次へ 戻る メニューへ  皇帝陛下は15歳!

 第3話 前編

 1.

 午後の陽の差し込む寝室で、娘が自慰をしている。
 広い寝台の上に体をくの字に横たえ、片手を秘部に差し込んでわずかに動かしている。もう片方の手は大きな枕をきつく抱く。それらの有様はうっすらとしか見えていない。全裸だが、紗のシーツをかぶっている。
「……」
 目を閉じ、整った眉をかすかにひそめている。あえぎ声ひとつ漏らさないが、ヘアバンドで押さえた前髪の下で、額に汗が光っているし、時折ぴくりとつま先を動かすから、快感を覚えていることはわかる。
 だが、あくまでも乱れない。気品すら漂わせている。つつましく上品な淫戯。
 シーツの下で指の動きがせわしなくなった。娘の背が、胎児のように丸まっていく。じきに小さく震えた。
「クッ……」
 その瞬間だけ娘は声を漏らし、かさっと脚を動かした。
「……」
 体を固めて余韻を味わう。それから、ゆるやかに体を伸ばした。
 ドアが無造作に開けられた。
「相変わらず几帳面なことですね、レザ」
 レザと呼ばれた娘は、さっとシーツをかき寄せた。重なったひだに体を隠して、戸口を見据える。唇を小さく動かして、相手の名を口にする。
「……ニュクス様」
 古風なドレス姿の、髪をきつく結い上げた女性が立っていた。レザよりかなり年長、おそらくは四十代の女である。
「毎日午後のお稽古を欠かさないとは、熱心だこと。――陛下のお心もわからないのに」
 無遠慮にレザに近寄りながら、ニュクスは馬鹿にしたように言った。ただ、その動作にあからさまな乱暴さはない。大きく広がったフープスカートを床に滑らせるようにして、音もなく歩いている。
 寝台のそばに立つと、ニュクスは冷然とレザを見下ろした。
「それとも、単にみだらなだけかしら」
 レザは切れ長の目に怒りを浮かべて、ニュクスを見返した。
「……務めを果たしているだけですわ」
「それは確かに私たち寵姫の勤めだわ。陛下のご寵愛をいただくためのお稽古はね。でも、陛下の代が変わってしまったのに、なんの意味があるのかしら? このフロール・パレスは、ゼマント様だけのものだったのに」
「……」
「陛下に授かった子をすべて失った私たちには、もはやなんの力もない」
 ニュクスは平板な低い声で続ける。レザに向けた内容ではない。その怨嗟だけがレザに向いている。
「でも、あなたは違う。あなただけはゼマント様のお情けを受けていない。その気になれば今上クリオン様に取り入ることができる……」
 ニュクスが手を伸ばし、レザの肩に触れる。張りを失ったたるんだ手で、十九歳のレザのみずみずしい肌に触れる。レザは嫌悪に身をすくめる。
「この若い体でね。それを願っているのでしょう」
「……いいえ」
 虫のように首に近づく手を注意深くとりのけて、レザは言った。
「陛下をお慕いしていません。それに、ニュクス様だけのことでも」
「忘れられているのが?」
「貴族は皆ないがしろにされています。むしろ私は……」
 ニュクスはレザの表情を読み取り、つぶやく。
「陛下を、お恨みしていると」
「……」
「そう」
 ニュクスはうなずいた。レザの気づかぬ一瞬、その顔に狡猾な笑みが浮いた。
「ならば示しなさい。陛下の下に参じて」
「……」
「お願いするのです。フロール・パレスの十三名の女たち、今上の母にも等しい私たちが安んぜられるように」
「……」
「わかりましたか?」
 ニュクスが糸のように目を細めてにらんだ。レザは少し身震いし、顔をそらしてうなずいた。
「よろしい」
 満足げにうなずいて、ニュクスは身を翻した。レザは小さくため息をつく。
 だがニュクスは、戸口でもう一度振り返った。
「抜け駆けはいけませんよ。――心に留め置きなさい」
 それだけ言って廊下に消えた。
 残されたレザは、ニュクスの最後の一言の氷のような冷たさに体を縮めていたが、すぐに力を抜いた。指先に目を止める。
 先ほどの指戯で湿っている。胸元に集めていたシーツを下ろして、枕元の呼び鈴を振った。
「只今」
 隣室から黒服に身を固めた老執事が現われた。彼も足音を一切立てない。影のように寝台のそばに控える。
 すでに彼は用件を察していた。捧げ持った盆に水差しとボウル、手拭きを用意している。
 彼の前で、レザはためらいなく床に降りた。輝くような裸身を惜しげもなくさらして、静かに立つ。手足は長く、髪も腰まである。その色は群青。
「お清めいたします」
 そのまま、老人に体を任せた。指先から、腕も腹も、陰りなく剃った股間まで、丁寧に拭かせる。手拭きを浸したのは薔薇の水。あるともない汗の匂いが打ち消され、かぐわしい芳香が立ち上る。
 ニュクスに対して見せた羞恥はかけらも表さない。彼女は執事の老人を人間として見ていない。彼女は人を峻別する。薔薇の水で体を拭かせることのできる者と、拭くよう躾けられた者を。この豪奢で空虚な館に住む者と、住まわされている者を。
 レザ・ストルディン。ジングリットで一、二の格式を争う大貴族、ストルディン公爵のたった一人の娘。貴人の中の貴人。生まれついての姫。
 その矜持は悲痛なほど高い。前帝に見初められてこの館に招かれ、その愛を受けぬままグレンデルベルト大禍で前帝を失い、同じ時に父を失って、寄るべきものをすべてなくした今となっても。孤独の中でそれだけを育てながら、彼女は暮らしていた。
 だが今、彼女はひとつの決意を固めていた。
「済みましてございます」
 レザの体を拭き終った執事が、一礼して下がろうとした。その背に声をかける。
「トト」
「はい」
「行くわ」
 執事のトトは振り向き、うなずいた。
「かしこまりました」
 トトはそれだけ言った。彼はこの口数少ない令嬢が生まれたときから世話をしている。心のうちは手にとるようにわかる。
 従者の勤めとして先刻の話はすべて聞いていた。従者は貴族の前では家畜と同じ。家畜である以上、他の人間に話を漏らすこともない。だから、聞いていても咎められるものではない。
 皇帝に会いに行く、とレザは言っているのだ。意味だけではなく理由も、トトは察している。ひとつはニュクスと同じ、貴族を軽視する皇帝への苛立ち。
 もうひとつは、年上の十二人の寵姫たちによる陰湿な嫌がらせから逃げるためだ。
 だがそれを口にすることはない。ただ、レザに不便がないよう万事を取り計らうだけだ。彼も、並みの執事ではなく、大貴族の執事である。
「どこ」
 短く問うレザにトトは答える。
「皇帝陛下はただいま、御征旅の最中にございます」
「御征旅?」
「隣国シッキルギン連合王国の領内において、ミゲンドラなる小国が反乱を起こしましたゆえ、シッキルギンのキルマ盟王をお助けするために、軍を」
「そう」
 レザがしばし沈黙する。その間にトトは隣室に戻り、彼女の着替えを用意する。
 寝室に戻ると、レザが言った。
「でも、行くわ」
「今から、でよろしいですか」
「ええ」
 急なことだが、わかっていた。レザは慎ましい姫としての育てられ方しかしていないが、その範囲内では常に前向きであろうと努力する娘だった。
「かしこまりました」
 トトの差し出す服は、すでに旅装であった。

 2. 
 
 王都フィルバルトを発し、西南に往くこと半月、二百二十リーグ。大陸中原の広大な穀倉地帯は終わり、深い森と峻険な山地が行く手に現われる。そこから先がシッキルギン連合王国の版図だ。
 たたなわる山々と森が区界となり、この地はいにしえより布の端切れのように細かく分けられた。各々の土地に王が立ち、民に少しでも多く畑と牧場を与えるため、長く相争った。
 ごく近年、あまりにも不毛な戦いに倦んだ王たちは、ひとりの盟王を選んで領土配分の一切を任せ、和議を結んだ。これが連合王国の始まりである。
 だが、悶着の種は領土問題だけではない。肩を並べる王たちは、不満が生じるといとも簡単に争いを引き起こした。もうそれに慣れてしまっているのだ。
 今も、何千回目かわからぬ戦いが、王国の一隅で戦われていた。

 針葉樹に覆われた山肌に、遠雷が反響している。
 木立の隙間から見える谷間で、無数の小さな火花が瞬いた。剣戟の光だ。
 じきに、ドオーッと大地を揺るがすような響きが近づいてきた。
 幾百とも知れぬ人影が殺到してくる。傷ついて息も絶え絶えの兵士の群れだ。血を流している者が多かったが、中には鎧やかたびらを黒く焦がしている者もいる。そして、皆泥水にまみれている。
 丘の中腹にあるくぼ地の前を、敗残兵たちは亡者のように逃げ落ちていく。クリオンは思わず声をかけようとした。
「みんな……」
「しっ」
 後ろから肩を引かれた。振り返ると、熟した桃のようなまるい顔立ちをした若者が首を振っていた。トレードマークの子供のような笑みはまだ残っていたが、それが努力の結果であることは、こめかみから流れる血が示していた。
 ジングリット第一軍遊撃連隊長、ロン・ネムネーダである。
「あれは貴族領から集められた第六軍の兵です。おれでは統率できません。下手に声をかけたら、逆に襲われる」
「じゃあ、第六軍の軍団長を呼んで」
「さっきからやってますよ。でもねえ、うんともすんとも言ってこない」
 ネムネーダは手の中の抜き身の長剣に尋ねた。
「おい『タングスタイン』、第六軍のエッセン伯爵の応えはあるかい?」
『否』
 クリオンも触れていたので、ネムネーダの調律剣に宿る金属霊の返答を聞くことができた。ネムネーダは苦笑する。
「ね。きっとやられちゃったんですよ。あの兵士たちも、直属指揮官がやられたから総崩れになったんです。連中に声を届かせることができるのは、総司令のジングピアサー将軍か、もしくは陛下の聖霊だけなんですが、将軍は主戦線のはずの尾根向こうの谷、そして陛下は……」
「……ごめん」
 クリオンはうなだれた。キャハハハ、と背後でマウスが笑う。
「勇敢な王様が剣をかざした! 勇敢な聖霊が声に応えた! だけど聖霊はへそまがり、雨に濡れたのは王様の頭!」
「控えろよ、道化!」
「いいよ、ロン」
 クリオンはネムネーダを押さえて、背後を見た。
「マウスの言う通りなんだから……」
 くぼ地に隠れているのはクリオンの他に、ネムネーダ、マウス、クリオンの近侍のシェルカ、シッキルギンの王子キオラ、そしてわずか数名の供回りだけである。これが、大陸一の強国と誉れの高い、ジングリット帝国第一軍の、現在の全兵力だった。
 もちろん最初からそれだけだったわけではない。眼下の谷で最初に会敵した時には、精兵一万五千が闘志をみなぎらせていたのである。斥候の報告によれば敵は三千、簡単に勝てるはずだった。
 ところが、第一軍の前に現われた敵兵の数は、予測の六倍、一万八千に及んでいた。さらに、危険を感じたクリオンが、聖霊「ズヴォルニク」を呼んだせいで、形勢は完全に逆転した。
 海王を名乗る不敵な水の聖霊、ズヴォルニクは主の命に逆らい、強力な津波である海嘯を敵ではなく周囲の山肌に向かってまき散らしたのだ。斜面を駆け登った水流は次の瞬間向きを変え、なだれ落ちてジングリット軍に襲いかかった。
 皮肉なことだが、この時クリオンを救ったのは、ふざけ者のマウスである。異変に大喜びした彼が奇声を上げて跳ねまわったため、クリオンの乗馬を含む数頭の馬が驚いて駆けだし、周りの部下を蹴散らして陣営から飛び出してしまったのだ。
 おかげでクリオンは直後の津波を逃れることができた。だが、ジングリット軍の指揮系統には致命的な穴が空いた。
 それだけなら――それだけというには大きな事故だったが、第一軍の精兵たちはまだ戦えたはずである。フォーニー軍団長を始めとする指揮官が大勢いる。
 だが、彼らが一番乱れた瞬間、信じがたい攻撃が敵から放たれた。いや、敵の攻撃だとわかったのは少し後だった。
 それは雷だった。大木をも引き裂くような激烈な落雷が、突如してジングリット軍のど真ん中に突き立ったのだ。その本数は五十以上に及び、轟音と閃光は実に五分以上も兵士たちの感覚を奪った。
 敵軍が突撃をかけるには十分な隙だった。
 第一軍は抜かれ、後詰めの第六軍にまで敵軍が殺到した。打撃戦に向いた騎兵主体の第一軍と違い、第六軍は掃討戦向きの歩兵集団である。高速で突っ込んでくる敵軍の騎兵を迎え撃つ力はない。ジングリット軍は敗れた。
「ぼくのせいで、みんなが……」
「まあまあ、陛下のせいだけじゃないですよ」
 落ちこむクリオンを、ネムネーダが懸命に励ます。
「不幸が重なったんです。敵の数は予想以上だったし、地形も第一軍の騎兵には不向きだった。援兵の第六軍もひどすぎます。指揮はてんでなっちゃいなかったし、兵士たちも年寄りや新兵ばかり。これだから貴族領の兵隊は」
 他の人間が口にしたら無責任な批判に聞こえただろうが、ネムネーダには言う資格がある。こう見えても彼は、第一軍で最も勇猛な遊撃連隊の指揮官なのである。
 その勇猛さは、今回の戦いではもっぱら、崩れかかる自軍の援護と皇帝の護衛に振り向けられた。実戦経験に乏しい皇帝近衛軍が、本格的な戦闘に耐えられず散り散りになってしまったからである。
 敵の防衛陣に単身突っ込んで主兵力が到着するまで攪乱する、機動要撃戦を得意とする遊撃連隊には、不本意な働きである。その代償は連隊自身の崩壊だった。
 とはいえ、本当に壊滅したならネムネーダも笑ってはいなかっただろう。あの混乱の中でも相当数の部下が生き残ったと確信しているからこそ、彼は自ら皇帝のそばに付いている。
「ね、陛下。気を落とさないで次の戦いに備えましょう。ジングピアサー将軍の本隊は負けちゃいないでしょうし、ネルベの街にも控えがいます。町まで戻って軍を再編しましょうよ。姫様たちも待ってますよ」
 クリオンに向ける笑顔は、弟を見るような温かいものである。彼は、この頼りないけれども前線に出る勇気のある皇帝を、気に入っている。
 クリオンはまだ泣きそうな顔をしていたが、その背にそっと手を当てた少女がいる。キオラだった。
「お兄さま、元気出してください。悪いのはボクなんです。ボクの国の争いにジングリットの助けを呼んだから……」
 クリオンはキオラを見下ろした。申しわけ程度の革鎧すら重いように見える、少女のような少年。今回の戦いは、自国で起こった内戦の始末をつけるために、この子がジングリットの出兵を頼んだから起こった。責任を感じることはクリオン以上だろう。
「……ううん、キオラは悪くないよ。きみがシッキルギンのお爺さんを助けようとするのは当然だ」
 クリオンは立ち上がった。
「それに、このいくさはもうジングリットのいくさだ」
「ご立派です」
 ネムネーダが軽く肩を叩く。
「ロン、ネルベの街に戻る道はある?」
「間道があります。馬を捨てれば通れるでしょう。味方の兵にも見つかりたくないところですが、おれたちならなんとか」
「よし、出発だ」
 クリオンとキオラのそばに湾刀を下げたシェルカが影のように控え、周りをネムネーダたちが囲んだ。マウスは猿のように跳ねて森の中に消える。あの死地を切り抜けてひょっこりとクリオンのそばに戻ってきたことといい、彼には戦術的というより魔術的な生存能力があるようだった。
 歩き出したクリオンは、再び遠雷を耳にして振り返った。無言で立ち止まる。
「陛下?」
「あそこ……」
 クリオンの指差す先を見たネムネーダは、谷を挟んだ尾根の上にひるがえる一塊の旗の群れを見つけた。逃走と追撃の死闘がいまだに続けられている谷間を、傲然と見下ろすような位置。ネムネーダは単眼鏡を出して目に当てる。
「菩提樹と双頭の鹿……王旗ですね。誰のかちょっとわかりませんが」
「ミゲンドラ……」
「え?」
 キオラが、こわばった顔でつぶやいた。
「反乱軍の中心です。やっぱり本当だったんだ。あの小さな国が……」
 見守る一同の前で、純白の閃光がはじけた。旗の根元から垂直に立ち上った雷柱が、雲に吸いこまれ、数十に分かれて眼下の虫のような兵士たちの群れに降り注ぐ。クリオンが顔をしかめた。
「ひどい……もう戦力を失ってるのに」
「やっぱり、ミゲンドラ王族の聖霊攻撃ですね。ここまでは届かないようですが……ま、早いとこ退散したほうがいいでしょう」
 再び歩き出したクリオンたちの耳に、ごろごろと低い音が残った。

 ジングリット軍は国境沿いの町ネルベを侵攻拠点とし、そこの王立商館に皇帝親征時の本拠となる征陣府を開いていた。
 征陣府は親征の間、名目上の首都となる。事実上の最高行政官であるレンダイク男爵は王都フィルバルトで留守を守っていたが、彼の祐筆筆頭のスーミー・シャムリスタ嬢を始め、多くの文民が軍隊とともにやってきていた。クリオンの最も身近な侍女のソリュータと、一の寵姫であるエメラダもその中に入っている。
 当事者であることから軍事顧問格でクリオンとともに前線に出るキオラと違って、ソリュータたちはネルベまで来るのが精一杯だった。
 だが実は、二人とも前線へ出ると言い張って、止められたのである。
 戦士でもない女を出せるかというジングピアサー将軍の意見、兵士の前でいちゃいちゃされては困るというフォーニー軍団長の意見、それに、遠く王都で冷徹な頭脳を働かせているレンダイク男爵の、将来の王子を産むかもしれない女性に、万が一のことがあってはいけないという厳命があったせいである。
 それやこれやで二人はネルベの征陣府に固く押し込められていたから、クリオンが命からがら戻ってきたのを見れば、飛び出してきて迎えるはずだった。
 ところが、出てきたものの、浮かない顔だった。
「お帰りなさい、クリオン様」「待ってたわよ」
「ご無事でなによりです、陛下」
 町の広場でとりあえず全軍に皇帝の無事を知らしめたあと、征陣府の前庭に戻ったクリオンを迎えたのは、なんだか難しい顔をしたソリュータとエメラダと、それに見慣れない一人の女だった。
「うん、なんとか戻ったけど……彼女は?」
 クリオンはその女を見つめた。ブロンズ色の二つ揃いをまとって、右肩から膝下まで白い礼帯を下げている。帝国府文官の制服だ。小脇に羊皮紙の束を抱えてもいる。表情は笑っておらず、いかにも謹直な役人という印象を受ける。
 だが、唇が妙に赤い。髪型も長めの金髪を後ろでしばった行動的なものだが、こめかみに一筋垂れたおくれ毛が妙になまめかしい。のみならず服の下の体の線も豊かにカーブしている。背はソリュータと同じほどだが、線の濃い肉感的な美女だった。
 戦場ではあまり女を見ない。ソリュータとエメラダに少し期待して戻ってきたクリオンは、この女もなんとなく意識してしまった。
 ソリュータが答える。
「男爵の御祐筆のシャムリスタ様です」
「スーミー・シャムリスタにございます。お初にお目にかかります」
 スーミーが頭を下げた。ちょっと横へのいて、クリオンはソリュータに聞く。
「彼女がどうかしたの? 二人ともなんだか変な顔だけど」
「いえ、この方がどうしたというのではなくて……」
「ご説明します、陛下」
 スーミーが前に出た。
「今朝ほど、王都から陛下のお母上がいらっしゃいました」
「――えっ?」
 クリオンは耳を疑った。クリオンの母は、ずいぶん前に亡くなっているのだ。
「ど、どういうこと?」
「ストルディン公爵のご令嬢でいらした、レザ様です。あの方が陛下にお目通りを願って、はるばる馬車に乗って征陣府へ参られたのです」
「レザ……ストルディン?」
 狐につままれたような顔をしているクリオンに、ソリュータが耳打ちした。
「レザ様は前帝陛下の最後のご側室だった方です。クリオン様のお母様も前帝陛下のお妃様でしたから、関係上お義母様ということに……」
「そう……なるのか」
 クリオンはなんとか飲みこんだが、ちょっと不平を持った。ちゃんと説明してくれればいいのに、スーミーは言葉が足りない。外見通り、冷たい女性なのだろうか。
 クリオンはさらに聞いた。
「シャムリスタ、それが問題なの?」
「ここでは少々申し上げにくいのですが……」
 スーミーは周りを見まわす。広場からクリオンに付き従ってきた兵士たちやキオラがいる。代わって、今度はエメラダが注進した。
「なんか文句言いに来たらしいのよね、陛下に」
「戦争中だよ。帰ってもらったら」
「仮にも陛下のお母様なのよ。侍女のソリュータじゃ格負けしてだめ、征陣府長格のシャムリスタさんでも身分が足りないのよ。あたしでもまだ一個下」
「ぼくでやっと上、ぐらいなのか……」
「そう。頼むわよ」
「ご案内します。貴賓室でお待ちです」
 スーミーがそう言って振り向いた途端、いきなり羊皮紙をばさっとまき散らした。
「あらっ?」
 商館入り口の段差につまずいたのだった。しゃがみこんですごい速さで羊皮紙を集める。ソリュータが手伝う。
 それが済むと、元通り澄ました顔で立ち上がった。
「お待たせしました」
 ずんずん中へ入ってしまう。あっけにとられたクリオンは、ソリュータと顔を見合わせた。
「な……なんか印象的な人だね」
「仕事はできるって話なんですけど」
 ソリュータも首をかしげてしまった。

 スーミーの案内で貴賓室に入ったクリオンは、またしても呆然としてしまった。
 義母と聞いたから、一回りは年の離れた女性を想像していた。ところが、待っていたのはうら若い娘だったのだ。
 しかもその娘が、扉を開けたときから部屋の中央に立っていて、群青色の旅行ドレスの裾をつまみながら半歩引いて完璧な礼をした。多分朝からずっと立って待っていたに違いない。クリオンが一番苦手な、正統な貴族の振る舞いだった。
 クリオンが前に立っても何も言わない。主が口を開くまでは絶対にしゃべらないのだろう。もともと話し上手ではないので、戸惑いながらクリオンは言った。
「予がクリオン一世だよ。そこに座って。予も座るから」
 臣下向けの言葉もなんだか怪しいものになったが、レザは礼儀正しく頭を下げて、ソファに腰を下ろした。クリオンは向かいにかけて観察する。
 目を見張るほど美しい娘だった。白く端正な顔は人形のように整っていて、長いまつげの下でガラスじみた空色の瞳がクリオンを見つめている。結い上げた髪には一筋のほつれもなく、金糸銀糸と宝石を織り込んだドレスの袖口や胸元のレースにも、黒ずみひとつなかった。見ているだけで夜想曲が聞こえてきそうな、澄んで気高い美しさをまとっていた。
 本物の貴族の女の子だ、とクリオンはやや皇帝にあるまじき感想を抱く。血筋で言えばクリオンのほうが上なのだが、彼は養い親のグレンデルベルト侯に、よく言えば開明的、悪く言えばほったらかしに育てられたきらいがある。それに比べれば、レザの生家のストルディン公爵家は千年になんなんとする歴史を誇る大貴族であり、また前帝に輿入れしたのだから現在の身分でもジングリットで十指に入る。生粋の貴人なのだ。
 あてられたようにクリオンが黙っていると、ソリュータがお茶を運んできた。二人の前に銀茶のカップを出して、その時ちょっと粗相をした。レザにみとれて、ほんの一滴、お茶をこぼしたのだ。
 途端にレザが鋭い目でにらんだ。
「お気を付けあそばせ」
「し……失礼いたしました!」
 ソリュータがあわててテーブルを拭き、逃げるように退出する。もともと貴族の娘で、滅多なことでは恐れ入ったりしないソリュータを、ひとことで黙らせる威厳だった。ますます貴族だ、とクリオンは感心する。
 いつまでも感心してばかりでも仕方ないので、クリオンは話の糸口を探した。ソリュータとエメラダよりほんの少し大人びたレザの顔立ちに、それを見つける。
「ええと……レザ、きみは何歳?」
「十九にございます」
 短く答えると、まだレザは沈黙した。お茶には手も付けない。クリオンはまた苦労してきっかけを探す。
「ストルディン公爵は春の事件で亡くなったんだよね。お悔やみしておくよ」
「……ありがとうございます」
 うなずいてから、レザは続けた。
「あれ以来わたくしたちは、ドアを叩かれることもなく静かに暮らしております」
「そう」
「訪なう人もいない、静かな日々でございます」
「……うん」
 繰り返されて、クリオンは考えた。この人はあまりおしゃべりじゃない気質のようだ。何が言いたいんだろう。
 訪れる人がいないということは――レザたちの百花館を訪れる人と言ったら、皇帝の自分しかいない。つまり、寂しいから遊びに来てくれと言ってるのかな?
 そう思いながらレザの顔をうかがったクリオンは、はっと気づいた。
 静かな美貌の中で、目は瞬きもせず冷たくクリオンを見つめていた。クリオンはエメラダに言われたことを、遅まきながら思い出した。
 レザは、文句を言いに来ているのだ。
「その……予にお見舞いに来てほしいとか?」
「宴席をにぎやかすお客様はうれしゅうございます」
「宴席? ああ、パーティーを開いてくれるの?」
「招待主のワインは時として薄うございますが」
「ワイン……ええと、お酒の味はあまり気にしないけど」
「または、三日目の冷鶏とも申します」
「あの……よくわからないんだけど」
 クリオンが困り果てた顔でつぶやくと、レザは目を細めてクリオンを見下ろした。悔やんでいるような、冷笑しているような、なんとも受け取りにくい表情だった。
 それからレザは少し口調を変えて、軽く頭を下げた。
「わたくしなどのために申しわけありませんでした。どうぞ次のお客様のお相手を」
「次のお客って、別に……」
 言いかけたクリオンは、レザがじっと頭を垂れたままでいるのをみて、なんとなく悟った。
 もういいから出ていけ、と言われているのだ。
「そうか……うん、じゃあこれで。召使いに言っておくから、とにかくゆっくりしていって」
 はいともいいえとも言わないレザを背に、クリオンは部屋を出て、大きくため息を付いた。
「疲れた……」
「お済みになりましたか」
 外に立っていたスーミーが近づいてきた。同じ初対面でも、まだこっちのほうが気が楽だ。クリオンは漏らした。
「なんだかわからなかった。何か頼んでるらしいんだけど、全然話が通じないんだ」
「だからエメラダ様もさじを投げられたようです。レザ様はなんと?」
 まったくの部外者というわけでもなく、スーミーは王都でのレンダイクに相当する役柄だ。相談しても問題はないと判断して、クリオンは室内での会話を話した。
「館を訪ねてほしいのかと思ったらそうでもないようだし、ワインとかコールドチキンとか全然関係ない食べ物の話をするし……お手上げだよ」
「ああ、それは」
 スーミーはいともあっさり答えた。
「お金の無心でしょう」
「お金? あれが?」
 驚いて尋ね返したクリオンに、スーミーは淀みなく答えた。
「宴席をにぎやかにするお客というのは、手土産を持ってくる客のことです。招待主のワインが薄いというのは、客に高いワインを出すために自分は安いもので我慢する、つまりお金がないということ。三日目の冷鶏も同じで、パーティーの豪華な料理の残り物で、そのあと何日か食いつなぐということですわ。――つまり、貧乏だからお金をくれと言っているのですね」
 クリオンは唖然とする。
「なんでそんな回りくどい言い方……」
「仮にも公爵位の貴族が、そんなことを露骨に頼むわけにはいかないからでしょう。もともと、貴族の方々は言葉の意味を何重にも重ねて使われるものです」
「そうなのか……」
「付け加えて言えば、わたくしたちという言葉自体、百花館のお妃方だけを差すものでもないと考えられます」
「え?」
 スーミーは振り向いた。
「あの事件以来、とおっしゃったんでしょう? グレンデルベルト大禍以来、一番苦労しているのは、どういう方々ですか」
「……貴族」
「そうです。おそらくレザ様は、陛下の貴族を軽んじる施政そのものに不満を抱いておられると思われます」
「はあ……」
 あの事件では、身分が高い貴族ほど、多くの領地を天領として取り上げられ、大きな衝撃を受けた。スーミーの指摘は納得できるものだった。
「詳しいね、スーミー。きみも貴族?」
「いえ、私は平民でした。レンダイク様の侍女だったのですが、あの方に祐筆に取りたてていただいたのです」
「侍女だったの? あんまり賢いから、てっきりエコールを出てるんだと思ったよ」
「ありがとうございます」
 スーミーは会釈して、歩き出した。
「エメラダ様やキオラ様がお待ちです。私も仕事がありますので、ご案内してよろしいですか」
「うん」
 クリオンは後について歩き出す。 
 いくらも行かないうちに、スーミーはいきなりつんのめった。肩から垂れる長い礼帯の裾を踏んづけたのだ。
「きゃっ!」「危ない!」
 とっさにクリオンは飛び出して、スーミーの体を抱きかかえた。持ち重りのする柔らかな体が腕に収まる。
「あ……」
「失礼しました」
 スーミーは何事もなかったかのように立ち直って、歩き出した。クリオンの鼻に彼女の髪の麝香のような香気が残る。
 我に返って、声をかけた。
「ご、ごめん。変なとこ触っちゃったかもしれないけど」
「お気になさらず。陛下なら構いません」
「え?」
 ちらと振り向いたスーミーの顔に、一瞬誘うような微笑みがひらめいたような気がした。
「スーミー?」
「奥のお部屋です」
 スーミーは前を向いて足早に歩いて行く。

「で、結局どうするの?」
 寝台に腰掛けたエメラダが聞いた。
 征陣府の奥にしつらえられた皇帝居室――旅商人用の宿泊室を突貫工事で五つぶちぬいた部屋――で、クリオンは軽い水浴びの後、ようやくくつろいでいた。
「箱入り娘のくせにわざわざ王都から乗りこんできた根性は認めるけど、それだけの理由であの子の言い分を聞いてやるわけにもいかないでしょ」
「その通りだよ」
 寝台に仰向けになったクリオンがつぶやく。
「レザ一人ならともかく、あの子の望みをかなえたら貴族全部が同じ要求をするに決まってる。それは無理だ。だからもうちょっと話し合わないと」
「追っ払っちゃえばいいのに」
「そうもいかないよ。解決にならないから」
 腕にキオラのマッサージを受けながら、クリオンはため息をついた。
「ほとんどの貴族がレザみたいに不満を抱いてるんだろうな。彼らを説得する方法があればいいんだけど……」
「難しいですね」
「たたでさえ負け戦で頭が痛いのに、それでなくたってイフラ教会が敵対してるかもしれない疑いもあるのに。ああもう、マウスの言った通りだ。いつまでたっても悩みが減らない」
「ごめんなさい、お兄さま」
 マッサージを終えたキオラが、クリオンのそばに身を投げ出して鼻をすりよせる。
「ボクのせいで苦労させて。お詫びに、どうですか?」
 桜の花びらのような可愛らしい唇を突き出して、意味ありげにささやく。意味はわかったが、エメラダたちにはまだ明かしていない。クリオンはうろたえ気味に押し返す。
「い、いいよ。気にしなくて」
「でもお兄さま、溜まってそう」
 ずっと一緒だったからちゃんとわかります、とキオラは小柄な体を押しつける。それでなくてもスーミーに妙な刺激を受けていたクリオンは、キオラの甲斐甲斐しい奉仕を思い出しかけて、あわてて身を引く。
「いいってば」
「ちょっと、男同士で何くっついてるの」
 エメラダがキオラの首根っこをつかんで引きはがした。きゃん、とキオラは寝台から転げ落ちる。
「今夜の陛下はあたしのものよ! ずっと待ってたんだから」
「エメラダ」
 苦い顔で言ったソリュータに向かって、エメラダはクリオンに抱きついたまま、べーっと舌を出す。
「何よ、あたしはお妃よ? 陛下に抱いてもらう権利があるんだから」
「あなたそんな、戦陣で……」
「戦争するのが務めなら、子供作るのも陛下の務めよ。ね、陛下?」
 エメラダがとっておきのしなを作って、クリオンの頬に口付けする。ソリュータが手を伸ばして引き戻そうとすると、もう一度振り返って言った。
「明日になればどうせ陛下は、また頭の痛い問題いっぱい押しつけられるんだから。せめて今夜ぐらい、心も体もすっきりさせてあげるの。あなたにそれができる?」
 肩をぶるぶる震わせたソリュータは、不意に目を閉じて、深く息を吐いた。そのままクリオンに聞く。
「クリオン様、正直に答えてください。今、その……女性を抱きたい気分ですか」
「え、そんな……」
「そうだって」
 エメラダがクリオンのズボンの上をさすりながら言う。確かにそこは、キオラとエメラダの続けざまの誘いで、布が盛りあがっていた。クリオンは真っ赤になる。
 ソリュータは平らな声で言った。
「わかりました。でしたら、私はお役に立てません」
「ボクだったらいいんだけど……」
「何を言ってるんですか、キオラ様!」
 心残りな顔のキオラの腕を取って、ソリュータは足音荒く戸口に向かった。ドアを開けながら振り返る。
「楽しんでくださいね、クリオン様!」
 ばん! とドアが閉まった。クリオンが顔を押さえる。
「ソリュータ、怒っちゃった。……納得してたはずなのに」
「ま、わからないでもないけど。あの子も溜まってるのよ」
「ソリュータが? あんなに慎み深いのに?」
 裏切られたような顔のクリオンに、エメラダが胸を押しつけながら言った。
「抱かれたいかどうかはともかく、構ってほしいんでしょ。陛下が前線に出てから、あたしたちずっとほっとかれてたんだから。もしものことがあったらって心配しながらね。気が立ってたってしょうがないわよ」
「悪いな、ソリュータに……」
「おっと、今から謝りに行くなんて言わないでよ」
 起き上がりかけたクリオンをエメラダは寝台に押しつけた。
「心配してたのは、あたしもなんだからね……」
 その目尻がかすかに潤んでいることに、クリオンは今さらながら気付いた。少し迷う。だが、エメラダの豊かな体にかきたてられた若い欲望が、すぐに迷いを押し流した。
「明日、いっぱい謝る……」
「そうして。今はあたしに」
 二人はくちづけを交わす。
 薄物をまとったクリオンの上で、エメラダは自分の夜着を脱いで行く。まるく張ったベルのような乳房と、ぬめる下腹と、はじけるようななめらかな太ももが次第に現われる。
「よかった……陛下が戻ってきてくれて」
「みんなが待ってたから」
「溜まってるでしょ、キオラが言ってたみたいに。王都を出てから、もう二十日もしてないんだから」
「うん……ほんとはね」
 クリオンがこすりつける腰を、エメラダはうっとりとへそのあたりで受けとめる。
「わ、かたあい……そりゃそうよね、いつもいっぱい出してくれる陛下が、ずっとせずにいたら……どれだけたくさん」
 ぶるっと体を震わせて、エメラダは頬を紅潮させながらクリオンの鼻をついばんだ。
「多分、あふれちゃうな……今日こそ陛下の子供を作れるかも。また会えなくなる分、いっぱいしましょ」
「うん」
「動かないで」
「え?」
 エメラダはクリオンの服をも、自分で剥いでいく。
「戦って疲れたでしょ。全部あたしに任せて」
「何もしなくていいの?」
「しないでほしいの。あたし……陛下を犯したい」
 エメラダの声には、獣性が交じり始めていた。ついさっきまでクリオンをいたわって潤んでいた目に、別の光が宿っている。
「昨日、衛兵たちがこっそり話してるの、聞いたのよね。陛下っていいよなって。娘みたいだって」
 薄物を取り去り、下着に手をかけて、エメラダは性急にそれを引き下ろす。クリオンの華奢なものが、薄い腹にぴたりと張りついている。それを眺めながら、胸板に舌を落とす。
「ただでさえ皇帝陛下って、下々の憧れのまとなのよ。神様みたいに崇拝してる人もいるわ。その上陛下は、あたしでもたまに嫉妬するぐらい可愛い姿……遠征中の兵士は女を抱くこともできないから、その気がなくても少しおかしくなってる。きっと今夜も、野営しながら頭の中で陛下を冒涜する男たちが、いっぱいいるわ」
 とめどなく唾液を垂らしながら、エメラダは心底愛しそうにクリオンの胸を、腕を、腹を、味わいぬいていく。
「こうやって触って、可愛がって、味わって……そして、しゃぶりたいのよ」
 言葉とともに、エメラダの唇がクリオンのペニスに触れた。ひくっ、とクリオンは体を震わせるだけで、背徳的な口唇愛撫を止めようとしない。キオラとの戯れで、その戒めはもう破られている。
「そんな陛下を……みんながほしがってる陛下を……あたしは……」
 優越感を隠そうともせずにつぶやきながら、エメラダは熱いものをなめ上げていく。それだけでは収まらずに、クリオンの両足を開かせて、低い位置にあごを沈めた。
「こんなとこまで……味わえる」
「あ、えっ、エメっ!」
 止めようとする気持ちと、快楽をむさぼりたい気持ちに挟まれて、クリオンの両手がぶるぶる震える。強く張り立った幹の下の、液圧でしこったふくろと、その下のすぼまりまで、エメラダの舌が愛撫しているのだ。
「やりすぎ……エメラダ……」
「だったら止めて」
「……」
「ふふ……止めないんだ。皇帝陛下は、こういうところがお好き……」
 ちろちろと動く舌が、クリオンの背骨の底をとろかす。もっとほしくて、腰を浮かせてあさましく求めてしまう。この娘は皇帝の自分を賤しくおとしめて興奮している。おとしめられることがぞくぞくする。
「はっ、はあん……エメラダぁ、それ、変だよ……」
「陛下、そんな声で鳴くんだ。……くせになっちゃいそお……」
 クリオン自身ですら聞いたことのない自分のあえぎ声が、エメラダは無性に気に入ったらしい。そこが隠された忌むべきところだということももう忘れ果てて、クリオンの乙女のような尻の間に顔を押し付け、肛門を夢中でねぶりたてる。
 ペニスを直接触られていないことは、手加減にもならなかった。体の底からの刺激を受けて、クリオンの細い幹はたちまち暴発した。
「エメラダ、出るっ!」
 叫びよりも早く、クリオンは精を放った。きゅうっと根元の筋肉を絞り上げながら、ひとつにつながった放液をぴしゃっと腹の上に伸ばした。エメラダが素早く顔を上げる。
「待って!」
 ちょうど最初の長いひと撃ちのあとで、エメラダの指が幹の根元を締めつけた。クリオンは顔をしかめてびくびくそこを震わせる。
「い、いたっ……エメラダ、破れちゃうよ」
「我慢して、あたしも中にほしいんだから。……うわあ、陛下の体がべとべと……」
 エメラダは欲情で朝焼けの色に染まった美しい顔を、クリオンの目の前に現した。きらきらと嬉しそうに目を輝かせて、楕円に盛りあがったクリオンの薄い腹筋に頬ずりする。
「自分の種で汚れちゃった陛下って……すごく、いやらしい……」
 そのままエメラダは乳房を乗せて、白い粘液を引き伸ばした。自分とクリオン、両方の体がまみれていくのを恍惚と楽しむ。
 それはクリオンにとっても、頭がしびれるような快楽だった。自分がもだえ、体液を吐き出すさまが、この緑の髪の美しい娘を興奮させている。それは男性的というより女性的な喜びかただったが、温かい安心感を伴う甘美な感覚だった。
「もうあたし……来てる……」
 エメラダがささやいて、股間をクリオンのこわばりに乗せた。とろりと熱く濡れた膜の感触。
「もらうね、陛下」
「うん……」
 一度先端まで滑らせてから、腰を戻してエメラダはクリオンを呑み込んだ。
「あっつ……かた……陛下、まだいっぱい出るでしょ?」
「出るよ、エメラダ」
 もうろうとした顔でクリオンは熱い息を吐く。
「エメラダの柔らかいあそこに……すごくいっぱい出るよ。ぼくも考えてたんだ」
 うねり始めるエメラダの腰に押しつぶされながら、クリオンはうわごとを吐く。
「ぼくも陰口を聞いたよ。皇帝はこんなところにまで女をつれてきていい身分だなって。あの緑の髪の娘、指先だけでいいから触れてみたいって」
 クリオンは指をさまよわせ、目の前のエメラダの乳房に食い込ませる。
「ぼくは……そんなエメラダに……触って、入れて、空っぽになるまで出せるんだ」
「そうよ、空っぽになっちゃって!」
 うねうねと腰を動かしながら、エメラダはクリオンを抱きしめる。
「今すぐ出して! それだけでいい。もうあたしいける、満たしてくれれば!」
「エメラダっ!」
 中断させられた絶頂を、今度こそクリオンは思いきり撃ち放った。最初の一突きでエメラダが悲鳴を上げる。
「いやっ、なにこれ?」
「で、出るよすごく!」
 いったん解放されたペニスは、二十日分の樹液を壊れたように何度も撃ち出した。内臓をえぐられるような圧力にエメラダがのけぞり、自らの絶頂におびえたクリオンが跳ねあがった乳房に顔をうずめる。
「エメラダ! 出てる! もっと出る!」
「いやーっ! やあっ! やあーっ!」
 びくん、びくん、と大きく痙攣しながら、二人はあられもない悲鳴を放ちつづけた。

 ぴたりと冷たいものを頬に押しつけられて、クリオンは飛びあがった。
「ひゃっ!」
「はてな、睦言はもうおしまいか?」
 マウスだった。銀のカップを両手に持ったマウスが、寝台の横でにやにや笑っている。
「戦場にあるまじき名場面、見逃したなら残念無念」
「ま、マウス! 寝室に入ってくるなんて、いくらなんでも――」
「おっと、お怒りはお門違い。命じられたのはソリュータ様にて」
「……ソリュータが?」
 クリオンはこぶしを下ろした。そっと振り向くと、毛布をかぶってエメラダは安らかに眠っている。あの激しい営みを、六回も繰り返したのだから無理はない。
 意外に子供っぽいその寝顔に軽く手を触れてから、クリオンはそっと寝台を降りた。手早くローブを身につける。
「ほんとにソリュータが?」
「さて、そんなことを申しましたか?」
「いいよ、確かめてくる。――エメラダに変なことするなよ!」
「変なこと? 顔に落書き、髪に色染め、どちらが変でおもしろい?」
 適当なことを言っているマウスをほっといて、クリオンは廊下に出た。隣の部屋が侍女の部屋だ。
 ノックをしてドアを開けると、書物机からソリュータが顔を上げた。もうすぐ夜明けだというのにまだ黒い侍女衣装のままなのを見て、さすがにクリオンはあきれる。
「ソリュータ。ずっと起きてたの?」
「クリオン様?」
 ソリュータが顔を上げた。クリオンはそのそばに近づく。
「どうしてマウスに飲み物を持って来させたの」
「え? 私そんなこと、してません!」
「どっちでもいいけど……」
 クリオンは、決まりの悪さを覚えながら頭をかいた。
「ごめん……ソリュータも、ぼくを心配してくれてたんだよね」
「それはそうですけど……」
 不審そうにソリュータが聞く。
「どうなさったんですか。エメラダのそばにいてやったら?」
「向こうはもう、いいんだ。ソリュータにひとこと言っておこうと思って」
「何をです」
「ソリュータが……一番好きだよって……」
 ソリュータは目を見張ってクリオンを見つめた。それを言いにわざわざこんな時間に、と聞きかけて、くすりと笑う。
 少し優しくなった顔で、ソリュータが聞いた。
「そんなこと、エメラダにも言ったんでしょう」
「言ってないよ。……うん、ほんとに言ってない。考えたら、エメラダに好きって言ったことは一度もないよ」
「うそ」
「ほんとだよ!」
「ほんとに?」
「ほんとだって!」
 むきになって言い返したクリオンは、だしぬけに抱きしめられた。ソリュータが立ちあがって、クリオンの背に両手を回す。
「もう……怒れないじゃありませんか」
「ソリュータ……」
「一つだけ、お願いしていいですか?」
 顔を離したクリオンは、幼なじみの侍女のささやかな願いを聞いた。
「キス、下さい。……それだけ、毎日」
「うん」
 少し背の高いソリュータに、クリオンはつま先を立ててくちづけした。
 それで、エメラダも届かなかった心の一番奥まで温かくなった。

 3.

「姫様のお力添えのおかげにて、我が軍は憎きジングリットのやつばらを退けることがかないました。ここに今一度、お礼申し上げます」
 古式にのっとってキナルは五回の黙礼をした。
 床を作らないミゲンドラ独特の、楡の大木の下に天幕を重ねた、野戦用の謁見所。御簾の中からはなんの答えもない。顔すらも見えない。
 御簾の前に立ったターバン姿のフランボニー公爵が、ぼそぼそと主に向かってキナルの声を伝えた。彼はミゲンドラ一の重臣だが、自国の歴史の古さを鼻にかけ、主の威光を笠に着て威張りちらすこともしばしばある、高慢で卑屈な男だった。もったいぶりやがって、とキナルは美しい顔の下で声なく毒づく。
 公爵は御簾の中に耳を傾けるそぶりをして、頭を下げた。膝を付いているキナルを振り返り、さもありがたく聞けと言わんばかりに主の言葉を伝える。
「姫様はまだお気にかけておられる。キナル殿、本当にミゲンドラが戦いを起こすことで、シッキルギンの平和は保たれるのであろうか?」
「いかにも、さようにございます」
 キナルはうんざりしながら、以前に何度も説明した話を繰り返した。
「ジングリットの新帝クリオン一世は、自国の貴族領を根こそぎ取り上げるという暴挙を起こしました。権力を一身に集めようという魂胆が見え透いております。近々その野望が我がシッキルギンに向かうであろうことは自明の理。しかし、私の祖父たるシッキルギン盟王キルマは、手をこまねいてこの脅威を傍観しております。いたずらに無為の時間を費やせば、シッキルギン王都テルーニュはおろか、ミゲンドラを含む連合王国全体が、ジングリットの牙にかけられてしまうでしょう」
 キナルは棒読みにならないよう注意して言い切った。
「ゆえに、私、シッキルギン第二王子キナルは、ミゲンドラのお力をお借りしてテルーニュに上り、守禦の備えを固めようとしたのでございます」
「確かに、貴殿の言うとおり、ジングリットは攻めこんで来ましたな。間違ってはおられない。姫様にお伝え申し上げる」
 取り澄ました公爵の声を聞いて、ひどい役者ぶりだ、とキナルは冷笑する。間違っていないもなにも、フランボニー公爵はキナルとともにこの計画を立てた張本人なのだ。
 ミゲンドラ軍を動かしてテルーニュに攻め上り、老いぼれの祖父のキルマに代わって盟王の座に付く。キナルはシッキルギン連合王国に君臨することができ、公爵はそのそばで大きな権力を手にすることができる。
 もちろんそれだけでは二人とも、祖父殺し、盟約違反の咎を負ってしまうことになるが、ジングリット軍が本当に攻めこんでくれば話は別だ。連合王国防衛という大義名分が立つ。そして、ミゲンドラが動きを見せれば、ジングリットの客となっている従兄弟のキオラが、故郷を心配してクリオン皇帝に援軍を要請するだろうことは、容易に予測できた。
 事態はその計画通りに動いている。だが油断はできない。ミゲンドラ軍がジングリット軍に潰されてしまってはなんにもならないのだ。いくさで勝つことが大前提だった。
 そのためには、ミゲンドラの「姫」――誰もその素顔を知らない、古い伝説に包まれた謎めいた姫の力が、絶対に必要だった。いかずちの聖霊を友とする、桁外れの強さを持つ姫の力が。
 姫の力がなければ、ミゲンドラ軍は連合王国内でも最弱に近い、烏合の衆にすぎない。姫の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。
 再び計画に思い巡らしていたキナルの耳に、御簾の中と話し合っていた公爵の声が届いた。
「姫様はご納得されたようである。キナル殿、下がってよろしいですぞ」
 言いながら、かすかに目配せする。キナルはうやうやしく再礼したものの、腹の中ではあざ笑っている。ひとたび王位についた暁には、この小悪党のような貴族を一番に始末にしようと思っている。
 キナルは天幕の外に出た。星明りの下で黒ずむ森に、ミゲンドラ軍が明かりもつけずに野営している。ジングリットの斥候に位置を知られないことが最も重要だった。
 その闇の中から、低い声が届いた。
「首尾はいかがか」
「……リーフーか」
 キナルは振り向いた。そこに、ぶかぶかした奇妙な衣服をまとった、長身の女が立っていた。
 顔立ちと姿は東国の人間のようだった。それがなぜ大陸の西のシッキルギンにいるのか、キナルは知らない。知らなくても十分だった。キナルにジングリットの国情を教え、王権を奪う千載一遇のチャンスについて目覚めさせた、それが彼女を取りたてた理由だったのだから。
「他愛ないものだ。「姫」は連合のためになると信じて疑いもしない。公爵は欲の皮で目がくらむタイプだな。早晩この国はおれの手に落ちる」
「結構です」
「そちらは。ジングリット軍の動きはちゃんとつかめているんだろうな」
「手ごろな内通者が見つかりましたゆえ……」
「よし。頼りにしているぞ」
 キナルはリーフーのそばに立ち、肩に手を置いた。その指を、彼女の首筋に這わせる。
「今夜はもう休んでいいだろう。……おれの寝床に来るか?」
 透き通った青い髪をキナルに梳かせながら、リーフーは薄い笑みを浮かべた。なにも言わない。
 ややあわてたように、キナルが言葉を継いだ。
「い、いや、来てくれ。おれはもう、おまえがいないと……」
「……愉しませて差し上げます」
 言葉と同時に、リーフーはキナルをかき抱いた。木立に隠れるようにして、二人はくちづけをむさぼりあう。
「ああ、おまえは……おまえは、素晴らしい。どうしてこのような体なのか……」
「詮索しない約束でしょう」
「いや、いい。理由などどうでも……抱いてくれ、抱かせてくれ」
 従兄弟のキオラに似て美しい顔を、欲情で歪めてキナルは哀願する。応えるリーフーの顔立ちもそれに負けていない。この女のエキゾチックな魅力に、キナルはすでに取り憑かれていた。
 いや、女ではない。しかし男でもない。両者の中間に位置する不思議な魔物。
 大明合衆帝国タイミン・エンパイアステイツに巣食う宦官の、磨き抜かれた性技が、キナルを狂わせている。

「応えよや、『サガルマータ』!」
『諾』
 ノストラ・フォーニー軍団長の怒号に合わせて、彼の騎槍が白熱した。突進する重騎兵の馬上から、煮えたぎる溶岩弾が放たれる。
 ドン! ドン! ドン! と腹に響く轟音を残して放物線を描いた岩弾が、行く手のミゲンドラ歩兵たちの陣列で爆散した。たちまち辺りは火の海になる。
「陛下、今ですぞ!」
「うん!」
 フォーニーに続いて、クリオンは白馬に鞭を入れ、敵陣のまっただなかを突っ切る。周りを固める騎兵が、敬愛する皇帝を守ろうと死に物狂いで槍を振るい、押し寄せる歩兵をかたっぱしから突き殺していく。
「キオラは!」
「あちらに! ネムネーダがついております!」
 フォーニーの差した森の反対側では、遊撃連隊の薄いかたびらをまとっただけの高速騎兵が、ほとばしる銀の川のような勢いで敵兵の群れを貫いていく。
『サガルマータ』を介してネムネーダの『タングスタイン』と通じ合ったフォーニーが、白いひげに埋もれた顔をゆがめて壮烈に笑った。
「この程度の敵なら遊撃連隊にとって草を蹴散らすようなもの、だそうです。奇襲を受けた兵の台詞にしては上出来ですな。そうれっ!」
 飛来した弓を鋼鉄の篭手で殴り飛ばし、フォーニーは速度を落とさずクリオンの馬のたてがみを引いた。
「あと一息です! いったん抜ければ陣容を立て直せましょう」
「わかった!」
 クリオンは馬の背に伏せながら必死に答えた。
 敵兵の潜んでいた森を左右から迂回したところで、クリオンの部隊とキオラを守る遊撃連隊は合流した。敵から少し離れたと見るや、クリオンは馬首を巡らせて、残してきた配下の部隊のほうを見る。
「残りは!」
「今、指示を!」
 フォーニーが『サガルマータ』に意思を注ぎこむ。聖霊は周囲の敵意の分布を感じ取って主に伝え、また主の意思を配下の部隊へと飛ばす。それが届いた範囲では、騎兵たちが回避機動をしながら隊列を整え、見事に敵の歩兵群を打ち破る光景が見られた。
 だが、まだ森の向こう側にいる遅れた部隊にまでは、フォーニーの指令も届かない。敵の配置と攻撃方向を見定められない騎兵たちに、しげみに潜んでいた敵歩兵がわっとばかりに襲いかかる。長槍で馬の腹を突かれた騎兵たちが、次々に落馬し、殺されていく悲鳴が、遠いどよめきとなって聞こえた。
「ああ、みんなが……」
「聖霊の声が届きませぬ。やむをえん……」
 フォーニーがクリオンを呼ぶ。
「退きますぞ! 大回りをしてネルベへ!」
「うん……」
 暗い顔で、クリオンは前を向いた。
 今日の戦いも負けだった。戦場はいくつもの森と沼が点在する複雑な土地。斥候の報告では、その先の平原に敵歩兵が展開しているとのことだった。だから対抗兵種として騎兵が選ばれた。
 だが、そこへ向かう移動の最中に、突如森の中から敵が現われたのだ。騎兵の本分は、その高速を生かして正面の敵を撃砕することにある。行くも戻るもかなわないこんな狭い場所で、横や背後から襲われると、力が発揮できないのだ。
 そうならないよう戦場から外したはずの場所での、まさかの襲撃だった。再編されたジングリット第一軍は、またしても敗れた。
 街道から外れた林の中を通ってネルベへ戻る道で、フォーニーが気遣わしげに言う。
「どうも、動きが読まれているようですな」
「どうして?」
「本来なら、別動隊に見せかけた我々の部隊など襲わず、北へ向かったデジエラ殿の第二軍に向かってくるはずです。こちらが襲われたのは、陛下のおわす部隊だと知られているからとしか思えぬのです」
 クリオンの問いに、フォーニーは分析して見せる。三十七歳の彼は、遠征軍主力の第一軍を統率するにふさわしい屈強の大男だが、武勇だけでなく戦いの知恵に関しても秀でている。麾下の部隊を初戦で失ったにもかかわらず、まだ役目を外されていないのは、あの敗北がミゲンドラ王族の常識外れの攻撃のせいだったことよりも、彼が全軍で一、二を争う優秀な指揮官だという理由が大きい。
 最初の敗北の死地から還ったあと、もしもの時のために配下の重騎兵とネムネーダの高速騎兵をひとまとめにクリオンの至近に配置したのも、彼の案だった。今回はその備えのおかげで、辛くもクリオンの身が守られたことになる。
「こちらの兵力よりも陛下を狙うとは。……どうやらミゲンドラ軍は、テルーニュを攻め落とすのが目的ではありませんな。ジングリットへの対応にこそ、本気を感じ申す」
「なんでそんなことを」
「さあ、それはわかりませぬが、一つ明らかなことがあります」
 フォーニーはぎりぎりと歯をかみながら漏らした。
「……我が軍に、間諜がおります」
「内通者が?」
「でなければ陛下のことが漏れる道理はありませぬ。これは……陛下の御身を狙った、不届きな陰謀かもしれませぬぞ」
 はるか大陸の東にいる女がもしそれを聞いたとしたら、賛嘆の声を漏らしただろう。ジングリット帝国府の切れ者や貴族ではなく、一軍人に過ぎないフォーニーが戦士の勘だけでそれを見抜いたのだから。
 だが、同時に首をかしげたかも知れない。彼女の策謀はミゲンドラ軍にまでは届いているものの、ジングリット内部ではうまく働いていなかったのだから。
 自分の予想よりはるかに事態が入り組んでいることには、フォーニーはさすがに気付くすべもない。ただ、幾度も死線をくぐり抜けた経験から、張り巡らされた糸を見極めようとするだけである。
「国内に、陛下を害せんとする者がいるのでは……」
「……いるよ」
「なんと?」
「まだ確実じゃないから口外しないでほしいんだけど……イフラ教会が怪しいかもしれない」
「教会が?」
 口を開けたフォーニーに、クリオンはずっと付き従っているシェルカを差して見せる。
「彼は予を襲ったこともあるんだけど、それがどうやら、教会にだまされたらしいんだ。理由はわからないけど……」
「ううむ……なんと罰当たりな! 狂信者どもめらが!」
 フォーニーは鞍を叩く。
「よろしい、信頼できるものに調べさせましょう。安全だとわかるまでは、陛下は動かないでいただけるか」
「……ううん、そうはいかない」
「陛下?」
 驚くフォーニーに、クリオンは強くうなずいて見せた。
「予を狙ったいくさなんだから、予が出るよ。でなきゃ、命を張ってくれる兵士たちに悪いもの」
「陛下……」
「その代わり、ちゃんと守ってね。フォーニー、ロン、シェルカ」
 シェルカが無言でうなずき、ネムネーダは微笑む。フォーニーはもともと弱きを助け強きをくじく義侠心にあふれた男である。健気なクリオンの姿に、感極まった様子で胸甲を叩いた。
「お任せあれ!」
 いくさのほうはなんとかなりそうだな、とクリオンは少し安心しかける。いや――ミゲンドラ王族に対しては、なんの打つ手もないのだった。やっぱり難しいか、とため息をつく。
 それに、レザ。ずっと征陣府で頑張っている彼女をどうしたらいいんだろう?

 一人悩むクリオンに、もっと重い荷を負わせるような事件が起こったのは、ネルベに帰還して数日たってからだった。
 ジングリット軍はその総兵力を四十万と号する。しかしこれは、予備役や訓練部隊、国境警備隊、近衛隊、領兵などを含む数字であり、自国が侵略を受けた時などの総力戦の場合にやっと達成される、名目上の数字でしかない。
 職業軍人からなる常設の部隊は、第一軍から第十軍までの二十万人だけである。では戦争の時そのすべてを動員できるかと言うと、これもまた難しい。各軍団は東西南北数百リーグの帝国全土に散らばり、それぞれの地の治安を守っている。皇帝の一声で一朝に出撃できるのは、第一軍と第三軍、第四軍の六万人に限られる。
 古くから言われるとおり、攻めるいくさは守るいくさの三倍の兵力を必要とする。今回は遠征なので、とにもかくにも数が必要だった。遠征向きの四つの軍団だけでは足りない。
 そういう場合に昔からジングリット軍が用いているのが、各領地の貴族の軍、すなわち領兵を動員する方法だった。今回のシッキルギン遠征においては、第六軍と第七軍が、それぞれ各地の領兵で定数を増員してやってきている。全遠征軍の総兵力は十一万人。ひとつの都市がまるごと移動するような、大部隊である。
 だから確かに、強大な軍隊ではある。しかし問題はあった。帝国の兵士としての誇りを持つ軍団兵に比べて、領兵たちは自覚が足りないのである。もともと郷土防衛のために集められた男たちだから、やる気がないのもある程度仕方ないのだが、真の病根は兵士より、それを指揮する者たちにあった。
 その日の夕方、クリオンはネルベの町の外に野営している部隊を査閲して回っていた。自軍の陣地であるし、大勢の近衛をつけると兵士たちが緊張して素顔を見せなくなるので、護衛はシェルカ一人だけである。ただ、もう一人の同行者がいた。
 レザである。戦いから帰ったクリオンが、軍務に忙しくてほとんどじっとしていないので、談判のためについてきたのだ。談判とは言ってもほとんど無言に近かったが、恨めしげな目だけはずっとクリオンに向けている。
「ねえ、レザ」
 夏草の茂る草原で、かがり火を焚いた天幕から天幕へ歩きながら、クリオンは困り果てた様子で言った。
「きみの言いたいことは大体わかったよ。要は貴族の待遇を改善しろって言ってるんでしょ。でもそれは無理だよ」
 美貌を無機質にこわばらせているレザに、クリオンは懇切に言って聞かせる。
「彼らの領地を取り上げたのは、帝国と平民たちのためなんだから。民は帝国の力の根源を作ってくれてるんだし、国は民を守ってお金や食べ物を公平に分け与えるためにある。でも、貴族はその両方から力を吸いとるだけで、どっちにも貢献しないんだから。彼らに好き勝手させたら、帝国はまた前みたいにお金がなくなっちゃう」
「……水瓶が空なら、泉から汲めばいいのです」
「民からもっと絞れって言うの? それはだめだよ。今だって税は安いわけじゃない」
「午餐の肉を魚に変えさせるだけですわ。民の数は九千万、砂粒も集まれば山になります」
「肉を魚にってね……」
 毎日肉を食べられるような裕福な平民がどれだけいると思っているんだろう、とクリオンは疑う。都市の自由民ならともかく、帝国を支える大部分の農民は、肉を食べるどころか、鶏の卵ですらご馳走として喜ぶような生活をしている。
 レザは知らないんだろうな、とクリオンはため息をつく。民が「午餐」を取っていると思っているぐらいだから。平民は朝晩二食が普通だ。クリオンは幼いころそういう人々とじかに接してきた。
 レザは身勝手には違いない。クリオンの立場なら叱り付けることもできる。けれど、それをするにはためらいを感じてしまう。悪いのはレザではなく、レザのような視野の狭い人間を営々と産み出し続けてきた貴族制なのだ。
 だがレザはこう言うのだ。
「……世が世なら、貴族はもっとたっとばれるはずです」
「どう言ったらわかってくれるかなあ」
 レザはあたかもクリオンが悪いといわんばかりに、にらみ続けるだけである。
 二人に付き従うシェルカはずっと黙っていたが、レザの背に向ける視線は明らかに不満そうだった。彼は貧民の出だから無理もない。
 不毛な議論を打ち切らせるようにして、言った。
「陛下、次に向かう部隊は少し遠いです。レザ様にはお帰りいただいたらどうですか」
「うん……あれ?」
 生返事をしたクリオンが、ふと足を止めた。
 牧草地に沿った疎林のそばである。林の中に少し入った目立たないところに、ちらちらと明かりが見えた。
「あそこにも天幕があるけど」
「……本当だ。変ですね。兵站から聞いた宿営地とは離れていますが……」
「行ってみよう」
 三人は林の中に踏みこんだ。
 近づいて行くと、それはやはりジングリット軍の天幕だった。中からはにぎやかな大声が聞こえる。その手前に石でかまどを作って、十人ほどの兵士が鉄鍋を囲んでいた。三人に気づいて立ち上がる。
「こら、ここへ来ちゃいかん。あっちへ行きな」
「貴様、こちらをどなただと――」
「待って、シェルカ」
 目でシェルカを黙らせると、クリオンは前に出た。緋の皇帝衣をまとってはいるが、目立つと危険なので意匠はおとなしめである。この暗さならわからないだろうと計算して、自ら聞いた。
「これは誰の天幕?」
「おれたちのご領主様のハルナス伯爵の御寝所だ。町の子供の来ていい場所じゃないぞ」
「ハルナス伯……第七軍の連隊指揮官か」
 小声でつぶやいて、クリオンは兵士たちを観察した。妙なことに気付いていた。
 兵士たちの鉄鍋には、練りパンや干し肉やイモを油で煮た雑炊が湯気を立てている。どの部隊でも賄いに出している戦場用の携行食だが、あまりうまい食事ではない。
 しかし、その周囲に、たっぷりスパイスをかけた肉をあぶったような、実に食欲をそそる香りが立ちこめているのだ。
 クリオンは背後のレザに声をかける。
「レザ、あの鍋をどう思う」
「あれは……食べ物なのですか」
「戦場では上等な部類に入る夕食だよ。前線では冷たいままのビスケットで済ませるのが当然だからね。でも、こんな匂いはしないはず……」
 クリオンは兵士たちを見まわした。
「中で、伯爵はもっといいものを食べてるんじゃない?」
「そりゃ……当たりめえだ。貴族様なんだから」
 憎々しげに兵士が答えたが、怒りを帯びるほどではない。顔にあきらめの色を浮かべている。クリオンはさらに聞く。
「でも、貴族だって生肉なんか手に入らないはずだよ。遠征軍の食料はきみたち兵士から将軍にいたるまで、輜重部隊がきっちり管理しているはずだから」
「ほっといてくれ、余計なお世話だ」
 見て見ぬ振りをしていた弱みを突かれたからか、兵士は歯をむき出して言った。クリオンは意を決して、さらに前に出た。腰の剣を引きぬく。
 かまどの炎を浴びて、『ズヴォルニク』の封球が黒曜石のような輝きを放った。
「予は皇帝クリオンだ。これよりハルナス伯の天幕を改める。そこをどけ」
「こ、皇帝――!」
 兵士たちは化け物に出会ったように飛びあがった。
「ほん、本当か」「おい、そんな口利いたらお手打ちだぞ!」「でも偽物かもしれねえ」
「そこのおまえ――疑うなら本陣で聞いて来い。フォーニー団長でもジングピアサー将軍でも呼んで来い!」
 慣れない命令口調を大声でごまかしてクリオンは叫んだ。はじかれたように一人の兵士が走り出す。残りの兵士が棒を飲み込んだように立ち尽くす間を、クリオンは剣を収めて堂々と通り抜け、天幕の入り口の布をくぐった。
「伯爵は!」
「なんだ、貴様は」
 伯爵位を表す紺の服をまとった若い男が、うろんそうにクリオンをにらんだ。他にも数人の男たちがいたが、言い返す前にクリオンは絶句した。
 そこはさながら、宴会場だった。携帯用の鉄のこんろの上では、鹿か何かのもも肉が肉汁をあふれさせて香ばしい匂いを立て、隣の鍋ではチーズが溶けている。周りには果物やナッツなどの小皿が無数に並び、あろうことか、ワインの瓶までが林立していた。どれもこれも、輜重部隊から入手できるようなものではない。
「女だ!」
 立ちすくむクリオンの後ろを見て、男たちが叫んだ。皆、刺繍や装飾の入った衣服をまとっている。伯爵の友人の貴族たちだろう。
 中の一人が飲みこみ顔でうなずいた。
「そうか、おまえ……ハルナス様のことを聞いて町から売りこみに来たんだな? どこの女衒に送りこまれた?」
「どこでもいいじゃないか、上玉だぞ。遊女とは思えん」
 男がレザの手を引いた。レザはひきつった顔でそれを振り払おうとするが、男は抵抗を受けて余計興奮したらしい。酒臭い息を吐きながら抱きすくめる。
「なんとまあ、このブローチ、本物の紫水晶だ。相当の売れっ妓を差し向けて来たものだな」
「飾り立てもするさ、私たちに取りいる気なんだから」
「ハルナス……伯爵?」
 クリオンは、相手が自分の姿に気付く前に聞いた。
「こんな豪華な食事を、どうやって?」
「なんだ、おすそわけが欲しいか」
 伯爵は見せびらかすように鹿肉を食いちぎる。
「やってもいいぞ。何しろトラスク神官殿のつてで、町の食堂からいくらでも取り寄せられるからな」
「町から?」
 伯爵は無造作に言い捨てた。
「おまえたちと同じだ。金貨欲しさに統制をかいくぐる商人はどこにでもいるさ」
「兵士たちは雨ざらしで夜明かししているのに……」
「土民と一緒にされては腹が立つな。我らはいつも銀の皿で晩餐を楽しむんだぞ。この程度の食事で我慢してやっているんだから、むしろ感心してもらいたいな」
「ろくに戦いもしないくせに!」
「貴族の剣は誇りと愛する女性のために振るうものだ。斬っても剣の汚れにしかならん敵の土民と、まともに戦えるか」
 ワインをがぶ飲みすると、伯爵は蛇のような目でクリオンをにらんだ。
「貴様、言葉がすぎるな。……おい、ニーゼル。きみは美童も愛するんだったな」
 そう言われた、生白い顔にやけに不似合いな口ひげを生やした青年が、いやらしい照れ笑いを浮かべた。
「ははは、ばれていたとはね」
「いや、私も最前から、一度そういう趣向を見たいと思っていたんだ。どうかな、その少年を相手に、ひとつその道のなんたるかを教えてくれないか」
「しかし、彼は……その娘の付き添いかなにかじゃないのか」
「なんだって構わん。わざわざ売りこみに来るぐらいだ、どうせ色町の貧しい下民だろう。多少余分に払ってやればおとなしくなるさ」
「そうかね。それじゃ……」
 取り澄ました言葉で交わされる恐ろしく下品な会話を聞いて、クリオンは慄然とした。好色な顔で手を伸ばすニーゼルから、一歩下がる。
「こら、逃げるな」
 愉快そうに言ったニーゼルの前に、突然、白々と輝く三日月のような刃が突き出された。
「黙って聞いていれば、人を人とも思わないその言葉……貴族とはいえ、いや、だからこそ許せん!」
 天幕の外で待っていたシェルカだった。次の瞬間、手首をひねると、剣の腹でニーゼルの顔に強烈な打撃を見舞った。ニーゼルは鼻血をまき散らしながら食卓に倒れこむ。
「刺客か!」
 貴族たちは色めきたち、いっせいに剣を手にした。白刃を重ねてシェルカに斬りかかる。
 だが、シェルカの動きは敏速だった。湾刀をひねり、突き、なぎ払い、竜巻のような早業で、次々と貴族たちの剣をはじき飛ばす。酒の入っている彼らは足元もおぼつかない。それでなくとも、ほとんど趣味で剣技を身につけた貴族と、生きるために血を吐く思いで鍛錬してきたシェルカでは、おのずから気迫が違う。
「勝兵は先ず勝ちて後に戦いを求む!」
 利いた風な兵法を唱えて、シェルカより弱そうなクリオンにハルナス伯爵が詰め寄った。しょせん裏路地の餓鬼とあなどっている。柄に透かし彫りした華麗な剣で斬りかかる。
 ギン! と音を立てたのは、クリオンの剣の柄だ。抜きもせずそれだけで受けとめた。伯爵の剣がはかなく砕け散る。
「ば、ばかな……家宝の名剣が……」
「剣は折れるものだよ。折れない剣は二つだけ。一度も使ったことのない剣か――本物の魔剣か」
 シャン、とクリオンは『ズヴォルニク』を構えた。柄には傷一つついていない。クリオンの技量ではなく、聖霊の誇りが働いたためだ。それはいささか情けない事実だったが、貴族たちに教えてやる義理もない。
 武器をあらかた失った貴族たちが、天幕の奥にひとかたまりになって、わめいた。
「こ、こんなことをしてただで済むと思っているのか! 我らはジングリットの貴族だぞ! 一声かければ十万の軍勢がネルベの町を襲うのだぞ!」
「それは、ないな」
 新たな声が天幕の外からかけられた。一同の目が集まる。中に入ってきたのは、無数の傷を浮かべる半甲冑を身につけた、長身の女である。長い緋色の髪と豹に似た切れ長の瞳が、ランプの光を受けて炎のように輝く。
 一目見て、ハルナス伯爵がひゅうっと息を飲んだ。
「じ、ジングピアサー将軍……」
 皇帝になったばかりのクリオンとは距離も歴史も違う。一兵卒から叩き上げたデジエラ・ジングピアサー東征将軍の顔と声望は、帝国府の中枢から最前線の兵士にいたるまで知れ渡っていた。
「すんません伯爵、確かめに行っただけのつもりが、じきじきにお出ましになっちまって……」
 デジエラの横で兵士が汗を流すが、貴族たちは答える余裕すらない。
 デジエラは静かに問う。 
「誰の軍が、誰の指揮で動くのだ」
「そ、それは……」
「わからぬか。教えてやろう。私の軍が、私の指揮でだ」
 火であぶられて赤熱する寸前の鉄――見た目は穏やかだが触れれば恐ろしい火傷を負う、そんな声でデジエラは貴族たちを圧迫する。
「貴族といえどもいったん軍に組み込まれた以上は、すべて私の部下だ。軍律に背くことは許さん。軍紀紊乱、糧食の不法調達、市民への暴行――」
「いや、それは」
 伯爵がとっさに、狡猾な笑顔を浮かべてクリオンたちを指差した。
「そいつが悪いのだ! そいつらが小金欲しさに押しつけてきたのです! 料理も、女も――」
「ほう?」
 デジエラはちらりとクリオンを見て、また伯爵に視線を戻した。
「ふたつ、言い間違えた」 
「え?」
「軍の主は、私ではない。おまえたちが暴行を働こうとした相手は、市民ではない」
 デジエラは処刑命令を口にした。
「皇帝陛下だ」
 長い沈黙がその場に落ちた。
 それからデジエラが剣を抜いた。火炎の聖霊を宿した調律剣、『ロウバーヌ』。一振りで貴族たちは灰になるだろう。
 だが、クリオンが疲れたように言った。
「将軍……死刑はやめてくれない」
「見逃しても、感謝はしません」
「それでもだよ。同じことは全軍で、国中で起こってるんだから。彼らを殺したって見せしめにもなりやしない」
「国のことは私の職掌ではありません。軍のことなら、私が指揮官です」
 言うが早いか、デジエラは大ぶりに剣を振り抜いた。炎は現われなかったが、赤いものが飛んだ。
「ヒッ……!」
 すくみあがったニーゼルの目の前に、恐怖にひきつったままのハルナス伯爵の首がごとりと落ちた。
「将軍……」
「明日、罪状を書いてさらします。この遠征の間ぐらいしか見せしめにならないとしても、それで十分です」
 自分一人が難にあったシェルカの時とは違うのだ、とクリオンは暗然と悟る。この、金と身分にあかせた贅沢が見逃されれば、兵士たちの士気は底無しに落ちこむだろう。十万の兵がでくの棒になる。
 クリオンの腕を、誰かがぎゅっとつかんだ。レザだった。
「レザ……」
「……」
「わかった? 貴族っていうのは、こういう人たちなんだ。――世が世ならって言うけれど、世が世なら斬られても文句の言えないことをしているんだよ」
 レザは張り裂けんばかりに目を見開いたまま、一言もない。
 そのとき、意外なことが起こった。
「は、伯爵様ア」
 一部始終を見ていた兵士が、天幕の中に転げこんできた。伯爵の首を取り上げて、我が子のように抱きしめる。
「なんてひどいことを。何も斬ることはねえだろうに……」
「ばか! そいつらのせいでおれたち貧民は泥をすすらされているんだぞ!」
 反射的に叫んだシェルカを、兵士は怒りのこもった目で見上げた。
「何を言うだ! 伯爵様はな、おれたちが苦労しているときに、酒を差し入れてくださったこともあるんだぞ! 今度のいくさだって、可愛い領民が死ぬのは耐えられんと、わざとおれたちを後方に回してくださったりもしたんだ! それを、それを……」
 シェルカは絶句し、クリオンを見つめる。クリオンは反論できる。その酒は、他の多くの領民から搾り上げた利益のおこぼれなのだ。配下の部隊を可愛がるのも、帝国のことより自分の領地だけを考えるエゴであり、自分の身に戦火と敗北が及ばないようにする小賢しい自衛なのだ。
 だがクリオンは黙っていた。言ったところで、おそらく農民出のこの無学な兵士にはわかるまい。悪いのは――遠い昔に作られて今なお続く、制度そのもの。ひょっとしたら皇帝の自分自身。
「……将軍、あとは任せるよ」
「お帰りなさいますか」
「護衛はいい。シェルカがいるから。……行こう、シェルカ、レザ」
 デジエラが引き連れてきた憲兵と入れ違いに天幕を出ながら、クリオンはふと隣のレザを見た。
 彼女は、蒼白な顔で唇を引き結んだまま、黙っていた。


                            ―― 中編へ ――



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