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envd04-01512021331/ドクタM奮戦記4 ......

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ドクタM奮戦記 Part 4
・・・中略・・・
医療というものの本当の姿と自分が医師としての姿と重なり合わない場合が多いことだ。ひとみな徒然に思い致すこと、それは、「本当の」、とか「正しい」医療であろうが、それが、なぜにこうも人の数だけ沢山あるのかが摩訶不思議である。
ところで、警察官は銃を持っている。警察官は正義を行なう。警察官に不当なる妨害を行なうものは罪になる。かれらは、法の番人である。しかるに医者は、注射器と毒にも薬にもなる薬物を所持しており、それを使い分けている。命の番人である。それなのに、なぜ、医師に不当なる妨害を行なうものは罪にならないのかが分からないと思う今日此頃である。医療は、法でない以上、官僚の医師が行なう注射だろうと民間の医師が行なう注射だろうと、正義の行使とは無関係と言うところがひっかかる。間違った医療を行なうものには厳しい咎めがあるのに、正しい医療を行なうことへの妨害が罪にならないのはもっとひっかかる。
一体医師の仕事とはなんであろうか。医師の仕事の第一は、正しい診断である。正しい診断には、先ず知識が必要である。その知識をもって行なう検査も重要である。しかも悠久の時間があるわけではない。慢性の疾患ならまだしも、急性の進行性のものだと、一発勝負もありうる。外来の短い診療時間で、まず異常に気がつく。そうできれば最高だ。ところが、もし気がつかないなら、人の命が3分診療の流れに埋もれてしまうことになる。運良く気づいたならば、慎重な問診と検査の予定、患者への説得などで小一時間があっと言う間である。次席に待つ患者にとっては、地獄の一時間となることだろう。
次に治療である。手元に必要な薬剤が或るだろうか。もしなければ、直ちに取り寄せる必要がある。一日たった時点で、患者が、医師の説得を心に留めていればよいが、患者と言え忙しい。全てにタイミングがある。言ってみれば、医療のタイミングを外す行為はすべて邪魔である。かといって、他の職種の人にしてみれば、それぞれの立場と仕事、つまり「分」があり、それ以上の協力はなかなか難しいと感じる。例えば、検査をするには、先ず、検査依頼する医師の「記述」がいる。その「記述」を受けて、通常は看護婦が、検査伝票の項目に丸を付け、採血をする。大学病院などでは、その全てを医師が行なうので話は簡単であるが、通常の診療所では医師は一人である。
さて次に、検査を行なったのであるから、その検査項目を照合しながら、点数計算を施す。現在これは、マイコンがその係りであるが、マイコンが自動的に照合と計算をするわけではないから、当然打ち込みは事務の仕事となる。計算そのものは、マイコンが速いにしても、照合と計算だけ見れば人の方が速い。マイコンを使用すれは、キ-パンチの時間が加わるからである。つまり、迅速に診断をする為、検査を行なうに、医師以外の数人のスタッフの手が必要となる。このように医療の現場では「検査」が進行するのだが、仕事というものは不思議なもので、いつのまにか、「医師が検査をする」行為を代行することが、「伝票を処理する」仕事に変化してしまう。「伝票を処理する」ことは医療行為とは言えない。だから、医師が検査をしようとすれば、「伝票を処理する」仕事を妨害する、あるいは余計な手間をかけさせる事になるという矛盾が生じる可能性がある。薬局に処方せんをだし、薬をもらうことも同様の「手間」がかかっている。薬を処方したのは医者、飲むのは患者、されど、その間の流通経路に事務と薬剤師と薬を手渡す人の手を煩わす。間違いはだれしも起こしたくないから、自然と伝票に書く手間が発生し、もともと医師の責任であるから「医師の正しい」処方せんを流通経路の人々は求める、その結果、長たらしい処方せんを診療の合間に書く手間が医師の元に戻ってくることになるのである。医者はこれを嫌がる。時間がないと言う。そういわれても、途中に挟まる人はとても困る。そこで、常に「自分は医療の現場にいるのだという自覚」がないと、どのスタッフも「医者のわがまま」に迷惑を感じる事になる。「医者のわがまま」の性質も理解出来ない事になる。「医者のわがまま」は、そのまま「警官のわがまま」に一脈通じるのである。そうでなければ、医者は只の子供じみた性格つまり「おぼっちゃま」でしかない。「正しい」ことを行なおうとすれば、往々我がままにならざるを得ない。それは、だれしも、自分も精一杯生きているという自覚がそういう捕え方の根本にあるからである。 いや待って欲しい。医師の仕事は特別なのである。給料が高いから夜中叩き起こされて良い理由になりはしないし、一人でヒ-ヒ-して良い理由にもならない。患者の命や使命感と「金」とは無関係である。医師は食わねど高楊枝。気持は此処にある。だから、我がままも言う。それは、患者の為だからだ。そういう自覚がない医者も存在すれば、そういう自覚のない職員も又存在する。保険制度が金銭を締めつけ、職員や患者の意識の変遷が医師の誇りを締めつける。かくして、誇りも金もない、情けない医師の誕生となる。
一句 先生と 呼ばれてニッコリ名医誕生 
そうなのである。