次へ 戻る メニューへ  皇帝陛下は15歳! 第八話 後編

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 肌が切れるほど冷たい水が、ソリュータの肢体を流れ落ちる。
 王都まであと半日の距離に迫ったジングリット第一軍本陣。軍が接収した民家で、ソリュータは身を清めていた。
 何も戦場のほこりを落としたかったわけではない。胸に荒れる思いを少しでも鎮めようとしたのだ。
 しかし、冷たい水は体を引き締めて力を与えてくれたが、心までは鎮めてくれなかった。
 手を伸ばし、頭上にぶら下がった桶の蛇口をきゅっと締める。前髪からぽたぽたと滴がしたたった。
 ソリュータは自分の体を見ている。乳房を、腹を、足を、爪先を。そして股間に指をやる。柔らかな茂みに隠されたひだの間に触れる。
 きゅっ、と粘膜が引きつれ、鋭い痛みが走った。――水に洗われたひだはなかなか温まらなかったが、それでも続けると熱が湧き、やがて指がなめらかに滑り始めた。
 心臓が音を立てて脈打つ。
 目を閉じて自慰をしていたソリュータはやがて指を抜き、目の前に持ってきた。少し泡立ったとろみが、指の間でつっと糸を引いた。
 これにどういう意味があるんだろう、と考える。
 女でさえ、こんな他愛ない刺激で濡れる。――男はもっと簡単だ。ほとんど機械的ともいえる性器への刺激だけで絶頂する。そして絶頂するだけのために女を求める。
 クリオン様は、とソリュータは思う。この仕組みが憎くないんだろうか。
 こんなものに操られて他の女を求めてしまったことが。
 ソリュータはそれに嫌悪を覚えかけていた。
 背後でカタンと音がした。振り向くと、ソリュータよりやや幼い少女が浴室の戸を開けていた。全裸で、空色の髪は三つ編みをほどいて背に落としている。
「ポレッカ……」
「ちょっと、いいですか」
 ポレッカはソリュータを押しのけるように狭い浴室に入ってくると、桶の蛇口をひねって頭から水を浴びた。
「私も、五日間水浴びをしてないから」
 言いわけのように言って肩にかかる水を体に塗り広げる。骨の成長に肉の膨らみが追いついていないような、まだ形の整っていない身体がソリュータの前で動く。
 ソリュータは手持ち無沙汰に突っ立ったまま、何の用、と聞いた。ポレッカは質問には答えず言った。
「ハイミーナさんとマイラさんってすごいですよね。チェル姫もフウも。男の人に負けないぐらい強い」
「……」
「レザ様はため息が出るぐらいきれい。エメラダさんは元気で頭がよくて……おっぱい大きくて」
「キオラは?」
「あの子は……なんだろ。どんな時でも暗くならないことがすごいかな。あ、王子様じゃないですか。とにかく、みんな私よりすごいです」
 灰汁袋とってくれます? とポレッカが片手を差し出した。ソリュータは渡してやった。
 蛇口を閉めてごしごしと肌をこすりながら、ポレッカは言う。
「みんなは私のこと、料理がうまくて立派だって言ってくれます。自慢するわけじゃないけど、私、自分でもそう思う。でも……どっか慰めみたいなのは確かですよね。『できない子のいいとこ探し』」
 ポレッカは初めてソリュータに目を向け、たはは、と笑った。
「私、みんなの中ではみそっかすです」
「そんなこと……」
「ソリュータさんが嫌い」
 ソリュータは口を閉じた。ポレッカが手を伸ばして、ぐい、と乳房をつかんだのだ。
「言っちゃ悪いけど、ソリュータさんは何かが特別上手ってわけじゃないですよね。でも、とても優しくて可愛い。……男の人の理想みたいな女の子。そしてシロンが一番好きな人」
 ぎりっ、と乳房に爪が食い込む。ソリュータは苦痛の声を抑える。
「あなたは特別じゃないのに特別。……なら、どうして私がそうなっちゃいけないの?」
「ポレッ……カ……」
 ソリュータは腕を引きはがし、ポレッカをにらみ付けた。思いが口を突いて飛び出す。
「抱いていただいたくせに!」
 はっとソリュータは我に返った。ポレッカは悔し涙を浮かべていた。
「……本当に愛されてないのに抱いてもらっても、嬉しくない。それは――わかるでしょう? ソリュータさん、今あなたはそうなんでしょう?」
 ソリュータはポレッカの腕を離した。ポレッカは背を向けてごしごしと目頭を拭う。
「考えたんです」
 ポレッカは肩甲骨を動かしながら言う。
「すごく苦しかったけど……私がシロンに好いてもらい続けるには、どうしたらいいか」
「……どういうこと?」
「シロンの好きな人を助けてあげる」
 肩が止まった。
「やきもちで苦しんでるソリュータさんを。……わかるの、私と同じだから。何かあったんでしょ。シロンが誰かを……私たち以外の誰かを抱いたんだ。それで、あなたはそれを知ったんじゃないんですか」
「ポレッカ……」
 ポレッカは振り向かない。――ただ、足元に水ではない滴がぽつりと落ちた。
「シロンは本当にあなたが好き」
 ポレッカはわびしげな口調で言った。
「なのに妬くなんて、贅沢。ソリュータさん……元気、出し……」
 少女は嗚咽し始めた。
 ソリュータは黙って蛇口をひねり、灰汁で泡立ったポレッカの体を洗い流してやった。それが済むと、背中からそっと抱きしめた。
「ありがと……」
「お礼なんかいいです。私があなたを嫌いなのには変わりないんだから」
 言葉が見つからず、ソリュータはぎゅっと力をこめた。ポレッカは嫌がるように身動きしたが、ソリュータの肌の温かみが伝わったように、やがて動きを止め、おとなしく乳房に背を預けた。そして、最後に一度しゃくりあげた。
「もう……なんでそんなにいい人なの。ほんとに大嫌い……」
「私の台詞よ」
 ポレッカが振り向いた。泣き濡れてはいたが、どこか吹っ切れたような笑みを浮かべた顔を見て、ソリュータは顔を寄せ、額を当てた。――髪はシナモンか何かの、甘い菓子の匂いがした。
 人肌は久しぶり、というよりまだ二度目だった。クリオン以外と肌を合わせたことがない。ポレッカの、ちょうど彼と同じぐらいの温かい体が、息詰まるような渇望をソリュータに思い出させた。
 ……クリオン様に抱きしめてもらいたい……
 我を忘れていたのかもしれない。しばらくして、ソリュータはポレッカの焦ったような声で、はっと理性を取り戻した。
「そ、ソリュータさん。あんまり押し付けないで……」
 あわてて腕を離す。ポレッカがほっと息を吐き、赤くなった顔を向けた。
「なんなんですか。私、二人きりで話したくて来ただけです……」
「べ、別に変な意味じゃなかったの。ただ……懐かしくて」
「シロンの身代わりですか? 本人に言ってください。多分……もういいんじゃないですか」
「何が?」
「だって……まだ拒む理由があるんですか」
 不思議そうなポレッカの言葉で、ソリュータは気づいた。父から言い聞かされたことも、レンダイクの命令も、今となっては意味があるのかどうか。もう壁はないのだ。
 長すぎた別離を除いては。
 頼んでみよう、とソリュータは決心する。抱いてくれ、と……
 その時、室外に慌しい足音が聞こえて、キオラの声がした。
「ソリュータさん、お兄さまが戻っていらっしゃいました! マイラさんとマウスも、じゃなかったシエンシアもです!」
 ソリュータとポレッカは同時に浴室から飛び出した。二人で何してたんですか? とキオラが目を白黒させた。

 本陣は騒然としていた。クリオンたち一行だけではなく、もう一人の男がやって来たからだ。
 僧兵に追われ、荷馬車に隠れて王都を脱出してきたその男は、ラブリス・ベクテルだった。第一軍の斥候に保護された彼は指揮官への目通りを願い出、本陣へ連れてこられたところで、ちょうどエピオルニスで戻ってきたクリオンたちと鉢合わせした。
 複雑な聖御法にまつわる彼の話はなかなか理解されなかったが、シエンシアが通訳し、礼拝堂でズヴォルニクが言ったことが合わせて考えられると、皆は徐々に事態をのみこんだ。
「すると、そのグルドとやらはすでに動き出しているんだな?」
 デジエラがにらみ付けるようにして訊く。シエンシアがうなずく。
「大神官が五聖霊の声を封じたということは、封じる必要があったということです。つまり五星の目覚めの声はすでに放たれ、北海カリガナで長く眠っていた敵のあるじを動かしたはず」
「それはどのような敵だ。何をしようとしている?」
「姿は……こういえばわかるでしょうか。皇帝旗に記されている水獣。ベルガイン一世がとどめを刺したものです」
 居並ぶ武将は息を呑む。あの伝説の存在が、まさか実在したとは……
「目的は人類すべてに『遷ろう者ども』をあてがい、文明を崩壊させること。それがかなわぬ時は――生きとし生けるものすべてを殺戮しようとします」
「……瀕滅大戦の再来か!」
 誰かがうめくように言った。デジエラが畳み掛ける。
「どうすれば防げる?」
「グルドはまだ遠く、本格的に動き出すのも少し先です。しかしそれはもう止められません。実力で殲滅するしかありません。――そのためにはまず備えを整えるのです」
 シエンシアは一座を見回した。
「王都の奪回を。国軍の回復なくしてグルドは討てません」
「それは言われるまでもない。――それで、教会はその件とどう絡んでくる」
「教会は、瀕滅大戦の折りに敵側についたイフラという者が創始した邪教です。彼らは歴代の帝国府と皇帝に巧みに取り入って命脈を保ってきましたが、その教義にある『五星重なるとき罪障滅消して四難八苦を忘れさせん』が彼らの目的を示しています。彼らの言う地上の楽園とは、全人類が『遷ろう者ども』によって偽りの安息を与えられること。――あるじのグルドが目覚める日のために、そうやって民が受け入れる下地を作ってきたのです」
「なるほどな。温情はいらんということか」
 武人のデジエラにとってはその一点だけが重要だった。クリオンに目をやって言う。
「王都は敵に満ちているそうですね。トンベの砦でやったように、ズヴォルニクによって敵を「見極め」ていただけますか、陛下」
「できるのかな」
 クリオンは腰のレイピアに目を落とす。
「あの時もすごかったけど……今度は王都全域だよ。人口に匹敵するっていうシェルカの言葉が正しければ、八十万体っていうことに……」
「汝は王都で何をしてきた」
 初めて聞くズヴォルニクの肉声に、武将たちが驚きの顔になる。
「我の力を引き出すためだろう。王都にはびこる八十万、我ら四柱でことごとく見極めてみせよう。……もっとも、闇燦星なくばそれ止まりだが」
「それ止まりって?」
 ズヴォルニクは答えなかった。だが、彼に手を当てているクリオンは、かすかに焦っているような震動を感じていた。
「市街戦だ」
 デジエラが立ち上がり、シエンシアに返されていたロウバーヌで、手早く地面に図を書いた。武将たちがその周りに集まる。
「ズヴォルニクやロウバーヌの大規模攻撃は使えん。教会の軍勢を突破し、部隊を王都に行き渡らせ、しかるのち陛下に「見極め」ていただく。『遷ろう者ども』が正体を現したら片端から掃討しろ。情けは無用、市民がかばってもだ。しかしかばう者は殺さず殴り倒せ。ことは内通者のあぶり出しではない。かばう市民は敵ではなく、敵にだまされた被害者だ。これは一兵に至るまで徹底させろ。決して市民を殺してはならん」
 武将たちの顔を見回す。
「部隊は大隊単位で展開する。一街区につき一大隊だ。ドーズ、エトナら連隊指揮官も大隊で動け。敵は軍隊ではない、猛獣だ。指揮官がない。中枢を探さず目に付いたものすべてを討て。フォーニーは」
 デジエラは言葉を呑んだ。軽く首を振る。
「……ネムネーダ、ただ今より貴様を第一軍軍団長に任じる。各大隊の多寡を調整しろ。他の軍団からの編入部隊は私が直接指揮する」
「私は?」
 マイラが言うと、デジエラは図の川べりを示した。
「疾空騎団を率いてガルモン以下の第二軍に加われ。陛下のお話ではもう腹を据えているとのことだ。あてになる。余裕があれば上空を遊弋し、手薄の部隊へ向かえ。判断は任せる」
「了解」
「教会はどうします。大神官らは……」
 ドーズの問いに、デジエラはシエンシアに顔を向ける。
「貴様らは戦力があるのか?」
「この規模の戦闘では無力です。約五十名ですから。プロセジア本市には数千がいますが、今回は間に合わないでしょう」
「しかし供回り程度の役には立つだろう。陛下をお守りしろ。今回、我々は手一杯だ」
「クリオンを?」
 デジエラはクリオンに目を向けた。
「行かれるのでしょう?」
「……うん」
 クリオンは剣に手を触れて答える。
「大神官はいろいろな意味で予の相手だ。一度手合わせしたから、取り逃がしたっていうことにもなるしね……」
「聞いてのとおりだ。道化、任せる」
 デジエラはその一言で軽く済ませた。シエンシアが目顔でうなずいた。
 さらにデジエラは言う。
「非戦闘部隊は現在の地に据え置く。鹵獲した「白沢バイズェ」と「饕餮タオティエ」もだ。あれの妙な女船乗りどもはまだ信用できん。残存隊は大明軍捕虜の反乱を警戒しろ。特に大統令は決して逃がすな。それと、ギニエに使者を一羽送って天領総監たちを呼び寄せろ。勝てば彼らの出番になる」
「負けたら?」
 そう言ったシエンシアに、デジエラは冷たい口調で言った。
「負けたらどこにいても変わらんだろうが」
「その通りですね」
「以上だ。何か質問は」
 デジエラが見回すと、疾空騎団のある部隊長が言った。
「確報ではないのですが、我が隊の騎士が日暮れ前に、王都の西方に土煙を見たと言っています。……行軍する軍隊のような」
「なに……?」
 デジエラは眉をひそめた。
「軍隊だと? 教会が援軍でも呼び寄せたのか?」
「わかりかねます。小官の意見を言わせていただくと、この季節は北風が強いので、北の平原からの砂嵐を見間違えたものと思います」
「今から斥候を出せるか」
「難しいです。連絡飛行ならともかく、夜間に偵察するのは……」
「では騎兵を出せ。必ず報告しろ」
 指示を出し、他に質問がないと見て取ると、デジエラは剣を差し延べて命じた。
「今夜中に王都に近づき、明朝、市民が窓を開ける時刻に市街へ突入する。よいか、この戦は王都に平安を取り戻すための戦だ。市民に憎まれ、石を投げられても決してひるむな。また貴様らも決して彼らを憎むな。我らは等しく皇帝陛下の民だ。――クリオン皇帝陛下万歳ウーレー・クリオン!」
クリオン皇帝陛下万歳ウーレー・クリオン!」
 武将たちが唱和し、いっせいに本陣の天幕を出て行った。
 慌しい雰囲気の中で、クリオンはシエンシアからあるものを受け取って出て行こうとした。すると、小さな声がかけられた。
「クリオン様」
 振り向くと、天幕の奥からソリュータが顔を出していた。
 すぐにも駆け寄って声をかけてやりたい衝動にかられた。しかしクリオンはそうせず、片手を挙げて言った。
「待ってて。戦が終わったらね」
 その手に握られているのは、闇燦星の羽衣。――クリオンがソリュータに会うためにしなければいけないことの一つだった。

 翌朝――ジングリット軍に潜ませた内通者からの通報により、フィルバルト旧市街の南東門、南門、南西門、西門を厳重に警戒していたイフラ教会の討伐僧たちは、足元を揺るがす震動と轟音を感じた。
 続いて、蒼白な顔でやってきた伝令の知らせに、驚愕した。
「ジングリット軍は東門を爆破して一斉突入せり!」
 デジエラは部隊にイフラ教の信者がいることなど、とうに見抜いていたのだ。夜明け前に王都外周の新市街まで部隊を進めてから、突然東に向かって向きを変え、街中を東門へと急行した。内通者たちは疑問を感じつつも、四万の軍勢が市街に入るには複数の門が必要なはずと高をくくっていた。
 しかし、王都の東では密命を受けた工兵部隊がすでに用意を整えていた。
「白沢」と「饕餮」から取り外した百門の弩砲を東門に向けて。
 日の出とともに選抜された精兵が東門に現れ、わずか三分で市民を追い払った。直後に百発の火薬弾が放たれ、東門に殺到した。花崗岩の門体に厚さ一フィート半の堅牢な扉を持つ門も、この凄まじい爆撃の前にはひとたまりもなかった。東門は、四リーグ離れた反対側の西門でも感じられるような大爆発を起こし、瓦礫の山に変わった。
 五分もたたないうちに迂回していた本隊が到着した。爆撃時刻を見越した出発だった。内通者たちはだまされたことを知って呆然となったが、もう遅かった。通常なら門を通るだけで二刻はかかる、四万に届く軍勢が、吹き飛ばされて半径五十ヤードの荒地に変わった東門一ヵ所から怒濤のようになだれ込み、すみやかに町中に散らばっていった。
 陣立ては計算し尽くされていた。騎兵は街中では小回りが効かず脆弱だが、広い王都を駆け抜けるためには馬があったほうがいい。馬など着いてから降りればいい・・・・・・・・・・・・・・のだ。騎兵にとって手足にも等しい馬を捨てるという逆転の発想で、先鋒は騎馬隊になった。一番手はもちろん、第一軍遊撃連隊。連隊長ネムネーダは本隊付きとして外れていたが、二千の精鋭は疾風のように中央通りを駆けていった。
 続いて重騎兵、そして歩兵。いずれも武装は減らされた。敵の大半は武装していないだろうし、教会の討伐僧が体勢を立て直す前に配置につかなければならないからだ。ほとんど剣と胴鎧だけの軽装で騎馬と兵士たちは東門の瓦礫を乗り越えた。督戦のためにかり出された声の大きな隊長が絶叫する。
「走れ、走れ、走れーっ!」
 早朝の通りを歩いていた市民たちは、突如として現れた雲霞のごとき大軍に仰天した。兵士たちは人々を突き飛ばし、荷馬車を道の端に押し転がし、屋台を切り倒して恐ろしい勢いで走っていく。市場になだれ込んだ数百の兵が、手押し車を蹴飛ばし、鶏や豚のかごを蹴散らして隅々まで散らばり、声をからして叫んだ。
「我々は皇帝陛下の軍隊だ! 間もなく化け物を掃討する! 市民は持ち物を置いて一ヵ所に集まれ!」
 寝ていた人は飛び起き、寝起きの人は窓の外を駆ける鉄甲に肝を潰した。開いていた窓が立て続けにばたばたと閉められる。逆に何事かと窓を開ける人もいる。その人々にも叫びが届く。
「王都にはびこる魔物を退治する! 市民は素手で表に出ろ!」
 何万もの人々が呆然となり、必死の形相で戸を閉め、かんぬきをかけた。そして背後からの声で恐る恐る振り返る。
「おまえ……何があったんだい?」
 そこには彼女の、彼の、愛しい想い人がいる。――本来いるはずのない人が。
 町の南から西にかけて配置されていた討伐僧たちは、ほとんど妨げにならなかった。彼らは門を守れとは言われていたが、背後の街中に何万もの軍勢が入り込むとは夢想だにしていなかった。大半は指揮者の命令を待って持ち場にとどまるか、さもなければ散発的に兵士に襲い掛かって、わずかな間に撃砕された。
 町の中央のフィルバルト城はさしあたり放置されたが、イフラ教会、審問軍屯所、小さな分教会などは、聖霊武器を持つ指揮官によって門、入り口、戸口を破壊され、封鎖された。まともに相手にした場合の手強さは、第二軍が敗北したことでよく教訓にされていた。
 王都の東部の丘陵地にあるエコール・ポリテクニクには、皇帝の命令により特別に機転の利く兵士たちが派遣された。彼らは中等部女子寮をまず保護し、ついで学院内にいた寮生や早朝登校した学生などを一ヵ所に集め、「その時」が来ても混乱によるけが人などが出ないように、注意深く監視した。
 プロセジア占星団の人々は、礼拝堂からうまく逃げ延び、ガルモンの第二軍に合流していた。先遣隊からの光信号でそれを知ったマイラは、上空三百ヤードで旋回しながら王都の様子をつぶさに見、「キシューハ」を介して本隊に報告した。
「全隊、ほぼ展開を終わりました。陛下、お願いします!」
 クリオンは馬に乗り、重騎兵三百に厳重に守られて東門から一リーグほど入り込んでいた。傍らにはハイミーナとフウもいる。デジエラがロウバーヌで言い返す。
「これより「見極め」る。マイラ、プロセジアの連中に王宮東門へ来るよう伝えろ」
「もう伝えました」
 シエンシアが、『アルクチカ』の直剣を振って言った。ふんと鼻を鳴らして、デジエラはクリオンを振り返った。
「では――陛下」
 クリオンは緊張した顔でうなずいた。ズヴォルニクを抜き、高く掲げる。ロウバーヌ、チュルン・ヴェナは持ち主と共にそばにあり、シリンガシュートはシエンシアが持ってきている。
 クリオンは手のひらを刃に当てて血を与え、叫んだ。
「我、ジングリット皇帝クリオン一世。我が物であり我が下僕たるカリガナの海王に、神具律都の主として命じる。目覚めし汝の力をふるえ、打ち叫び忌まわしき者どもを暴け。いざや、聞かん?」
「諾!」
 四重の叫喚が、爆発のように広がった。大気さえもその圧力に揺れ、どうっと突風が四囲に走った。
 そして――
『遷ろう者ども』が姿を現した。
 街路で、路地で、市場で。居間で、寝室で、台所で。夫の前で、妻の前で、息子の前で、母の前で。つい今しがたまで優しい笑みを浮かべていたその者たちは、頭を押さえて苦鳴を上げ、刃物を刺されたように身をよじり、見る間に輪郭を失っていき、おぞましい肉の杭のような姿をあらわにした。
「うわ、うわああ!」
 ジングリット軍本隊を中心として、そういった光景が環状に広がっていった。町中から悲鳴が上がり始めた。それを追うようにしてデジエラの命令が走った。
「全隊――掃討開始」
 数万の剣が抜かれ、宙を裂いた。最も初期、姿を暴かれて数秒以内の『遷ろう者ども』は、まるで無抵抗に切り裂かれ、絶命していった。驚愕し、混乱し、逃げ惑う市民に兵士たちは突っ込み、草刈りのたやすさで怪物をなぎ倒した。
 だが……
 クリオンの手の内で、ズヴォルニクが疲れたようにつぶやく。
「思いのほか抵抗が強い――すべては見極められぬ」
「なんだって?」
「きやらつには個体差がある。強いものは耐え切るだろう」
「そんな、どうするんだ!」
「どうもできぬ。が、多くても数千だ。後に回せ」
「そうか……」
 叫喚は止んだ。余韻のようにぴりぴりと震えるズヴォルニクを、クリオンは鞘に戻した。
 その頃から、情勢は微妙に変わり始めた。
 懸命に怪物を切り倒していた兵士が、突然横合いから牛にぶつかられたように吹っ飛んだ。はっとそちらを振り返った仲間たちは、明らかに抵抗する体でやってくる怪物を目にする。その肉の杭が手にしているのは――太さ二インチもある馬車の車軸だ。
 ぶん! と車軸が振られた。剣で受けようとした兵士が、剣ごと吹き飛ばされた。隊長がとっさに叫ぶ。
「回り込め、囲んでやれ!」
 即座に兵士たちは円陣を組み、いっせいに襲い掛かった。しかし抵抗は激しかった。それ一体を仕留めるまでに一人が腕を骨折し、一人が片目を潰された。
 同様のことが全市街で巻き起こった。――『遷ろう者ども』は、その気になれば恐るべき戦闘能力を発揮できるのだ。ギニエの民家でクリオンが目撃したように。
 また、別のことも起こった。民家の戸口を破って突入した兵士たちに、卵が投げられる。
「出てけ! かあちゃんに手を出すな!」
 五歳ほどから十二歳ほどまで、五人もの子供たちが並び、敵意に燃える目で兵士をにらみつける。その後ろには、熱病にかかったようにぶるぶる震える女が横たわっている。
 兵士はためらい、振り返って隊長に尋ねる。
「どうします?」
「世話役の話では、その子らは孤児だ。……今までは隣近所で面倒を見ていたそうだ」
「では」
「やれ。情けをかけるなとの陛下のご命令だ」
 抜き身を下げて入り込む三人の兵士に、子供たちが死に物狂いでつかみかかる。どの顔も、帰って来てくれた母親を奪われまいとする激しい怒りに満ちている。兵士たちは喉にこみ上げるものを飲み込んで彼らを振り払い、女に近づく。
「やめて……お願い……」
 哀願する女を、隊長が一刀の下に切り伏せた。――ぷつんと糸が切れたように子供たちが床にへたり込み、大声を上げて泣き始めた。
「……くそっ! 化け者どもが」
 やるせない顔で子供たちを見回し、しかしどうしてやることもできず、兵士たちは出て行った。
 そういった報告は、部隊長を介して続々と総司令デジエラのもとに届けられた。中には切るに切れず、自分が裁かれてもいいから見逃してくれと訴える兵士もいた。『遷ろう者ども』は「見極め」られてしばらくは本性を現すが、時間がたつとまた偽りの姿を取り戻してしまう。ためらっているうちにそうなってしまったのだろう。
 デジエラは暗い眼差しでクリオンを見る。
「陛下……」
「斬れ」
 クリオンは無表情に命じる。――市民たちがどんな悲しみに苛まれているか、我が身の痛みのように感じつつ。
 そして、このような事態を招いたイフラ教会に対して、底知れない怒りを蓄えつつ。
 馬首を巡らせる。
「王宮へ行く。デジエラ、後は頼むよ」
「了解……」
 頭を下げるデジエラを背に、クリオンたちは走り出した。

「白沢」の艦内では、霞娜が引きつった顔で妹を見つめていた。
「おねえ……さま……たすけ……」
 床に倒れた雪娜が、胸をかきむしってのたうつ。見る前でその輪郭が歪み、人にあらざるものになりかけ、また不意に美しい手足に戻る。
 凍りついたように見つめる霞娜に、悲しげな眼差しが向けられる。
「おねが……あんさん……を……闇燦星をわたして……」
 霞娜は羽衣を取り戻していた。それは前の晩、クリオンがこっそりと届けに来たものだった。彼はその際、無視しようとする霞娜にいくつかの言葉をかけていった。
 霞娜は声を絞り出す。
「渡すと……どうなるの」
「助かるわ……せ、聖霊の力は身を守るためにも……はあっ!」
 雪娜がかっと目を見開き、ひきつけたように背筋をそらせた。ぶるぶると震える手足が溶けかける。それは怪物が正体を現しているというより、最愛の妹が不治の病に冒されているようにも見える。
 しかし、雪娜が苦しみだしたときから、霞娜の呪縛は解かれていた。彼女は自分が惑わされていたことをはっきりと知った。
 だが、妹を求める気持ちは、この雪娜に出会う前からそうだったように、深く彼女の心に根を張っていた。
 どうすれば……?
 胸の中で激しい嵐が渦巻く。助けてやれば、また甘美な愛を取り戻すことができる。惑わされようがどうしようが構うものか。この十年、あんな幸せな気持ちになれたことはなかった。
 助けなければ、胸が張り裂けすべてのものを叩き壊したくなるような悲嘆と憎悪が、再び戻ってくる。
 霞娜は羽衣を手に取り、ゆっくりと差し出す。雪娜が安堵の色を浮かべ、手を伸ばしてくる。
 その時、霞娜の心にクリオンの言葉がこだました。
 ――姉上、あなたを穢したことをお詫びします。でもそれは、あなたに罪がないからではありません。予が情欲を抑えられなかったからです。……予を許さずとも仕方ありません。憎んでも。けれど、あなた自身が助かるために、もう一度考えてください。大明の大統令は何をしなければならないのか……
「……身勝手を!」
 霞娜はぎりりと拳を握り締める。止まった手を見上げて、お姉さま? と雪娜がささやく。
「どうしたの? 早く……わたして」
 怒りが霞娜を支配していた。クリオンに対する怒り、クリオンに指摘されてしまったことへの怒り、それが正しく、従わなければいけないということに対する怒り。
 もう一度溺れるには、霞娜は聡明すぎた。
 失うことの巨大な痛みをはっきりと自覚しつつ、霞娜は羽衣を振り上げた。雪娜が不思議そうにつぶやく。
「……お姉さま?」
「ごめんなさい――ごめんなさい、雪娜っ!」
 しゃあん! と闇燦星の光が飛び散った。体にこびりついた黒い斑点を、雪娜は珍しいものでも見るように見回した。
 そして、絶叫した。
「お姉さま! お姉さま、ひどい! どうしてこんなこと! やめて、助けて、あっ、ああアアア!」
 耳をおさえ、目を塞ごうとする自分の両腕を、霞娜は気力を振り絞って腰に貼り付けた。もだえ苦しんで死んでいく雪娜を、見開いた目からとめどなく涙をこぼして見つめた。
「お……さま……」
 姿を失い、肉塊と化した雪娜が、どさりと床に崩れる。それを見たとき、霞娜は卒然と悟った。
 新たな悲しみが、憎しみを塗り替えたことを。
 妹を黄泉から呼び戻し、もう一度死の苦痛を与えた存在が、クリオンよりもはるかに憎らしいということを。
 それこそが自分の真の敵――そして、クリオンの敵でもあるのだ!
「なんてこと……彼と同じなんて……」
 見つけてしまった真実の悲しさに、霞娜はへたへたと座り込んだ。

 壁のように押し寄せる重装甲の討伐僧を、鋭い閃光が迎え撃つ。
「フウッ! フアアアウッ!」
 城館の廊下は、フェリドの娘にとって密林の獣道と同じだった。床を跳ね壁を蹴り、体を丸めて飛んだフウが、チュルン・ヴェナを横なぎに叩き付けた。
「ぐおっ!」
 兜ごと頸骨をへし折られ、巨体の討伐僧がくず折れる。その肩口を蹴りつけてフウはさらに跳び、第二、第三の敵を瞬く間に屠っていく。
「蛮族が!」
 叫びとともに戦棍が振り下ろされると、羽根のようにふわりとかわし、敵の胸を蹴りつけて背後にとびのく。代わって湾刀を構えた剣士が摺り足で影のように進み、戦棍を振り回す討伐僧の懐へ飛び込む。
「もう、読めてるぞ!」
 シェルカの湾刀は、ひじで防ごうとした討伐僧の腋の下に食い込み、一ひねりで右腕をもぎとった。
 通り過ぎようとした部屋の扉がばたんと開き、死神を思わせる大鎌を振り上げた討伐僧たちが躍り出る。
「異端審問軍、エラフォン聖鎌隊推参!」
「不意打ちのつもりか?」
 間髪入れず、大盾を構えたハイミーナが体ごとぶつかっていき、二、三人をはじき飛ばす。その一人が、起き上がると見せかけて、床をこするような低空で大鎌を叩き付けた。
 ハイミーナのかかとを切り裂く直前、ぐいっと鎌は引き戻された。討伐僧は自分の意思に反して持ち上がる鎌をあぜんとして見つめる。その耳にからかうような声が届く。
「草を刈るなら畑へお行き。ここはお城さ、草はない!」
 シエンシアが鳥のように両手を開いて回る。きらめく銀糸が鎌をつり上げ、廊下の後ろへ放り投げた。
「き、奇矯な技を……」
 廊下の奥でうめいた指揮官の軍司教が、ふと目を細めた。臣下に囲まれて進んでくる皇帝の前に、一瞬隙ができたのだ。
「フン!」
 戦棍を振り上げ、勢いよく投擲する。鎧を着ていても衝撃で骨を砕く鉄の武器が、うなりを上げてクリオンに迫る。
 抜く手も見せずクリオンはレイピアを振った。耳障りな金属音があがり、戦棍がドスッと天井に突き刺さった。ゼマントの突きに比べれば雪玉が飛んできたようなものだった。
 軍司教は悲鳴に近い声で命じる。
「だめだ、退けっ!」
 討伐僧たちがいっせいに背を向けて駆け出すと、すかさずフウが駆け出した。皆殺しにするつもりでいる。
 クリオンが鋭く制止した。
「待って、フウ! 目当ては大神官だ、僧兵なんか放っといて!」
 まさに最後尾の討伐僧に切りつけようとしたフウは、その背を蹴ってクリオンの前に戻り、不満そうに頬を膨らませた。
「ふーうっ!」
「何人いると思ってるの。全滅させる余裕なんかないんだよ!」
 重ねてクリオンが叱りつけると、フウは憎々しげに舌を出した。
 シェルカがあきれたように言う。
「ちょっと見ない間におかしな仲間を作ったんですね、陛下」
「これでも妃だよ……」
 お妃様? とシェルカが目を丸くする。そっちのハイミーナも、とクリオンが指した銀髪の尼僧を見てさらに口を開ける。
「はあ……お盛んですね」
「無礼なことを言うな」
 ハイミーナがじろりとにらみ、ハルバードを突きつけた。
「そのような俗悪なことではない。私たちは神に代わって許しあったんだ」
「……よくわかりませんが、陛下」
「なに?」
「うらやましいです」
 フッとシエンシアが笑った。クリオンはハイミーナに目をやって、雰囲気を引き締めるように、けがをしてるんだから油断しちゃだめだよと言った。ハイミーナはぶっきらぼうに答えた。
「けがはもういい。……それに油断させているのはその男だ」
 その時、どぉんと遠くで何かが爆発したような響きが城館を揺さぶった。皆が顔を見合わせる。
「なんだ?」
「ジングリット軍ではないな。強い聖霊は使わないはずだ」
「上へ!」
 クリオンが階段を指差し、一行は駆け出した。
 途中の討伐僧を次々になぎ倒して五階まで登ると、城壁の向こうの市街地が見えた。その光景にクリオンは息を呑んだ。
「あれは――!」
 小さな家ほどの太さの光の柱が大地に突き立っていた。光の当たった建物は見る間に赤熱し、爆発を起こす。光の柱は細くなって消えたが、すぐに別のところに現れた。油でも溜めてあったのか、その倉庫も炎の玉を飛び散らせて爆発する。
 続けざまに何本もの光柱がフィルバルトの町を叩いた。爆発が続き、遅れて届いた震動が、どぉん、どぉんとクリオンたちを揺らした。
「『ベテルギュース』だ……」
「早く倒そう、あれは防ぎようがない!」
 ハイミーナの叫びに、クリオンはレイピアを見つめた。
「ズヴォルニク、大神官はこっちいるんだな?」
「いる、高い。……塔の上だな」
「鐘楼か!」
「待て」
 駆け出そうとしたクリオンを、ズヴォルニクは止めた。
「もう一度「見極め」ておこう。『遷ろう者ども』が戻りつつある」
「――よし!」
 再び聖霊の吠え声。耳を覆って塞げるものではない。クリオンたちは滝に打たれたように首をすくめて耐える。ロウバーヌを本隊に残してきたので三体分の叫びだが、それでも鳥肌が立つほどの圧迫感がある。
 それを済ませてからズヴォルニクが言ったことに、クリオンは驚いた。
「我らの声、きやつにも届いている。あの『ベテルギュース』の乱打は苦しまぎれだな」
「なんだって……じゃあやぶ蛇じゃないか!」
「やらねばきやつはいくらでも移り替わる。キンロッホレヴンはグルドがじかに生み出した、受け手のない個体だ」
「……それは、見せかけだけの優しさもないってこと?」
「むしろ好都合」
 シエンシアがうそぶいた。
「誰のものでもないりんご、かじるも捨てるもお好み次第」
「遠慮がいらないってことだね」
 クリオンはうなずいた。
 階下にざわめきが起こり、同行するプロセジアの剣士が、新手ですと叫んだ。クリオンはプラグナに目をやる。
「後ろを頼めますか」
「了解した。皆のもの、よいな!」
 直剣と銀糸を構えなおす占星団員に後を任せて、クリオンたちは駆け出した。

 その頃、ジングリット軍は苦境に陥っていた。
 もとより数が少ないのだ。敵は八十万になんなんとするのに、こちらは四万。一人で二十倍もの敵を倒さなければいけない勘定である。兵士たちは初期の混乱を経て、本性を現した『遷ろう者ども』が賢くないこと、待ち伏せや罠などを使えば比較的楽に倒せることを発見したが、それでも有利になったわけではなかった。表に出ている分を掃討し尽くしても、王都の家々には数多くが潜み、家族が追い出さない限りそれらは出てこないのだから。
 市街地突入から半刻がすぎ、デジエラは十五万の敵を掃討したとの報告を受けていた。部下に見られないようにため息を隠す。十五万? 四分の一も倒していないではないか。
 二度目の聖霊の咆哮は、戦況をわずかに好転させた。その瞬間無防備になった『遷ろう者ども』を千体あまり倒すことができたし、二度も揺さぶられてこらえられなくなったらしく、多くの敵が人の姿に戻らなくなったからだ。想い人がもう元の姿に戻らないと知った市民はおびえて家から飛び出し、軍隊に助けを求めた。率先して攻め手に回る市民も出て、さらに数万を倒すことができた。
 しかし――少し前から届き始めた別の報告が、武将たちを焦らせた。『ベテルギュース』の光槌である。それはまるで狙ったようにジングリット軍の集結地点を撃ち、多くの兵を燃え上がらせたのだ。いや、間違いなく狙われているのだということがわかると、兵の一部は浮き足立った。剣で立ち向かえる怪物ならばともかく、空の上から炎を落とされるのでは逃げようもない。
「ひるむな! 逃げ場はないのだ、勝つか死ぬかだと思え!」
 叫んだデジエラに、エトナが焦慮の声で進言する。
「閣下、いっそ地方へ落ち延びて態勢を立て直したほうがいいのではありませんか?」
「阿呆、どんな名目でだ!」
 デジエラは斬りつけるように言い返す。
「皇帝陛下を見捨てて逃げた将軍としてか? 市民八十万を混乱の中に放置した軍隊としてか? それに北海の魔物が目覚めているんだぞ、悠長に兵を集めているひまがあるか!」
 一言もなくエトナは引き下がった。
 しかし、叫びつつもデジエラは危機を感じていた。数の不利は士気の高さだけで補えるものではない。補えるなら軍略も武将もいらない。何かもう一手打たねば――
「閣下、西の空の兵より急報!」
 マイラの叫びが届いたのはその時だった。
「王都に接近する軍隊を発見したとのこと! 兵数およそ八万、旗は……オリーブの葉の冠と十五の星です!」
「――シッキルギン軍!」
 デジエラは絶句した。時に味方、時に敵として大きな存在感を示してきた、西方の連合王国。それが八万の大軍を仕立ててやって来ていたとは!
「味方か、敵か?」
 デジエラが尋ねたとき、別の隊長が言った。
「閣下、昨夜そちらへ放った斥候は、戻りませんでした」
「……くそっ!」
 デジエラは歯噛みして命じた。
「マイラ! ただちにシッキルギン軍本隊へ急行しろ! どんな条件でもいい、協力か、せめて中立の約束を取り付けてこい!」
「どんな条件でも、ですか?」
「そうだ! 私の首でもいい!」
 紅の髪の女将軍は、鬼気迫る顔で怒鳴った。
「それで足りなければおまえも死ね! そんなもので王都が守れるなら、いくらでもくれてやると言ってこい!」
「了解!」
 忠実な部下が、小気味良いほどためらいなく答えた。

「大神官!」
 鐘楼の頂上に躍り出たクリオンは叫んだ。テラスに出て五星架を掲げていた男が、ゆっくりと振り向いた。その姿を見てクリオンたちは目を見張る。
 かつて彼は枯れ木のように高い背と痩せた手足を持っていた。その背丈は変わらない。だが――顔は精気にあふれた壮年の男のものとなり、虚ろにはためいていたローブは隆々たる強固な肉体に支えられているではないか。
「おまえは……本当にキンロッホレヴン四十九世か?」
「何を驚く」
 男は穏やかに言った。しかし、その顔は苦痛をこらえるようにしかめられ、額にはかすかに汗がにじんでいた。
「わしはイフラの神に命を授けられた者。隠さずとも良くなった今では、どのような姿を取ろうとはばかりはない。……だが実際、若返っておいて助かった」
 苦痛に頬をゆがめる。――いや、そうではない。笑ったのだ。
「この体でなければ、海王のおらびに耐えられなかっただろうからな」
「では……もう一度食らってみるか?」
 クリオンが足を踏み出してズヴォルニクをかまえる。大神官は首を振った。
「それはやめておくのだな。おらびを放つ隙に、わしはおまえを焼く」
「嘘だ。できるなら、なぜ今やらない」
「気づいておらぬのか?」
 大神官は眉を上げて嘲笑した。
「いかに強い力がおまえを守っているか。わしの目には、おまえが光り輝く繭に包まれているように見える。それさえなければトラスクはおまえの首を折れたのだ。それさえなければ麗虎はおまえを貫けたのだ。それさえなければ、わしはいつでも光槌をもって焼き消すことができたのだ!」
 眉が吊り上がる。――大神官は、凶猛な憎しみをあらわにした。
「聖霊め! プロセジアめ!」
「忌まわしき者よ……」
 ズヴォルニクが、遠い海鳴りのような重い声を上げた。
「もはや汝の負けと知れ。この者は――皇帝は、海王を御した・・・・・・
「――おのれえぇッ!」
 大神官の顔が引きつった。怒りに、そして恐怖に。
「『ベテルギュース』よ、五星の光槌を!」
 どぉん! と眼下の城館に光柱が突き立った。クリオンは眉をひそめる。
「狙いが逸れた?」
「否。汝を直接撃てぬので、この塔を崩すつもりだ」
「なんだって!」
 確かに光柱はじりじりと傾き、鐘楼の根元に近づいていた。クリオンは仲間たちを振り返り、また大神官に目をやる。
「逃げるひまがない! ズヴォルニク、あいつを倒せば攻撃は止むの?」
「止まぬ。きやつは呼ぶだけ、放っているのは五星だからな」
「じゃあ、どうしたら!」
 そしてクリオンは、聖霊の底知れない力――すべての力を知った。
「ジングの裔よ。汝は、我が呼ぶ水がどこから来るのか、考えたことがあるか?」
「……なんだって?」
「シリンガシュートは大気を乱し、チュルン・ヴェナは森の霧を招き、ロウバーヌは大火災の火を現しめ、闇燦星は闇の星のかけらを撒く。……しこうして、我は」
 レイピアがすうっと持ち上がり、ひとりでに天を指した。
「カリガナの海王。――わだつみに君臨する者」
 日が翳った。頭上を見上げたクリオンは、全身が総毛立つような恐ろしさに襲われた。
 そこに海があった・・・・・・・・。満々たる海水をたたえた、果ても見えぬ群青の海原が――。
 光槌は断ち切られた。大神官が絶望的な顔で海を見上げた。ズヴォルニクが微笑するように言った。
「これが聖霊の力だ、クリオン」
 漏斗に流れ込むように海水が集結した。渦巻きながら降りてくるその水の中で、流氷が、魚が、鮫が、鯨のような大きな影までもが逃れようともがいているのが、はっきりと見えた。
「ひ――!」
 かすれた声を上げて硬直する大神官に向かって、『ベテルギュース』の光槌など比べ物にならない、強力な、莫大な、高圧の水塊が落下した。
 クリオンは顔をかばう必要すらなかった。彼の三歩前方で、石の床が瞬間的に切断される音とともに、テラスがすっぱりと消滅した。滑らかな水面がクリオンの前に立ちはだかり、さらさらと旋回していた。
 轟音とともに鐘楼が揺れた。海水が大地にぶつかってはじけたのだった。深さ二十ヤードの巨大な滝壺を作り出した海水は、その深さで自らの重みを受け止め、自身の破壊的な勢いを無害な流れへと変えた。
 やがて水流は細くなり、竜巻が消えるときのように薄れて消えた。空を覆った海もいつのまにか去った。――しかし、断ち切られたテラスの端から見下ろしたクリオンたちは、しばらく声も出せなかった。
 フィルバルト城の城壁内は、水深二ヤードの湖と化していたのだ。

 灰色の冬空を突如覆った紺青の「海」は、王都のあらゆるところから目撃された。どれほどの「厚み」があったものか、その透き通った海は白い日光をかすかな蒼輝に変え、ゆらゆらと幕がはためくような陰影で町を包んだ。
 兵士は、市民は、戦いと逃亡のさなかにあってもつかの間その荘厳な光景に目を奪われ、疾空騎団の鳥使いたちは、上下の感覚を見失って暴れるエピオルニスを必死になだめすかした。
 デジエラも見た。本隊の幕僚、武将たちも。錯綜する様々な情報のせいで混乱寸前にあった彼らは、さらなる困難が持ち上がったかと声高に言い交わした。
「北海の魔物がもうやって来たのか!?」
「どうするんだ、部隊が崩壊するぞ」
「支えきれません、作戦を市民の退避に切り替えては?」
「――落ち着け」
 頭上を見上げて、デジエラはつぶやくように言った。
「大丈夫だ」
「大丈夫? なぜそう言い切れるのです、あれが落ちてきたら王都は――」
「ズヴォルニクの仕業だ。じきに収まる」
 周りの者たちは、デジエラが両腕に力をこめてロウバーヌを振り下げようとしていることに気がついた。脂汗を流して、デジエラがこわばった笑みを浮かべる。
「あいつが全力を出したのだそうだ。……くっ、ロウバーヌも張り合いたいと言って収まらん」
「張り合い……ど、どうなるのです?」
「さあな。……せめて王都の半分は焼け残ってほしいものだが」
 縄を切る寸前の猛獣を見たように、部下たちが身を引いた。デジエラが徐々に力を抜いて言った。
「大丈夫……よし、もう収まる……」
 言葉どおり、「海」は王宮の方向に吸い寄せられるように消えていった。
 ロウバーヌの勘気が収まると、デジエラは一つ息をついて言った。
「戦況は?」
 報告は芳しくなかった。戦果はどうにか二十五万体に届く程度だった。そのままの調子で作戦を続けられれば日暮れまでには一掃できる計算だが、兵は疲労と心労にむしばまれ、損害もすでに三千を越えていた。完遂はできそうもなかった。
 西門近くの路地で『遷ろう者ども』と死闘を繰り広げていた部隊は、突然背後から矢を浴びせられてばたばたと倒れ、生き残りは驚いて振り返った。『遷ろう者ども』は弓など使わないはずなのだ。
 路地を塞いで立っていたのは、漆黒の長衣をまとった討伐僧たちだった。軍司教が追い詰められたものの金切り声で叫ぶ。
「大神官猊下は先ほど神に召された! かくなる上は邪王のしもべどもを一人でも多く討伐し、猊下の御許にお送りするのじゃ!」
「――聖職者が弓を使っていいのか!?」
 非難は正しいものだったが、いかなる正しさももはや通じない相手だった。討伐僧が殺到してきて、兵士たちは次々になぎ倒された。前を討伐僧、後ろを『遷ろう者ども』に挟まれ、部隊は全滅するかと思われた。
 残りわずか四、五名にまで打ち減らされた部隊は、肩を寄せ合って集まり、隊長の号令一下、玉砕覚悟で僧たちに突っ込もうとした。それを見た討伐僧の前衛がさっと下がり、後列にいた者が弓を構えたので、彼らは死を覚悟した。
「これまでか……!」
 まさにその瞬間、僧たちの後ろから金の鎧をきらめかせた騎士たちがなだれ込んできた。軍司教が振り返って何か叫ぼうとしたが、その顔は縦一文字に断ち割られた。残る僧兵もあっというまになぎ倒された。
 助かった、と駆け寄ろうとした兵士たちは、騎士たちの鎧を見て足を止めた。見慣れたジングリット軍のものではない。赤と金の華麗な鎧にきらめく紋章は――ラピスラズリの葉に真珠の星を連ねたもの。
 騎士隊長らしき男が叫んだ。
「盟王近衛隊、短槍かまえーッ!」
「し……シッキルギン軍……?」
 ざざっと騎士たちが一ヤードほどの短槍を振り上げる。兵士たちは絶望した。虎と狼の口から逃れたと思ったら、熊に襲われるとは。
「投擲!」
 ブン! と空気を裂いた幾本もの槍が、兵士たちの髪の毛をかすめ、背後の『遷ろう者ども』を串刺しにした。
「え……?」
 兵士たちは何が起こったのかわからずに立ち尽くす。騎馬隊を割ってひときわ見事な鎧をまとった老人が前に出、微笑した。
「おやおや、驚かせてしまったな」
「あなたは……?」
「シッキルギン連合王国盟王、キルマ・シッキルギン。……『偽福の使い』を滅ぼさんがため、十五王国軍を率いてジングリット軍に助太刀する」
 彼の背後の大通りを、無数の騎兵が途切れることなく駆け抜けていった。
「援軍、援軍だ!」
「シッキルギン軍、参戦! 我がほうにつきました!」
 歓喜の声が西門を皮切りに続々と上がり始めた。やがてそれは本隊に届き、デジエラの愁眉を開かせた。
「賭けに勝ったな……」
「賭け……だったでしょうか?」
 ほっとした顔で、若い部下が言った。
「冷静に考えてみれば、最初から当てにしてもよかったのでは? 彼らに敵意があれば、我らが王都に入る前に襲いかかってきたでしょうから……」
「おまえはまだまだ場数が足りん」
 ロウバーヌを鞘に収めつつ、デジエラは疲れ切った顔で言った。
「私がシッキルギンの王なら、ジングリット軍が全滅するまで待ってから王都に入る。そのほうが同士討ちの恐れもなく、『遷ろう者ども』を倒すのも楽で、おまけに空の王都が手に入る。……借りができたのさ、いくつものな」
 目を丸くする部下に、デジエラは笑みを見せた。
「だが、かまわん。いくつの借りができようと……我々は勝ったのだから」
 遠く近く、潮騒のような叫び声が聞こえた。兵士のものだけではない。市民たちもまた流れが変わったことを知り、歓声を上げているのだった。

 死闘と、その残り火である地道な捜索は、夕方を過ぎても夜通し続けられ、翌朝までに七十五万体もの『遷ろう者ども』――シッキルギンでは『偽福の使い』と呼ばれている存在――が倒された。王都の辻々には奇怪な死体が山と積まれ、オン川へ向かう道は死体を流しにいく荷車で埋まった。
 市民の表情は複雑だった。多くの人々は『遷ろう者ども』の呪縛がとけるとともに正気を取り戻し、あのようなおぞましい存在と生涯暮らすことにならなくて良かったと感謝したが、そうでない者も少なくなかった。そういった人々は死体を悲しみの目で見つめ、また、道を行く軍列に暗い恨みのまなざしを向けた。
 昼過ぎに主要な辻に高札が掲げられた。文字の読める者はそれを見て驚いた。皇帝クリオン一世の名で発せられた布告だったからだ。極めて異例なことである。
 それには次のようなことが書かれていた。――教会と怪物の一掃が必要だったこと、そうしなければ国が滅んでしまうこと、教会に代わる慈善活動に帝国府が力を注ぐこと、皇帝が民の悲しみを悲しんでいること。
 いくつかの高札は引き倒され、唾をかけられた。口先だけならなんとでも言える、本当にすまないと思っているなら街中へ出て謝れ、と多くの人々が罵った。
 しかし、それを止め、高札を立て直したのも市民だった。その人々も、温かい措置に感謝してやったわけではない。皇帝を敬愛したわけでもない。むしろ彼らの顔にあるのは同情の色だった。
 民衆は愚かで無力だった。それだけに、理屈ではなく肌で世の流れを知っていた。『遷ろう者ども』、そして王都に降りそそいだ大神官の恐るべき炎。このような奇怪な災いが起こったことがかつてあっただろうか。歴代のいかなる王者がこんな敵に立ち向かっただろうか。
 少なくとも、路傍の草のように毎日を過ごす人々にとって、立ち向かうことなど思いもよらない、天災にも等しい出来事だった。
 王が奢り高ぶって贅沢をするなら恨みもしよう、武勲を望んでいらざる戦を引き起こすなら憎みもしよう。だが、クリオン一世は王都を捨ててもよかったはずなのだ。遷都もまた皇帝の権利の一つなのだから。
 それをせず、敵に満ちた王都に戻り、強大な大神官と自ら剣を交え、さらには恨みの目をわざわざ自分一身に集めるような布令を出す……
 高札を立て直したある老人は、周りから石をぶつけられて、こう言い返したものだった。
「あんたら、文句があるなら逃げるがいいさ。うちを畳んで、家族だけをつれて、ごたごたのない遠い土地へ。……けんどな、今度の皇帝陛下はそうせんかった。そうできんのじゃ、あのお方は」
 石はやむ。老人は皮肉げに微笑する。
「わしらと心中してくださるんじゃよ。……それで十分じゃないかね?」

 フィルバルト城は浸水で使えるものではなく、戦闘を終えたジングリット軍は結局、水が引くまで王都の南の宿営地を拠点にすることになった。シッキルギン軍も隣接する土地を拠点に定め、戦闘の翌日の昼、両国の王は顔を合わせた。
 樫の杖をついて近衛兵とやって来た老キルマ王は、ジングリット軍本陣天幕の席につくと、好々爺然とした顔で、開口一番こう言った。
「クリオン陛下、こたびのこと、お許しいただけるかな」
「許すなんて……」
 驚くクリオンに、キルマは孫にものを教える祖父のように言った。
「大軍を率いて無断越境し、みちみち異国の通貨で農民の蓄えを買い漁り、王府にまで軍靴を踏み入れたこと……あなたも一国の主なら、怒ってしかるべきことですぞ」
「とんでもありません」
 クリオンは首を振った。相手の狙いはよくわかる。こう下手から予防線を張られては、仮にこちらに怒る気があっても怒れないというものだ。
「感謝しています。おかげで助かりました」
「ほ、それはよかった。わしもびくびくものだったのでな」
 人を食った顔で老王は言った。この周到な王が脅えていたはずがなかった。
 クリオンは探るように聞く。
「それにしても、使いの一つも出していただいていたら、もっと早く協同できたと思いますが」
「すまなんだな。こちらでも、どの勢力が『偽福の使い』かわからなんだのじゃ。一昨日の夜にやって来たそちらの斥候を捕らえたのも、内情が漏れるのを防ぐため。重ねてお侘びしておこう」
「そうでしたか……」
「もっとも、昨日来た女鳥使いには驚かされましたぞ」
 キルマはしわに埋もれた目をいっそう細くした。
「弓を向けられながらわしの本隊に単騎で飛び込んできて、喉に剣を当ててわめくのじゃからな。同盟してくれ、さもなければこの場で自刃する、と。雑兵ならばいざ知らず、調律剣の使い手を自決覚悟の使者に出すとは、思い切ったことをなされた」
「それは……多分、マイラ・ニッセンというものです。帝国ヴェスピア疾空騎団の団長です」
「もう少し様子を見てから攻め込むつもりじゃったが、あの女がいかにも惜しくてのう。……陛下は良い臣下を持っておられる。大事にされるがいい」
「はい……」
 クリオンは神妙に頭を下げた。それからおもむろに尋ねた。
「キルマ陛下。今回の遠征はどういう目的なのでしょうか? フィルバルトの『遷ろう者ども』を倒すためだけにやって来たとおっしゃるのは、少々納得いきません」
「そのことじゃがの……陛下は、「グルド」というものについてどの程度ご存知かな」
 間合いを計るようなキルマの質問に、クリオンはきっぱり答えた。
「プロセジアの者からすでに聞きました。瀕滅大戦を引き起こした強大な魔怪、北海に封じられたはずのものだそうですね」
「なに、そちらにも占星団のものは入っておられたか」
 驚くキルマに、クリオンは壁際に控えていたシエンシアを呼んで示した。
「プロセジアのシエンシアです。以前はマウスと名乗っていました」
「おお! あの道化か、正体を見せたのじゃな? なるほど、そこまで話は進んでおりましたか」
「ご存知なんですか?」
「ご存知も何も……」
 くっくっ、と老王は笑う。
「その道化をキオラに同行させたのは、わしじゃ」
「……なんですって?」
 目を見張るクリオンに、キルマは楽しそうに説明した。
「シッキルギンは昔から占星団と深い関係を持っておるのじゃ。先ほど「そちらにも」と申したのは、我が国にも占星団が関わっておるため。こたびの遠征は彼女らの進言あればこそよ。北海の海魔、間もなく目覚めん。国と国とが手を携えねばこれを討つことかなわぬ、と……」
「シエンシア」
 クリオンはにらむ。
「こういうことなら、もっと早く教えておいてよ。シッキルギンを頼れると知っていれば、他にもやりようが……」
「あなたは私が魔法か何かでも使えると思っているんですか?」
 シエンシアは肩をすくめる。
「南方にいた間は団長たちとたまにしか連絡が取れませんでした。シッキルギン軍の到来も初めて知りましたよ」
 彼女の素振りには、あの余人にうかがい知れない深さがある。どこまで本当なのかクリオンにはわからなかった。
 ため息をついてキルマに目を戻す。
「では、シッキルギンは今後もグルドを討つまで協力してくださるんですね」
「無論じゃ。『偽福の使い』は連合王国にも出没しておる。元から断たねばフィルバルトの二の舞じゃからの」
「ありがとうございます」
 クリオンは立ち上がり、深々と頭を下げた。列席の武将たちもそれに倣った。
 いやいやと手を振ったキルマは、細かいことを決めようと部下に目をやったクリオンを軽く手招きした。
「クリオン陛下。雑事は臣下に任せるとして、一つお願いがあるのじゃがな」
「なんでしょう?」
「キオラに会わせてくださらんか。ずいぶん顔を見ていないのでな」
「ああ! すぐに呼びます」
 クリオンが顔をほころばせて言うと、キルマは首を振ってさらに言った。
「いや、わしが出向く」
「それには及びませんが……」
「聞くところによると、クリオン陛下は何人もの美姫をおそばに侍らせていらっしゃるそうじゃな。ぜひともその方々を拝見したいのじゃ」
 クリオンはまじまじとキルマを見つめていった。
「……もしかして、そちらがお目当てですか?」
 いやいやいや、とキルマは笑って手を振った。

 妃たちは以前に引き続き、宿営地近くの民家で待っていた。二大国の国王自らの下向と聞いて、家の主や村長がすっ飛んできたが、クリオンは丁重に歓待を断った。
 戸口を入ったところでソリュータと鉢合わせした。いつも通り、飾り気のない黒の衣装を身に付けていた彼女は、クリオンを見て待ちかねていたように口を開いたが、そばに立つキルマに気づくと表情を消して一礼した。
「このようなあばら家にお越しいただいて、恐縮にございます。キルマ陛下」
「おや、わしの顔を知っておるのかね」
「はい。列国のお歴々はすべて、肖像画できちんと……。申し遅れました。クリオン陛下の侍女、ソリュータ・ツインドでございます」
 侍女といっても侯爵家の貴族です、とクリオンが言い添えた。キルマは相好を崩し、よく勉強しておられる、とうなずいた。
 奥へ入ると、居間のテーブルでレザと眼鏡をかけたエメラダが額を突き合わせていた。何をやっているのかと見れば、これが編み物である。
「ですから、ここをこうして、針の先をこう……」
「こっち? あれ、こっちか」
「違います違います、こっちだって言ってるでしょう! まったく、メッセンの網で魚をすくうのも疲れますわ!」
「意味はわかんないけど、馬鹿にされてるのはわかる。文句があるならほっといて」
「教えてって言ったのはあなたでしょう?」
「あの、二人とも……」
「陛下?」
 熱中していた二人が、ようやく気づいて振り向いた。エメラダはあわてた様子で編み物を籠に押し込む。何やってるの、と聞くと二人の代わりに窓際で絵本をめくっていたチェル姫が言った。
「襟巻、編んでるの。陛下にあげるために、みんなでちょっとずつ」
「襟巻き……?」
「チェル姫!」
 エメラダが叫んだが、クリオンが首を傾げて覗き込んだので、しぶしぶ編み物を見せた。
「古いおまじないよ。女が編んだ物を男に渡すと、矢弾避けになるっていうから」
「それに、近頃は冷えて参りましたし」
 まじないなど信じていないと言わんばかりにレザが顔を背ける。クリオンが笑って礼を言おうとしたとき、台所の方でばたばたと音がしてキオラとポレッカが出てきた。
「こんなに早くグラタンにリムの粉をかけちゃったらだめでしょう!」
「だって食べる前にかけるって、ポレッカさんが」
「それはスプーンを入れる直前っていう意味でしっシロン!?」
 クリオンを見た途端ポレッカは固まって盆を落としそうになる。おっとっととキオラが手を伸ばして支える。
 やあ、とクリオンは片手を挙げた。
「ご飯時みたいだね」
「ご、ごめんなさい! 来るってわかってたらちゃんと迎えたのに、やだもう、こんなところ……そ、そうだ。残りはまだ焼いてないから、シロンの分も作るね?」
 すぐっ今すぐっと言ってポレッカは台所にかけ戻る。
 クリオンは振り返る。廊下が狭くてキルマはまだ後ろにいる。彼は珍獣を見つけたように娘たちを眺めている。
 突然戸口で声がして、数人が中に入ってきた。
「こいつ、おとなしく来い! 陛下はこちらだと言ってるだろう!」
「ふーうっ!」
「もう放っておけ、マイラ。噛まれるぞ」
「マイラたちも?」
 クリオンはキルマの横から戸口を見て驚いた。入ってきたハイミーナ、フウ、マイラが不思議そうにクリオンを見る。
「は、参りました。……陛下のお呼び付けではなかったんですか?」
「ううん。三人とも部隊にいたんじゃなかったの?」
「いましたが、ジングピアサー閣下がこちらで陛下がお待ちだと……」
「……デジエラめ」
 女将軍の笑顔が目に見えるようだった。大明戦以来、ぶっ通しで戦い続けてきた三人に、ささやかな休みを与えたつもりなのだろう。
 クリオンはまたため息をつき、キルマを示して娘たちに言った。
「こちらはシッキルギンのキルマ陛下だ。みんな、失礼だよ」
 あわてて娘たちが背筋を伸ばした。キルマが我に返ったようにクリオンを見下ろした。
「クリオン陛下、そのう……まさか、このお嬢さんがたがあなたの?」
「ええ、まあ……」
 クリオンは決まり悪げに言い、全員を紹介した。キルマがいやいやいやいやと首を振る。
「驚いたわい。十五王国のどこでもこんな様子は見たことがない」
「すみません、ばたばたしてしまって。もっとこう、宮廷では一例に並べて挨拶させるのが本当ですよね」
「そうではのうて……」
 キルマはほとほと感心したという顔でクリオンを見つめた。
「陛下は他国の王の妃たちをご存じないか? さそりの群れですぞ。王の寵を争って隙あらば互いに毒針を刺そうとし、いさかいが極まれば王にも毒を盛る。それに比べて、なんともはや……」
 娘たちを見回す。
「和やかな!」
「お兄さまの人徳ですよ」
 最前から一人だけ、全部承知しているような顔で笑っていたキオラが、軽やかにやってきてキルマに寄り添った。
「お爺さま、お久しぶりです」
「おお、キオラ。大事ないか?」
「はい。可愛がっていただいてます」
「キオラ!」
 クリオンが顔を赤くして叫ぶと、うふふと微笑んで奥へ逃げていった。
 相変わらずじゃなと首を振ると、キルマはポレッカを手招きして言った。
「お嬢さん。ええ、なんと申されたか……」
「ぽっポレッカです!」
「そう、ポレッカ殿。すまんが、もう一皿頼めるか」
「は?」
 目を点にしたポレッカに、キルマは笑いかけた。
「遠征軍の食事というものは、それはそれはまずくてのう。陪席もむさくるしい武将どもばかりで華がない。先ほどからいい匂いもしとることだし、綺麗どころに囲まれて、クリオン陛下にご相伴させていただきたいのじゃが……」
 ポレッカはまだ呆然と突っ立っている。クリオンが言ってやった。
「シッキルギン王族はテルーニュの五つ星の常連だよ。ポレッカの腕を見せてあげて」
「は……はいっ!」
「マイラたちもおいで」
 ……やがて、クリオン自身も経験のない、九人の妃全員と老王との午餐が始まった。キルマはポレッカの料理を手放しで誉め、皿をひっくり返すフウをエメラダが怒鳴りつけ、謹直にかしこまるマイラにレザがテーブルマナーを講義した。チェル姫は椅子がないのでハイミーナの膝に乗り、キオラとソリュータは皿の上げ下げに立ったり座ったりし、最後に食卓に出たポレッカはクリオンと椅子を半分こすることになり、頬を赤らめて慎ましく寄り添った。
 キルマに言われたことを、クリオンは改めて感じる。これが得がたい奇跡なのだということを。
 悲劇と悲劇の間の、それはつかの間の安息だった。

 翌日までにフィルバルト城の海水は濠を通じてオン川に流され、城が使えるようになった。ジングリット軍とシッキルギン軍は旗を並べて入城した。
 多忙な毎日が始まった。やるべきことは山ほどあった。
 プロセジア占星団団長プラグナは、およそ一ヵ月後にグルドが上陸すると告げた。それがすべての期限だった。
 帝国各地に向かって兵力動員の使いが出された。帝国本土の防衛戦である。春から続く何度もの戦で国力は減少していたが、そんなことは言っていられない。可能な限り国軍定数四十万に近づけよとデジエラは檄を飛ばした。
 消耗した武器防具の類も夜に日を次いで増産された。収穫期の済んだ冬の始まりだったのが幸いして食料には事欠かなかったが、多大の費用がかかるのは明らかだった。にもかかわらず国庫は持ちこたえた。ジュゼッカ・デ・ビアースが王都の商人連をまとめ、全軍需品の支払いを来期まで待つよう約束を取り付け、自身は莫大な財産を帝国府に寄贈――本人の言を借りれば投資――したからである。
 それらは最初のうちこそもたついたが、馬車を乗り継いで急いだレンダイク男爵以下の帝国府文官たちが七日目に到着すると、がぜん順調になった。戦ばかりで出番のなかった腹いせとばかりに彼らは働き、すみやかに帝国の政治状態を立て直していった。
 市中には改めて布令が出された。幻の幸福を失って悲嘆に暮れていた市民は多かったが、瀕滅大戦が再来すると聞かされては悲しむどころではなかった。国土を守るために、あるいは悲しみを忘れるために、戦への備えに力をふるった。
 貴族たちも皇帝への服従を誓ったが、これは自発的なものではなかった。レンダイクがデジエラと手を組んで脅したのである。財力と兵力を出すか、さもなければ軍を出して領地と家督を没収するぞという脅しだ。こんな無体は平時ならば通るものではない。貴族同士の結束を強めて皇帝への造反を引き起こしかねない。だがレンダイクはやった。造反があるにしても一ヶ月や二ヵ月以内のことではないだろうと踏んだからだ。これはその通りで、グレンデルベルト大禍で大貴族を失った貴族たちは結束の核を持てず、各個撃破されるようにしてレンダイクの軍門に下った。
 教会の人々の処遇が問題になった。殺さず捕らえることのできた僧たちが千名以上もいたが、縄をほどけば再び牙をむくことは明らかだった。クリオンはそのまま説得せず生かしておくよう命じた。いくら彼らでも、神とも仰ぐグルドが倒されてしまえば転向するだろうと考えたのだ。倒せなければもろともに滅亡するだけである。
 さらに大明軍の捕虜の問題もあった。天舶の乗員と鴆兵と陸兵、合わせて一万三千名あまりが捕らえられていた。彼らは僧たちと違って狂信者ではない。だが、大統令霞娜個人を崇拝する傾向が強かった。本国へ戻る意思を聞きとったところ、ほとんどの兵は霞娜ととともにあることを望んだ。また、東の国境からも、大明軍の増援が来そうだという報告はない。大明本国へ使者を立てることは時間的に間に合わなかったが、つまるところ彼らは大明の国家的軍隊ではなく、霞娜とその他大勢、というべき集団であることがわかった。
 ならば霞娜さえ生かしておけば彼らも御することができる。他にやることが多すぎたので、この件はそのように扱われることになった。つまり、後回しである。ただし、天舶や鴆などの武器は利用できれば多いに役立つため、鹵獲したものを調べることになった。フィルバルト城に招き入れられて、ベクテルら工匠の調査を受ける『白沢』の巨体は、ジングリット軍の勝利を人々に印象付けた。
 こういった動きの中でプロセジアの人々は、一日、主要な人物を集め会議を開いた。その席上で明かされたのは驚くべきことだった。
 広間に集まった人々の前でプラグナは言った。
「クリオン、戦いの前にあなたにやってもらわねばならないことがあります」
「どんなこと?」
「五聖霊の力ですべての『遷ろう者ども』を「見極め」てもらうこと」
 一座はざわめいた。クリオンも困惑する。
「それはもうやったじゃない。王都にはわずかな敵が残っているそうだけど、それをもう一度?」
「聖霊のそもそもの成り立ちを話しましょう。――聖霊とは、大自然の力を取り込んで封球に収めたものです。その方法は、昔、ベルガイン一世に命じられた我らの祖が生み出しました。グルドに対抗するために。人間を遥かに越えるその力を手に入れることで、古代の人々はグルドに打ち勝ちました。その後、聖霊は開放されて自然の中へ帰されましたが、長い歴史の間で己の素性を忘れ、天然の現象がそうであるように、猛威を振るって人間に害を及ぼすようになりました。そして再び人の手によって封じられるものも出てきた。……ズヴォルニクやロウバーヌなどは、そうやって封球に込められたものです」
 クリオンとデジエラに目をやり、プラグナは続ける。
「ですが彼らは、素性は忘れても全力をふるうことの禁忌だけは忘れなかった。振るえば彼らの本来の敵であるグルドよりも邪悪なことを為してしまうからですね。しかし、彼らにそれだけの力が与えられたのは、何も敵を物理的に破壊する必要があったためばかりではありません。「見極め」るためなのです。これは古伝にも書かれています」
 キルマ王とともに同席していたキオラがうなずく。クリオンは身を乗り出す。
「でもそれは、もう……」
「クリオン、一つの事実を教えます。――ジングリット帝国の人口は、人別帳にあるような九千万ではありません・・・・・
「え?」
 クリオンは瞬きした。その時、顔色を変えて立ち上がった者がいた。帝国府理財司の女文官、サレスチナ・イマロン。
「まさか!」
 プラグナは彼女を見て、ゆっくりとうなずいた。
「ええ。……帳簿と実際の人口の差は、すべて『遷ろう者ども』なのです」
「ありえないわ! 何人いると思っているの、あの差が調査の間違いではなくて事実なのだとしたら、それこそ数千万――」
「およそ二千万体・・・・です」
 一座は水を打ったように静まり返った。イマロンがわなわなと肩を震わせ、崩れるように腰を下ろした。
「だから……税収が……」
「そうです。帝国北部を中心にかなりの地域でそれが起こっています。『遷ろう者ども』とそれに惑わされた人々は、正常な貢税をしません。領主や代官の中にもそうなった者がいるでしょう。また、南部のフェリドを襲った異常もこれと同じものです。敵は海から来るのですから・・・・・・・・・・・・。……南方半島も海に接しています」
「あなた……プロセジア占星団は、なぜそんなになるまで知らせてこなかったの!」
 イマロンの叫びに、プラグナは肩を落とす。
「決まっています。無力だから……信じてもらえないからです。皇帝に準備ができて「見極め」られるまでは、それを暴き立てる方法などなかったのです」
「つまり……」
 クリオンが驚きを抑えた声で言う。
「つまり……すべての『遷ろう者ども』というのは、その二千万体のことなんだね。それを「見極め」るために、聖霊は桁外れの力を与えられたんだね」
「ええ。――瀕滅大戦の時には五千万だったそうですが」
 ようやく言えた、という顔でプラグナはうなずいた。しかしすぐに首を振った。
「でも、あと一つ足りないのです」
「あと一つ?」
闇燦星アンサンジンが」
 プラグナは険しい顔で言った。
「ズヴォルニクから聞いたでしょう。四体では王都程度ならカバーできますが、それ以上は無理なんです。大陸全土の『遷ろう者ども』を「見極め」るには、どうしても五体が揃わねばなりません。だから、クリオン」
 プラグナは不気味なほど静かな声で言った。
「霞娜を殺し、ジングの血を引くただ一人の人間となって、闇燦星を従えなさい」
「だめだ!」
 即座にクリオンは言い返した。
「予はそんなことはしない。箱舟を沈めたあなたたちのようなことは!」
「……やはりあなたはゼマントの子」
 そう言ったのは、末席にいたシエンシアだった。やめろ、とたしなめるプラグナを無視して言う。
「クリオン、霞娜はゼマントが大明の女との間に作った子です。雪娜という妹との双子でした。彼女らは妃との間にできた子ではなかったので、生まれてから密かに霊石リンシーという国境の村に隠されていました。が……その後、皇帝の血を絶やそうとするグルドと教会の陰謀により、ゼマントはだまされてしまったのです」
「……それが十年前の虐殺?」
「ええ。ゼマントは、双子が災いになると信じ込まされて霊石を攻め、雪娜を殺しました。霞娜はからくもその手を逃れて大明の首都、凱陽カイヤンに落ち延び、グルドの密かな支援を受けて大統令の座にまで上り詰めました」
「それと今の話と何の関係がある」
 レンダイクが険悪な顔で言うと、シエンシアは首を振り、笑った。
寛大・・なところがです。ゼマントを止めようとしたデジエラが、なぜ称えられたのですか? なぜゼマントは逆上してデジエラを斬らなかったのですか? ……止めてほしかったから・・・・・・・・・・ですよ。グルドにだまされていたことに気づいて」
 デジエラがかすかに表情を動かした。――注意深く見ていた者がいれば、それが喜びの色だと気づいたかもしれない。彼女はつぶやく。
「やはり……陛下は良いお方だったのか……」
 シエンシアはクリオンに顔を向けて言った。
「親子二代にわたって霞娜をあやめようとし、またそれを避けた。……これはなかなか因縁深い話ですね」
「シエンシア、無駄話を」
 顔をしかめてプラグナが言った。
「因縁など気にしている場合ではありません。ことは人類の存亡に関わります。クリオン、情に流されてはいけません!」
「プラグナ」
 クリオンは立ち上がった。その瞳には静かな怒りが燃えていた。
「予はやらない。それでプロセジアが背くというなら、かまわない。帝国の者だけで戦う」
「無謀です!」
「予は、予のやり方でやる。……霞娜と話してみる。それで霞娜が従えば、闇燦星は予のものになるんでしょう? 血筋の力も予に集まるんじゃない?」
「それは……そうですが」
「下がって。行ってくる」
 クリオンは背を向け、広間を出ていった。――落胆は、プラグナだけのものだった。
 他の者たちは、クリオンがそれを為すことを信じていた。

 この頃の、戦に備えた眠る間もないような忙しさがなければ、クリオンは後の悲劇を防げたかもしれなかった。しかしクリオンは軍事と政務に加え、この霞娜の問題までも抱え込んで、それこそ休むひますら持てなかった。妃たちとは一日に一度か二度顔を合わせるのみで、床を共にするどころか、食事を一緒に摂ることもままならなかった。
 時間が空けば、クリオンは幽閉された霞娜のもとへ赴いた。
 彼女は無視した。クリオンはあきらめなかった。謝罪し、また非難し、話し合おうとした。四度も五度も霞娜は無視した。それでもクリオンは彼女を訪ねた。
 十何度目かで、初めて霞娜はクリオンに目を向けた。そして話を聞いた。
 その次に訪れたとき、霞娜はクリオンを罵倒した。雪娜を殺したゼマントのこと、自分を犯したこと、そして自分に雪娜を殺させたこと。クリオンはすべての言葉を黙ったまま聞いた。
 その次に訪れたとき、霞娜は泣いた。泣きながらクリオンを罵った。それでもクリオンはひとことも言い返さなかった。
 その次に訪れたとき、霞娜は闇燦星でクリオンを殺そうとした。同行していたシェルカがすんでのところでクリオンを引き倒して助けた。それでもクリオンは霞娜を責めなかった。
 その次に訪れたとき――
「わかったわ」
 霞娜は言った。牢の床にぐったりと座り、疲れ果てた顔だったが、怒りの色は燃え尽きたように抜けていた。
「あなたに力を貸す」
「……本当に?」
「ええ。でも、誤解しないで。恨むことをやめたわけじゃない。恨みも怒りも、先送りにするだけ。私の軍と民のために。私だって彼らを憎んではいない。むしろ愛してる」
「……ありがとう」
「もう、わからなくなってしまったの」
 霞娜はうっすらと笑みを浮かべてつぶやいた。
「どうすればこのつらい思いを消せるのか。以前はあなたを殺せば収まると思っていた。でも、そうではないみたい。あなたを殺し損ねたときにわかった。……雪娜を殺したときのように、また胸が痛むだけだって」
 だから先送りにする、と霞娜は膝を抱えた。
「この気持ちが何か別のものに変わるまで。ゼマントがだまされていたって信じられるまで。悪いのはそのグルドという者だって納得できるまで。……あなたを許せるまで」
「それは望んでいないよ」
 つぶやくクリオンに、首を振る。
「許した方が楽だとわかっているの。でも許したくないの。その決心をする自由ぐらい、与えてもらえないかしら?」
 そう言って霞娜は羽衣を肩から外し、差し出した。
「闇燦星よ……皇帝に従いなさい」
「あなたが持っていて」
 クリオンは牢から離れて言った
「感謝しています、姉上」
「……それはまだやめて。ううん、ずっと」
 クリオンは無言で頭を下げ、去っていった。

 五星暦一二九〇年十二月一日。
 皇帝クリオン一世は大陸連合軍の成立を宣旨した。ジングリット軍、シッキルギン軍、大明軍、プロセジア占星団、そして南方の異族フェリドの連合軍である。フェリド総族長フウは全部族の参戦を確約した。
 宣言はフィルバルトの民にも広めるため、城館のバルコニーで行われた。かつて大神官が立ち、異様な説法を行ったそこに、今また真の主である皇帝が百官を背にして立った。冬の烈風に緋のマントをはためかせて立つ少年皇帝を、前庭を埋めた群衆は静かなざわめきを上げて見つめた。
 クリオンが黄金の王杓を低く差し伸べて言う。
「帝国の民よ――そして大陸のすべての者たちよ。
 汝らの前に敵がある。
 敵の名はグルド。――恐るべき、忌まわしき敵なり。
 予は、予の愛する者たちと汝らのために、敵を討つ。
 人よ、聖霊よ、力を貸せ。
 我らが大地を守り、我らの明日を招くため。
 心に持て、偽りの幸福が齎した痛みを!」
 大神官のような朗々たる大声ではない。だが、声を支える意思があった。バルコニーの背後の壁に跳ねた声は、寒風を貫いて広がり、城壁に幾重にもこだまして人々の耳に届いた。
 王杓を差し上げる。
「皇帝の名において命じる。軍を発し、敵を討て!」
クリオン皇帝陛下万歳ウーレー・クリオン!」
 デジエラが叫んだ。巨大なとどろきが湧いた。
「ウーレー・クリオン!」
「ウーレー・クリオン!」
「ウーレー・クリオン!」
 波騒ぐ水面のように揺れる群集を見下ろして、クリオンは思う。かつてこれと同じように、歓呼に身をさらしたことがあった。即位式。
 その時の自分はみじめなよそ者に過ぎなかった。今は違う。彼らすべての上に立つ者。
 よくここまで来られたものだ――そう思い、すぐに自分に言い聞かせる。来られて当然なのだ。多くの、自分にはもったいないような人々が助けてくれたのだから。
 今はその時ではないと知りながら、振り返る衝動をクリオンは抑えられなかった。居並ぶ臣下たちの間に、黒いスカート姿の娘が確かに見えた。
 クリオンは微笑んだ。
 王杓を下ろし、横へ歩く。台座の上に五つの聖霊武器が置かれている。その主のチェル姫、フウ、デジエラ、そして霞娜もこの場にいた。
 すべては揃った。プラグナがそばにやってくる。
「では……「見極め」てください、クリオン陛下」
 霞娜を説き伏せたクリオンを、もう彼女は呼び捨てにはしていなかった。ズヴォルニクを手にとって、うやうやしく差し出す。
 クリオンはそれに片手を触れた。詠唱は不要だった。海王は満を持して震えている。
「ズヴォルニク……いいか?」
「諾」
 ズヴォルニクが叫び始め、四体の唱和が続いた。徐々に、徐々に――そして果てしなく、それが高まっていく。
 その時、文官の列から一人が進み出た。その女は、さも急の知らせが皇帝に届いたというような様子で、せかせかと近づいていった。
 誰が予想しえただろう、その女に向かって、皇帝の一の侍女が光るものを手に走るなど。
 一瞬の出来事だった。腰だめに短剣を構えて突っ走ったソリュータが、スーミー・シャムリスタ・・・・ ・・・・・・の脇腹をまともに突き刺した。
 二人の女はもつれあって床に倒れた。わずかに遅れてシェルカが皇帝を守ろうと走った。イマロンが大きく口を開けた。デジエラがそばの衛士から槍を引ったくった。
 クリオンが振り返った。そして絶叫した。
「ソリュータ!?」
 彼は一瞬で事態を理解した。――理解したと思った。
 もはや自発的に叫んでいるズヴォルニクを捨て置いて、ソリュータに駆け寄る。スーミーはうつぶせに倒れ、ソリュータは膝を折って蒼白な顔色で座り込んでいた。短剣は床に転がっている。
 ソリュータの肩に両手を置いて、クリオンは悲痛な声を上げた。
「どうしてこんなことを! そんなに――そんなに思いつめてたの?」
「違います」
 ソリュータは、きっぱりと言った。それからやにわに、獣にのしかかられたように、クリオンを払いのけた。
「ソリュータ!」
 そしてクリオンは悲劇を目にする。
 彼が一瞬前までいた空間に、拾った短剣をかまえて飛びかかる、『遷ろう者ども』を。
 スーミーの服を身に着けたそれが、ソリュータの柔らかな腹に深々と短剣を突き刺すところを。
 鮮血がしぶいた。ソリュータの温かい血が冬の大気にはじけ、湯気を立てた。
「生き残りか!」
 叫びと共にシェルカとデジエラが武器を突き出し、スーミーだったものを串刺しにし、両断した。
 どうっ、とそれが床に倒れる。クリオンは呆然としていた。彼の前で世界は凍り付いていた。
 ソリュータだけがいた。ソリュータはクリオンを見ていた。腹に手をやりもせず、短剣を抜きもせず、片手を床についてよろめきながら近づき、クリオンの前まで来た。
 青白い顔に懸命な笑みを浮かべ、閉じかかる黒い瞳をふるふると見開いて、彼女は言った。
「おけがは?」
「ソリュー……タ……」
「ご無事ですね。よかっ――」
 クリオンの腕の中に重いものが倒れこんできた。慣れ親しんだ彼女の髪の香りと、それを塗りつぶす鉄錆の匂いが鼻を突いた。
「ソリュータあっ!」
 蜂の羽音のようなざわめきがクリオンを包んだ。手当てを、リュードロフを呼べという叫びを含んでいたが、そんなものはクリオンの耳に入らなかった。ソリュータの頬に手を当てて、伏せられた睫毛の下の瞳を求めて、絶叫し続けた。
「ソリュータ、ソリュータ、ソリュータ!」
「おどきください!」
 デジエラが突き飛ばすようにしてクリオンを押しのけ、駆け寄ったリュードロフにソリュータの体を差し出した。老齢の侍医はさすがに日頃の余裕も吹き飛んだ様子で、慎重な手つきで短剣を引き抜いた。
 ごぷりと新たな血泡があふれる。その短剣で傷の周りの服を裂いた侍医は、やがて沈鬱な表情で言った。
「この血の色……腹の大動脈を裂かれましたな。場所からして腹膜、腸、あるいは胃」
「能書きはいい、さっさと手当てしろ!」
「血止めをします。しかし……臓物をやられたとなるとこれは……」
 布を取り出してソリュータの腹を押さえる。デジエラが苛立ちを隠さずに言う。
「これは、なんだ。はっきり言え!」
「難しいですじゃ。ジングリットに臓物を治す技というものはございませぬゆえ」
「貴様それでも医者か!」
「わしとて治せるものなら治しますとも!」
 二人の殺気立ったやりとりも、クリオンには遠くの声のように聞こえた。今すぐ喉を突きたいほどの自責が彼を押しつぶしていた。
 ソリュータはぼくを守ろうとした。
 なのにぼくはソリュータを疑った。
 ソリュータを疑った。絶対疑っちゃいけない人を疑った。
 ぼくは……
 その時、肩に手を置かれた。
 凛とした澄んだ声が言った。
「プロセジアの者。おまえたちなら治せるんじゃないの」
「それは……可能です。しかし設備は本市にしか」
「本市とはどこなの!」
「北部ホブロー領の近くです! ここからはエピオルニスでも三日かかるのですよ!」
「天舶なら一日だわ。哨戒せずに最高速を出せば。侍医、たった一日も持たせられないなどとは言わないわね?」
「ど、努力いたします!」
 クリオンはゆっくりと手の主を見上げた。異国の娘が決意のこもった眼差しで見ていた。
 彼の姉が。
 霞娜は言った。
「最愛の者を失う痛み……わかるわ。あなたに味わわせはしない」
 そして大明合衆帝国大統令は、台上で叫び終えた闇燦星を手に取り、他の何者にも下せない命を発した。
「『白沢バイズェ』にいる者、応答しなさい! ただちにバルコニーに飛来して私たちを収容せよ! ジングリット皇帝の妃を救命する!」


―― 最終話に続く ――



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