次へ 戻る メニューへ  皇帝陛下は15歳! 第六話 前編

 1

「今宵は少し、硬いの」
 紺の尼僧衣をさらさらと滑っていた指が止まり、紙の上を砂が流れるような、しゃがれた声が、そうつぶやいた。
「何か、心にかかることでもあるのか」
「……いいえ」
「わしの指に飽いたか」
「いいえ」
「ならば力を抜くのじゃ。わしを安らがせておくれ」
 わずかなためらいのあと、ハイミーナは、言われたとおりに全身の筋肉を弛緩させた。
 星明かりが天窓から垂直に落ちて、祭壇に横たわる彼女の体を照らしている。額を覆い髪を隠すナン・ヴェールが頭上に流れ、ブーツを履いた足首まで丈の伸びる尼僧衣は、しわひとつなく壇の上に広げられている。弔われる屍体のように無力に、ハイミーナは横になっている。
 かたわらに立つのは老人だ。身動きするたびに、ひだの多い純白の法衣が大きくはためき、その内側の肉体が、骸骨のようにやせ細っていることをうかがわせる。そのくせ背は異様に高く、頭上に戴く聖冠のせいもあって、まるで枯れ木の精のような印象がある。
 指も顔も枯れ木のようだ。ハイミーナの尼僧衣を滑る指は屍蝋のように青白く、関節と血管が不気味なほどはっきりと浮き出ている。顔の肉付きはほとんど失われていて、眼窩にたたえられた燐光のような光がなければ、死者と見まごうばかりだ。
 大神官キンロッホレヴン四十九世、一世紀にわたってイフラ教会の最高司祭を務めている、謎めいた男。それが彼の呼び名であり、素性である。
 そして場所は、フィルバルトのイフラ教会にある、大星拝堂。
 イフラ神への祈りを捧げる神聖極まりなき星拝堂で、けがれを知らぬ若き尼僧に、神の代理人たる大神官が教えを垂れている。それだけ見れば、一点非の打ちどころのない、聖職者たちの対話だと言えた。
 だが、二人の営為は神聖さからはかけ離れていた。
「そう、それでよい……」
 大神官の指に力が入る。肩口を撫でていた右手の指が、なんのためらいもなく胸に動き、尼僧衣を持ち上げる豊かなふくらみを、ぐいとばかりに握りこむ。左手の指は太ももから上り、かすかにくぼんでいたスカートの股間を、無遠慮に押し込んだ。
「受け入れよ」
 乳房と性器、触れるどころか目をやっただけで聖職者としての心を疑われるような、女体の秘所を、大神官は思いやりなど感じられない露骨さで、陵辱していく。
「体を開け。心も開け。神が汝を求めておられる」
「はい……」
 ハイミーナは目を閉じ、なぶられるがままに若い肉体を任せる。単調だが執拗な愛撫が続き、じきにその硬質の美貌に、薄い汗と興奮の紅色が浮かび始めた。
 ただ、表情は苦しげなそれだ。眉間に細いしわがある。
「あふれてきたか?」
「……はい」
「よろしい。では、聖体をつかわす」
 その言葉を聞くと、ハイミーナは両手で長いスカートをするすると引き上げた。ひざ下まであるブーツ、輝くような白い太もも、そして禁欲を表す黒に染められた下着が現れた。
 ハイミーナは太ももを両手で抱え込み、隠された場所を星明かりの下にさらす。それだけでも尼僧にありえない仕草だったが、大神官はさらなる屈従の印を求めた。
「望むのか?」
「はい。私のけがれた胎内を、猊下に清めていただきとうございます」
「わしが清めるのではない。神がなさるのだ」
 訂正すると、大神官は鋭く尖った爪で、むっちりと張った尻の間の下着をさくりと切り裂いた。張り付くだけになった股布を持ち上げ、顔を寄せて満足そうにつぶやく。
「おお、確かに望んでおる……」
 色彩に乏しい星明かりのもとでも、ハイミーナのそこは鮮やかな桜色に潤んで見えた。ひだからあふれて輝く粘液を、大神官はざらざらした手のひらでまんべんなく塗り広げる。
「腹の中はきちんと空けたであろうな」
「……はい」
「うむ、では、力を抜くがよい……」
 大神官は祭壇に上がり、ハイミーナの股の前に膝をついた。落ち着いた仕草で法衣の裾をかき分けると、異様なものが現れた。
 歩けるのが不思議なほどごっそりと肉の落ちたももの間で、古木のこぶのように硬くどす黒くいきり立つ、凶悪な男性器。
 それを、大神官はハイミーナの柔らかな股間に押し当て、気遣いひとつなく、ぐりっとねじこんだ。――それも、ひだの間にではない。ひだの下でつつましく閉じられていた肛門にだ。
「かあ……ん……」
 この時だけは、いつもハイミーナは目を見開いてしまう。触れられるはずのない腹の奥を、そんなことをするはずのない相手に、許されない場所で押し開かれる。幾重もの破戒が、無意識のうちに彼女を抵抗させるのだ。
 そのたび、同じ言葉を繰り返して、行為の正しさを口にするのが、大神官だった。
「神のしもべは、姦淫を犯してはならぬ」
 ぐい、ぐいとハイミーナをえぐり、強い指で太ももの柔肉を握りつぶしながら、大神官は教え諭すように優しく言う。
「姦淫とは、子を為そうとすることじゃ。それだけはならぬ。淫らな心地よさに溺れてはならぬ。――じゃが、ハイミーナ」
 ふと動きを止めて、大神官はハイミーナの滑らかな頬に顔を寄せた。生臭い息を吐きかける。
「汝は、子宮のほうに聖体を望んでおるのではないかの」
「そんな……ことは……決して……」
 ハイミーナは顔を背けて否定する。嘘であり、また真実でもある。確かに体は、愛撫を受けて苦しくもうずいている。だが、この老人の子を為したいとは、一度も思ったことはない。
 すべて見抜かれているようだった。大神官は薄く微笑みながら、動きを再開する。
「よくない。よくないことじゃ。そのような考えを抱かぬよう、こちらで満足させてやらねばな。……さあ、拝領せよ」
 ひときわ強く腰を押し当てて、大神官はかすかに体を震わせた。「ひっ」と意図しない悲鳴をハイミーナは漏らす。どろりと胎内にこぼされた、不気味に熱い粘液を感じたのだ。
 大神官は目を閉じ、愛しげに尋ねる。
「受けたか?」
「……は、はい……猊下の聖体が、私の中に……」
「うむ。これでまた、汝の罪障が一つ消えたのじゃ」
 軽くうなずいていた大神官が、ふと薄目を開き、振り返った。
「誰ぞ」
「は……あ、あの……」
 いつのまか星拝堂の大扉が開けられ、見習の修道女が一人、小さな五星架を片手に立っていた。大神官の声を聞いて、脅えたようにつぶやく。
「わ、私、おやすみ前のお祈りをここでしようと……」
「ここは禁域じゃ」
「申しわけありません! 分をわきまえない行いでした。すぐに院の星拝所に戻って――」
 そこまで言って修道女は絶句した。薄暗い祭壇でからむ二人の姿に気付いてしまったのだ。呆然とつぶやく。
「げ、猊下、一体何を……」
「見たな」
 ぬるりと胎内から出て行く感触に、ハイミーナはほっと息を吐く。だが、その安堵をこなごなにするようなことが起こる。
「聖体拝受は、選ばれし者だけの秘儀……それを、見たな」
「み、見てはおりません! なにも、だれも!」
「もう遅いのじゃ。神は偽りを許されぬ」
 大神官が祭壇を降りて立ち、胸元にかけた、すべての僧の中でもっとも大きな、手のひらほどもある五星架をかざした。修道女は目に涙を浮かべて、引きつった顔で叫ぶ。
「お許しを! お許しを!」
「ならぬ。――『ベテルギュース』よ、五星の光槌を下せ」
「いやあああ!」
 暗い大星拝堂に、天窓から目もくらまんばかりの光の柱が降り立った。齢千年の大樹のような太いその柱が、修道女に向かってゆっくりと傾いていく。
「あああッ――」
 しゅん、というかすかな音とともに、悲鳴は断ち切られたように消えた。それと同時に、光柱は徐々に明るさを減じ、消滅した。
 ハイミーナは、見開いた目に残る残像の紫色の中に、修道女の姿を探そうとした。だがそれは見つからず、大扉の前にはかすかな煙が揺れているだけだった。――ろうそくの炎に髪が触れたときと同じ匂いが漂ってきて、ハイミーナは必死に吐き気を抑えた。
「猊下……」
「案ずるな。汝を焼きはせぬ」
 振り返って、大神官は暖かい笑みを浮かべる。
「兵舎に戻るがよい。そして、また明日も、勤めを果たすのじゃ」
「……はい」
 震えを隠して、ハイミーナは祭壇を降り、一礼した。
「失礼いたします」
「うむ」
 背中を射る視線を感じながら、ハイミーナは必死に自分に言い聞かせる。
 正しいことだ。間違いはないんだ。神の御業なんだ。
 六歳の時、彼女は不信心によって両親を失い、みなしごになった。教会に引き取られて後、審問軍に入団し、神に背く者を殺してきた。親より引き継いだ罪を清めるには、そうするしかなかったのだ。
 それに加えて、大神官にも身体を捧げた。
 こんなに奉仕しているのだから、許されないはずがない。神が、猊下が、間違っておられるはずがない。
 いや、そうではない、そこまでやったのに間違っているとは思いたくない。それが真の心だ。
 だがハイミーナは、自分のその逆転した思いに気付いていなかった。自分が自分をだましていることをねじ伏せていた。気付けば狂う。気付かずにいるしかないのだ。
 しかし、それでも――
 灯明の光の揺らめく廊下で、ハイミーナはぎくりと歩みを止める。何かを見たわけでも、聞いたわけでもない。感覚は身体の中からだ。
 尼僧衣の中の太ももを、大神官に注がれた粘液が伝い落ちていく。
 我が身を引き裂きたくなるほどのその不快感だけは、どう自分をごまかそうとしても、消しきれない現実なのだった。

 2

「全軍、進発ッ!」
「進発ーっ!」
 秋風に乗って流れたジングピアサー将軍の号令を、フォーニー軍団長と各連隊指揮官が復唱し、練兵場に整列したジングリット第一軍一万二千の兵が、城門へ向かい始めた。
「では、行ってまいります、陛下」
「気をつけてね」
 声をかけるクリオンに敬礼を返して、真紅の鎧の女将軍は、栗毛の馬の腹にかかとを当てた。供回りを引き連れて、華麗な手綱さばきで中軍へと入っていく。
「大丈夫だよね」
 ほんの少し心配そうにつぶやいたクリオンに、隣に立ったレンダイクが答えた。
「彼女以上の指揮官はおりません。遊撃連隊の再編も済んでおります。必ずや蛮族どもを打ち破ってくるでしょう」
 信頼しきった顔でうなずき、背後を振り返る。
「そして王都には、ガルモン軍団長の第二軍が残っております。陛下、何も案ぜられることはございません」
「そうだね」
 クリオンも不安の色を消し、うなずいた。
「ジングリットは、フェリドなんかに負けないよね」
 九月十五日。ジングリット帝国は、南方ガジェス山脈のふもとにあるギニエ市に向けて、遠征部隊である第一軍を派遣した。
 山脈のあるガジェス半島から、蛮族フェリドが大規模な侵攻を始めたという火急の使いが、王都にやってきたのだ。ギニエ市からは以前、悪魔が出たという少し奇妙な訴えがあって、兵五百を派遣したことがあったが、今回はそういった眉つばものの知らせではない。フェリド族は、古くからジングリットの人間と小競り合いを繰り返してきた、異形の民であり、その侵攻は数年置きに起こる常態化した課題である。
 今回は、まだゼマント四世が健在だった頃の、この春の侵攻に続く、短い間隔での襲来だったが、備えは常にできていた。国軍主力の派遣が速やかに決定され、指揮官は総司令官のデジエラとされた。
 この配置は、実はやや微妙な判断のもとに行われた。というのも、王都防衛を任とする第二軍にも、至近に出動予定があったからである。
 それは、昨今きわめて関係が険悪化した、イフラ教会に対抗するための動きだった。第二軍を出して、いよいよ本格的に教会とことを構えるのだ。
 蛮族と教会、どちらにデジエラを当てるべきか。とにかく彼女が出れば勝ちは必定である。だから、より困難なほうに彼女をぶつけたい。
 帝国の中枢であるフィルバルトで負けるわけにはいかない。だからレンダイクは最初、教会掃討にデジエラを当てるよう主張した。しかしこれにはデジエラ本人が異を唱えた。いわく、第二軍のガルモンや他の人材も、十分に有能である。僧兵程度に負けるわけがない。しかし、フェリドの乱は、遠い辺境でのこととはいえ、敵の規模も戦術も非常な警戒を要するものである。軽視してはならず、これをこそ確実に叩くべし。
 本人が以前言ったように、軍のことはデジエラの所管だ。事実上の最高行政官であるレンダイクも、文官の分をわきまえてその意見を容れ、デジエラに蛮族討伐軍を任せることにした。
 だから、フェリド討伐に関しては、まず心配はないのである。
 懸念は教会だった。
「イフラ教会に第二軍をぶつけるって言うけど、いきなりそんなことしていいの?」
「いきなりではありません。調査がほぼ終了したからです」
「調査が……もう終わってるの?」
 聞き返したクリオンに、レンダイクは軽くうなずいた。
「当然です。陛下の近侍のシェルカが、五月に刺客として送り込まれてから、もう四ヵ月ですから。それ以来、帝国府と軍が共同して、教会の内偵を進めておりました。それで、ほとんどが教会の差し金だと断定できるだけの材料が集まったのです。シッキルギン遠征時に陛下を襲った者や、先月に武器を集めて小規模な反乱行動を起こそうとした者どもなどについて、教会首脳は無関係だと言い張っておりましたが、言い逃れです。彼らは明らかに、皇帝陛下のお命を狙っているのです」
 レンダイクはクリオンを見下ろし、よく研いだ刃物のような冷たい微笑を浮かべた。
「名分は立ちます。我々は実力をもって、彼らを断罪します」
「実力で……」
 クリオンは気掛かりそうにつぶやいた。
「ほんとに真正面から武力をぶつけるわけだね。でも……教会にそれが通じるかな」
「イフラ教会異端審問軍の討伐僧は二千六百名。これと市中で事を構えるとなると、相当な大事になりますが、第二軍の九千名も市街戦に秀でた精鋭です。負けはしません。それに、教会の僧すべてを殺すわけでもありません。首魁を押さえるのが目的です。他の下級の者は見逃してやりますから、めったやたらな殺戮にはならないでしょう」
「そういうことじゃなくてさ」
 クリオンの次の言葉に、レンダイクが眉をひそめた。
「神様に戦いを仕掛けるんだよ」
「……どういうことでしょう」
「神官や僧じゃなくても、ジングリットの民はみんなイフラ教を信じてる。予やソリュータでさえお祈りをする。男爵の調査が間違ってるとは思わないけど、教会が反乱を起こそうとしているっていうのは、いまだにしっくり来ないんだ。第一、理由が分からない。どうして教会が予を狙うの?」
 クリオンは悩ましげにつぶやいた。
「他国の敵軍をやっつけるようには、すんなりいかない気がするなあ」
「国軍は、負けません。ご心配かもしれませんが、勝ったあとで詮議すればよいことです」
「……それはそうだけど」
 クリオンが小さくうなずく。それを見るレンダイクの表情が、わずかに変化した。
「陛下、あまりご納得されていないようですな」
「うん……」
「私にお任せくださればいいのです。まだ陛下は、ご経験が浅くていらっしゃるのですから」
 クリオンは思わず顔を上げた。レンダイクが冷徹なことを言うのはいつものことだ。だが、今の言葉には、単なるそっけなさ以上の、何かとげとげしい感じがあったような気がしたのだ。
 しかし、確かめようともう一度レンダイクの顔を見つめなおす前に、彼は練兵場の閲兵壇を降りてしまっていた。
「……男爵?」
 わけもなく見捨てられたような心細さを覚えて、クリオンは小さくつぶやいた。乾いた砂の匂いのする秋の風が、彼の豪奢なマントをはためかせた。

 夕刻のフィルバルトは、香りの渦だ。
 通りという通り、路地という路地に漂うのは、燃えるまきの清冽な木の香だ。鍋がかけられた数万のかまどが、その香りをあげる。それを皮切りとして、肉や香草、シチューやスープなど、出来上がっていくありとあらゆる種類の夕食の、食欲をそそる香りが、街全体を覆っていく。
 聖ノギン通りは、そういった香りのひときわ濃い通りだ。片側は民家だが、片側には長い塀が続いている。その塀に沿って百を越える屋台が並ぶ。豚から鳩まで多彩な肉を使った串焼き肉や、砂糖とシナモンをまぶした揚げパンに揚げいも、子供の頭ほどの豪快な大きさに蒸し揚げた香草饅頭、早摘みの果物を搾ったジュース、その他この広大な国の東西南北すべてから集められた食材を、間口二ヤードもないほどの小さな屋台の群れが、腕を尽くした料理にして並べている。
 それらに並ぶ市民も多いが、ひときわ長い列ができているのが、塀の中ほど、門の隣に位置する少し大きめの屋台だ。その店の品は、なんということもないとうもろこしのパンと、たいしておいしくもない菜っ葉のスープである。他の屋台のように怒鳴り声で呼び込みもせず、看板の一つも立てていない。ただ、軒に五つの星をかたどった簡単な印をぶら下げているだけだ。
 だが無料である。だから五十人以上の列ができている。
 その店は、背後の塀の中の人々が出している。塀は、イフラ教会審問軍屯所を囲うものだ。つまりそこは、職につけない貧しい人々に食事を振る舞うための、教会の施善所なのである。
 背中と胸に双子の赤ん坊を抱えた、片目のつぶれた女が、へこんだ銅のポットを差し出しながら何度も頭を下げる。
「三人分、お願いします。うちにはまだ四つと三つの娘がいるから……」
「それで足りるかね? 戦傷で動けない旦那さんがいるんだろう」
 ひしゃくで大鍋をかき回していた僧が、汗だくの顔を突き出す。子連れの女は首を振る。
「あんな飲んだくれの分まで頼めないよ。三人分くれれば、子供四人とわけるから」
「じゃ、あなたが二人分食べなさい。すきっ腹じゃはた織りはできんだろう」
 僧は笑顔でスープをよそい、ぼろ布にあふれるほどのパンをくるむ。女は袖で目頭を押さえながら礼を言う。
「ほんとに、いつもありがとう。ここがなかったら、あたしらどうやって食っていけばいいか」
「感謝はここを開いた聖者ノギンに。そして神に。このパンとスープは神の肉、神の血なんだよ。さ、お祈りを」
「ザナゴード、プランジャ、シムレス、エラフォン、ジー。天翔け巡る五星のあるじに、昨日より深い感謝を捧げます。今宵も輝き、来る暁へとお導き下さい。守りあれ、そして嘉せよ、我が神イフラセベル・ウーレー・イフラ
守りあれ、そして嘉せよ、我が神イフラセベル・ウーレー・イフラ
 僧が唱和し、胸の五星架を軽くつまんだ。
 受け取りを待って女が横へ下がると、次の片足のない老人が、杖をつきながら皿を差し出し、敬虔な顔で祈りの文句を唱える。あとに並ぶ人々も、みな感謝の色を顔にたたえている。この界隈に住む人々にとって、教会は毎日の暮らしを、心と体の両方から支えてくれるものだった。
 ポットを受け取って再び頭を下げた女が、ふと顔を上げて通りの向こうを見た。雑踏を左右に切り開くようにして、整然とした隊列を組んだ、ものものしい一団がやって来る。
「なによ、あれ。軍隊じゃないの」
「……本当だ」
 屋台から顔を突き出してそれを見た僧が、表情を険しくして言った。
「ご婦人、あなたは何があってもイフラを信じるかね」
「え? それはもちろん……」
「ならばもう少し、ここにいておくれ。これからちょっとした事件がおきるかもしれないが。……皆さん! 皆さんもここに留まってくれ!」
「いいけど……」
 施善所の前の人々は、首をかしげながらもうなずく。
 その前を、やって来た一団が通り過ぎた。女に軍隊のことなど分からなかったが、身軽そうな皮鎧を身につけ、短い剣を腰に下げて、油断なく辺りを見回している様子から、表敬訪問に来た儀杖兵などではなく、何か物騒な目的のために乗り込んできた、「本気の」兵隊たちだということはよく分かった。
 本気の兵隊がすることは決まっている。戦争だ。
「……なんなのよ」
 女は不安そうにつぶやいた。列に並ぶ人々だけではなく、通りの端に追いやられた群衆も、興味深そうに、そしてほんの少し恐ろしそうに、兵士たちを見つめている。
 軍隊の先頭は、見上げんばかりの巨体の、はげ頭の男だった。その男と、従卒らしい兵隊が、教会屯所の門の前に立つ。門前には、番兵役の討伐僧が二人立っている。彼らに向かって、従卒が大声で言った。
「イフラ教会の者どもに告げる。これより、謀反人を探すために、ジングリット帝国軍が汝らの屯所を改める! ただちに門を開けて迎え入れよ、これは皇帝陛下のご命令である!」
 群衆が、水を打ったように静まり返った。皇帝が教会に命令するなど、前代未聞だ。何も知らない市民たちにとって、空の上の神と神が突然仲たがいしたようなできごとだった。
 固唾を飲んで見守る人々の前で、討伐僧は胸を張って果敢に答えた。
「イフラの神は聖にして不可侵である。皇帝の命といえども従ういわれはない。立ち去られよ!」
「通さぬというのだな」
「神の門は不信心者には開かぬ」
「よし。それならば――全隊、突入!」
 従卒の叫びとともに、兵士たちがいっせいに門に殺到した。手槌を構えようとした討伐僧を、禿頭の巨漢が長大な戦斧でやすやすと払い飛ばし、傲然とした歩みで、門内へと乗り込んでいく。
 わあっと群衆が驚きの声を上げた。唖然として見つめる者と、あわてて逃げ出す者が押しあいへしあいし、通りは一瞬で混乱に満たされる。
「あわてないで!」
 その騒ぎの中で、施善所の僧が叫んだ。周囲の人々が足を止める。
「大丈夫です、教会は軍隊に負けたりしない。逃げる必要はないのです!」
「ほ、ほんとなの?」
「本当だとも。ただし、皆さんが助けてくれればです」
 僧は、施しをしていたときとは別人のような厳しい顔で、辺りを見回す。
 得体の知れない圧迫感を感じながらも、今までの暮らしを見守ってくれた僧を信じて、人々はそこに立ち続けた。

「第二軍主力、突入を開始しました」
 聖ノギン通りから一区画離れた広場に集合した兵たちの中で、伝令の報告を聞いたマイラ・ニッセンが、振り返って言った。
「途切れなく五千の兵を投入する手筈です。第二軍の残りは聖ノギン区を囲んでいますから、屯所の討伐僧二千五百余名を一網打尽にできます」
「まず牙を折る、そういうことだね」
 五百の兵で周囲を固めた、臨時の本陣で、クリオンはつぶやいた。
「大神官や教会首脳と話をしやすくするために、彼らが頼みの綱にしている審問軍をまずやっつける、か。……男爵って、相変わらず手加減なしだ」
「敵の弱点を突くのは、軍略として正しいことです。教会聖堂と審問軍屯所が離れているのが、この場合の弱点です。天領総監殿は手加減をしないのではなく、常に効率を優先しているんでしょう」
「でもその場合、討伐僧をできる限り減らさないと作戦の意味がなくなる。――つまり、殺しすぎちゃう可能性もあるっていうことだ」
 クリオンは小さくつぶやくと、かたわらの近侍を振り返った。
「シェルカ、予の『ズヴォルニク』を」
「……お出ましになるのですか」
「うん。予なら、戦わずして討伐僧を降伏させられるかもしれない」
「いけません」
 レイピアを受け取って歩き出したクリオンの前に、マイラが立ちはだかった。
「危険です、陛下はここでお待ちください」
「マイラ……」
 クリオンは、栗色の髪を肩に流した、この怜悧な女武官の顔を、じっと見つめた。
「止めても無駄だよ」
「だめです。勅使団団長の私がこの場にいるのは、ジングピアサー総司令から、陛下をお守りするよう仰せつかったからです。その命ある限り、陛下の御身を危険にさらすことはできません」
「だったらマイラも来て。シェルカとマイラの二人がいれば、危険は何もないでしょう。あそこにはガルモン団長もいるんだし」
「陛下……」
「それとも、なに? ――マイラは予を守れないの?」
 それは、少女めいた姿のこの少年らしからぬ、強気の挑発だった。以前ならとても口にできなかったことだし、今でもまだ、そういうことを言う時は顔の端に無理が表れる。
 そんな無理をしてまで行きたいという気持ちが、マイラにも伝わったようだった。女武官は、つと片足を引いて、クリオンの前を開けた。
「……承知しました。お行き下さい、お背中は私が守らせていただきます」
「ありがとう。シェルカ、いい?」
「もちろんです」
 口数の少ない青い髪の剣士は、この時も忠実な番犬のように、短くうなずいただけだった。
「行こう」
 クリオンは歩き出し、マイラの合図で、そのあとに百名余りの兵士がつき従った。
 聖ノギン通りで、塀の向こうの屯所の中をうかがっていた群衆が、隊列に気付いて振り返り、いぶかしげな顔になる。中には、クリオンに気付いて唖然とした者もいたようだが、民衆の大半は皇帝の顔を知らないから、目立った騒ぎは起こらない。それが起こる前に、早足でクリオンたちは通りを歩いて、門に到着した。
 門を押さえていた第二軍の兵士に、マイラが声をかける。
「通せ、増援だ。私は高速勅使団のニッセン団長だ」
「は……しかし」
 兵士は戸惑った顔で答える。
「増援は不要かと思いますが。突入隊のどの部隊からも、劣勢の報告はありません」
「おまえがどう思うかは聞いていない。こちらは皇帝陛下だ」
「――はっ!」
 ちらりとクリオンの姿を見て、兵士は直立不動になった。彼も下級の者だから直接クリオンの顔を見たことはないだろうが、そのように守られる少年が他にいないということは、すぐ分かったらしかった。
 門を通りながら、クリオンはささやく。
「急がないと。今の聞いたでしょ」
「増援は不要とのことでしたが」
「だからだよ。予が止めるより先に、第二軍が審問軍を全滅させちゃうかもしれない。そうなってからじゃ遅い」
「……陛下」
「わかってる、甘いって言うんだよね。マイラはいつもそうだけど、厳しさだけで臣下を治める君主が本当に正しいと思う? ――たとえば、前帝陛下みたいな」
 マイラは唇を噛み、無言でクリオンの後に続いた。
 審問軍屯所は、東西南北三百ヤードに達する、広大な施設である。そこに、二千六百名の討伐僧が起居する兵舎と、礼拝と鍛錬のための星拝堂や広場が作られている。クリオンは歩きながら周囲に目をやり、ますます顔を険しくした。
「戦いの音がしない……もう終わっちゃったのかな」
 大きさの割りに簡素な造りの、細長い兵舎が並ぶ一角に出る。するとそこを、伝令らしい第二軍の兵士が通りがかった。息せき切ってかけていくその男を、マイラが呼び止める。
「止まれ、こちらは皇帝陛下だ! 戦況を報告しろ!」
「はっ、皇帝陛下でありますか」
 立ち止まった兵士が、敬礼して言った。
「第二軍主力は、審問軍の第一から第十三兵舎までを、速やかに制圧しつつあります。抵抗はありません。自分は制圧成功の報を本陣に伝えに行くところであります!」
「抵抗がない?」
 マイラが眉をひそめた。
「どういうことだ。討伐僧たちは戦わずに降伏しているのか」
「いいえ。この屯所内には、坊主どもがほとんど見当たらないのです」
「連中が、いないだと」
 優秀な軍人のマイラは、そのことのきな臭さにすぐ気付いた。
「ガルモン団長は! どこで何をしている?」
「申し訳ありません、存じません。自分は第三連隊の伝令兵なので――」
「すぐ持ち場に戻れ! 団長が警戒と防衛の指令を出すはずだ、それを待て!」
「は……防衛、ですか?」
 何を誰から守るのかと言わんばかりに、兵士は首をかしげる。
 その答えは、人間ではなく爆音が、次の瞬間教えた。
 鼓膜を叩くような轟音とともに、すぐ近くの兵舎の屋根が垂直に吹っ飛んだ。驚いて振り返る一同の前で、兵舎がめらめらと炎の舌をあげ始める。続いて二つ目、三つ目の爆発が、それぞれ別の兵舎から、連続して巻き起こった。
「あ、あれは……」
「罠だ、待ち伏せされたんだ! 各員、防御円陣! 貴様、このままガルモン殿を探しにいって、すぐに撤退命令を伝えろ。陛下のお達しだ!」
「り、了解しました!」
 伝令兵が走り去ると、マイラはクリオンのすぐそばに寄り添って言った。
「陛下、状況が変わりました。ここにとどまるのは非常に危険です。ただちに脱出しましょう、異議はおありですか?」
「ううん、ないよ」
「了解。このまま門へ戻るぞ! 周囲の警戒を怠るな!」
 百名の兵は、いずれも皇帝直衛のために選び抜かれた精鋭である。主君を狙撃から守るために、自らの身体を盾にしてかばいながら、一斉に門へと走る。
 だが、門へたどり着いた彼らを迎えたのは、意外な敵だった。
 そこにいたのは、フィルバルトの市民たちだった。門の外に隙間なくぎっしりと立ちはだかって、敵意のこもった視線を向けている。
 マイラが剣を抜いて叫んだ。
「そこをのけ! おまえたちは軍の邪魔をする気か?」
「ああ、そうだよ!」
 群衆の前に立った、片目のつぶれた女が、震えながら叫んだ。
「教会に攻め込む軍隊なんかに、味方してやる気はないよ!」
「何を言っている、連中は謀反人どもだぞ」
「教会のお坊さんたちは、いつもあたしらを助けてくれるんだ! あんたたち軍隊が何をしてくれたって言うのさ? 高い税をふんだくったうえ、男たちを兵隊に取っていって、殺しちまうじゃないか! うちの亭主はそのせいで片足を無くしたんだよ! あんたたちもそうなればいいのさ!」
「女、このお方をどなただと――」
「待て、シェルカ」
 マイラが小声で制止した。
「言うな。言っても襲われるだけだ」
「……くっ」
「陛下、突破します。私のそばをお離れにならぬよう」
「だめだ! 武器も持たない民を斬っちゃいけない。それこそ教会の思う壺だよ」
 そう言って、クリオンは民衆の中の一人の男を指した。
「ほら、あそこに僧がいる。あいつが煽動したんだ。こっちが先に手を出すのを待ってるんだよ」
「姑息な!」
「姑息でもなんでも、絶対にだめだ」
「……やむを得ません、他の道を探しましょう」
 今にも石を投げてきそうな民衆から離れて、一行は塀沿いに走り出した。
 いくらも行かないうちに、横手の星拝堂から現れた二十人ほどの男たちとはち合わせする。ただの僧でないことは一目でわかった。銀に輝く重い甲冑と、鋭いとげの生えた鉄槌が証だ。――異端審問軍の討伐僧!
「排除しろ!」
 マイラの叫びとともに戦闘が発生した。鉄槌を振り上げる討伐僧に、兵士たちが襲い掛かる。
 戦いは激しく、短いものになった。重装に身を固めているうえ、堅い信仰心を持つ討伐僧は、退くことを知らず、生半可な攻撃も通用しないが、兵士たちもそれは承知している。甲冑の隙間を素早く突くための短剣を持ち、そのための訓練も積んでいた。加えて五倍の人数がものを言った。
 ものの数分で、二十人余りの討伐僧たちは骸と化した。こちらの被害は骨折と打撲の負傷をしたものが三十人ほど。手当てをしている時間も惜しいので、残りのものにそれらをかつがせて、再び一行は移動しようとする。
 その前の短い時間で、星拝堂を覗いてきたマイラが、深刻な顔で報告した。
「こんな門に近いところに討伐僧が隠れていれば、ガルモン殿が見逃すはずはないと思ったのですが……やはり、中は狭くて隠れ場所などありません」
「一体どういうこと?」
「わかりません。しかし、敵が完全に消えたわけではないのは確かです。こうなったら、脱出するよりもガルモン殿の主力部隊と合流したほうがいいかもしれません」
「そうか……この人数じゃ危険だものね」
 一行は三たび駆け出す。
 ガルモンの部隊を見つけるのは、別の出口を探すのよりは簡単だった。先ほどまでの不気味な静寂はいまや破れ、騒々しい戦いの叫びが上がっていたからだ。その一番激しいところを目指したクリオンたちは、兵舎に囲まれた広場に一団となって集合している、千人以上の大部隊を発見した。
 広場の三方で、攻め寄せる討伐僧たちと兵士の争いが起こっている。クリオンたちは幸運にも、それらの争いから離れた方角から、広場にたどりついた。円陣を組んだ兵士たちの中に駆け込み、マイラが叫ぶ。
「ガルモン軍団長殿はおわすか! マイラ・ニッセンだ!」
「こちらです、ニッセン殿!」
 叫びを聞いて近付くと、そこには巨体の指揮官と従卒がいた。従卒は立っているが、驚いたことにガルモンは座り込んでいて、片腕に見るも痛ましい火傷を負っていた。クリオンは目を見開いて駆け寄る。
「ガルモン! 大丈夫?」
「ああ、これは皇帝陛下!」
 と叫んだのは従卒で、ガルモンはこの期に及んでも、無言でうなずいただけだった。――いや、今に限って言えば、傷が深くて返事ができないのかもしれなかった。
「いらしていたのですか。ご無事で何よりです」
「ガルモン殿まで手傷を受けられたとは……」
 仲間内ではほとんど不死身だと信じられていた、この頑強な男の負傷を見て、マイラが驚きを隠せずに言った。
「一体何があったのだ?」
「軍団長は兵舎の捜索中に、爆発に遭われたのです。部下八名を炎の中から引きずり出そうとして、この傷を負われました。――それでも我が直属部隊はましなほうで、他の連隊では千名以上が一瞬で失われたようです」
 従卒の悲しげな言葉に、マイラは一瞬呆然としたものの、すぐに気を取り直して食ってかかった。
「嘆いている場合か、早くここから脱出せねば」
「もう試しました。爆発を逃れた兵のうち二千名余りにて突破を図りましたが、塀の外はすべて民衆にふさがれており、そこへ討伐僧どもが現れたので、やむなくこの広場に退き、残余の兵が集まるのを待っているのです」
「そもそも、奴らはどこから来たんだ!」
 マイラが苛立ちもあらわに叫んだ。
「塀の外には群衆の壁、そのさらに外は第二軍の残り四千名が包囲していたはずだ。討伐僧どもは空を飛べるのか?」
「地下だと思われます」
「……地下?」
「はい」
 黙りこんだマイラに、従卒は説明する。
地下墓地カタコンベです。フィルバルトの地下には、昔、イフラ教が弾圧されていた時代に、信者が隠れて掘った隧道が、いくつも走っているのです。その一部は、城に近い聖堂にもつながっていると言われますから、おそらくは、そこから……」
「聖堂で待っていて――爆発と同時に潜入してきたというのか」
「でも!」
 声を上げたのはクリオンだった。
「でも、第二軍が攻め込んですぐに、二千六百人の討伐僧がそこに隠れることなんか、できたと思う?」
「できるわけがありません。第一それでは、爆発の仕掛けを作ることも、民衆を煽動することも、不可能です」
「じゃあ……ずっと前から彼らは知っていたんだ」
 クリオンは裏切られたような顔でつぶやいた。
「一体、誰が教えたの?」
 その時、兵士の輪の西側で、わあっと悲鳴とも雄叫びともつかない叫喚が湧き起こった。振り返った一同は、さっと緊張の色を顔に浮かべる。
「敵勢が多い! あちらの防御を強化せねば。私に手勢を貸してくれ!」
 マイラに声をかけられた従卒は、しかし承知せず、ちらりと彼の指揮官を振り返ってから、力強く言った。
「ニッセン殿は陛下の御身を。敵勢は――我が軍団長が引き受けます」
「ガルモン殿?」
 マントもまだくすぶっているような凄惨な姿のガルモンが、重量霊『マートネール』の宿った戦斧を支えに、うっそりと体を起こしていた。クリオンが押し留めようとする。
「無理だよ、そんなけがじゃ……」
「宿敵がいるのです」
「……宿敵?」
 振り向いたクリオンに、従卒は敵の討伐僧たちの中心を指差して見せた。
「先月の争いでも、軍団長に手傷を負わせた、あの者が――」
「あれは!」
 見間違えるはずもなかった。
 黒い尼僧服をまとった、長髪の女。それだけでも、甲冑を身につけた討伐僧たちの中では目立つが、さらに決定的な印があった。――その女の右袖は、かすかな秋風になぶられるまま、ひらひらと軽くはためいているのだ。
麗虎リーフーか!」「ど、どうしてここに――」
 ゴオオオ、と獅子が吠えるような雄叫びが上がった。思わず首をすくめたクリオンのそばを、重く大きい体が駆け抜ける。ガルモンだった。今のは、彼の咆哮だった。
 百歩ほどを隔てて立つ黒衣の女は、軽く笑ったようだった。自然体で垂らされていたその左腕が上がり、手にしていた淫らな曲線を持つ刀が、すっとガルモンに向けられる。
 唇を読まずとも、彼女の言葉はわかった。
 真紅の光条――麗虎リーフーの刀に宿る精霊、『激光ジーグン』の力が、まっすぐに宙をうがった。
 しかしガルモンも、前回のように無力にやられはしなかった。顔の前に両手で構えた戦斧で光を受け止める。ぱあっ、と紫色の光の粒が、水しぶきのように散った。ただ金属で遮蔽したわけではない、そんなことは不可能だ。『マートネール』が同じ聖霊の力をもってはじき返したのだ。
 だが、不利だった。顔と胴には効かないと悟った麗虎リーフーが、ガルモンの腕や足に的を変える。それと分かっても、ガルモンは対応できない。『激光ジーグン』の光条は、弓矢とは比べ物にならないほど速いのだ。
 その攻撃を受けながら、なおもまったく速度をゆるめず、地響きを立てて駆け続けるガルモンの姿は、壮烈な気迫に満ちていた。これほど部下たちを奮い立たせる光景もなかった。指揮官の露払いをするべく、群がる討伐僧たちに向かって、以前に倍する勢いで襲い掛かる。
 マイラが、魂を抜かれたような顔でつぶやいた。
「そうか……あの男の知らせで、教会は事前に襲撃を察知したのか」
「男? あれは男なの?」
「はい、女に見えますが――」
 言いかけて、はたとマイラは口をつぐんだ。なぜか、勢いよくクリオンから顔を背ける。
 ガルモンの従卒が言った。
「さあ、陛下。敵は我々が食い止めます。東の方角が手薄なようですから、今のうちにお逃げください」
「で、でも……」
「我々すべては無理でも、陛下とお供の方だけなら抜けられましょう。引きつけますから、急いで!」
「……頼むよ」
 クリオンは、従卒の腕に手を置いて見つめた。名も知らぬその兵士は、にっこりと笑みを浮かべた。
「行きましょう!」
 シェルカが腕を引き、クリオンたちは駆け出した。当初ついてきた百名のうち、無傷の七十名がそれに従う。
 日は暮れた。刻一刻と暗さを増す空の下で、建物の陰から陰へ、闇を選んで彼らは走る。だが、その中にあっても、マイラの顔色は晴れなかった。石につまずきかけた彼女の異常に、クリオンも気付いた。
「マイラ、どうしたの?」
「敵の指揮を麗虎リーフーが執っているとすると……」
「なんだって?」
「下手をするとこの方角には伏兵がいるかもしれません」
「マイラ……」
 並木の陰で足を止めて、クリオンが言った。その言葉は、彼女の洞察を誉めるものではなかった。
「あいつを、知ってるの?」
「……」
 マイラは口を閉じ、苦しげに首を振った。クリオンが今までに見たことがないほど、思いつめた顔だった。
 そして彼女の予想は、最悪の形で的中した。
 兵舎の角を曲がった途端、先頭を走っていた兵士が、堅い壁にぶつかったように弾き飛ばされた。ゴキッ、と嫌な音が上がる。倒れた兵士の首は、身体の後ろを向いていた。
 足を止めた一行の前に、恐るべき打撃をくれた敵の姿が次々と現れる。銀の甲冑、優美なマント、五星架を彫り込んだ高さ一ヤード半もの巨大な盾、そして、鋭い穂先と厚い刃の両方を備えた、長大な槍斧ハルバード
 彼らは、兜越しに、冷え冷えとした平板な声で名乗った。
「イフラ教会異端審問軍、ザナゴード聖槍隊、推参……」
「ザナゴード隊――教会一の精兵か。皆、油断するな」
 五星の名を冠した五つの隊の中でも、もっとも強いとされる部隊の名を聞いて、マイラが命じた。兵士たちが一斉に短剣を構える。が、甲冑に加えて盾まで持った最重装の討伐僧たちの前では、いかにも非力に見えた。
 亡霊のような姿が、再び言った。
「クリオン一世陛下とお見受けする」
「知っているのか」
「――とぼけぬ度胸、感嘆いたした。それに免じて、苦痛なく送って差し上げよう」
 どちらの命令もなかったが、火蓋を切るにはそのやりとりで十分だった。
 ざざっ、と完璧に揃った足並みで、横列七人の討伐僧が詰め寄ってきた。兵士たちはその左右に散り、巧みな連携で彼らを突き崩そうとする。
 この夜何度目になるか分からぬ、鉄と鉄のぶつかり合いが起こった。この夜もっとも激しい戦いだった。
 大きく孤を描くハルバードが、一撃で確実に兵士の息の根を止める。身軽に跳ねる兵士の短剣が、蜂のように鋭く甲冑の隙間を刺す。クリオンの兵士たちは、確かに勇敢だった。
 だが、星拝堂から出てきた敵を倒したときのようにはいかなかった。巨大なバンカーシールドが接近すら阻んでしまうのだ。その上、数も多かった。討伐僧一人に対し、兵士二人以下――これではうまく連携ができない。
「マイラ、『キシューハ』を!」
「く……だめです、近すぎます!」
 僧の一人と切り結びながら、マイラが悔しげに叫ぶ。マイラの聖霊は、かまいたちで敵を切り刻むものだ。その射程はきわめて長く、巨鳥エピオルニスを駆った空中戦では無類の威力を発揮するが、このような近距離での乱戦では、とても使えるものではなかった。
 力ずくで兵士を吹っ飛ばした一人の討伐僧が、クリオンの間近に迫った。夜空をまるく断ち割るような軌跡を残して、ハルバードを叩きつける。
「陛下!」
 その瞬間、シェルカが立ちはだかった。ハルバードを持つ討伐僧の腕に打撃をぶつける。
 構えた湾刀の、柄の部分での一撃だった。無論それでは、篭手をつけた討伐僧に傷をつけられない。だが、ハルバードを取り落とさせることはできた。
 続いて、幻惑的なほど奇妙で的確な反撃が走った。
 討伐僧がぐいとバンカーシールドを突き出す。兵士の短剣ではそれを貫けない。しかし、シェルカが持つのは三日月のように反った湾刀だ。盾に止められるはずの斬撃が、盾を回り込んでその向こうにまで切っ先を届かせた。それは正確に討伐僧の兜の下端を狙っている。
 切っ先は兜をこじ開け、その下から現れた頸部をすっぱりと切り取った。首が落ち、赤い噴水を噴き上げながら僧の身体は崩れ落ちる。――彼を護衛に選んだクリオンの目は、正しかった。
「シェルカ、無理しないで!」
「任せて下さい。おれはこのために雇われたんです」
 この上なく頼もしい笑みを浮かべて、シェルカは次の討伐僧に向き直る。
 続く数合で、さらに一名の僧を剣士は屠った。鮮やかな手並みに討伐僧たちが動揺したのが、顔の見えない兜越しにも、はっきりと分かった。
 指揮者らしい飾りのついた兜の僧が、低い声を漏らす。
「なかなかの手並みだ。ではこちらも、勇者を出そう。――ハイミーナ」
「はい」
 その、鈴の音のような澄んだ声を疑問に思うより早く、進み出た討伐僧がハルバードを突き出してきた。シェルカは巧みに身体をひねってそれを避け、湾刀を振り下ろす。
 だがその斬撃は、今までのように相手の急所に届くことはなかった。相手が、無謀なほどの勢いで深く踏み込んできたのだ。
 首を狙った一撃が外れて兜にあたり、それだけを跳ね飛ばした。――ばさり、と銀の滝が宙に流れる。
「女!」
 顔は、若い女のものだった。シェルカがそれを確かめるひまもなく、女はさらにハルバードの突きを連続させる。
 他の僧より小さい動作での、その分素早い連撃だった。しかも、気迫だけで思わず退いてしまうほど、苛烈だ。防御を考えていないような――というより、防御に回ることを恐れているような、ひたすら攻撃一辺倒の前進。
 それを放つ女の顔も、攻撃衝動の塊のような、険しいものだ。歯を食いしばり、瞳に燐の炎のような冷たい光を浮かべている。顔の造りは美しいとさえいえたが、表情がそれを壊していた。
 そういったことを観察できたのは、クリオンだけだ。彼が手を出せずに見守る前で、シェルカは防戦一方に追い込まれ、やがて肩口を突きにかすられて、転倒した。クリオンは思わず駆け寄る。
「シェルカ! 大丈夫?」
「だめです陛下、近寄っては!」
 シェルカのそばにしゃがみこんだクリオンは、はっと振り返った。当然そこに、討伐僧、いや、討伐尼の一撃が降ってくるものだと思った。
 だが、不思議にも、女は動きを止めていた。何か化物でも見たような顔で、まじまじとクリオンを見下ろしている。
 その花びらのような唇が、短い言葉を作った。
「……捨てないのか」
「え?」
「ハイミーナ!」
 指揮者の僧の一言で、ハイミーナは鞭打たれたようにびくんと震えた。さっと表情を消し、もう一度ハルバードを振りかぶる。
 クリオンの身体の下で、シェルカがばねをためていた。勢いよく立ち上がってハイミーナの懐に飛び込み、彼女が身構えるひまも与えず、湾刀の腹で側頭部を殴り倒す。
 そうしながら、彼は叫んでいた。
「マイラ様、陛下を!」
「分かった、頼む!」
 最高の連携だった。シェルカが飛び出した瞬間、マイラがクリオンを身体ごとひっさらって走り出し、部下たちが壁を作った。ハイミーナを倒された討伐僧たちの驚きが、逃走の猶予を作った。
 あっという間にマイラとクリオンはザナゴード隊の横をすり抜け、植え込みの中に飛び込んだ。怒りに燃えた討伐僧たちを、決死の形相の部下たちが食い止めた。
 飛ぶように駆けるマイラの腕の中で、クリオンは悲痛な叫びを上げた。
「だめだよマイラ、みんなが!」
「皆、覚悟を決めています! 逃げ延びることが報いることです!」
「ああ……」
 喧騒が急に遠ざかる。やがて、マイラは屯所を囲む塀にまでたどり着いた。耳をそばだてて外の様子をうかがい、人声がしないことを確かめる。
 クリオンを下ろすと、空を翔けるエピオルニスの騎手ならではの身軽さで、マイラは塀に飛び乗った。その上から手を差し出す。
「さあ、早く! 陛下!」
 なおもしばらくクリオンは背後を見つめていたが、やがてマイラの手をつかみ、跳躍した。
 塀から飛び降りて、走り出す。いくらも立たないうちに、行く手に松明をかかげた数人の人影が現れた。本能的に物陰に隠れた二人は、闇を見透かして相手を確かめ、驚きの声を漏らす。
「あれも僧だ。……屯所の中だけじゃなくて、外まで押さえられてる」
「どうやら、町中が同じようなことになっているようです」
 言われてクリオンが耳を澄ませると、確かに、あらゆる方角から打ち合いと争いの音が聞こえた。マイラが焦りのにじむ顔でつぶやく。
「一体、教会はどういうつもりだ。こんなことをすれば、それこそ下級僧から大神官まで、皆殺しにされても文句は言えないというのに」
「……それだけの覚悟があるんだよ。彼ら、屯所を自分たちで吹っ飛ばしたでしょう。帰る場所をなくしてもいいだけのことをする気なんだ」
「フィルバルトを離れるつもりなんでしょうか?」
「違うよ。彼らの目的は、予の命でしょう? 予を取り逃がした彼らが、次に狙うのは……」
 マイラは目を見開いて身震いした。
「信じられません、そんな大それたことを……」
「大それているかもしれないけど、できなくはないんだよ、今のフィルバルトなら。第一軍は遠征、第二軍は袋のねずみ、他の軍団は帝国各地に散らばっていて、総司令のデジエラもいない。彼らを止めるものは、何もないんだ」
「た……確かに!」
 マイラは恐ろしげにうなずいた。
 やがて、考え込みながらつぶやく。
「だとすると戻れません。それどころか、頼れるものすら、どこにもありません。市民は教会の味方をしていますから……」
「しばらく隠れているしかない。マイラ……頼むよ」
 二十五歳の女武官は、自分の腕に片手を置いた少年の瞳に、健気な勇気と、ともすればそれを上回りそうな心細さが浮いているのを見た。
 剣を握った腕を、そっと彼の背に回す。
「……分かりました。私のこの剣にかけて」
 二人は身をかがめ、路地の闇へと消えた。
 
 3

「取り逃がした……とな」
 星拝堂に差し込む星明かりの柱の中で、かすれて声色も不確かな言葉を、大神官がつぶやいた。
「言ったであろう。皇帝は来る、軍はそれを逃がす、護衛がそれを守る、と……忘れたか、ハイミーナ」
「忘れてはおりません」
 血しぶきの散った赤まだらの白マントを背後の床に広げ、膝をついて頭を垂れたハイミーナが、苦しげに答えた。
「しかし、皇帝の護衛は思いのほか強く……軍の指揮官も、人間とは思えぬ戦いぶりでした」
「それも言った」
「護衛も軍指揮官も捕らえました! 皇帝はもはや裸です、捕縛するのも時間の問題――」
「それは、そなたの手柄ではないな」
 大神官は顔のしわに深くうずもれた両目を、ちらりとハイミーナの隣に向ける。
麗虎リーフーよ、見事であったぞ」
「いえ……猊下に授けていただいた討伐僧たちの力です」
 同じく膝をついた黒衣の女が、如才なく答えた。彼女の顔に浮かぶ淫猥な微笑を、横目で見つめながら、ハイミーナは改めて不気味さを感じる。
 この女が何者なのか、どうやって大神官に取り入ったのか、現在どういう関係にあるのか、ハイミーナは何も知らない。知っているのは、この女が調律剣を持つ恐ろしいほどの使い手で、今回の待ち伏せを成功させた立役者であるということだけだ。
 大神官は再びハイミーナに視線を戻すと、感情のまったく感じられない声で言った。
「ハイミーナよ、失敗を犯した者に与えられるのが何か、心得ておるな」
「……はい。罰です」
「それを与える。こちらに来い」
 ハイミーナは立ち上がって歩き出した。歩運びが重い。いつも重いがさらに重い。今宵の彼女にのしかかっているのは、大神官への複雑な隔意だけではない。それを見知らぬ女に見られているという屈辱が加わっているのだ。
 ハイミーナは、大神官の二歩前に気をつけの姿勢で立った。甲冑は脱いでいるものの、すぐあとでまたそれをつける必要があるため、薄布の下着の上に直接尼僧衣をかぶっただけの姿だ。頼りなさを覚えるその姿で、目を閉じあお向いて喉をさらす。
 大神官が、首元に骨張った指を当てた。ひくっ、とハイミーナは震える。
 その指が、触れるか触れないかというかそけき接触を保って、下方に滑った。ハイミーナの豊かな乳房を上り、乳首をこすり、腹に下ってへそをくぼませ、下腹の谷間に強く食い込み、さらにももを舐めて膝までたどった。
 それだけだった。大神官は指を離した。
 それだけでハイミーナは官能に火をつけられた。そういう風に躾けられてしまっていた。体温が上がり、息が荒ぎ、乳首が凝って、秘部が潤んだ。
「下がれ」
「はぁ……はい」
 ごくりとつばを飲んで後ろに下がりながら、ハイミーナは必死に耐える。熱しながら燃やさない、それが、大神官がハイミーナに与える罰だった。老人の嗜虐に満ちた眼差しと、黒衣の女の冷笑するような眼差しが、痛いほど感じられる。罰を与えられたこと、その罰に自分が応えてしまっていること、その様子を見られていること、すべてが苦痛だった。
 ふと、あどけなさを残した少年の顔が思い浮かんだ。
 彼が自分の支配者だったら、どんな罰をくれるのだろうか。いや――彼は罰など与えるのだろうか?
 乱れる思いで考えを保てなくなっているハイミーナのそばで、大神官と麗虎リーフーは、なおも奇妙な内容の話を続ける。
「分かっておるな。目的は二つじゃ。ひとつは、皇帝を捕らえること。もう一つは――」
「心得ております。そのために、城を」
「そうじゃ」
「……城を?」
 かろうじてその言葉をとらえ、ハイミーナは尋ねる。大神官が顔を向け、今までとは打って変わって優しそうな口調で、ささやいた。
「そうじゃ。フィルバルトの王宮を攻める」
「王宮を……攻めるのですか!」
 さすがにその言葉の衝撃は、ハイミーナに正気を取り戻させた。
「それは、教会がジングリットを支配するということですか」
「支配、支配な。無論、それもできよう。だが、それだけではない……」
 大神官は一度言葉を切った。説明のためではなく、単なる物思いのためだということは、ハイミーナにはよく分かった。親切さなど、一片も持ち合わせていない人物なのだ。
 大神官は両手を伸ばす。
「次なる使命じゃ。ゆけ、麗虎リーフー、ハイミーナ」
「はい」「は……はい」
守りあれ、嘉せよ、我が神イフラセベル・ウーレー・イフラ
 頭上に投げかけられた、神を称える言葉。それだけを、ハイミーナは胸のうちで何回も何十回も、何万回でも唱える。
 守りあれ、我が神。

 街の各所から風に乗って流れてくる戦いの音が、いつまでたっても消えない。
 窓辺でそれを聞いていたマイラが、あきらめたように首を振って、室内に戻った。
「まだ戦闘は続いています。当分は動けません」
「そう……」
 細長い衣装箱に腰掛けていたクリオンが、ため息をついた。マイラはその前に立ち、ずっと立つ。
 ややあって、クリオンは顔を上げた。
「どうしたの?」
「は? いえ、別にどうもしていませんが」
「そんなに立ちっぱなしで」
「何かご命令があるかと」
「……律儀なんだね」
 クリオンは苦笑し、衣装箱の自分の隣を叩いた。
「座っていいよ。当分やることもないし、ここなら見つからないだろうし」
「では、失礼します」
 そう言うと、マイラは衣服が触れ合わない程度に離れたところに、腰を降ろした。
 ほこりっぽく天井の低い部屋で、散らばった鍋釜や板などに囲まれて、ぽつんと置かれた衣装箱に座る二人を、窓から入る街の明かりが照らしている。妙な光景だった。
 民家の屋根裏部屋である。マイラが適当な隠れ家を探して廃屋を見つけ、二人で潜り込んだのだ。
 クリオンがつぶやく。
「軍が助けに来るか、少なくとも騒ぎが収まって人通りが減るまでは、ここにいるしかないね。今夜はこのまま夜明かしだ」
「お休みになっても結構です。私が番をしますから」
「眠れないよ」
「そうですか。――では、一つお願いがあるのですが」
「なに?」
「少しの間、そちらを向いていていただけませんか」
「え? いいけど」
 クリオンは座ったまま背中を向けた。背後で、かちゃかちゃという音がする。クリオンは納得する。マイラの防具は、ガジェス山に住む巨大な虫の外皮を削りだして作った軽甲だが、つけたまま休めるほど柔らかいものでもない。外しているのだろう。
 だが、そのあとが妙だった。
 布の動く音がしたかと思うと、マイラが小さくうめいたのだ。
「くふっ……」
 うめきを押し殺すような歯ぎしり。なおも布の音が続く。のみならずそれに、ぴたりと濡れた何かの響きまで混じった。クリオンは背中で聞く。
「マイラ? 何をしてるの?」
「少し、傷を負いました。手当てです。……くっ」
「けがをしてたの!」
 思わずクリオンは振り返った。はっとマイラが背中を向ける。
 向けた理由は分かったが、意味はあまりなかった。クリオンが見たのは、マイラの裸の背中だった。ばねの強そうな背筋が肩甲骨から腰まで浮いていたが、栗色の髪のかかる狭い肩とくびれた腰に、成熟した女の美しさがあった。斜め後ろからなので、両腕で覆った乳房のふくらみが、ひきしまった脇から見えた。
「ご、ごめん……」
 クリオンはあわてて顔をそらそうとしたが、マイラの脇腹に目を留めて、そのまま見つめた。マイラの薄い装甲がそこを覆っていなかったことを思い出す。
「けがって、これ?」
 手のひらほどの長さの、三日月形の傷口があった。深くはないようだが、まだ血が止まっていない。マイラが拭いたあとと、それからまたにじみ出してきた血が、傷の周りに赤に模様を描いていた。
「ええ、そうですが、ご心配はいりません」
「いらないってことないよ、早く血を止めなきゃ。ここ、自分で見える?」
「見えませんが、陛下が気にかけられることでは……あう!」
 身をひねって隠そうとした拍子に、傷がひきつれて開いた。クリオンは腰を浮かせる。
「ほら、自分じゃ無理だよ。予がやってあげる」
「し、しかし」
「恥ずかしがってる場合じゃないでしょ! 何か拭くもの、ああ、そんな汚れたマントじゃだめだって、ほら立って、この中見るから!」
 今まであまり親しくなれなかったマイラが、そのままだと拒み続けるのは分かっていたので、世話焼きなソリュータのやり方を思い出して、意識的に早口でたたみかけた。マイラを立たせて、座っていた衣装箱を開ける。
 持ち主は船乗りだったらしい。衣装箱は水を通さないニカワ塗りの堅牢な造りで、中にはほこりも虫も入り込んでいなかった。高価そうなものは何もなかったが、別にそんなものを探しているわけではない。破れた本や煙草入れや酒瓶に混じって、何度も塩水にさらされたらしいすりきれた数枚のシャツが入っていた。新品ではないが、乾ききっていて不潔な感じはしない。それがよさそうだった。
 取り出して蓋を閉め、再びマイラを座らせる。まだためらっている彼女の肩を、あえて押した。
「そっちを向いて。……大丈夫、傷以外見ないから」
「――はい」
 マイラは仕方なさそうに、むこうを向いて脇腹をさらした。
 軽く叩くようにして血を吸い取る。少し指を当てて覗くと、思ったとおり、筋肉の表面にも届かないほどの浅い傷だった。骨まで行っていないからなんとかなる。子供のころ、木から落ちて足を切った時に、ソリュータが手当てしながら教えてくれた。
 当て布を上から押さえつけなければいけない。クリオンはレイピアでシャツを切り、即席の包帯にした。それを巻く必要がある。
「マイラ、腕を上げて」
「……はい」
 胸を隠したままだから、乳房を両腕で抱え上げるような形になる。抱えられるだけの大きさはある。マイラがおずおずとそうすると、クリオンは背中から抱きしめるような格好で、腕を回し、胴に包帯を巻き付けた。
 背と腹に無駄なくついた機能的な筋肉と、それがあってもなお、なめらかできめの細かい肌の感触が手に移る。夏草に似た少し強い汗の香りが、鼻をくすぐった。
 手当てを終えるまでに、結果的にクリオンは、マイラの肌にかなり触れてしまっていた。妙な気分になったわけではないが、それなりの感想をもった。――こんなにぴっしりした体の女の人もいるんだな、という思いである。彼が触れた娘たちには、柔らかさはあっても強さはなかった。あえて例えれば、キオラのしなやかさが近いかもしれない。
 わずかにそんなことを考えながら、クリオンは身を離した。
「終わったよ。服を着て」
 再び背中を向ける。マイラが身動きした。
「……もう大丈夫です。ありがとうございました」
 振り返ると、マイラは黒い袖のない肌着を身につけていた。下にはいているのは、ごわついた布地のズボンだが、腰から上の体の線はそのまま出ている。胸を守る下着もつけていないらしい。これじゃ戦いの時に胸が邪魔にならないかな、とクリオンは思ったが、ふと床を見ると、裂けて血の付いた下着が衣装箱の陰に落ちていた。切られて汚れたから、それを捨てたらしかった。
 ともあれ、当面の心配はなくなった。クリオンは微笑む。
「城でリュードロフに見てもらうまでは、これで我慢してね」
「了解です。陛下、その……」
 クリオンの顔を直視しないまま、マイラは首を傾け、肩口に短めの髪を滑らせながら、つぶやくように言った。
「申し訳ありません、少し、陛下のことを誤解していました」
「誤解?」
「ええ。思い違いだと分かりましたが。陛下は時ところをわきまえたお方でした」
「ん? どういうこと?」
 首をかしげて、クリオンは身体を近づける。マイラはしばらく口を小さく動かしていたが、思い切った口調になって言った。
「最初にお会いしてから半年もたたないうちに、四人ものお妃様を迎えられた方ですから、もしや私も、と……」
「ああ。手が早いと思っていたんだね」
 クリオンは思わず、笑い出してしまった。
「そんなことしないよ。確かにマイラは美人だけど、けが人に無理強いするような人間じゃないよ、予は」
「私が、美人ですか」
 マイラはなぜか、ため息をついた。
「……陛下は、本当に、どこまでも、お優しい方なんですね」
 お世辞と思われたかな、とクリオンは考えてしまったが、マイラの言葉はそれだけの意味ではないようだった。悩んでいるように続ける。
「それに、底抜けにお甘い。――以前、ゼマント陛下に仕えていた女兵士が、前線で今と同じような状況に陥り、前帝陛下と二人きりになったことがありました。その時、あのお方はどうなさったと思います」
「どうって?」
「暗殺されるのを防ぐために、兵士の武器を奪って隠し、その後で慰みに彼女を犯しました。――皇帝として当然の警戒と、仕打ちでした」
 こともなげに言われて、クリオンは絶句した。
 不意にマイラは、『キシューハ』の宿る長剣を取って、クリオンに突きつけた。
「陛下だったら、どうなさいます」
「……別に、何も」
 クリオンは、鼻先で光る刃に目を向けもせず、答えた。
「マイラが予を斬るはずがないから」
「なぜそう言い切れるのですか。今まで何もしなかったから?」
「違うよ。だってマイラ、迷ってるもの」
 そのひとことで、マイラはごとりと長剣を取り落とした。
「いつ……いつ私が迷いました?」
「いつも。ううん、最初からじゃないけど、シッキルギン攻めでネルベの街に来た時や、その後テルーニュで会った時、きみらしくなく、そわそわしてたでしょう。なにを迷っていたのかは分からないけど、そうだったんじゃない?」
 クリオンは淡々と続ける。
「暗殺者なら迷うはずないもの。シッキルギン攻めの時に襲ってきた神官や、あの麗虎リーフーがそうだった。マイラはそうじゃない。だから危険じゃない、と思うんだ」
「そうですか。……陛下は、お気づきだったんですか」
 マイラは、長い長いため息をついた。
「悟られるほど表に出していたとは……我ながら」
「なに?」
「ええ、認めます。私は迷っていました」
 マイラは顔を上げ、しっかりとクリオンを見つめた。
「私に、陛下は斬れません」
「そんなこと断言しなくても。例え話でしょう?」
 クリオンは冗談めかして笑ったが、マイラは首を振った。
「いいえ、例えではありません。今の今まで、私は正体を偽っていました」
「正体って……マイラ、誰なの?」
「私は大明の間者です」
 クリオンは言葉を失って、臣下の顔を見つめた。マイラの秀麗な顔は、敗北に疲れきっているように生気がなかった。
「私は、大明合衆帝国タイミン・エンパイアステイツからジングリットに差し向けられた、間者です」
 マイラはもう一度繰り返した。クリオンは実感を覚えられずに黙っている。
「前帝陛下の御世に、この国の内情を探るために送り込まれました。それから今まで、ことあるごとに大明に知らせを送っていました」
「で、でも……」
 クリオンは話を理解しようと努力しながら、言い返す。
「マイラは予の護衛をしてくれたじゃない。予の味方でしょう」
「いいえ。私は二度、陛下のお命を奪おうとしました」
「命を? いつ?」
「陛下が『ズヴォルニク』を初めて手にされたとき、あの聖霊は反抗して陛下を溺れさせようとしたでしょう」
「う、うん」
「封球を『ズヴォルニク』のものにすりかえて、工匠のべクテルに使わせたのは、私です」
 クリオンは何を言ったらいいか分からず、マイラを見つめる。マイラはさらに言う。
「シェルカが陛下を襲った時も、扉が閉じていて私の突入が遅れましたね。あれも、私自身が鍵を壊したのです」
「マイラ……」
 クリオンはようやく飲み込んで、尋ねた。
「どうして、話してくれたの?」
「陛下を斬れないとわかりましたから」
 マイラはぽつりと言った。
「あれからも、機会はあったんです。なのに私はやれなかった。あなたが甘すぎてできなかった。前帝陛下のように警戒してくださらないから。そんな相手、どう憎んだらいいのか分からないんです。敵を敵として見られなくなったら、もう間者は間者でいられません。――私、もう大明には戻れません。だから話しました」
「戻りたいの?」
 そう聞かれて、マイラは不思議そうにクリオンを見た。クリオンは別の言い方で聞いた。
「マイラはどうして、間者になったの?」
「……報酬のためです。私はジングリットから大明に移り住んだ、エリドという貴族の血筋ですが、大明では没落して、もう貧民に近くなっています。母はただ一人の娘だった私に、エリド家の再興を言い遺して死にました。大明執政府のためにこの務めを果たせば、戻った時に地位を与えられるという約束だったんです」
「じゃ、やめても脅されることはないんだね。――戻らなくていいじゃない」
 マイラは、およそそんな顔をしたことのない女なのだが、きょとんとした。
「戻らなくても、いい……のですか。というより、戻さない、裁きにかける、とおっしゃったほうが適当では?」
「裁きって、何を裁くのさ。べクテルは自分の手違いで予に封球に渡したと思ってるんだし、シェルカの事件は教会の陰謀だ。きみが関わっていたなんて誰も思ってない」
「しかし、いま陛下にお話ししました!」
「話したのは、きみが改心したってことでしょ?」
「でしたら、城の私の部屋を調べて下さい。教会征伐を利用して皇帝を審問軍屯所に連れて来いという、書きつけがあるはずです。麗虎リーフーが残していったものです!」
「間者が、そんな内容の手紙を、燃やさず残しておいたってこと自体、きみがもう、やる気をなくしていたことの証明じゃない。ううん、そんなことはもう話さなくていいんだよ」
 クリオンは首を振って、マイラの両肩をつかんだ。
「予はきみを裁きたくないんだ。間者でいられなくなったから話したって言うけど、そうなったのはきみがいい人だからだ。能力がないからなんて思わないで。間者でなければ、きみはジングリットのマイラとして立派に生きていけるじゃない!」
「陛、下……」
 見る間にマイラの顔が歪み、切れ長の目の端に涙が盛り上がった。さっと腕で隠しながら顔をそむける。
「……陛下は、どうしてそれほどまで……」
「何度も言ったでしょ。これが予のやり方だって。気に入らない?」
 マイラは手の甲で目頭を押さえたまま、無言で首を振る。その頬に、クリオンはそっと手を当てた。
「わかった、信じられないんだね。予はよく知らないけど、間者って人を信じたらいけない務めだよね。……でも、予がそういう嘘をつかないことぐらいは、見知ってると思うけどな」
「……そうです、信じられません。そんな扱いを受けていいなんて思えません。私は、多分――陛下に裁いていただきたいんです」
「それはしたくないって」
「そうでないと、私が落ち着けないんです。私に、何か罰を――今までのことの償いになるような罰を与えて下さい」
「罰なんて……」
 クリオンは困惑する。そうしてほしいというマイラの気持ちはわかった。だが自分はそんなことをしたくないのだ。
 そんなクリオンをマイラはじっと見つめていたが、やがて、意を決したように言った。
「女の兵士にとって最も屈辱的なことは、なんだかお分かりですか」
「……屈辱的?」
「兵士ではなく、ただの女として見られることです」
 マイラは、体ごとクリオンに向き直って、両手を腰の横に置いた。薄手の肌着を突き上げるふくらみが、クリオンの前に突き出される。
「私を慰みものにして下さい」
 クリオンは唖然として言い返す。
「今ここで? マイラ、それが嬉しいの? それじゃゼマント陛下と変わらないじゃない。予を憎みたいの?」
「こんなところでこんな風に犯されてしまうのはいやです。だから罰になるんです。信じろとおっしゃるなら、私を罰して、それで私の過去を清算して下さい。さあ!」
 叱咤に近い、覚悟のこもった声だった。彼女の強い性格がほとばしるような口調だった。
 しかしその後で、不意にマイラは目を伏せ、別人のように頼りない表情を見せた。
「し、しかし……陛下が私のような女に触れたくないとおっしゃるなら……今のことは、取り消しても……」
「――ううん、マイラ」
 クリオンは首を振り、それでいいのか分からないまま、柔らかい声をかけた。
「触れたくないなんてこと、ないよ。マイラは、きれいだから……」
「でしたら……い、いえ! そんな優しいお言葉は無用です!」
「マイラ」
 クリオンは、肩の力が抜けていくのを感じた。十も年上の女なのに、なんだか、意地っ張りのだだっ子を相手にしているような気分になってきたのだ。
 いや、多分、本当にそうなのだ。意地でも張っていなければ、大明で貧しい家柄から身を起こして、敵地に乗り込んでくるようなことはできなかっただろう。クリオンに許すと言われても、そう簡単に心を開けないのだ。好意に好意を返す方法を知らないから、罰とか裁きとか、いかめしい言葉を口にしてしまうのだ。
 そういう相手に接する方法なら、クリオンもいくらかは身に付けていた。レザにもそんなところがあった。
「分かったよ、マイラ。いいんだね?」
「よくはありません!」
「はいはい」
 うなずくと、クリオンは体を寄せて、マイラのむき出しの両肩に腕を回した。彼女が目を閉じるのを待たずに、唇を押し付ける。
「ん、んむっ……」
 驚いたのか、不快なのか、マイラは顔をそむけようとした。だがクリオンは離してやらず、額当てのサークレットをつけた彼女の頭をしっかりと抱いて、舌を差し入れる。
 歯を食いしばっていて、入らない。入らずとも構わず、並んだ歯の上にクリオンは舌を滑らせる。並の男なら焦って自分の歯をぶつけてしまうほど、マイラはまだ頭を動かしていたが、クリオンは並の男ではない。男と呼べないほど幼く、それなのに男よりも慣れている。
 それはつまり、マイラに獣じみた男臭さが押し付けられず、清冽な少年の香りだけが与えられるということだった。それと一緒に、不釣合いなほど怖気のない、大胆な接触も。
 体の力が抜けるまで、一分もかからなかった。酸欠のせいであり、それをも狙ったクリオンの激しい口づけだった。
 空気を求めてマイラが薄く歯を開く。その間にクリオンの舌が滑り込む。口の中の深い粘膜に触れられると、頭の芯をじかにこすられるような快感が走った。
 クリオンの腕の中で、自分より大柄で強靭な肉体が、くたくたと溶けていく。あ、すごい、とクリオンは思う。思った以上に反応が早い。
 たっぷり数分キスを与えてから、クリオンは顔を離した。はあっ、はあっ! とマイラがあえぎ、胸を大きく上下させる。薄く開かれたなまめかしい唇の端を、なおも軽くついばみながら、クリオンはささやいた。
「マイラって、鉄の鞭みたいに強そうなのに、羽根よりも敏感なんだね。……本当にすてきだ」
「す、素敵だなどと……」
 すでに血がのぼり始めている頬を、マイラはさらに赤らめた。かわいい、とクリオンは思ってしまう。
「きみ、初めて?」
「い、いえ。何度かは……」
「したことあるんだ。じゃあ驚いたりしないよね」
「その時も驚きはしませんでしたが、今に比べると……」
「よくなかった?」
 マイラは、んくっとつばを飲んで、顔を横向けた。小さく抑えた声でつぶやく。
「……怖い、と思いました」
「予は怖くない?」
「……ええ」
「違うよ、予だって男だから、怖いよ」
 クリオンは楽しそうに言った。脅したいとさえ思っている。剣を取って戦ったらとてもかなわない相手なのに、このことならば自分のほうがはるかに強いのだ。軽いいたずらのような気持ちで、手のひらを滑らせ始める。
 マイラにとっては、いたずらどころではなかった。男と交わった経験はある。だがそれはほとんどの場合、戦いで苛立ち、疲れ切った相手のために、自分の意思を抑えて肉体を提供するような、殺伐としたやりとりだった。そういう時、男はマイラの感覚など小指の先ほども気にかけず、むさぼるだけむさぼって、放り出した。彼女にとって、交わりは戦いの一部ですらあった。だから、罰になると思ったのだ。
 それがこんな形で裏切られるとは、思ってもみなかった。
 クリオンはまず、聞くのだ。
「マイラ、どこを触ってほしい?」
「そんなところは……ありません」
「ないの? じゃ、どこを触ってもいいってことだね」
 そう聞かれること自体初めてなのに、触られた場所が、気持ちいいのだ。クリオンの繊細な指先が二の腕をさらさらと撫で、首筋をつっと引っかく。髪の中の耳たぶに小指が差し込まれ、こめかみをくるくるとくすぐられる。そのたびに、腰が跳ねてしまうような寒気がちりりと広がる。
「ひっ、ひやっ」
「いいでしょ、マイラ」
「そ、そんなことは、あっ、ひうっ」
「そんなことないんだね。じゃ、罰になってるよね。だから続けるよ」
 明らかにマイラの感覚を察している様子で言って、さらにクリオンが愛撫を重ねてくる。奪おうとする男ばかり相手にしてきたマイラは、逆に与えるために触れているクリオンのつもりが、まだ分からない。どうしてこんなに気持ちいいんだろう、と疑うばかりだ。
 彼女の心より先に体が受け入れていく。
「ここも触るね」
 クリオンが言って、肌着を腹からめくり上げた。くるくると巻き上げて、引っかかるほど豊かな乳房を越え、両方の脇の下を結ぶ線まで、細く布を集めてしまう。
 マイラは、美しい腹筋の浮かんだ腹部から、たるみの気配すらない見事に張り詰めた乳房まで、剥き出しにされてしまった。それでも、本能的な反抗を起こさず、力を抜いたままだった。肌は内心の羞恥を表して赤らんでいる。だが腕は拒むために動くことをしない。拒まなくともいいと体が気付いている。
 乳房のすぐ下を横切る包帯をずらさないよう、クリオンが両手をふくらみに覆いかぶせた。
「マイラ……すごい手応え」
「い、いやぁ……そんなことを口に、口にしないで……」
 首を振って子供のようにいやいやをしながら、マイラはつかむのではなく包む愛撫に目覚めさせられていく。
 クリオンも、自分の体が熱くなっていくのを感じていた。マイラは頑丈な宝箱に隠された宝石に似ていた。開けさえすれば輝くのだ。戦士として鍛え上げられた体が、いざ身を委ねたらどんなにしなやかな弾力を見せるか、それを知って、止まらなくなっていく。
「マイラ、支えてね」
 そう言って、クリオンは上半身を預けるようにして、マイラの乳房に顔を埋める。蜜を一杯に詰め込んだような、張り詰めたふくらみが、手のひらと頬と唇をかたく押し返す。その量感となめし皮のような肌の滑らかさが心地いい。だが、触れられるマイラもそれは同じだ。ひげのざらつきやささくれない、クリオンの磁器のようにつややかな頬と唇が、混じりけのない快感を伝えてくる。
「陛下、待って、待ってください……」
 感じたことのない快感に脅えてマイラは身体を引こうとするが、できない。狭い衣装箱の上に座っているからだ。幼児のようにもたれているクリオンを支えるために、両腕を後ろに付いている。逃げればクリオンが倒れてしまうから、逃げられない。
 そのつもりでクリオンは体重をかけているのだ。思ったとおり、逃げることも逆らうこともできずに、マイラは伏せたまつげを震わせて心地よさに負けていく。
 しぼればきゅむっと音がしそうなほど張ったマイラの乳房を、クリオンはその姿勢で丹念に愛し尽くした。じきにマイラが、降参の声を上げた。
「陛下、だめです。これ以上続けられたら、倒れてしまいます!」
「いいよ、倒れても」
 クリオンは、木の実のように固くなったマイラの乳首を、指と唇で勢いよくくすぐり立てた。「はっ、あはっ!」と叫んだマイラが、とうとうがくんとひじを折って、背後に倒れこみそうになった。
 それこそクリオンの待っていた瞬間だった。マイラの上半身から完全に力が抜けたときを見計らって、倒れこむ身体をぐいっと横に引き、細長い衣装箱の上にまっすぐ仰向けに横たわらせた。
「はあ……」
 腰から上を箱に乗せた状態で、マイラは腕を上げ、額の汗をぬぐった。その腰に、クリオンの両手が回されている。何をしているのか、すぐに分かった。
「マイラ、お尻をあげて」
「……」
 ズボンを、脱がそうとしているのだった。従えば、許したことになる。
 自分は罰を求めたはずだ。無理やり犯されることこそ、その罰だ。
 だがマイラは、もう罰だと思えなくなっていたのに、そのことを受け入れてしまった。
 無言で腰を浮かせる。――クリオンがうなずいて、腰紐をほどきズボンを下げていった。
 贅肉の一片すらなく完成された伸びやかな肢体が、ほぼすべて現れた。天を向いた乳房をさらし、くびれた腰から股間にかかる質素な下着をさらし、強靭な筋肉を秘めた長い太ももと脚をさらす。そのそばに膝をついて、クリオンが覗き込んできた。
「そろそろ本音を話して、マイラ。これ、嫌じゃないでしょう?」
 マイラは道に迷った子供のように心細げに、クリオンの上気した顔に浮かぶ微笑を見つめる。
「罰じゃなくても構わないでしょう? 気持ちいいからしたいって、素直に言ってほしいな」
 それでもまだ、マイラは口にすることができなかった。
 だから、動いた。左腕で顔を隠したまま、右腕で下着に指をかけ、押し下げて片足を抜く。
 小さくよじれた布が、片方の足首に残った。だがそれは些細なことで、マイラはようやく、身構えないありのままの心をさらしたのだった。
「……おっしゃる通りです……」
 震える声で言ったマイラを、クリオンは湧き上がる嬉しさとともに見下ろした。
 鹿のような跳躍の力を隠した長い脚を押し開き、その間に入る。触れるまでもなく、薄い汗で光る太ももの間の紅色のひだに、きらりと滴が輝いているのが見えた。クリオンは自分のズボンを下げると、下着のからんだマイラの片足をつかみ上げて、腰を寄せた。
「いいよね?」
「はい」
 はっきりした返事を確かめてから、クリオンは挿入を始めた。
 そこは、マイラの体の他のところと同じように、よく伸びる強い筋肉を感じさせる洞だった。若さにこわばったクリオンのものでさえ、押し戻されそうになる。それに耐えて、クリオンはじわじわと潜り込んでいった。耐えることが心地よいような、みっちりした締め付けがまとわりついてきた。
 小刻みな動きですっかり入り込んでしまってから、クリオンはくたりとマイラの胸に倒れこむ。
「マイ、ラ……すごいね。予のあれが、ちぎれちゃいそう……」
「い、痛いのですか?」
「ううん、そんなことないよ。逆だよ、気持ちいい。もっと力入れていいよ……」
 その言葉さえも、マイラが今まで聞かされたものとは正反対だった。
 マイラを抱いた男たちは、言ったのだ。きつすぎる、もっと力を抜いてくれ。入れる気がないんじゃないか。そう文句を言いながら、棍棒のように凶暴な肉の槍で、マイラの胎内をえぐり回したものだ。
 クリオンは違った。ねじ込むというよりは滑り込むような動きで、なめらかにマイラの中に入って来た。そのくせ頼りなさはない。主の健気な性格をそのまま表したように、細く硬く熱く形を保っている。痛みがないおかげでその鼓動すら感じ取ることができた。
 とくとくとく、と少し駆け足になったクリオンの拍動が分かる。同じテンポで乳房の上のクリオンの胸も震え、心地よさに半眼になった少年の美しい顔が、すぐ目の前で熱い吐息を吐いている。
 手のひらの中のひな鳥を見るように、体の中と外の両方で、マイラは相手の喜びをはっきり感じ取ることができた。そんな交流も、初めてのものだった。
 今、自分とこの人とを隔てるものは何もない。
 ただの交わりの快感を越えた温かいものが、胸の奥から湧き上がってきた。
「マイラ、動いても――」「動いて下さい、陛下」
 ふっと微笑んで、クリオンが動き始めた。マイラはその頭を乳房に抱きしめる。自分の胸で守りたいという気持ちと、自分の肌を与えたいという気持ちが混ざり合っていた。それはクリオンが抱いているのと同じ気持ちだった。
 ぐんぐん腰の動きを激しくしながら、クリオンが乳房をつまむ唇でつぶやく。
「マイラ、いいよ。すてきだよ、あったかい」
「陛下、私も、私もです」
 出ては入るクリオンのものが、さらに熱く硬くなり、せっぱ詰まった望みを伝えてくる。それを受け入れようとマイラも熱く潤んでいく。
「あ、陛下、あはっ、強く、お願い!」
 あふれる声とともに、急速に早くなるマイラの鼓動を、クリオンも感じている。ますますきつくなりながら、ますますあふれて滑らかになるマイラの花びらからも、彼女の興奮が感じ取れる。抱えた片足の筋肉にびくびくと走る律動や、つかんだ足首の腱の引きつりも、すべてマイラの快感を表すものだ。
 同じだけ与え、受け取っている。その満足の中で、クリオンは最後の坂を上り詰める。
「マイラ、行くよ!」「分かりました、私に、私に――っ」
 マイラが凄まじい力でクリオンの顔を乳房に押し付け、ぎゅうっと全身をこわばらせた。ぶるるるっ、と腰周りから胎内まですべての筋肉が震える。その縮み上がった締め付けの奥で、クリオンはほとばしらせた。
「んっ、んーっ、んうん!」
 食い締められた分、暴発は激しいものになった。解放の快感にうめき声を漏らしながら、クリオンは次々と熱い矢をマイラの中に撃ちこむ。間違いなくその刺激によって、マイラの肢体がさらにもう一度、かたく強くこわばった。
「んん、うん、んんーん……」
 汗ばんだふくらみに鼻面を押さえつけられて、言葉を出せないまま、クリオンはなおもうめいた。ゆるやかに小さくなっていくうめきは、そのまま、はじけるしぶきが穏やかな流れとなって、川のように注ぎ込まれていく様子を表していた。

 衣装箱のこちら側に座り込んだクリオンは、箱に背を預けて、呼吸を整えていた。
 振り返ると、箱の向こう側に座り込んだマイラの背がある。肩を動かして何かをしているが、まるで病み上がりのように、のろのろとした動きだ。クリオンは身を乗り出して、黒い肌着だけのその肩に触れる。
「大丈夫? マイラ。自分でできなかったら予が――」
「はンっ」
 鼻にかかった声を聞いて、クリオンはあわてて手を引っ込める。マイラがちらりと振り向いて、恨んでいるような顔をした。
「お、お願いですから、もう少しの間触れないで下さい。陛下に触られると、まだ……」
「まだ?」
「……しびれてしまいます」
 思わずぞくりとしてしまうような、甘えた反抗の表情だった。マイラもこんな顔するんだ、とクリオンはくすぐったいような気分で背を向ける。もちろん、本人は意識していないのだろうが。
 しばらくごそごそやっていたマイラが、困惑したようにつぶやいた。
「陛下、こんなにたくさん……」
「あ……ごめん、拭ききれない? まだ布いる?」
「布などどうでもよいのですが、これでは私、その……」
 普通の娘ならそこで口ごもってしまうようなことだったが、はっきりした気性のマイラは、言った。
「子供ができてしまいます」
「うん……」
「申し訳ありません、私が勝手なお願いをしたために……妃でもない私がそのようなことになれば、陛下はさぞお困りになるでしょう」
「きみが謝るようなことじゃないよ。予だって、それぐらい分かっててやったんだよ」
 クリオンは、思い切って言った。
「もしそんなことになったら、責任は取るから」
「責任?」
「予の側室の一人になって」
「私が……陛下の側室に?」
 驚いて振り向いたマイラが、今度は傷の痛みにうめいて顔をしかめた。無理しないで、とクリオンは声をかける。
「ソリュータたちも、マイラなら認めてくれると思うよ。問題なのは、そのほかの男爵だとかジューディカだとかだけど……ポレッカやエメラダまで認めてくれたんだから、マイラの身分だったらいいと思うけどなあ」
「そ、そういう問題ではありません! 私に、姫様方のようなドレスを着て、奥院に入れとおっしゃるんですか?」
「別にそんなことしなくってもいいでしょ。あの子たちだって命令でやってるんじゃないよ。マイラはマイラの好きな格好で好きなところにいればいい。軍でもどこでも。おなかが出てきたらそうもいかないだろうけど……」
 そう言うと、クリオンは妙な顔になって、衣装箱を挟んだマイラと見つめ合った。
「マイラのおなかが……そんな風になるのかな」
「……なるのでしょうか」
 それは二人の想像を絶していた。見つめ合ううちに滑稽になってきて、二人はいつの間にか、笑っていた。
「なるよね、マイラも女の子だもの。当たり前か」
「お、女の子ではありませんが、女ですから……」
 衣装箱に身体を預けて、二人で頭を抱えて失笑する。
 笑っていたクリオンは、ふと真顔でマイラを見つめた。
「マイラ、いい顔」
「……は?」
「笑ったの、初めて見た。すごくかわいいよ」
「そんなことはありません!」
 真っ赤になって正面から断言する顔は、しかしやはり、可愛らしかった。
「でも、よかった」
 クリオンは身体を回して、また衣装箱に背中を預ける。
「今ので、マイラが落ち込んだりしなくって。ほんとに嫌じゃなかったんだね」
「……はい」
 元の武官の顔に近い真面目な表情になって、マイラはうなずいた。
「陛下のおかげです。許されるならば私は、ジングリットのマイラとして生きていけると思います」
「もちろん許すよ。きみは全部話してくれたんだから。予を殺そうとしたことまで……」
 クリオンは途中で言葉を濁して、衣装箱の金具をいじり始めた。怪訝に思ったマイラが、「陛下、何か……」と聞く。
「マイラ、全部話してくれたんだよね」
 顔を上げたクリオンが、眉根を寄せて言った。
「二回、予を殺そうとしたって言ったね。それじゃ、前帝陛下は?」
「え?」
「四月にグレンデル湖で船を沈めたのは?」
「あ――あれは私ではありません」
 マイラは激しく首を振った。じゃあ大明の、と言いかけたクリオンをさえぎる。
「大明の刺客の仕業でもありません。あの頃は私もまだ大明と密接に連絡をとっていましたが、あちらにそういう計画はありませんでした。別の何者かのしたことです」
「だったら、教会かな」
「……分かりません。判断の材料がありませんから」
「よくないね」
 クリオンは真剣な顔で考え込んだ。
「教会だとしたら、彼らが大明とは別の計画を持っていることになる。そうでないとしたら、さらに別の誰かが動いていることになる。……どっちにしろ、いい話じゃない」
「私たちだけで考えるようなことでもありません。レンダイク様なり、ジングピアサー将軍なりに、ぜひとも報告しなければ……」
「これは、そのどっちかと、絶対に連絡をとらなきゃいけないね」
 クリオンはもの思わしげに、窓の外を見た。いまだに遠くから、打ち合う剣の音や大勢が走る靴音などの、争いの響きが聞こえてくる。
「なんとかして城に戻らないと……」
 重なり合う王都の甍を見ていたクリオンは、ふと目を細めた。街並みの屋根の上を、四つ足の奇怪な獣のような影が駆けて来る。
「マイラ、あれ見て」
「なんでしょうか」
 緊迫したクリオンの声を聞いて、マイラは手早く衣服を身につけ、剣を片手に窓辺に並んだ。路地を隔てた家々を飛び越えて走る影に、眉をひそめる。
「怪物でしょうか。陛下、お下がりを」
「……いや、ちょっと待って」
 星明かりに浮かんだ灰色の影は、どこか見覚えのあるものだった。その姿にではない。姿を変えても変わらない、どこかおどけたような動作に、見覚えがあるのだ。
 影は、クリオンたちのいる廃屋の、真向かいの家の上までやって来た。片手を挙げて、扇で仰ぐような仕草をする。手があるということはやっぱり人間だ、クリオンがそう思っていると、ひゅっと風を切る音が近付き、窓の少し下にカツッと何かが刺さった。
 影はやにわに宙に身を躍らせた。思わず身構えるマイラを、クリオンは手で押し下げた。
「大丈夫、怪物じゃないよ」
 驚くマイラの前で、影はするすると宙を滑り、窓の下の軒びさしに降り立った。
 大きな猫だ、と言われるのを本人は期待しているのかもしれない。確かに頭の上にピンと竹をそいだような耳を立て、長い尾を揺らしていた。その間の背はふさふさした灰色の毛に覆われている。
 だが、本物の猫でないことは明白だった。猫の仮装をした人間なのだ。
 そういう奇行をしながらこういう場所に現れるということには、もう慣れていたが、出てくる都度変わっている姿には毎度ながら驚いて、クリオンは苦笑ぎみに声をかけた。
「マウス……でしょ。よくここが分かったね」
「わしの鼻はよく利くんじゃよ」
 年老いた化け猫バストが人間の言葉をしゃべったらそんな感じだろうと思わせる声で、神出鬼没の道化は含み笑いした。
「皇帝の血はよい匂いがするでな」
「マウス……陛下の道化ですか」 
 マイラが、抜いた剣のやり場に迷いながら、つぶやいた。
「こやつは安全なのですか」
「うん、とても頼りになる。だから心配しないでいいよ。マウス、どうしてここへ?」
「猫が夕べの散歩をするのに、理由がいるかね」
「助けに来てくれたんじゃないの?」
「誰をかね。また、何からかね? 皇帝のそばには、もう強い護衛がついておる。わしの爪を貸してやる必要もあるまい。――このよくものを聞く耳や、よく闇を見透かす目ならともかく」
 相変わらず、雲をつかむような返事をして、マウスは耳をぴくぴくと動かしてみせた。
 来た以上は理由があるはずだ。普通の相手なら、そう思ってもいいだろう。しかしことこの道化に限っては、あまり理詰めで考えても意味がないような気がした。本当に散歩の途中でクリオンたちを見つけたのかもしれない。
 ……などと思ってしまうところだったが、つかみどころのない言動の奥に、マウスがいつも一定の目的を隠していることも、クリオンは思い出した。そして、正しい質問をしさえすれば、マウスはそれなりの答えを返してくれるのが常なのだ。
 ものを聞く耳、闇を見透かす目。
「……マウスは、何を聞いて、何を見てきたの?」
 その質問が正しかったのかどうか、分かるまでにはしばらく時間がかかった。マウスは、猫なのだ。
 脚で器用に後頭部をかりかり引っかき、両手をひさしの上に突き出してうんと伸びをし、くあう、とあくびをしてから、ぼそりと化け猫は言った。
「今宵の城は騒がしかろうな」
「城が?」
「抹香の臭い匂いのする者どもが城に向かっておるからな」
 それを聞いて、マイラがぐっと剣を握りなおした。
「僧たちが! 陛下、やはり教会は城を乗っ取るつもりなのです。すぐに行って食い止めねば」
「多勢に無勢さ、よしたがいい。わしも今宵は城に戻らぬ」
「何を言うか、道化! 城には陛下の姫様方もいらっしゃるんだぞ! 生臭どもが押し入るのを、指をくわえて見ていろというのか!」
「奥院までは奴らの手も届くまい。それに奴らも馬鹿ではない。下人はともかく、城のお偉い人間どもは、殺さず生かして使うだろうよ」
「うう……」
 道化の戯言と無視するには、マイラは聡明すぎた。マウスの言に筋が通っていることを察し、黙り込む。
 クリオンは、窓から身を乗り出して声をかけた。
「だったらきみは……予がどうすればいいと思うの?」
「皇帝一人で何ができる」
 この上なく傲慢な台詞だったが、それも、ただの侮蔑ではなかった。
「人間という生き物は、衆を恃むのだろう。力が足りねば集めればよい。近くになければ遠くから」
「遠くから……デジエラの第一軍に助けを求めろっていうの?」
「さてな」
 化け猫はぐるぐる喉を鳴らしながら、我関せずというように身体を丸めた。
「猫のわしには、よく分からぬ。家が焼ければ逃げ出すだけじゃな」
「逃げられるものか! ここは予のフィルバルトなんだから!」
「ならば帰ってくるがいい。焼けた家を建て直すために。ふん、無駄な苦労じゃ。しっぽを丸めて逃げたほうが、なんぼか楽かもわからん……」
 言うだけ言うと、マウスはその場で鼻づらを脇に突っ込んで、寝息を立て始めてしまった。マイラが怒声を浴びせる。
「その態度はなんだ、おい、道化! 返事をしろ!」
「無駄だよ、マイラ。マウスはしたいことしかしないんだから」
 クリオンはマイラの腕を引っ張って、部屋の中に連れ戻した。
「決めたよ。マイラ、今日はもう寝る」
「寝る……のですか。こんな時に」
「きみもだよ。別にのんびりしようって言ってるんじゃない。急ぐために眠るんだ。明日はきみにも、ひと働きしてもらうからね」
「何をなさるんです」
「きみがいつもやってることさ」
 いぶかしげな顔のマイラを床に座らせて、クリオンはつぶやいた。
「そう、急がなきゃ。……絶対、待ってくれてるはずだから」
「誰がですか?」
 マイラは聞いた。だがその時にはもう、クリオンは床に横たわり、静かに目を閉じていた。

―― 中編に続く ――



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