次へ 戻る メニューへ  皇帝陛下は15歳!

 第3話 中編

 4.

 ネルベの征陣府に戻ったクリオンは、食事と湯浴みを終えたものの、無責任なエメラダやまだ幼いキオラと話す気にもなれず、自室を出た。
 ソリュータになら話せる。だが、それはそれで避けたかった。話せば勇気づけ、安心させてもらえるだろう。そんな風に簡単に安らいでしまっていいのか。
 今回の戦争はクリオンが初めて起こした戦争だったが、本当は絶対に必要な戦いではない。もちろん、隣国のシッキルギンが乱れれば交易が途絶え、ジングリット自体も攻めこまれるかもしれないという開戦理由はある。
 にしても、避けようとすれば避けられたかもしれない。キオラの無邪気で純粋な頼みと、冷徹な計算からシッキルギンに恩を売ろうとするレンダイクの進言で、クリオンは決意したのだ。しかし、二人を言い負かせば、外交努力でなんとかなったのではないか。
 起こさなくていい戦いを自分が起こしたせいで、伯爵は不満を溜めて不法行為をし、処刑された。あの兵士も、戦死の危険にさらされている。
 それに引き替え自分は、大きなベッドで眠り、腹を減らすこともない。自ら前線に出て戦い、一国の行方を背負わされているとはいえ、それが免罪符になるのか。
 クリオンの良心が、ソリュータに甘えることを拒んでいた。
「平民と、貴族と、皇帝と、敵と、味方と……」
 意味のないつぶやきを漏らしながら、深夜の征陣府をクリオンはあてもなく歩いていた。
 ふと、足を止めた。文官執務室の扉が薄く開き、中から光が漏れている。まだ働いている者がいる。
 中を覗くと、たった一つのランプの明かりの下で、金髪の女性が机に向かっていた。見たとたん、クリオンの中でなにかが外れた。ふらふらと扉を開ける。
「スーミー……」
「あら……陛下?」
 レンダイクの右腕である女祐筆が顔を上げた。クリオンは扉を閉めてそばに近づく。
「まだ仕事?」
「ええ、遠征軍の庶務はすべて私が決裁するので」
「ご苦労様」
「陛下こそ、こんな夜更けにどうなさったんですか」
「うん……」
 机の前で、クリオンは言い淀む。しばらくして、察したようにスーミーが筆を置いた。
「なにか、お悩みなんですね」
「……わかる?」
「そのお歳で皇帝陛下の重責を担われているのですから。私のほうが十も年上ですし」
 スーミーは軽く首を傾けてクリオンを見上げた。卓上のランプの炎を反射して、瞳が濡れたように光った。
「よろしければお聞きしますけど?」
「……いや、いいよ。話すことじゃないと思うんだ。予が自分でなんとかしなきゃ」
「まあ……」
 スーミーは軽く口を開け、感心したように微笑んだ。
「陛下……お若くても、男性ですね」
「男性?」
「責任感の強いところが。私、そういうお方は好きです」
 好き、という言葉を、スーミーは唇を尖らせるようにして言った。クリオンはそれを見つめる。赤い、血みたいな唇だ。
「弱い人はいや、愚かな人はいや。強くて賢い人が……」
 妙にうっとりした顔でスーミーはつぶやく。額にかかる金髪からクリオンは目が離せない。ふと気がつけば、彼女の美しい顔を、結った髪の下の妖艶な首筋を、クリオンはじっと見つめ回していた。
 そのとたん目が合った。
「陛下?」
「あ、別に……」
 こんな時に何を、と自己嫌悪しながら、クリオンはあわて気味に手を振った。その拍子に、手がランプに当たった。
「あっ!」
 油をまき散らしながら転がったランプが、床に落ちた。たちまち炎が燃え広がる。机のこちらと向こうから横に動いて、クリオンとスーミーが同時にしゃがみこんだ。
「かぶせて、何かかぶせて!」
「はい!」
 スーミーがとっさに、肩の礼布を引き抜いて広げた。厚いフェルトの両端を二人で持って割れたランプにかぶせる。
 いくらかの光を布越しに漏らしながら、炎は鎮まっていった。ほっと息をつきかけたクリオンは、目の隅にちらりと見えたものに、息を飲んだ。
 その驚きの表情を認めて、スーミーも驚いたのが、クリオンが見た最後の光景だった。
 炎は消え、室内は闇に閉ざされた。窓から降る月光で、輪郭だけがわかる。スーミーがかすれた声で言った。
「陛下……」
「え?」
「私……以前もお見せしてしまいましたけど……ちょっと抜けてるんです。頭には自信があるのですが、体を動かすほうがだめで、何もないところで転んだり、男性の前で無様なところを見せてしまったり……」
「う、うん」
「それで、今……そういう瞬間だったと思うのですが、陛下」
 奇妙に恥ずかしさのない口調で、スーミーは言った。
「見られましたか」
「み、見てないよ!」
「……見たんですね」
 ごそ、とスーミーが動いたのがわかったが、何をしているのかは見えない。
 また、関係のないようなことをスーミーが言った。
「陛下、私がなぜこんな夜更けに、一人で仕事をしていたかお分かりですか。――ドアを開けたままで」
「まだ仕事が残ってたからって……」
「でもあります。しかし、別の理由もあるんです」
 スーミーの肩と腕が、細かく動いている。手を前にして――なんの音だろう?
「考えるんです。軍隊の中で働いている女が、夜更けに一人でいたら……扉を開けたままでいたら、どうなるかって」
 ちゅぷちゅぷ、という音。
「周りは屈強な兵士や、優秀な仕官ばかり。そういう男性が、扉の隙間から私を見て……中へ入ってきたら、どうなるかって」
 こくり、とクリオンはつばを飲む。すると、やっぱり今見えたのは――
「私……妄想しながら、隠れて慰めていました」
 フェルトの上で膝をする音が近づく。
「それでも人に気付かれたことは一度しかないのですが、今また、陛下に……下着をつけていない私を」
「見てない!」
「……見られてしまいました」
 言葉とともに、どっと重い肉がのしかかった。スーミーの服の下の豊かな胸や、くびれた腰や、柔らかい下腹が一度に触れ、彼女の髪の麝香の香りがクリオンのすべての呼吸を奪った。
「す、スーミー!」
「お願いします、だから」
「言わない、誰にも言わないよ!」
「違うんです。言っても構いません、しかし――今、今火がついてしまった私の体を、どうにかして下さいませんか」
「そんな……」
 頬にスーミーの柔らかい唇が当たる。クリオンの理性が異常なほどもろく崩れていく。押しかぶさる体の熱さに、若い股間が勝手に反応し始める。
「言わない、か、ら……」
「……でしたら」
 スーミーはやや顔を離した。唇が感じられなくなった代わり、甘すぎる吐息が漂ってくる。
「秘密のある者同士、ここだけのことにしましょう」
「秘密?」
「陛下も、人に言えない悩みを抱えていらっしゃいます」
 そうか、とクリオンはくらくらする頭で考える。ぼくがこんなにしたいのは、その鬱憤で……
「心が晴れなくても、せめて体の不満だけ、晴らしてはどうでしょうか。――陛下も、私も」
 起き上がったスーミーに引かれて、クリオンは人形のように立ち上がる。子供を作る相手は慎重に――この人じゃなくてもエメラダなら――ソリュータはどんな顔を――思い浮かぶことの端々が、他人の思念のように意識の外側を滑り落ちていく。それらを押しのけるほどの欲望が膨れ上がる。
 それもやっぱり、この誰もいない、真っ暗な部屋で、思いもしなかった相手と触れ合っているから?
 考えが行動につながらない。クリオンはまるで操られるように、手と体を動かす。膝立ちで向きあったまま体をこすりつけあい、髪をかき乱しあって、くちゃくちゃと舌を吸いあう。
 スーミーの仕草にはもったいや駆け引きが一切欠け落ちていた。タイも取らずに胸元のボタンを外し、エメラダのそれよりなお豊かなふっくらした乳房をまろび出させ、クリオンの頭をそこに埋めさせる。そうしながら遅滞なく手を動かし、クリオンの股間と、腰の線に沿った自分のスカートの中を、同時にこね回す。
「手早く済ませましょう。夜回りが来ます」
 いっそ冷たいほど簡潔なその言葉と、彼女の動きのなんと裏腹なことか。誰かに見られても構わないと言わんばかりに、胸をあらわにし、体全体をくねらせてクリオンにまとわりつく。
 クリオンもその言葉に挟まれている。見つかったらどうなるかわからない。もっともっとむさぼりたい。恐怖と欲望に締め付けられて、愛撫が激しくなる。
 スーミーの乳房ににじむ汗が甘い。汗なのに甘い。汗ではないのかもしれない。乳首を赤子のように吸いながら、クリオンは食べたくなる。
「噛んでください」
 それを読んだようにスーミーが指示する。
「肉を、強く。ちぎるぐらいに」
 クリオンはその通りにする。乳房を横からくわえて、丸みに歯を立て、あごに力をこめる。ハルナスの食べていた鹿肉が思い浮かぶ。
「んっ……あ」
 スーミーがほんの少し嬉しそうに喉から息を吐いた。クリオンは思いきり噛む。果汁すらにじみそうなほど歯の間で肉が歪んだが、それでもちぎれない。噛むたび舌の先に触れる弾力のある肉が楽しくて、何度もクリオンは噛む。
「痛……うれし……」
 うめいていたスーミーが、だしぬけにクリオンを突き放した。はっとクリオンは我に返りかけたが、スーミーの動作にまた意識を濁らされた。
 スーミーは立ちあがって机の上に上半身を伏せると、膝上のきついスカートを両手で引きずり上げた。顔だけ振り向いて尋ねる。
「陛下、もう準備はよろしいですか」
「う、うん……」
「では、どうぞ。私はもう待てません」
 クリオンは膝立ちのまま、月光に淡く照らされたスーミーを見上げる。そこからだと、彼女の後ろしか見えない。肉付きのいい太ももの上で、くっきり境目を見せてまるく尻が盛りあがっている。その間に、陰るような谷間。かすかにきらりと光るのは、間違いなく何かの液体だ。
 相手が人間ではなく、ただの性器になったような錯覚。
「スー……ミー……」
 うつろな目を注ぎながら、クリオンは立ちあがり、ズボンを下げた。そのまま、なにも考えずに、真後ろからスーミーの膣に挿入した。
「陛下!」
 スーミーが鋭く叫ぶと同時に締めつけた。「ンッ!」とクリオンは硬直する。早過ぎる射精がスーミーの中でほとばしっている。
「一度目……まだ足りません」
 まるで自発的にそうしているように、ぬるぬるとスーミーの内部が蠕動し、ペニスの根元から粘液を搾り出す。むずがゆいようなその感触に唇を噛みながら、クリオンはスーミーの尻に両手の指を食いこませて耐える。
 その柔らかさが、次の欲情を性急に燃えあがらせた。
「スーミー……柔らかい、きれい、熱い……」
「ええ、味わってください」
 どこまでも冷静を装うスーミーの声を聞きながら、クリオンは見下ろす。謹厳なブロンズ色の上着の下で、スカートがくしゃくしゃと押し上げられ、そこからいきなり白い肌が始まる。パン生地のように真っ白で柔軟な二つのまるみの間に、ぎょっとするほど淫靡な花が開いて、クリオンのものをぬめらかに飲みこんでいる。
 たちまち頭に血が上って、クリオンはがばっとスーミーの背中に抱きついた。甘えではない甘えに夢中になって、全体重をスーミーの体に預け、垂れて揺れる乳房を持ち上げ、尻の形がつぶれるほど腰をねじりこむ。
「スーミー、スーミー! おいしい、おいしいよ!」
「ええ、ええ」
 ささやくようにスーミーが答え、クリオンの体重を子宮で受けようとでもするかのように、腰を後ろに押しつける。
 二つのくの字の形をした体が、ぴったり重なって一つにつながり、がくがくとうごめく。机がガタガタ揺れ、ペンとインク壺が転がり落ちても、二人とも見向きもしない。一心に互いの体を味わいつづけ、しばしば痙攣するようにして短く射精し絶頂し、いっそうぬらついた性器の味にさらに昂ぶって、前よりも強く突きこみ受け入れる。
「陛下、お口を」
 闇にも紅い頬を見せてスーミーが振り返り、薄く口を開く。その唇にクリオンはしゃぶりつく。上になっているから自然に唾液が流れ落ちる。スーミーはこくこくとそれを飲み干す。口から唾液を、それに下から子種を、両方から、クリオンはなおも大量の液を注ぎこむ。
「あっ……あはっ……」
 度重なるクリオンの注入に、とうとうスーミーの 仮面がはがれた。いや、それすら演技だったのかもしれないが、クリオンにはとってはもうどうでもいい。
「だめ……だめです……これほどなんて……私……壊れる……」
 振り向く力も絶えて、がくりとスーミーは首を机に落とした。どこも見ていない瞳から涙を落として、死体のように舌を出す。
「もう、遅いよ。スーミーが、スーミーが悪いんだ……」
「ええ、私が悪かったです……し、仕方ありません。このまま、壊してください……」
 ぎゅうっ、とクリオンはスーミーの乳房を握り締めた。指の間から肉が盛りあがり、途端に汗で滑って、ぬるっと逃げられた。
 それをもう一度つかんで力いっぱい引き寄せながら、クリオンは最後の絶頂に達した。
「スーミーが――わる――ッ!」
 まるでスーミーの背筋を折ろうとするように乳房ごと上体を抱えこみ、太ももと尻に膝から骨盤までを押しつけて、クリオンは残りすべての液を溶けた肉の奥に撃ち出した。
「わたし、死ん……」
 ねじまがった手の爪で、スーミーがカリリと机を引っかいた。

「……一度見つかったとお教えしましたね」
 また突然、なんの脈絡もなくスーミーが言った。あえぐクリオンを背中に乗せたまま。
「誰にか、わかりますか」
「……誰に?」
「イシュナス様」
 クリオンははっと起き上がった。直感的に悟ったのだ。
「まさか……レンダイク男爵とも?」
「はい。私、イシュナス様の愛人です」
 クリオンは呆然と体を離した。すぐさまスカートを下げ、胸元を閉じて、スーミーが振り返る。
「ああいう強い方が好きって……申し上げたでしょう」
「そんな……ごめん、ぼくは……どうかしてた」
「いいんです」
 クリオンの足元にしゃがみ、汚れた部分を手巾で丹念に拭きながら、スーミーは穏やかに言った。
「陛下がご心配なさると思ったから、お教えしただけです。私は皇妃の待遇を要求するつもりはありませんので」
「そ、そうなの?」
 安堵する自分に身勝手さを感じながらも、クリオンは念を押した。
「ほんとにいいの? じゃあ、なんで予と……」
「あら、それも申し上げました」
 一度言ったことは覚えていて当然という顔で、スーミーは付け加えた。
「先ほどは、つい欲情してしまったので」
「よく……」
「お互い満足できる交わりだったと思いますが」
「う、うん……」
 乾きすぎているスーミーの言葉に、クリオンはうつむくことしかできない。
「ですので」
 クリオンを完璧に着付けてから、スーミーは事務的に言った。
「私としては、以後もこういうことがあって構わないと思います」
「また?」
「どちらも口外できない以上、秘密は漏れませんでしょう。しかし私から要求するのも臣下の分を越えますから、陛下がご希望の際だけで結構です。しがらみが厭わしくて、ただ発散だけを目的に女性を抱きたい時があれば、いらしてください」
「……」
「ところで」
 スーミーは扉を指した。
「あと三分で本当に夜回りが来ます。ソリュータ嬢やエメラダ様もお待ちかと。お帰りになってはいかがですか」
「あ、うん……」
「では、おやすみなさい」
 スーミーは手近の机から別のランプを取って、火を灯した。クリオンはなにひとつ言わず部屋を出る。最後の明かりがついた瞬間にも、スーミーの表情は変わっていなかったのだ。
「……どうして……ぼく……」
 ひとときの怪夢のようだった出来事に、つぶやきながらクリオンは部屋へと帰って行った。

 5.

 それから六日の間に、ジングリット軍は二回出撃し、二回とも敗北した。いずれも、前回までの失敗に懲りての様子見のような出撃だったから、損害はせいぜい数百といったところだった。にしても、依然としてミゲンドラ軍の本隊を叩くことができず、見つけ出してもいないのだ。負けには違いない。
 ジングリット軍は沈滞した空気に包まれた。一番応えているのは、やはりクリオンである。
 ハルナス伯ではないが、兵法は言う。いくさで最も大事なのは戦わずして勝つことである。その次に大事なのは速戦で勝つことだ。遅れる戦いはそれだけで負けである。物資を遠いフィルバルトに求めるジングリット軍は、時間がたつほど追い詰められてしまう。
 しかしその程度のことは、総司令のデジエラがクリオンよりよっぽど心得ているはずだった。なのに、部隊を小出しにするだけでただ消耗を待っているように見える。クリオンは焦ったが、ではと出ていって自ら指揮を執れるかというと、それこそ不可能だった。玉座についた三ヶ月前に比べて慣れたとはいえ、彼はしょせんほんの十五歳の若造に過ぎないのだ。
 そんなクリオンの焦燥が極限に近づいたある日、デジエラが突然、妙なことを言い出した。
「陛下、山に行きましょう」
「山?」
 征陣府の廊下で話しかけられたクリオンは、首をかしげた。
「山って……演習でもするの」
「いいえ。しいて言えば散歩です」
「散歩? こんな時に――!」
「し」
 デジエラは唇に指を当てた。目だけを動かして周りを示す。文官や将兵があわただしく行き来している。
「――人のいないところがいいのです」
 最近は意外な相手から誘いを受けることの多いクリオンだったが、さすがにこの申し出がそういうたぐいのものだと誤解するほど、芯をなくしてはいなかった。
「……わかった」
 デジエラの指示に従って、クリオンは目立たない服と馬を用意させ、シェルカだけをつれて裏門から出た。ネルベの近くにある小高い丘に向かう。
 町から見えないような丘の裏まで来ると、いったん別れたデジエラが先に来ていた。彼女だけではなく、幾人かの男たちがいる。
「みんな……どうしたの、こんなところで」
 そこにいたのは、フォーニーやネムネーダを始めとする、ジングリット軍のおもだった武将たちだった。それぞればらばらにここへとやって来たらしい。
 戸惑うクリオンに、ネムネーダがにやにやしながら声をかけた。
「秘密の軍議ですよ」
「軍議だったら何もこんなとこでやらなくても、征陣府の部屋でやれば……」
「あそこには天井がありますからね」
「天井?」
 意味深なことを言って、ネムネーダはむこうを向く。
 まだ時間がある、とつぶやいて、デジエラがクリオンのそばに立った。
「陛下、此度のいくさになぜこれほど我が軍がてこずったか、おわかりですか」
「うん……まず一番大きい理由は、地の利がないことだよね」
 クリオンは考えながら答える。
「我が軍はここらの地形を知らないし、知っていても騎兵が主力だから実力を出せない。狭い谷が多くて全部隊を一度に投入することもできない。それがひとつ」
「他には?」
「敵の数がつかめないことだ。キオラが言っていたけど、ミゲンドラはとうてい大軍を動かすことなんてできない小さな国のはずだもの。出してせいぜい三万、本当に我が軍より多いんじゃなくて、我が軍をだまして多いように見せかけているんだ。それが見破れないのが、二つ目の問題」
「その通りです。まだあります」
「あの王族」
 短い答えに、デジエラは満足したようにうなずいた。
「率直に言って、今、私は驚きました。地形の非、自兵の寡、異敵、そのみっつはお分かりになって当然と思いましたが、敵の大兵の偽までお気づきとは」
「当然って……わかってなかったら?」
「見限りました」
 ざくりとデジエラは言い放つ。歯に衣着せぬ直言に、クリオンは少し身震いし、改めてこの女がここにいられるわけを実感する。
「まあ、皇帝がそういうことを分かってなかったら、見限られるのも当然だと思うけど……予もたいしたことはないよ。解決策が思いつかない」
「でしょうね。陛下にずば抜けた良策があったら、私が将軍位にいる意味がありません」
 自分とクリオンの能力をまともに比べる表現であり、それはクリオンの努力をほめたとも言える言葉だったが、そう受け取るにはクリオンは若すぎた。やや不満げにつぶやく。
「だったらその腕を見せてよ……」
「ええ」
 デジエラの簡潔な言葉に、思わずクリオンは顔を上げる。
「あるの? 策が」
 無言のデジエラの顔に浮かぶかすかな笑みで、クリオンは思い出す。
 デジエラは、過去形を使ったのだ。我が軍が「てこずった」と。
「……勝てるの?」
「来ました」
 夏空を差したデジエラの指先を見て、クリオンは顔を輝かせた。
「え、エピオルニス――ヴェスピア疾空騎団だ!」
 人よりもはるかに大きい巨鳥たちが、高空から螺旋に連なって、一列に悠然と降下してきた。
「勅使団の任務で散らばっていたので召集が遅れました。このいくさでは彼らの力が必要です」
「まさか、奇襲を?」
「いえ。たかだか三十羽のエピオルニスでそれは無理です。しかし、彼らは百二十の目を運ぶことができます」
「――彼らを斥候にするの!」
 デジエラはうなずいた。
「すべての問題は、斥候と伝令の走れないこの地の険しさから発するのです。彼らなら、きっと」
 先頭のエピオルニスが大きな風を叩きつけながら地面を踏んだ。駆け寄ったクリオンはその騎手を認めて声を上げる。
「マイラ! 来てくれたんだね」
「……陛下?」
 二十五歳の俊敏な女騎士は、クリオンの姿を見ると奇襲を受けたように目を見開き、栗色の髪を揺らしてデジエラの方を向いた。
「来ていただいた。喜ぶと思って」
 珍しいことにデジエラは、含み笑いをしているような顔で言った。クリオンがマイラの手を取る。
「心強いよ、きみなら難しい任務も頼める」
「お――お放し下さい」
 手を振り払われて、クリオンは顔を下げた。
「ああ……ごめん、つい懐かしくて」
「私が護衛を降りたのはほんのひと月前でしょう。顔見知りならソリュータ殿やエメラダ様がいるではありませんか。それに私は……」
 なぜ言葉を濁して、マイラはそっぽを向いた。クリオンは言葉を捜して、なおも声をかける。
「フィルバルトからは遠かったでしょう。征陣府で休んでよ。三十羽ぐらいなら中庭に」
「いや、それが無理だから、こんなところで彼らを迎えたんですよ」
「え?」
 ネムネーダの言葉に、クリオンは振り返った。
「ロン、征陣府に呼んだらいけないの?」
「言ったでしょ、秘密の軍議だって。疾空騎団の参戦は味方にも内緒なんです」
 子供のように悪戯っぽくネムネーダは笑う。
「どうして」
「その征陣府に間者がおるからです」
 フォーニー団長が苦々しく言った。
「この六日の間に、どういう経路で機密が漏れるかを調べ申した。ここにいる将官が立てた計画を、それぞれ相手を限定して聞かせてみたのです。結果、我が軍は二度とも待ち伏せに会い、敗れてしまった」
「じゃ、そのためにわざわざ少ない部隊で!」
 驚くクリオンに、フォーニーは深くうなずいた。
「最初から内通者をあぶり出すための作戦であったのです。陛下にはお教えしておらず、申しわけござらん」
「それで、征陣府に裏切り者がいるの?」
「見当はつき申した。実戦部隊の人間ではなく、後方の者のようです。文官か従軍神官か、それとも輜重兵站の兵か、その辺りだと思うのですが」
 ふとクリオンの意識に何かが引っかかった。今の言葉、どこかで聞いたような……
「つまり私たちは、偵察と同時に、不審な人間をも探すわけですか」
 マイラの言葉で、クリオンはもう一度デジエラを見た。デジエラはうなずく。
「ネルベからシッキルギンの奥へいたる道には、残らず関所を置いている。山越えをする者を見かけたらただちに報告しろ」
「捕らえないのですか」
「泳がせる。秘密を運ぶ者には嘘を運ばせることもできる」
「なるほど」
「そちらに小屋を作らせておいた。そこを拠点に動け。街の近辺では山陰を飛べ。直ちに始めろ、決して誰にも見つかるな」
「了解」
 針の代わりに剣を選んだ女同士の、言葉のいらない絆を感じさせるやり取りを見せて、マイラはきびきびと配下の騎士たちに指示を出し始めた。デジエラがクリオンを呼ぶ。
「お分かりいただけましたか、もうすぐ勝つと」
「うん」
 その後、各軍団の団長とのすり合せを経て、軍議は終わった。将官たちはそれぞれ町へと戻り始める。クリオンはその場を立ち去る前に、もう一度マイラの背に声をかけた。
「マイラ!」
「は?」
 孤独な任務を命じられたマイラに、クリオンは自分にできる精一杯のことをした。
 微笑んだ。
「気をつけてね。何も手助けできないけど」
「……承知しております」
 そっけなく答えて、マイラは背を見せた。

 三日後、クリオンのもとにデジエラが知らせを寄越した。短くひとこと、時至れり、それだけだったが、十分だった。
 自分の務めは心得ている。兵に姿を見せること、それがすべてだ。クリオンはその晩、ソリュータやエメラダも遠ざけて、一人で剣を磨いた。
 その自室に、一人の女が入ってきた。
「レザ……」
 貴族の娘は、およそ不似合いな姿をしていた。袖と裾を絞った乗馬用の服。
 レザは、月光に照らし出された顔の半面に硬さを浮かべて言った。
「お伴します」
「お伴って……ソリュータでも来ないのに」
「わたくしは愛妾とは違います。レンダイクとやらの指示も受けてはおりません」
「でも、危険だ」
 止めようとした時、クリオンはレザのそばにもう一つ人影があることに気付いた。レザに輪をかけて音を立てない、奇妙な人物。
「クリオン陛下、わたくしからもお願い申し上げます」
「……あなたは?」
「失礼、トトと申します。レザ様にお仕えするしがない従僕めで……」
 その小柄な老人は、深く頭を下げた。
「レザ様は迷っておられます。フロール・パレスの奥様方の御言いつけに従って陛下に訴え続けるか、それとも、陛下がお教え下さった貴族の過ちを、ご自分の目でさらに見極められるか……結論を出すには、下民と貴人がすべてをさらけ出す戦場に出るしかないと、お決めになったのです」
「トトさん……あの?」
 主の内心を言いふらすようなトトの言葉を、クリオンは理解しかねて聞いた。
「それは本当に、レザがそう思ってるの?」
「このトト、はばかりながらレザ様がおむつきの頃からお仕えしております。レザ様のことなら何もかも」
「……レザ、そうなの?」
「わたくし、召使いの言うことなどいちいち気に留めておりません」
 つんと顔をそらしてそう言いつつも、レザは否定しない。どうやら二人の間には、身分の壁で隔て合いながらも言葉の外で信頼し合う、相当奇妙な主従関係があるようだった。
 それは理解できないにしても、トトの申し出はクリオンにとって助けにもなる話だった。うまくいけばレザがいうことを聞いてくれるようになる。そうでなくても、わかりにくいレザの心情をつかむ手がかりが得られるかもしれない。
「……もう一度言うけど、危険だよ」
「ストルディン家の娘は恐れません」
「じゃ、ロンとシェルカに頼んであげる。ただし、二人の言葉には絶対に従うんだ」
「……そう陛下がお命じになるのなら」
 彼女流の屈折した受け取りかただったが、そういう風にして自分を納得させているのだということは、もうクリオンにも分かった。
「夜明けに出発だよ。今日はやすんで」
「かしこまりました」
 二人は音もなく部屋を出ていった。

 翌朝、ジングリット軍は全軍八万を二手にわけて出撃した。
 シッキルギンの山々から望見した軍勢のひとつはいかにも大勢で、太陽の下に騎兵の槍先が波頭のように輝き、まるで幅の広い大河のように見えた。中軍には真紅の大旗が翻る。異形の水獣を踏みつける戦乙女の意匠、皇帝旗である。
 もうひとつの軍勢はそれより大分少なく、鉄甲の輝きもなく、革鎧のくすんだ色彩で泥流のように見えた。

 6.

「のろしが上がった!」
 山頂の大樹に登っていた物見の兵が叫んだ。キナルは視線を飛ばす。
 連なる山並みのあちこちから、黄土色の煙の柱が立ち上っている。ジングリット軍を攪乱するためにとんでもない方向からも上がっていたが、それにまどわされることなく、キナルは内容を読み取った。
 きびすを返して斜面を降りる。少し下に、山の稜線に隠れるようにして、ミゲンドラ本軍が臨戦態勢で待機していた。
 旗差物に囲まれた中央の輦台に近づくと、キナルは言った。
「動きました。事前の通報通りです。やはり軍を二手にわけ、すぐそこの谷に本隊を通すつもりのようです。この先の平原に我らが陣取っていると思っているに違いありません」
「別動隊は?」
 戦いの前の常で、フランボニー侯爵がそわそわしながら聞いた。
「この背後を抜けるようです。横手から奇襲する気でしょうな。しかし我が軍はとうにこちらへ移っている。ご心配は無用です」
「そうか。いや、貴殿の言うとおりに昨夜のうちに動いておいてよかった。今回も虚兵をもって実敵を惑わすことができたわけですな」
 侯爵はほっとしたように言った。
 これがミゲンドラ軍の作戦だった。敵の斥候にわざと姿を見せ、本軍が到着する前に別の有利な地点に移る。敵の予想以上の大軍を擁しているように見せかけることができる。
 もちろん、敵の正確な動きがわかっていなければ、数を見破られて窮地に陥る恐れがある。その情報をジングリット軍からひそかに入手できたからこそ、キナルはこの手を使うことにしたのだ。
「前方の谷間を通る軍は数多く、皇帝旗も立っております。後ろの谷を通る軍の規模はだいぶ劣るようです」
「少しは気を利かせたつもりなのではありませぬか。奴らはこれまで、わざと皇帝を別動隊に隠して、我らに本軍を襲わせようとしていた。それなのに別動隊ばかりが狙われる。だから皇帝旗を立てて、今度こそ我らを本軍に引きつけようとしているのでしょう」
 侯爵が付け焼刃の参謀ぶりを披露してみせる。
「とすれば、やはり皇帝は別動隊にいる。我等はそちらを叩けばよろしい」
「と、思わせるはかりごとです」
「なんと?」
 驚く侯爵に、キナルは得意げに弁じてみせた。
「そう通報があったのです。今度ばかりは、皇帝は本軍にいるのです。今までのような小競り合いでは埒が明かないので、ほとんどの兵力を集めた上で自ら率いて出てきた。迷走した挙句、正攻法に頼ったわけです」
「そ、それではどうするのだ。まともに戦えば勝ち目はないというのに」
 見せかけの自信をあっさり捨ててうろたえる侯爵に、キナルは憫笑を向けた。
「お忘れですか。もともと我々は、その本軍を叩くためにこの高台に移ったのです。そろそろけりをつけたい頃合ですからね。皇帝がどこにいるかは、もう問題ではないのです」
「そ、そうか」
 侯爵はなんとか落ち着きを取り戻したようだった。
 その時、ずっと沈黙を守っていた輦台が、短い言葉を出した。
「それが済めば、帰れるの?」
 キナルはぎょっとした。彼は初めて、この隠された「姫」の声を聞いたのだ。
 しかし、あわてはしない。素早く頭を巡らせて輦台に答える。
「もう少しかかります。まだテルーニュに向かわねばなりませぬゆえ」
「どっちが目的なの?」
 キナルは言葉に詰まった。
 ミゲンドラ軍はジングリット軍を倒すために、テルーニュへ向かうはずだった。ここで倒してしまったらテルーニュへ行く意味はないのである。だが侯爵は共謀者としてその事実を極力ごまかし、配下の軍隊も連勝に酔うあまり気付かないでいる。ジングリット軍に勝ったら凱旋と称してこのままテルーニュに入り、なし崩しに王座を奪うというのがキナルのたくらみだった。
 手段と目的を巧妙に入れ替えたその計画を、「姫」はずばりと突いたのだ。
 いや待て、とキナルは自分に言い聞かせる。これはチャンスだ。侯爵よりさらに身分の高い「姫」を直接抱きこむことができれば、後々かなり有利になる。
「姫様を守るために、戦うのです」
 キナルは注意深く言った。
「ジングリットがもし勝ったなら、皇帝はシッキルギンの貴族をも排斥するでしょう。姫様にも危険が及ぶのですよ。まずは勝つことをお考えあれ。他のことはその後でよろしいでしょう」
「……うん」
 素直な返事が聞こえた。
 よし、とキナルはほくそ笑む。しかし一体、この「姫」は何歳なのだろう? 今の声はかなり若かったが……
 ごほん、と侯爵が咳払いした。
「キナル殿、困りますな。姫様へのお話は私を通していただかなければ」
 あまり強い態度も取れずに、迷惑げな顔を向けるだけで言う。キナルはしらじらしく頭を下げた。
「これは失礼を……では、迎撃の準備もありますので、私は失礼いたします」
「頼みますぞ。さ、姫様。姫様にも支度をしていただかなくては……」
 輦台から離れると、キナルはミゲンドラ軍の将軍たちのほうに向かった。従卒がやってきてそばをついて歩く。
「各部隊、配置完了しました。稜線に潜んでジングリット軍を待っております」
「ご苦労。昨夜の命令通り、我が軍は高台の優勢を利して奴らの本軍を襲う。後ろを別動隊が通るが、手を出す必要はない。見つからないように注意だけしろ」
「もし見つかったら、どういたしましょう?」
「騎兵が山に登れるか?」
 軽くいなして、キナルは辺りを見まわした。
「リーフーはどこだ」
「リーフー、と申されますと……」
「おれの部下だ」
 キナルはリーフー以外の部下を引き連れず、単身でミゲンドラ軍に乗りこんでいる。この従卒もミゲンドラの兵なので、以心伝心というわけにはいかない。
「ああ、それなら、何やら偵察に出るとかで、お一人で山を降りられましたが……」
「山を降りた? もうすぐ開戦だというのに……」
 一瞬顔をしかめたものの、キナルはすぐに気を取りなおした。
「探す時間はないな。……まあよい、今はあいつの手助けは不要だ」
 キナルは、従卒に気付かれないようにつぶやいた。
「戦勝の宴にて愛でてやる」


「敵襲!」
 山肌に沿った狭い道を行くジングリット軍の軍列で、一人の兵士が絶叫した。
 反射的に首を巡らせた他の兵士たちは、急峻な山肌を土煙を立てて滑り落ちてくるものを見て、次々に同じ叫びを上げる。
「敵襲ーッ!」「敵襲、左ッ!」「多いぞ!」
 まっすぐにこちらを向いた丸太が突っ込んできて、数騎をひき潰し、肉塊に変えた。それを皮切りに、何十本もの丸太が軍列に突っ込んできた。怒号と悲鳴が巻き起こり、軍列が乱れる。
 その攻撃は、長く伸びたジングリット軍のほぼ中央、クリオンのいる部隊のすぐ後ろで始まった。クリオンは首をすくめて山肌を見上げる。
「来たな」
「予想通りですね」
 かたわらに馬を並べるネムネーダが緊張した笑みを見せる。
「それじゃ、手はず通りに頼むよ」
「任せてください。おれたち遊撃連隊は逃げ足も一級品です」
「逃げるだけなら彼らも負けないと思うけどね」
 クリオンは列の先を眺める。今回は貴族たちが指揮する第六軍と第七軍を、前衛と殿軍に置いている。いずれも重要な位置だが、わけあってそうしたのだ。その彼らは、中軍で戦端が開かれたと見るや、一斉に前方と後方に走り出している。
「ありゃりゃ、逃げろとは言ったけど、あそこまで速いとは……」
「遊撃連隊も顔負けだね」
 最後の冗談を口にすると、クリオンは振り返った。
「走るよ、キオラ、レザ」
 始まった戦いに顔をひきつらせた二人、特に初めてのレザが、言葉もなく手綱を握りなおす。
 ジングリット軍が分断状態で一斉に流れ始めるのを見て、山上のミゲンドラ軍の指揮官たちは会心の笑みを浮かべた。
「丸太が効いたぞ。次は弓だ」「全隊、放て!」
 斜面のそこかしこから姿を現した歩兵たちが、一斉に弓を撃ち放った。弦の弾ける響きがたちまち重なり合い、数千の矢が山肌の木々を越えて、眼下に連なる鉄甲の輝きに向けて飛んで行く。
 ヒーウ、ヒーウ、と女の泣き声のような音を立てて降り注ぐ弓に、兵士より先に馬たちが驚き、棹立ちになって暴れまわる。
 そのほうぼうに、続けざまに雹やかまいたちが襲いかかった。ミゲンドラ軍にも調律剣の使い手はいるのだ。その威力は彼らの君主ほど度外れたものではなかったが、各所で数十人の敵兵を打ち倒した。ジングリット軍はもはや、恐慌状態と言っていい。
「撃ち方やめーえ!」「抜剣、突撃!」「突撃ーッ!」
 弓を放り出したミゲンドラ兵たちは、剣を抜くと、歓声を上げて斜面を駆け下り始めた。まばらに生える針葉樹の間を、軍靴を滑らせてまろぶように走る。
 ――捕虜を作るな、殺せるだけ殺せ! 敵は数多いぞ!
 聖霊が伝える、びりびりと響くような部隊指揮官の命令を受けて、兵士たちはジングリット軍に斬りかかった。騎馬の足を斬り、首を斬り、腹を刺し、たまに斬り返されてもまったくひるまず再び馬を刺し、馬を斬り、馬を殺す。
 奇襲に酔った彼らがおかしいと気付くまでに、かなりの時間がたっていた。
「おい、妙だぞ」
 周りを見まわした兵士が、不思議そうに近くの味方に話しかけた。
「馬ばっかりじゃないか。それに、なんだこれは……空の鎧? 鎧だけを鞍に立てていたのか?」
 騎兵の死体も確かにある。だが、血の匂いをまとって累々と積み重なっているのは、ほとんどが馬の、馬だけの死体だった。その周囲には、ばらばらになった鋼の甲冑の破片。
「き、騎兵じゃないぞ! 光って見えたのは鎧だけだ! おい、早く隊長に知らせないと」
 不気味さを感じながら隣の味方をつかんだ兵士は、戸惑った。見たことのない顔、つまり自分の隊の仲間ではない兵士だった。
「誰だおまえ?」
「おまえこそ誰だ? おれは二十七隊のもんだぞ」
「おれは十六隊だ。うちの隊長はどこだ?」
「知るか、勝手に探せよ!」
 気がつけば、周りじゅうで同じような混乱の声が上がっていた。伸び続けるジングリット軍の列に合わせて薄く広がったため、隊のまとまりが崩れているのだ。
 それが逆転の始まりだった。
「て、敵襲ーッ!」
 敵襲もなにも今まで敵と戦っていたつもりだったミゲンドラ兵は、その叫びに一瞬戸惑った。だが、叫びの聞こえた背後を見て、愕然となった。
 今自分たちが降りてきたばかりの稜線上に、自軍の数倍、それこそ無数に思えるような大部隊の姿を見出したのだ。
「な、なんで後ろから!」「まさか!」
 一人の兵士が血の気の失せた顔で叫んだ。
「べ、別動隊だ! 山の反対側にいた敵軍だ!」
「なんでそれが山の上にいるんだ? ジングリット軍は騎兵のはずだろう!」
「わかるわけねえよ!」
 次の瞬間、ミゲンドラ兵の頭上に、空も曇るような凄まじい弓の斉射が降り注ぎ、人形のように打ち倒していった。
「全隊停止! 反転!」
 谷の終わりに近づいていた遊撃連隊は、ネムネーダの号令で整然と止まった。彼は喜色を浮かべてクリオンに声をかける。
「陛下、あれを!」
 続々と馬首を返す騎兵たちの中で、クリオンも見た。追いすがるミゲンドラ兵が、背後からの攻撃を受けて右往左往しているのだ。
 突如、稜線上の一角から、弾けるように数十の火の玉が吹き出した。高い山なりの軌道を取って、ミゲンドラ軍の周辺の森の中に落下したそれは、ちろちろと炎の舌を上げ、やがて凄まじい火災の陣を作り上げた。生きながら焼かれる兵士たちの苦鳴を、いにしえの町ホンジョで三万八千の民を灰にした火災霊、『ロウバーヌ』の哄笑が圧殺する。
「成功です! 将軍が間に合いました!」
「そうか……」
 クリオンは、今や完全に立場の逆転したミゲンドラ軍を見つめながらつぶやいた。
 そう、最初から彼らを包囲するのが目的だったのだ。
 敵がクリオンを狙っていることはわかっていた。だが彼らは常に攻撃に有利な場所に展開する。ジングリットの大軍は大軍たりえないことが判明していたから、まともに迎え撃てば少なからぬ損害が出る。
 だから、大軍自体をはりぼてにした。
 きらびやかな鎧や槍を見せつけ、皇帝旗を振りかざして、いかにも総兵力に見えるよう装った本軍は、実は外見の十分の一の兵力も備えていなかった。兵士たちは、騎兵も含めたほとんどが、別動隊に回っていたのだ。馬から下り、弱い歩兵の革鎧を身につけ、密集隊形を取って陣形を縮小する努力までして、敵の目を逸らしたのである。
 極力目立たないように山の裏まで来ると、ミゲンドラ軍が本隊に襲いかかるのに間に合うよう、全力で斜面を駆け上った。重い鋼の鎧を捨てたのはそのためでもあった。いったん稜線を押さえてしまえば、攻守は所を変える。高いところに陣取った軍が有利なのは、ミゲンドラ軍自身が証明してみせたことだ。
 そして、その通りになった。ミゲンドラ軍は押し潰されつつある。さらに彼らには逃げ道がない。街道の前と後ろを押さえるのは分裂したジングリット軍であり、その主力は、戦列の外側ではなく、内側に向いているのだ。
 クリオンの周りを、今までの皇帝直衛の任務から解き放たれた第一軍遊撃連隊が、怒濤のように駆け抜けていく。その数は千に満たないが、狭い街道では数より個々の強さが物を言う。
 ミゲンドラ軍の苦難は、彼ら自身の不手際によって頂点に達した。部隊が入り混じる混乱から立ち直る間がなかったのだ。聖霊による指揮官の指示は一定の距離までしか届かない。揉み合いに押し流されて指示が受け取れなくなる兵士が続出し、間近にいる別の味方指揮官の指示でさらに混乱し、どちらに敵がいるのかもわからないまま、ジングリット高速騎兵の突撃で無力に蹴散らされていく。
「決着したな……」
 クリオンは、秒単位で積み重ねられていく無数の死に疲れ切りながら、そばのシェルカに合図した。
「連れて来て」
「わかりました。勝っているはずの我が軍から逃げ出す人間ですね」
 それはすでに目星をつけてあった。やがて、数人の貴族に付き添われた男が、シェルカの先導でやってきた。漆黒の寛衣の胸に赤、青、金、白、黒の五星の護符を身につけている。イフラ教会の従軍神官の衣装である。
 下馬した彼らが膝をつくと、シェルカが言った。
「エムディン・トラスク様です。陣列を離れようとしていました」
「予が、皇帝だ」
 見まごうはずもない自分たちの主の姿を目にして、貴族たちは少し躊躇のていだったが、顔を見合わせつつ言った。
「トラスク神官殿は我らの領民に祝福を授けてくださるお方です。今も戦場の霊を弔うために、五星の見える方角を調べに行くところでございましたが、なにか……」
「最初に言っておく。おまえたちが彼を弁護するなら、トラスク神官と同じ扱いをするが、よいか」
「それは……もちろん」
 貴族たちは、曖昧な顔でうなずいた。その反応を見て、彼らは本当のことを知らないのかもしれないな、とクリオンは思った。
「では、聞く。――トラスク、ジングリットを売ったのはなぜか、答えよ」
 貴族たちは殴られたようによろめいた。当のトラスクだけは薄ら笑いを浮かべ、口を開いた。
「なんのことか、私にはわかりかねますが……」
「はっきり言おう。我が軍の機密をミゲンドラに伝え、予の部隊を狙わせるようにしたのはなぜかと聞いているんだ」
「そのような不埒なこと、私は――」
「していないというなら、なぜ二日前の晩に、町外れの丘を越えてミゲンドラの密使に会いに行ったのだ」
 聖職者らしからぬたくましい体つきをした壮年の神官は、ゆっくりと表情を変えた。唇がつり上がる。
「そこまでご存知とは……そう言えばあの夜、羽音を聞いたような気がしたが、さては空から」
「認めたな。シェルカ、彼を」
 クリオンが視線を逸らしたとき、いきなりトラスクが跳ねた。完全に予想外の動きだった。クリオンが身動きする間もなく馬上に飛び乗り、華奢な首に腕を回して、太い腕で締め上げる。
「し、神官殿?」
 クリオン本人よりもうろたえて、貴族たちが叫んだ。トラスクが一喝する。
「寄るな、俗身のともがら! 寄らばそなたたちの主が八苦の冥道に落ちるぞ!」
 金縛りにされたように動きを止める貴族たちとシェルカを横目で見ながら、トラスクはクリオンの耳にささやいた。
「最初からこうしたほうがよかったな。年寄りの忠告などあてにしたのが間違っていた」
「なに……を……」
「迂遠だったと言っているのだ。貴様に見破られたあの方法が」
 その一言で斬首になる不敬な呼びかたをしながら、トラスクは感情のない声で言った。
「二日前から露見していたというなら、私が今朝知らせたジングリット軍の陣立ても、吹きこまれた嘘だったわけだ。道理でこの大勝。……貴様にはどうやら、神罰をもはねのける力があるようだな」
「やっぱり……教会の差し金か!」
「いかにも。皇帝クリオン、貴様はイフラの神に災いをもたらす」
 自分だけではなくイフラ教全体に類が及ぶ台詞を、神官はこともなげに吐いた。その意味は明らかだった。
「五星に呪われよ、クリオン」
 神官の腕に殺意と豪力が加わった。
 その瞬間、クリオンの腰から操る者もない剣が鞘走った。黒い封球が蒼く明滅している。
 聖霊の力によって氷の鋭さを備えた刃が、チーズのようにトラスクの腕を切断した。
「ぐおっ!」
 のけぞるトラスクの胸から逃れると、震えるレイピアを宙につかんで、クリオンは身を翻しざま、力いっぱい突き上げた。トラスクの下腹から首の後ろまで鋭刀が貫き抜ける。
「せ、聖霊にまで嘉されるか、邪王よ……」
 信じられないことに、常人なら即死のその状態で、トラスクはまだ呪詛の声を上げた。
「やはり……ただの王では……」
 恐ろしいまでの執念を振るって残った手をクリオンに向ける。
 今度こそ電光のように跳躍したシェルカが、その首を斬り撥ねた。
「いふ……ら」 
 地面に転がった首は、微笑していた。白茶けた顔でそれを見下ろしたクリオンは、一つつばを飲んで、貴族たちに向き直った。
「おまえたちも……か?」
「め、滅相もございませぬ!」
 思いきり手のひらを差し上げながら、貴族たちは首を振る。しかしクリオンは問い詰めた。
「何も知らないと?」
「は、はい! 我らは本当に、神官殿とは礼拝のときだけの付き合いで……」
「残念だけど、そうでないことはわかっている」
 クリオンは沈んだ眼差しで彼らを見つめた。
「おまえたちは、彼があやしいとうすうす気付いていたはずだ。やましくない神官が、料理や酒の付け届けを貴族にする理由など、ないのだから」
「それは……」
「処刑したハルナス伯が口にしていた。トラスクのおかげで不法な贅沢ができると。多分トラスクは、そうやって貴族の歓心を買い、自分の怪しい行動に見て見ぬふりをさせていたんだ。違うか」
 言い逃れができないことを悟って、貴族たちは口をつぐむ。
「そうなんだな。……おまえたちの爵位を取り上げる。シェルカ、彼らに縄を」
 シェルカと憲兵の手で貴族たちが引きたてられて行くと、クリオンは周りを見まわした。固唾を飲む兵士たちの間に、キオラとレザの姿があった。
 本来持っていない威厳を見せ続けた疲れもあって、クリオンはざらついた口調で言った。
「レザ、わかった?」
「……」
「貴族の身勝手は、こんなことまで引き起こすんだよ。もちろん、芸術や文化は彼らの身勝手から産まれたりもするんだけど……歯止めがなさすぎるんだ」
 享楽に溺れた貴族の怠慢が、クリオンに死を招きかけた。その事実は、レザのあらゆる抗弁を縛った。彼女は弱々しく、引かれていく貴族たちと、命を惜しまず戦っている兵士たちとを見比べる。
「よく考えて」
 クリオンはそう言うと、もう一度戦いの場へ目を移した。
 そして眉をひそめた。
「なんだ? ……あれ」
 二人が同じようにそちらを見る。山頂の青空を背景に、白いくもの巣のようなものが広がっていた。放射状に広がった無数の糸が、突然向きを変えて、地上に突き刺さる。
 それがなんなのかクリオンが知ったのは、音を聞いてからだった。
 巨大な石臼を回すような轟きが、空全体から降ってきた。クリオンは驚愕する。
「あれは……聖霊攻撃!」
 白い糸は雷だった。明るい空を背景にしたせいで細く見えただけなのだ。雲一つない晴天にそんなものが駆け巡る現象は、聖霊の力によるとしか考えられない。
「ミゲンドラの王族だ! 倒してなかったのか!」
 数えられる限界を遥かに超えた数多くの雷挺が、ひっきりなしに打ち上げられ、降り注ぐ。クリオンは絶句した。落雷は、ジングリット軍だけでなく、まだ残っているミゲンドラ軍の中にまで降っているのだ。
「見境いなしだ。いったい何が……」
 その時、クリオンが垂らしたままの腕から、音を伴わない言葉が伝わってきた。
『我を解き放て』
「――『ズヴォルニク』!」
 忘れていた。クリオンのレイピアに宿る聖霊は、今しがたまたもや、主の呼びかけなしに発現したのだ。目覚めている。
『猛き同胞の力を感じる。手合わせをしよう。ジングの裔よ、我を振るえ』
「だめだ。おまえだって味方を巻き添えに攻撃するじゃないか!」
『今は汝をからかう気はない。戦いたいだけだ』
 何事かと見守る周囲の視線の中で、クリオンは必死に聖霊を抑えた。
「悪気がなくたって、この位置からじゃ味方をよけられないだろう!」
『我はうずいているのだ。力を放ちたい』
「おまえの頼みを聞いている場合じゃない、眠れ!」
『我こそ汝の命に従ういわれはない。我は我の意思でここに在るだけだ。放たぬというなら、こう――』
 凄まじい思念の波がほとばしった。耳ではなく頭の中を直接貫く咆哮。獅子に似て、獅子とは比べ物にならないほどまがまがしい。それはまさに荒海の轟きそのもの。
 クリオンの周囲五百ヤードにいた人間が、敵と味方、臣下とそれ以外の区別なく、苦痛に頭を押さえた。部隊指揮を伝達する並みの聖霊の呼びかけとは次元の違う、恐ろしいまでに凶暴な思念の津波だった。
『――応えたであろう』
「ず、ズヴォルニク、おまえは……」
『このまま続けるもよい。これはこれで気晴らしになる』
「気晴らし? これが――」
 その時クリオンが考えを閃かせたのは、偶然か幸運だったろうか。いや、どちらでもない。それはやはり、王者の素質が彼にあるためだったかもしれない。
「叫ぶだけでも我慢できるんだな?」
『……人の言葉で言えば、晩餐をパン一切れで済ませるようなものだが』
「よし、叫べ!」
 クリオンは稜線に視線を走らせた。あの王族に最も近いところにいる調律剣の使い手は……
「『ロウバーヌ』だ! デジエラを呼べ!」
『きやつか。互いに火と水、あまり馴染む相手でもないが……こじ開けるのも面白い』
 言うが早いか、『ズヴォルニク』は再び吠えた。しかし今度の叫びは、一瞬周囲の人間を打っただけで、すぐに沈静化した。構えているクリオンにだけはわかる。広げればそれだけで武器になるような叫びを、聖霊は針の先のように絞りこんで、一リーグ近く離れた山の上まで飛ばしているのだ。
『聞け、ロウバーヌ。今度の我が使い手は、汝と結ぶことを欲している』
『……閉じられた我が心を叩くのは、誰か』
『我、海王ズヴォルニク。聞けよ、明王の炎』
『いくとせぶりか。久しいな』
 クリオンは信じられない思いで聞いた。『ロウバーヌ』も個性を持っていたのだ。しかも、人がほとんど点にしか見えない山の上から、はっきりと思念が届いている。これは通常の聖霊の声が届く距離の十倍近い。
「『ズヴォルニク』、予の声を乗せろ! デジエラ、何が起こった?」
『ロウバーヌ、使い手の声を移そう。デジエラ、何が起こった?』
『我は炎なり。炎は水にて埋め消され、水は炎にて大気に溶ける。心得よ、どちらが勝るというわけではない。これは我の戯れだ……』
『ズヴォルニク』への対抗意識を感じさせる『ロウバーヌ』の声に続いて、聞き覚えのある肉声が返ってきた。
「陛下? これはどうしたことですか?」
 キオラやレザまでもが顔を上げる。強すぎる思念が漏れている。それに構う余裕もなく、クリオンは依然として荒れ狂っている雷を指して聞いた。
「あれは何が起こってるの? 味方まで攻撃している!」
「山頂で孤立した王族です!」
「急いで倒すんだ。下はもういいから、兵力を集中して!」
「数を投入できる地形ではありません。それに、先ほどフォーニー団長が負傷しました。私でも近づけません!」
「デジエラでも?」
 人海戦術が無理なら高級指揮官による一撃必殺を狙うしかないが、全軍最強のデジエラでも近づけないというのだ。王族が強いことはわかっていたが、これほどとは。
「なんなんだ、あの聖霊は!」
「間違いなく伝説級の聖霊です。もしかしたら雷天笏『シリンガシュート』かもしれません」
 デジエラが告げた名に、レイピアが大きく震えた。
『シリンガシュート……あれが』
「知っているのか?」
『知己はない。だが名は聞く。そは天王、失われた島・陰土にて、ひとつの岩山を呑む巨体の竜巻から産まれ、のちに人の娘と心を通じ、長くその裔だけに従った。主の力に関わりなく、ただ血のみに従う、奇矯な同胞だ』
「そんな古い聖霊が、ミゲンドラ王家に……」
 おそらく『ズヴォルニク』に匹敵するヘイリン数の聖霊だろう。そんな二つの聖霊がまともに争ったら、この地から生けるものがいなくなる。
「『ズヴォルニク』、説得するんだ! おまえだって予が死んだらここで土に埋もれてしまうんだぞ! 落ちつかせろ!」
『不可能なり。我の声とて地の果てまで届くわけではない』
 遠すぎると言うことか。ならば――
「『ロウバーヌ』! 聞こえているだろう、予の声をおまえが送ってくれ!』
『血も力も分からぬ使い手に従ういわれはない』
「我の声に応えよ『ロウバーヌ』。いざや、聞かん?」
 主のデジエラの命令だった。若干不服そうな聖霊の思念が漏れ聞こえた。
『……諾』
 聖霊による言葉の掛け橋! 兵備を司る工武廠のベクテルなどが聞いたら目の色を変えそうな奇跡的な手順を経て、二リーグ近く離れた人間に、クリオンは話しかけた。
「『シリンガシュート』よ、聞いてくれ。予はジングリット皇帝クリオン一世、ジングの血を引き、海王『ズヴォルニク』を御するものだ。おまえの主を呼んでくれ」
『……敵?』
 通じた。短いが確かに思念が返ってきた。クリオンは祈るように語りかける。
「戦いを収めたいんだ。ミゲンドラがどんな理由でいくさを起こしたのか、予はわからない。それを教えてくれ」
『……ジングリットは、我が主を害す。それとも害さぬ?』
『シリンガシュート』の声が奇妙に舌足らずなことに、クリオンは気付いた。そういえば『ロウバーヌ』の声は主と同じように峻厳で理知的であり、『ズヴォルニク』も自分に応えて柔軟な応答を返すようになっているようだ。
 もしかしたら、聖霊の個性は主に似るのか?
「……『シリンガシュート』、おまえの主は、どんな人なんだ」
 それは戦場で敵将に話しかける言葉としては、およそ不似合いだったかもしれない。デジエラ、聖霊たち、それに周囲の人間までもが示した戸惑いの反応をクリオンは感じる。
 しかしその中に、ただ一つ異なる震えがあるのにクリオンは気付いた。思わず振り向いた先には、キオラがいた。
「キオラ……?」
「……ボク、知ってます。やっぱりあれは……」
 馬を寄せたキオラが、『ズヴォルニク』にしがみついた。
「チェル姫! チェル姫でしょう! ボクです、テルーニュで会ったキオラです!」
「……キオラさま?」
 それは間違いなく、『シリンガシュート』の主の声だったが、クリオンは驚きを隠せなかった。女の子! しかも、痛々しいほど幼い。
「やっぱりチェル姫! ねえ、どうしたんですか! 姫がどうしてこんないくさを起こしたの?」
「……だって、ジングリットの皇帝は貴族をみんな殺しちゃうんでしょう?」
 皮肉ではなく、純粋なおびえに満ちた声だった。誰もが絶句した。そんな理由で――いや、そんなただ一人の娘の恐怖だけで、十万を越える人間が争ったこのいくさが、引き起こされたのか。
「チェル、怖いの。だから『シリンガシュート』でみんなやっつけちゃうの」
「そんなことないです! クリオンお兄さまは皆殺しなんてしない! チェル姫、どうか攻撃を止めて!」
「……うそ。キナルさまは言ったもの。クリオン皇帝は怖い人だって」
「き、キナルが?」
 思いがけないところで従兄弟の名を聞いて、キオラが絶句した。その間に、チェル姫の声は遠ざかる。
「キオラさまもクリオン皇帝と仲がいいんでしょう。チェル、信じられない……」
「待って、姫! 待って!」
 その時だった。『ズヴォルニク』にもう一本の手が添えられたのは。
「姫、落ちつきください。皇帝陛下は姫が考えるような野蛮なお方ではありません」
「レザ……」
 クリオンは呆然とする。
 美しい大貴族の娘は、決然とした顔で語りかけていた。
「このいくさはミゲンドラが軍を起こしたからこそ産まれたもの。陛下がお望みになったことではないのです」
「……誰?」
 再び返ってきた声に、レザは誇りをこめて名乗った。
「ジングリット帝国ストルディン公爵家息女、前帝ゼマント四世陛下の第十三皇妃、レザ・ストルディンにございます」
「ジングリットの貴族、なの?」
「水を与えられずとも、薔薇の名は薔薇」
「殺されてないの?」
「切花でも咲くことはできます」
「……よくわかんない。でも、わかんないしゃべりかたって、貴族の人がよくする……」
 クリオンのそばまで後退していたネムネーダが、こんな時だというのに、小声で笑った。
「多分貴族同士でもわからんのじゃないですかね」
 横目でちらりとにらんでから、レザは語気強く言った。
「公爵家の名にかけて保証します。皇帝陛下は無益な戦いを好みません。ですから姫も剣をお収め下さい」
「……貴族の人って、うそもよくつくでしょう」
「姫!」
 クリオンがびくっと震えたほど、レザの言葉は強かった。
「あなたはお国で何を見ておられたのですか! どうせ部屋にこもってばかりで、外の世界のことや、民のこと、人のこと、何も見ていなかったのでしょう!」
 それがレザ自身を指す言葉であることに、クリオンは気付く。
「何がまことで何がうそか、誰が悪で誰が善なのか、わからないとおっしゃるならそれは姫御自身の怠慢です! それこそ貴族の害なのです! 目をお開きなさい、耳で聞きなさい!」
 叱責に近い声でレザは叫ぶ。その迫力に他の人間は圧倒される。まかり間違えば姫が理性を失って暴走する。誰が口を挟めるというのか。
 息詰まる時間の後、すねたような声が聞こえた。
「……死んじゃったおかあさまみたい……」
「お母上も王族なら、同じことをおっしゃったはずです。奸悪な臣下にだまされでもしない限り」
 巧みにチェル姫を導いて、レザはまた口調を変え、柔らかく言った。
「これ以上戦えば、姫を憎む人が増えてしまいます。それはおいやでしょう?」
「いや」
「さあ、一度こちらへおいで下さい。姫のことはわたくしがお護りいたしますから」
「……うん……」
 小さなうなずきが聞こえた。それとともに、『ズヴォルニク』の封球も蒼い光を失った。
「眠りについた……」
 レイピアを収めてから、クリオンは心の底から感動した顔で、レザを見つめた。
「レザ……よくあの子の心がわかったね」
「人は鏡を嫌う時もあります」
 そのたとえはよくわかった。
「自分と同じだと思ったんだね。でも、立派だったよ」
「腹が立っただけですわ」
 ゆっくりと、やがて盛大に、クリオンの周囲で歓声が上がり始めた。戦いの終わりを喜ぶ声。レザをたたえる兵士たちの声。
 谷に響きあう叫びに包まれたレザは、落ちつきなく周囲を見まわして、少し赤い顔でうつむいた。


                            ―― 後編へ ――



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