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(本作品は当初、このバージョンで完成を目指すつもりでしたが、予想完成バイト数が100KB以上になったので、そんなんとてもやってる時間がねえということで、急遽ダイジェスト版を作成しました。しかし、できあがってみると、やっぱりダイジェスト版だけでは何が書きたかったのかよくわからん状態になってしまったので、書きかけの元バージョンを併置し、これをもって一応終了ということにさせていただきます)


 夜明けの海のひと

 1

「……リョータくん、リョータくん」
「んあ……?」
 肩を揺さぶられて、坂上凌太は目を覚ました。
 車の助手席だ。うつらうつらしているうちに食いこんだシートベルトが痛い。クーラーはガンガンに効いているが、八月の日光もそれに負けてない。窓から差す日差しの熱さで、半身のシャツがじっとり汗ばんでいる。
「凌太くんってば」
 少し苛立った声で呼びかけられて、凌太は今度こそ我に返った。はっと右を振り向く。
「なに!? アケミさん」
 ハンドルを握る佐藤明海がぷくっと頬を膨らませてにらんでいた。凌太の膝から落ちそうになっている道路地図を指差して言う。
「地図、見てくれる? 道が工事中なの。海岸に出る道を探してほしいんだけど」
「海岸……」
「ついさっき、砂分町っていう信号を通ったわ」
 凌太はぼんやりと車の外を見回した。最後の記憶では首都高だか関越だかを走っていたはずの車が、いつの間にか田んぼの中の一車線の県道に、ハザードを出して止まっている。正面にヘルメットおじさんの描かれた通行止め看板。右と左にわき道。田んぼの果ては林や丘にさえぎられていて、まだ海は見えない。
 ようやく凌太は事情を飲みこんだ。つまり、これは絶好のチャンスであると同時にポカミスのとば口でもあるのだ。
「えっと――」
 地図に目を落として、寝起きの脳みそをフル回転させた。左腕のG−SHOCKを読み、外の太陽を探す。十三時四十八分、太陽はほぼ真後ろ。すなわち車は北を向いている。
「――右」
「右?」
「うん、今は北向いてるから。とりあえず右に行けば海に出ると思う」
「間違いない?」
 地図に戻した目が、うまいぐあいに砂分町という地名を拾った。その右側が海に面していた。
「間違いない」
「そう」
 明海がハザードを消して、律儀にウインカーを出しながら右折した。銀のインプレッサ・ワゴンが、県道より狭い田んぼ道を走り出した。
 いくらも行かないうちに、地元の人の手作りっぽい看板を路肩に見つけた。
『↑尾上浜 4Km』
「あ、ほら、明海さん」
「ほんとだ、正解」
 ほっとすると凌太は大きく伸びをした。
「んあー……」
 顔に脂が浮いているような気がして、ダッシュボードのウェットティッシュを取り出した。よく拭いて、シフトレバーにぶら下げたゴミ専用のコンビニ袋に捨てる。
 明海がちらりとこちらを向いた。
「眠い?」
「ん、ううん、そんなには」
「よく寝てたね」
「ごめん……」
「いいよ、早朝シフトだったから仕方ない」
 凌太は明海を見た。二つ年上の女の人が、ふんわり笑っていた。
「私こそ、こんな予定組んじゃってごめんね?」
「えっ、いいよいいよ! 徹夜明けで遊ぶのなんかしょっちゅうだし!」
「そう」
 短く返事をして、明海が前方に視線を戻す。
 そこで話題が終わる。
 あ……、と凌太は声を出しそうになる。明海との会話はいつもこんな具合だ。あともう数言、ことばが続けば、ずっと仲良くなれると思うのに、ふっと尻切れトンボに会話が終わってしまう。
 たいてい明海の側から。
 それを不満に思いつつも、なかなか強い態度に出られないほど、凌太は明海に惹かれていた。
 だって、凌太は高校三年生で、明海は大学二年生だから。
 他のどんな条件よりも、高校三年生男子であるということは、それだけで暴走の理由になるぐらいだが、凌太に限っては本人が悪いだけではなかった。明海は、事実、美人なのだ。
 凌太は横目で、明海の姿を見続ける。
 耳も含めた横顔を、黒髪が長く覆っている。つやがあってとても柔らかそうな髪だ。目はしっかり開ければ大きいのだろうが、いつも八割ほどしか開かれていなくて、眠そうに、優しそうに見える。それとも顔立ちに険がないから優しそうなのかもしれない。春の霞のようでいて、それなのに鈍重な感じではない。
 プロポーションのめりはりが凄い。運転の邪魔じゃないかと心配になるぐらい豊かな乳房が、シートベルトで派手に締めつけられている。両手でつかみたくなるような細い腰の下で、へそ周りのうっすらとしたふくらみと幅広の腰骨がベルトを支えている。そういったボディラインがよく出る、サイズの小さなタンクトップ姿だ。パステル調の柔らかそうな水色で、それに合わせたのか耳たぶにも同じ色の石があった。ピアスではなくイヤリング。
 下は短めのフレアスカートで、薄桃色の膝とすらりとした足が覗いている。ペダルを踏むのはレモンイエローのかわいらしいサンダルだ。
 肌がとても白かった。――どうせ焼けるしね、とハンドルを握る腕もむき出しだ。
 凌太は目をそらした。じっと見ていなくても、車内に漂う明海の甘い体臭のせいで、ハーフパンツの股間が大変なことになりそうだった。
 朝六時にバイト上がりのところを拾ってもらって、ずっと一緒にドライブしてきた。凌太はドライブなんて初めてだし、女と二人きりなのも初めてだ。シフトレバーにゴミ袋ひっかけといてねと言われて、シフトレバーってどれ? と聞き返すぐらい慣れていない。それどころかこの車も明海のものだ。両親に買ってもらって親ローンを返しているらしい。もちろん免許を持っているのは明海だけ。
 早い話が、完全に主導権を握られていた。
 それをなんとかしたかった。
 今はまだ、明海がちょっと気まぐれを起こせば簡単に捨てられてしまう年下の高校生だが、少しでも明海に必要な人間になりたいと思っていた。
「俺だって男だっつの……」
 左の窓から外を見てつぶやいていると、不意に視界が明るくなった。
 林を抜けたのだ。防風林だったのかもしれない。車が減速し、T字路で止まった。正面がコンクリートの堤防で、その向こうに――
「海だ!」
 叫んだのは凌太のほうだった。
 堤防の向こうに日本海が見えた。空気がやや白くかすんでいるが、天気はよく、紺の平らな水面が波らしい波もなく広がっている。
 凌太は我知らず繰り返す。
「海だ、海!」
「海だねえ」
「うおー、広っ! あ漁船! ひょわー、久しぶり!」
「広いよねえ」
 ベルトがかかったまま身を乗り出していた凌太は、おかしそうな声を耳にしてはっとなった。隣を見ると、明海が組んだ両手をハンドルに乗せて、からかうように見上げていた。
「海、楽しい?」
「や、その……はい、楽しいです」
 赤くなってシートに尻を戻す。小学生か俺は。
 左にハンドルを切りながら明海が言った。
「尾上の町で買出ししていくから。そのあとはもうちょっとよ。五分もしない」
「うん」
「落ちこまないで」
「え?」
 凌太が熱い頬のままで振り向くと、明海が前を向いたままウインクした。
「そんなことで嫌いにならないから」
「……う、うん」
 凌太は死ぬほど恥ずかしくなった。
 銀のインプレッサが海岸沿いの道路を勢いよく走っていった。 

 坂上凌太と佐藤明海が付き合い始めたのは、三日前からだ。
 家の近所のコンビニのバイト。凌太は高二の夏から始めて、大学生の明海が入ったのが次の冬だった。受験という難関が控えている以上、いつまでも朝の四時まで深夜バイトをしているわけにもいかず、三年の夏にはやめようと心に決めていた。その決意を大いに揺らがせてくれる、明海の登場だった。
 当時、十九歳。そして推定Eカップ。
 この物体がレジの隣に立ったのだ。ダサさの塊のようなジーパン+コンビニ制服の姿だったが、それで殺されるようなボディラインではなかった。むしろ凌太の私見ではジーパンの尻が破壊的にエロかった。それは豊かな丸みと流れるような細さの奇跡的な両立だった。手を出さなかった自分を全力で誉めてやりたいぐらいだ。
 手は出さなかったが、言葉は何度でも喉から出かかった。
 ――佐藤さん、おれと付き合ってください。
 明海は体が最高なだけでなく、顔が最高で、世界的にも稀なことだが性格も最高だった。バイト中に凌太のミスを一度ならずカバーしてくれたし、ミス自体凌太よりも少なかった。といっても頭の切れる行動派という感じではなくて、どっちかというと地道な努力にものをいわせる堅実派だ。客のクレームを受けたとき、小知恵をきかせて言いくるめるよりも、ひたすら謝り倒して同情を誘うことが多かった。
 派手さはないが優しくおだやかというのが適当かもしれない。極めつけは凌太が在庫出しの時に破ってしまった制服のポケットを縫ってくれたことだ。いまどき裁縫道具を持ち歩いている女がいるなんて、凌太には信じられなかった。
 それで凌太は、この年上のひとをなんとかしてゲットしてやろうと公式に決定した。
 それとなくリサーチした結果、彼氏がいないとわかったのは、望外の幸運だった。そうなればあとは己の努力次第だ。凌太は努力した。凌太にあるものといえば体力と根性だけだから、それを振り絞って努力した。具体的には彼女の休みをできるだけヘルプしてやるとか。明海と凌太はシフトが違い、夜十二時で帰ってしまう彼女を助けようと思うと、十時間以上の過酷な連続勤務になることもままあったが、そのつらさをおくびにも出さずに努力した。
 その甲斐はあった。
 七月末――資金を十分に蓄えた後、いよいよ受験勉強のためにバイトをやめると宣言する直前、凌太はなけなしの度胸をはたいて彼女に告白した。答えはこうだった。
「うん、いいよ。……凌太くん、なんか必死だから」
 笑わば笑え。とにもかくにもOKは出たのだ。
 かくして凌太の高校三年夏は、自動的に勉強の夏から色恋の夏へと切り替わった。
 発案は凌太だったが、計画したのは明海だった。二人きりでの海への旅行、それも一週間。場所はと凌太が訊くと、心当たりがあるという。足はと凌太が訊くと、自前の足があるという。
 ほとんどおんぶに抱っこだったが、それでもアバンチュールの予定は立った。
 決行はお盆前。その日の明海のバイトを凌太が一日臨時で肩代わりし、明海は準備を整える。当日夜明け、明海が車でコンビニに来る。バイト明けの凌太が拾ってもらい、旅先へ。
 そのまま一週間の行方不明。
 夢のような旅行だ。夢のよう過ぎて、凌太は思わず訊いてしまった。
「泊まり? って、いいの?」
 電話の向こうで明海が言った。
「いいんじゃないかな。会ったときから数えれば、もう半年になるんだし」
 だから凌太は、四百キロを走破した今でも知らなかった。
 明海がやらせてくれるのかどうかを。

 小さな入り江の町で買出しを済ませると――寄ったのはなぜかコンビニではなく、潰れかけの雑貨屋だった――明海はまた車を海沿いの道に出した。町の目の前は防波堤に守られた漁港で、その先に突き出した岬を短いトンネルでくぐると、砂浜があった。
「おー……」
 二つの岬に挟まれた三日月形の小さな浜だ。端から端まで三百メートルもないだろう。たっぷりした白い砂と日本海の透明な海水が見える。向こう側の岬の近くはちょっとした岩場になっていて、波しぶきが上がっている。
 驚いたのはその静けさだ。夏の盛りの好天だというのに、海水浴客のテントやパラソルなどはほんの十数張りがあるだけ。けばけばしい屋台や遊具のレンタル屋なども見当たらない。これが都会の近くなら、砂が見えなくなるほどの客が押し寄せるだろうに。
 浜沿いの道を走りながら、明海が前を見たまま言った。
「尾上浜よ」
「すっげ、人ぜんぜんいねえ。なんで?」
「駐車場がないから。ここ浜が狭いし、左がすぐ山でしょ。それに電車も来てないし。お客さんを呼びようがないの」
「そっかあ……って、俺らどうすんの?」
「やっぱりそう思う?」
「やっぱりって?」
「ん」
 数秒置いて、明海が明るい笑顔を見せた。
「だーいじょうぶ」
「ほんとかよ……」
 凌太は顔をしかめた。明海の言う大丈夫は問題がないという意味ではなくて、問題はあるかもしれないけどがんばればなんとかなる、という意味だからだ。バイト先のコンビニでもそうだった。
「ほんとに大丈夫」
 明海は説明してくれなかったが、浜の終わりに近づいた時に左ウインカーを出したので、凌太は驚いた。
「ちょっ、なに!? 路駐させっぱなの?」
「違うってば、そーこ。道があるでしょ?」
 指さす先を見て、凌太は目を疑った。
「あるけど。あるけど!」
「ね」
「無理だろあんなの!」
 崖に沿って斜めに切りあがる形で、恐ろしく急な登り道がつけられていた。しかも未舗装だ。しかし明海は唇をなめて宣言した。
「こういうときのための四駆なんだから」
「よんっ、わひゃ!?」
 インプレッサが脇道に突っこんだ。明海に思い切りアクセルを踏まれて、べこべこと猛烈なエンジンを音を立てながら坂を駆け上る。少し先で傾斜が緩くなったが、すぐに目の前に木々の壁が現れて、凌太は死を覚悟した。
 すかさず明海が叫ぶ。
「ここは気合っ!」
 そこは踊り場のようなところで、ぎりぎり車が向きを変えられるだけの広さがあった。左へ力ずくで切り返して、なんとか転回したと思ったのもつかの間、今までよりさらに急な登りがそびえていた。かまわず車はそこへ突進する。明海がローでベタ踏みしながら、どこか壊れたような感じで笑い声を上げる。
「あっはは、すごっ! すごいよインプ登ってるよー!」
「あ、明海さんがすげーって……」
 サスが抜けそうな震動の中で、凌太が引きつっているうちに、宙へ飛び出したインプレッサがばうんと一度跳ねて、嘘のように止まった。
「ふー……」
 ため息をついてエンジンを切り、明海が外に降りた。しばらく深呼吸して生きている喜びをかみしめてから、凌太もベルトを外して降りた。
「……へええ……」
 そこは崖の中腹に切り拓かれた、猫の額のような土地だった。左に生えた雑木の間から海が見える。右は急峻な山肌で森になっている。陽気と蝉しぐれがうんざりするほど満ちているが、風もそこそこ流れている。
 正面に瓦葺の小さな平屋が一軒あった。
 そちらへ歩いていった明海が、くるりと振り向いてほほえんだ。
「ここよ」
「ここ……?」
 凌太はおずおずとその家に歩み寄った。古く見えたが、近づくとそれほどでもなかった。瓦は歪んでいないしトタン壁の塗装もはがれていない。玄関のアルミの引き戸はまだつやつやしている。
 戸口にかがんでいた明海が、ガラガラと戸を開けながら手に持った鍵を見せた。
「尾上屋さんが管理してるの。伝手があって、頼むと安く貸してもらえるのよ」
「オガミ屋? ……ああ、あの雑貨屋」 
 町で立ち寄った古びた店舗のことを思い出した凌太は、ふと何かが気になった。しかしそれを確かめる暇もなく、明海に呼ばれた。
「凌太くん、ちょっと」
「なに?」
「インプの後ろの右側にバケツが突っこんであるから、持ってきて」
「バケツ? 何すんの?」
「おそうじ」
 明海が、まだ真っ暗な土間に入りながら言った。
「ほったらかしだから、ざっと綺麗にしよう。私、雨戸開けてくるから、水汲んで雑巾しぼって」
「掃除ぃ? めんどくせ……」
「やらないと、虫の死骸とか落ちてるよ。そんなとこで寝られる?」
 どきっとして凌太は玄関を見つめなおした。明海はもう奥へ入ってしまって見えない。
「そ、そっか。寝るんだよな……」
 誰かに言いわけするようにつぶやくと、凌太はあわてて車へ戻った。

 海に面した縁側沿いに、六畳がニ間。山側に小さなキッチンとプロパン風呂と汲み取りの手洗い。
 たったそれだけの家でも、全部を掃除しようと思うとかなりの手間だった。昼過ぎに取りかかって、終わるころには時計の短針が真下を向いた。
 薄暗くなってきたキッチンで凌太が流しを洗っていると、縁側から声がした。
「凌太くーん、どう?」
「そろそろ終わるよ」
「こっちもよ。のど渇いたよね?」
 言われるまでもなかった。窓は全部開けっぱなしでエアコンをかけていない。というかエアコンがない。ずっと働いているのでシャツもパンツも汗だくだった。
「うん、鬼乾いてる」
「じゃあ、買出しのクーラーボックス持ってきてー」
「うぃーす……」
 答えた凌太は、ポケットを叩いて舌打ちした。車の鍵がない。居間から縁側へ出て声をかけようとした。
 明海がむこうを向いて雑巾がけをしていた。綺麗な丸い尻が突き上げられていて、スカートの裾からむっちりした青白い内腿が見えた。
 凌太が思わず唾を飲んだとき、明海が振り返った。
「なに?」
「ん、あ、鍵。車の」
「ああ、はい。こっちへ回ってきてね」
 壁際においてあったハンドバッグから鍵を出してきて、凌太に渡した。凌太は顔を背けて足早に玄関へ向かった。
 二つの大きなクーラーボックスを抱えて縁側に戻り、雑巾がけを終えた明海と並んで座った。開けようとすると、明海に言われた。
「あ、鍵返してね」
 さっき掃除バケツを持ってきたときにも同じことを言われた。ああごめん、と凌太は鍵を渡した。
 それから二人の間に置いたクーラーボックスの片方を開けて、凌太は目をむいた。
「なにこれ。ビールじゃん! うわこっちチューハイ、この瓶も、お酒ばっか!」
「弱いのばっかりよう。大丈夫だって」
「明海さん酒好きなの……?」
「バカンスでお酒飲まないでどうするの? はい、凌太くんの」
「俺も飲むの!?」
「誰も怒らないから」
 明海はほんわりした笑顔で当たり前のように梅チューハイを差し出した。プライドをもろに刺激されて凌太はそれをひったくった。一番搾りを手に取る明海を横目で見ながらプルリングを引く。ぷしっと音を合わせてから明海が缶を差し上げた。
「それでは、今日一日おつかれさまでしたぁ」
「お、おつかれ……」
 おそるおそる生まれて初めての酒に口をつけた凌太は、明海が喉をごくごく鳴らしてあっというまに一缶飲み干したので、凍りついた。
 ぱはー! と明海が大げさに息を吐く。
「ああおいしー……重労働のあとはこれに限るよねえ」
「職場のがよっぽど重労働じゃん」
「私は運転もしたんだよ? 一人で四百キロ一気って、けっこう疲れるんだけど」
「あ、そっか。お疲れさま……」
 言われてみれば、そのあいだ凌太はのうのうと爆睡ぶっこいていたのだった。缶を握りしめたままうつむく。
 明海はしばらく、黙って凌太を見ていた。それから空き缶を置くと、もう一本のビールを開けながら、ひとりごとのようにぼそっと言った。
「凌太くんって、いい子だよねー……」
「は? 俺?」
 面食らって振り向くと、今度はさっきよりもちびちびと口をつけながら、明海が続けた。
「口は悪いしガラもあんまりよくないし、茶髪で馬鹿っぽいけど――」
「悪かったね、馬鹿で……」
「けなしてるんじゃないの。馬鹿っぽいけど、根はそんなに馬鹿でも性悪でもないよねって言いたいの。ただちょっと、やんちゃなだけで」
「やんちゃ……」
 照れくささで居心地が悪くなって、軽く身をよじりながら凌太は言い返した。
「どしたの、明海さん。急に誉めたりして。俺かゆいんだけど」
 バイト先でそんな風に言われたことはない。お客さんにケンカ売っちゃだめ、と言われたことならあるが。
 長い髪を手ぐしですきながら明海が言った。
「んー、そろそろそういうムードになってもいいかなって思ったんだけど」
「……どーゆームード?」
「恋人同士っぽいムード?」
「こい……」
「曲がりなりにも会ってから半年経ってるし。告白も済んだし。二人っきりだし」
 凌太はまじまじと明海の横顔を見た。彼女は海のほうを向いていて表情がよくわからない。ただ果物めいた汗の香りが薄く感じられる。
「友達モード、切り替えてもいいよ?」
 明海は木の間越しに海を見つめながら、ゆっくりと髪をすき続けた。どうしてそんなに顔が見えにくいのか、凌太はやっと気がついた。明海と同じように海を見る。いつの間にか空が曇っていて、夕焼けも見えないまま夜が始まっていた。
 日没は見えず、水平線が暗かった。太陽は背後の山の向こうに落ちたのだ。
 暗くてよかった、と凌太は思った。明るかったら、自分の顔が真っ赤なことまでバレてしまっただろう。
「明海さん」
「んー……?」
「そば行っていい?」
「……うん」
 かすかな声で明海が答えた。凌太はぎこちなく間のクーラーボックスをどけて、尻をずらした。
 最初は十五センチ離れて止まった。
 足りない気がして五センチまで寄った。
 さらに思い切って寄ろうとしたら、明海も肩を寄せたのでくっついてしまった。
 汗ばんだ二の腕同士がぴたりと。
 ――うっわ、やわらけー……。
 こすったらキュッと音がしそうなほどつややかな肌だ。さわりたいという気持ちとさわっちゃダメだという気持ちが瞬間的に葛藤する。後者を押さえつけてぎこちなく首を回す。明海は百六十九センチの凌太と拳半分しか背が違わず、肩が同じぐらいの高さだ。
 明海はまっすぐこちらを見ていた。長いまつげの下のいつも眠そうな瞳が、いつもよりもずっと意味ありげな笑みを浮かべていた。
 けれども明海は口を開かない。何かを待つように黙っている。
 凌太の頭の中では、期待と妄想と理性と衝動が大騒ぎを始めて、収拾がつかなくなった。
 ――どっ、どこまでやっていいんだコレ。
 高三の今まで凌太はキスの経験すらなかった。運が悪いというか巡り合わせが悪いというか、三度ほどできた彼女たちとは、手順がそこまで行く前にケンカ別れや転校や自然消滅を迎えていた。だから、いざ本番となると何をしていいのかさっぱりわからない。しかも年上は初めてで、猛烈なプレッシャーになった。
 口を突いて出たのは、死にたいほど馬鹿な言葉だった。
「あの明海さん、きょ今日って大丈夫な日?」
「え?」
 明海が目を見張った。凌太ははっと口を押さえる。
「うわ……なに言ってんの俺、いきなり安全日って……」
「え……あ、ああ。そういうこと」
 明海が見る間に目を細めて、くすっと笑った。その笑顔に凌太は打ちのめされたような気分になる。 
「やっぱり気になる? 男の子としては」
「いやその、ごめん……もっと他に言うことあるよね」
「いいよ。ていうかえらい。そういうのちゃんと考えてくれて」
「そ、そう?」
 凌太が少し顔を上げると、明海が小さくうなずいた。
「そうだよ。大事なことよ」
「そっか……」
「そうだけど……実は今日は危ない日」
 ほっとしかけた凌太は、それを訊いて動きを止めた。
「え、それって……」
「うん。何も考えずにしちゃうとヤバいねーって日」
「あ、それなら、俺!」
 突然凌太は思い出した。こんなこともあろうかと自分が準備していたことを。膝立ちで座敷へ這いあがって、隅に放っといたスポーツバッグを開けた。一番底を漁る。
 ひそかに買っておいたタバコの箱のような紙箱を見つけ出した。それを持って縁側に戻る。
 すると――さっきと同じように座っている明海の横に、凌太が持っているのとよく似た紙箱が立っていた。
「……え!?」
「自衛策」
 明海がわずかに照れたように微笑む。
「自分の体だからねー」
「あの、明海さん、それって」 
 そこまでされると、さすがに凌太も今この場がどういう雰囲気なのかわかってきた。明海の隣に戻り、思い切ってさっきよりもぴったりと体をくっつけた。
「していいってことだよね」
「……凌太くんは?」
「う、うん。したい。俺」
 明海が軽く目を閉じ、ほっと息を吐いた。凌太は、その体が小さく震えたような気がした。 
 目を開けて明海が振り向く。熱っぽい光が浮いていた。
「最初からそれを訊いといたほうがよかったかな」
「どういうこと?」
「凌太くんがエッチかどうか」
 えっち……と凌太は口をつぐんだが、明海の言葉を聞いてもっと驚いた。
「凌太くんってエッチだと思ったからOKしたんだけど、今朝からあんまりお行儀がよすぎて、ちょっと自信なかったんだ。ほんとに興味ないのかと思って」
「ちょ、それ何? マジ? 期待してたの?」
「ええと――」
 少し目を逸らして明海がうなずいた。
「――まあ、期待といえば期待。たぶん凌太くんが考えてることとは違うけど」
「なにそれ」
「んー、あんまり深く考えないで。私は凌太くんが素直になってくれると嬉しいな」
 明海が目を戻して、指の甲でコツンと凌太のおでこを叩いた。
「パニクってたの、もう治った? さっきまでいっぱいいっぱいだったでしょ」
「あ、うん……わりと」
 凌太は自分の変化に気づいた。心臓がばくばくして顔が熱いのは変わらないが、言葉が出てこないほど混乱してはいない。したいことと、したほうがいいことの折り合いが、なんとかつけられた。
「明海さん」
「ん?」
「目、閉じて」
 明海が嬉しそうに目を閉じて身を寄せた。凌太はその肩に腕を回して、体の細さに驚きながら抱きしめた。

 キスをして、ディープキスをして、明海の胸にさわって、足にもさわって、凌太の大人レベルは記録的な勢いで更新されていった。すでに頭ががんがん痛むほど鼓動が強まって、胸の奥に何かがずうんと沈んでいくような激しい興奮を感じていたが、これでもまだ終わりではなくて、この先もっととんでもなくなるんだと思うと、昔の漫画のように鼻血が出てきそうだった。
「ん……んむ……は、ぷふ……ふぁ」
 明海の口の中はさっきのビールの苦みが残っていたが、ビールそのものを好きになれそうなぐらい、そのぬかるみと熱さが心地よかった。凌太は、最初の頃のついばむような軽いキスなど忘れて、ぴったり押し当てた唇の中で、暴れる蛇のように激しく舌を動かしていた。
「んぅ、くぅ……むふ……んんん♪」
 明海は毛ほども抵抗しなかった。凌太が舌でこねれば自分も派手に動かしてキスを受け、凌太が息を吹きこめばからかうように吹き返してきた。
 互いの息を吸って呼吸を続けようとすると、酸素がなくなって窒息するという、馬鹿馬鹿しくも正当な事実さえ、凌太は発見した。その酸欠状態が怖いほど楽しいということも。
 そしてキスは通奏低音のようなもので、常に口を合わせつつ、二人はしきりに両手を伸ばして体をまさぐりあっていた。今の凌太は明海のフレアスカートを足の付け根までめくりあげ、わずかに開いた股に手を入れて湿ったショーツをいじり回していたが、いきなりそこにいったわけではない。少し前にはタンクトップをブラごと上にずらして、明海のたっぷりした乳房を二十分ぐらい舐めまわしていた。
 その結果として当然、明海の体は湯上りのように熱くなって、脇腹も内腿も甘酸っぱい汗にまみれていた。言うまでもないぐらいショーツはどろどろだった。いま凌太が指を動かしているのは、そこを濡らすためというより、濡れすぎたそこを拭くために近かった。
 股間にべっとり貼りついたクロッチに人差し指を沿わせ、布の外まで染み出したとろみをクリームを剥ぐようにすくい取って、顔の高さに持ちあげた。
 キスを中断してそちらをしゃぶる。――ねっとりと舌にからむ潮を味わってから、明海に額を押しつけて目を覗いた。
「明海さん、すげーって、これ……めちゃめちゃエロい味」
 明海は返事をせず、ごまかすように抱きついて、ん、ん、と凌太の両頬にキスをする。凌太は思わず目を閉じて小さな唇の感触をとらえる。そそられすぎて背筋に震えが来るほどの甘え方。
 凌太は片手で、明海の左手を何度か押し戻していた。それが凌太の股間にさわりに来るのだ。最初の一回は触るに任せたが、一分ともたずに射精しそうになったのであわてて拒んだ。ここまできてそんな風に終わりたくない。
 ペニスはぴったり腹に貼りついていた。勃起しすぎてジンジンと痛んでいる。友達から初体験で立たなかったという話を聞いたが、こういう状況で立たないなんて、そいつのことをおかしいんじゃないかと思った。明海のおかげであることにまでは気づいていない。
 もう何度目かわからないが、また明海を抱きしようとして、もう準備は十分かもしれないと気がついた。体を離してささやきかける。
「明海さん、しようよ」
「んっ、うん」
 明海が小さくうなずき、ちらりと部屋の中に視線を向けた。
 そこに、クリーニング屋のビニールに包まれた布団が二組置いてあった。二人が来る前からあったものだ。
 明海がふらふらと立ち上がろうとした。
「いま……お布団出すね」
 立った時にスカートが垂れきらず、張りだした腰骨に引っかかったせいで、むき出しの白い太腿が凌太の目の前を通り過ぎた。
 それが引き金になった。凌太は後ろから勢いよく明海に抱きついて、引きずり倒した。「きゃあ?」と楽しげな悲鳴をあげる明海に這いよる。
「もうここでいいよ」
「でもお布団」
「ここ畳だよ。痛くないだろ」
「外から……」
「誰もいないって。見えないって!」
 凌太には成算があった。後ろからのしかかって抱きしめると成功だとわかった。明海が「くぅぅ……ん♪」と鼻を鳴らして震えたのだ。
「明海さん……」
「な、なに?」
「されるの、好きなんだ」
「されるのって」
「積極的に。強引に」
「そ、そんなこと」
「ひょっとしたら無理やり?」
「む……りやり……?」
 明海が肩越しに振り向く。凌太はその肩に顔を埋めながら、腰をせり出した。ぎちぎちに尖ったペニスが明海のふんわりした尻に食いこむ。言葉がなくても意思が伝わらないはずがなかった。
 明海が小さく口を開ける。
「ああ、あ……すっごぉ……♪」
「するから、もう」
 それだけ言って、凌太はもがくようにハーフパンツとトランクスをずり下ろした。その間しっかり明海を抱きしめて離そうとしない。このまま後ろからしてしまうつもりだった。
 だが明海が、この段になってわずかに抵抗した。
「ちょっと、ちょっと待って」
「無理」
「ゴム。スキン! つけてあげるから、ね?」
 つけてあげる、という言葉で、凌太も多少は理性を取り戻した。体を離してあぐらをかく。明海が縁側に戻って、凌太の買ったほうではなく自分の小箱を持ってきた。
「こっちのほうがね、薄くて気持ちいいんだって」 
 言いながら箱を開けて、パックの封を切って、明かりがないので目を寄せて裏表を確かめるそぶりをした。
 その様子があまり慣れているので、凌太は聞かずに済ませるつもりだったことを聞いてしまった。
「――明海さん、経験あるの?」
 明海が振り向いて、謝るでもなく穏やかに答えた。
「初めてじゃないとイヤ?」
「……うん、少し」
 凌太は明海に這いよって、真横から抱きしめた。髪に何度もキスする。
「なんだか独占欲出てきちゃった。俺、明海さんを俺のものにしたい……」
「して。私も今は凌太くんが一番」
 ビクッと凌太は腰を震わせた。ペニスに細い指が触れたのだ。
「動かないで。これ難しいの」
 顔を離すと、明海が両手で丁寧にゴムをかぶせようとしていた。明海は凌太の顔に目もくれずそこを見つめていた。
 宵闇が深まり、もうほとんど見えない。二人の声だけが響く。
「ん、こっちが表かな……」
「前の男にもしたんだ」
「また気にする」
「ごめん……」
「ううん、いいけど」
「嫌なら言わねえよ……あ、あふ」
「あ、気持ちよさそ。指いい?」
「ん、すっげえ……漏れそ」
「まだだめよ。ぱんぱんだけど。……ちょっと、凌太くんほんとにぱんぱん」
「でかい?」
「さあ。でもすごい。なかなかゴムが……ん、んっと。どうだ」
「き、気持ちいぃ……」
「がまんがまん! ――あ、そういえば」
「なに?」
「……あのさ、おくち――ってしてほしかった?」
「フェラ!? 明海さんそんなのするの!?」
「ほしいんだ」
「だってそりゃ男だったら――んあんっ!?」
「サービス♪」
「今のなに、した? したの?」
「それはまた今度。今はね、せっかくこれつけたんだから、ね……」
 股間に集まっていた明海の気配がすうっと昇ってきて、正面から凌太に抱きついた。
 耳元でささやき声。
「……して。準備できたから」
 ごくりと凌太は唾を飲む。限界まで膨らんだペニスをぴっちりと覆われている感触がある。
「していいんだ……セックス?」
「そ。もう安心だから。止まらなくていいよ、がんがんしちゃって」
「がんがん……」
「脱ごうか? 脱がせる? 脱がさない?」
 思い切り畳に押し倒したので、ひゃん、と明海が鳴いた。彼女のボリュームのある尻からショーツを引きずり下ろすのはけっこうてこずった。それでも凌太は何とか破らずに、明海の下半身を剥いた。
 挿入は完全に勢い任せだった。股を開いた明海に埋まって、でたらめに穴を探して、腰を突き出した。多分明海が手で合わせてくれたのだろう。そうでもなければへそに突っこんでいたかもしれない。それぐらい凌太は猛っていた。
「ん、まだ、まだ。――んん。ここ……いぅっ!」
 明海がうなずくと同時に、思い切りねじ込んだ。やたらきつくて、もどかしさだけが念頭にあった。力任せに前後させて、一ミリでも奥へ進もうとした。――あとから考えると、ほとんどレイプに近いような乱暴さで、明海が文句を言わないことを少しは不思議に思うべきだった。
「いいよ……いいよ、凌太くん。もっと……」
 凌太を呑みこんだみっちりした熱い穴、凌太の腕の中の甘くてぷにぷにした塊が、小声でそうささやきながら耐えていた。その時の凌太はペニスをどうこすりつけるのが気持ちいいかしか考えておらず、獲物が逃げないようにあごと両腕でしっかり捕まえただけで、腰の動きに集中していた。
 やがて、股間の底でふくれあがったものが、激しく震え始めた。
「お、おお、んお、おぅ……んぅーっ! んーっ! うふぅーっ!」
 飛び出していく熱い矢を、凌太は断続的に腰を打ち付けて、穴の奥にぶつけた。今までで最高の快感が脳髄ではじけて、縄で縛り上げられたみたいに体中が引きつった。
「ふぅっ、ふっ、ふー……」
 最後に、ねじ込んだものを一番奥でごりごりとなすりつけるように動かして、凌太の衝動は終わった。目を塞いでいた赤い幕が薄れていき、耳に詰まっていたザアザアという血流の音が消えた。
 明海が死んでいた。
 それまで我を忘れていた凌太にはそう見えた。四肢をぐったりと投げ出し、胸も腹もあらわに、開いた股間を赤く腫らせて、うつろな目を宙に向けて。
「――明海さん、明海さんっ!」
 血の気の引く思いで凌太は彼女の肩を揺さぶったが、じきに明海が何度か瞬きして、のっそりと体を起こしたので、安堵した。へなへなと腰を下ろす。
「明海さん……よかった、大丈夫?」
「ん、ぜんぜん……」
「え?」
 腕を突こうとし、一度かくっと力が抜け、もう一度がんばって上半身を起こした明海が、膝をそろえて座りなおし、彼女には珍しく苦笑のような表情で下腹を撫でた。
「つつ……痛かったぁ……」
「痛かったの!?」
「うん、だいぶ……だって凌太くん、思ったよりずっと凄いんだもの。途中から言うこと聞いてくれないし。やめてって言ったのに」
「言ったっけ?」
「聞こえてなかったんだ」
「う、うん……夢中で」
「ものすごかったよ、壊れるかと思った。まだひりひりする……」
「やっぱ手加減しないとだめなんだ」
「でもないけど――うまく燃やしてくれればね。今回はなんか、途中から凌太くん暴走してた」
「だってさあ!」
 凌太も少し腹が立って言い返した。
「ガンガンしてっつったの、明海さんじゃん! だから俺、好きなだけやっていいと思って!」
「あは、そうだったね。挑発しすぎちゃった。ごめんなさい、私も、誘うの初めてだったから加減がわかんなくて……」
 う、と凌太は返事に詰まってしまった。横を向いてぼやく。
「そんなことが初めてでも……自慢になんねーでしょ」
「なんねーね。ごめーん……」
 屈託なく頭をかいた明海が、ふと凌太の股間に目をとめた。




怒ってる場合じゃない、という気になる。とうとう俺は……
 そのことに気がつくと、感慨が湧いてきた。口げんかしてる場合じゃない。
「明海さん!」
「はい!?」
 びっくりする明海の前で、凌太は膝でにじり寄って、頭を下げた。
「俺、童貞卒業できた。明海さんのおかげだよ。最高だった、これなら一生後悔しねー。ありがとうございますっ!」
「なんでいきなり体育会系なのよ」
 ぺしっ、と頭を叩かれた。顔を上げると、明海も目を細めて喜んでいた。
「そんなこと言われるとは思わなかったな。……それじゃ、代わりに一つお願いしていい?」
「お願い? うん、いいよ。なんでも」
 期待して凌太は身を乗り出した。キスでもせがまれるかな? もう一回、って言われるか。それとも……。
「おなかすいた」
「――なに?」
「おなか。すいた。晩御飯。ていうかお昼もパンかじっただけでしょ」
 明海がもう一つのクーラーボックスを指差した。生鮮品がぎっしり入っているはずだ。
 邪気のない清らかな笑顔で明海が言った。
「お願い、何か食べさせて……?」

 一発やらせてもらった代わりに夕食の支度。収支としては黒字なのだろうがなんとなく釈然としないものを感じつつ、ひとまず凌太は食材を備え付けの冷蔵庫に収めることまでは、やった。
 しかし、結局料理はしなかった。
「明海さーん、それで何食いたいの? ――あれ」
 座敷に戻ると、ビニールに包まれたままの布団にもたれかかったところで、明海が力尽きてすうすうと眠っていたのだ。

 2

 空間全体を音で埋め尽くす勢いでセミが鳴きわめき、日差しが東のこずえを越えて高くなったころ、明海がぱちりとまぶたを開けた。
 うつぶせに枕を抱いていた彼女が眼球を動かし、凌太に目をとめて無表情に瞬きし、ごろりと仰向けになって自分の体のまわりをまさぐり――服装は前夜のまま、ただしきちんと敷布団に寝かされている、ということを確認するまでを、凌太は思う存分じっくりと見物した。
 木目の天井を見たまま明海が言った。
「……おはよ」 
「おはよう」
「今何時」
「九時四十八分」
「なにこれ」
「どれだよ」
「ええと……私昨日、沈んだ?」
「うん。ぼっさりと」
「寝かせてくれたんだ……」
「うん。それと一人で晩飯も食った。悪いけど」
 明海が、添い寝のような姿勢で寝ている凌太に目を移して、不審そうに言った。
「それで凌太くんはいつ目が覚めたの」
「わりと早かったよ。日が出てちょっとしてから……七時ぐらいかな」
「もしかしてそれからずっと私を見てた?」
「――うん」
 実は嘘だ。寝ている隙をついて何度かキスしようとしたし、昨夜は布団に寝かせようとして我慢できず、おっぱいふにふにしてしまった。
 でもまあ、セーフだと思っている。寝ている女の子を襲ってはならないってことは、凌太もちゃんとわかっている。
 ところが明海は笑ってくれなかった。しばらくぼーっと天井を見てから、むっくり起き上がって頭をぼりぼりかいた。ボストンバッグを持ってよろよろ歩き出す。
「どこ行くの」
「お風呂。――凌太くんも入る?」
「え、いや、俺風呂も入ったから」
「そうなんだ」
 やがて風呂場から水音がし、しばらくして明海が戻ってきた。印象がころっと変わっていた。半袖のカットソーとジーパンのラフな格好で、長い髪も高くポニーに縛っている。
 はりのある声で言った。
「さて、と!」
「なに、どしたの」
「水浴びしたら元気でた。凌太くん、朝は食べたの?」
「まだだよ、一緒に食べようと思って」
「それ正解」
 明海はようやく、にっこり笑った。
「作ってあげるね。十五分待てる?」
「もちろん!」
 起きぬけの時の乾いた態度が気になったが、忘れることにした。
「誰だって寝ぼけてるとあんなもんだよな……」
 
 明海の朝食は洋食だった。フレンチトーストとソーセージとサラダ。たいして豪華でもなかったが、毎朝ご飯と味噌汁の凌太は感動した。
「明海さん、それ砂糖、砂糖! 塩ちがうって!」
「うん、砂糖だけど?」
「トマトに砂糖なんかかけてどうすんだよ?」
「かけないの?」
 いわゆる食文化ギャップというものを初めて体験したりもした。
 折りたたみテーブルを使って向かい合わせで食べた。凌太の目の前で年上の美人が楽しげにフォークを使っている。視線を横に向けると、開けっ放しの縁側から海が見えた。今日も晴れで、空も水も目が痛いほど明るい。
「夢じゃねーの、これ……」
「なに?」
 目を戻すと、食べ終わった明海がアイスコーヒーを飲みながら見ていた。

 ご飯のつもりが居間でラーメン食べながらやっちゃうか。

 佐藤明海 坂上凌太

・高校生の汗くさい生意気少年と海辺に旅行する大学二年お姉さんの話
 生意気少年に好きなことやっていーよ。淡々とえろく。
 昔の男がいて、その男と比べる。その男のほうがずっとえろかったよ。
「この旅行で私を塗り替えて……?」
 コンビニのバイト仲間。清楚可憐巨乳なお姉さんなんだけど、ここへ来て急にえろ暴露。きみの視線気持ちよかったし。正攻法で来てくれたから受けたの。
 他の男を挑発して少年のカッコいいところ見たがったりね。

 行きは決して車にさわらせない。
 でも帰りはちょこっと運転させてくれる。信用してくれる。
 朝日は見えるけど夕日は見えない。
 東向きの海。

松林 家 松崖道 砂浜 海      朝日

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