。
 クリオンとシエンシア、それに他の数名は馬をもらっていた。別に楽をするためではなく、敵が現れたときただちにそちらへ向かうためだった。クリオンが隊列の前後を警戒しながら行き来していると、徒歩の女たちの中にソリュータの姿を見つけた。声をかける。
「ソリュータ! 大丈夫?」
「大丈夫です!」
 ソリュータが叫び返したが、体を覆う分厚いマントがばたばたとはためき、頭にすっぽりとかぶったフードも、ともすれば後ろへめくれそうになっていた。それでなくても体力を消耗した後だ。この強行軍と寒さが応えていないわけがなかった。
 クリオンはもう一度叫ぶ。
「無理しないで馬車に乗せてもらうんだ!」
「みんな歩いているのに、私だけ乗るわけにはいきません!」
「そんなこと言っても……」
「倒れられたらこっちが困るわ」
 そう言ったのは、ソリュータの隣にいた中年の女性だった。彼女が周りに目配せすると、あっという間に女たちがソリュータの体を抱え上げた。
「やめてください、歩けます!」
 叫ぶソリュータを運んで、馬車の中に押し込んでしまった。クリオンは女性に馬を寄せて礼を言った。
「ありがとう。あなたたちもつらいだろうに……」
「礼はいりません。我らプロセジアの民は外界の者より優れた存在。彼女はそれに比べて弱い……それだけです」
 女性の返事はそっけなかったが、クリオンは悪い印象を受けなかった。本当に見下しているならその場に捨てていくはずだから。
 彼らは実に賢明で誇り高く、忍耐心に富む人々のようだった。その同じ誇りがグレンデル湖で前帝の箱舟を沈めさせたのだが、それが信じられないような公正さだった。いや、公正だからこそ前帝と貴族たちを裁いたのだろう。――クリオンの中のプロセジアに対するわだかまりが、またひとつ、泡のように消えていった。いつか、それを許せる日も来るだろう。
 シエンシアのところへ戻ると、彼女は背後を見上げていた。隠顕都市はすでに岩山に偽装した姿を捨て、透明な天蓋を隠れもなく現していた。その一部でチカチカと光が瞬いていた。物見からの鏡信号だ。
 シエンシアが前に向き直る。
「敵群が接近しています。右前方二千ヤード。このままの速度で進めば先を塞がれるでしょう」
「抑えに行くよ」
「はい。――皆、行くぞ!」
 シエンシアの叫びに応じて八名の騎馬が走り出した。この一行の数少ない護衛隊である。後に続きながらクリオンは隊列に声をかける。
「できるだけ急いで南へ! 予のことは構わずに!」
「クリオンさまーっ!」
 馬車から顔を出したソリュータに手を振って、クリオンはシエンシアたちを追った。
 丘を駆け上り、林を突っ切る。蹴散らされた雪の中から野兎やイタチが飛び出して逃げる。クリオンと並んだシエンシアに向かって、彼女の部下が――これも二十歳そこそこの娘だ――叫ぶ。
「シエンシア、大回りで引きつけるの?」
「いいや、テルミスタ。正面から叩く! クリオン、できますね?」
「やるよ!」
 叫び返してレイピアを抜く。ズヴォルニクの力を知らないらしく、テルミスタと呼ばれた娘が唖然とした。無理もない。十対三万、普通なら話にならない数の差だ。
 クリオン自身、そんな話を他人から聞いたら信じないと思う。だが、手の中にある強大な聖霊がそんな不安を打ち消してくれる。海王は四囲の積雪を輝かせるような強い光を放っている。
 刃を頬に添える。凍てついた滑らかな鋼がしびれるほどの力をたたえている。
「ズヴォルニク、何をするかわかってるか?」
「蹴散らせばよいのだろう」
 至極単純にズヴォルニクが答える。クリオンは微笑する。この聖霊にとって、眷属が数万ばかり集まった程度では脅威のうちに入らないのだ。
「できるだけ深く斬り込め。多く巻き込みたい」
「わかった――」
「前方三百!」
 テルミスタの叫びで、クリオンは前方に目を向ける。狭い谷をひとつ挟んで、向かいの丘の林から黒ずんだ不気味な人影がわらわらと現れた。
 シエンシアが叫ぶ。
「みんな、クリオンの護衛に専念しろ! 決して止まるな!」
「はい!」
 一息に谷を渡って、十騎は敵群に突っこんだ。
『遷ろう者ども』は目も耳もないのにこちらを見つけ出す。――疾走するクリオンたちが群れの中に分け入ると、無数の影がいっせいにこちらを向いた。腕を振り上げ、ゆらゆらと体を揺らして近づいてくる。と、異変が起こった。彼らがかすかに身を震わせたかと思うと、見る間に輪郭を変えたのだ。
 現れたのは赤い髪の女。木々の間という間を埋めて、炎の色の髪がざわざわと騒いだ。姿を変えるとともに身体能力をも手に入れたらしく、急に俊敏になった動きで女たちがいっせいに飛びかかってきた。
 バスッ! と鈍い音が上がる。テルミスタが帽子のような輪型の刃を投げて先頭の一体を切り裂いたのだ。刃は糸に引かれてテルミスタの手に戻る。すぐさま別の一体に投げつける。――驚くべき敏捷さでそいつはひらりとかわした。
 テルミスタが声を上げる。
「これは誰の姿!? 並みの人間じゃない!」
「デジエラだよ。ジングリット一の戦士……予の心を読まれたみたいだ」
 答えたクリオンにもデジエラが殺到してきた。クリオンはレイピアをめまぐるしく動かして、デジエラを貫きデジエラを切り伏せデジエラを薙ぎ飛ばした。こいつらが武装していなくてよかった、と思う。裸の姿は異様で、逆に抵抗感がない。
 かなり広い林に入ったらしく、位置がまったくわからなくなった。周囲は果ても見えない針葉樹の迷宮になり、その間から湧き出す女戦士たちだけが動くものになった。
 ズヴォルニクが叫ぶ。
「ここだ、クリオン!」
「よし――やれ、ズヴォルニク!」
「応!」
 腕に伝わる聖霊の望みのまま、クリオンは馬上で体をひねって剣で全周を扇いだ。大地に深く積もった雪が間髪いれず沸き立った。
 一瞬で融解した雪が土砂を巻き込んで津波と化した。ごうっ! と地響きを立てて円く広がる。白と黒の入り混じった濁流が木々を薙ぎ、うごめく影を小石のようにはじき飛ばした。
 津波とともに音も遠ざかり、つかの間の静寂が林間に落ちた。――顔をかばっていたテルミスタたちが目を開け、放心したように辺りを見回した。
 へし折れてささくれ立つ木々と、バラバラにすり潰された無数の屍体。
「すごい……」
「五百……いえ、千以上?」
「八百といったところか。クリオン、次はいけますか?」
 シエンシアに目を向けられて、クリオンは首を振る。
「ほどほどにしろって言ってる。グルドに出会うまでは力を使い切りたくないって……」
「当然ですね。一度本隊に戻りましょう」
 シエンシアはそう言って、一方を指差した。はるか彼方に、どこかよそへと歩いていく影たちがあった。
「私たちが手強いとわかって、回り込もうとしています。あまり本隊から離れるのは得策ではありません」
「うん……」
 シエンシアに続いて馬首を返しながら、クリオンはため息をつく。今の一撃は、もっと敵が密集していれば、八百といわず三千は倒せるほどのものだった。
 ズヴォルニクは確かに強い。――だが、敵は逃げることも隠れることもできるのだ。

 二千五百の人々に、逃避行は恐ろしいほどの消耗を強いた。
 徒歩の者がいる以上、速度は敵とたいして変わらない。ただひたすら地道に進むしかない。丘から丘へ、谷から谷へ――だが、人間は休息を必要とする。
 夕暮れまでに三回の休息をとった。その間、『遷ろう者ども』は着実に距離を詰めていた。最初の先制攻撃で回りこまれることは防いだが、敵は隊列の後方に食らいつき、クリオンたちが見に出るたびに、丘四つ分、丘三つ分と近づいてきた。
 日が暮れても止まるわけにはいかなかった。手から手へ干し肉と酒乳を回して、歩きながら腹を満たした。天候はもちこたえたが、なんの慰めにもならなかった。まぶたや唇には霜が付き、震える体を烈風が突き倒した。靴の中には雪が入り、つかの間体温で溶けてからすぐさま凍り付いて、じわじわと凍傷を生じさせた。
 夜半、ぎらぎらと輝く北天の星々が、地平線に湧いた光にぼうっと照らし出された。――皆が声を殺して泣いた。その不気味な赤紫色の光は、膨大な爆薬と大気霊『ノクトロフォルク』が生じさせたもの――人々のふるさとの消滅を表すものだった。
 その後の足取りは、目に見えて重くなった。
 闇の中、白い雪の照り返しだけを頼りに、ざくり、ざくり、と音を立てて隊列が進む。ほのかに上がる呼気の霧を、吹きすさぶ北風がすぐさま奪い去っていく。どさりと一人が倒れると、周りの者がのろのろと助け起こす。そのたびに歩みは止まる。
 馬は次々に倒れた。馬車の車軸も凍りついた。子供は大人に背負われ、女は男に手を預けた。ソリュータも赤ん坊を背負った。クリオンも馬を失った。
 南へ……。
 地形に詳しいシエンシアは、冷静に周囲を調べて、本市から六リーグ、本市から七リーグ、と距離を報告した。だが、それにどんな意味があるのか、誰も尋ねなかった。確かに本市から十リーグのところまでいけば、丘陵地帯が終わってクルビスクの野という平原に入り、街道が始まる。――しかし、そこで追っ手が止まってくれるのか?
 そんなわけがなかった。背後の『遷ろう者ども』は、もう後方千ヤードにまで近づいていた。最後尾のクリオンたちが間歇的に攻撃を仕掛けて遠ざけているだけで、事実上、すでに追いつかれていた。
 抵抗の力が尽きるのが先か、敵が損害覚悟で押し寄せてくるのが先か。
 南へ……。
 夜を徹した行進で、隊列はプロセジアから九リーグの地点まで進んだ。あと一つ大きな丘を越えれば、広大な北部平原が見えるはずだった。
 そこまでだった。
 灰色に明けていく空で最後の星が消えた頃、ソリュータが倒れた。

「ソリュータ!」
 急を聞いて駆けつけたクリオンは、女たちの輪の中に寝かされたソリュータを見つける。顔は赤く、息は速かった。熱が出ました、と一人の女が言った。その女も雪の上に尻もちをつき、疲労困憊した様子だった。
「ここまでですか……?」
 見上げる女に、クリオンは何も答えられない。――倒れたのはソリュータだけではなく、他の幼子や女たちも、幾人か横たえられていた。それを囲むように、もう隊列ではなくなった一行が円を作っていた。
 クリオンは北の方角を見る。ここは浅い盆地の底だ。まばらな枯れ草の向こうにシエンシアたちが立ち、北の丘を見つめている。――稜線にゆらゆらと人影が現れた。
 シエンシアが振り向いて叫ぶ。
「クリオン!」
「わかってる!」
 ソリュータに心を残しながらクリオンは走る。シエンシアに並んでも迷いは晴れなかった。こうなったら、ソリュータのそばについて見守ってやりたい。
 だが、フードから覗くシエンシアの赤い頬を見て、その気持ちも消えた。
「シエンシア……きみも熱が?」
「正常ですとも」
 にこりともせずシエンシアは言った。そう言うしかないのだろう。彼女は新しい団長になったのだから。だが、正常ならおどけのひとつも出てしかるべき場面だった。
 様子を見るように止まっていた『遷ろう者ども』が、丘を下りだす。クリオンはレイピアを抜く。すでに握力も心もとない。だが、ズヴォルニクには寒さも疲労も関係ないはずだ。これある限り敵を倒してやろう、とレイピアを構えて――
 クリオンは、封球がほとんど黒に近いほど光を失っていることに気づいた。
「ズヴォルニク!?」
 返事はない。聖霊は眠っているように沈黙している。
「ズヴォルニク!」
 クリオンは悲鳴を上げる。力を使い果たしてしまったのだろうか。彼なしでどれだけ凌げるか……
「クリオン!」
 はっと顔を上げると、シエンシアたちが敵の先頭に挑みかかっていた。悲しんでいるひまなどない。クリオンはすべてを忘れて走り出した。
 敵はまたしてもデジエラの姿をまとっていた。爪を立て歯をむき出してつかみかかってくる。クリオンたちは横一列になってそれを防ぐ。レイピアが舞い、シエンシアの直剣が走り、テルミスタの円い刃が飛ぶ。「アルクチカ!」の叫びとともに氷風が突進し、十数人のデジエラを一瞬で凍りつかせた。しかし、何ほどの効果もない。敵は押し寄せ、クリオンたちはじりじりと後退する。
 刃を旋回させて一度に五体の喉笛を裂いたテルミスタが、背後を目にした途端、絶望的な声を上げた。
「団長、後ろ!」
 南の丘の上に、ずらりと敵が並んでいた。しかも馬に乗っている!
 先頭のデジエラが高々と剣を掲げ、振り下ろした。騎乗した敵が一斉に駆け下りてくる。五百や一千ではない。数千騎の大群がまさに雪崩に等しい勢いで向かってきた。
 がりっ! とマントの肩当てを削られて、クリオンは振り向きながら剣を突き出す。デジエラが片目を貫かれて倒れ、すぐにデジエラが飛び掛ってきた。その向こうにも数知れぬデジエラがひしめいている。テルミスタが突き倒され、他の者たちも次々にのしかかられ、シエンシアも数人にしがみつかれて膝をついた。
 クリオンのレイピアが、ぎしっと嫌な音を立てて止まる。デジエラが横から刃に噛み付いていた。こちらを向いた彼女と目があった。
 にやり、と笑う。
 ――ソリュータ!
 クリオンが覚悟した時。
 デジエラがごぼう抜きに彼を地面から抱え上げ、鞍の前に乗せた。反対の腕で長剣を一閃させ、デジエラの頭を断ち割った。
「実に不愉快ですね」
「え……?」
 クリオンは振り向く。緋の髪の女将軍が顔をしかめていた。
「よりにもよって私の姿を真似されるとは」
「デジ……エラ?」
「他の誰に見えるのです」
 走りながら孤を描いて向きを変えたデジエラは、一ヵ所に固まっていたプロセジアの人々のそばまで戻ると、もう一度高く剣を掲げて大音声を放った。
「皇帝陛下はお助けした! これより敵群の掃討に移る!」
「了解! 全部隊、突撃!」
 騎士の華麗な外套が不釣合いなほど丸っこい姿の男が叫び返した。そんな騎士はジングリット広しといえどもただ一人しかいない。そんな騎士に指揮される騎馬隊も一つしかない。
 ロン・ネムネーダ麾下、ジングリット第一軍。
 突撃の唱和が盆地中に伝わっていき、槍を構えた軽装の騎士が凄まじい勢いで怪物たちを撃砕した。それだけでは終わらない。騎兵に続いて稜線から雲霞の如き歩兵の大軍が現れ、西も東も見渡す限りに広がって、一体たりとも見逃さない掃討進撃を開始した。
 ズヴォルニクの小さなささやきがクリオンの耳に届く。
「我が力をふるうまでもなかったからな」
 クリオンは腹の底から息を吐く。力を抜いてもたれた彼を、甲冑に覆われた豊かな胸が支えた。
「大陸連合軍、ただいま参上つかまつりました。――お疲れ様です、皇帝陛下」
「格好良すぎだよ、デジエラ……」
 ささやく少年を、敬愛の思いのこもった腕がぎゅっと抱きしめた。

 彼女とともに南の丘に登りつめたクリオンは、歴史に残る光景を見る。
 大河を背負った広大なクルビスク草原――そこを埋め尽くす大陣地を。
 いったい、四十万を越える大軍とはどのようなものなのか。シッキルギン戦で十万を動員したクリオンですら、この威容を想像しきれていなかった。いま眼前に見る大陸連合軍は、軍隊などというものではなかった。
 それは都市だった。――数千の兵営、武器庫、倉庫が長大な土塁と逆茂木に囲まれ、なお建造されていた。河岸には港が開かれ、巨大な板のような川船がゆっくりと動いていた。
 それは絨毯だった。――陣地構築の進む本陣からはるか東西にまで整列した兵団が広がり、畑や茂みなどの細々した地形を乗り越えて、縦横に移動していた。
 それは巣だった。――少なくとも数十の単位で隊を組んだエピオルニスが、十隊以上も空を巡り、隊を組んでいない単騎の伝令が、陣地のそこかしこで、餌を運ぶ蜂のように、ひっきりなしに上り下りしていた。
 それは芸術ですらあった。――各兵団はそれぞれの所属領を表す色とりどりの防具をまとい、大きさも形も異なる数知れぬ旗幟を立てていた。その幾何学的な連なりは絵画のように美しかった。
 言葉を失うクリオンに、デジエラが微笑しながら言う。
「あれはオン川です。川を下れたのでこんなに早く到着できました」
「いくら川を下ったっていっても……よくもまあ、四十万を」
「五十万です」
 さらりとデジエラが訂正する。クリオンはぼんやりとした顔で、五十万? とつぶやく。
「はい。国内からさらに数万と、シッキルギン軍八万。……まだ増えますよ。大明とフェリドがまだ到着していませんから」
「……なんだか信じられない」
「しっかりしてください。あれは、陛下の軍勢です」
「ぼくの……」
 クリオンはもう一度、眼下に目をやる。刻々と明るくなっていく空の下で、大地そのもののような軍団が黒々と動いている。――だしぬけに、東の端からきらきらと小さな輝きが生まれた。みるみるうちにその輝きは西へ波及していき、やがて軍全体が星をまぶしたように燦然と光を放った。
 日の出だった。剣や鎧や兜が朝日に輝いたのだった。
「救出は済んだようですね」
 ちらりと背後を見て、プロセジアの人々の無事を確かめると、デジエラは馬を進めようとした。するとクリオンが言った。
「ちょっと待って。自分の馬が一頭ほしい」
「本陣にいくらでもございます」
「そうじゃなくて……ソリュータを乗せていく。あのね、デジエラ」
 クリオンは振り向いて、きっぱりと言った。
「彼女を予の正室にする」
 それを聞いたデジエラは口を大きく開けた。
「とうとうご決心なさいましたか」
「うん。今ならいいだろうし、今しかないと思うんだ」
 デジエラは目を細めてうなずくと、すぐさま馬から飛び降りて片膝をついた。
「この馬でお連れ下さい。私がくつわを取ります」
「ありがとう」
 クリオンは手綱を取ると、軽やかに北へ向かった。喜びと、淡い羨望のこもった眼差しが、その背を追っていた。

 5

 ジングリット帝国の全歴史を通じて、この時ほど皇帝の姿が衆目にさらされたことはなく、この時ほどそれが目立ったこともなかった。――鞍上に娘を横抱きにして、女将軍に悍馬を引かせた金髪の少年が陣門をくぐると、陣中食を食べたり設営工事をしていた兵たちが目ざとく見つけて、一斉に駆け寄ってきた。皇帝が進むにつれてそこら中から兵が集まり、手を振って熱狂的な歓声を上げた。
クリオン皇帝陛下万歳ウーレー・クリオン!」
 彼らはこの地に集まる前に、こう説明されていた。王都を襲ったのは強大な魔物である。皇帝の寵愛する侍女が我が身を人質にして王都を守った。皇帝はその侍女を追って単身、北へ向かった。しかし援軍がなければいかに皇帝といえども危うい。王都を守った皇帝と侍女を、今度は軍隊が守るのだ、と。
 大部分が事実であるだけに、兵士たちはその説明を深く信じた。ソリュータが人質になったというところだけは嘘だが、彼女の存在がクリオンを支えていることは事実である。レンダイクが持ち出したこの説明を、デジエラはそのまま兵士たちに伝えた。
 だから兵士たちは、ソリュータ自身が戻ることを望んでいたのである。
 また、クリオンの帰還をも望んでいた。今回集められた四十数万の兵は、ほとんどが地方の貴族領から呼び寄せられたものである。その貴族領にも『遷ろう者ども』ははびこっていた。膨大な『遷ろう者ども』に対して、兵士たちの直接の支配者である貴族は何一つ打つ手を持っていなかった。頼みの綱は皇帝が敵の親玉を倒してくれることだけ。是が非でも彼に戻ってもらわなければならなかった。
 その二つがかなえられたのだから歓喜の度合いは推して知るべしだった。クリオンたちが本陣へ着くまでに兵士の数は際限なく膨れ上がり、黒山の人だかりとなって道を塞いだ。クリオンは何度も馬を止め、侍女が弱っているから早く医者に見せたい、と叫ばなければならなかった。
 ようやく本陣に着くと、侍医のリュードロフが来ていて、名誉挽回とばかりに張り切ってソリュータの手当てを始めたので、クリオンはようやく安心して彼女のそばを離れた。するとすぐにやって来たのが、レンダイクだった。
 天領総監イシュナス・レンダイク男爵は、人払いをした本陣の一室でクリオンと向き合うと、最初に膝を着いて頭を下げ、長く上げなかった。
「申しわけありません、陛下。私の不明により、ソリュータ殿にあのような傷を負わせてしまいました。回復なさったとはいえ、ご心労いかばかりだったでしょう。……衷心よりお詫びいたします!」
「スーミーのこと?」
 クリオンは椅子に腰を下ろして、前かがみに彼を見下ろす。ソリュータを刺したスーミー・シャムリスタが、レンダイクの愛人だったことをクリオンは知っている。
「彼女は『遷ろう者ども』だった。男爵もだまされていたんでしょう」
「……うすうす、感づいておりました」
「そう」
 小さくない驚きを覚えたものの、クリオンは淡々と続けた。
「いつから?」
「だいぶ前です。ギニエの街で、陛下に手を上げたよりも前から。……スーミーは、明らかに行動が不審でした。陛下をお誘いしたことも含めて」
「ようやくわかった。あの街で文官のキンギューが乱心した時、あなたは急に勢いづいて乱心の原因を調べようとしたね。少し変だと思った。……あれは、自分も乱心するかもしれない・・・・・・・・・・・・・と思ったからだね」
「お察しの通りです」
 レンダイクが目を伏せたままうなずく。
「しかし、キンギュー殿の場合と違って、私が狂うような兆候はありませんでした。それに、彼女が敵だという確証もありませんでした。……しかし、確証ができてからも、私は手を打たなかったのです」
「それはいつ頃?」
「陛下が王都を取り戻し、私がそこへ戻って、あれと再会した夜です。彼女はひどく衰弱しておりました。それがズヴォルニクの叫びを受けたためだと、私は気づいたのですが、見て見ぬふりをしておりました」
「彼女を好きだったから?」
「……はい」
 レンダイクは床に両手を突いた。堅く閉じたまぶたの端から涙が何粒も滴った。
「信じたくありませんでした。……女々しいことです! レザ殿の執事やガルモン殿は、立派に筋を通したというのに。私はあれを処分できませんでした!」
 その結果……、とレンダイクは声を詰まらせた。
 クリオンはしばらく黙っていた。――レンダイクが愛する人を守ろうとしたために、自分は愛する人を失うところだった。やりきれないことだった。
 だが、やがて静かに言った。
「男爵。予はね、あなたについてもう一つ不思議なことがあったんだ」
「……と、おっしゃると?」
「なぜあなたが善政を布けるのか」
 クリオンは宙を見上げる。
「予が皇帝位についてから帝国の政治はだいぶ変わったと思うけど、あなただけは、それ以前から善政をしようと努力していた。なぜだろうってずっと考えていた。今それがわかったような気がする。……あなたが、人一倍愛の深い人だから」
 レンダイクが涙の流れる顔を上げた。クリオンが微笑む。
「そのためにいろんな相手とぶつかってしまうぐらいに。だからあなたは、他の貴族のように下民を蔑まなかった。万人を等しく幸せにしようとした。……でも人間って、そんな聖者みたいなこと、できないものだよね。心のどこかに必ず偏りができる……」
 クリオンは椅子から降りて、彼の前にしゃがんだ。
「スーミーは、あなたのただ一つの歪みだった。彼女の前でだけはあなたは利己的だった。――仕方ないんじゃないかな。それ以外の時は、帝国全体のために徹底的に自分を殺していたんだから」
「陛下……」
「だから、予が心配なのは、スーミーがいなくなった今でも、あなたが公正な人でいられるかどうかってことだ。……どう、それができる?」
 レンダイクは信じられないというように目を見張っていた。クリオンとソリュータの絆をよく知っている男だった。それを壊しかけた自分に対する、クリオンの言葉。
 レンダイクは顔を落とし、クリオンの靴の爪先に口づけした。そして震える声で言った。
「この命に賭けて」
「頼んだよ」
 クリオンは立ち上がり、出ていった。レンダイクはひれ伏したまま肩を震わせていた。

 部屋を出たクリオンを迎えたのは、湾刀を下げた青年剣士だった。クリオンの顔を見るが早いか床に這いつくばろうとする。
「すみません、陛下。おれが出遅れたばかりにソリュータ様が……」
「あれは誰にも止められなかったよ。いいから顔を上げて」
「いいんですか?」
「あの場にはデジエラもいたんだし。それに、ソリュータも治ったんだから」
 シェルカはようやく笑顔になって、やはり陛下はお優しいです、と言った。クリオンは内心でため息をつく。レンダイクに対してもそうだが、今回ばかりは優しさだけで許しているわけではない。いちいち責任をあげつらっていたら、何人処罰したらいいかわからないからだ。それでなくても大事な時だというのに。
 気を取り直してシェルカに尋ねる。
「みんなは? てっきり迎えに集まってくると思ったんだけど。あ、もしかして王都に残ってる?」
「いらしていますよ」
「じゃあどこに」
 そう聞かれると、シェルカはにやりと笑って言った。
「皆様方、大活躍です」
 ――陣中を見回ったクリオンは、それが掛け値なしの事実だと知った。
 大陸連合軍の大軍勢を動かすために、このクルビスクの野には征陣府が開かれていた。クリオンが来るまではシッキルギンのキルマ王が盟主となり、レンダイクとデジエラが文武の指揮を担っていたが、とうていそれだけでは人手が足りなかった。
 まず、留守の王都をイマロン理財司に任せてきたので、軍団の主計・輜重を取り仕切る人間がいなかった。その代わりを買って出たのが、豪商ジュゼッカ・デ・ビアースとエメラダの親娘だった。
 軍団は、二千万食以上に達する五十万人分の糧食を始めとして、武器、防具、軍服、靴、木材、石材、縄、布、薪など、膨大な軍需物資を消費する。その大半はすでに王都に集積され、また、目的地である北部平原諸州で調達する目処がつけられていたが、いざ出陣となると輸送が問題だった。食料だけでも馬車五万台分に及ぶ量である。運ぶのも数えるのも容易ではない。
 ビアースはそれを、オン川水源地における農民の雇用で解決した。季節柄、農民は作物の収穫を終え、ひまになっている。彼らを山にやって片っぱしから木を切らせ、いかだにしてオン川に流させた。王都でそれを止め、兵と物資を乗せる。さらに川下へ下ってクルビスク平原についたところで物資を下ろし、いかだはそのまま兵舎と築陣に用いる。――これが今まで行われなかったのは、水源地が荒廃するためと、木材の価格が暴落するためである。今はそんなことを言っている場合ではなかった。
 結果、王都も受け入れ地のクルビスクも、何千ものいかだでごった返すことになった。王都ではそれをビアースが仕切ったが、クルビスクでの主役はエメラダだった。彼女は南方のギニエの町でも似たようなことをやったが、この時はその比ではなかった。
 エメラダは本陣のど真ん中に高い櫓を立てさせた。そのてっぺんに陣取って、東西南北四千ヤードに及ぶ陣地を単眼鏡で見回し、櫓の下で待機する伝令たちにひっきりなしに指示を出した。
「今ついたいかだは西五番の外郭に回してね、それと三つ岩砂州に溜まってる縄の馬車も! 西五番は三刻前に兵舎が終わって逆茂木にかかったからちょうど間に合うわ! えーっとそれから、こらあ! ちょっとあんた、ハスダート伯の軍が歩き回ってるの、追っ払って! 港と石置き場の間を塞いでるのよ! あの紫の趣味の悪い旗立てた部隊よ!」
「あれ、わかってやってるの?」
 櫓の近くから見上げたクリオンが、冷や汗をかきつつシェルカに尋ねた。
「あの子、陣地なんか作ったことないのに」
「陣地作りは将軍が指揮しているんですよ。エメラダ様はそれがうまく進むように物を動かしているだけです」
「なんだかものすごく適当に見えるんだけど……征陣府の人たちが文句言わない?」
「言いません、喜んでます。彼らが貴族に命令を出すと、なんのかのとごねられますから。エメラダ様が頭ごなしに貴族を怒鳴りつけてくれるので、助かってるそうです」
「はあ、そうなの……」
「こういう馬鹿げて大きな普請を取り仕切るには、頭で計算する文官よりも、根性で計算するエメラダ様のほうがぴったりなんですよ」
 根性で計算するという評は誉め言葉としてどうかと思ったが、シェルカが実に嬉しそうにかつての主人を見上げているので、クリオンは黙っておいた。
 五十万の兵が投入される戦はまだ始まっていないが、兵士は着いたその日から食料を必要とする。夜ともなれば氷点下まで冷え込む場所と季節だから、暖かい食事が欠かせない。予想したとおり、その方面での主役はポレッカだった。
 敵が来ると予想される北面に最も近い、第一軍配食所。立ち並ぶ天幕の間の大きな倉庫のような建物に入ると、香辛料の匂いのする湯気がクリオンを包んだ。湯気を透かして奥を見ると、座棺のような大鍋がずらりと二十以上も並び、ぐつぐつと音を立てて煮えていた。日の出から一刻ほど過ぎた頃である。クリオンはシェルカを振り返る。
「お昼にしてはずいぶん早いね」
「夕食ですよ、これ」
「夕食!?」
「歩兵が増強されて、第一軍は二万名になったんです。朝から作らなければ間に合わないそうですよ」
「そんな手間のかかる作り方をしてたら、戦が始まったらメチャクチャになりそう……」
「始まったらそれこそ干し肉と堅パンだけでしょう。出せるうちは温かくておいしいご飯を、とポレッカ様が」
「……あの子らしいなあ」
 そのポレッカはどこかと探してみると、配食所の奥で、三十人もの男たちに囲まれていた。男たちは下町の肉屋のような前掛け姿だが、面白いことにポレッカだけは、立派な白い調理服を着て不釣合いなほど高いコック帽をかぶっていた。シェルカがささやく。
「あれは各部隊の司厨長です。兵士たちから指揮官よりも崇められてる連中ですからね、なめられたらいけないと言って、城の総料理長がポレッカ様にあの服を」
 確かに、帽子がなければポレッカの背丈は男たちの胸ほどまでしかない。――だが、そんなものはなくても差し支えないような迫力で、ポレッカは話していた。
「……今日は牛が五百頭送られてきましたけど、そのまま殺しちゃわないで下さい。私が見たら雄雌混ざっていたので、雌はできるだけ後回しにしてお乳をしぼるの。全員分は無理でも、もうすぐけが人が出たら、栄養をつけてあげられます。お鍋に入れて外へ出しておけば凍って長持ちすると思います」
「めんどくせえ」
 一人の男がぼそりと言ったが、ポレッカは構わず続ける。
「黒スグリのシロップもかなりたくさん来てました。これ、そのまま配ってもいいですけど、お皿を一つ増やして、雪にかけてシャーベットにするともっといいです。栄養は変わりませんけど、お食事って、デザートがつくと倍ぐらい楽しくなるでしょ」
 今度は別の男がポレッカの顔をのぞきこんだ。
「あのなあ……何度も言ったけど、ままごとじゃないんだよ。戦場でデザートをつけろだ? そんなお貴族様みたいなことを兵どもにしてやれるか」
「戦争だからまずくてもいい、量が多ければいいなんて考えは捨ててください!」
 ポレッカは真剣な顔で叱った。
「戦争だからこそ、食べ物ぐらいおいしくしてあげて。兵隊さんたちはそれが最後の一食になるかもしれないんだから。私たちは剣を持たなくていいけど、戦争が他人事だってわけじゃないでしょう? できるだけのことをするのが料理人の誇りじゃないですか! それが嫌ならあなたでもあなたでも、兵隊さんと一緒に前線に出ればいいんです!」
 指を突きつけられた数人がのけぞる。やがて男たちは肩をすくめて言った。
「ま、雪ならいくらでもあるしな」
「たまにはテルーニュの味を出してやるか……」
「あれ、おまえはヘルペンの旅籠の親父じゃなかったか?」
「うるさい、村じゃ五つ星だって言われてた」
 笑いがはじける。誰かがポレッカに、そこまで言う以上あんたの腕は確かなんだろうな、と言った。ポレッカは待ってましたとばかりに腕まくりして、調理台に向かった。
 口先だけの娘ではない。もうすぐ男たちは度肝を抜かれるだろう。クリオンとシェルカは笑いをこらえながらそこを離れた。
 ジングリット軍は、国家として戦をする際には、徴募した兵を皇帝の兵として動かす。だが、何十万もの兵を指揮できるだけの将校を日頃から備えているわけではない。実際には貴族が将校として兵を指揮する。これは問題のある構造で、いざ実戦となると貴族が皇帝に従わず、指揮系統が乱れることもままあった。初夏のシッキルギン戦でも起きたことである。
 大陸連合軍を実際に動かすにあたって、クリオンが最も心配していたのがそれだった。前帝時代に比べて衰えたとはいえ、まだまだ貴族の権勢は無視できるものではない。自領さえ守れればいいと考えて、途中で逃げ出すような貴族が現れたらどうするか……。
 ここでクリオンは、レザ・ストルディンの存在の大きさを知った。
 クリオンが歩いていると、わっと喚声が聞こえた。そちらへ向かうと、二種類の異なる服装をした兵士が大勢集まり、二人の男を囲んでいた。男たちはどちらも毛皮の裏地のついたマントをまとい、刺繍のある美々しい戦衣をまとっている。片方は剣を抜いていて、見ている前でもう一人も剣を抜いた。――さらに大きな喚声が上がる。
「なんだろう」
「陛下、こっちへ」
 シェルカが防寒のマントを広げて、中にクリオンを引き込んだ。周りの者から皇帝を隠したのだ。しかしその必要もないほど兵士たちは興奮していた。決闘だ、やっちまってください、と二人の男に声をかけている。
 シェルカが周囲をうかがいながら言った。
「貴族同士のけんかですね。こいつらはその領民だ」
「どこの誰かわかる?」
「すみません、おれはそういうのは……」
 シェルカは元は奴隷だった。知らなくても無理はない。ひとまずクリオンは様子を見ることにした。
 頭から赤い巻き布を垂らしたほうの男が、憎々しげに言う。
「ほう、やる気か。君が剣の名手だという話は寡聞にして聞かないが」
 あとから剣を抜いた、仰々しい銀糸の立て襟姿の男が答える。
「家名に泥を塗られたとあっては、抜かないわけにもいくまい。リムサファルの櫂は折れなかったぞ!」
「ははは、それを言うならガールの梃子のほうがふさわしかろう。君は三樽の油より重いかな?」
「うぬっ、侮辱もほどほどにしろ! ネレギンも八日目には伏せたではないか!」
 クリオンにはなんのことやらさっぱりわからなかったが、とにかく挑発の言葉を掛け合っているということだけはわかった。二人は目に見えて顔色を変え、いよいよ剣を握る腕に力をこめて、じりじりと近づき始めた。
 兵士たちが腕を振り回して応援している。シェルカがささやいた。
「止めましょうか」
「うん、頼む」
「では――」
 シェルカが飛び出そうとしたときだった。
「おやめなさい!」
 気品と気迫に満ちた声がかけられた。兵士たちが驚いて振り返る。彼らの間を通って現れたのは、レザだった。いつぞやクリオンとともに従軍した時のような、革の上着とズボンの乗馬服姿だ。
 レザは二人の貴族に近づくと、顔を見比べた。
「ノリアド男爵とレベル男爵……わたくしをご存知?」
「はっ、ストルディン公爵家の……」
「これは、レザ様」
陛下の・・・、レザです」
 短く訂正すると、レザは手に持った乗馬鞭を軽くしごきながら言った。
「ネレギンの話が出ていましたね。彼は決闘よりも自重を選んだ男ですよ」
「しかし彼は実際に罪を犯しましたよ。わたくしは冤罪をかけられたのですよ?」
 レベルと呼ばれた男が、もう一人のノリアドを指差して喚く。
「こともあろうに彼は、わたくしが彼の奥方と通じたと言っているのです! そんなふしだらなことをした覚えは神賭けてないのに!」
「白々しいことを。私はハミナからじかに聞いたのだ! この場に彼女がいれば一つに重ねて切り捨ててやるものを!」
「蛮行のきわみだ。いま一度奥方に尋ねてみるがいい、あの可憐なお方がそのようなことをおっしゃるなど、なにかの間違いだ!」
「それ、その言いようが証ではないか! きみは前から彼女に懸想していたのだろう!」
「おやめなさい! ……おやめなさい、そんな下らないいさかいは」
 再び口論を始めた二人に一喝すると、レザは冷たい眼差しでノリアドを見た。
「おかしいですわね、ノリアド男爵。あなたの奥様は、夏からご懐妊なさっていると聞いているのですけど」
「そ……それは」
 一瞬言葉に詰まってから、ノリアドはすぐに喚いた。
「いや、この話は去年のことなのです! 去年こういう不祥事が――」
「レベル男爵、あなたもです。あなたは友誼に篤い殿方として宮廷では有名だったはず。このような話がたとえ出ても、誰かの中傷だとして取り合わなければよいでしょう。なぜわざわざノリアド男爵の陣へ?」
「もちろん、誤解を解くために――」
「観客の前で騒ぎたかったから、でしょう」
 レザが冷然と言うと、一座に沈黙が落ちた。
 その静寂をとらえて、レザがするりと前に出た。乗馬鞭を伸ばし、ノリアド男爵の頭の巻き布をはじき飛ばす。あっと彼が頭を押さえても、遅かった。
 地に落ちた巻き布から、ビシャッと赤い液体が飛び散った。
 レザは身を翻して、レベル男爵の立て襟にも鞭を差し込んだ。引き抜かれたその先端には、小さな革の袋がぶらさがっていた。
「茶番劇、とはこのことですわね」
 青ざめる二人を、レザはにらみつける。
「ここで決闘をして、相討ちになってみせれば、領地へ帰る口実ができますものね。……おふた方、無二の親友なのでしょう。本当に逆上したら、口げんかなどせずに斬りつけるものです。そういう経験がなかったのですね」
 ノリアドがつぶやくように言った。
「どうか……お見逃しを。あなたのおっしゃったように、妻が懐妊しています。彼も領地に恋人がいるのです。それだけではありません、この者たちにも家族が……」
 そう言って周りの兵士たちを見回した。――彼らの顔にも、意外な成り行きに対する驚きと、領主への同情が表れていた。
 しかしレザは、その悲痛な雰囲気を粉砕した。
「皇帝陛下に思い人がいらっしゃらないとでも?」
 レザは胸に手を当て、誇り高く言った。
「わたくしがいます。他の娘たちもいます。それどころか、あの方は帝国の民すべてを愛していらっしゃいます。それでも、それだからこそ、自ら敵と刃を交えようとなさっているのです。……愛しているから逃げる? たわごとも休み休み言いなさい。帰還は許しません」
 二人の貴族は口を動かしたが、反論の言葉は出てこなかった。レザの言葉は反論しようのない正論であり、永い間彼らが従ってきた厳格な身分制に基づくものであり、それ以上に、レザ自身が戦場にまで来ている、という事実の重みを備えていた。
 だが、レザは不意に悲しげに目を落として、つぶやいた。
「気持ちはわかります。誰だって、このような戦いをしたくはないでしょう。……今のこと、将軍には伝えません。今までどおり忠勤にお励みなさい」
 そう言うと身を翻し、足早に去った。
 彼女を見送った貴族たちが、剣を収める。クリオンとシェルカも静かにその場を去った。

 レザの姿を見たのは偶然だったが、次の二人は必然だった。
 陣地の東側に広がる平地に出ると、雪煙を蹴立てて数千の歩兵が行進していた。縦列で進み、止まらずに真横を向いて横列に変化し、幅の広い壁となって槍を突き出す。――かと思うとその槍を捨てて素早く散開し、五百名ほどの集団に分かれ、集団ごとにめまぐるしく動き、いつの間にか最初の縦列に戻って、もと来たほうへ全速力で走る。
 歩兵部隊にとってもっとも基本的な、陣形操練をしているのだった。

 こんな大部隊を将校の叫びだけで動かせるものではない。通常、軍団の動きの節目節目はラッパと太鼓によって指示される。しかしジングリット軍には聖霊武器というものがあり、その部隊の指揮官が操る聖霊の叫びが、数百ヤード離れたクリオンにも聞こえた。
 ――退却後、三十秒で停止。……今! 全隊逆進、両翼展開! 八列目、もたもたするな!
 マイラ・ニッセンの声だった。シェルカが単眼鏡を差し出す。クリオンが覗くと隊列の中に二頭の騎馬がおり、一騎はどこかの貴族で、もう一騎がマイラのようだった。
「第一軍や第二軍と違って、徴募兵はほとんど軍事訓練を受けていません。将校の貴族も同様です。泥縄でもやらないよりましだと、マイラ様がおっしゃっていました」
「鳥使いのマイラが……他に人がいればいいのに」
「マイラ様も、冬に飛ぶのは冷えてつらいそうですよ」
 大陸屈指の天嶮、ガジェス山脈を越えたマイラがその程度のことで音を上げるわけがない。今回は歩兵が主力で、歩兵指揮官が不足している。その必要に応えたまでだろう。いや、彼女のことだから、前線の一兵卒にされても文句を言わず戦うに違いなかった。
 土塁に沿って歩いていくと、別の歩兵部隊に出会った。そこではレスリングが行われていた。雪の上に思い思いに散らばった兵士たちが、上半身裸の姿で組み合い、投げ飛ばし、受身を取っている。太い吠え声が交錯し、汗ばんだ肌から湯気が立ち昇る。
 その中央に、ハイミーナが目を閉じて立っていた。彼女も薄い肌着とズボンだけの姿だった。長い銀髪を布で頭に巻き込んでいるものの、薄い油を塗ったような腕はむき出しで、豊かな胸の膨らみも肌着の表に透けている。
 あでやかさの匂い立つような姿だったが、彼女を囲んだ兵士たちに興奮の表情はなかった。険しい顔で腰を落として身構えている。その数、七人。――ハイミーナも娘にしては大柄だが、兵士たちはそれよりも武骨な体つきだ。
 ハイミーナを中心に、星型の緊張の糸が張り巡らされているようだ。それがクリオンたちにも感じられる。
「参る!」
 兵士の一人が吠え、飛び出した。七人分の緊張が戦意に変わって膨れ上がった。
 その瞬間、調息していたハイミーナがかっと目を見開いた。
 大蛇が暴れたように見えた。前から右から左から突進した兵士を、ハイミーナの強靭な腕がすくい上げひねり倒し投げ飛ばした。力だけでも、技だけでもない。その見事な融合。筋肉の塊のような兵士たちの体が次々に雪上に転がる。その狭間から別の兵士が飛びついて、ハイミーナの片足を抱えこんだ。
 ぱん! と音を立てて、ハイミーナが残りの足で地を蹴った。長身が空中に優美な円を描く。一回転した勢いをそのまま乗せて、曲げた膝が直下に落ちた。そこに飛びついた兵士の背中があった。
 ずん! と衝撃が兵士を大地に縫い付ける。彼の周りにパッと王冠状の雪波が散った。
「ぐげっ!」
 兵士は胃液とともに叫びを吐き、気絶した。ハイミーナはその背中に片膝をついて、ふうっと息を吐いた。
 それから羽交い絞めのような形で兵士を抱き起こすと、軽く活を入れた。顔をのぞきこんで尋ねる。
「大丈夫か」
「う……ま、まいった」
「休んでいろ」
 彼女の周りに、七人が大の字になっている。ハイミーナは立ち上がって淡々と言う。
「次、八人こい」
 二人組をしていた兵士たちが、我こそはとばかりに群がってくる。どの顔にも、夏の日差しのような濁りのない闘志があった。ハイミーナの強く美しい姿は、男たちの攻撃衝動を最良の形に精錬しているようだった。
 邪魔をしないように、クリオンたちはそっと離れた。

 そろそろ昼に近い。溶け始めた雪を踏んで歩きながら、クリオンは尋ねる。
「他のみんなは?」
「フウ様はフェリドたちを呼んでくるために南方へ向かわれました。チェル姫殿下は本陣のどこかです。あちこち覗いたり、お使いをしたり……」
「まあ、あの二人に軍団の仕事を期待してもしょうがないよね」
 クリオンは苦笑する。
「キオラ殿下はシッキルギン軍の陣屋だと思います。キルマ王が少し神経痛だとかで、代わりにいろいろと」
「あの子も根はしっかりしてるから心配ないか」
 つぶやいたクリオンは、少し黙ってから、霞娜は? と言った。シェルカの返事を聞いてほっとする。
「まだ王都です。大明軍捕虜の処遇に関して、いろいろと」
 霞娜とはもう一度話をする必要があった。ソリュータを助けるために天舶を動かしてくれたが、それをもって和解の印と受け取っていいのかどうか、まだよくわからないからだ。あまり気乗りすることではなかったので、先延ばしになって安心した。
 全体として、クリオンの妃たちは驚くほどこの戦に貢献しているようだった。そんな協調を揺るがしてしまうかもしれないことを、いつ彼女たちに伝えるか、クリオンは少し迷った。
 ソリュータを正室にすることを。
 それは今までともかくも平等に扱ってきた妃たちの中で、一人だけを特別扱いすることだった。ソリュータがそうだったように、嫉妬を見せる娘も出てくるだろう。泣かれたり、恨まれたりするかもしれない。――それでもクリオンは、それを伝えなければいけないと知っていた。
 遠くから角笛の音が聞こえた。
 しばらくクリオンは気づかなかった。角笛が二度、三度と繰り返され、周りの様子が急にあわただしくなって、シェルカに言われてから気づいた。
「陛下、敵です。呼集がかかっています」
「敵? 予も出ないといけないかな」
 その時、クリオンの腰のズヴォルニクが小さく震え始めた。デジエラの声が伝わってくる。
「陛下、北方に敵が現れました。約八万、朝掃討した集団を追ってきたのだと思われます。軍議を開くので本陣にお戻りください」
「わかった! ――シェルカ、行くよ。デジエラが呼んでる」
 走り出すと、シェルカが言った。
「多少の敵軍なら、前衛だけで倒せます。まだ陛下はお出ましにならないでいいでしょう」
「そうか。……シェルカ、きみもだね」
「はい?」
 クリオンは振り向いて、シェルカの腕を軽く叩いた。
「ずいぶん勉強したんじゃないの。連隊指揮官ぐらいなら務まりそうだよ」
「おれは、陛下の護衛です」
 青年剣士は生真面目な顔で答えた。

 本陣に建てられた大きな板張りの陣屋が、征陣府と、大陸連合軍の中枢になっていた。その広間に、デジエラを始め主だった帝国軍将校と貴族たちが集まっていた。
 最敬礼で迎えられたクリオンが玉座に腰かけると、デジエラが口火を切った。
「疾空騎団の斥候によると、敵集団の数は十万近いようですが、第一軍を中核とする前衛で撃滅できる見込みです。この件に関しては彼らにお任せください」
「わかった。この軍議は全軍の方針についてのものだね」
「はい」
 デジエラはうなずくと、改めて全員に聞かせるように、大きな声で言った。
「我々の最終目的はグルド本体を倒すことだ。それに付随する目的として、本体を守る『遷ろう者ども』を討伐する。他の様々なこと――たとえば周辺領の治安維持だとか防衛だとかいったことは、この際切り捨てる。それを今一度肝に銘じろ」
 一同がうなずく。デジエラが続ける。
「戦略の常道として、攻めの戦ならば敵の拠点を潰しながら前進し、最終的に敵の本拠地を破壊する。また、守りの戦ならばこちらの本拠地の備えを固めたうえで、前方に防衛線を張って侵攻軍を徐々に弱らせ、力を蓄えるか援軍を呼ぶかして巻き返す。そしてどちらも敵との交渉をもって終戦とする。――が、今回そんな常手は通じん。敵は人間ではない。戦略も戦術も著しく異なる。そのこともしかと心得ておけ」
 一同はまたうなずくが、何を今さらといわんばかりの表情がわずかばかり表れている。かまわずデジエラはさらに言う。
「今回の戦について、諸卿の認識はこうだと思う。――敵勢はこちらの五十倍。しかし分布は帝国中で場所ごとに見れば薄い。北方からはやや大規模な集団と敵首領がやってくる。だがその方面にはプロセジア本市があり、敵を食い止められる。そこで地方の敵勢をあえて放置し、プロセジアと共闘して敵主力の壊滅を狙う」
 デジエラが言葉を切ると、一同が何度もうなずいた。それだからこそ、このクルビスクの地に拠点を築いたのだ。前線となるプロセジアに対して、十分な後方支援をするために。
 だが、デジエラはばっさりと言った。
「これは間違いだ。なぜなら、状況が変わったからだ。――プロセジア占星団本市が壊滅した」
 デジエラのかたわらで、シエンシアがうなずいた。彼女が伝えたのだろう。一座から息を呑む音が続けざまに上がった。
 ここでクリオンが言った。
「ちょっと。……貴族の皆は、プロセジアについてどれぐらい知ってるの?」
「北の要、と聞いておりました。兵力は少ないが強力な要塞を持っている、と。我々は彼らが敵を防いでいる間に態勢を整え、一挙に包囲するという作戦でした」
 年かさの貴族が答える。ほぼ合っている。クリオンはデジエラに目をやった。
「プロセジアに来た敵が思ったより多かったんだ。それを殲滅するためにプラグナが都市を自爆させた。……一度に百万を倒すためにはそれしかなかった」
 百万と聞いて貴族たちがさすがに目を見張った。残念なことです、と小さくつぶやいてから、デジエラが言った。
「それがどういうことか、おわかりですか」
「前進拠点なしで、この地がじかに敵と向かい合うことになった」
「それだけではありません。敵が激増した・・・・・・のです」
 デジエラはちらりとシエンシアに目をやってから、またクリオンを見る。
「プロセジアは一昼夜にして百万を倒しました。尋常ではない数です。グルドはこれに反応し、周辺に散らばっている眷族を大量に呼び寄せました。……これから一ヵ月にわたって、四百万以上が集まってくるそうです」
「それを狙ってやったんですけどね。それだけ来れば本体が来る可能性も高まるので……」
 シエンシアが言ったが、誰も感心させることはできなかった。皆はただ、その圧倒的な数に呆然となっていた。
 四百万? それが本当に敵の数なのか? 倒すべき相手としてその数を取り扱わなければならないのか? ――夢ならば覚めてくれ、というように何人かが首を振った。
 野太い声が上がった。禿頭の巨漢だった。
「王都はよいのですか」
 第二軍軍団長の、エイレイ・ガルモン将軍だった。彼の常として短い発言だったが、デジエラはその意味を汲み取った。
「そう、普通の敵軍なら、いかに手勢があっても五十万の軍隊に立ち向かって来はしない。軍を倒す前に、守りの薄い王都や地方都市を襲うほうが得策だ。……しかし、さっき言っただろう。奴らにそんな常識は通じない。ガルモン、奴らの戦略目標はなんだ?」
 ガルモンは答えなかった。このときに限ってはいつもの沈黙ではなく、答えに窮したらしかった。
 デジエラが静かに言った。
「すべての人間を取り込む――『矯惑』すること。そのうちには軍の五十万人も入っている。軍を倒す前も後もない。奴らにとって、我々自身が獲物だ」
 もはや質問をする者もいなくなった。示された事実はごく単純で、それだけに寒気を催すようなものだった。
 敵を壊滅させるか、自分たちが滅ぶか。――撤退も、降伏も、講和もできない。およそ人間との戦では考えられないことだった。
 すると、デジエラがふうっと軽いため息をついた。薄い笑顔で一座を見回す。
「さて、不吉な話はこれぐらいにしよう。あとは希望の持てる話だ、みな心配するな」
 まだ笑う者はいない。
「『遷ろう者ども』はまともな戦法を取ってこない。ただひたすら力押しでこの地へ押し寄せる。その途中でオン川沿いが若干やられるかもしれんが、基本的に策略を巡らせることはない。つまり、我々が後方の心配をする必要はない。これが一つ目の利点」
 事務的に、おそらく意図的に、デジエラは話を継ぐ。
「北方諸州の敵勢はほとんどこちらへ来る。それだけ領民の危険が減る。これが二つ目の利点。三つ目、敵は兵力を集中運用しない。四百万は、おそらく数万単位でばらばらにやってくる。四つ目、敵が強大なあまり、ジングリット国内の勢力と、帝国を囲む諸国がほとんど味方になっているので、人間の脅威がない。――これはかなりの利点だと思うが」
 ちらりとデジエラに目を向けられて、貴族たちが初めて苦笑した。
 そして、とデジエラが不敵な笑みを浮かべる。
「五つ目、最大の利点だ。……『遷ろう者ども』の戦闘能力はかなり低い」
「あれのどこが?」
 クリオンがおぞましげに顔をしかめる。何度も刃を交えたその相手は、彼にとって強靭な怪物だった。デジエラはこともなげに言う。
「個体戦力は常人の数倍でしょう。しかし、群れとして見た場合はどうですか」
「……奴らは指揮官がいないんだよね」
「我が軍の百名の部隊は、百人の個人ですか?」
 デジエラに見つめられて、クリオンは力のこもった視線を返した。
「違うよ。人間は強い」
「ええ。その通りです」
 デジエラは満足げに微笑むと、部屋の者たちを振り返った。
「そういうことだ。勝算はある。諸卿がしなければならないことは一つだけ。――勝つまで耐えることだ。難しくはないだろう?」
 一同は顔を見合わせ、やがて気の抜けたような笑い声を漏らした。実際には彼らは、数限りない苦難を乗り越えなければいけないだろう。しかしデジエラはそれをただの一言にまとめてしまった。彼らの笑いは、同意したためというよりも、そう考えるしかない、というあきらめの笑いだった。
 戸口に入ってきた分厚い毛皮姿の鳥使いが、白い息を吐いて報告した。
「第一軍および第六軍、敵をほぼ駆逐しました! 損害は二百前後!」
 彼の息が空中に消えぬうちに、別の伝令兵が現れ、同時に遠く角笛の音が起こった。
「北北西三リーグに敵集団出現、概数四万五千! 第五軍、出撃を開始しました!」
「ぼちぼち始まったな……」
 デジエラがそうつぶやき、クリオンを見た。クリオンはうなずいて立ち上がる。
「これから、大陸を守る戦争を始める。長い戦いになるだろうけど、皆がんばってほしい」
 さして気合のこもった口調ではなかった。貴族たちも静かに礼をして出ていく。
 必要なのは一時の盛り上がりではない。忍耐と覚悟。――それが、この戦で人々が持ち続けなければならないものだった。

 日暮れすぎ、忙しく働いていた娘たち全員にようやく報せが行き渡った。
 クリオンとソリュータの姿を見た妃たちは手放しで喜んだが、彼が意を決して告げると、しんと静まり返った。
「ソリュータをぼくの正室にする」
 ソリュータの病室である。横になった彼女の手を取って、クリオンはそう言った。
 最初に反応したのは、レザだった。そうですか、とひとこと言っただけで部屋を出ていった。その次はハイミーナだった。彼女はクリオンに近づいて、悲しげなまなざしを向けた。
「クリオン……いや、陛下。それは、私たちを追い払うということか」
「きみたちのことは以前と変わりなく好きだよ。でも、ソリュータが望むことを優先したいんだ」
「ソリュータが追い払えと言ったのか」
「言うわけないじゃない。ソリュータもみんなのことを好きだよ。好きだけどぼくのことを独り占めしたくて、すごく悩んだ。ぼくは、この子だけはそんな風に悩ませたくない」
「私たちが悩んでもいいというのか!」
「よくない。……でも、全員を満足させることができないなら、ぼくはソリュータを選ぶ」
 クリオンは、ハイミーナと他の娘たちの視線に懸命に耐えて、見つめ返した。
 ハイミーナが大きく目を見開いてクリオンをにらむ。怒られても仕方ない、とクリオンは覚悟する。
 するとハイミーナは不意に床にへたり込み、クリオンの膝に手を置いて訴えた。
「私は……私はクリオンがいてくれないとだめだ。どんな形でもいいから、そばに置いてほしい……」
 その手に自分の手を添えることはせず、クリオンは視線を上げた。順番に見ていくと、むっつりと黙っていたエメラダが口を開いた。
「一応、最初に言っておくわ。あたしとしては、それでも構わない。ソリュータが一番なのは前からわかってたし、陛下がこれから先あたしたちを邪険にしないのもわかってるし。……ただね、この際だからこれも言っておく。あたしにだって独占欲ってものはあるんだからね」
 クリオンに近づくと、エメラダは人差し指で彼の額を小突いた。
「これ、大きな貸しにするからね。この先あたし、とんでもないわがままを言うかもしれないわよ?」
「あの、シロン……じゃなかった、陛下」
 彼女の隣にポレッカが進み出て、遠慮がちに言った。
「陛下の気持ちを聞きたいんだけど……陛下はこの先も、私たちをそばに置いておきたいの?」
 真摯に見つめられて、クリオンは言葉に詰まる。この質問への一番誠意のある答えは、こうだろう。――ソリュータのために、きみたちみんなと別れる。
 皇帝としての地位からいえば、そう答えなくても差し支えない。とにかく全員残しておく、と言い渡すこともできる。しかしこの時、クリオンは皇帝として話しているのではなかった。全員を納得させようとしているのである。それははなはだ無理のある目的だった。
「ぼくは……」
 クリオンは、自分に背かず、娘たちを裏切りもしない答えを必死に探した。
「……まだみんなと別れたくない。おこがましい言いようだけど、みんなはぼくのことを好いてくれてると思うから……」
「もしソリュータさんがいなかったら、私が代わりに一番になれた?」
 恐ろしく真剣な顔でポレッカは言った。ハイミーナとエメラダが、ぎょっとしたように彼女を見た。壁際のマイラも驚いていたが、隣のシエンシアは薄く笑った。
 ポレッカは周りの視線を浴びて細かく肩を震わせている。事実上、他の全員に勝負を挑んだに等しいひとことだった。このおとなしい娘がそんなことを考えているとは誰も思っていなかった。中でも一番動揺したのが、ソリュータだった。
 彼女は不安げにクリオンに目をやって、ささやいた。
「クリオンさま……」
「ごめん、ポレッカ」
 クリオンがはっきり首を振ったので、ソリュータが口を閉ざした。
「それは、なれない。……ソリュータは特別なんだ。この子がいなくても、きみたちの中から代わりの一番を選ぶことはできないよ」
「そう」
 ポレッカはすっと身を引くと、顔を押さえて小走りに出ていった。エメラダがため息をつく。
「あの子が一番かわいそうだわ。純なんだもの」
「その対極、という位置に私はいなければいけないんでしょうが……」
 代わって口を開いたのはマイラだった。クリオンの反対側へベッドを回り、ソリュータの片手に触れる。
「率直に言って、心が乱れます。……こんな私でも、少しぐらいは夢を抱きましたからね」
「一番になる夢?」
 エメラダに意地の悪い口調で訊かれて、マイラは苦笑した。
「不似合いでしょうね。でも――私も女です」
 それを訊くとエメラダは意外にも首を振った。
「……笑いやしないわ」
「しかし私は軍人です。陛下のお好きになさいませ。――どう扱われようと、自分の心は自分で律してみせます」
「マイラさん……」
 ソリュータが握った手を、マイラは少したってからぎゅっと握り返した。
 壁際から、シエンシアのからかうような声がかけられた。
「小さな王子と小さな姫さま、お二人のことは知らんぷり?」
 皆に視線を向けられて、チェル姫とキオラがきょとんとした顔になった。――異国の姫は周りの大人たちを見上げる。
「チェル、追っ払われちゃうの?」
「陛下はね、チェル姫よりもソリュータのほうが好きだって」
 エメラダが言うと、姫はますます首をかしげた。
「それは知ってるわ。でもお嫁さんじゃないでしょう。チェルがいてもいいでしょ?」
「お嫁さんにするって言ってるのよ」
「結婚式をするの?」
 この無邪気な問いは、皆の意表を突いた。当人はいたって真剣な顔で、結婚式はチェルとしてほしいわ、と言った。
 キオラが笑って姫の肩を引いた。
「チェル姫、結婚式はボクとしない?」
「あ、それでもいいわ。それなら陛下の結婚式はソリュータにあげる」
 この子、大人になっても一番ちゃっかりしてそうだわ、とエメラダが眉間を押さえた。するとキオラが彼女の横に割り込んで、後ろからクリオンに抱きついた。
「お兄さま。ボクには一言もなしですか?」
「え、ええと……」
「ちょっと待って、なんでキオラ殿下が……」
 エメラダが引きはがそうとすると、キオラは振り向いて舌を出した。
「ボクだってお兄さまに抱いてもらいましたもん」
 さすがにこの一言は一座を凍りつかせた。――が、もう一人の声でさらに複雑な空気が流れた。
「私も。――一度だけですが」
 手を上げたシエンシアを、エメラダやハイミーナが唖然として見つめた。
 クリオンの腕がぐいと引っ張られた。ソリュータが眉を吊り上げていた。
「クリオンさま……ちょっとここではっきりさせておいたほうがいいと思うんですけど」
「え、うん」
「今まで、誰と誰にお手をつけられたんですか? はっきり答えてください!」
「みんなが知ってる分と……あと、霞娜とレグノン卿……」
「お兄さまと!?」
「学院に入った時いっぺんだけね、ぼくがされたほう……」
 クリオンは真っ赤になってうつむく。ソリュータを始め、みな目を丸くしている。
 ややあって、キオラがその妙な雰囲気を変えた。
「線は引けると思うんですよね。お妃と、そうじゃない人で。ボクと霞娜さんとソリュータさんのお兄さんはそうじゃないほうでしょ」
「殿下それでいいの?」
 エメラダに顔を覗きこまれて、キオラはあっけらかんと笑った。
「だってボク、赤ちゃん産めませんもん。お兄さまをひとり占めしたいとも思わないし。――あ、でも、お兄さまがボクをひとり占めしてくれるのは嬉しいかも……」
「真面目に話す気がないなら黙っててよ」
 一人で頬を押さえているキオラを脇へ押しのけると、エメラダはシエンシアをにらんだ。
「あなたはどうなの。いえ、なんで今まで黙ってたのよ。一人だけ他人みたいな顔するのやめなさいよ!」
「ことをややこしくしたくなかったので。――どうぞ無視してください。私は特に意見はありません」
 澄まして言ったシエンシアに、ハイミーナの問いが投げつけられた。
「おまえはクリオンに愛されたいと思わないのか?」
「それは……」
 シエンシアは顔を上げ、ほんの一瞬、感情のこもった視線を他の娘たちに向けた。
 だが、すぐに無感動な微笑に戻って首を振った。
「思いません。私は陛下と帝国を外から見守る者です」
 エメラダが口を閉ざし、他の娘もなんとなくシエンシアから顔を逸らした。彼女が少しだけ見せた表情は、淡い羨望のそれだった。誰であれ、クリオンに惹かれないでいられるわけがない。しかし彼女は、マイラ以上に強い自制の念でそれを抑えこんでみせたのだ。そうであれば、他人が口を挟む筋合いではなかった。
「クリオンさまも、もうちょっと自制してくださいな……」
 ため息をつくソリュータに、ハイミーナが険しい眼差しを向ける。
「自制していたら、私はクリオンと結ばれなかった。そのほうがよかったというのか」
 ソリュータはハイミーナを見、他のマイラやエメラダたちにも目をやってから、うつむいた。
「私からは何も言えません。謝ることも。……みんなには悪いと思いますけど、私に謝罪なんかされても、みんな嬉しくないでしょう。私はただ、クリオンさまに感謝するだけです」
「……うー、あんたはもう、ほんとに……」
 エメラダがベッドにかがみこみ、ソリュータの頬を両手で思い切りつねった。
「ほんのちょっとでも勝ち誇ってくれれば、いつか刺してやるって恨んだりできるのに……あああ、腹立つっ! あんたが憎めないいい子で、陛下の正室にふさわしくって、あたしたちを嫌っていないっていうのが、あんたの最大の欠点よ! ね、そう思うでしょうハイミーナ!」
 いきなり振り向かれて、ハイミーナが戸惑いながらうなずいた。
「あ、ああ。ソリュータが相手では……恨むと私が悪者になる……」
「そこんとこよく覚えておきなさいよ! あんたが少しでも陛下にふさわしくないことをしたら、みんなでよってたかって袋叩きにするからね!」
 ちらりとハイミーナを見てから、ソリュータは頬をつねられたまま、ふぇえ、と困ったようにうなずいた。
 クリオンは、マイラとシエンシアの間で交わされた苦笑のような表情に気づく。二人はそうしてからハイミーナに優しい視線を向けている。おぼろげにその意味がわかる。――今見ていたところでは、ポレッカとともにハイミーナが一番思いつめていた。その尖った想いをエメラダがいなしてしまったからだろう。
 クリオンは軽くため息をついて、皆に言った。
「ぼくはひとまず、きみたちをこの陣に置いておく。その間は好きなように行動していて。どうしても出ていきたくなったらぼくのところへ来て。……そうならなければいいと思ってる」
 そして、部屋を出ていこうとした。
 するとチェル姫が彼の袖を引いた。
「陛下、レザさまに会ってきてほしいの」
「レザに?」
 クリオンが振り返ると、キオラがチェル姫を後ろから引いて首を振った。
「姫、それはやめたほうがいいと思うよ」
「どうして?」
「あの人は、自分でなんとかしたがる人だからね」
 んー? と姫は首をひねる。クリオンもあまり意味がわからなかったが、キオラはただ穏やかに微笑んでいるだけだった。
 
 手すりにもたれてアクアヴィットのグラスに口をつけていると、梯子に足音がして、水色の髪の娘が登ってきた。
 レザの隣に来ると、ポレッカは外套の襟をかき合わせて、ぶるるっと体を震わせた。
「思った以上に寒い。……レザさん、何もここでなくても」
「ここがいいのです」
 レザはそっけなく言った。――エメラダの物見櫓の頂上だった。
 大貴族の令嬢と下町の娘は、しばらく黙って眼下の光景を見下ろした。広大な陣中に無数のかがり火があかあかと焚かれ、兵の野営地には焚き火が、武器庫の前では鍛冶の火床が、色の異なる火の粉を立ち昇らせていた。
 レザは毛皮のショールに頬を埋めている。その端正な横顔をちらりと見て、ポレッカがつぶやいた。
「負けちゃいました。陛下はソリュータさん以外、正室にする気はないって」
「でしょうね」
「ま、私なんかじゃ勝負になりませんよね。身分も低いし顔も地味だし……」
「おやめなさい」
 不機嫌そうにレザが言ったので、ポレッカは口をつぐんだ。――それからもまた沈黙が続いたので、ポレッカは立ち去ろうとした。
「じゃ、私これで――」
「なぜ来たの」
 ポレッカは振り向き、ためらいがちに言った。
「自信、もらえるかなと思って……」
「自信」
「はい。レザさん、いつもしゃんとしてて格好いいですから。見習いたくて……」
 言いながら情けなくなるような理由だった。貴族のあなたにはかないません、とわざわざ敗北宣言をしに来たようなものだ。
 ポレッカは梯子を降りようとした。カシャン、とグラスの落ちる音がした。
 ふわりと毛皮が体を包み、後ろからきつく抱きしめられた。ポレッカは硬直する。
「レ、レザさん?」
「あなた、わたくしと同じ……」
「同じ!?」
 コートの中で振り向いたポレッカは息を呑む。白磁のように滑らかなレザの頬に、一筋の涙が流れていた。
「あなたもわたくしも、身分を気にしている。陛下は、クリオン陛下ただお一人が、そんなことをお気になさらない……そんなあの方だから恋したのでしょう?」
 濡れたまつげが上がり、切れ長の瞳がポレッカを見る。凄艶な美しさにあてられて、ポレッカは息もできずにうなずく。
 レザは悲しげに微笑む。
「そして同じようにふられた。貴族だの令嬢だのって、何の意味もなかったわ。山吹の花みたいなもの。……ポレッカ、わたくしは格好よくなどないのよ」
「レザさん……」
 ポレッカは体を回し、おずおずとレザの体に腕を回した。きゅっと抱きしめる。
「あなたも、つらかったんですね」
「泣きたかったわ。言いたかった。わたくしをお選びくださいと。……言わずにいたわたくしが悪いんでしょうね。でも、あなたはそれを言ってくれたのね」
「……はい」
「あなたは強いわ。わたくしよりもずっと……」
 ポレッカの肩に涙と嗚咽がしみこんだ。肌に突き刺さるような寒気も、レザの体の温かみで追い払われていくようだった。いつしかポレッカもレザの群青の髪に顔を埋め、あふれる涙をこらえていた。
 やがて、レザがぽつりとつぶやいた。
「お願いがあります。……しばらくあなたに甘えさせて」
「私に……?」
「まだあきらめられない。ソリュータに嫉妬を向けてしまう……それが嫌です。心を立て直せるまで、わたくしを支えて」
「……私も甘えていいですか?」 
 レザは顔を上げ、歪んだ顔にかすかな笑みを浮かべた。
「好きなだけ。――部屋においでなさいな。お酒、一人で飲むには多いの」
「お邪魔します」
 涙をぬぐって、ポレッカも微笑んだ。
 二人は寄り添って梯子を降りていった。

 6

 翌日からクルビスクの陣は「クルビスク城」になった。陣の性格が、後方の兵站拠点から前線の戦闘拠点に変わった以上、相応の呼び名が求められたのだ。
 名の変更の後を追うようにして、実情の改変も急いで進められた。クルビスクの陣はただの大規模な駐屯地でしかなかった。そこを城にするには本格的な軍事工事が不可欠だった。陣の外郭には逆茂木と土塁に加えて版築で強化した土壁が作られ、石組みで補強され、何十もの櫓が建てられた。さらに周辺の平野には小規模な砦が次々に築かれ、砦と砦の間が堀と柵でつながれた。
 これらの工事は、ガルモンに指揮された。王都防衛軍である第二軍の軍団長である彼は、フィルバルトの城壁の管理と強化にも携わっていた。こういった防御工事はまさに彼の十八番だった。
 その間、無数の敵が屠られた。
 敵は北から来、また東からも西からも来た。多くは一万内外の小集団で、時に五万、三日に一度は十万もの大群が来た。当初、連合軍は敵が来るたびに騎兵と歩兵を出し、野戦で蹴散らしてできるだけ陣に近づけないようにしていた。しかしそれには無理があるということがじきに判明した。敵は陣形も組まず武装も持たず、確かに弱体で、こちらの三倍の数がいても勝つことができたが、それも一戦に限ればの話だった。
 出撃し、会戦し、帰還しても、すぐに別の敵集団が現れた。人間の軍は武装の補充や休憩が必要であり、同じ部隊が連戦するのは二度が限度だった。それに眠らなければならず、防御工事にも人員が必要だった。――連合軍の兵力の五十万という数字に、いかに多くの条件がついていたことか。二十四時間に均した場合の常時稼動戦力・・・・・・は、実に十万そこそこでしかなかったのである。
 同じ人間相手なら、こんな計算方法は必要とされない。しかしこの敵はそれを要求した。
 そういった事情で「出ていって倒す」やり方は急速に困難になった。
 それに代わるのは「待ち受けて倒す」ことで、出城や砦などよりさらに外側に、長大な柵と逆茂木が張り巡らされた。聖霊指揮官と弓矢を持った歩兵がその内側に並び、騎兵に代わって主力を担った。『遷ろう者ども』は盾を持ったり射界を避けたりしないので、これで当分は凌げると考えられた。
 だが、その予想も甘かった。――弓矢で敵を倒し続けていると、じきに積み重なった敵の死体が壁になり、それ以上向こうが攻撃できなくなってしまうのだ。敵はその壁を際限なく登ってきてはその上で死ぬため、「敵の死体の山崩れで防御線が潰される」という異様な現象が数度続き、一度はクルビスク城東方一リーグ半の地点を敵に突破された。それで第七軍の貴族六名と将兵五千五百名が『遷ろう者ども』に矯惑された。
 戦場のど真ん中で正気をなくして放心する彼らを救う手立てはなく、後詰めの第十一軍と本陣の臼砲隊が、敵ごと掃射して葬った。
 以後しばらくは、戦闘と戦闘の合間に死体の排除が行われた。それは兵士たちにとって、徒労感の募る作業だった。死体も数万体ともなれば、それを動かすのは土木工事と変わらない。捨て場所であるオン川も前線からは遠い。さらに、一度排除しても翌日になればまた山のような死体ができる――。
 しかしほどなく、兵士たちはこの問題を逆手に取る方法を思いついた。「敵の死体で塀を築く」のである。
 異様といえば異様極まりない、しかし有効な手段だった。敵が来れば来るほどこちらの塀は高く厚くなる。兵士たちは一戦が終わると、まだ死んでいない敵にとどめを刺すために戦場へ出て、放った矢を回収し、死体を引きずって積み上げた。
 この手段を延長すれば、資材を必要とせずに防御圏を広げられる。一度はそのような考えが実行に移された。餌を求めて体を伸ばす軟体動物のように、死体の防衛線の影から攻撃して、次の死体の防衛線を造るのである。
 しかしそれもやがて、二つの理由によって中止された。
 一つは防衛線の延びすぎである。連合軍の陣地は最大時で東西に各二リーグ、北に四千ヤードまで膨張し(南はオン川である)、外郭の延長は一万六千ヤードに達したが、その長さに対して兵力が足りなくなったのだ。薄い防御線を張って突破されるぐらいなら、拡大を手控えて手厚く守ったほうがいい。
 もう一つの理由は、兵士たちの不安だった。――「死体壁」を検分しに前線に出たクリオンは、胸の悪くなるような気分に襲われた。そこからは本陣の頼もしい光景は見えず、前も後ろも見上げんばかりの死体に囲まれていた。死体はすべて人の姿をしていた。それもたいていは若い女、美しい娘だ。乱れた髪の下で無数のうつろな目が、うらみの形相も凄まじくこちらを見つめていた。
 それが、こちらを惑わせるための『遷ろう者ども』の手口だとわかっていても、罪悪感と不気味さが失せるものではなかった。兵士たちは憔悴して死体から目を背けていた。
 クリオンがじきじきに命じて、死体壁の建造は最低限にさせた。
 クリオンが合流してから十日目の時点で、およそ八十万体を倒したと見積もられた。それですら来るはずの敵の五分の一だった。昼夜を問わず迫る敵はいよいよ増え、ありとあらゆる迎撃手段がとられた。火攻め、水攻めは言うに及ばず、落とし穴が掘られ、投石器が氷塊を投げ、針金が張り巡らされ、側面に刃の生えた戦車が投入された。騎兵は砦から砦、郭から郭へと走り回り、歩兵は凍りついた土の上で眠り、聖霊指揮官はその武器の重さを支えられなくなるまで腕を振るった。
 ただし、完全な城壁を築いて敵を遠ざけることだけはなされなかった。――敵に攻略をあきらめさせてはいけないのである。あくまでも、この地で、彼らが、敵を貪欲に呑み尽くさねばならなかった。
 さもなければ、逆に呑み込まれるか。
 五星暦一二九〇年十二月二十日、クルビスク城は後背のオン川から六万を越える『遷ろう者ども』の奇襲を受けた。いや、それすらも彼らにしてみれば奇襲ではなく、たまたま選んだ道がそこだっただけなのだろう。しかし軍の指揮官たちは、奇襲がないという先入観を持ったために、敵が川底を歩けるという事実をも忘れてしまっていた。
 兵士とともに多くの文官が矯惑され、本陣は大混乱に陥った。その場に大勢いた高級指揮官の聖霊攻撃でとにもかくにも撃破はされたが、同時に陣屋の半数が焼け崩れた。兵士たちがひそかに心の支えにしつつあった「エメラダ王妃の物見櫓」も倒れた。そして一つの事実が全軍に重くのしかかった。
 この戦闘で、大陸連合軍は五万人目の死者を出した。
 一戦一戦での死者は数百人にも達しなかったが、それが積もり積もって、全軍の一割に達するこの恐ろしい数字となったのだ。対して敵の累積撃破数は百万強。このままの割合で死者が出続ければ、敵をすべて倒す頃には二十万名もの膨大な兵士が土に還ることになる。しかも、それは甘い予測だ。日に日に消耗する軍が勝ち続けられるわけがない……。
 この日から、連合軍の士気は急落の一途をたどった。逃亡する兵士が続々と出始めた。発狂者、それに佯狂者も現れた。第一軍指揮官ネムネーダが報告した前線の有様は、クリオンやデジエラたちを暗然とさせた。
 死体壁に近い天幕からは夜ごと泣き声が漏れ、脱走者を見つけるために監視の兵を巡回させなければいけない。逆に怒りと反発の雰囲気も高まり、けんかも増えている。一度は信じられないほどおぞましい行為を見かけた。――苛立ちのはけ口を求めて、女の姿をした『遷ろう者ども』を屍姦する者がいたというのだ。
 その者は即座に斬られたが、一人に限った話ではないのは明らかだった。
 十二月二十四日未明、第十六軍のレベル男爵が領民二千四百名を連れて逃亡した。夜が明けてからそれを知ったデジエラは、部隊に連れ戻すよう命じたが、すでに遅かった。――疾空騎団の斥候は、クルビスクから東南へ四リーグ離れた雪原で、裸になって女たちと交わっている彼らを発見した。うち半数はすでに凍死していた。残る者も救出不能だった。そこには、これまでで最大の『遷ろう者ども』の群れがいたのだ。
 報せを聞いたクリオンは、シェルカを呼んだ。部屋に入ってきた彼に尋ねる。
「きみは馬に乗れたね」
「もちろんです。シッキルギンでお供したでしょう」
「そうだったね。フォーニーと一緒に予を守ってくれたね」
「はい。あの方が亡くなったのは残念です」
 肩を落としたシェルカを、クリオンは細長い櫃の前に招いた。開けさせる。
 使い込まれた一本の馬上槍が現れた。鋼鉄の穂先は無数の細かい傷で白く曇り、長柄にはたくましい指のあとが黒々と残っている。――馬の突進力で敵を貫く騎槍は、本来、使い捨てに近い武器だ。それがここまで使い込まれているのだから、何か尋常でない武器なのは明らかだった。
 驚いてそれを覗き込んだシェルカが、はっと呼吸を止めた。長柄の尻に、黒い封球を見つけたのだ。
「これはまさか……」
「『サガルマータ』。――フォーニーの遺品だよ。きみは聖霊武器をほしがっていたね」
「無理です!」
 クリオンの意図を悟って、シェルカは強く言った。
「おれのような人間にこれは使えません。軍団長の足元にも及ばない男ですよ。それに第一、おれは騎槍を使ったことが……」
「十八万体の大集団が来たんだ」
 シェルカは口を閉ざす。クリオンは沈んだ目付きで彼を見上げた。
「一人でも多く騎士がほしい。きみほどの使い手を遊ばせておく余裕なんかないんだよ」
「し、しかし、聖霊は使い手の血と力にしか従いません! 奴隷だったおれに従うわけがない!」
「ズヴォルニク、頼む」
 つぶやいてレイピアを抜くと、クリオンは騎槍の柄に当てた。
「我、ジングリット皇帝クリオン。聖御の技もてくくりし炎嶽の精『サガルマータ』に、ジングリットの主として命じる。汝が新たな主を認めよ。……いざや、聞かん?」
 ぶうん、と甲虫の羽音のような音を立てて、封球が橙色に輝いた。クリオンはシェルカを振り向く。
「さあ、持って」
「……今の呪文で、おれを認めるようになったんですか?」
「フォーニーの聖霊じゃなくなったはずだよ。……力がない人間は、新たな主と認めないだろうけどね」
「おれに力がなかったら?」
「あるよ。予が保証する」
 クリオンの瞳にかすかなおびえがある。シェルカはそれに気づく。――火山の怒りを秘めた聖霊だ。拒む時にも恐るべき力をふるうだろう。しかしそんなことを気にしていられる状況ではないのだ。
 シェルカは腹をくくった。深呼吸して騎槍に手を伸ばす。
 握ると、ブン! と震えた。ただの震動ではない。骨から筋肉をひきはがすような激しい震えが、たちまち体中に広がった。歯ががちがちと鳴り、頭髪が逆立つ。正体のわからない薬を飲まされたような恐れが湧き、シェルカは悲鳴を上げる。
「へ、陛下!」
「抑え込め! 『サガルマータ』には力しか通じない!」
 めったにないクリオンの怒鳴り声だった。それが逆にシェルカを奮い立たせた。これほどの信頼に応えずして、何が戦士か。奴隷の身に蓄えてきた気迫はこのためにあったのではないか。
「く……ぬぁっ!」
 シェルカは両腕に渾身の力をこめた。それが、槍を櫃から持ち上げる行為になった。――恐ろしく根の張った潅木を引き抜くような手ごたえとともに、腕の中に凶暴にあらぶる何者かが飛び込んできた。
 気がつくと、騎槍は静かに沈黙していた。ただ、ずっしりとしたこの上なく頼もしい重みだけが残っていた。シェルカは肩で息をして、呆然とそれを見つめる。
 クリオンが小さく息を吐いて額の汗を拭った。
「おめでとう。……彼はきみのものになった」
「これが、おれの……」
 シェルカは騎槍を高く掲げ、注意深く振ってみる。そこらの壁ぐらいなら軽く突いただけで打ち破れそうな重さだ。向きを変えるのも容易ではない。
 だが、振り回すうちに三ヤード近い全長の後ろ三分の一辺りに重心があるのがわかった。そこに力を入れれば嘘のように軽く取り回せるとわかった。
 いや、槍がそう教えてくれたのだ。
 ――使いこなせ。そして貫け。
 そんな聖霊の声を、シェルカは確かに感じた。
 クリオンがわずかに笑って言う。
「ロンの部下を五百騎、預ける。慣れなくて大変だろうけど……頑張って」
「お任せください!」
 シェルカは力強くうなずいた。

 透明に晴れた冬空に音を立てて矢が駆け昇った。その数、四万本。
 いなごの大群のように天の一角を覆った矢が、やがて破壊的な豪雨となって降りそそいだ。ザアッ! と凄まじい命中の音が、丘を隔てて六百ヤード前方から聞こえてくる。続けて二射、合計十二万本が放たれた。
「射ち方やめ、歩兵退避!」
 デジエラの命令とともに、二千人・二十列の横隊を組んでいた四万の歩兵が、一斉に後退し始める。騎兵の接敵前に長弓で初撃を与えること、それが彼らの任だった。このあとは全速力で防衛線に戻って、定位迎撃に移る。
 クルビスクにあるすべて弓を根こそぎ駆り出し、矢も手持ちの半分をつぎこんだ攻撃だった。出し惜しみできる敵ではない。上空を旋回する数十頭のエピオルニスのうち、長い旗旒を曳いた観測兵が光信号をよこした。
 ――有効射、二割強。残、十六万。
 それを見取った部下から報告を受けて、デジエラは口元を皮肉にゆがめた。
「二万削って、なお十六万。馬鹿げたいくさだな。――第一軍、第三軍、第八軍、第十軍! 手はず通りだ、縦隊突撃!」
 南北二千五百ヤードに広がって整列していた騎兵団が、一斉に東へ走り始めた。総勢三万二千、これもクルビスクの騎兵のほぼ全員である。この戦では歩兵のほうが圧倒的に多い。
 四本の大河のような軍団が、走りながらさらに小さな楔形に分かれていく。大隊五百騎ずつ、六十以上の細い針。その先頭は聖霊指揮官だ。デジエラは第八軍先頭、クリオンも第十軍の先頭にいた。最高指揮官たちが最先陣を占めるという、異例の、そして無比の打撃力を発揮する構成である。
 第一軍の先頭は軍団長ロン・ネムネーダ。その左右に数大隊を挟んでドーズ、エトナらの連隊長格の武将が並ぶ。シェルカは最左翼に位置した。『サガルマータ』を鞍にくくり、新たに与えられた板鎧とマントを身につけている。
 頬にはりつく兜の冷たさに震えながら、シェルカは右手を見る。――なんという偉容! はるか向こうまでずらりと並んで雪を蹴散らす騎兵団は、鋼鉄の津波のようだ。地上のあらゆるものを呑み砕かずにはおかないだろう。その一翼を担える幸運に感謝する。
 だが、丘の頂上まで登りつめた時に見えた光景にも、息を呑んだ。
 行く手の雪原を埋め尽くす肉色の絨毯。少し先に矢で射抜かれた死体が散在しているが、それを引いてなお呆れるほどの数が残っている。こちらが津波とすれば、向こうは茫漠たる海だった。差し渡し一リーグを越えているのではないか。
 思わず、手綱を引いて馬を止めそうになる。その途端にデジエラの叫びが飛んできた。
「距離五十で放つ。各聖霊指揮官、私の初撃に合わせろ! 二撃目は走りながらだ、敵後方まで抜けるぞ!」
 強力なロウバーヌの声に続いて、指揮官たちがそれぞれの部下に命じるための聖霊の声が一斉に交錯した。シェルカのところにも、最も近いドーズからの声がやってきた。
「シェルカ殿、いけるか?」
「もちろん。――大隊各騎士! フォーニー殿に代わって、このシェルカが『サガルマータ』を繰る! 焼け跡に突っこまないように気をつけろ!」
「気楽におやりなさい、取りこぼしは我々がやります」
 答えたのがどの部下なのかシェルカにはわからない。だが、かすかに見下した調子があるのは感じた。彼ら騎士は皆、名門の出だ。奴隷上がりの指揮官に対しては複雑な感情があるのだろう。
 シェルカは頭を振ってこだわりを抑えつけた。説教して収まるような感情ではない。
 雪崩のように丘を駆け下りると、一挙に距離が縮まった。腕を振りかざして駆け寄る怪物たちの姿が見える。美しい、しかしおぞましい女たちの姿が。
 視界の端に、うねりながら突進する火炎の竜が見えた。デジエラが放ったのだ。続いて放たれる数々の聖霊を見て、シェルカも唇を噛み破り、篭手に唾をつけて槍を取り上げた。
「我、皇帝陛下の信を受けし戦士、シェルカ。聖御の技もてくくりし炎嶽の精に、我が血と力において命じる。刹那の目覚めを許すに付き、今再び荒れ狂え、火弾を投げ灼き崩せ。いざや、聞かん?」
『――諾!』
 ドッ! と衝撃がはじけ、槍を抱えた体ごと鞍上から跳ね飛ばされそうになる。こらえて前方を見たシェルカは慄然とする。
 きな臭い煙を曳いて飛んだ火山弾が、敵のただ中に落下した。かっとまばゆい閃光とともに凄まじい火柱が立ち昇る。数十体の『遷ろう者ども』が雪と土とともに木っ端のように吹き飛び、砂利混じりの氷滴がざあっと降りそそいだ。
 あとに残るのは幅十ヤードもの焦げた穴。シェルカはあわてて馬を逸らす。聖霊の威力への感嘆はそのあとに来た。
「これが……聖霊武器か!」
 他人のものを見るのと自分でやるのとでは大違いだった。底知れない自信が湧く。これさえあればどんな敵にもやられることはない――
「ひいっ!」
 小さな悲鳴がすぐ横で聞こえて、はっとシェルカは振り返る。隣を駆けていた騎士に敵が取り付いている。一瞥しただけでも馬の足すべてに一体ずつ、さらに首根っこに五体が群がり、うち一体は騎士と向かい合わせになって、蕩かすような笑みを兜の中に向けていた。
 助けるために槍の代わりに剣を握ろうとしたシェルカへ、別の部下が鋭い叫びをかける。
「大隊長!」
 シェルカはまた、鞭打たれたように前へ向き直った。ぐっと槍を抱え込んで叫ぶ。
「『サガルマータ』、いま一度!」
『諾!』
 再び衝撃、火球、そして爆発。続けて何度も撃ち放ちながら、シェルカは駆けに駆けた。――決して後ろを振り返らずに。
 無我夢中というのが正しかった。デジエラの声を聞いてようやく止まったのだから。気がつけば前方には矢の刺さった死体しかなく、戦いの喧騒は後方にあった。
「大隊、停止!」
 命じて止まり、馬首を返した。追いついてくる騎士たちの向こうに、凄惨な戦場の光景があった。焼け焦げた穴、立ち昇るいく筋もの煙、敵味方の無数の死体。――南方の第八軍、第十軍が通ったあとが凄まじく、赤熱した太い溝が残り、嵐の後の渚のような荒廃した湿地ができていた。火竜と海嘯のしわざだろう。
 しかしそれでも、すべての敵を討ち果たすには至っていなかった。生き残りの『遷ろう者ども』はこちらに目もくれず、背を向けて西へ駆けていく。それらの目当ては本陣にある数十万人なのだ。
 騎兵団は、隊形を崩さずにこの場で向きだけを変えて、もう一度突撃し、敵中を抜けてクルビスクへ戻る手はずだった。それで残った分を防壁と歩兵団が迎え撃つ。
 デジエラが回れ右の命令を出し、騎士たちがあわただしく動いた。シェルカも、大隊の最後尾へ移動しようとした。
 誰かが言った。
「案外やりますな」
 隣で直衛をしていた騎士だった。シェルカについて動きながら、面頬を少し上げて目を向けた。
「あそこで止まられていたら、大隊が総崩れでした」
「……好きで見捨てたわけじゃない」
「なお結構。平気で見捨てる隊長もいるのでね。その調子で無理して冷たくおやりなさい。守るのは我々の役です」
 今度は、気楽にやれ、ではないようだった。
 最後尾に着き、シェルカは部隊を振り返った。まだ槍のある者は苦労して向きを変え、なくした者は剣や戦斧を握り、態勢を整えつつあった。おおむね揃ったと見てとると、シェルカは報告した。
「第十一大隊、再突撃、準備よし」
「了解」
 ネムネーダの短い答えが返ってくる。シェルカはもう一度口の中でつぶやく。第十一大隊、準備よし……死者は戻るまで数えない。今数えても意味がない。
 自分が率いて、殺す部隊。
「全軍、再突撃!」
 デジエラの叫びを聞いて、シェルカは重い騎槍を握りなおした。

 クリオンはレイピアを振り下ろした姿勢のまま、疾走しながら前方を見つめた。扇状に広がっていった海嘯が千を越える敵を巻き込み、丘の上り坂に差しかかってゆるやかに消えた。
 ぽっかりと開いた空白地を、左右から押し寄せた敵がみるみるうちに埋める。クリオンの周りに直衛の騎士たちが進み出る。接敵。騎槍が敵を貫くドドッという音に続いて、抜かれた剣が高々ときらめいた。たちまち無数の銀光が暴れだし、断たれた手足がしぶきのように舞い上がった。
 殺戮する騎士たちに囲まれて進みながら、クリオンは背を伸ばして右手を眺める。彼が一番南にいるので、軍団は北に広がっている。遅れている部隊はいないようだった。はるか遠くで『サガルマータ』のものとおぼしき火山弾がはじけ、クリオンは小さく微笑んだ。
「カアッ!」
 叫びとともに足元から敵が跳ね上がる。騎士が振り返るより早くクリオンはレイピアを閃かせる。続けて小さく二度突き、両目を貫いた。『遷ろう者ども』は殺すというより破壊しなければ倒せないが、少なくとも目を潰せばこちらを見失う。
 そして、あまたの敵と戦ってきたクリオンには、それができる余裕があった。
「残り八万ってところかな……」
 これだけ削れば歩兵部隊で倒せるだろう。クリオンは安堵して前方を見た。部隊は敵集団の半ばを過ぎ、丘を駆け上っていく。
 だが、そのまま駆け抜けられるかと思ったとき、異変が起こった。
 ざあっと――音がしたわけではないが、そう聞こえるような光景だった。無数の瞳がクリオンを見た。クリオンただ一人を、『遷ろう者ども』がいっせいに振り返ったのだ。
「――え?」
「「「「「「「「「「見つけた」」」」」」」」」」
 数万の口が、ただ一つの言葉を吐いた。同時に、ズヴォルニクが蒼玉を燃やしたような強烈な光を放った。
「――近い」
 ささやきとともに膨れ上がる力をクリオンは感じる。レイピアがひとりでに北を指す。クリオンは愕然と悟る。敵を一気に薙ぎ払おうとしている――入り混じった味方もろとも。
 全体重をかけてレイピアを押し下げた。
「やめろ!」
「グルドが来た。眷属どもがじかに掌握された! 斃さねば囲まれるぞ!」
 ズヴォルニクの言うとおりだった。『遷ろう者ども』の動きが明らかに変化していた。もうクルビスク城を目指してはいない。クリオンだけを目がけて駆け寄ってくる。
 上り坂にさしかかって速度が落ちていたのが悪かった。押し寄せ押し寄せ押し寄せる敵が前を塞いだ。もはや斬ろうが倒そうが無意味だった。膨れ上がる肉の壁が第十軍の動きを止めた。
「陛下!?」
「陛下!!」
 デジエラやネムネーダの叫びが届くが、クリオンはズヴォルニクを抑えるのに精一杯で、答えるどころではない。その間に護衛の騎士たちが次々と倒されていく。クリオンはとっさに決意した。まだこちらには一つだけ、足の速さという利がある。
「第十軍、散開!」
 ひとこと叫んで、クリオンは手綱を思い切り引き絞った。向きを変えた馬の腹を蹴り、混乱する部隊を全速力で駆け抜ける。すぐに敵のただ中に突っこんでしまったが、一騎だけなら陣形を気にする必要もない。右へ左へめまぐるしく馬を飛ばせて、敵をすり抜けながら南へ走った。
「陛下、何を!」
 悲鳴のようなデジエラの声に、クリオンは懸命に答えた。
「敵は今、予だけを狙ってる! 引きつけるから、後ろから叩け!」
「無茶です、お待ちを!」
「来るな、部隊をまとめろ! 一人だけなら追いつかれないから!」
 最後の一体を飛び越えた。凍りついた立ち木がぽつりぽつりとたたずむだけの雪原が前方に広がる。障害物はない。
 走りながら振り返る。敵は雪崩を打ってこちらへ駆けてくる。まとめればズヴォルニクでやれるかと思ったが、そううまくはいかなかった。敵の向こうに味方がいる。この混乱した状況では、避けさせるのは無理だろう。デジエラも矢継ぎ早に指示を出すのに必死だ。
 ズヴォルニクはまだ猛烈な戦意を振りまいている。
「我を振るえ! 我を振るえ! グルドが来る!」
「どこに!?」
「北だ! 道化たちの墓を探っている!」
「プロセジア本市のことか? まだ十数リーグも離れてるじゃないか!」
「我を振るえ!」
 ズヴォルニクは狂ったように叫ぶばかりだ。いったん安心しかけたクリオンも、逆に恐ろしくなってきた。それだけ離れたところからこの不敵な海王を脅えさせるとは、一体どれほどの力を持っているのだろう。
 物思いしたのはわずかな間だったが、それが命取りとなった。
 雪を蹴る馬の足応えが、いきなり消えてなくなった。あっと思う間もなくクリオンは投げ出される。地に叩きつけられるかと身構えたが、深い雪にどさりと受け止められて助かった。
 しかし、立ち上がろうとして足を踏ん張ると、ズボッと下へ抜けてしまった。クリオンはぞっとする。ブーツに冷たい流れが当たっている。雪に隠された川に踏み込んでしまったのだ! 目の前でもがいていた馬がすっぽりと消えるのを、クリオンは呆然と見つめた。下手に動けば馬の二の舞になるだろう。
 目を上げれば、迫り来る敵の群れが見える。まだ三百ヤードほど離れているが、その程度はあっという間だ。さらに向こうにロウバーヌの火炎が見えたが、一度だけだった。火炎も、他の聖霊指揮官の攻撃も、どういうわけかぴたりと収まってしまった。
「デジエラ!」
 叫んだクリオンは歯噛みする。ズヴォルニクが彼の手にない。せめてあれがあれば、事情を伝えられるのに。
 見回すと、ほんの少し先の雪に柄の部分だけが飛び出していた。クリオンは必死に手を伸ばす。届かない。体を傾ける。――また足元の雪がごそっと落ちる。
 二歩も離れていないズヴォルニクと、百ヤード先までせまった敵を、クリオンは絶望的な思いで見比べた。
「――くそぉ!」
 その時、日が翳った。
 ひゅうひゅうと空気を裂く音の直後、押し寄せる敵の最前列に何か細長いものがいくつも落下した。轟音と炎が吹き上がる。一度ではない。わずかに間を空けて、二度、三度と爆撃があった。何十もの『サガルマータ』が一斉に攻撃を始めたようだった。そんなことはありえないのに。
 雪を抜かないようにそっと背後を見上げたクリオンは、目を疑った。
 冬の小さな太陽を、三日月形の巨影が遮っていた。――その両舷からぱっと放たれた矢が、また敵の中に落下して爆発を起こした。
 声もなく見つめたクリオンは、巨影の周りに小さな翼がいくつも飛びまわっていることに気づいた。それは二種類。素晴らしい速度で駆ける三角形と、くるくると自在に巡る鳥。
 物悲しい叫喚を立てて降下したジェンが、紫の雷電を放った。疾走する稲妻が敵を砂粒のようにはじき飛ばす。それと入れ替わりに降りてきた巨鳥の群れは、整然たる山形の隊伍を組んで、敵の頭上を通過しながら大きな樽を落とした。
 ――地に触れた樽は巨大な火球を生んだ。膨張しながら進む火球に巻き込まれて、『遷ろう者ども』が羽虫のように燃えていった。
 蒸気が吹きつけ、クリオンは顔をかばった。その拍子に周りの雪が動いた。雪面に亀裂が入り、雪ごとクリオンは落下しそうになる。
「うわっ! ――え?」
 飛んできた蔓が蛇のようにクリオンにからみついた。雪を飲み込んだ黒い水面に、突風をたたき付けて翼がはばたく。わずかに雪上を引きずられたクリオンは、地を離れる寸前、レイピアの柄をつかんだ。
 強い腕が彼を鳥の背に引き上げ、湿った木の匂いのする温かい体が彼を包んだ。
「つかまえたぞ、クリオン!」
「フ、フウ……!」
 クリオンを抱きしめて、異族の娘はめちゃくちゃな頬ずりをした。
 苦労して鳥の首にまたがったクリオンは、ようやく状況を理解した。いまや火炎地獄に包まれている『遷ろう者ども』の向こうに、距離を取った騎兵団が見えた。援軍の攻撃を察知して離れたのだろう。
 デジエラの叫びが飛んでくる。
「陛下、ご無事ですか? 陛下!」
「大丈夫、フウに助けてもらったよ」
「そうですか……!」
 安堵の吐息まで聞こえてきた。クリオンは背後を見上げて、もうひとこと言い添える。
「――それと、霞娜にね」
白沢バイズェ』の舷側に、小さな黒衣の姿が立っていた。

 7 

 フウと霞娜の二人は、掛け値なしの吉報を持ってきた。
 フウが連れてきたのは八百羽のエピオルニスと千六百人のフェリド族の戦士。数は少ないが、彼らが実際にやって見せたように、油樽を使った空中からの攻撃は『遷ろう者ども』に対して極めて有効だった。疾空騎団長マイラは本陣にいてその有様を見なかったが、話を聞いてからしばらく己の至らなさを呪ったという。
――ジングリット軍は今まで、巨鳥のそのような扱い方を考えたことがなかった。疾空騎団はもともと伝令として生まれ、敵の伝令を倒す目的で進歩して攻撃能力を持つようになった部隊である。敵主力である地上軍への攻撃は、弓矢で撃ち落される危険性があるため、検討されたことがなかった。しかし敵が弓矢を持たないならば、そしてこちらに多数の鳥があれば、それは立派な攻撃手段になりうるのだった。
 これを伝えたフェリド長老のセマローダは、二つの理由でひどく顔をしかめていた。一つは、フェリドが最悪の伝説として伝えていたこの方法を、人間に教える羽目になったから。古代、彼らの中でも最も悪名高いある狡猾な族長が、実際にそれをやって「七十の七十倍の七十倍の木」を焼いた。それ以来、禁譚として口に出すのもはばかられていた方法だった。
 もう一つの理由は、北辺の寒さのせいで風邪を引いていたからである。南方生まれの彼らはほとんど半裸のままでここまで来て、極寒に参っていた。セマローダは協力の見返りに人数分の毛皮を要求し、レンダイクはそれを呑んだだけでなく靴と襟巻きも彼らに与えた。もっともフェリドの戦士の多くは、革靴の使い方がわからず捨ててしまったが。
 まったく、防寒具程度なら安いものだった。彼らはこのクルビスクに主力を送ってくれただけでなく、共通の敵である『遷ろう者ども』を一掃するために、さらに五百の鳥使いを帝国南方の主要都市に派遣してくれたのだから。そちらの方面にもすでにレンダイクが大陸連合軍が成立した経緯を伝えてあったから、今ごろは各地の民兵が異族と協力して敵を討っているはずだった。
 もう一方、霞娜率いる大明軍の到着は、当初かなり警戒して受け取られた。来たのは『白沢』一隻と地上軍五千あまりとはいえ、空への備えを持たないクルビスク城にとっては十分な脅威だったからだ。
 しかし霞娜は礼節を守った。まずクリオンとフウを始め三百名あまりの兵を艦橋に迎え入れてから、クルビスク城の真上までは行かず、少し離れた平地に艦を降ろした。その後、霞娜が単身で本陣へ連れて来られ、重鎮たちの前で真率に話した。
「私の軍の中でも、全員が賛成したわけじゃないわ。ジングリットへの敵意を抑えられない者もいた。だからこの数になったのよ。ここへ来たのは私とともにグルドと戦うと誓った者だけ。残りは王都に置いてきたわ」
「心変わりの理由は? ――おそらく個人的な事情がからむのでしょうが、こちらとしては聞いておかなければ安心できませんな」
 レンダイクの遠慮のない質問を受けて、霞娜はクリオンに目をやった。まだ笑みを伴ってはいなかったが、敵意のある眼差しではなかった。
「私の最愛の妹が『遷ろう者ども』だった。グルドは私にそれを与え、また奪った。わざわざ殺すために生き返らせたようなものよ。クリオン皇帝がそのことを私に気づかせてくれた。……こんな理由では信じられないかしら?」
 しばらく返事はなかった。レンダイクはまったく同じ悲しみを負わされた男だった。
 しかしデジエラはやや異なった。――彼女が右腕とも恃んでいた男は、霞娜に直接殺されたのだ。
 デジエラのした一つの質問は、その屈託を乗り越えるためのようだった。
「あの巨船は、生贄の力によって空を飛び、強力な砲を放つと聞いた。……今もまだそうやっているのか、大統令」
「違うわ」
 霞娜は首を振る。
「一隻動かすだけなら私一人の力でできる。『竜吼砲』はもう使わない。……あれが可能だったのも、妓官たちがグルドの惑わしを受けていたからよ。みな正気に戻った今では、使えないし、使わない」
「いいだろう」
 デジエラは深いため息を吐いて、静かに霞娜を見つめた。
「戦線に参加してもらう。念のため、艦橋に二十人ほど入れるが」
 この会談にまつわる微妙な力関係が、彼女の言葉を歯切れ悪くしていた。ジングリットは大明に対する戦勝国だから、本来ならいかようにも処分できるし、参戦を命じることもできる。が、現在窮状にあるのはジングリットのほうなのである。
 しかし霞娜はそんな駆け引きには興味がないような顔で、静穏にうなずいた。
「随意に」
 会談が済むと、クリオンは霞娜を自分の私室にいざなった。そこにはすっかり快復したソリュータがいて、クリオンのマントを繕っていた。
 二人の娘が目を合わせた。
 ソリュータは立ち上がり、うやうやしくお辞儀をした。
「ソリュータ・ツインドでございます。ありがとうございました、大統令閣下」
「傷は癒えたのね」
「おかげさまで」
 霞娜は二人をゆっくりと見比べて、クリオンに言った。
「この娘を見せに?」
「あなたが救ってくれた子だよ。ぼくは心の底から感謝してる」
「そう……」
 霞娜はソリュータに目を移し、しばらく黙って見つめた。
 やがて、ひとりごとのように言った。
「求めるものを手に入れたのね」
 ソリュータがふと顔を曇らせた。目を伏せると、小さく一礼して控えの部屋に下がろうとする。クリオンがそれを追って、ささやきかけた。
「どうしたの。彼女はもう敵じゃないよ」
「そうじゃありません。――不愉快にさせてしまうでしょう。あの方、ご姉妹を亡くされたのに……」
 クリオンは胸を突かれたような気持ちになった。霞娜を振り返る。
 霞娜はどこか他人事のように言った。
「私は逃がしてしまったわ。雪娜も、麗虎リーフーも」
「霞娜……ごめん、そんなつもりじゃ」
「いいのよ」
 窓を見つめて霞娜はつぶやく。
「もともと一人よ、私は。元に戻っただけ」
 可憐な横顔に、砂漠に横たわる骨のような白さがあった。
 クリオンはしばし迷った。慰めの言葉をかけようと口を開いたが、すぐに閉じた。
 姉と呼ぶな、と言われていた。――彼女は肉親の温かみなど欲していないのだろう。少なくとも、今はまだ。
 沈黙の後、霞娜が振り向いて、改まった口調で言った。
「プロセジアの者を呼んでちょうだい。話があるわ」
 ソリュータが出ていき、やがてシエンシアをつれて戻ってきた。霞娜がクリオンを見て言う。
「あなたにも関係があることよ。さっき、ズヴォルニクが暴れていなかった?」
「わかったの?」
 はっとクリオンは表情を引き締める。霞娜が肩の羽衣――聖霊・闇燦星アンサンジンに触れてうなずいた。
「闇燦星も脅えていたわ。多分、五聖霊の残り三柱もでしょう。それで、あなた――」
「シエンシア」
 名乗ったシエンシアに、霞娜は強いまなざしを向けた。
「そろそろ話してほしいわね。グルドとは一体なんなのか」
「生き物すべてを滅ぼす――」
「それはもう聞いたわ。その先よ。グルドはなぜそんなことをするの・・・・・・・・・・・・・・・?」
 クリオンはソリュータと顔を見合わせる。思いがけない質問だった。グルドがなぜ人間に敵対するのか? クリオンはそれを、肉食獣が他の生きものを襲うようなことだと思っていた。生きるために当然のことをしているのだと。
 しかしよく考えてみれば、それにしてはグルドはあまりにも奇妙だった。ただ襲うだけならともかく、惑わして取り込む必要がどこにあるのか――。
 シエンシアは霞娜の肩に目を向けた。
「その質問に答える前に、逆にお尋ねしましょう。霞娜、闇燦星の力はどこから生じるものですか?」
「どこって……」
「闇燦星は、五聖霊にしてはいやに威力が弱いように見えます。なぜ五聖霊の内に入っているのだと思いますか」
 霞娜は首を振った。
「もったいをつけずに教えなさい」
「いいでしょう。……闇燦星は、ごく小規模な原子核反応を誘発しているのです」
「げんし……?」
「物質を形作る極小の粒を破壊するのです。それが熱を生み出し、人を焼くのです。威力の面では海洋のズヴォルニク、炎のロウバーヌ、森のチュルン・ヴェナ、雷のシリンガシュートに劣りますが、力――エネルギーを生む原理の点では、どの聖霊よりも根源的なことをしています。……それが闇燦星の特殊なところですが、他の四聖霊、いえ、すべての聖霊に共通して言えることがあります。それは、エネルギーの膨大な浪費をする・・・・・・・・・・・・・・ということ」
 クリオンはぽかんとしてその話を聞いていた。横を見ると、霞娜は苛立ったように眉を寄せていた。彼女も意味が呑み込めないのだろう。
「煙に巻くつもり?」
「そうですね……では、別の質問をしましょう。人間の活動とは、突き詰めればどんなことだと思いますか」
 シエンシアも難しい顔になっている。クリオンはプロセジアの地下で聞いたことを思い出す。――千二百年はプロセジアにとっても長かった、技のほとんどが風化するほどに。
 シエンシア自身もすべてを理解してはいないのかもしれない。とりあえずクリオンも質問に答える。
「人間の活動っていうと……ものを食べて、動き回って、いろいろなものを作って、子供を生む、そういうこと?」
「ええ、そんなことです。そして増えた人間はよりいっそう周りの資源を消費し、文明を発展させ……やがては手に入るすべての力を使い尽くしてしまうでしょう。これは人間に限らず生命すべてに言えます。つまるところ生きものの営みとは、そこにある力の消費を加速する行為なのです」
 まだクリオンにはわからない。それとグルドがどう関係するのか。
 するとソリュータが言った。
「『エントロピー』って、人間が増えることなの?」
 それは何、とクリオンが振り向く。ソリュータが自信のない顔で答える。
「プロセジアの地下で聞いたことです。それを抑えるのがグルドの目的だと聞いたような……」
「ああ、そういえば」
「エントロピーとは、『変換されたもの』を表す古い言葉です。食べ物に対する排泄物のようなもの、元の状態よりも使い道が減ったものと考えればいいでしょう。――エントロピー増加の抑制は、確かにグルドの目的です。でも、そんな言葉を使っても納得いかないでしょうね」
「当然よ」
「では、エントロピーは忘れてください」
 シエンシアはかすかに微笑み、簡単な――驚くべきことを言った。
「グルドは、宇宙から力が失われていくのを止めようとしているのです。生きものがそれを加速させているから」
 三人はしばらく黙り込んだ。――宇宙、という言葉の意味はわかる。だが、それと自分たちとを結びつけるような考えを要求されたことは、今までなかった。地面の蟻にとって隣の大陸の気候が関係あるか、と言われたような気持ちだった。
 クリオンは、こう聞く程度のことしかできない。
「人間を惑わせば、それを止められるの? ……つまり、人間を忌み嫌っているなら、殺せばいいじゃない」
「それは生物に淘汰圧をかけることになり、抵抗力の強い個体を生み出してしまいます。家畜の病気を考えてください。猛烈な疫病にさらされた家畜は一度に多数が死にますが、全滅することはめったになく、少数が生き延びる。その個体は疫病への抵抗力を持っているので、じきに繁殖して以前よりもっと丈夫な群れを作り上げる。……しかし、疫病ではなく種無しの個体・・・・・・が多く交ざりこんできたらどうなりますか?」
「……いつの間にか子供の数が減って、群れは弱っていくだろうね」
 うなずいたクリオンは、シエンシアの言いたいことに気づく。
「それが『遷ろう者ども』のしていたことか。民を殺すと軍隊が出てきて反撃されるから、反撃されないような方法を選んだんだね」
「でも、今では公然と敵対しているわ」
 口を挟んだ霞娜に、クリオンが言った。
「それは予が「見極め」てしまったからだよ。今の総力戦は、グルドにとっても本当ならやりたくないことなんだ。……そうでしょう? シエンシア」
「ご明察です」
 シエンシアが深々と頭を下げる。
「直接殺戮は愚かな手段です。それは何よりも生きものに『危機を自覚させ』る。生き延びようと抵抗する生きものほど手強いものはありません。だからグルドはそれを避けようとしていた――そして同じ理由で、ことが明らかになってしまった今では、抵抗する個体を後世に残さないように、壊滅を狙ってきているのです」
「……変な話ですね、そう聞くとグルドは確かに邪悪な存在なのに……さっきあなたが言ったのは、グルドが宇宙を守ろうとしているようなことだった」
 ソリュータがつぶやくと、シエンシアは皮肉な笑みを浮かべた。
「その通りですよ。グルドは良い存在・・・・です。グルドのいる宇宙はグルドのいない宇宙より、数千万年ほど永くエネルギーを保ち続けるでしょう。――ただ、それにどんな意味があるのかは、それこそ究極の謎です。あれを産み出したものの意思、と考えるしかありません」
「なんとなくわかってきた。……グルドはただの魔物じゃなくて、無駄遣いに厳しい神様みたいなものなんだ」
「なんですか、それ」
 ソリュータに呆れた顔で言われて、クリオンはうつむく。
「いや、さ……だってそうじゃない。宇宙を保つなんて話はぼくたちからかけ離れたことでしょ。神様が世界に手を加えようとしてるとでも考えなきゃ、ぴんとこない……」
「神だなどとは思わないわ」
 霞娜が冷然と言って、シエンシアをにらんだ。
「今の話にもおかしいところがある。あなた、さっき聖霊を引き合いに出したわね。聖霊が力の無駄遣いをしていると。でも、グルド自身が強力な力をふるっている。何千万もの眷属を産み出し、人間を篭絡して……それは無駄遣いじゃないとでも言うつもり?」
「グルドは私たちとは違う方法でエネルギーを作っているんですよ。陽子崩壊という、考えうるもっとも無駄のない手段で。……クリオン、あなたも地底湖で光を見たでしょう。あれが彼らの吐息です。あれ以外、彼らはどんな残りかすも出しません。そう、まさに――無駄遣いをしない神、です」
「つまり、私たちの存在が無駄なんですね」
 ソリュータの簡潔な言葉に、シエンシアがうなずいた。
 短い沈黙の後、二人が同時に口を開いた。
「無駄で何が悪いというの」
「無駄なんかじゃないよ、ぼくたちは」
 霞娜とクリオンだった。挑戦的な口調まで同じだった。はっと目を合わせて、互いの顔に同じ表情を見る。――そこにあるのは、理不尽な正義に対する怒りだ。
 シエンシアが顔をほころばせた。
「それです。その怒りが、私たちプロセジアを服せしめたジングの血の表れです。でも、霞娜の認識のほうが少し進んでいるようですね。やはり――」
 その続きをシエンシアは口にしなかった。だが、二人には感じられた。
 姉だから、と言いかけたのだろう。
 クリオンを見つめる霞娜の顔に、淡い戸惑いが揺れている。クリオンも似たような思いを抱いて見つめ返す。血のつながりを指摘されるのは彼にとって不快ではない。しかし、彼女は……?
 すっと霞娜が目を逸らした。
 その一瞬、彼女がかすかな喜びの色を浮かべたように、クリオンは思った。
 霞娜は顔を隠すようにあちらを向いたまま、言う。
「大体、わかったわ。要するにグルドと私たち人間では次元が違うのね。いえ、聖霊たちにとってすらも。――だから闇燦星やズヴォルニクが脅えたのね」
「ええ」
「勝てるの?」
 向けられた鋭い眼差しに、シエンシアはこう答えただけだった。
「ベルガイン皇帝は敵の力を削ぎました。千二百九十年のあいだ目覚めないほど」
「そう」
 霞娜がうなずいた。――この時、クリオンの後ろでソリュータが、また小さく身を震わせていた。
 シエンシアが言う。
「ズヴォルニクが感じたということは、グルドはもう間もなくやってくるようですね。将軍に話して軍議を――」
 その時、ほど遠くないところからばりばりと物の壊れる音がした。顔を見合わせる一同に、娘の悲鳴が届く。
「誰か来て! 上から!」
「エメラダだ! シエンシア、来て!」
 部屋を飛び出したクリオンのあとに、シエンシアだけでなく他の二人も続いた。

 音がしたのはクリオンや重臣たちが使う食堂だった。悲鳴と激しい物音が続く部屋に飛び込んだクリオンたちは、ぎょっとしてたたらを踏んだ。
「な、何これは!」
 板張りの天井に大穴が開き、その下で異様な格闘が繰り広げられていた。騒々しいのも無理はない。二人の鳥使いと彼らのエピオルニスが格闘の一方だ。
 もう片方は、腕の代わりに翼の生えた女たちだった。扉を二枚連ねたほど大きな翼をばたばたと床にたたきつけ、鋭い爪の生えた足で兵を蹴りつけている。
 誰かが、伝説にある妖怪の名を口にした。
「こ、これはハーピー?」
 レザだった。その他にも三、四人の妃たちが、格闘の向こうの壁際に張りついている。皆で昼食を取っていたものか。
 シエンシアが直剣を抜いて叫ぶ。
「違う、『遷ろう者ども』! 飛ぶ手立てまで身につけたか!」
「倒すよ!」
 クリオンもレイピアを構えて飛びかかる。ズヴォルニクが使えるような状況ではない。振り向いていっせいに飛び掛ってくる魔物たちを、剣技のみを頼りに迎え撃った。
「『アルクチカ』!」 
 叫びとともに降りぬかれたシエンシアの直剣が、翼ある女の肩口を割る。そいつは牙をむいて飛びかかろうとしたが、傷口に生まれた氷塊が凄まじい勢いで成長し、胴の半ばまで割り開いてしまった。
「大丈夫ですか!」
 叫びとともにシェルカや本陣詰めの兵士たちが飛び込んでくる。敵は十数体もいたが、これで流れは逆転した。耳をつんざく魔物の悲鳴や、嵐のように撒き散らされる羽根とほこりが、速やかに減っていった。
 しかしクリオンの耳は上空から降ってくる別の羽音をとらえていた。まだ別の敵がいるらしい。天井の穴を見上げた時、彼の横で黒い戦衣がひるがえった。
「霞娜!?」
 少女はテーブルの上に乗ると、ひと飛びして天井の穴のふちに手をかけ、足を振り出して身軽に屋根へと登っていった。クリオンは室内を見回して、掃討にもう少しかかりそうだと見てとると、とっさに決断した。
「みんな、ここを頼む!」
「陛下!?」
 レザかエメラダか、娘たちの声がしたが、クリオンは構わずテーブルに乗って、さか上がりで屋根の上へ躍り上がった。
 きあーっ!
 耳を塞ぎたくなるような喚き声を上げて、『遷ろう者ども』が霞娜を襲っていた。闇燦星をふるうひまもなかったらしく、頭をかばって伏せている。
 クリオンの頭にかっと血が上る。怒鳴りながら敵のただ中に飛び込んだ。
「姉上に手を出すな!」
 レイピアを振る腕に必要以上の力がこもった。敵の翼ははためくぼろ布のように断ち切られた。屋根に叩き付けられた敵は緩い勾配のためにごろごろと転がり、地上へ落ちていった。
「ふう……」
 一息ついて振り返ると、霞娜は立ち上がって体をはたいていた。クリオンのほうを向こうとしたようだが、その途中で北の空に目を止めて、瞳を見開いた。
「……見て、あれを」
 そちらを見たクリオンは愕然とした。
 百体以上もの翼ある女たちが近づいてきた。陣地は騒然となって迎撃を始めていたが、いかんせん出現が突然すぎた。矢玉はまばらで、疾空騎団やフェリドの主力もまだ飛び上がっていない。
「陛下!」
 シェルカと二、三人の兵士も飛び上がってきたが、敵の群れを見て一様に息を呑んだ。クリオンがズヴォルニクを構える。
「撃ち落す!」
「待ちなさい」
 霞娜が彼の手を押さえる。なぜ、と顔を向けると、冷たく言われた。
「放った怒濤霊が降りそそいだら、陣地が洪水になるでしょう」
「そ、それは……」
 クリオンは困惑して部下たちを振り返った。まずいことに誰も聖霊武器を持っていなかった。もう一度空に目をやる。近づかれたら太刀打ちできない数だ。
 霞娜に叫びかける。
「逃げよう、奴らの狙いはここだ!」
「妃たちを連れて?」
 クリオンは唇を噛む。逃げるにしろ隠れるにしろ、ポレッカやチェル姫のような戦いに慣れていない娘たちを動かすのは時間がかかる。それに本陣には文官たちもいる。
 すると、霞娜が右足を踏み出した。――とん、と屋根板を叩く。
 とん、ととん、と沓音を立てて、霞娜は複雑に足を踏み変え始めた。両腕が差し上げられ、ふわりと広がった。かと思うとくるりと体を回す。羽衣が螺旋を描いて腕の軌跡を追った。
 魅入られたように見守るクリオンたちの前で、軽快に舞いながら霞娜が微笑んだ。
「不思議なものね。あなたを殺すために手に入れた精で、あなたを守ることになるなんて」
「姉上……いえ」
「それでいいわ。もう」
 とんとん、ととっ、と白檀の沓が鳴るたびに、旋回する白紗の羽衣が斑点を宿していく。夜空の陰画のように、白い螺旋に黒い星が増えていく。
 あどけない唇が、清冽でありながらどこか淫猥な詠唱をつむぎあげる。
「冥府のともしび、大宙の虚無。穢れし光の飛沫となりて――」
 ぐるり、と大きく回って両腕を上げた。羽衣が花開く睡蓮のように広がった。その花弁の先にあるのは、きゃあきゃあと嬌声を上げて殺到する牙と翼。
「――抉り焼きなさい、闇燦星アンサンジン
 羽衣を駆け上った昏い星々が、しゃあん! と涼しげな音を立てて飛び散った。
 流星雨さながらに飛翔した黒点が敵雲にふりかかった。嬌声が悲鳴に変わり、魔物たちが悶えはじめた。黒煙が上がる。ぼろぼろと肉片が落ちる。禍々しい熱をたたえた星が体を食い破っていく。
 クリオンたちは身震いする。
 ズヴォルニクのように壮烈でも、ロウバーヌのように豪快でもない。――闇燦星は、ただ悪夢のように凄惨な光景を現す聖霊だった。
 たん! と一拍を置いて霞娜は舞を終える。羽衣がふわりと肩を覆う。振り向く顔には、情事の後のような熱さと悦びが浮いていた。
「私は邪悪よ。この精霊も。……それでも姉と呼んでくれる?」
 クリオンは彼女に近づき、羽衣ごと抱きしめた。――汗の浮いた頬から、懐かしい肌の香りがした。
「……ぼくはあなたの弟です」
「そう」
 返事はそれだけだった。
 だが、彼女の体をずっと支配していた硬いものが、すうっと抜けていくのをクリオンは感じ取った。

 食堂では、駆けつけたマイラが鳥使いの話を聞いていた。一人は虫の息だったが、もう一人がかろうじてまともに受け答えをした。
「はっきり言え、確かにグルドを見たんだな?」
「はい、プロセジアの北に。私は顔を伏せましたが、見張りのそいつが確かに……」
「おまえ自身は見ていないのか!」
 叫んだマイラの肩をシエンシアが引く。
「聖霊の守りを受けないものが見たら、正気を飛ばされていたでしょう。見なかったからここまで戻ってこれたんです」
「そうか……」
 マイラは語気を収め、なおも話を聞き取った。――鳥使いたちはグルドに出会う直前、プロセジア跡地に集まる『遷ろう者ども』の大群を発見した。それらは今まで撃退した群れと違って、明らかに統率を受けており、しかも時間を経るほど数を増しているようだった。さらに、こちらを見つけると飛ぶ個体まで作り出した。まだ数が少なかったが、それもこの先増えそうだった。――そこまで見たところで相棒の見張りが悲鳴を上げて気を失い、乗り手の彼はとっさに危険と判断して後ろも見ず逃げ出したのだった。
 力を使い果たした彼が気を失うと、マイラは暗然とした面持ちでつぶやいた。
「つまり、不利を悟ってグルド本体が指揮に乗り出したというわけか……」
「好機であり、危機です。方針を変えて、全軍で打って出るべきです。今ならばまだ本体に近づけるでしょう。しかし、時間がたてば……」
「わかっている。デジエラ閣下に言って、すぐにも出撃の準備をしていただこう。しかし、早くて明朝だな。それで間に合うと思うか?」
 シエンシアに目を向けると、彼女は曖昧にうなずいた。
「残り四十万、すべて出すとなればそれぐらいはかかるでしょうね。……でも、可能な限り急ぐべきです」
「ああ」
 頭上から声をかけられたので見上げると、屋根の兵士が顔を出し、空の敵の掃討が済んだと報告した。デジエラはうなずく。
「陛下にもそのつもりになっていただくか。明日が勝負だと」
 それから、部屋の向こうを見た。――もう一人の鳥使いを、娘たちが囲んでいた。
 マイラはつぶやく。
「皆にも……」
 娘たちは、熱病にかかったように震える鳥使いの男を、懸命に励ましていた。
「しっかりして、もう敵はいないのよ!」
「ったくリュードロフの爺さんは何やってんのよ、さっさとここへ――ちょっと!?」
 男が突然ぐねぐねと身動きし、頭の近くにかがみこんでいたレザにしがみついた。不意を打たれたレザは倒れ、その上に兵士が馬乗りになる。
 血走ったうつろな目がレザを覗き込み、重い体がこすりつけられた。皆が悲鳴を上げ、周りの兵が剣を向ける。
「こいつ、血迷ったか!」
「待ちなさい! 大丈夫よ」
 レザが自由な片手を挙げて制止する。彼女は冷静に男の状態を見抜いていた。体を支える腕はがくがくと痙攣してまともに動くとも思えず、顔は蒼白を通り越して不気味な土気色になっていた。
 もうすぐ死ぬ人間の顔だった。
 男はレザの乳房をわしづかみにしようとする。だがその指にも力が入っていない。かさかさと弱々しく衣服をへこませるだけだ。それでも、一ヵ所だけ力がこもっていた。レザの腹に当たっている性器。そこだけは別の生き物のように熱く硬く脈打っていた。
 レザは眉一つ動かさずに言う。
「何を見たのです」
「ふぃ……し……しし……」
「獅子を見たの」
「からす……むし……?」
「翼があったの」
「をぅ……おん、おんなぁ……」
「女だったのね」
 不意に男の瞳がはっきりと焦点を結んだ。レザの美貌に目を据えてある表情を作り、ぐっと股間を腹に押し付けてくる。――びくびくびくっ、と覚えのある痙攣が伝わってきて、さすがにレザも総毛立った。
 それから、男はどたりと横に倒れた。白目を剥き、息絶えていた。体を起こしたレザは黙然と自分のへその辺りを見る。薄いしみがついている。覗き込んだポレッカが息を呑む。
「それ……まさか……」
「わたくしではないわ。――彼は、誰か別の女を犯したのよ」
「別の?」
「笑ったもの。わたくしのことを……醜女のように」
 無表情のレザに、心配したポレッカが触れる。しかし彼女も、レザの胸に湧いた激しい感情までは読めなかった。
 レザは衝撃を受けていた。生まれて初めて馬鹿にされた・・・・・・・・・・・・・。自分に触れ、自分を犯せる姿勢にまでなっていた男が、自分を一顧だにせずに別の女を想いながら達した。――並の女が考えたならば自意識過剰もはなはだしいことだったが、レザが美しい娘なのは事実だった。男から敬遠されこそすれ、蔑まれるいわれはない。
 グルドの矯惑には、それほどの力があるのだ。
「レザ、大丈夫?」
 屋根から下りてきたクリオンが手を伸ばす。その手を取りながら、レザは決めていた。
 クリオンを守らなければならない。
 それが自分の務めだ。自分だけではなく、妃たちすべての。

 その晩のクルビスク城は、翌朝の総出撃に備えて上を下への騒ぎとなった。
 騒然とする城内にあって、クリオンのいる本陣の一画だけは静まり返っていた。デジエラを始めとするすべての重臣が、彼にその一夜を与えることを決めた。翌日、最高の力を発揮させるために。――そして、まだ十五歳でしかない少年に国運を託す、罪滅ぼしとして。
 クリオンは食事を終え、部屋に下がった。しばらく後、ノックとともに扉が開かれた。
「陛下……お情けをいただけますか」
 ソリュータ、エメラダ、レザ、キオラ、チェル姫、ポレッカ、マイラ、ハイミーナ、フウ。
 九人の妃たちが部屋に入ってきた。


―― 後編へ続く ――



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