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roujin-13/リエゾン老人病棟 ......

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roujin-13@B.リエゾン老人病棟-生と死にのぞんで
 さて、このような医療法の改正をうけて、実際の診療はどう変わって行くのだろうか。私が医師として老人に相対する時、その生活の狭さと質の悪さに身震いする思いがする。例えば、自分が75才になり、極く平均的な日本人のように「アタッ」てか、狭心痛か、あるいは不運にも悪性腫瘍にとりつかれ、老人病院に入院したとする。さて、目が覚めてみると、左半身は動かず、頭はボ―としているわけだ。周りを見渡すと自分と同様な患者さんが寝ている。その時の驚きや絶望感はいかなるものだろうと、想像するだに身の毛もよだつ気がする。それよりも恐ろしいのは死にたくても死ねず、コブシをふりたくても振れず、自分の与えられた世界がベッド一畳だと嫌がおうでも解からされた時の恐怖ではないか。それが、看護師の心ない「動けないのニィ、我がまま言わないノォ」かも知れないし、周囲を見渡すだけの落ち着きを取り戻した時の、周囲からの無言の啓示に因るかも知れない。そうなったとき、もし、ボケていればそれなりに分からないですむかも知れないが、ボケはそう簡単に来ない可能性もある。いやむしろボケていても生きたい、食べたい、満足したい、寒い、暑い、居心地がよくない、心配だ、恐ろしい、など、およそ感情的営みが保存されている場合が多いのである。文献には、老人の心理に影響を及ぼす変化とは、社会的・家庭的変化、自己個人の変化、死との対決の四つであり、これらが複雑に絡んで特有の心理形成を行なうとある。私も、うちの看護師さん達に、老人のケアのコツとして、痴呆の有無にかかわらず、
 1)肉体的な衰えを自覚している。
 2)死ぬかも知れないという恐れを抱いている。それを人に隠している。
 3)仕事がなく、痛みとの戦いが生活の大部分を占める。(逆に、仕事を活発に行 なっている高齢者は、自分の痛みを客観的に捕えることが出来るとも言えるが)
 4)周囲への気兼ねがある。
 5)周囲が痛みを理解してくれないことへの苛立ち。
 6)孤独感。
などを老人患者の特徴的心性と考えていると話したことがある。
 さても我々の前にはこのように大変な人達が、飢えて、それも人に飢えて何人も寝ているのである。さあ、驚きはおいておき、深呼吸を一つして、現実を見つめることとしよう。 
 彼らを看護するための計画は、文献によると、一ケ月の単位でつくり、それを一週間の単位と一日の単位にくぎって内容を考えると現実的である事、そして考えるポイントとしては、
 1)日常生活での自立度
 2)精神機能
 3)家族の介護状況
 4)ベッドまわりの環境の整備や
 5)ある程度のプレイができる運動や社会能力があるか
などのようである。
 介助を考える際にもっとも基本的な考え方の出発点は、自分がそのような状況であるとき、どのようにふるまえるか、ではあるまいか。このあたりが、まずは、老人病棟での事始めであろうと思える。冷たい言い方かもしれないが、もはや、それは、現在の健康な自分から考えると、正常な日常生活ではありえないし、ましてや、世間一般の自由な生活などとはほど遠いものである。もちろん老人である以上、そこに至るまではゆっくりと人生の坂を下ってきたわけであるから、若いミソラで交通損傷で自由を奪われると言った、突然の、張り裂んばかりの絶望はないかも知れない、などと、もし万が一我々医療スタッフと考えるとしたら、それは、根本的な認識不足というものである。思い出してみよう。パフォ―マンスという言葉がはやったことがある。日常から逸脱しても、自分というものを誰に対しても表現したいという衝動が人にはある。それが、実行できたとき、その内容が人にとって凡だろうと非凡だろうと、はばかることなく、パフォ―マンスした自分を称えることができたわけだ。これが、いま、「生きている」ことだとしようか。そうだとすれば、ベッド生活のねたきり老人は「ノンパフォ―マ―」と自分で評価する事、つまり、生きながらにして「死んでいる」状態になることに不安と恐怖を感じることだと言えるのではないのか。ここに困難さがあり、無理解がある。
 このように認識せざるを得なかった人々が、それでもなお「我々はそうでない、生きているんだ」と、声を大にして言いたいのだとすれば、現在は周囲の人である我々は、通常のコミュニケ―ションの表現方法で相手の心を開いたり、つかんだり、支えたりすることができるなどと安易に考えることはどうだろうか。言葉はそれ自体都合の良いもので、誤解も生めば訂正も可能である。老人はそのようなあいまいな同情は信用していない。スタッフがどう言う動作と共にそれを言ったかをむしろ冷徹に観察しているのである。実際コミュニケ―ションは動作の中にある。言語によるコミュニケ―ションにたよらないで、思いやりを持って髪を洗いながら話す。食べさせながら話す。あらゆる「介助」という動作のなかにこそ、「存在の」あかしを一緒に探すような工夫が大切だろうと思う。