次へ 戻る メニューへ  皇帝陛下は15歳! 第7話 後編


 10

 夜明け前の薄闇の中に、いくつもの金の瞳が光っている。
 幹の陰、茂みの中、こずえの上。無慮百以上の瞳が瞬いている。彼らが見つめているのは、地面にどっしりと座り込んだ一人の戦士。波打つ金髪を腰まで垂らし、使い込んだ木の長棍を肩に立てかけた、たくましい体つきの美丈夫だ。
 ウォラヒア大支族、族長ジャムリン。
 ジャムリンは眉根を寄せ、苦悩していた。
 周囲に集まった仲間――それぞれ数百人の支族を束ねる族長たちのささやきが、彼を押しつぶさんばかりに、ひっきりなしに投げかけられる。
 ――攻めろ、押し寄せろ、やつらを飲み込め。
 ――無理じゃ、人間は強い。皆殺しにされてしまうぞ。
 ――樹海はグルドに食い荒らされた、戻れはしない。
 ――まだ遅くはない、樹海に戻って根気よく身内からグルドをあぶりだそう。
 ――間に合わぬ、それより人の女をさらうべし。
 ジャムリンは胸にあごをうずめ、ますます深く悩む。
 正直、最良の方法などというものは思いつかなかった。仲間たちは得体の知れぬグルドの浸透に脅え、苛立っている。今の彼にできるのは、その苛立ちのはけ口を見つけてやることだけだった。
 問題は、人間と戦うべきかどうかということだ。彼にしても、人間と和睦を結べるとは思っていない。何しろこちらの要求は、子を産める女を差し出せというものなのだから。仮に意思を伝えることができたとしても、答えは拒否に決まっている。
 それなら、正面から戦いを挑まずとも、支族ごとに分かれて人間の領土に散らばり、軍の来ない辺境を掠めて回るという手もあるのではないか。
 しかしそれは、とりもなおさず大支族が崩壊することを意味していた。ジャムリンに許容できることではなかった。
 やむをえなかった。
「長たちよ……」
 片手を上げると、すっとささやきが鎮まった。
「明朝には群れのすべてがガジェスを越えてくる。時間はない。トンベを攻めよう」
 諾、という叫びと、否、という叫びが交錯した。無数のフェリドが上げる深い吐息のような声に驚いて、まだ眠っていた小鳥たちがバサバサと飛んでいった。
「聞け、戦士たち」
 喧騒を突いて、ジャムリンが長棍を差し上げた。
「いにしえさま『バオバアブ』に選ばれたジャムリンの言いつけだ。従わぬなら大支族より追う払うぞ」
 ――貴き血でもない成り上がりが。
 細い嘲笑にジャムリンはキッと視線を向けたが、誰が言ったのかは分からなかった。
 ごそごそと言い交わすささやきがあったが、しばらくすると、大半の族長が同意のささやきを漏らした。
 ――よかろう、我が支族はこれより走り出す。
 ――我々は明晩だ。
 ――気が長いな。我々は日が山の端にかかるまで休むぞ。
 ガジェスを越えて寒冷な北方中原にたどりついてから、すでに二十日あまり。皆は忍耐の限界に達していて、ジャムリンの細かい指示など聞こうとはしなかった。もとより、大支族長といえども、それぞれの支族の戦い方に口を挟む力はない。任せるしかなかった。
「……うむ、これで会合を終わる」
 枝を渡る音、下草を踏む音がさわさわと遠ざかり、やがてジャムリンの周りに静寂が満ちた。ジャムリンは長い尾を丸めて苛立たしげに耳をかきながら、つぶやく。
「『チュルン・ヴェナ』とメルエがこの場にいればな……」
 それこそ、古き血を持ち、全フェリドを束ねる「瀑布の主」の名だった。まだ身分かれの済んでいないあの仔供に、種を付けることができていれば、もう少し楽に族長たちを従わせられたのだが。
 腕組みして考えていると、するりと背後から腕が巻きついた。
「わたしでは不満なの、ジャムリン」
「……オーニスか」
 ねっとりと甘い花芯の香りのする髪が、ジャムリンの頬をくすぐる。振り向くと、たおやかな美貌が微笑んでいる。ジャムリンは腕を広げ、連れ合いを抱きしめた。
「不満じゃない。不満じゃないが……」
「それなら、なぜ二人も連れ合いを増やして、その上メルエまで手に入れようとするの」
「仔がほしいからだ。ほしいのに、おまえも、フンムも、デデも、みな孕んでくれない。ひょっとすると、あの二人もグルドに……」
「足りないのです。もっと愛してください」
「うむ……」
 ジャムリンはオーニスの豊かな胸を激しく揉みしだきながら、優しく押し倒し、足を開かせた。指でまさぐるとすでに熱くほころんでいる。腰布から突き出したもので、力いっぱい貫いた。
「ひぅん……っ」
「むっ、うむっ、むぅんっ」
 震えながらしがみつくオーニスの細い体を抱きしめて、腰をぶつける。と、背後にかさりと音がして、子飼いの支族の族長の声が聞こえた。
「ジャムリン様、我が支族は……?」
「むっ、ううっ、カポの茎は、ううっ、揃ったのか」
「はい」
「ならば、行けっ。今日の日暮れに、間に合うようにっ、むんっ」
「ひあぁん……」
 ちょいと耳を伏せて礼をし、族長が茂みの中へ消えていくのが、視界の隅に見えた。
 その気配が消えると、ジャムリンは体ごとオーニスに覆いかぶさって、交尾に没頭する。
「オーニス、どうだ、どうだっ?」
「はいぃ、あつ、熱いですぅ」
「いくぞ、それっ、孕めっ、ふむうぅっ!」
「はあっ、はぁぃいッ!」
 抱えた肉感的な太ももを押しつぶすようにして、思い切り腰を押し付け、背筋を反らして、ジャムリンは猛々しい流れを放った。オーニスが目をきゅっと閉じ、ぶるぶると腰をひくつかせる。
 短い静止の後、くたりと力を抜いたオーニスの肩をつかんで、こわばりを埋めたまま体を裏返した。「はぁん……?」と切なげに振り向くオーニスの頭を草に押し付けて、尻を持ち上げる。
「まだだ、それっ!」
「くぅん!」
 可憐な叫びを上げて、オーニスが白い尻の上の尾を痙攣させる。
 出し尽くすまで犯す気だった。ジャムリンはまた動き始めた。二人を、明けはじめた太陽の光がてらす。
 夜は去り、昼が始まる。フェリドの眠りのときだ。そのすべてを使って、ジャムリンは愛しい連れ合いに注いでやるつもりだった。

 紅に染まった空を、ちかちかと光を放ちながら斥候のエピオルニスが横切っていく。
 馬上でそれを見上げるデジエラのそばで、従兵が鏡信号を読み取って叫ぶ。
「敵、第六波発見! 位置・砦より南三千東千五百、規模・三千、進攻・西北西! 了解を返答します!」
「第一連隊の獲物だな。フォーニーに任せるか……」
 デジエラがつぶやくと、馬を並べていた第二打撃連隊長のドーズが、口を開いた。
「閣下、第一連隊は三連戦です。本隊から少し増援を回してやりたいと存じますが」
「ん……そうだな。ではドーズ、おまえが行け。五百でいいか」
「私自らですか?」
「ついでに一戦指揮してこい。フォーニーは控えさせろ。ここは私が持つ」
「了解!」
 ドーズ連隊長は馬首を巡らし、疎林に散らばった部下を集めに駆けていく。それを見送って、デジエラは軽く息を吐いた。
「昼前に第一波が来てからすでに二万……そしてこれからが奴らの時間か」
「鎧もまとわぬ雑魚どもです。いくらでも倒してみせますよ」
 配下の、調律剣を持つ部隊指揮官が笑ったが、彼が一度落馬して、左足が動かなくなっていることを、デジエラは知っていた。声には出さずにつぶやく。
 むごいな、いくさ上手だということは……
 ジングリット第一軍は、その集団戦能力を最大限に発揮して戦っていた。
 ギニエ市の南三リーグにあるトンベの砦が、拠点である。ここが落ちればギニエも終わる。それを守ることが戦略課題である。
 砦の南には、五百ヤードほど離れて、ローデ川という大河が東西に流れている。これは幅百ヤードに達する天然の防衛線で、砦から離れるほど川幅が広がる。フェリドは船を持たないから、回り込まれる恐れはない。砦の前には鉱山へ行くための橋があったが、すでに落としてある。代わりに川舟をつないだ仮橋を作ってあって、いざというときにはすぐ遮断できる。
 川の南岸から、疎林が始まる。樹木と小高い丘がまばらに散らばる地形で、騎兵が縦横に走り回ることができるが、南に進むにつれ、木々の密度が高くなり、見通しも足場も悪くなる。しまいには、密林といっていいような樹海になり、騎兵戦闘は不可能になる。そんな森が、ガジェス山脈まで続く。
 そのあたりに六万のフェリドが支族ごとにわかれて潜んでいることが、斥候によって確かめられていた。
 六万のフェリドのまっただ中に、思うように動けない騎兵が突入するのは、自殺行為である。そこで、ジングリット軍は砦の周辺で待ち受けて、進出してきたフェリドを迎え撃つという基本方針を立てていた。
 軍略の常道から言えば、ローデ川のこちら側で待つのが正しい。対岸に現れたフェリドを弓矢で迎え、泳いで川を渡ってきたものを剣で倒すやり方だ。普段の小競り合いでは、実際にそうしている。
 しかし、それをするには、今回は兵力が違いすぎた。
 第一軍は一万七千、対するフェリドは六万である。これだけの兵差があると、川に頼って待ち受けているだけでは、力ずくで突破されてしまう。この劣勢を覆すには、敵が集合する前に支族ごとに各個撃破するしかない。
 だから第一軍は、南岸に展開した。
 まず仮橋のたもとに、第一軍の歩兵すべて、一万名からなる防衛陣を敷く。これは門であって、絶対に突破されてはならない。そこまで敵をたどり着かせるのもうまくない。これより南を主戦場とする。
 第一軍の残り七千名が、主力の騎兵部隊である。その内訳は、まず高速騎兵一千名からなる遊撃連隊がひとつ。ほとんど裸馬に近い俊足で駆け、騎兵槍による一撃離脱戦法を得意とする、いわずと知れたロン・ネムネーダの部隊である。
 そして、重騎兵二千名からなる打撃連隊が三つ。騎兵槍の他に長剣を複数持ち、突撃の後その場で踏みとどまって甚大な損害を与え、敵の後続が来る前に転進するという戦法を取る。遊撃連隊には劣るものの、歩兵や徒歩のフェリドとは比べ物にならない速度を持つ。ドーズ、エトナ、そして軍団長フォーニーが指揮する連隊だ。
 四つの騎兵連隊で、疎林を自在に走り回って敵を駆逐し、弱ってローデ川までたどり着いた残兵を歩兵が掃討する。さらに、エピオルニスの斥候が上空を絶えず飛び回って、敵味方各部隊の位置を伝達する。
 かつてデジエラがクリオンに向かって、四倍の勢力差があっても不利ではないと言った。それは、こういう高度な部隊編成があるからだった。
 戦端はこの日の昼前に開かれており、夕方の現在までに多大な戦果が上がっていた。フェリドは一支族だけで第一軍の一連隊を上回る数を擁しているが、武器は槍と長棍だけで、馬に乗らず、指揮官もなく、ただやみくもに正面から襲い掛かってくるだけだ。さらに、支族ごとの連携もまったくない。それぞれが一時間以上もの間隔を開けて、南の森のあちこちからばらばらに現れる。わずか二千の打撃連隊一隊だけでも、十分に迎え撃てるのだった。
 しかし、部隊が最大の能力を発揮しているということは、裏を返せば余裕がないということでもある。
 デジエラが危惧したそのことが、西の地平線に太陽が沈むころになって、現実になり始めた。
 歩兵陣地のすぐ近くで待機しているデジエラの第二連隊で、西と東の空を見上げていた従兵が、ほとんど同時に叫ぶ。
「敵、第七波発見! 位置・砦よりほぼ真南三千二百、規模・五千、進攻・北! 了解を返答します!」
「敵、第七波、もとい第八波発見! 位置・砦より南二千八百西五百、規模・四千、進攻・北北東! 了解を……さらに報告、第九波発見! 第八波の後続です、規模九千!」
 斥候は鳥の乗り方の他に、敵勢を数える訓練も受けている。一体ずついちいち計数するのではなく、群れが何ヤード四方に広がっていれば何体、と面積で計算する方法だ。大雑把ではあるが、違っても一割程度である。
 報告を聞いたデジエラが、わずかに瞑目してから瞳を開いた。
「第一連隊は第六波に、第三と遊撃が第八波に当たるな……よし、第二連隊、出るぞ!」
「連隊各員、騎乗ーッ!」
 そこかしこの木陰や草の上で小休止していた騎兵たちが、一斉に鎧の緒を締めなおし、馬に飛び乗る。聖霊指揮官たちの点呼の呼びかけが走り、デジエラの『ロウバーヌ』も鞘の中でカタカタと震える。
 従兵がデジエラの馬を引いて呼びかける。
「閣下、歩兵陣までお下がりください。総指揮を」
「来るのは敵の主力だ。ドーズがまだ戻っていない。連隊指揮官なしでは勝てん」
「しかし、危険です!」
「この隊が抜かれたら危険も糞もないぞ。私が勝ってくるか、全軍が敗れるかだ」
 赤毛の女将軍は、凄烈な笑みを浮かべると、兜の面頬を下ろして馬の腹を蹴った。
「ドーズが戻ったら歩兵陣に詰めさせろ。――行くぞ、ハイヤアッ!」
 歩兵陣から上がる歓声を背に受けて、第二打撃連隊の二千名余が、続々と駆け始めた。
 斥候の報告した敵第七波の位置は、真南に三千二百ヤード、重騎兵の速度なら十分あまりの距離だ。接敵までいくらもない。走りながら各部隊が陣形を整える。ほぼ五列縦隊、穂先をそろえた四百騎の錐。地を打つ鉄蹄に潅木が蹴散らされ、丘すらも削られて低くなる。
「閣下、あれを!」
 部下の指差した上空では、複数のエピオルニスが戯れあうような奇妙な動きをしていた。いや、遊びではない。きらりと光るものが交錯する。手槍を投げつけられ、弓矢で応戦しているのだ。
「斥候……いや、それを倒すためか……」
 フェリドの鳥使いは腕が立つ。対するこちらは、マイラやギニエの鳥匠に仕込まれた即席の騎鳥兵を使っている。まずいことになりそうだった。
 そんな物思いも、ひとつの丘を越えたときに目に入った輝きのせいで吹き飛ぶ。木々の間に見え隠れする、無数の槍の穂先。
「敵勢! 前方二百!」
「私が中央を割る。左右へ散れ!」
「やりますか?」
 デジエラは長剣を抜いた。唇を噛んで血を含み、刃に唾を吐いて肩の上に構える。
「我、王より名を与えられしジングを貫くもの、デジエラ・ジングピアサー。聖御の技もてくくりしホンジョの業火に、我が名と血と力において命じる。刹那の目覚めを許すに付き、今再び威力を振るえ、燃え狂い焼き尽くせ。いざや、聞かん?」
『諾』
「吠えるがいい、『ロウバーヌ』!」
 振り下ろした剣尖から、狂暴な炎の滝がほとばしった。
 たそがれの暗い空に鮮やかなアーチを描いた炎流が、三百ヤードの距離を渡って、密集したフェリドのただ中に叩きつけられた。巨大な紅蓮の花が開いて百体以上の異族たちが吹き飛ばされ、木屑のように燃え上がる。
 左右に陣形を開いた騎士たちが、呼応して叫んだ。
「騎槍構えーっ、突撃っ!」
「突撃ーッ!」
 鉄蹄の轟きに、無数の鉄と肉がぶつかり合う破裂音が重なった。
 第一撃、騎馬の速度を乗せた槍が数百の敵を貫く。絶命を確かめる間もなく槍を捨てて抜剣し、右に左に切り下ろす。地を這うように駆けて来たフェリドが悲鳴とともに切り倒され、その陰から別の戦士が高く跳ねて、手だれの槍を甲冑の隙間に突きおろす。騎士の絶鳴が消えないうちに、別の騎士が振り抜いた重い斬撃が、戦士を真横に切り飛ばす。
 ゴウッ、とこずえを振るわせる鳴動と同時に、地下を巨獣が駆けているような土煙が突進する。行く手にいたフェリドがまとめて十数体も吹き飛ばされる。部隊指揮官の聖霊攻撃。しかし次の瞬間には彼に槍の豪雨が降りそそぐ。馬ごと串刺しにされて息絶える。
「くおおっ!」
「ハァーッ!」
 東に昇った月が木々の間から光を送り、めまぐるしく舞う剣と槍が、幾重もの銀の虹を描く。金の瞳が倒しても倒しても現れる。燃える鉄粉、そがれた体毛、それにおびただしい血が舞い上がり、林の空気を曇らせる。
「続け、族長をとる!」
 触れただけでも炎を放つ昂揚状態の『ロウバーヌ』を振り回していたデジエラが、怒号して駆ける。二十騎あまりの部下が鞍が触れ合うほど密集して周りを固め、押し寄せる異族を片端から切り倒し、轢き潰す。さらに多くの戦士が殺到するが、騎馬のデジエラを追い切れない。
「あれか!?」
 屈強の戦士、百数十体に囲まれた、堂々たる雄の姿が垣間見えた。すかさずデジエラは『ロウバーヌ』を引き、戦気を込めて突き出す。
「行けーッ!」
 火竜と見まごうばかりの太い炎が、轟音をあげて走った。しかし、目を疑うようなことが起こった。
「フアッ、ハアアアッ!」
 長棍を構えた雄の咆哮とともに、黒茶色の壁が凄まじい勢いで地面から吹き上がり、火炎を受け止めたのだ。
 敵の姿が見えなくなり、行く手をさえぎられる。とっさに手綱を引いて、デジエラたちは速度を落とさず横手へ抜ける。部下の騎士が叫ぶ。
「聖霊で防ぎやがった、土の霊か?」
「いや、樹木霊だ!」
 デジエラは通り抜ける一瞬に、壁が黒々と炭化したことに気づいていた。頭上を振り仰げば、ほんの二秒あまりの間に巨木に成長した防壁の、葉のない奇怪なこずえがあった。
「この威力、総族長級の大物だ! 回り込んでやるぞ!」
「閣下、だめです! 手勢が食いつかれています!」
 部下の叫びに振り返り、デジエラは歯ぎしりした。俊足が身上の騎兵部隊が、多すぎる敵に阻まれて足止めを食っている。
「一度抜けましょう!」
「よし、潮時!」
 部下が勢いよく呼子を吹き鳴らした。デジエラも『ロウバーヌ』を通じて命じる。
 ――各隊、敵を振り切れ! 南に抜けて態勢を整える!
 部隊指揮官の返答が帰ってくる。が、数が足りない。六人の部隊指揮官のうち二人が答えない。およそ三割もやられたようだった。
「突破!」
「突破ーッ!」
 一度辺りを見て、もっともてこずっていそうな方面にめくら撃ちで『ロウバーヌ』の火炎を放つと、そのままデジエラは加速した。周囲で金属音、貫通音がするたびに、短い絶鳴を残して部下が倒れていく。すぐ隣の騎士がゴキッといういやな音ともに体を傾かせた。片腕がねじ曲がっている。
 思わずデジエラは腕を伸ばして、その騎士の手綱をつかんだ。
「こらえろ、もうすぐ抜けるぞ!」
「お気遣い無用! 我らはこのための盾、閣下はただお一人!」
 言うが早いか騎士は残りの腕を突き出し、デジエラの乗馬に背後から飛びついたフェリドを刺し殺した。その隙に別のフェリドの棍棒が彼を鞍から叩き落し、空馬だけが残った。
「……すまん!」
 手を離し、夕闇に沈んだ森の中をデジエラは鞍上に伏せて駆けた。
 ふと気がつけば、叫喚が遠ざかっていた。即座にデジエラは力いっぱい手綱を引き、馬を止めて振り返った。
 木々の合間の魔物の群れのようなフェリドたちから、満身創痍の騎士たちが駆け出してくる。デジエラは長剣を立てて叫ぶ。
「こちらだ! 各隊点呼、攻め返す数はあるか?」
 聖霊の報告がめまぐるしく飛び交った。生き延びた騎士は千四百余、やはり三割近くが倒されていた。甲冑を着けた重騎兵でこうなのだから、高速騎兵では倍が食われていただろう。
「閣下、追ってきます。退却を」
「……やむをえんな」
 一度は止めた馬を、デジエラは再び走らせた。
 指揮官の中でも『ロウバーヌ』の呼びかけが一番強い。散り散りになった騎士たちが、それを聞いて三々五々戻ってくる。大きく迂回して北へ走りながら、ほぼ生き残りのすべてを第二連隊は吸収した。指揮官の一人が心配げに聞く。
「勝てるでしょうか」
「馬鹿なことを聞くな、死んだ戦友にたたられるぞ」
 吐き捨てるように言ってから、いくぶん語調をゆるめてデジエラは言った。
「北へ行くほど我々が有利になる。今のはひとところに止まりすぎた。次からは止まらず抜ける。今の戦果は?」
「おおよそ三千」
 騎士たちの報告を聞き取っていた指揮官が答える。上出来だ、とデジエラは言った。
「あちらも三割失っている。こちらは歩兵が無傷だ。負ける勘定ではない」
「他の連隊の戦果によると思いますが……」
 その時、強い突風が頭上から吹きつけた。思わず見上げると、巨大な翼が頭をかすめるようにして通り過ぎ、すぐ先の地面にふらつきながら降り立った。
「斥候です、どうした!」
 指揮官が叫んで駆け寄った。デジエラたちも馬を止める。
 エピオルニスに近づくと、斥候は背中に手槍を刺されて虫の息だった。だが、彼は息絶える前に力を振り絞って言った。
「か、閣下……敵の伏兵です。約一万のフェリドが、ローデ川の上流から流れに身を潜めて……」
「なんだと? 歩兵陣の後背を突かれたのか?」
 聞きただそうとするデジエラを指揮官が制して、まだ何かを、と斥候を指差した。
「フェリド主力にも……ガジェスより……増援……が……」
「増援? 本当か、数は!」
「にじゅう……すうまん……」
 斥候は事切れた。
 さすがのデジエラも、言うべき言葉を見つけられなかった。

 11

 ローデ川上流から泳いでやってきたフェリドを、ジングリットの斥候が初期に見つけられなかったわけは、彼らが濁流に完全に身を潜めていたからだった。それほど凝った方法を使ったわけではなく、中空の草の茎を水面に出して呼吸しただけである。
 しかし、策略どころかまともな軍略すら身につけていないフェリドを、人間たちは侮っていて、完全な奇襲を食らうことになってしまった。
 ローデ川南岸の歩兵部隊一万は、外征軍である第一軍の部隊だから、王都防衛の第二軍のような重歩兵と違って軽装である。騎兵連隊に準ずる、進攻戦に向いた編成・装備になっている。それでも陣地戦であればほどほどの持久力を発揮するのだが、フェリドの伏兵は陣地の裏側から現れた。歩兵陣の弓も槍も、反対方向を向いていた。歩兵の手持ちの装備だけでは、とても太刀打ちできなかった。
 まわり合わせでたまたまそこにいた、ドーズ打撃連隊長の一言がなかったら、歩兵部隊は殺戮されていただろう。彼は命じた。
「逃げろ! 南へ走れ!」
 デジエラもフォーニーもいないその場において、彼の命令は歩兵隊長たちに救いを与えるものだった。その思い切った一言がなければ、彼らは動けなかっただろう。
 一万の兵は陣地を捨てて逃走した。入れ替わりのような形で、一万のフェリドが陣地に入った。
 それがすでに、蛮族の彼らの浅はかさを、と言って悪ければ狡猾さの限界を表していた。
 手薄なトンベの砦をこそ、彼らは占領するべきだったのだ。もしそうされていれば、第一軍は帰る場所をなくして、一万七千ことごとく野に果てていただろう。
 しかしフェリドは、人間を追い払ったうれしさと、仲間を呼び込もうとする思いから、歩兵陣に入り込んだ後は、逃げ散った人間たちに歓声を浴びせて馬鹿にし、そこらに置き捨てられた糧食をあさって食べ始める始末だった。残された弓や投石器には目もくれない。
 なんと愚かな奴らなんだと歩兵たちは呆れ、その愚かな連中にしてやられた悔しさに地団太を踏んだが、これが実は、人間とフェリドの懸隔なのだった。
 フェリドはいくさを知らない。
 戦争という概念がない。敵を倒すために集団を組み、集団を運用するための戦術を考案し、戦術を生かすために策略を使うという発想がない。フェリドが群れをつくっているのは、あくまでも繁殖のためである。軍隊ではないのだ。戦闘はすべて群れ対群れの戦いである。なぜ人間たちはあれほど大きな支族を作れるのだ、と不思議に思っている。不完全ながら人間の国家ことを理解しているのは、古老のセマローダぐらいものである。なぜそうなったかといえば、南方半島の樹海が豊かで、国家の基となる農業や産業などが必要とされなかったからだろう。
 だから兵器などというものにも興味がない。弓矢ですら狩りにしか使わない。今回の奇襲も、明確な戦術思想に基づいて行われたものではない。わずか数支族が思い付きで合同しただけである。だから主力との連携はなかったし、次の戦いがあるとしても応用されることはないだろう。
 言葉が伝わらないがゆえにそういったことが理解されないのが、両種族の不幸だった。
 今の場合、不幸は即座の反撃となって一万のフェリドたちを襲った。
 デジエラ以下フォーニー、ネムネーダなどの騎兵連隊は、歩兵陣陥落の報を聞くが早いか全騎兵を集合させ、一団となって奪回に乗り出した。大群のフェリドを倒すためには、後顧の憂いを断つことが何にも増して重要だからである。帰る場所があるとないのとでは、兵の士気がまるで違う。背水の陣として利用したら、などという愚策はだれも口にしなかった。死兵が強い時間はごく短い。
 よって、五千数百の騎兵が歩兵陣のフェリドを急襲した。フェリドは歩兵陣が歩兵陣たりえるための据え付け兵器の使い方を知らない。ものの半刻もたたないうちに、掃討されてしまった。
 普通の――という言い方はおかしいかもしれないが、この戦が日常的なフェリドとの小競り合いだったら、この短い戦闘はたいした意味も持たなかっただろう。だが、このときは違った。
 騎兵部隊が歩兵陣攻略を行っている間に、フェリド主力の三万以上の戦士たちが、足並みをそろえてしまったのだ。
 歩兵陣奪回までに、彼らはローデ川まで千五百ヤードもの至近距離にやってきた。密集隊形をとられたので、もはや騎兵による攪乱など不可能になってしまった。さらに、二十万以上の増援が南に出現したとの報が入っている。この場で支えきれるものではない。
 デジエラは、トンベ砦への後退を決断した。
 仮橋を使った渡河は、混乱と紙一重の騒ぎとなった。歩兵だけではなく馬がいる。それにけが人も多い。結果として、歩兵陣の兵器類はほとんど放棄されることになった。もとはトンベ砦にあったものである。それがなくなったのだから、砦はほとんど、壁としての役目を果たすのみになる。
 夕刻に上り始めた満月が中天にかかるころ、ジングリット軍は渡河を終え、仮橋を乗せた川舟を沈めた。それがまだ水面にたゆたっているうちに、南岸に無数の異族たちがたどり着いた。まさに間一髪だった。
 北岸に迎撃陣を敷きなおすための騒ぎの中、デジエラが黙然と腕を組んで川岸に立つ。隣にやってきた銀髪の壮漢が、口ひげをしごいて嘆息した。
「参りましたな。残ったのはほとんど着の身着のままの部隊だけ。川と砦の間はわずか五百ヤード、この狭い平地で機動戦術でもやりましょうかな」
「洗濯桶の中でワルツを踊る気か? フォーニー」
「フェリドはステップを知らんでしょうなあ」
「お前だって知らんだろう。……いや、私もだが」
 フォーニーがくつくつと笑った。冗談でも言わなければやっていられない状況だったが、言うだけではなく笑えるところが、この男の胆力だった。
「舞踏場に誘いますかな」
 フォーニーは砦の背後の耕地を指差す。ギニエ市まではまだ三リーグある。が、デジエラは首を振る。
「断られるだろうよ。奴らに戦術はない。川を渡れば東西にいくらでも回りこめる。我々を放っておいて相手を探しに行くだろう」
「どうでも洗濯桶で踊るしかない、と……」
 川向こうで蠢く――恐らく月に浮かれて踊り騒いでいる異族を眺めていたデジエラが、やや唐突に言った。
「あれは、待っているな」
「何をでござるか」
「本隊を。二十数万、揃ってから渡るつもりだ。その程度の知恵はあるか。……いや、それなら最初からその数を揃えればいいものを。知恵なのか思いつきなのか分からんな」
「陛下なら、なんとおっしゃるでしょうな」
 デジエラはフォーニーの顔を見る。武骨な軍団長は、目を細めて月を見上げている。
「まったく不可解な奴らが相手でもやはり、講和を、とか何とか申されるでしょうか」
「枯れた木の実を数えるな。ご存命なら奴らが人質に使ったはずだ。そうしてこない以上、すでに」
「すこぶる残念です。あの方なら……と思ったのに」
「我々は武人だ。剣でしか解決できん」
 そう言ってから、デジエラは小さくつぶやいた。
「……無力だな、武人とは」
「まったくです」
 二人はしばらく黙り込んだ。
 やがてデジエラが、フォーニーの肩を叩いて言った。
「兵を休ませろ。来襲は明け方になるだろう」
「了解。閣下は?」
「手慰みでもして寝る」
「ほう」
 フォーニーが振り返ると、デジエラは片手を上げて去っていくところだった。
「……男でもなかなか言えんな、あれは」
 惜しい気風だ、とフォーニーは苦笑した。
 
 夜明けまであと半刻というころ、フェリドは渡河を始めた。

 12

 ブン! と冷たい夜気を切って川を渡った槍が、岸辺の土に突き刺さった。
 抜剣して横列を組んだジングリット軍は、身動きもしない。かがり火に照らされた影だけがざわざわと揺れている。川幅は百ヤード、まともな攻撃の届く距離ではない。よほど肩の強い戦士が投げたのだろう。
 飛来する槍のほとんどは川面に落ちていたが、じわじわと近づく頭はいずれこちらの岸にたどり着くはずだった。
 鋭い耳を振りたてた、いくつもの頭。――数十、数百、数千。左右三百ヤードもの川面を文字通り埋め尽くして、フェリドが泳いでくる。
 じっと待つ兵士たちの顔に、困惑と恐怖が浮かんでいる。こんな戦いは経験がなかった。射殺されることを恐れもせず押し寄せてくる敵は。切っても死なないんじゃないか、という気がする。できるものなら戦いたくない。
 群れの先頭が、川の中央を越えた。もう、顔が見える。金の髪と光る瞳。精悍な、美しいとさえ言える顔だ。これほど静かに彼らの顔を見たこともない。目をそむける兵士が続出する。
 冷酷な命令が頭上を渡る。
「打ち方用意――射よ!」
 ざああっ、と背後に控えた部隊が弓を打ち放った。笛のような音を引いて飛んだ矢が川面に降り注ぐ。弓手指揮官は少し焦ったようだった。ほとんどの矢が手前に落ちてしまい、十体ほどが沈んだだけだ。フェリドは静かに進んでくる。
「第二射、つがえ!」
 歩兵と騎兵が形作る横列の背後で、弓列指揮官の叫びを聞きながら、デジエラは乾いた思いを抱く。矢は二万本、兵は一万五千名。――なんと少ないのだろう。すべて当て、すべてが刺し違えても、敵の一割を倒せるか倒せないかだ。
 武人は無力だ。ここまで追い込まれても、他の方法を考えつけない。
「……市民を捨てて逃げるよりはましか」
 首を振って無為な考えを打ち消し、弓兵指揮官に声をかける。
「もう十分引き付けた。ためずに撃て」
「打ち方構え! 第二射――」
 その時だった。部隊の右翼から悲鳴に近い叫びがほとばしった。
「弓兵待て、上空に友軍!」
「友軍?」
 兵士たちがいっせいに顔を上げる。デジエラも見た。そして目を疑った。
 月光を浴びて降下してくるエピオルニス。斥候はすべて落とされたのではなかったか。いや、それよりも、あのカンテラの信号は――
「……マイラ?」
「ニッセン様!」
 歓声が湧き起こった。しばらく前から姿の見えない高速勅使団の団長が、ひそかに皇帝陛下を探しに出かけたのだということは、皇帝不在の事実そのものとともに、兵士たちの間でも公然の秘密だった。
 それが帰ってきたということは。
 巨鳥は一頭ではなかった。延べ十頭以上が一列に連なって旋回している。見る間にそれらは、騎手の顔が分かるほどの高度にまで降りて来た。中ほどの一頭に、緋のマントをはためかせた小柄な人物が座し、細身の剣を高々と差し上げる。
 歓声が、潮の轟きのように膨れ上がった。
「皇帝陛下だ!」
 どうっ! と羽ばたきを叩きつけて、そのエピオルニスが頭上を通過した。差し伸べた翼を傾けて旋回し、再び戻ってくる。もう間違いない。クリオンがレイピアを振っている。歩兵も騎兵も、子供のように両手を上げて叫ぶ。
クリオン皇帝陛下万歳ウーレー・クリオン!」
「陛下が……」
 デジエラは笑った。笑いが自然にこみ上げた。歓喜、それ以外の何ものでもない力強い感情が湧き上がって、彼女の頬をほころばせた。戻ってきてくださった!
 勝てる、と思ったとき、今度は羽ばたかずにクリオンのエピオルニスが頭上を横切った。それとともに、かすかな叫びが聞こえた。
 ――戦うな!
「なんですと?」
 かたわらのフォーニーがつぶやいた。ということは空耳ではない。理屈より先に信頼がデジエラを叫ばせた。
「打ち方待て! 全軍、下がれ!」
「か、閣下、あれは一体……」
「陛下のご命令だ、全軍後退しろ!」
 命じて、再びデジエラは空を見上げる。クリオンが去っていく。上昇し、旋回を始める。
 何をするつもりなのかは、わからない。だが、それが正しいことだけは、デジエラは確信していた。

 二百ヤードほどの高さで旋回するエピオルニスの上から、クリオンとフウは対峙する両軍を見下ろした。豆粒のような人がかろうじて見分けられる高度である。
「フウ、このまま回って」
「わかった」
「『ズヴォルニク』、いいか?」
 胸元に構えたレイピアに、クリオンはささやきかける。封球が白に近いほどまばゆく輝いている。
 たぎりたつような聖霊の思念がクリオンを打つ。
「おお……感じる、感じるぞ。忌まわしき『遷ろう者ども』の気配だ。多い! 森の木のように、水底のいろくずのように多い!」
「『見極め』られるか?」
「無論! 我が一声を放てば、やつらは立ちどころに姿現し、主なる水獣の元へ帰らんとするだろう!」
「ようし……やれ、『ズヴォルニク』!」
「応!」
 レイピアが輝く。
 海王のおらび声が天から地上を圧した。クリオンがフウが、旋回するエピオルニスの騎手たちが、地上の軍団と群れが、フェリドと人間すべてが、その津波のような叫喚を直接頭に受けた。
「なんだこれは!」
 鉄板で頭を押さえつけられるような衝撃に、デジエラでさえ膝を折った。折りながらも剣を支えに耐え、前方を見つめる。
 うめきながらしゃがむ兵士たちの向こうに、この世ならざる光景が見えた。
 フェリドが。フェリドの数体のうち一体が。両手を挙げ、口を限界まで開け、体をくねらせて痙攣している。
 と、そいつらが走った。仲間を押しのけ、踏み倒し、次々に川に飛び込んだ。フェリドに発狂者が出たのではない。狂っただけなら姿は変わらない。顔は溶けない、毛も抜けない。
 ざばざばと凄まじい水しぶきを上げて、大勢のそれが水に飛び込む。先に渡河を始めていた戦士たちよりはるかに多い。十倍以上、数万に達するだろうか。当然、飛び込みながら他の者を押し潰し、折り重なって沈めている。なのにそれを気にもしない。
 それらが、あらかた水に飛び込んでしまったころ、不意に強烈な叫びが消えた。不気味な静寂が立ち込める。
 やがて、顔が現れた。
 ぼこり、ぼこりと……顔ではない。目も鼻も口もない、杭の先のような肉色の頭部。腕を出すが、それも腕ではない。ひれのようなものになっている。残っているのは人に似た輪郭だけ。輪郭だけを備えた人にあらざるもの。
 遷ろう者ども。
 フェリドと人間の双方から、悲鳴が巻き起こった。戦士たち、大の男たちがほとんどの両軍が、火傷をした子供のように叫んでいた。それは正常な反応だった。彼らは、恐怖そのもの、決して許容できないものを目にしているのだ。
 波を浴びた砂の城のように、両軍が崩壊した。川とは反対の方向へ、死に物狂いで走る。後に残されているのは、腰が抜けて動けない者たちだ。泳いでいたフェリドの戦士たちは、ほとんどが恐慌のあまり体が凍りつき、そのまま水に沈んでいく。
 その者どもがざわざわと動き出した。南へ、北へ、川の両岸へ。泳ぎはせず、泳ぐ必要もなく、水底を歩いて岸に這い上がる。そこには呆然と座り込んでいる兵士や戦士たちがいる。彼らの前に、その者どもは膝をつく。
 見る間に、輪郭が整えられていく。すらりとした腕が、美しい脚が、可憐な顔が形作られる。そこに女たちが現れる。恋人か、妻か、実の娘か、母か。相手によって千差万別、相手が最も望む姿に、その者どもは自らを変える。
 そして抱擁する。抱かれた人々の顔から恐怖の表情が消え、同時に理性も消え、ただ虚無的な至福のみがたたえられる。
 そして抱き返す。歓喜に泣きながら。泣き、口付けし、鎧を外し衣服を脱いで、まさぐりあい――そのまま、交わりに溺れていく。
 目を閉じることもできずに剣にしがみついているデジエラの前にも、その者が立つ。ぬめぬめした丸太作りのような起伏のないその体に、急速に筋肉の盛り上がりが生まれていく。たくましい、壮年の男だ。金髪で、掘りの深い男性的な顔立ちの、かすかにクリオンに通じる印象を持つその姿は――
「ぜ……ゼマント、陛下……」
 クリオンの父、デジエラを許した男が、穏やかに笑って手を差し出す。がくがくと震えながら、デジエラは後ずさろうとする。だめだ、やめろ、それは――
「ぬうん!」
 背後からの剣の一閃が、その者を両断した。左右に断ち割られて倒れたあとに、冷や汗をびっしり浮かべた顔の、フォーニーが立っていた。
「閣下! お気を確かに!」
「は……ふぉ……フォーニー」
 デジエラは動けない。金縛りにかかったようだった。股間が生暖かかった。失禁か、それ以外のものか。
「御免!」
 木の根を引き抜くようにフォーニーがデジエラを担ぎ上げて走った。その後を、さわさわと『遷ろう者ども』が追いかける。
 上空では、クリオンが蒼白な顔で唾を飲み込んでいた。
「あんなに……い、いくついるの、あれは! フェリドの半分がすり変わられていたんじゃない!?」
「半分の半分ぐらいだ。でも……フウは、こわい」
 ウォラヒアの戦士を苦もなく倒した勇敢な娘が、耳と尾をピンと逆立てて、震えていた。その姿に、クリオンは逆に勇気づけられる。
 後から肩を抱いて、ささやいた。
「行こう。『ズヴォルニク』と『チュルン・ヴェナ』がある」
「い、いやだ」
「フウ!」
 クリオンは顔を寄せて言う。
「予が、ついてる」
「……わかった」
 フウはエピオルニスを降下させた。
 降りたのは、歩兵陣の南側だった。逃げ散るフェリドと、川から押し寄せる『遷ろう者ども』のちょうど中間。鳥から降りたクリオンは、『ズヴォルニク』を片手に北面して立つ。その者どもが来る。音もなく、優しげに、恐ろしく。その向こうに逃げ惑うジングリット軍、さらに向こうにトンベの砦。
 クリオンは呼んだ。
「デジエラ……デジエラ、返事を! 『ロウバーヌ』、主を呼べ!」
「へ、陛下……?」
『ロウバーヌ』も、切迫した事態だと承知したらしかった。中継ぎの言葉もなく、じかにデジエラの返答がやってきた。細く震え、激しく動揺している様子の声だ。
 クリオンは叱咤する。
「デジエラ、しっかりして! 予が倒す!」
「陛下が?」
「『ズヴォルニク』がやる。デジエラは軍をまとめて、東西に引かせて! トンベの砦までの道を開けて!」
「は、はい」
「デジエラ! ……大丈夫だからさ。予が守るから」
「……はい!」
 声に芯が入った。デジエラが、ようやく自分を取り戻したようだった。
 クリオンは眺める。対岸のジングリット軍が動き出す。間に合うだろうか? だが猶予はない。
『遷ろう者ども』の最初の一体が、クリオンの五ヤード前に立った。すっ、とその体が細くなる。長い黒髪を、優雅な腕と腰を、丸い乳房を、優しい眼差しを備える。
 クリオンは深呼吸し、そこに現れたソリュータに微笑みかけた。
「正解だよ。……でも、もういるんだ」
 そして『ズヴォルニク』を脇に深く引き、絶叫した。
「カリガナの海王よ、打ち砕けーッ!」
 突き出された剣尖から、紺碧の紗が爆発したように広がった。
 海嘯。そこに、莫大な海水の峰が出現した。見上げんばかりに盛り上がった津波が、轟々と大地を揺るがして走った。『遷ろう者ども』が砂粒のように巻き上げられ、微塵に砕かれた。
 歩兵陣を粉砕し、大河を苦もなく渡ったそれは、対岸に至っても衰えなかった。およそ五万の『遷ろう者ども』の八割を巻き込んだそれが、五百ヤードの地面を押し渡り、ついにはトンベの砦にまで達した。
 この戦で最大の轟音が起こった。堅牢な石造りの砦に津波が衝突し、噛み砕き、打ち破って、その半面を突き崩してしまったのだ。
 力をなくした津波が、海水に戻って周囲に流れた。体を洗う清冽な流れに、将兵が夢から覚めたように瞬きし、一人の例外もなく座り込んだ。
 デジエラとフォーニーも押し流され、およそ百ヤードも離れた地面に泥まみれになって放り出された。フォーニーが南岸を眺めてつぶやく。
「武人は……無力ですな」
 このときのつぶやきは、純粋に、聖霊の圧倒的な力への驚愕を示したものだった。デジエラが首を振って立ち上がる。
「いや、まだできることはある。川舟の残りがあったな」
「は?」
「生き残りを集めてくれ、残敵を掃討する。――フェリドではない、あの怪物どもだ」
 ぽかんとデジエラを見上げていたフォーニーが、笑顔になって立ち上がった。
「そうですな。それこそ我々の務めでござる」
 南岸で、クリオンががくりと膝をつく。額にびっしりと冷や汗が浮いている。
「はあっ、はあっ、はあっ!」
 反動のためだった。『ズヴォルニク』は、正面だけではなく左右の広範囲を巻き込んで海嘯を放とうとしたのだ。『遷ろう者ども』をすべて仕留めるつもりだったのだろうが、そんなことをされたら第一軍が根こそぎ押し流されてしまう。クリオンは、体力のほとんどを費やしてそれを抑え込んだ。
 体中の筋肉が燃えるように熱い。その熱に耐えて、クリオンは地に伸べた『ズヴォルニク』に言った。
「『ズヴォルニク』、人間を、巻き込んじゃだめだ!」
「異なことを。鉄槌で蟻を潰せば巣穴も崩れようというもの。許さぬというなら使わぬがいい。我はそのようなものだ」
「それでも……だめ……」
 封球が不満げに瞬き、ふっと光を失った。はあ、とクリオンは肩を落とす。
 その耳に、異様な音が届いた。クリオンは振り返る。
 背を向けて逃げていくフェリドの集団の中央に、岩を割るようなビシビシという音を上げながら、巨大な黒いものが伸び上がりつつあった。フウがつぶやく。
「あれは……ジャムリンだ。何かにおびえている」
「ジャムリン? するとあれは、彼の聖霊?」
「『バオバアブ』だ。森を守るいにしえさま。行くぞ、クリオン。ジャムリンを助ける」
「ま、待って」
 クリオンは首を振って、周囲を指差す。三十ヤードほど離れて、海嘯をまぬかれた『遷ろう者ども』が遠巻きに見守っている。
「まだ敵が残ってる。それに、ぼくはもう」
「急ごう」
 フウがぐいっとクリオンの腰を抱え上げ、そばにいたエピオルニスの背に乗せた。自分もまたがり、舞い上がらせる。
 手綱もないのに羽毛をかいてやすやすと向きを変えさせ、フウは『バオバアブ』に巨鳥を近づけた。その太い巨木は、差し渡し五ヤード、高さ三十ヤード近くまで成長していた。のっぺらぼうの幹の頂上、狂女の逆立つ髪の毛のようなねじくれた枝の間に、人影が見えた。
 フウはためらいなくエピオルニスを近づけ、頂上の端に止まらせた。クリオンを抱いて、降りる。
 そこにいたのは、男と女、二人のフェリドだった。かたく抱きしめあい、幹の上に座っている。男は片手に長棍を握り、追い詰められたような目でこちらをにらんでいたが、フウに気づくと、はっと口を開けた。
「メルエ……」
「もうメルエじゃない。フウになった」
「なに……もう身分かれしたのか?」
「みわかれはまだだ。でも、フウはクリオンと結婚する」
「え?」
 そのやりとりを、フウが手にした槍を通じて聞いていたクリオンは、思わずフウの顔を見つめなおした。フウがうっすらと媚びるような笑みを浮かべて、クリオンの頬に耳をこすりつける。
「フウはクリオンにほれた。クリオンはとても強い」
「で、でも予は男だって」
「ならフウは身分かれして、女になろう」
 その言葉の意味を問いただす前に、ジャムリンが叫んだ。
「ふ、ふん。好きにしろ。俺にはオーニスがいる」
「ジャムリン」
 フウが枝をまたいで進み出た。すっと槍を突き出し、ジャムリンの首にしがみついている女に突きつける。
「わかってるんだろう」
「な、何をだ」
「どうして『バオバアブ』の上ににげた。みんなに止められたんだろう。そいつから離れろって。そいつは……うつろう」
「黙れ黙れ!」
 ジャムリンが金切り声で叫び、長棍をやたらと振り回した。
「オーニスは俺の女だ、グルドなどではない!」
「でも、いちど正体を見せたはずだ。『ズヴォルニク』にあばかれて」
 ジャムリンは激しく首を振り、ぎゅっとオーニスの肩に顔をうずめた。
「それでもだ……こいつは、こいつだけは、俺の……」
 フウは耳をぺたりと伏せて悲しげな顔をしていたが、やがてつぶやくように言った。
「いにしえさま、こいつにおじひを」
 槍を天に差し上げる。 
 ぽつり、ぽつり、と雨が降ってきた。いや、雨ではない。それは瞬く間に豪雨になり、さらに強い水流、滝そのものになった。
「オーニス、オーニス!」
 頭を支える首が折れてしまいそうな激しい瀑布の中で、ジャムリンが呼びかける。彼の腕の中で、微笑むオーニスの表情が消え、顔の作りそのものが、耳や髪や乳房が洗われたように溶けていき、しまいには起伏のない肉色の人形の姿に還った。
「オーニス……」
 ざんっ! とひときわ強い水の塊が天から打ちつけ、思わず目を閉じたジャムリンが再び目を開けると、腕の中には何もなくなっていた。
「ふうっ……ふうううっ!」
 喉の奥からうめき声を上げて、ジャムリンは足元を何度も拳で叩いた。フウが言う。
「おまえは……ひょっとして、さいしょから分かってたのか。分かってて、樹海にいたらそのうちばれてしまうから、こんな戦いを起こしてうやむやにしようと思ったんじゃないか?」
 ジャムリンは答えない。うつむいて肩を震わせている。フウは気の毒そうに、しかしきっぱりと言い捨てた。
「それも、グルドのたくらみだ。族長がだまされていてはいけない」
「そんなこと……知るか……」
 フウとともに、クリオンも言葉もなく、哀れなフェリドの男を見下ろした。
 巨樹の周りから、オオー、といくつもの叫びが湧き起こった。振り返って地上を見下ろしたクリオンが、声を上げる。
「騎兵だ! デジエラが来た!」
 歩兵陣から勢いよく騎兵たちが飛び出して、ゆらゆらと歩いている『遷ろう者ども』を掃討し始めた。川舟で数十騎ずつ渡ってきたらしく、連隊規模の陣形を組んではいない。だが、戦意も戦闘能力もない『遷ろう者ども』を倒すには、それでも十分だった。風のように近づき、妖しい変化を始める前に切り捨てて、通り抜けていく。
 川から千ヤードほども離れていたフェリドたちが、それに気づいて、驚きの声を上げつつ、戸惑ったように見つめている。クリオンは、騎兵たちが『遷ろう者ども』以外に目もくれないことに気づいた。フェリドたちに追いついても切りかからず、そばを駆け抜けて別の怪物を探しに行く。
「デジエラ……本当の敵に気づいたんだ」
 つぶやいたクリオンは、はっとフウを振り返る。ジングリット軍が手出しをやめても、フェリドが挑めば元のもくあみになってしまう。
「フウ、フェリドを止めて! 人間を襲うなって」
 フウはうなずき、頂の端に近づいた。両手を足元につき、胸を反らしてすうっと息を吸い、吠えた。
 ――ホオオー……オオ……オオオォ……
 遠吠えだった。青白く明るんだ空の下を、深く強い声がどこまでも渡っていった。
 フェリドが顔を上げた。幾万もの瞳が『バオバアブ』の上で吠える娘を見上げた。
 フウが立ち上がり、指揮杖のように槍を長く差し出した。
「たたかうな、ウォラヒアのフェリドたち」
『チュルン・ヴェナ』の叫びが、野面に殷々とこだまする。
「『ばくふのあるじ』フウが命じる。たたかうな、人間はフウの結婚あいてだ」
 先ほどにもまして大きな驚きの声が上がる。彼らを優しく諭すように、フウが言った。
「人間の族長クリオンが、ウォラヒアのグルドをたおした。もう大丈夫だ、みんな、森に帰れ」
 静寂が満ちた。
 やがて、フェリドたちが音もなく動き出した。南へ。十万を越えるフェリドたちが、従容と去っていく。
 それを眺めたフウが槍を下ろし、振り返った。
「これでいいか、クリオン」
「……うん」
「では、結婚してくれ」
 クリオンは曖昧な笑みを浮かべた。この異族の娘は、本当に突飛すぎる。
 だけど、まっすぐだった。人間と変わらないほど、そういう言い方が失礼に思えるほど、素敵な娘だった。
 クリオンは腕を伸ばして、フウの肩を抱きしめた。
「わかったよ。おいで、フウ」
「ン……」
 くちづけが重なる。その二人を、東の地平線から差した最初の曙光が、白く照らし出した。

 13

 八人の娘たちの視線が突き刺さっているが、物怖じせずにあぐらをかいて、フェリドはぱたりぱたりと尻尾を揺らしている。
 戦いが終わってから二日後の夕べ。ギニエの城館の一室。フウを囲んで、なんなのこいつは、という顔をしていた妃たちの一人、レザがクリオンを振り返った。
「レンダイクは承知したのですね、陛下がこの異族をお娶りになることを」
「うん。それにデジエラも」
 包囲網の外に部外者のように閉め出されているクリオンが、おずおずとうなずく。
「男爵は、フェリドと和議を結べるなら言うことなしだって。まあ政略結婚なんだけど。デジエラは一度斬った」
「斬った?」
「ぼくとフウがエピオルニスから降りたときに。フウ、その時避けなかったんだ。剣筋の先にぼくがいたから。それでデジエラは寸止めにして、まあいいでしょうって」
「楽団は気楽ですわね、曲だけ弾いていればよいのですから。陛下と踊るのはわたくしたちなのに」
「ええと……反対ってこと?」
「当たり前でしょう、こんな蛮族。やっと無事にお帰りになったから喜んでみれば、こんな怪物の娘を連れていらっしゃるだなんて、陛下も何をお考えなのやら」
「レザ」
 正面からじっとフウを見つめていたエメラダが、何を思ったのかフウの目の前にしゃがみ込んで言った。
「それ、ちょっと違うみたいよ」
「何がです」
「娘。この子、ほら」
 ぴらりとフウの腰布をめくる。ン? とフウは首を傾げただけだが、娘たちはぎょっとした。
「つ、ついてる……」「え、ボクと一緒なんですか?」
 顔色を変えたソリュータの隣で、キオラが面白そうな顔になる。いえちょっと待って、とエメラダが手を伸ばし、とんでもないことをする。
「ふうん♪」
 フウがくすぐったそうに目を細める。エメラダがちょいとつまみ、するりと指を這わせて、その下をまさぐったのだ。「エメラダさん……」とポレッカが手で顔を覆う。
 エメラダがしかつめらしく言う。
「下は女よ。この子、ふたなりなんだわ」
「……両性具有、なのですか。怪物だけのことはありますわね……」
 レザが顔をしかめてつぶやく。珍しい生き物ねえ、となおももぞもぞやっていたエメラダが、ふと見下ろして、手を抜いた。手巾で指を拭きながら、立たせてるんじゃないの、とフウの頭をはたく。
 マイラが眉間を揉みながら言った。
「陛下、このような気味の悪い異族と、本気で契りを結ばれるおつもりですか」
「本物の両性具有じゃないらしいんだよ、セマローダ――あの一緒に来た古老の話だと」
 クリオンが説明する。
「フェリドの子供はみんなこういう風なんだけど、大人になると男か女のどちらかに変わるんだって。『身分かれ』っていうらしい。フウはそれがまだなんだ」
「男になってしまったら取り返しがつかないのでは」
「結婚相手に合わせて、自分で決められるんだよ。というより、相手が決まると、身分かれが起こるらしいね。ぼくと結婚すれば一年もたたないうちに女になるって。だから、両性具有の問題は考えなくていい」
「原始的な生き物ですこと……」
 レザが顔を背ける。
 その時、周りをうかがっていたフウが、ちょいちょいとクリオンを手招きして、腰の『ズヴォルニク』を指差した。
「あ、話したいの?」
 皇帝の居室だから『チュルン・ヴェナ』は取り上げられている。クリオンは近づいて、鞘ごとレイピアを差し出した。
 触れたフウの言葉が伝わってくる。
「女たちも、ここに」
 言われたとおり、クリオンは娘たちを集めて、『ズヴォルニク』に触れさせる。先端をつかんだフウが、八人を等分に見回して、ソリュータに目を止めた。
「おまえはソリュータか」
「そうよ」
「フウは、おまえに従う」
「なぜ?」
「おまえはクリオンの連れ合いの中で、一番えらいからだ」
「なんですって」
 眉をひそめたのはレザだった。
「フェリド、物言いに気をつけなさい。わたくしはストルディン公爵家の娘よ。わたくしが一番身分が上なのです」
「違う、三番目だ。一番はソリュータ。クリオンの一人目の連れ合いだから。二番がフウだ」
「いったい何様――」
「フウは、フェリド七十七の大支族で一番えらい、『瀑布の主』だ」
「瀑布の……?」
「あのね、レザ」
 クリオンが言いにくそうに言った。
「フウは、多分……二千万人のフェリドの皇帝なんだよ」
「こ……」
「つまり、ぼくと同じ身分ってことになるね」
 レザは口をぱくぱくさせる。彼女より身分の高い人間は、いまだかつてクリオン以外に現れたことがなかった。キオラとチェルでさえ、正式に王位にはついていないから、公爵令嬢にして前ジングリット皇妃・現ジングリット皇妃であるレザより身分が高いわけではない。
「嘘じゃないよ。だからフェリド最古のローダホン支族が従っていたし、最大のウォラヒアの戦士たちも言うことを聞いて引き下がった」
 レザは悔しげに口を閉じる。身分など、と言い出せば今度はエメラダやポレッカにまで負けてしまう。
 レザをやり込めたと見て取ると、フウは別の二人に挑むような眼差しを向けた。
「マイラとハイミーナだな。おまえたちはこの中で一番強い。だから、戦ってやる。フウが勝ったら文句を言うな」
「やめておく。私は強さによってこの場にいるわけじゃない。負けでいい」
 マイラがため息をついて手を離し、壁際に下がった。本気で負けを認めたというよりは、レザでさえやり込められたフウを敵に回すのを避けた、という感じだった。
 ハイミーナは唇を強く結んでうつむいていたが、ソリュータに顔を向けた。
「ソリュータ……私はいま、あなたの気持ちがよくわかる」
「わかるでしょ、新しい子が来たときの気持ち」
 苦笑いしたソリュータに、ハイミーナはうなずく。
「胸が苦しい……でも、陛下を困らせたくもない。だから、あなたの判断に任せる」
 そう言うと、彼女も剣から手を離して下がった。
 フウは愉快そうに耳をひくつかせると、残る四人に目を移した。
「おまえたちもフウと戦うか?」
「いやよ、チェルはけんかは嫌い」「ぼ、ボクも……」
 チェル姫とキオラが離れると、ポレッカが引きつった顔でフウを見つめる。こういうときの彼女は、学院で「かみつきフェンデル」に当てられたときと同じ状態になる。つまり、震え上がる。
 水車通りで育った平凡な娘にとって、言葉も通じない異族など、相手にできるわけがなかった。
「ふ、フェリドとけんかなんて……」
 ふらふらと後ろに下がる。すると、意外なことに、もう一人も離れてしまった。クリオンは不思議そうにその娘、エメラダを見つめる。
「……いいの?」
「ええ。陛下のご自由に」
 他の娘たちも意外そうな顔になる。エメラダはきっと突っかかると思っていたのに。
 エメラダは一同から離れて、後ろ向きにソファに座る。小さな声でつぶやいた。
「どっちみち、みんな赤ちゃんできないんだもの……」
 マウスが今回も暗躍するであろうことを、彼女は確信していた。
 強い視線は、フウとソリュータの間の一筋だけになる。
 今まで、次々と現れる七人の娘たちを許してきた娘だ。このときも、笑って――努力してだとしても、とにかく笑って、フウを受け入れるのではないか。誰もがそう思った。
 ソリュータはうつむいて、細い声で言った。
「男爵が……」
「え?」
 クリオンは顔を寄せる。ソリュータが、垂れた髪に横顔を隠して言う。
「レンダイク男爵がね、言うんです。民が……帝国府の人たちや、軍の兵士や、王都の人々が、クリオン様に表立って不満を言わないのは、なぜかと思うって」
「……なぜなの?」
「私をお抱きにならないから」
 ぽつり、としずくが床に落ちた。
「陛下にはたくさんのお妃様がいらっしゃるけど、房事にうつつを抜かしておられるわけではない。それが証拠に、最愛のソリュータ様にお手をつけず、侍女の身分のままに置かれている。陛下は帝国の安泰を願って願をかけておられるのだ。……男爵はそういうことを周りの人に話して、お若いクリオン様への反感を逸らしてるんですって」
「でも、本当は、ソリュータを特別扱いするとツインドおじさんが疑われるから」
「そういう理由で私はお手つきをいただけず、いただけないまま私がクリオン様のおそばにいることだけが広まったので、逆に男爵がそれを利用し始めた、そういうことです。今となっては父の心配どころではないでしょう。それなのに私が、陛下におねだりをしなかったのは……そのためなんです。ご存じなかったですよね」
 ソリュータは顔を上げた。涙を浮かべて、唇を震わせていた。
「公認になったのに、公認だから抱いていただけないなんて……私、いつまで待てばいいんでしょう。みんな、みんなクリオン様に愛してもらってるのに、私だけ……」
「ソリュータさん……それでも陛下はあなたを」
「あなたはいいわ、ポレッカ。それにみんなも!」
 ソリュータは、子供のように顔を歪めて叫んだ。
「クリオン様に身を捧げて、お引き止めできるもの。私には何もできない。クリオン様を喜ばせて差し上げられない。それがどんなに心細いか分かる? その子が、フウがお手つきをいただいたって、あなたたちと対等になるだけ。でも私はますますクリオン様から遠くなる。信じたいけど、信じてって言ってくださるけど、それにお応えできないんじゃ、私……」
 ぽたぽたと涙を落として、ソリュータはしゃくりあげた。
「ここに、いられなくなってしまいます」
 娘たちはしんと静まり返る。自分たちは、他の誰にクリオンが心を向けていようと、閨の中でだけはクリオンを独り占めできる。しかし、ソリュータはそれすらもかなわないのだ。嫉妬と共感が作る自分たちの微妙な連帯に、彼女は入っていない。かける言葉がない。
 その時、嗚咽しているソリュータにフウが呼びかけた。
「ソリュータ」
「なに」
「『遷ろう者ども』は、相手が一番好きな姿になる」
「……それがどうかしたの」
「クリオンの前で、あいつはソリュータになった」
 ソリュータは顔を上げた。フェリドの娘は憮然とした顔で口を曲げていた。
「おまえが一番だ。だから、泣くな」
「……慰めてるつもりなの?」
「そうだ。本当は追い払ってやりたいけど、泣く仔には魚をやるのがフェリドのおきてだ。おまえがいやなら、フウはクリオンを取らない。先に交尾しろ」
「それができないから泣いてるのよ」
「……よくわからない。でも、おまえがするまで、フウは待つ」
 フウはそう言うと剣から手を離し、ちょこんと座り込んだ。
 ソリュータはまじまじとフウを見つめた。それから大きくため息をついて、ずるいわ、と言った。
「どうしてこんなにいい子ばかり、クリオン様の周りに……」
「あなたが一番いい子よ、ソリュータ」
 エメラダがソファで振り返って言った。
「あたしがあなたの立場だったら、片っぱしから張り倒してる」
「じゃ、あなたを張り倒してもいい?」
 ソリュータが試すように言うと、エメラダはしばらく黙っていたが、意外なことに、やれば、と言った。
 それでソリュータは、ふっと微笑んだ。
「ありがと……できないわよ、そんなこと言われたら」
「陛下、分かってる?」
 エメラダはやにわに起き上がり、ずかずかとクリオンに近づいて顔を覗き込んだ。
「陛下が成り行き任せばっかりだから、ソリュータが泣いてるのよ。ちょっとは考えて動きなさいよ。今回はこのフェリドを追い返したら? 男爵や将軍なんか黙らせてさ」
「そ、そんなこと言われても」
「いえ、いいわ。エメラダ」
 ソリュータが手を伸ばしてさえぎった。
「フウやあなたたちが嫌いなわけじゃないのよ。ただ……ちょっと不安になっただけ」
「いいの? なんだったらあたしたちみんな、十日ぐらい我慢するわよ」
 えーそんなに? と声を上げたチェル姫とキオラの二人をにらみつけて、エメラダはソリュータを見つめた。
「あなた、損しすぎよ」
「うん、ソリュータ」
 クリオンがうなずいて呼んだ。はい? と振り向いたソリュータを抱き寄せ、目を閉じる間も与えず口づけする。
 皆が見ている前でクリオンがそんなことをしたことはない。そんなことをされた娘はいない。ソリュータはあわてて体を離そうとした。それを許さず、クリオンは唇を奪い続けた。
 やがて顔を離したクリオンが、目を伏せて言った。
「これで足りなきゃ、君と一緒に逃げるよ。みんなも、帝国も捨てて」
「クリオン様……」
 ソリュータは口元を押さえる。頬が真っ赤に上気している。
 やがて彼女は、笑みを浮かべて言った。
「そうですよね……そのどちらかしかありませんよね。無理を言って、ごめんなさい」
「ぼくの方こそ。いつもごめん」
「いいえ。そうなって下さいと、私がお願いしたんですから」
 ソリュータは黒のスカートの裾をつまみ、深々と一礼した。
「フウを迎えてやってください。見守らせていただきます、クリオン様」
 そう言うと、ソリュータは身を翻して、部屋を出ていった。見送ったエメラダとレザが、顔を見合わせる。
「あの子も大変よね」「……ええ、不憫な娘ですこと」
 それから二人してクリオンに目をやった。
「さあ、フウを抱いてあげたら」「そうですわ。せっかくソリュータが許したのですから」
「な、なんか、いやなことは早めに済まそうって感じじゃない?」
「あら、とんでもございません。フェリドの女帝ともあろうお方なら、不服はありませんわ」
「……というより、妬いてるんだね」
「いいからしちゃいなさいって、陛下!」
 エメラダが座っているフウを引っ張り起こして、クリオンに押し付けた。
「ふー?」
「うわっ」
「その子の一族にとっては、結婚式なんて儀礼的なものよりも交尾が大事なんでしょ交尾が。ほら隣が寝室だから。さあ行ってとっとと済ませてきて!」
 まくしたてるエメラダに、クリオンとフウは隣室に放り込まれてしまった。

「しろって言われてするのも、なんだかなあ……」
 閉じた扉を見つめて、クリオンは頭をかいた。
「フウはどうしたい?」
 振り向くと、フウはすでにベッドに乗っていた。シーツの匂いをふんふん嗅ぎ回り、枕にぐいっと顔を押し付けると、クリオンの寝床だと納得したのか、ばさりとうつぶせになった。クリオンを振り向いて、招きよせるように尻尾を振る。
「んふーふ♪」
「細かいことはどうでもいいんだね、君は……」 
 クリオンはベッドに近づくと、マントと剣を外して枕元に横たえた。そんなものをつけていては邪魔だし、言葉が通じなくても別に困らないだろう。
 そう思ったが、フウが剣に触れた。何か言いたいことがあるらしい。クリオンもベッドに腰掛けて聞いてみる。
「フウは女になるから、クリオンを犯せなくなった」
「そうなの?」
「そうだ。クリオンがフウを犯せ。フウはがまんする。フウは初めてだから、上手に『なびかせ』ろ」
「そういえば、やり方知らなかったね」
 剣から手を離すと、クリオンはフウの肩に手をかけながら言った。
「君の巣ではされるばっかりだったけど、今日は覚悟してよ……」
「んふぅ♪」
 上体を起こして鼻を鳴らしたフウに、クリオンは唇を重ねた。フウは金の瞳を閉じ、腕に力をこめて抱きついて来た。うるさいほど豊かな波打つ金髪から、蘭の花に似た濃い香りがあふれてクリオンを包む。フェリドの体臭だ。
 舌を交わしている間は、どちらが攻めているともつかない。同じほど積極的にからませ合う。クリオンも下手ではないが、フウは鋭い犬歯があるので、思うように奥に届かせられない。
 舌の代わりに手を使い出した。フウはうつぶせのまま体をひねって身を起こしているから、乳房がツンと持ち上がっている。それを包んでまさぐり始めた。胸覆いの毛皮は乳房が揺れなければいいというような細いもので、丘の上と下がはみ出している。その下から手を差し込んで、指に力をこめた。
「ふーう、ふぅん……」
 指の腹を滑らせると、フウが楽しげに鼻を鳴らして舌を止める。毛皮の中にまで指を押し込むと乳首が触れる。それを挟むとぴくっと震えた。手のひらのくぼみで覆うようにして円を描くと、ころころ転がりながら硬くなり、手のひらが押し上げられるほどになった。
 毛皮がじゃまだ。上にずらして乳房を露出させる。ぷるんとはみ出したふくらみに、クリオンは顔を押し付けた。
「おっぱいがあるってことは、フェリドもお乳で育てるんだね……」
 ちゅっと軽く触れ、ちゅうちゅうと音を立てて吸ってやる。「ふぁん、はぁん」とくすぐったそうにフウが身もだえする。どうやらそこの感覚は、まだまだ未発達なようだった。
 子供なんだなあ、と思いながらクリオンはフウを仰向けにさせた。片手を下に伸ばし、腰布に触れて驚く。そこは子供どころではない。布がピンと持ち上げられて、三角の天幕になっている。手でさわさわと撫でると、みるみるそれが膨らんだ。こちらのほうがよほど好きなようだった。
「先に、こっちをしてあげたほうがいいかな?」
 腰布を突き破りそうなほどいきり立ったフウの男性器を、クリオンは毛皮ごと優しく握り締めてこする。「ふっ、ふくっ!」とうめいたフウが、唇を噛んで首を横に振った。震える手でクリオンの手首をつかんで、そっと引き剥がす。クリオンはけげんに思ってつぶやく。
「ここ、いやなの?」
「ふうん、ふううん」
「いやじゃない? だったら……あ、そうか」
 クリオンは気づく。女にしてくれ、と言われていたのだった。
「ここは我慢しなくちゃいけないんだね。……わかったよ」
 クリオンは体を下げて、フウの足元に体を伏せた。
 フウの腰布は、腰の周りにぐるりと巻いただけのもので、股の部分はむき出しだ。太ももの半ばまであるそれを、へそまでめくり上げる。ぴん、と音がしそうなほどの勢いで、赤らんだものが反り返る。その下を、太ももを左右に押し開いて覗きこんだ。
「あ、こうなってるんだ……」
 樹海の巣では見たことがなかったそこを、クリオンはしげしげと観察した。ひくひくと脈打つ幹の下に、可愛らしい袋がついていて、その陰に谷間がある。女にあるはずの小さな実はなく、小用のための穴もなく、白い唇の間に薄桃のひだと小さな洞だけが口を開けている。察するに、女のその部分の上半分だけが育って、男のものになっている、という形らしかった。
「ということは……」
 考えながらクリオンはふっと息を吹きかける。「ひん!」とうめいてフウが腰を震わせる。
「女の子の粒が、男の子の先になっちゃってる……わけだけど、そこに触れないと、気持ちよくさせてあげられないよね……」
 フウがちょっと苦しくなるかもしれないなあ、と思いながらクリオンは顔を近づけた。禁じられたそこに口づけするのがいつのまにか普通になってしまったが、それで自然なんだ、と自分に言い聞かせる。
 ひだの間に、舌を差し込む。
「んっ……ふうぅぅ……」
 唇からちぷちぷと唾液と音を出して、ていねいに塗りこんでいく。フウが乳房を抱くように両腕をひきつけ、ぎゅっとこぶしを握って耐える。クリオンが片目でそれを見上げていると、フウはふさふさの毛に覆われた片手をそうっと下げて、いきり立った男性器に触れようとした。
 クリオンは声をかける。
「フウ、だめだよ」
「……んふぅぅ……」
 悲しげにうめいて、フウは手を引き戻した。
 クリオンの舌に、フウの蜜が乗り始める。とろとろと白っぽい液があふれてくる。それにつれてますますフウの幹も反り上がっていく。クリオンの鼻に当たっている根元の部分が、ぷくり、ぷくり、と動く。あのたっぷりした放出が溜まりつつある。フウは歯を食いしばって首を左右に振りながら、何度も手でこすろうとし、そのたびにクリオンに声をかけられて手を戻した。
 そのうちに、もう耐えられないと思ったのか、フウは両膝をきつく抱え込んだ。強く足をつかむことで、手が勝手に触れにいかないように自制する、ということらしかった。
 フウの可憐な谷間が、斜め上を向いてクリオンに突きつけられる。ぴんと引き伸ばされた太ももの間で男性器が、赤らんだつぼみの下で長い尾が、それぞれかすかに震えている。クリオンは思わず微笑んだ。
「フウ、ずいぶん可愛くなっちゃったね」
「ふぅん……」
 腰を小刻みに振るのが懇願の意思表示だと、よくわかった。
 クリオンは短衣の前を開けてズボンを下げ、自分のものを取り出した。それも準備はできている。フウのものよりやや小ぶりな、懸命な感じのこわばり。
「力抜いて、ってわかるかな……いくよ」
 上を向いたそれを指で押し下げて、先端の丸みをひだの間に押し付けた。くぷ、と挟まれて露があふれる。力をこめる前に、フウの袋の下にクリオンは親指を当てて、きつく押した。
「我慢してね」
 腰を進めた。狭いフウのそこが、ぴちりと裂けながらクリオンを飲み込んだ。「ふーっ!」とフウが喉を鳴らし、耳と尾と、手や背中や足先、全身の毛を逆立てる。その体に覆いかぶさって、クリオンは太ももに力をこめた。
 一度で根元まで差し込んだ。人より少し高いフェリドの体温が、クリオンの感覚が集まったそこを温かく包む。我知らず背中が反って、足の指にぎゅっと力がこもった。
「フウ……すてきだよ……」
「ふぅ……ぅう」
 フウが顔を背ける。二重の苦しさを感じている。破瓜の痛みと、もう一方の心地よさを味わえない苦痛だ。今の一瞬で打ち放つはずだった精が、クリオンの指にせき止められている。
 かわいそうに思いながらも、どうすることもできず、クリオンは動き始めた。
 クリオンの細い尻が前後すると、濁った水音が上がる。それがじきに、くちゅくちゅと軽いものになり始めた。そういえば犬とか猫は、とクリオンは思い出す。初めてのときでも、ほとんど痛がらないんだっけ。
「ふぅん、ふぅーんん……♪」
 フウが喉をそらして、鼻にかかった声を漏らす。薄く開いた口から舌を出し、はっはっと大きくあえいでいる。うっすらと目を開くと、膝を抱えていた両手を離して、甘えるように抱きついてきた。以前の交わりとどこか違う。
 クリオンを責めさいなもうとする覇気が消えている。責められることを喜んでいる。受身になっているのだ。
「女の子になってきたよ、フウ……」
「んふぅ……んん」
 これでいい? というようにフウがクリオンを見つめ、頬ずりした。誘われることで愛しくなり、クリオンは腰の動きを速める。
 いくらも立たないうちに、なじんで柔らかく溶けたフウの胎内に、耐えられなくなった。一回一回の突き込みを思い切り深くしながら、クリオンはささやきかけた。
「フ……ウ……女の子にして……あげ……んくっ!」
 その時が来た。駆け上りほとばしるものが、弾けるような快感をクリオンに与えた。他のすべての感覚をかき消す真っ白な光の中で、断続的な放出感だけがクリオンを貫いた。
「フウ、フウっ! これっ、これだよぉ!」
「んふっ……!」
 フウがきゅっと硬直し、根元を押さえているクリオンの親指に破裂しそうな圧力が伝わる。腰をぶつけて、その親指ごとフウの放出を押さえ込む。
「くふぅぅ……ん……っ!」
 枕に食い込むほど頭をのけぞらせたフウが、甲高い声でうめいてクリオンを抱きすくめた。こわばった体が、ぶるるっ、ぶるるっと細かな痙攣を起こしている。その反応はクリオンがよく知っているものだ。絶頂に達した娘の震え。
 フウ、いけたんだ……
 ぐいっと腰を押し付けて最後の残渣を注ぎ込みながら、クリオンは悟った。
 わずかな硬直の後、二人はどっと力を抜いた。体中から汗が流れ出し、荒い息遣いの音が上がる。クリオンはベッドに膝をついて、体を起こした。
 腰を離すと、フウのそこがゆっくりと閉じていく。それにつれてひだの間から白いものがあふれ出す。フウもくたりと両足を開き、両腕をベッドに投げ出して力を抜く。
 ただ、フウの男性器だけは、一人取り残されたように、硬くいきり立ったままだった。
 クリオンは枕元に手を伸ばし、剣を取ってフウの胸に抱かせた。
「フウ、気持ちよかった?」
「うん……フウ……こんなの初めてだった……」
 ぶっきらぼうな調子がない。口調までしおらしくなっていた。
「女って……とてもいい。クリオン、またして……」
「こっちはいいの?」
 熱を持って震えている幹に触れる。ぴくっと肩を震わせて、フウが首を振る。
「それはだめだから……ほっといて。収まるまで、がまんする……」
「いいよ、してあげる。急いで女の子にならなきゃいけないわけじゃないでしょ」
「で、でもっ、はわぁっ!」
 フウが剣を抱きしめて目を閉じた。クリオンが、フウの幹に横から口づけしたのだ。
 ちろちろと舌を這わせ、薄皮をひっぱるようにかぷりと噛む。嫌悪感はない。すでに何度も自分の中に入ってきたものだ。どうしてほしいか分かるから、親しみさえ覚える。
「だ、だめ、フウはそれをされると、んひっ!」
 フウがつま先を伸ばして叫ぶ。クリオンが先端の裏側を吸っている。我慢できるかな、とクリオンは意地の悪い楽しさを感じている。ぼくもキオラも、ここはすごく弱いんだ。
「く、クリオンー!」
 腰を浮かせて叫ぶと、フウは抱えた剣の柄でクリオンを押しのけようとした。その程度ではクリオンは離れない。フウのしなやかな腰をしっかりと抱いて、唾液交じりに思い切り刺激してやる。
 少女のような唇を薄く開けて、くぷりと飲み込んだ。つるつるの実を隙間なく包んでやると、もうフウは耐えられなかった。
「ふあぁあああんっ!」
 喉まで開いて長い悲鳴を放つとともに、フウが射精した。最初の奔流がびゅるっとあふれ出すと、クリオンはすぐさま幹の根元に手を添えて、思う存分放てるように手助けしてやった。
「ふぁっ、あっ、ああぁぁあんんっ!」
 泣くような声を上げて、フウが何度も腰を突き上げる。そのリズムを崩さないように気をつけて、クリオンは指の輪をしごき上げる。甘苦い粘液が次から次へと注ぎ込まれる。勢いで分かる、フウのすさまじい快感が。
 フウ、気持ちよさそう……
 相手を喜ばせる喜びに胸を温かくされながら、クリオンはびゅくびゅくと増えていく精液を飲み込んだ。口で受け止めるのは初めてだったが、戸惑いはしなかった。いつも自分がされているように、鼻に息を逃がして、放出のじゃまをしないように上手に喉へ迎え入れる。
 目を閉じてそれに没頭していると、少しずつフウがおとなしくなり、やがて放出が止まった。仕上げに根元から指で絞り上げ、頬をすぼめて吸って、心残りがないようにしてやった。
 顔を離して袖で口元をぬぐっていると、目に涙を浮かべてすっかり放心した様子のフウが、剣を当ててつぶやいた。
「クリオン、すごい……おまえを犯すより、よかった……」
「そう? うまくしてあげられたかな」
「うん……フウの負けだ。クリオンは交尾もフウよりうまい……」
「どういたしまして」
 微笑んで、クリオンはフウの頬にキスした。ン、とフウは目を細めた。
 フウが満足した様子だったので、クリオンは身支度を整えてベッドを降りた。そっと隣の部屋をのぞく。
 娘たちは、それぞれの居場所に戻ったようだった。その部屋に残っていたのはエメラダと、戻ってきたらしいソリュータだけ。もう一人、七色の衣装の道化がテーブルにカードを広げていた。振り向きもせず言う。
「五星の占うところによれば、首尾は上々と……陛下、いかがでしたかな?」
「ん、まあね」
「されば拙者が後の始末を」
「始末って?」
「異族といえどもお妃さま、裸でうろつかれては道化の体面もなし。笑われるのは拙者の仕事」
「ああ、着付けをしてくれるんだね」
 シャーッとカードをまとめて袖に収めたマウスが、一礼して次の間へ消える。エメラダがそれを見送ったきり背を向けたので、クリオンはソリュータに目をやった。
「ただいま、ソリュータ」
「……お帰りなさい」
 やや場違いな挨拶だったが、この二人にとっては適当だった。うなずいたソリュータが、改まった口調で言う。
「レンダイク男爵がお目通りを願っています。お疲れなら後にしてもらいましょうか」
「男爵が? ううん、行くよ」
 ソリュータに続いて、クリオンは部屋を出た。
 案内されたのは、妙なことに城館の謁見室ではなく、暖炉のある小さな喫茶室だった。レンダイクといえども皇帝の臣下だから、公務を終えたクリオンに面会を頼むときには、相応の手順を踏むことになっている。わざわざ小さな部屋を指定するということは、何か意味があるに違いなかった。
 クリオンが部屋に入ると、レンダイクは一礼してソリュータに目をやった。
「ご足労いただきありがとうございます。……お人払いを願えますか」
「いいよ。ソリュータ」
「では、お茶を淹れてまいりますので、御用がお済みになったらお呼びを」
 ソリュータが出て行くと、クリオンはレンダイクと向かい合わせにソファに腰掛けた。
「何か起こったの?」
「まずは吉報から申し上げましょう。帝国各地から、召集に応じて兵が集まってまいりました。現在はまだ一万に届きませんが、半月以内には三万を越えましょう」
「それはいい知らせだね。王都を取り戻せる」
 フェリドの侵攻を食い止められた今では、フィルバルトを乗っ取ったイフラ教会が最大の問題である。早期に解決したい。第一軍の残り一万数千に加えて、三万もの兵が集まるとなれば、五千人に達しない教会の討伐僧を倒すことは、難しくはないように思われた。クリオンはほっと吐息をつく。
 レンダイクの次の言葉は、そんな安堵を微塵に打ち砕いた。
「次に凶報があります。大明タイミン軍が国境を越えました」
「……なんだって?」
「東部防衛の第四軍からの知らせです。合衆帝国大統令の霞娜シャーナ率いる、天舶三隻と飛行兵器数百からなる侵攻軍が、国境を突破して王都に向かっているそうです。第四軍は兵力の七割を失う壊滅的打撃をこうむって、敗れました」
「た、大明軍が王都に……」
 クリオンは驚愕しつつ、そのことの意味を考えようとした。大明はジングリットの古くからの敵で、打ち負かしもせずに講和を結ぶことは不可能である。だが打ち負かそうにも皇帝の自分を始めとするジングリット中枢は今、王都にない。代わりにいるのは、イフラ教会の者どもだ。
 そして、教会は麗虎リーフーという大明の人間と手を結んで、王都簒奪の乱を起こした。クリオンは、恐ろしい予測にたどり着いた。
「教会が大明軍を受け入れて、一緒に王都に陣取ってしまう……?」
「そうなるでしょう。攻略は極めて困難になります」
 クリオンは言葉を失う。予想だにしなかった凶事だった。いや、予想してしかるべきなのに、それを忘れるほどの事件が続いていた。自分にはとても解決できないのではないか、という無力感がのしかかる。
 うなだれるクリオンに、レンダイクはさらに追い討ちをかけた。
 身を乗り出して、主君の顔を覗き込む。
「陛下」
「なに?」
「もうひとつ、大事なお話があります。不遜な言い方ですが、男と男の話です」
「……え?」
「スーミーを抱かれましたな」
 剣で刺されたようにクリオンは震えた。スーミー・シャムリスタ、レンダイクの祐筆であり、そして彼の愛人である女と、クリオンは確かに関係を持ったことがあった。
 蒼白になった少年を見つめて、壮年の男は無表情に言う。
「彼女の肌に傷がありました。私がつけたものではない傷が。問い詰めたところ、答えました。第二軍が教会討伐に出る直前のことです」
「だ、男爵……ぼくは……」
「事実なのですな。あれは今のところ私の妻ではありませんが、ゆくゆくはそうしようかとも思っていました」
「妻……」
「真意をお聞きしたい」
 レンダイクはさらに身を乗り出し、険しい眼差しでクリオンを見つめる。
「陛下は、あれを召し上げられるおつもりか」
「そ、そんなつもりじゃ!」
「では、ご側室になさる気もなく、ただ戯れに臣下の女を抱かれた、と?」
 クリオンは、どこにも逃げ場がないことに気づく。クリオンにとっては数々の娘たちの一人でしかないスーミーも、レンダイクにとってはかけがえのない愛する人なのだ。どのように答えたところで、非は免れえない。
 いや、まだ言いわけはできる。最初の時は知らなかったのだし、その後も、誘ってきたのはいつも彼女だった。クリオンだけに非があるわけではない。
 しかし、それは――自分が思いついた言いわけに、クリオンは本能的な嫌悪を抱く。他人の恋人を汚した男が使う、いちばん卑劣な言い逃れだ。自分が善悪の判断もつかない人間だと開き直るのも同然だ。そんな人間には死んでもなりたくなかった。
 クリオンは涙を浮かべて、頭を下げた。
「ごめん、ぼくが悪かった。卑しい気持ちだけでスーミーに手をつけた。謝って済むことじゃないけど、もうしない」
「それがお答えですか」
「うん。本当にごめん」
「おもてをお上げください」
 クリオンは顔を上げた。と同時に、がつんと音がして視界がひっくり返った。
「だ、男爵……」
 ソファに倒れて、クリオンは呆然とつぶやいた。レンダイクが、クリオンの頬を殴りつけたのだった。
 レンダイクは振り抜いた拳をすぐ収めて、卓上の鈴を取り、差し出した。
「どうぞ衛兵をお呼び下さい。大逆の行いです。いかようなご沙汰もお受けします」
「……つまり、後先がどうなっても、とりあえずぶん殴っておかなきゃ気が済まなかったわけだね」
 クリオンは体を起こし、熱くなった頬を押さえて言った。
「それで、気は済んだの?」
「十分に。二度はないとのお言葉もいただきましたから」
「……ありがとう、こんなことで許してくれて。沙汰はなしだよ」
「ありがたく存じます」
 頭を下げたレンダイクが、不意に笑みを浮かべた。
「陛下は本当にいい主君ですな」
「何が?」
「史上、臣下の妻を寝取って謝った皇帝がおりましたか」
「……いないの?」
「少なくとも私の知る限りでは。陛下もすでにたくさんのご側室を置かれて、ごく軽い気持ちでスーミーに手をつけられたことだろうから、開き直られるかもしれないと思い、だから一発不届きを働こうと考えておりました。しかし、こんな時まで陛下は陛下であらせられた。浅薄な邪推、お詫び申し上げます」
「い、いや、謝ることじゃないよそれ……」
 クリオンは赤くなって手を振る。大きな顔などとてもできない。
 自分が誰かにソリュータを取られたら、とクリオンは考えてみる。多分、逆上して斬り捨ててしまうだろう。それがかなわない相手なら泣き寝入りしてしまうに違いない。
 レンダイクの、覚悟を決めてねじ込みに来た剛直さ、それに一発殴っただけで許す余裕に、つくづくかなわない、と思った。
「こんな時にこんな話をして、重ね重ね申し訳ありませんが、大事の前に小事を済ませておきたかったので」
 元の謹直な顔に戻って、レンダイクが言う。
「この件は忘れましょう。これから王都を、ジングリット帝国を取り戻すのです」
「そうだね。それに『遷ろう者ども』のこともある。キンギューをたぶらかしていたのは、きっとあれだよね」
「さようです。つまり、恐らく王都にもきゃつらは入り込んでいる……」
「レザが調べてくれた。あれは初代のベルガイン陛下の御世に現れた、怪物なんだ。きっと手ごわいと思う」
 つぶやいたクリオンは、レンダイクがわずかに眉をひそめているのを見て、声をかける。
「勝てそうもない?」
「ああ……いや、むろん勝ちますとも。勝たなければなりません」
 レンダイクのそのわずかな屈託を、難敵のことを考えているからだとクリオンは思った。レンダイクはすぐに首を振って、生気のある眼差しに戻った。クリオンはうなずく。
「フィルバルトのみんなを助け出そう」
 クリオンは、かの地に置き去りにしてきた人々の事を思い出す。スーミーや、ジューディカ老人、ガルモン将軍、シェルカ、レザの従僕のトト、エコールのレグノンと、短い間だが友達になった学生たち。そういった近しい人々に加え、多くの民が――皇帝を皇帝であらしめてくれる民衆が、待っているはず。
「勝たなきゃ」
「お力添えを」
 レンダイクが差し出した拳に、クリオンは手を置いた。

 だが、クリオンが気づかない破局が、ごく身近で起こっていた。
 二人のいる部屋の外。扉の前に立った少女が、捧げ持った盆の上の茶器をカタカタと震わせている。
「クリオン様が……あの人にまで……」
 ソリュータの心の中で、黒い痛みが渦を巻く。
 クリオンが娘たちを抱くのは、愛しているからではなかったのか。分けへだてなく愛する人だからこそ、皆に情けをかけてしまうのではなかったか。
 愛もないのに抱けるというなら、自分がただひとつの支えとしているあの夜の意味がなくなってしまう。
「あの人が……わたしと、くりおんさまの、やくそくを」
 盆が傾く。
 落ちた茶器が、冷たい音を立てて砕け散った。

 14

 千二百有余年の不落を誇ったフィルバルト城に、かつて一度たりともなかった光景が現れていた。
 怪鳥のような鴆どもが、甲高い風切り音を上げて舞い狂う空のもと、城のほとんどを覆い尽くすようにして、全長二百余丈――千ヤードを越える巨大な天舶が、傲然と浮かんでいた。
 それも三隻。二隻は西と東に位置して片舷三十門の大型弩砲を城に向け、残る一隻が、王宮中央の鐘楼に舳先を向けて、ゆっくりと近づきつつあった。
 やがて、三日月形の天舶の舳先が鐘楼の尖塔に触れた。ただちに縄が投げられて舳先が係留され、それを伝って降りた天兵たちの手で、舷側から鐘楼にいたる斜路が設置された。
 その天舶、『白沢バイズェ』の甲板上に、黒びろうどと銀鎖の戦衣をまとった少女が現れ、ふ、と首をすくめた。
「寒いわ」
「じきに冬が至ります」
 傍らに立った片腕の女が言う。少女は皮肉げにつぶやく。
「冬に攻めるは負け戦、と言うわね」
「歴史を覆すわけですね、閣下は」
「知らないわ、歴史なんか。私は今を戦うだけ」
 無造作に言い捨てると、少女は斜路に足を踏み入れた。女が続く。
 鐘楼に降りた少女を迎えたのは、不気味なほど背の高い法衣の老人だった。二人は五歩を隔てて対峙した。
「初見にしてお別れね、キンロッホレヴン大神官」
「遠路はるばる、よくぞいらした。霞娜シャーナ殿」
 そう答えてから、おや、と大神官は首をかしげた。
「お別れとはまた何ゆえかな。ごゆるりと留まられればよい」
「用を済ませたら、離れるつもりだから」
「ほう、用とは?」
「王都潰滅」
 短く言って、霞娜は嬉しくてたまらない、というように微笑んだ。
「私が来たのは火を放つため、毒を撒くため。この都にそれ以上の用はない。ジングリット軍を追い払ってくれて感謝するわ、大神官。これがお礼よ」
「はて……わしと手に手を携え、クリオン皇帝を討ち果たすおつもりではなかったかな」
「皇帝は我が軍だけで討つ。フィルバルトに根付くものはすべて同罪。あなたたちの邪教も例外ではないわ」
「邪教とはしたり。イフラの神の教えは、地上にあまねく平安をもたらすものだというに……」
「神などいらない、私が与える。――やりなさい、麗虎リーフー
 次の瞬間、忠実な腹心が青竜刀を手に飛びかかると、霞娜は思った。
 麗虎は動かなかった。静かにたたずんでいる。彼女を振り返って、霞娜は言った。
「麗虎? どうしたの?」
「閣下、私はあの方を斬りません」
「あの方ですって? どうしたの、いきなりそんなことを……まさか邪教に染まってしまったの?」
 麗虎は答えない。霞娜は憎しみを込めて彼女をにらみつけたが、取り乱しはしなかった。再び大神官に視線を送って叫ぶ。
「麗虎一人を抱きこんでも、何も変わらないわよ。精霊を使うなら使ったら? 構えた途端にあなたは串刺しになるわ」
 高々と片手を上げる。背後の『白沢』甲板の天兵たちがいっせいに矢をつがえる。同時に、東西の空に浮かぶ『饕餮タオティエ』と『燭竜ズウロン』でも、弩砲の照準がつけられたはずだった。
 霞娜は、手を振り下ろそうとした。
「さようなら、邪教の――」
雪娜ジィナ
 老人のささやきに、霞娜は凍りついたように動きを止めた。
 大神官は、霞娜に言ったのではなかった。背後の階段に言ったのだ。そこから、イフラ教の尼僧衣をまとった一人の娘が、しずしずと現れた。年のころは十四、五。髪の色はかすかに緑にけぶる黒、名の通り肌は雪をあざむくほど白い。
 大神官の隣にひっそりと立ったその娘は、伏せていた眼差しを上げ、自分と瓜二つの顔を持つ少女に向かって言った。
「お姉さま」
「じ……」
「お姉さま、お待ちしておりました」
 まなじりを張り裂けんばかりに見開いて震える霞娜に、彼女の妹が歩み寄り、そっと抱きしめた。
 霞娜の肩に、麗虎の手が置かれる。
「閣下、あなたが十年前に失われたものを、取り戻して差し上げました」
「そ、そんな……こんなことって……」
「十年の間、閣下を苦しめた者を、ともに倒しましょう。猊下とともに」
 そう言って、麗虎は霞娜が差し上げた腕をつかみ、そっと雪娜の背に回させた。妹は潤んだ眼差しで姉を見上げ、ささやきながら優しく口づけする。
「お姉さま……また、昔のように」
 霞娜の震えが収まっていく。瞳にしずくが盛り上がり、懐かしさが彼女を押し流す。
 やがて、背に回した腕にしっかりと力がこもった。

 五星暦一二九〇年十月末、ジングリット皇帝軍四万五千、ギニエを進発。
 同時期、大明合衆帝国軍の艦艇百二十五隻と兵員一万八千名、占領下に置いた王都フィルバルトより、南下を開始。
 また同時期、西方にてシッキルギン連合王国軍八万、越境。
 さらに同時期、北部ホブロー領の西北四十リーグにて、隠顕都市プロセジア、準全文明喪失級の危難察知により、一千二百年ぶりに直接対処決定。各地の偏正官に矯惑体の勢力計測と拠点把握を指令、並行して統精系発現誘起界の構築に着手。
 すべてを見下ろして、五星が巡る。
 ザナゴード、プランジャ、シムレス、エラフォン、ジー。すれ違い続けた五つの星が重なり、目覚めの声が織り成されるまで、あと二ヵ月。


                          
―― 第八話に続く ―



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