次へ 戻る メニューへ  皇帝陛下は15歳! 第六話 中編

 4

 その夜、フィルバルト城は、未曾有の大混乱の中にあった。
 城は、東西千五百ヤード、南北千ヤードの堅固で長大な城壁に囲まれている。その守りは、ジングリット帝国開闢以来、破られたことがない。
 しかし、城壁の長さは、守るべきところの多さも意味した。延長五千ヤードに及ぶ城壁には、大小二十以上の城門があるのだ。
 そしてこの夜、城を守るはずの第二軍はそこになく、門衛や警務の兵、わずかに八百名が残っているだけだった。
 そこを、イフラ教会の討伐僧一千名が襲った。
 衛兵が城中に分散して配置されているのに対し、討伐僧は東門一ヵ所から突入してきた。予想はまったくされておらず、門衛は門を閉じることはおろか、他の部署に警報を発するひまもなく、殺到する討伐僧に倒された。さえぎるものはそれだけで、門をくぐった彼らの前には、文官や女官、財宝や書物、武器防具や馬などを収めた、城館、伽藍、宝物蔵、兵舎、厩舎などが、まったくの無防備のまま立ち並んでいた。
 討伐僧たちは速やかに王宮内に入り込んでいった。何をするべきか完全に分かっている動きであり、それ以上に、何をしたいかが歴然と分かる動きだった。
 帝国府の建物に乱入した三百名に、指揮官の軍司教が命じる。
「文官は追い散らせ、貴族は誅戮せよ、司は捕らえるのだ。抵抗するものは背教者だ、情けはいらぬぞ!」
 大半の文官は、日暮れすぎてもまだ残っていた。彼らは、重武装の討伐僧たちにろくな抵抗もできずに、蹂躙されていった。
 しかし、少数の文官は別だった。
 天領総監の執務室に入った討伐僧たちは、逃げるそぶりもなく椅子にかけている男を見て、思わず立ち止まった。先頭の僧が、確かめるように聞く。
「イシュナス・レンダイク男爵に相違ないな?」
「いかにも。おまえたちは誰だ」
「誰かだと」
 討伐僧たちは嘲笑を浮かべた。
「見てわからぬか。恐れのあまり人の見分けもつかなくなったか?」
「イフラ教会異端審問軍、シムレス聖槌隊だということはわかっている」
 冷ややかな一言で、レンダイクは侵入者たちを黙らせた。
「だが、ここはジングリットの枢機を司る帝国府だ。名乗りもせず訪れる者は相手にしない。そういう輩は、賊として扱う」
「神のしもべたる我らを賊だと? こ、この不敬者が!」
 激昂した僧が大またに近付いて、レンダイクの片腕を抱え上げた。抵抗しない彼を見下ろして、再び勝ち誇った笑みを浮かべる。
「なんだ、おまえは口だけか」
「私は文官だ。今まで人に剣を向けたことはないし、これからもない。――しかし、そういう心得は、文官よりもまず、聖職者が守るべきものだと思うがな」
「負け犬の遠吠えを!」
 僧はレンダイクを殴り倒し、荒縄で縛り上げた。レンダイクの顔には自嘲的な笑みが浮かんでいる。こうなったのは、彼が立てた教会征伐の計画に隙があったからだ。いくら矜持を保とうとしても、しょせんは僧が言うような遠吠えでしかない。それを悟っている顔だった。
 城館に侵入した五百名は、衛兵数十人をたちまちのうちに一掃すると、血走った目で軍司教の指示を仰いだ。
「司教殿! その……大神官猊下の布告の通りにしてよろしいでしょうか?」
「よいとも」
 軍司教は兜の面頬をはねあげ、薄笑いを浮かべて言う。
「これはイフラの神のための戦いだ。神はこの時のために、我々に節制と貞節と奉仕を説きたもうた。同じ教徒に対しては、その教えをかたく守らねばならん。しかし、これから我らが追うのは、皇帝に侍る背教の者ども」
 司教は、猛犬の鎖を手放すように、両腕を広げた。
「日頃の鬱憤を、晴らすが良い。――嘉せよ、我が神ウーレー・イフラ
嘉せよ、我が神ウーレー・イフラ
 我先に駆け出した討伐僧たちが、城館の扉を次々に蹴り開け、ついに目的の部屋を見つけた。
「キャアッ!」「な、何事ですか?」
 そこは女官たちの部屋だった。前帝ゼマント四世の好みで集められた、見目麗しい乙女たちが、突然の闖入者に驚いて、身をすくめる。
 討伐僧が、舌を突き出した恐ろしい形相で尋ねた。
「汝らは、修道院に入って一生貞潔を保つ覚悟があるか?」
 前置きもない質問に、娘たちは戸惑う。それが何を意味するのかもわからないまま、一人が答えてしまった。
「い、いえ。私たちはそのようなつもりは……」
「ないのだな?」
 娘のひとことは、許可の言葉だった。次の瞬間、獣と化した討伐僧たちが部屋になだれ込み、清楚な上衣を、エプロンを、スカートを、何十本もの腕で剥ぎ取った。
「イヤーッ!」「やめて、離して!」
「淫らな女どもめ!」「操を立てぬ雌め!」
 三つの部屋にいた、五十人あまりの娘たちに、その何倍もの討伐僧たちが群がった。裸にむき、あるいは下着だけをちぎり取り、あるいは服も脱がせずに口を向けさせて、柔肌に指を這わせ、唇を押し当てて唾液をなすりつけ、甲冑を捨ててあらわにした汚らしいものを力づくで押し付ける。
 押し込められていた獣欲の暴発に、娘たちは抵抗らしい抵抗もできないまま、犯されていく。別の戸口から逃げ出すことができたのはわずか数人で、その他の娘たちはすべて、気が狂いそうな激しさでなぶり回され、殴りつけられ、ねじ込まれ、注がれた。
 時ならぬ悲鳴と歓声と嬌声は、城中に響き渡り、奥院にまで届いた。
「ねえ、なんなの? 何が起こってるの?」
 三角回廊トライドール沿いに並ぶ姫君たちの部屋の一つ、レザの居室で、大きな枕を不安そうに抱え込んだチェル姫が、身を震わせて叫ぶ。
「戦争なの? チェル、こわい!」
「教会の討伐僧たちね。もう逃げ道もふさがれたようよ」
 六階の窓辺から中庭を見下ろして、レザがこわばった顔でつぶやく。
「第二軍の征伐が失敗したのでしょうね。追い詰められた兎が狐を噛んだのよ」
「ねずみが猫を噛んだ、のほうが適当じゃない?」
 ティーカップから銀茶を飲みながら皮肉げに言ったのは、エメラダだ。しかしそれが強がりであることは、カップを持つ手の細かな震えで明らかだ。
 レザが、冗談を言う風でもなく答える。
「兎よ。兎は、誰とでも交わる。――親兄弟、禁じられた間柄でもね」
「どういう意味ですか?」
 チェル姫と肩を並べてしゃがみこんでいるポレッカが、なにか聞かずにはいられないという風に叫ぶ。ちらりと見て、レザが冷たく答える。
「分からないかしら。覚悟するべきだと言っているのだけれど」
「覚悟って……」
「わたくしはこれを使います」
 レザは頭に手をやり、結い上げた群青色の髪の中から、キラリと輝くかみそりを見せた。
「いざとなったら、自らの手で、ね。――それともあなたたちは、汚されてなお、陛下に顔をお向けすることができるのかしら」
「じ……自害しろって言うんですか」
「自分でできなければ、わたくしがしてあげるわ」
「ポレッカにそんなことを無理強いしないでください!」
「そうだよ、それぐらいなら戦おうよ!」
 壁際に立ったソリュータと、歩き回っていたキオラが同時に叫んだ。キオラはチェル姫に歩み寄って、そばに膝をつく。
「姫、きっとお兄さまが助けにきてくれるよ。それまでがんばろ。姫には『シリンガシュート』もあるでしょ?」
「いやっ、チェル、もう人を殺すのなんかいやよ」
「そうね、小さいチェル姫に頼っちゃいけないわ」
 ソリュータは護身用の短剣を手にして、一同を見回す。
「エメラダ、あなたは護身術の心得があったわね。レザ様も、そのかみそりは自分しか切れないわけじゃありませんよね。それで抵抗しましょう」
「抵抗ですって?」
 いきなりレザの声が跳ね上がった。窓の外を指差して叫ぶ。
「御覧なさいよ、相手は鎧をまとった大の男なのよ? そんなちっぽけなナイフで何ができるって言うの? ひげでもそってやるつもりかしら?」
 ヒステリックな叫びに、ソリュータは少し驚いたが、すぐ納得した。冷静そうな顔をしてはいても、レザだって怖いのだ。
「落ち着いて下さい、レザ様」
 深呼吸して、できるだけ静かに言う。
「この三角回廊トライドールの入り口は、一ヵ所だけです。そこさえ家具でふさいでしまえば、半日や一日はもつでしょう。そうやって助けを待つんです」
 言いながら、自分がそんなに落ち着いているのが、不思議だった。危険な状況にあるのは、皆と変わりないのに。
 それは――信じているからだった。
 クリオンが、自分たちを見捨てるはずがないと。
 クリオンの立場なら、たとえ自分たちをすべて失っても、すぐに代わりの娘を見つけ出すことができる。しかし、彼が絶対にそんなことをしないと、ソリュータは固く信じていた。信じられないわけがなかった。
 自分が逆の立場なら、同じ事をするから。命を賭けてクリオンを助けに行くから。
 だから自分は、彼を待っていてもいいのだ。
「すぐに始めましょう。階段をふさぐんです」
「半日や一日もって――それでどうなるというの」
 レザが、暗い顔でつぶやいた。
「明日には助けが来ると思っているの? 軍隊もいないのに? ガジェスに行った第一軍に知らせが行っても、戻ってくるには七日はかかる。往復で二週間よ。そして、仮にその間ここを守ったとしても、私たちにある食べ物はそこのポットの中のお茶だけ。飢え死にしてしまう。……無駄だわ」
「レザ様……それでも、私たちはクリオン様を待たなきゃいけないと思うんです!」
 ソリュータは必死に叫んだ。
 その時、扉がこんこんと控えめな音を立てた。チェル姫とポレッカがひっと息を呑む。
 ソリュータは扉に近付き、外の物音を聞いた。教会の僧だったら――女の声を聞かせるのは命取りだ。
 だが、外から聞こえた声こそ、その女の声だった。
「ソリュータ様、ここをお開け下さい」
「――誰?」
「怪しいものではありません。お助けに参りました」
 聞き覚えのある声だった。ソリュータは短剣を構えたまま、扉を薄く開いた。
 そこに立っていた女の顔を見て、ソリュータは息を呑んだ。
「トリンゼ……」
 クリオンの侍女頭である、豪奢な金髪と豊かな肢体を持つ、三十歳の美しい女だった。その後ろには、二人の若い侍女――ジュナとチュロスの姿もある。
「あなたたち、無事だったの?」
「はい、姫様方をお救いするために、他の娘たちが私たちだけ逃がしてくれました」
「じゃあ、やっぱり、他の子は……」
「はい、あのけだものたちに――いえ、そんなことをお話している場合ではありません。急いでこちらへ」
 つかの間、目を伏せてから、トリンゼは顔を上げて差し招いた。ソリュータたち六人は、廊下に出る。
 名前どおりに三角形につながった三角回廊トライドールを歩きながら、トリンゼが言う。
「私たちは、前帝陛下の頃から王宮におりましたから、ここの詳しい造りを知っております。ここには、こういう事態への備えもあるのです」
「城の外への抜け道でもあるの?」
「今は城の外も危険でしょう。いえ、この奥院まで脅かされるときは、そもそもそこ以外のすべてが危険なときだと、ここを造った匠は予想しておりました。だから、逃げるのではなく立てこもるための細工をしたのです」
「細工……」
「ここです」
 トリンゼは、回廊の一番隅の部屋の扉を開けた。そこは北側で、日当たりが悪く、倉庫としてすら使われていない部屋だった。中に入ったチェル姫がつぶやく。
「あら、ここ見たことあるわ」
「姫が? いつ見たんですか?」
「お城に来た時に。面白い仕掛けがあるって言ったのに、みんな取り合ってくれなかったじゃない」
「そういえばそんなこともありましたわね……」
 最後に入って扉を閉めたレザが軽くため息をつき、顔を上げる。
「で、ここに何が?」
 その部屋には、時計台の内部のように組み合わさった、得体の知れない巨大な歯車や滑車や取っ手などがひしめきあっていた。トリンゼが唐突な質問をする。
「姫様方は、なぜ四角い建物の奥院に“三角”回廊があるか、お分かりですか?」
「え……?」
 ソリュータたちは顔を見合わせる。そんなことは、考えたこともなかった。
 トリンゼは、謎めいたことを言った。
「それは、四角の辺の一つを隠しているからなのです。――ジュナ、チュロス、いいわね」
「はい」
 答えた二人が、それぞれ一人の手では届かないほど離れた、別の壁にある取っ手をつかむ。
「いくわよ」
 トリンゼの合図で、三人が同時にそれを引いた。
 どこからか、滝のようなざあざあという音と、巨大な車輪を転がすような響きが聞こえてきた。床がかすかに震動している。チェル姫が、ぎゅっとソリュータにしがみついた。
「これ、なんなの?」
「屋根裏にためた水を落とす力で、仕掛けを動かしています。すぐに終わります。――ほら」
 音は消えた。トリンゼが扉を開ける。
「ご覧下さい」
 廊下に出たソリュータたちは、最初、何を見ろと言われているのかわからなかった。最初に気付いたのは、無責任そうな性格のわりに算術に強いエメラダだった。
「そこの角……直角になってるわね」
「え?」
 言われて、一同はそこに近付いた。確かに、今まで狭い角度だった廊下の曲がり角が、きちんとした直角に開いていた。エメラダは床を見下ろしてつぶやく。
「床板が切れてる……ここを軸に回ったんだ」
「こちらです」
 トリンゼの案内で、一同は角と反対の方向に歩いた。次の角を曲がった途端、チェル姫がぽかんとつぶやいた。
「どこ、ここ」
 一見、何の変哲もない廊下だった。だが、並んだドアをよく見ると、三角回廊トライドールのそこにあるはずの、チェル姫の部屋を表す鹿のレリーフや、その隣のエメラダの部屋を表す、金細工のノッカーがない。
 廊下を走っていったチェル姫が、次の角から先を見て叫んだ。
「こっちにチェルのお部屋があるわ!」
「どうなってるの……?」
 額にしわを寄せてつぶやいたポレッカに、トリンゼが言った。
「ここが、奥院の第四通路です。――いえ、本来はここも回廊の一部だったのですが、秘密にするために封じられたのです」
「分かったわ」
 エメラダが空中で指を動かしながら言った。
「三角形の角の一つを切り離して、開いたのね。それがこの第四通路の両端につながった。だから、ここは今、三角回廊トライドールじゃなくて四角回廊テトラドールになってるんだ」
「その通りです」
 トリンゼが微笑み、廊下を一周してきたチェル姫を招いた。
「姫様、こちらに。間もなくこの通路は自然に元に戻ります。そうなったらもう、秘密を知っている者が外から動かさないと――つまり、助けがこないと、開かなくなりますわ」
 チェル姫が第四通路に入るか入らないかのうちに、再び水音がし始めた。その音の中で、つっと三人の侍女が進み出て、三角の部分の廊下に移った。ソリュータが声を上げる。
「トリンゼ?」
「さようなら、ソリュータ様」
 トリンゼが、少し無理をしているような笑顔を浮かべて言った。
「ここに誰もいなければ怪しまれます。私たちが残って、身代わりを務めますわ」
「そんな、殺されるかもしれないのよ?」
 トリンゼの立つ廊下が、刃物で切り取られたように横に滑り出した。石壁が廊下の断面を狭めていく。トリンゼが口を開く。
「失礼ながら、先ほどノックをする前に、廊下で立ち聞きいたしました。貴女は、心の底から陛下と通じ合っていらっしゃるんですね。……私たちではなく、あなたが生き残らなければ、陛下は喜ばれないでしょう」
「だったら――わかるでしょう? 私があなたたちを見殺しにしても、クリオン様は悲しまれるってことに!」
 言うが早いか、ソリュータは手を伸ばして、トリンゼたちを次々にこちら側へ引きずり込んだ。レザとキオラが素早く腕を伸ばして、三人を抱きとめる。
 目の前で、廊下は閉じた。第四通路の両端は、斜めの石壁に封じられた。
「これで一蓮托生よ」
 呆然としている侍女たちに、ソリュータは微笑んだ。
「これで敵は防げるでしょうけど、ここには出口なんかないんでしょう? クリオン様が戻られるまでの間、断食に付き合ってもらうわ」
「ソリュータ様……」
 トリンゼは不意に、くすりと笑った。
「ここは非常時のための場所ですから、水も食べ物も蓄えてあります。断食はなさらなくても結構ですよ」
「おまけに、隠れ家にはもったいないぐらいの料理人までいるしね」
 エメラダが、余裕を取り戻した笑顔で、振り向いた。私? とポレッカが自分の顔を指差す。
 レザが、冷たく言い放った。
「蓄えがあるといっても、無限ではないのでしょう。それが尽きれば、今度こそ、投降もできずに餓死するわけですわね」
 そんな文句も、皆の顔に浮かんだ笑顔を消すことはできなかった。レザの毒舌は、気力が戻った証拠なのだ。
 それに、餓死することだって、心配ではないのだ。
「クリオン様がご無事ならば、きっと助けに来てくれます。それが来なければ――飢え死にしたって、あきらめも付くわよね?」
 クリオンと同じ運命なら、甘んじて受け入れる。
 ソリュータの軽い冗談は、全員の気持ちを表したものだった。

 5

「犯しぬいたものよ」
 一歩部屋に入るなり、大神官キンロッホレヴン四十九世はつぶやいた。動揺した様子もない無表情だった。
 そこには娘たちが横たわっていた。数十人、すべてが衣服を切り裂かれ、はぎとられて、異臭を放つ粘液で汚されている。顔を押さえてすすり泣いている娘や、両腕で身体を抱え込んでがたがた震えている娘、うつろな目であらぬ方向を見つめながらぐったりしている娘など、様子はさまざまだったが、正気を保っている者は一人もいなかった。前の晩に討伐僧たちが狂宴をくりひろげた部屋である。
 凄惨な光景だったが、それを見た大神官は、咎めるどころか恐るべきことを言った。
「見事じゃ」
「これで、よろしかったのですか」
 大神官の後ろから、高司祭が気づかわしげに聞く。大神官はうなずく。
「これは皮切りじゃ。今こそジングリットに、我らの真の教えを広めるとき。神はことほぎたもうぞ」
「幸いです」
 ほっとした表情で、高司祭は一礼した。
 二人は部屋を出て、護衛の討伐僧に囲まれながら、王宮の廊下を歩いていく。
「国軍の残兵は」
「城内の者はすべて神の御許に送りました。審問軍屯所に乱入した者どもは半分も殺せませんでしたが、指揮官どもを捕らえたので、散り散りに逃げさりました。今、フィルバルトには、我らに剣を向ける者はおりません」
「帝国府の文官は」
「天領総監ほか十数名の主だったものは捕らえました。下級の者は放置してありますが、刃向かった者は神の御許に」
「城下の民は」
「施しをいつも通り行い、脅えぬよう布令を出しました。フィルバルトから逃げる者はありますが、大半は家にこもって様子を見ている気配です」
「神は星にしろしめし、その御業行われるに、なべて滞りはなし……よき手際じゃ」
 うなずいてから、大神官は目を細めて高司祭を見た。
「して、皇帝は」
「……いまだに見つかっておりません」
「ふむ」
 大神官が胸元の五星架をちゃりっとつまむのを見て、高司祭は息を呑む。
 だが、不敬者をたちどころに消し去る慈悲の炎は現れず、大神官はあきらめたように漏らしただけだった。
「討伐僧ごときでは、あの子供の護りを破れぬか……プロセジアめ」
「は?」
「皇帝の寵姫は」
 聞き返した高司祭には答えず、大神官は質問を重ねた。高司祭は首を振る。
「それも見つかっておりません。衛兵どもの皮を剥いだところ、確かに奥院にいたと言うのですが、三角回廊トライドールとやらはもぬけのからでございました」
「捜索に当たった軍司教を鞭打ち、替わりの者にもう一度探させよ」
「かしこまりました」
 軽く身震いしながら一礼して、高司祭は護衛の討伐僧に命令を伝える。
 それを聞きながら歩き続けた大神官は、廊下の角でふと足を止めた。
 そこに、一人の討伐僧がじっと立っていた。鎧をまとったまま、兜だけを外し、美しい銀の髪を背中に流している。
 大神官を見て、無表情な顔にかすかな感情を浮かべる。すがるような目付きだ。大神官は乾いた声でつぶやく。
「ハイミーナか」
「猊下……」
「手柄は、なかったようじゃの」
 大神官は、淡々とした口調で言った。
「もう顔を見せずともよいぞ。一討伐僧として励むがよい」
「そ、それでは、これからは」
「心配はいらぬ。新たな娘に神の真理を教えねばならなくなった。じきに奥院でそれらが見つかるじゃろう」
 それだけ言うと、大神官は通り過ぎた。あとには、呆然とした顔の娘が残された。
 高司祭や討伐僧たちは、あざけるような笑いをハイミーナに向けていた。再び大神官の声がかかり、高司祭が前を向く。
「これからのジングリットのことを考えねばならぬな。麗虎リーフーと、儀典長官のジューディカを呼べ。あの者の知恵が必要じゃ」
「はい」
「それに、べクテルも」
「べクテル?」
 高司祭が、おそるおそる聞いた。
「それは何者でしょうか」
「国軍工武廠の工匠じゃ。ラブリス・ベクテルという。――まさか殺してはおるまいな」
「こ、工武廠は取り囲んだだけで中には入っておりませんから、無事でありましょう」
 殺していたらどうなったか、それを考えて冷や汗を流しながら、高司祭は答えた。
「重畳じゃ」
 つぶやいて、大神官が足を止めた。その前に、両開きの青銅の巨大な扉がある。
 討伐僧がそれを開き、大神官は室内に足を踏み入れた。
 皇帝の謁見室だった。
 列柱に囲まれた緋の絨毯の上を進み、大神官は顔を上げる。
 主のいない玉座の上に、長さ十ヤードの皇帝旗が下げられている。海蛇と亀を合わせたような奇怪な海獣を踏みつける、中性的な顔立ちの美しい戦乙女を見つめて、大神官はつぶやく。
「これは、燃やせ」
「はい」
「グルドの甲羅はベルガインに刺された。だがクリオンに割られることはない」
 高司祭はしばらく待った。だが、その言葉が説明されることはなかった。――常にないのだ、大神官が、彼だけが知っているイフラの秘密を明かすことは。
 沈黙を、廊下の喧騒が破った。討伐僧が一人、あわてた様子で駆け込んでくる。
「高司祭様、大変でございます」
「何事か」
「鳥舎のエピオルニスどもが突然暴れだし、止まり木をへし折って逃げ出しました。いかがいたしましょう」
「馬鹿めが! ただちに追っ手を――」
「鳥など放っておけ」
 大神官がそっけなく言った。
「我らには必要のないものじゃ。軍にとってはなおさら。――じきに軍などというものもなくなる」
「は……はい」
「楽園が現される」
 つぶやいて、大神官はしわ深い顔をほころばせた。
「すべての者が満たされるのじゃ」

 6

 ギニエの町の外れにあるその小屋は、一見、なんということもないただの民家だった。
 家の前の小道に、一本の大きな蘇鉄が影を落とし、その下に犬小屋があった。隣には小ぢんまりとした菜園があり、野菜が数列植えられていた。
 しかし、その家に近付いた分隊の隊長は、軽い違和感を覚えた。犬小屋は空で、鎖につながれた首輪だけが落ちていた。菜園の野菜は、もうすぐ収穫の時期だというのに干からびて縮み上がり、しばらく前から水を与えられていない様子だった。
 そういったことを横目で見ながら、三人の部下の先頭に立って、隊長は小屋のドアを叩いた。
「誰かいるか。我々はジングリット軍の者だ」
 しばらくするとドアが開き、男が一人顔を出した。隊長が言う。
「ジングリット第一軍の者だ。セムとノーラの夫婦に会いに来た」
「セムはわしですが……何の御用で」
「少し話がある。入っていいか」
「……」
 セムは背後を振り返って、何かしゃべった。それから向き直り、笑顔で言った。
「汚ねえところですが、どうぞ」
 セムの頬はこけ、あまり剃っていないらしいひげがぼうぼうと顎に生えていて、まるで看病されずに放っておかれた病人のようだった。そのくせ目の光だけはぎらぎらと強かった。奇妙な様子に少し警戒しながら、隊長は部下とともに中に入った。
 ドアの中がすぐ居間で、そこに一人の女が立っていた。
「ノーラです。いらっしゃいませ」
 隊長は思わず目を奪われた。生気のない夫とは対照的に、輝くばかりに美しい女だった。しかも若い。セムは四十過ぎに見えたが、こちらはまだ三十前ではないだろうか。
 四人が座る場所もないので、立ったまま隊長は言った。
「子供はいないのか。二人だけか?」
「ええ、二人きりです。犬が一匹おりましたが、先週逃げ出してしまいました。……何もありませんが、お茶でもお飲みになりますか」
「いや、けっこう」
 隊長は断ったが、ノーラは流しに立って、お茶の用意をし始めた。その背から目を逸らし、セムに向かって、隊長は言った。
「あんたはガジェス山の鉱夫で、ずっとここに住んでいるそうだな」
「はあ、そうですだ。餓鬼の時分からここにおります」
「昔は親がいて、そこにノーラを嫁に迎えたんだな。家族四人だったが、そのうち親が死に絶えて、二人になった。それが八年前で、今あんたは四十二歳だな」
「はあ、その通りで。よく知っとりますな」
「町であんたの親方に聞いた。その親方の頼みでここに来たんだ。……あんた、ここ一ヵ月ほど、まったく鉱山に出ていないそうじゃないか」
 それを聞くと、セムは顔を真っ赤にして、へどもど言った。
「いや、すまんです。わしもずっとうちにこもってるつもりはないんですが、近頃はちょっとノーラと……ほら、あんた方もないですか、古女房が何かの拍子にえらくきれいになって、ついお盛んになっちまうようなことが」
「ああ、確かにきれいだ」
 隊長はそう言ったものの、言葉と裏腹に誉めているような口調ではなく、ノーラを見もしなかった。
 ごくりとつばを飲んで、低い声で聞く。
「しかし、だ。きれいになるっていっても、限度があるんじゃないかね」
「はあ?」
「つまりだな、その……あんたの嫁さんは、十も年上の姉さん女房のはずだろう」
 かちゃん、と高い音が響き、兵隊たちはびくりと身をすくめた。ノーラが盆にカップを載せたのだった。
 こちらへやって来て、笑顔で差し出す。
「古い葉ですが、銀茶です。どうぞ」
「い、いや……」
 間近で微笑む若々しい顔を、隊長はまじまじと見つめた。肌のみずみずしさ、髪のつやは、どう見ても二十五、六としか思えなかった。
 町の親方から聞いた、五十二歳の半白髪の女の面立ちは、どこにもなかった。
 だが、それが何を意味するのかが分からない。鉱夫の一人が突然出てこなくなり、その原因が彼の妻にあるらしい、妻が別人のように若返ったからだ、という話だったが、それだけならば、軍どころか他人が口を出すようなことでもない。
 隊長たちが派遣されたのは、別人のようではなく、本当に別人だからだ、と聞かされたからだ。いや――人ですらないかもしれない。
 人に化けた悪魔だ、と親方は恐ろしげに言った。
 これが悪魔か、と隊長はノーラを見つめる。そうは思えなかった。若い人間の女だろう。セムか親方か、誰かが勘違いをし、あるいは冗談を言ったに違いなかった。
「分かった、もういい。我々はこれで帰る。邪魔をしたな」
 それでも早口になった。得体の知れない恐怖があったからだ。
「親方には、何かの間違いだったと伝えよう。あんたも仕事に戻るように」
「へえ」
「あら、もうお帰りですか」
 ノーラは気を悪くした様子もなく言って、盆を流しに戻した。ドアを出る隊長たちについてきて、玄関に立つ。
 異変はそのとき起こった。
 蘇鉄の陰から一匹の犬が走ってきて、けたたましく吠えたのだ。
 ぎゃん、ぎゃん、と犬は歯をむき出して喚いた。まるで犬ではなく血に飢えた狼のような吠え方だった。いや、敵意ではない。脅えに突き動かされて吠えているのだ、と隊長は見抜く。
 ノーラがそちらを見て、微笑んだ。
「まあ、戻ってきたのね。おいで」
 犬の異常を気にも留めない、どこかちぐはぐな笑みだった。
 すると犬は、びくっと身をすくめ、ぶるぶると震え出した。そのまま逃げ出すかと思われたが、何を血迷ったのか、突然駆け出して、決死の形相でノーラの腕に噛み付いた。
「あっ?」
 兵隊たちは凍りついた。犬がノーラの肘に歯を突きたて――そのまま、腕を噛みちぎってしまったのだ!
 血が滝のように――出なかった。
 長袖のほつれた裂け目の中に、腕の切り口が見えた。そこから、肉や骨ではなく、肌色をした数百匹の細い蛇のようなものが垂れて、びちびちざわざわとうごめいた。
 ノーラの顔から、拭ったように表情が消えた。
「の、ノーラ、大丈夫か」
 尋ねたセムに向かって、ノーラが腕を振った。細腕が鉄槌のようにセムの側頭部を打つと、吹っ飛んだ彼は壁板にぶつかって、ずるりと地面に倒れ、動かなくなった。
 続いてノーラはかがみ込み、腕をくわえて小便を漏らしている犬の背中をぐっと押した。きゃん! と犬は鳴いたが、ごきりという音とともに背中の中央が陥没すると、泡を吹いて絶命した。
「ば……化物め!」
 もはや明らかだった。ノーラはやはり、何者かに取って代わられていたのだ。兵士たちは剣を抜く。
 ノーラが無造作に近付いてくる。兵士たちは一斉に切りかかった。肩に、背に、腰に、四本の剣が食い込んだ。
 それを意にも介さず、ノーラは腕を振り回した。目は近くの地面を見つめていて、腕は視線とまったく別の方向に動いた。そんな動きをする相手は兵士たちにとって初めてで、剣が効かない相手も初めてだった。
 そしてノーラの腕は凄まじい怪力だった。
 三人の兵士が、続けざまに吹き飛ばされた。一人は首を折って即死し、もう二人も腕を折られて悲鳴を上げる。飛びすさった隊長は、横を向いたまま近付いてくるノーラに叫んだ。
「貴様、一体何者だ!」
 破城槌のように突き出された拳が答えだった。
 その時、天から叫びが降って来た。
「目覚めよ、『キシューハ』!」
 サン! サァン! と空気を裂いた見えない鎌が、ノーラの身体を一瞬でバラバラにした。五インチ刻みで解体された塊が、ぼとぼとと地面に落ちる。
「おお……」
 空を仰いだ隊長の頭上を、飛影が素晴らしい勢いで横切った。くちばしから尾の先まで八ヤードに達する、瑠璃色の羽根に覆われた巨鳥、エピオルニス。それを駆る騎士は帝国にも一握りしかいない。
 ジングリット高速勅使団――そうなる前は疾空騎団として無類の機動力を誇った、空の騎兵たちだ。
 いったん通り過ぎたエピオルニスが、旋回して舞い降りてきた。土ぼこりを上げながら羽ばたいて着地する。その背から飛び降りた二人の人物こそ、目を疑う相手だった。
「ニッセン団長! そ、それに皇帝陛下!」
「無事か? 第一軍の兵士だな?」
「さようです。助かりました!」
 喜色を浮かべて隊長は敬礼する。マイラが手を上げて、たった今倒した奇怪な敵に目を向けた。
「これはなんだ。ガジェスの山に巣食う怪物か?」
「分かりません。見たこともありません」
「私も初めてだ。こんな化物がいるとは……」
「人間に化けてそこの男に取り憑いておりました。どうやらこれが、ギニエの町で噂の悪魔らしいのです」
「こいつが!」
 クリオンが言って、気味悪そうに見下ろした。一山の塊になったそいつは、さすがにもう襲ってくる様子はなかったが、それでもまだ肉色をした各部が、ぬめぬめとうごめいていた。
「一体なんなんだろう……」
「陛下、それより兵たちを。私が応急処置をします」
「あ、そうだね。それが済んだら、エピオルニスで町に知らせにいって。三人も運べないから、それが一番速いよ」
「お気遣い、ありがとうございます」
 隊長が頭を下げた。
 マイラとともに部下の骨折を調べながら、尋ねる。
「お二人はなぜここに? ああ、こいつはもうだめだ」
「フィルバルトから第一軍のところに向かう途中なんだよ。地形を見ようとして降りたら、ちょうどきみたちが襲われていた」
「王都から? お二人がじかにおいでになるとは、よほどのことが起こりましたか」
「ああ、起こった。――しかしその話は、ジングピアサー将軍に会ってからだ」
 クリオンを片手で制して、マイラが言った。重大なことらしいと悟った隊長は、職分をわきまえて口を閉ざす。
 兵士の傷に添木をしたマイラが、立ち上がった。
「よし、この二人はこれでいい。陛下、しばらくお待ちください」
「うん、急いでね」
 マイラがエピオルニスで飛び去ると、隊長がもう一度、深々と頭を垂れた。
「本当に助かりました。あのまま通り過ぎていかれたら、私も今頃は……」
「いいって。皇帝が臣下を助けるのは当たり前でしょ」
 まったく当たり前でないことを言われて、隊長は言葉もなく、その少年のあどけない横顔を見つめた。
 それからマイラが戻ってくるまでの十分の間に、彼はすっかりクリオンに心酔してしまった。

 ギニエの城館に置かれた本陣で、デジエラは重いため息をついた。
「そうですか、王都が教会に……」
「第二軍はやられちゃったみたい。城も占領されていた。ううん、逃げ出してからもう一昼夜たってるから、もし教会がその気なら、フィルバルト全体がイフラ教に支配されてるだろうね」
「とにかく、陛下がご無事で何よりでした」
「マイラのおかげだよ。マイラ、口笛ひとつでエピオルニスを呼べるんだ。城壁の外から届くかどうか心配だったけど、やってみたらうまくいった。――マイラ、やってみてよ。あの難しい口笛」
「ああ、それはお控えください」
 デジエラが片手を挙げて制した。窓の外を指差す。
「ギニエ市はエピオルニスの産地です。ここで口笛を吹くと、それらが暴れ出してしまいます」
「そうなの?」
「城壁の中まで届いたのでしょう? マイラならこの町中のエピオルニスを操ることもできるでしょうね。――そうだな、マイラ」
 尊敬している上官に賞賛されて、マイラは少女のように頬を染め、うなずいた。
 その隣でクリオンが、やや居心地悪そうに目を伏せる。
「でも、予だけが、一人で逃げてきたことになるけどね。男爵やイマロンや、シェルカやガルモンを置き去りにして」
「おれでも逃げますよ、そんな状況だったら。陛下がお気になさることはないです」
 そう言ったのは、テーブルの端についた丸顔の若者だ。第一軍遊撃連隊長のネムネーダである。
「逃げて正解です。天領総監やイマロンおばさんならいざしらず、陛下が捕まってしまったら、それこそジングリット帝国は完全に負けたことになるんですから」
「うむ、その通り。それに陛下のことだ、逃げっぱなしのおつもりでもないのでしょう。今すぐにでも、我が軍団の兵力を用いて王都を奪回しよう、そういうお気概ですな?」
 重々しく問い掛けたのは、軍団長のフォーニーである。歴戦の武人の視線を正面から受けて、クリオンはうなずく。
「そうだよ。そうしてくれれば、予も同行する。ここで待ってたりしない」
「そうなされば、囚われの姫様方もお喜びになるでしょうな」
 フォーニーのひとことで、クリオンは急に口をつぐんだ。見る間に、その大きな瞳が湿り始める。
 彼が横を向いて、涙を押さえようと何度も瞬きするのを、大人たちは見て見ぬふりをして待った。この少年は、何よりも大切なはずの娘たちのことも置いて、帝国のために王都を奪回することを訴えたのだ。心配で涙ぐむぐらいなら、むしろ見上げた根性だと言えた。
「――そういうわけだから、すぐに第一軍を戻してくれないかな」
 クリオンが向き直って言うと、デジエラは首を振った。
「申し訳ありませんが……それはできません」
「ど、どうして?」
「こちらでも、すでに戦端が開かれているのです」
「もう?」
 驚くクリオンに、デジエラは難しい顔で説明した。
「はい、フェリドと戦っています。奴らは今回、いつにもましてやる気らしく、昨日もほんの二リーグ南まで先遣隊を出してきました。我が軍は一万六千の兵力を動員していますが、彼らは二万ないし三万近い人数を、すぐ先の山中にまで進めているのです」
「二倍じゃない!」
「装備と戦術は我が軍が上回っていますので、これでも不利ではありません。増援なしでも撃退は可能です。しかし、ここを引き払って王都へ戻ろうとすれば、ギニエの町は間違いなく蹂躙されるでしょうし、背中を向けていれば、我が軍そのものも……」
「じゃあ……王都には」
「しばらく戻れません。フェリドを片付けるまでは」
「どれぐらい?」
「こればかりはこちらで勝手に決めるわけにも参りませんから……早くて二十日はかかるかと」
「二十日……」
 クリオンは、ソリュータたちがどうにかして姿を隠していることを期待している。それにしても、女たちばかりで二十日を耐えるのは不可能だろう。
 絶望的な沈黙がその場に落ちた。
 しばらくして、ネムネーダがふと顔を上げた。
「教会の坊さんたちは、城の人間を全部片付けちまうつもりなんでしょうかね」
「そんなことはないだろう。帝国を支配しようとすれば、彼らだけでは無理なことぐらい、わかっているだろうから」
「だとしても、命令に従わない骨のある奴や、煙たい奴は、やっちまうつもりでしょうね。で、まずいことに、帝国府の男爵殿たちは、そういう人間ですよね」
「ああ」
 苦い顔でうなずいたデジエラに、ネムネーダは突拍子もないことを言った。
「じゃ、その辺だけかっさらって、後はしばらくほっとくってのはどうです」
「……なんだと?」
 集まる視線の中で、ネムネーダは気楽そうに言った。
「殺されそうな人間だけ助けて、ギニエに連れて来るんです。いえ、他の人間を見捨てようってんじゃないですよ。その後、本格的に王都を取り戻すまでの、一時凌ぎとしてやるんです」
 一同は唖然として、ぬいぐるみじみた笑顔の青年を見つめた。
「攻め返るのではなくて……人間だけ取り返すというのか」
「そうです。こっそりやれば、大軍はいらんでしょう」
「簡単に言うな、敵はフィルバルト城の中なんだぞ。あの堅固な城壁を、こっそり破ったりできると思うのか?」
「別に破らなくたっていいです。エピオルニスを使えば」
 はっとマイラが顔を上げた。
「そうか、空から!」
「ありがたいことにエピオルニスは南方の特産で、この町にも数百羽が飼われています。そいつをフェリドも持っているので、油断ができないんですがね。しかし、第一軍の数が揃っていれば、それも迎え撃てます。そして、救助隊を数十人の精鋭とエピオルニスで構成する。――隊長はもちろん、ニッセンで」
「うまい。それで行こう」
 デジエラが即座にうなずいた。
「エピオルニスの翼ならば、あちらでいったん降りて偵察を行うとしても、往復五日でことを為せる。――それぐらいなら、フォーニー、おまえの指揮で凌げるな?」
「何をおっしゃる。五日と言わず五十日でも戦ってみせましょう」
 そう言ってから、フォーニーは付け加えた。
「無論、将軍閣下の手腕にはかないませぬが」
「謙遜はいらん。私以上の腕を見せろ。私は救助隊に加わる」
「閣下が?」
 驚く一同に、デジエラは不敵な笑みを返した。
「精鋭がいるのだろう。エピオルニスを手足のように扱う騎手が。私は以前乗っていた。不満があるか?」
「しかし、危険です」
「阿呆、危険だからだ」
 この上ない自信に支えられた言葉だったが、この上ない実力を持つ人間の言葉だった。反論はたちどころに消え失せた。
「ただちに騎手の人選と、エピオルニスの徴発を始めろ。城の構造を覚えているものを集めて、図面を引け。助ける相手の生死確認の手段と、閉じ込められていそうな場所を検討しろ。目くらましの煙幕と呼子を持て。装備はすべて黒く塗れ。出発は明朝日の出だ。他に何か留意点は?」
 命じられた幕僚が急ぎ足に部屋を出て行く。テーブルを見回すデジエラに、クリオンが言った。
「救出はそれでいいけれど……悪魔のことはどうしよう」
「それがありました。しかし――」
 デジエラはつかの間考え込み、首を振った。
「異変なのは確かでしょうが、そこまで人員を割くと当面の敵がおろそかになります。危険の度合いも戦ほど高くはないようですから、一時置くことにしましょう」
 そういう判断に関して、デジエラの右に出る者はない。軍人たちは異議なくうなずいた。
「他に意見はないな? では、行動を始めよう」
 一斉に立ち上がる一同の中で、デジエラはクリオンに近付いた。
「陛下はどうなさいますか」
「もちろん、予も行くよ」
「だろうと思いました。実際、奥院のことは陛下が一番お詳しい。お守りしますから、私のエピオルニスにお乗りください」
「閣下」
 クリオンのそばに立っていたマイラが、見つめ返した。
「陛下は私が。閣下は全体の指揮を執ってください」
 そう言ってマイラは、すっとクリオンに身を寄せる。他の人間ならば見過ごしてしまうような微妙なその仕草に、デジエラはすぐ気付いた。つかの間、敬愛する君主と、妹のように親しんでいる女を交互に見る。
「マイラ……そうか」
「はい」
「悔いはなかったか?」
「はい。あとで閣下にもお話しします」
「それはいい。妬ける」
 さらりと言われて、二人は目に見えて赤くなった。
「閣下、違います! お話しすることがあるのです! そういうこととは別に」
「そういうこととは、どういうことかな」
 聞かずとも分かっているという風に笑うと、マイラは片手を挙げてきびすを返した。
「剣技はともかく、鳥の乗りこなしはおまえのほうが上だ。任せるから、しっかりお守りしろ」
「……はい!」
 今の話を聞かなかったように、部下に指示を出しながら歩み去る赤毛の将軍を、二人はしばらく見つめていた。
「デジエラ、大人だよね……」
「ああなりたいものです、私も」
 マイラのつぶやきは、クリオンにもよく分かるものだった。

「今、なんとおっしゃいましたか」
 言葉は礼儀を保っていたが、ビアースが顔に浮かべた笑みは、引きつっていた。
 豪奢な象牙のテーブルの向かいに、漆黒の寛衣をまとった二人の男が座っている。教会が派遣してきた司祭たちだった。
 彼らはもう一度言った。
「代金は支払わない、と言ったのです」
「それは少々、困ったお話ですな」
 ビアースはついに笑みを消して、険しい顔になった。
 日暮れすぎ、王都フィルバルトのヘリネ街にある広壮な邸宅、穀物札差商人ジュゼッカ・デ・ビアースの屋敷である。そこで、主のビアースが、城から訪れた僧たちを迎えていた。
 教会が城を乗っ取ったという前代未聞の話は、すでに聞いている。商人にとって政変や変事は、絶好の商機、あるいは危機となるから、噂を集める努力は日頃怠りない。毎日城に御用聞きに行かせている使用人や、友人の商人たちなどから、異変が間違いのない事実だということは、確かめてあった。
 城下の市民や、いまや名目だけのお飾りに成り下がった貴族たちは、この変事でどんな危険が身に及ぶかと、戦々恐々としているようだが、ビアースら商人は少し違う。もともと城の帝国府とは、金銭を挟んだ実利的な取り引きをしていた間柄である。それが追い払われて別の主が城に入ったところで、さして心は痛まない。要は相手が誰であれ、利益を保証してくれればいいのだ。
 そのための交渉をしようとしていたところ、都合よく司祭たちがやってきた。だから、さっそくに話を始めたのだが、相手の申し出はずいぶんと常識外れのものだった。
「あなたが以前のまま、城と取り引きをしようとしていたのであれば、これは確かに、困ったお話でしょうな」
 司祭は薄笑いを浮かべて言う。ビアースは憮然とした様子で答える。
「手前どもにとってもですが、あなた方にとって困るお話だというのです。代金をいただけなければ、当然、手前ども商人は、城に納める食料やその他の品を、差し止めるしかございません。教会の方々は、飲まず食わずで城にこもられるおつもりですか」
「私たちが困る、ですか。柔らかい言い方というものは、いくらでもできるものですね。我らには神がついておられます。困るのはやはりあなたでしょう、ビアース殿」
「困りはしません。手前どもの商品を望まれるお客様は、他にも大勢おりますので」
「なるほど取引先は他にもあるでしょう。しかし――あなたの大事な御令嬢がいる場所は、一ヵ所だけではありませんか」
 それを聞くと、ビアースはいくつもの指輪をはめた指を、強く組み合わせた。
「……エメラダを使って手前を脅すのですか」
「なるほど、やはりあの姫は城にいたのですね」
 ビアースは沈黙する。かまをかけられたのだった。どこかへ遊びに出ているとでも答えればよかった。
 いや? この相手の言いようだと、教会もエメラダを捕らえていないのだ。エメラダが一人で城を出ているとは聞いていないから、ひょっとすると、他の姫たちも。
「別に、ただで商品を差し出せと言いに来たわけではありません。今夜のところはね」
 大して実のある話もしていないのに、司祭たちはあっさり立ち上がった。ビアースはけげんに思って聞く。
「では何をしにいらしたのです」
「商人というものは――商売というものは」
 司祭は瞑目して、経典を読むように言った。
「品物を造り、品物を集め、品物を動かし、品物を渡す営み。それによって、小麦や、豆や、材木や、綿や、肉や、油や、鉄や、金銀が、大地から摘み取られ、人の手に渡り、使いつぶされていく。――万物を果てしなく浪費するのが商売ですな」
「人を豊かにするのですよ」
「イフラの神は望まれません」
 司祭は首を振った。
「神はこう説かれました。人よ、節度を知れ。人よ、みだりに子を為すな。人よ、我を捨ててつくせ。節制・貞節・奉仕の教えです。我ら教会は、この教えをジングリットの隅々に至るまで、行き渡らせようと思っています」
「手前どもにどうしろと?」
「さ、今日明日にどうこうしろとは……しかしいずれ、すべての商人にも、この通りしてもらうことになるでしょうね。汝らの不毛な取り引きを慎め、と」
「……お帰りはあちらです」
 ビアースに戸口を示されて、司祭たちは一礼し、出て行った。最後まで、彼らは薄笑いを収めなかった。
 二人が部屋から消えると、彼らが手もつけなかった年代物のぶどう酒の杯をつかんで、ビアースは勢いよく飲み干した。
「薄気味の悪い奴らめ! 何が、神は望まれませんだ! 霞でも食って生きろというのか!」
 杯を乱暴に投げ捨て――ると、ナグレブ産の高価なそのクリスタル細工が壊れてしまうので、そっとテーブルにおいて――、代わりにテーブルに手のひらを叩きつけた。
「ただでさえあの子のことが心配なのに、余計な厄介ごとを。まったく、皇帝は何をしておったんだ! やすやすと自分の家を乗っ取られるとは、まぬけめ、腰抜けめ!」
「……ビアースって、それが地なんだ……」
「やかましい、客の前でもないのに、へらへら笑っていられるか! それに、旦那様と呼ばんか!」
 一体どの使用人がそんな無礼なことを言ったのかと思いながら振り向いたビアースは、カーテンの陰から現れた黒いマント姿の少年を見て、卒倒しそうになった。
「こう……皇帝陛下っ?」
「こんばんは、ビアース。勝手に上がってごめん」
 彼に続いて、武装した騎士たちが窓からぞろぞろと部屋に入ってくる。あまりのことに口をぱくぱくさせているビアースに、クリオンが告げる。
「三十羽のエピオルニスを降ろせるほど広い場所が、王都にここしかなかったんだ。エコールのほうが広いけど、それだと学生を巻き込んじゃうし、軍の屯所は監視されてるだろうし。今夜だけ使わせてもらうよ」
「あ、しかし、その、手前にしても教会に見つかると」
「大丈夫、エピオルニスを鳴かせるようなへまはやってないから。羽ばたきもせずに滑って降りたし、みんな真っ黒だから、教会の人間には見つかってない」
「いえ、だからといって」
「ん? まぬけで腰抜けの皇帝の手際は信用できない?」
「……とんでもございません」
 あぶら汗を流しながら、へたへたとビアースは椅子に座り込んだ。
 横目で彼を見つめながらマイラが椅子のひとつを出し、クリオンがそこにかける。笑いをこらえるような顔でデジエラがビアースの後ろに立ち、剣を半分抜いて柄のところで彼の背をつついた。
「陛下は寛大なお方だが、私はそうでもない。ただ今の失言、聞き捨てならんと思うのだが?」
「ひっ、ご容赦を! なんでもいたしますから!」
「けっこう、ではまず話せ。私たちはたった今南方から戻ったばかりで、王都の情勢をよく知らん」
 斬るべき時には斬る、デジエラの果断な性格は、フィルバルト中の人間の知るところである。ビアースはすくみあがって、彼が商売のために調べたことを、すべて話した。
「やはり、城は落ちたのか……」
 懸念が確認され、書棚にもたれたデジエラが顔をしかめた。
「それに、商人との付き合いをやめるつもりだと? 坊主どもめ、何を考えている」
「市民を殺し始めたり、重い税をかけたりはしないみたいだから、教会の方針はひとまず考えから外そうよ。男爵たちを助けてから、彼らに考えてもらえばいい」
「同感です。救助の方法を煮詰めるべきですね」
 デジエラはうなずき、ビアースに視線を向けた。
「帝国府の文官の大半は無事なんだな?」
「はい。出入りさせている使用人が、お役人様方の顔を見ておりますから。討伐僧に反抗して殺された数人を除いては、建物に閉じ込められているだけのようです」
「要人は。司たちだ」
「偉い方々も、幸いにしてご無事のようで。レンダイク様を窓から見た者がおります。ただこちらは、建物どころか一部屋にまとめられて、出入りもままならぬご様子……」
「十分だ、その部屋を後で教えろ。それと、奥院の姫様方は」
「そちらは……」
 ビアースは顔を曇らせる。
「その……城館には、お女官の方々がいらっしゃいましたな」
「それが?」
「使用人は、その方々を、一人も見なかったと申しました。――いつも布地を頼まれるお針子の方も、厨房で食材のご注文を出す方も」
「女も閉じ込められている?」
「だけならよいのですが、ひとつ、不吉な噂が。昨晩、お城の堀に、十人ほどのお女官が、揃って身を投げたという……」
 クリオンが蒼白になる。
「それじゃ……女の子たちは、辱められたっていうの」
「……そうとしか、考えようがありません」
「なんてひどいことを!」
 クリオンが椅子を蹴倒して立ち上がった。その瞳に怒りの光が現れている。ビアースは驚いて身をすくめる。そんなに激しいところのある少年だとは思っていなかった。
「ビアース、分かってるの? エメラダも同じ目にあわされたかもしれないんだよ。急いで助け出さないと!」
「分かっておりますが、さきほどの司祭の話では、手前の娘はまだ捕らえられていないようなのです。ですから、他のお妃様方も、ご無事だと」
「そんなのわからないじゃないか! 司祭は知ってて隠したのかもしれない。デジエラ、今すぐに――」
「陛下、落ち着いて下さい」
 そばに立っていたマイラが、そっとクリオンの肩に手を置いた。
「大丈夫です。ほら、あの道化のことを思い出してください。王都に残っているはずでしょう。何かあれば、あの者が注進に来るのではありませんか」
「マウスが……そうか」
 身を潜めて廃屋に隠れていた自分たちをも、あっさり見つけ出したマウスのことだ。三十羽ものエピオルニスが王都の空に現れれば、必ず気付いてやって来るだろう。
 やや落ち着きを取り戻したクリオンに、デジエラが声をかける。
「これは確かな話ではないのですが――奥院には、もしもの時に備えた隠し部屋があると聞いたことがあります」
「隠し部屋……? そんなの、聞いたこともないよ」
「でしょうね。城に長い私でも、噂を耳にしただけですから」
 デジエラはうなずき、続けた。
「しかし、私よりも長く城にいる者ならば、よりはっきりしたことを知っているでしょう。いや、その者が知らないはずがない。――ジューディカ儀典長官です」
「……そうか!」
 クリオンの顔に生気が戻る。
「ジューディカを助けて、その部屋のことを聞けばいいんだ!」
「閣下、それはあてにできる話なのですか」
 クリオンをぬか喜びさせることを心配して、マイラが聞く。デジエラが近付き、耳打ちする。
「奥院の改装に当たった工匠が斬られたというのが、唯一確実な話だ。口封じのためだろう。本当に隠し部屋がある可能性は、よくて五分五分。――しかし、この際それをあてにするしかあるまい。外れたならば、おまえが陛下をお慰めしろ」
「閣下……」
「いや、きっとある。そしてあの姫様方なら、確実にそこを見つけて隠れている。そう期待することにしよう」
 ささやき声に、マイラは強くうなずいた。
 デジエラがビアースを振り返る。
「ビアース、儀典長官を見かけたという者をここへ」
「かしこまりました。手前は外に出ておりますので、ごゆっくり……」
「いや、おまえも残れ」
「は、しかし……」
 後ろ向きにそろそろと戸口へ近付いていくビアースへ、大またに歩み寄って、デジエラは襟首をつかみ上げた。小太りのビアースが、子猫のように吊り上げられる。
「おまえは金のために、どこで誰に話すか分からん。私たちが去るまでは、この部屋にいてもらう」
「ど、どこにも行きませんとも!」
「ならば出る必要もないな」
 やり込められて、ビアースはしょんぼりと肩を落としたのだった。

 7

 かけらも望んでいないことだったが、夜明けはいつも体がうずいた。
 大神官によって目覚めさせられた淫蕩なうずきをもてあまして、武装したまま夜回りをしていたハイミーナは、定められた巡回路を離れ、城の中をさまよった。
 迷う者がたどりつくよう仕向けられているのかもしれなかった。ハイミーナがやって来たのは、奥院の鐘楼だった。
 テラスに出ると、澄み切った朝風が頬を叩いた。火照りを鎮める冷気が気に入って、ハイミーナはそこにたたずんだ。
 夜明け前の深い闇が、もう数少なくなった王都のともしびを覆っている。人の明かりに代わって、太陽の光がやって来る頃合だった。見ている前で、徐々に家並みの形が目に映るようになり、ふと東の空を見れば、地平線がうっすらと紅色に染まり始めていた。
 薄暮の静寂の中で、ハイミーナは物思う。
 両親が死んだのも、こんな紅色の中でだった。
 火事だった。燃える家の二階の窓から、両親はハイミーナを放り出し、自分たちは焼死した。かまどの火に、風で飛んだ服がかかって起きた事故だった。両親はイフラ教の信者だったが、そのような不幸は信仰が足りなかったためとされ、失火で両隣の家を焼いたことも、非難を招いた。
 その時、六歳の彼女を拾ったのが、教会だった。
 教会の僧は幼い彼女を十二歳まで育て、そこで大神官が彼女に目を留めた。十三歳で彼女は聖堂に引き取られ、十四歳で異端審問軍に入れられ、十五歳で大神官に犯された。
 その一連の出来事はすべて、イフラの神が彼女を救うために起こしたのだと、大神官は言った。
 両親の不信心が最初の罪だった。その罪で隣家を焼いたことが、新たな罪となってハイミーナに引き継がれた。だが、罪は人に、つぐなう機会を与えるものだ。ハイミーナが教会に引き取られ、審問軍に入り、大神官に手をつけられたことが、そのつぐないの道筋だった。
 幼いハイミーナはそれを信じていた。不信心者の子を見る周囲の冷たい視線をはね返す、ただ一つの方法として、ひたすら身を捧げ、手を血に染めてきた。大神官だけが、彼女を許すと言ってくれた。たとえそれが、醜い老人による、破戒としか思えないようなことでも、とにかく人肌の温かみをくれるのは彼だけだったのだ。
 それなのに、見捨てられた。
 罪が消えたとも言ってもらえなかった。ただ、食べ残しの料理のように、黙って突き放された。
 だからハイミーナは、解放されたとすら思えなかったのだ。
 大神官に見限られたのは、単に唯一の保護者を失ったというだけではなく、彼が表していた神の摂理そのものがハイミーナを拒絶したに等しかった。ハイミーナは、消えない罪を背負ったまま、それをつぐなう方法をなくしたのだ。
 明けていく夜の下で、ふと顔を上げると、まだ輝きを失っていない五つの星が目に入った。神・イフラの座とされるその五星を見つめて、ハイミーナはつぶやく。
「神よ……私を永遠に許されないおつもりですか」
 返事は、もちろん、ない。
 ――いや、五星は瞬いた。
「……え?」
 ハイミーナは思わず目をこする。錯覚ではなく、五星は確かに、消え、現れ、また消え、また現れていた。宣託、という言葉をハイミーナはちらりと思い浮かべる。
 それは五星の宣託などではなかったのだ。それと正反対のものであり、にもかかわらず、ハイミーナの運命を変えるものだった。
「違う――鳥か!」
 討伐尼としての彼女が目覚め、五星を横切る巨鳥の姿を鋭い視力で見定めた。数十羽に及ぶエピオルニスだった。野生のエピオルニスの群れが、こんなところにいるはずがない。人が操っているのだ。
 鳥たちは羽音を立てず滑空したまま、らせんを描いて降下し、帝国府の建物へと近付いていく。もう間違いない。奇襲だ。
「誰か――」
 叫びかけたとき、思いもかけない思考が脳裏を駆け巡った。
 教会の手に落ちた城に奇襲をかけようとする者は、国軍としか考えられない。国軍の頂点に立つものは、皇帝だ。そして、クリオン皇帝は、はかなげな外見からは想像できないほど勇敢で、シッキルギンへ攻め込んだ時は、自ら剣をもって陣頭に立ったという。
 もしや、あそこに皇帝が。
 そのことに何を望んでいるのか分からないまま、ハイミーナは口を閉じ、舞い降りていく巨鳥たちを固唾を飲んで見守った。
 
 帝国府の建物の上に着地したエピオルニスから、騎士たちが次々と飛び降りる。
 とにかく迅速さを最優先にして動く手筈だった。一階から突入することなどとんでもなく、ロープを垂らして窓から入るのですら遅い。それでは中の人間を救い出すのに時間がかかりすぎる。
 騎士たちは、先の尖った頑丈な鉄の棒を手にしていた。それを使って、力任せに屋根板を叩き割り、内張りをこじ開ける。ものの二分と立たない間に、差し渡し一ヤード半の穴が開いた。そこへ、今度は木製のはしごを突っ込んだ。素早く数人が中に降りる。
 事前の調査は完璧だった。そこには予想通り、十数人の要人たちが閉じ込められ、あてがわれた毛布にくるまっていた。突然現れた闖入者を見て、目をこすりながら起き上がる。
「何者だ、おまえたちは!」
「ジングピアサー将軍指揮下、第一軍の者です!」
 扉に鉄棒をかまして応急的にふさぎながら、騎士は叫ぶ。
「お助けに参りました、急いで上に!」
「将軍の? ありがたい、よく来てくれた!」
 司たちはわれ先にとはしごをよじ登る。あわてるものが多かったが、理財補司のキンギューなどは、うろたえきっていて、はしごから転げ落ちかけた。それを騎士たちが手早く屋根に引きずり上げてエピオルニスに乗せる。助けた者から後続を待たずに舞い上がった。
「さすがは将軍ね。屋根を破ってくるとは奇抜だわ」
 初老の女文官、イマロン理財司がうなずく。言われた当人が屋根の穴から首を出して叫ぶ。
「イマロン様、ジューディカ長官はいらっしゃいますか!」
「儀典長官? 彼はここにはいないわ」
「いない?」
 焦った様子で叫んだのは、クリオンだった。デジエラの隣から顔を出した彼を見て、イマロンが驚きの声を上げる。
「陛下! なぜあなたがここに?」
「ジューディカに聞きたいことがあるんだ。奥院に隠し部屋があるかもしれないんだよ、ソリュータたちを助けたいんだ!」
「奥院にですか? それは私も初耳ですが」
「ジューディカなら詳しいことを知ってると思ったんだよ。でも、いないなんて」
「イマロン様、長官はどこに?」
「彼は大神官に呼ばれて、どこか別のところにいるわ。探している時間はないでしょうね」
 クリオンが青ざめたが、素早くイマロンが続けた。
「しかし、彼でなくてもイシュナスなら知っているかも。イシュナス、天領総監! こっちへ!」
 イマロンに呼ばれて、レンダイクが部屋の隅からやって来る。彼だけは、騎士たちが突入する前から起きていた。頬はこけてひげも乱れ、憔悴した様子だ。
 穴の真下に来ると、レンダイクは言った。
「聞いておりました。陛下、確かにその部屋は存在します」
「本当?」
「はい。三角回廊トライドールにからくりを収めた部屋があるはずです。それを動かせば、隠し部屋への通路が開きます」
「ありがとう、男爵!」
 クリオンの声を、扉が叩かれるけたたましい音がかき消した。廊下で見張りの討伐僧が叫んでいる。
「おまえたち、何をしている? ここを開けろ!」
「さあ、早くこっちへ!」
 クリオンが招き、イマロンが騎士に押し上げられて登って来た。続いてクリオンはレンダイクにも顔を向ける。
 しかしなぜか、レンダイクは首を振って立ち尽くすばかりだった。
「男爵、早く!」
「私に逃げる資格はありません」
「男爵? どうしたのさ」
 聞き返したクリオンに、レンダイクは疲れ切ったような薄笑いを見せた。
「私が教会の力を甘くみたばかりに、第二軍は敗れ、城は落とされました。今日の事態の責任は、あげて私にあります」
「何言ってるのさ、それをやらせたのは予だし、他の人間も認めたんだよ。男爵の責任なんかじゃない! もしそうだとしても、今そんなこと話してるひまはないんだよ!」
「おい、お連れしろ」
 デジエラの指示で、騎士が強引にレンダイクを押し上げた。気が進まぬ様子の彼を、別の騎士が無理やり抱えあげ、エピオルニスに乗せた。
「これで全員だな。よし、次は奥院だ」
「参りましょう、陛下!」
 エピオルニスの背から呼んだマイラの後ろに、クリオンは飛び乗った。手綱を引いて巨鳥を羽ばたかせながら、マイラが聞く。
「隠し部屋の場所はわかりましたか? 城館のどこから入ればいいんです?」
「入り口からじゃ間に合わない、鐘楼から降りよう!」
「分かりました」
 マイラがうなずき、ピィーッ! と呼び子を吹いた。三十羽のエピオルニスのうち、三分の一ほどが、後に続いてやってくる。
 空から見下ろした地上というものは、日頃の眺めとはまったく違う光景だ。白んでいく空のもと、立ち並ぶ城館や兵舎が、小箱のようにつつましく見える。しかしその中でも、城で一番高い鐘楼はすぐ目に入った。二人を乗せたエピオルニスは、ぐんぐんそこに近付いていく。
 鐘楼のテラスは、塔の全周を巡る形で作られている。そこならばたくさんのエピオルニスの止まり木として使えるとクリオンは思っていた。目を凝らして確かめようとする。
 その時、鐘楼に立つひとつの人影に気付いた。
「誰かいる」
「あれは――討伐僧か!」
 遠目の利くマイラが叫び、剣を抜いた。手綱を握る片手の甲に刃を滑らせて血を与え、主の存在をはっきりと思い知らせる。
「目覚めよ、『キシューハ』!」
 サアッ、とかまいたちが空を走り、甲冑姿の討伐僧に殺到した。

 左手にバンカーシールド、右手にハルバードを構えたハイミーナは、巨鳥の騎手の声を聞いて確信した。
 これは、あの夜皇帝を守った女剣士の声だ。間違いない、皇帝が来ている!
 三日月型の空気の歪みが数個、素晴らしい速度でやって来る。並みの人間なら見分けることもできないような攻撃だ。しかしハイミーナは、優秀な戦士だった。
 三つのかまいたちを、ステップして避けた。その動きは、残る一つの正面に自らをさらすものだったが、ハイミーナは騎士の馬上槍さえはじき返す、強固な大盾を持っているのだ。
 バシッ! と土の塊をぶつけられたような衝撃が盾を襲った。ハイミーナは一歩下げた片足を強く踏ん張って耐える。その足がずるっと後ろへ滑るほど、かまいたちの打撃力は大きかった。
 それは恐るべき攻撃だった。樫に鉄板を張った大盾が、まっぷたつに断ち割られてしまったのだ。
 用をなさなくなった盾を放り出すと、巨鳥はもう、目の前に近付いていた。差し渡し十ヤードを越える雄大な翼を羽ばたいて、暴風をハイミーナに叩きつけながら、テラスの手すりに万力のような爪でつかまる。
 その風が収まらぬうちに、女剣士が身軽に飛び降り、斬りかかって来た。斬撃とともに怒声が襲い掛かる。
「のけーッ!」
 ハイミーナは、受けた。
 そこから退いて味方を呼びに行くこともできたが、受けたのだ。
 それは、女剣士に続いてテラスに飛び降りた、少年の姿を認めたからだった。
 長剣をハルバードが食い止め、ギィン! と骨に響くような金属音が上がった。常の彼女ならそんなことはしない。ハルバードは斧と槍を合わせた武器だ。その長い柄を利用して、払いと突きの広い制圧圏を作り、敵を近寄らせないのが本来の使い方だ。
 しかしハイミーナはそうせず、剣のほうが有利になるのを承知で、至近距離での斬りあいに戦いを持ち込んだ。
 そんなことをしたのも、狭いテラスに空間を作り、皇帝に動かせるためだった。
 ――なぜだ?
 稲妻のように襲い掛かる女剣士の斬撃を、広げた両手で構えたハルバードで左右にさばきながら、ハイミーナは疑問を膨らませる。
 ――こんな危険なところに皇帝が自ら乗り込んできたのはなぜだ。何をしに来た?
「マイラ、大丈夫?」
「お任せを、陛下は中に!」
「うん!」
 狙い通り、皇帝はハイミーナのそばをすり抜け、鐘楼に駆け込んでいった。それを横目で見やるハイミーナに、剣とともに声がぶつけられる。
「どういうつもりだ?」
 がつん、とハルバードを吹っ飛ばされそうな重い一撃。身体を回してそれを受け流しながら、刃と逆の柄を下から振り上げて、剣士のあごを狙う。
 狐のような素晴らしい身のこなしで、剣士はとんぼを切って後ろに跳ねた。一回転して三歩離れたところに着地し、すぐさま前に飛んで、再び近い間合いで突きを繰り出して来る。
 そのわずかな仕切りなおしで、剣士はハイミーナのことに気付いた。
「貴様、ザナゴード隊のあの女だな。なぜ本気でやらない?」
 見抜かれた。確かにハイミーナは「本気で戦って」はいない。
 だが、何かを求める気持ちは本物なのだ。
「皇帝は何をしに来た?」
「それを知りたいのか。すると罠か?」
 切り結ぶ二人の周りを、幾重にも羽ばたきの風が取り囲む。残りのエピオルニス隊の騎士たちが次々にテラスに飛び降り、駆け寄ってくる。
「ニッセン様、助太刀します!」
「いらん、陛下をお守りしろ! 中だ!」
「は、はい!」
 一瞬ためらっただけで、騎士たちが鐘楼の中に駆け込んでいく。それを見ようとするハイミーナの視線を、女剣士の攻撃が引き戻す。
「よそ見とは余裕だな、本気でなくても手加減はしないぞ」
 続けざまの鋭い突きが、ハイミーナをよろめかせる。迷いのない一途な剣さばきだ。こいつもか、とハイミーナは思う。この女も、何かに動かされて危険なこの場にやってきたのだ。
「おまえはなぜ皇帝を守る?」
「知りたいか、知りたければ剣を引け!」
「引けぬ、ここは通せぬ!」
 天に振りかぶった剣を叩き込もうとした剣士に、ハイミーナは身体ごとぶつかった。武器の根元をこじり合わせて、互いの息がかかるようなにらみ合いに入る。
 そうだ、通してはいけない。この女を逃がせば、もう尋ねる機会は得られないかもしれない。たとえ皇帝たちと戻ってくるにしろ、その時は多勢に無勢だ。何かを問うひまもなく斬り伏せられてしまうだろう。
 剣を交わしている今、つかみ取るしかないのだ。
「教えろ、おまえの信じるものを!」
 叫んでハイミーナは剣士を蹴り飛ばし、ハルバードを叩きつけた。真横から剣を打ち付けてそれをそらした剣士が、すぐさま飛び掛ってくる。
 自分がすでに相手を殺せなくなっていることにも気付かず、ハイミーナは再び、戦士としての反射のみでそれを迎え撃った。

 騎士たちとからくりを動かしたクリオンは、仕掛けが動ききるのも待たずに廊下を走り、第四通路に飛び込んだ。物音を聞いて部屋から顔を出していた女に気付く。
「トリンゼ! やっぱりここだったんだね?」
「……陛下!」
 目を見開いたトリンゼが部屋に飛び込み、すぐにすべての姫たちが現れた。クリオンたちを見て、悲鳴のような歓声を上げる。
「陛下!」「お兄さま!」「クリオン様――!」
「みんなも! ああ、よかった、無事だったんだ!」
 駆け寄った娘たちが次々に飛びつき、クリオンをもみくちゃにした。ソリュータが目尻を濡らしてささやく。
「信じていました、絶対に来てくださると思ってました、クリオン様、クリオン様!」
「ぼくもきっと無事だって信じてたよ。もう大丈夫だよ」
「夢じゃありませんよね?」
「触ったって消えないでしょ、夢なんかじゃない。さあ、大丈夫だから離れて。急いで逃げなくっちゃ」
「逃げる? 城を取り戻したんじゃないんですか?」
「まだ教会はここを占領しているよ。エピオルニスで助けに来たんだ。あとできっと取り返すから、今のところはみんなで逃げるんだ!」
「はい!」
 娘たちが一斉にうなずいた。
「通路が閉じます、早く!」
 騎士が呼ばわり、クリオンたちはもと来た方向に駆け出した。三角回廊トライドールを抜け、廊下を走る。その先の階段を上がれば、鐘楼だ。
 その階段の手前に、来た時にはいなかった、一人の人物が立っていた。麗々しい純白の法衣をまとった痩身の老人だ。ひと目で教会の僧だと見抜き、先頭を走っていた騎士が剣をかざして叫ぶ。
「そこをどけ! どかぬと斬るぞ!」
「……神に背くものに、災いあれ」
 老人が木枯らしのような声でつぶやき、胸元に鎖で吊るした五星架をつまんで突きつけた。攻撃だと見てとった騎士が、剣を叩きつける。
 じゅうっ、と熱した鉄を冷水に突っ込んだような音が上がった。
 騎士の剣が一瞬で赤熱して溶け、それを振りぬいた騎士の上半身も、次の瞬間、燃え上がった。「ギャッ!」と悲鳴が上がったのはわずかな時間で、見る間に肉が焼け、黒く焦げ、さらに凄まじい蒸気を上げて縮み、ぼろぼろの灰になって倒れこんだ。
「ひっ……」
 娘たちがすくみあがり、悪臭に鼻を押さえる。立ち込める白煙の向こうで、老人がうっすらと笑った。
「クリオン一世か。よくぞここへやって来た。神の思し召しというものか」
「おまえ……大神官か!」
 教会の僧の中にも聖御法を操るものがいるとは聞いていたが、これほど凄まじい技を持つ者は他にいなかった。クリオンがレイピアを抜いて前に出る。
「そこを通せ。予はこの子たちを守らなきゃいけないんだ!」
「そして子をなすのじゃな」
 奇妙な問いかけに、クリオンは一瞬、面食らった。
「だからなんだ? そんなこと、おまえには関係ないだろう」
「ある。おまえが子をなせば、我らも手間が省けたのじゃ」
「……なんだって?」
「しかしそれも、皇帝本人が目の前に現れたとなれば、意味のないこと。剣を捨てよ。わしのもとに下れ。さすれば――」
 老人は、底知れない優しさに満ちた笑みを見せる。
「その娘たちでも与えられぬ安息を、おまえにつかわそう」
「『ズヴォルニク』!」
 敵意を抱き、それよりも大きな恐怖を抱いて、クリオンは叫んだ。
「ジングの裔が命じる、目覚めよ『ズヴォルニク』! 我が前に立つ者を押し流せ!」
 水平に構えたレイピアの刃で、クリオンは左の手のひらを浅く切った。それを待ちかねていたように、強大な力を持つ聖霊が吠えた。
『敵だ! 敵の気配だ! ジングの裔よ、鳥よりも速く我をふるえ! 雷より激しく其を打ちのめせ!』
「やらいでか、行けえっ、『ズヴォルニク』!」
 脇に引いて思い切り突き出した、レイピアの軸に沿って、猛り狂う蛇のような、細く激烈な水の槍がほとばしった。この時ばかりは反抗のそぶりを微塵も見せず、主の意思が乗り移ったかのように、完全に従った。
「『ベテルギュース』よ、五星より光を招け……」
 大神官がつぶやき、高々と五星架を掲げた。
 天地が鳴動した。
 天空から来たった太い光の柱が斜めに城館の屋根に突き刺さり、それを消し去って屋内まで貫いた。大神官とクリオンの中間にその光柱はそびえ立った。突進した『ズヴォルニク』の水の槍が光柱に飛び込み、一瞬で蒸発して凄まじい蒸気の爆発を引き起こした。圧力は頭上と廊下の前後にふくれ上がり、すべての窓をこなごなに吹き飛ばし、城全体をすら揺るがした。
 もうもうたる水蒸気の中で、大神官は小揺るぎもせず立っていた。掲げた小さな五星架が、襲い掛かる爆風を散らしたのだ。光の柱が、爆発によって吹き飛ばされてしまっているのを見て、感動したようにつぶやく。
「『ベテルギュース』の光槌すら打ち消す水量……恐るべきかな、カリガナの海王」
 その細い両目が不意に、かっと見開かれる。
「食らえ!」
 水煙を裂いて、クリオンが一気に駆け寄ってきた。大神官は、今度こそ掛け値なしの驚愕きを見せる。あの爆風を食らって無傷とは!
 年老いた彼には、何をするひまも与えられなかった。クリオンがまっすぐに突き出したレイピアが、法衣を貫き胸板を貫いて、背に抜けた。さらに勢い余ってクリオンは肩から大神官の胸板にぶつかり、彼の体を古木のように軽々と突き飛ばした。
 廊下に倒れて滑った大神官は、短いうめきと鮮血を唇から漏らした。
「ぐ、ふ……」
「神様は、守ってくれなかったね」
「神は……お護りあるとも……」
 そのひとことを最後に、奇怪な老人は動かなくなった。
 クリオンは彼から目を逸らし、レイピアを鞘に収めて振り返る。
「みんな無事?」
「なんとか……」
 娘たちが、不思議そうに体を見回しながら答える。
「どういうことですか。風が、周りを抜けていったようですけど……」
「『ズヴォルニク』が噴き返しを逸らしてくれたみたいだよ」
 答えながら、ふとクリオンは不思議に思う。いつも容易に言うことを聞こうとしないこの聖霊が、今回はいやに物分りがいい。それはなぜだろうか。
「陛下、お急ぎを」
 騎士に言われて、クリオンは我に返った。階下から、大勢の足音が近付いてくる。
「行こう、上でマイラが待ってる」
 クリオンは走り出した。事切れた大神官のそばを通るとき、ちらりと見下ろす。
 光を失った目がまだ開いていて、こちらを見つめているようだった。

 決着がつかないまま、二人は死闘を続けていたが、眼下の城館に出し抜けに巨大な光の柱が突き刺さり、轟音と熱風に体を叩かれると、さすがに驚いて左右に離れ、それを見下ろした。
「なんだ、あれは……」
「『ベテルギュース』の光槌……猊下が」
「なんだと? 大神官のことか?」
 振り返ったマイラは、ハイミーナの顔に浮かんだ、ひどい脅えの色に気付いた。
「大神官が聖霊を使ったのか!」
「背教者を焼き尽くす五星の炎だ。猊下があれを使われたということは、皇帝も……」
「……ふん」
 マイラが剣を収めるのを見て、ハイミーナはうろんそうな眼差しを向けた。
「どうした、続けぬのか」
「ああ。おまえが戦う必要がなくなったからな」
「……私が?」
 聞き返したハイミーナに、マイラは髪をかき上げながら、そっけなく答えた。
「おまえに命令を出していた者はいなくなった。それでもやるか? 会ったこともない神のために」
「猊下が……倒されただと? 馬鹿な! あれこそ皇帝が死んだという証だ!」
「逆だ。あんな力を使われれば、陛下も『ズヴォルニク』で対抗なさったはずだ。あの怒濤霊に立ち向かえる者はいない。大神官は死んだだろうよ」
「なぜそう言える!」
「そういう主を私が選んだからだ」
 すぐに分かる、とマイラは腕組みして手すりにもたれた。
 ハイミーナは激しく動揺する。この女と自分は今、まったく同じ立場のはずだ。自分は大神官が生き残ったことを信じられない。なのに、この女は皇帝が生きていると信じきって、落ち着いている。
 いや、生きていてほしいと思っているから、そう信じているのだ。
 そして自分は信じられない。大神官が生きていてほしいと、思えないのだ。
 ハイミーナははっきりと、彼が自分の心の支えでなくなっていることを、自覚する。
 ハルバードをぶら下げたまま、操り手のいなくなった人形のように立ち尽くすハイミーナの耳に、鐘楼を上がってくる足音が届く。現れるのは、討伐僧か、皇帝たちか。
「マイラ、無事?」
 皇帝たちだった。
 テラスに飛び出してきた彼らを、ハイミーナは斬りかかるでもなく見つめる。それに気付いて、クリオンが顔を向けた。
「きみは……降伏する気?」
「……猊下は、どうなさった」
「大神官は、予が倒した」
 ハイミーナはハルバードを取り落とした。がらん、とうつろな音が上がる。
「そうか……猊下が……」
「抵抗しないなら斬りはしない。そこでじっとしているんだね」
「いっそ、斬れ。助命された者を審問軍は許しはしない。決して無罪にならない裁判にかけて殺すだけだ」
「……あなたは女のひとなのね」
 皇帝についてきた黒髪の清楚な面立ちの娘が、面頬の中のハイミーナの顔を覗き込むようにして、言った。
「女でも殺されてしまうの?」
「女のほうがひどい。心を売った者、魂の娼婦として、三十八種の罰が用意されている。裸に剥かれて逆さに吊るされるか、豚の群れに放り込まれて犯され食べられるか、煮え立つ油の中に突き落とされるか……」
「ひどい……」
 口元を押さえて、娘は皇帝に振り返った。
「クリオン様、この子も連れて行けませんか」
「この女は、一度陛下に剣を向けたのです」
「でもニッセン様、もう戦意をなくしているみたいです」
 黒髪の娘の言葉に、他の女たちが次々に賛同した。
「そうね、見殺しにするのもなんだか後味が悪いわ」
「人を刺した罪は下手人に帰せられるべき。使われたナイフを責めても無意味ですわね」
「チェルもね、許してもらったのよ」
「わ、私も、殺される女の子を放っていくのは、悪いと思います!」
 口々に言う娘たちを、ハイミーナは不思議そうに見回す。
「おまえたちは……皇帝の側室なのだろう」
「そうですよ」
 少年のような姫――か、少女のような王子なのかはよく分からない――が、うなずいた。ハイミーナは問い詰める。
「お、男に触れられて、女として平気なのか? なぜ耐えられる?」
 耐えなければいけないことだったのだ、ハイミーナにとっては。淫らな仕打ちをされること、それを心地よく感じてしまうことすら、罪の償いのために仕方なく受け入れたことであり、心の底では屈辱としか思っていないことだった。
 ハイミーナの前に、黒髪の娘が進み出て、無垢な笑みを浮かべる。
「耐えたりなんかしませんよ。クリオン様は、みんなが望むことをして下さるんですから」
「望むこと……」
「――あなたは、その反対だったの?」
 ハイミーナは沈黙する。気品のある顔立ちの娘が、ちらりとそんなハイミーナを見て、つぶやいた。
「あの討伐僧たちの中にいたのではね。……無理もありませんわ」
「敵が来ます、お早く!」
 鐘楼の階段を見下ろしていた騎士が叫んだ。先ほどまで剣を交えていた女剣士が叫ぶ。
「撤収だ! 各員、姫様方をエピオルニスにお乗せしろ! 気をつけろよ!」
 立ち尽くすハイミーナに、心残りな視線を送ってから、娘たちが一人ずつ騎士の手を借りて巨鳥の背に乗り移っていく。侍女も含めて八人の娘たちが鳥に乗り、九人目に黒髪の娘が残された。残るエピオルニスは二羽だが、騎士の一人が大神官に倒されたため、一人分の場所が空いている。残った娘が言う。
「クリオン様、私、なんとか一人で乗ってみます。クリオン様はニッセン様と」
「だめだよ、馬とは違うんだから。ぼくなら見ていたから、なんとか手綱を持てる。マイラ、ソリュータを頼むよ」
「……よろしいのですか? それだと、陛下が――」
 マイラはハイミーナに目を向ける。クリオンとソリュータも彼女を見た。とうに決まったことのようにそんな視線を向ける皇帝たちに、ハイミーナはためらいの表情を見せる。
「わ、私を乗せるのか」
「――陛下とおまえを同じ鳥に乗せるわけにはいかない。陛下、ソリュータ様を。私のエピオルニスをお使いください。よく躾けてあります」
「分かった。ソリュータ、しっかりつかまっててね」
「は、はい」
「置いていけばいいだろう!」
 とうとう叫んだハイミーナに、マイラが静かな言葉をかけた。
「いや、おまえにも知ってほしい」
「何を?」
「愛されることを。――おまえは、私に似ている」
 クリオンの手を借りて、ソリュータがエピオルニスによじ登る。二人のことを、主人のマイラの親友だと感じ取った賢い巨鳥が、振り落とさないようにゆっくりと羽ばたき始めた。
 残る一羽に飛び乗って、マイラが手を伸ばす。
「さあ、選べ。新しい道を信じるか、古い道を歩き続けるか」
 討伐僧たちが階段を登り切った。ハルバードを手に、恐ろしい形相で駆け寄ってくる。
「――信じてみよう」
 重い兜を投げ捨て、流れた銀髪に討伐僧の武器をかすらせて、ハイミーナはマイラの手をつかみ、宙へ飛んだ。

―― 後編に続く ――



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